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第六話「Flash Memory」(1)
 一条流とユークレーズの二人が、例の東屋から出たのは、もうすっかり朝日も昇り切った時間だった。
 さすがの流も正直、『やっと解放された』という気持ちが強い。
 流でさえそれなのだから、ユークレーズと来たらもう立っているのもやっとという有様だ。
 昨夜の作戦から一睡もせず、ほとんど食事もなしで立ちっぱなしだった疲労も当然ある。
 が、あの東屋で聞いた、というか『聞かされた』話のあまりの重大さに、精神の方が参ってしまっている。
 特にユークレーズの場合、常人よりもこのダメージが大きい。
 「…ユーク…さっきの話だが…」
 王宮の暗い廊下を歩きながら、流が声をかける。
 「は、はいっ! リーダー…大丈夫です。全部憶えています。決して忘れませんから」
 よろけそうになる身体を懸命に真っ直ぐにする。
 「いつでも言って下さい。一字一句、全て再現できます」
 ユークレーズの目にわずかながら、光が戻る。
 心身の疲労を、意志の力が支えていた。
 「…そうだったな…。だが、正直忘れた方がいいかも知れないぞ、アレは」
 ヤバい話だ、と流がつぶやく。
 だが、ユークレーズは激しく首を振る。
 「でも、でもリーダーにとっては重要な情報のはずです! 絶対忘れません! その…う、嬉しいです。お役に立てて…」
 「十分役に立ってるさ。お前がいないと正直困る」
 「!」
 いきなりの褒め言葉にユークレーズが目を白黒させるが、流の言葉はお世辞ではなかった。
 話の流れで分かる通り、このユークレーズはただの少年ではないのだ。
 あの東屋での長い長い会話。ユークレーズはそれを一字一句、一つも漏らさず記憶できる。

 『瞬間記憶(フラッシュメモリー)』

 そう呼ばれる天性の能力は、単に『記憶力が良い』というものとはそもそも次元が違う。
 脳と精神の強化という点では、流の従姉妹である一条香もかなりの力を持っているが、ユークレーズの力はその香をも凌いでいた。
 『憶えよう』という意志がなくても、ほとんど無意識にあらゆる事物を記憶する。と同時に、その記憶を完璧に整理し、索引をつけ、流の要請があれば瞬時に検索して引き出すことができる。
 また、ただ憶えるだけではなく、部隊の編制や複雑なワープポータルの経路など、常人では数人掛かりでも相当の時間を費やすような事務作業を、ほぼ瞬時に片付けてしまう。
 それは単に『超人的能力』と表現するよりも、現代人にとっては『コンピューター』と言った方がイメージしやすいに違いない。
 この少年が側にいる限り、流は細かい事務作業を一切する必要がなかった。これは流のような、システムを重視するタイプの指揮官にとっては天佑に近い事である。
 廊下をしばらく歩いたところで、二人の姿を見つけた数人の男女が、書類の束を抱えて走って来た。
 流とユークレーズの前で立ち止まって敬礼し、即座に二人の歩調に合わせて歩き出す。
 タートルチームの事務特化『ペンユニット』のメンバー。彼らはリーダーの流ではなく、ユークレーズの方を取り囲む。そう命令されているし、実際その方が効率的だからだ。
 「…ファルコン、イーグルの残存兵をウチに組み込む。準備はできているな?」
 「はい。併合メンバーの負傷程度、能力など把握済みです」
 流の質問に、ユークレーズが答える。
 短い指示で、自分より年上の部下から書類を受け取り、ぱぱっと目を通しただけで返す。
 「いつものようにポタ持ちを優先。ポタメモ先を整理させて、手薄だったゲフェンルート…G-Dラインの強化に回します」
 「ん。…青ジェムの備蓄は?」
 「順調です。王国内各都市の最低5カ所に5万個ずつ、備蓄を完了しました」
 ブルージェムストーン、通称『青ジェム』は、ワープポータルの魔法を使う時に欠かせない触媒だ。
 「ん。備蓄場所の隠蔽工作は?」
 「モロクを除き、先週中に備蓄場所を2度変更しています。それぞれ別の部隊を使いましたので、漏洩は最小限と思われます」
 「よし。これで国内の転送ルートのインフラはほぼ完成したな」
  「はい。王国内のポタメモ可能地域であれば、チーム総員が15分以内に、あらゆる場所で作戦行動が可能。撤退も5分で完了します…あ、これには撹乱転送1回を含みます。他チームの移動支援ならば1チームにつきプラス5分。…ですが、ポタメモ持ちのクセに、移動ルートを憶えきれない人が…」
 「ヨシアか」
 「…あ、あの人はいい加減過ぎます! いつも聞いてくるんですよ!?『ユークぅ。次の行き先どこだっけ?』って! 昨夜なんか一番簡単なA-A-Aルートだってのに!」
 「ああ。オレも考えてはいる」
 真剣に目を吊り上げるユークレーズに、見えないように流が苦笑する。
 ユークは部隊内のワープポータル保持者と、そのポタメモ先を完全に把握している。
 そして部隊の異動先が決まると、即座に目的地のポタ持ちを招集して術を発動、そこへさらに別のポタ持ちを送り込んで現地でメモを取らせる。そして彼らが戻って来たと同時に、数十個のワープポータルを並列で並べる事が可能となり、部隊は一気に目的地へ殺到できる。
 退却も同様だ。
 その整然たる移動システムは見る者に、無骨な軍隊のシステムを越えた『芸術性』さえ感じさせるという。
 ポータルによる部隊移動一つとっても、このように徹底的にシステム化して速さと正確さを研ぎすます。それが、一条流という青年指揮官の変わらぬ流儀だ。
 そこにユークの能力が加わったことで、天臨館の仲間のような『膝を突き合わせた』相手でなくても、効率的に組織化できるようになっている。
 ウロボロス4の他のチームも当然、流のこの移動システムを真似ようとしているが、どこも成功していない。
 だがそれは無理もないことで、正直なところユークの存在無しには、流でさえここまでエレガントなシステムを構築する自信がない。まして他のチームが一朝一夕で真似できる物ではなかった。
 ただ、どんなシステムにも欠点はある。
 効率と速度を極限まで追い求めるこのやり方には、必ず馴染めない人間が出てくる。
 能力的に付いて来れない者は論外だが、能力はあるのにこれを窮屈に感じ、システムそのものにストレスを感じる者がいるものなのだ。
 (…無代のヤツみたいにな)
 流の脳裏に、友の顔が浮かぶ。
 ああいう人材は、むしろ組織の外に出してやる方が力を発揮することもあると、流は経験で知っていた。
 (…ああいうヤツを上手く使いこなしてこそ、オレの流儀は完成する)
 それは遠い事ではない、という自負もある。
 「…でもリーダー。これでリーダーをバカにするヤツはもういませんね。とうとう『コンドル』…ウロボロス4のトップチームに肩を並べましたよ!」
 事務方に一通りの指示を終えたユークレーズが、やっと調子を取り戻した様子で目を輝かせる。
 「元々、バカにされていたワケではないさ」
 「そんなことありません! ファルコンリーダーなんか、リーダーのレポートを読んでもいなかったじゃないですか! それを自分から暴露しちゃって、ザマありませんでしたよ!」
 「よせ」
 「…す、すいません」
 流が軽くたしなめると、ユークレーズが目に見えてへこむ。
 とはいえ、流とて本気で怒ってなどいない。ユークレーズの言っている事は、おおむね正しい。

 『ウロボロス4』、正式名称は『ルーンミッドガッツ王国軍特務・外部教導部隊』。

 『完全再現種(パーフェクト・リプロダクション)』マグダレーナ・フォン・ラウムを頂点とするこの秘密部隊の最大の特徴は、その構成員だ。
 彼らはルーンミッドガッツ王国の『外』から招集される。
 つまり、王国の軍隊であるにも関わらず、王国の国民以外の者たちで構成されるのだ。
 一条流を例に取ろう。
 流はルーンミッドガッツ王国の人間ではない。天津・瑞波の国の世継ぎ、つまり王子の立場である。
 瑞波と王国とは表向き友好関係にあり、決して属国でも植民地でもない。が、その国力には無論、歴然たる差がある。
 その流にある日、マグダレーナの名前で招待状が届くのだ。
 『ルーンミッドガッツ王国の秘密部隊に、身分を隠して参加されたし』
 世界最強の軍事国家からの招待は、事実上の招集である。これを断ることは、王国に無謀なケンカを売るに等しい。
 では、なぜ王国はそんなことをするのか。
 主な目的は3つある。
 一つは、流のような国外の若者達に王国の進んだ軍事技術を叩き込み、それを『輸出』することで、友好国に新たな『戦力』を作り出す事。これは将来の敵を作るかもしれない諸刃の剣でもあるが、上手く使えば王国にとって新たな同盟戦力を確保できる。
 二つ目は、王国の人間にはさせられないような高度に政治的な、早い話しが『汚い仕事』をさせるためである。王国内で超越的な権力を与えられているマグダレーナの手足となり、時には王国そのものの組織・制度とも戦う。
 そしていつでも使い捨てにできる。
 三つ目はずばり、『人質』だ。流のような『世継ぎ』を王国に差し出すことは、瑞波にとっては国の命運を握られるに等しい。様々な意味で、王国には逆らえなくなる。
 王国の『外』の力を取り込み、これを鍛え、利用し、そして王国の支配下に『繋ぐ』。
 それが『ウロボロス4』という組織の本質だった。
 無論、招集された若者達にも利益はある。
 世界最高の軍事技術に触れ、それを学ぶ機会を与えられることは、それぞれの故郷にとって計り知れない利益となる。
 実際、自国がウロボロス4に呼ばれず、反対に隣国だけが呼ばれて技術が与えられた、という事態を考えれば、その深刻さが分かろうというものだ。
 また、マグダレーナを筆頭に、多くの王国要人とつながりができることも大きい。
 いわゆる「コネ」。
 結局の所、ルーンミッドガッツ王国とのつながりの深さこそが、この世界に点在する小国にとっては『命綱』なのである。
 となれば、参加する若者達もそれなりに意識の高い者が集まる。
 有名、無名に関わらず王族や貴族の子弟、大企業のエリート社員に大寺院の修行僧、はては学び舎の俊英まで。
 その規模はおよそ200人。
 彼らの中から15人のリーダーが選ばれ、その下に数人のサブリーダーがつく。
 だが当然、それだけでは軍隊の体裁にはならない。彼らを『士官』とし、その下に『兵隊』が配置される。
 この兵隊には、ルーンミッドガッツ王国の正規軍兵から選りすぐられた兵が当る。
 例えば、昨夜行われたファルコンチームの戦いで、静やフール、速水らと実際に剣を交えたのは彼らであり、死んだのも彼らだ。
 ちなみに士官であるウロボロス4の構成員は、ファルコンリーダー以下全員が生還していた。
 なお、そのファルコンリーダーは、リヒタルゼンに本社のある巨大企業の重役の息子。
 彼らの素性は基本的には隠され、部隊内では階級以外の上下関係は存在しないことになっている。
 が、自然とそういう話は漏れる、というか、高位の者ほど漏らしたがる。ファルコンリーダーは当初から自分の立場を隠そうともせず、逆に遠い天津出身の流らを『田舎者』と蔑んでいた。
 外の世界の微妙な序列感情。それを超えて頭角を現した一条流。
 大企業の重役の息子という地位に最後まで固執し、流を侮り続けた『ファルコン』もしかし、今回の件で失脚した。
 その原因が流の許嫁である一条静、というのは皮肉だが、ユークの言う通り、これで流の力を認めない者はいなくなるだろう。
 そして、掌を返したような態度を取る者も増えて来る。
 流ら『御一行様』が、流の部屋の前まで来た時だった。
 「…お待ちしておりましてよ? 流様」
 柔らかい声がかかった。見事な金髪がさらり、と揺れる。
 「…ロビンリーダー。失礼ですが、リーダーは本名で呼ばれるのがお嫌いです」
 眉間にしわを寄せたユークレーズが、流の前に出て抗議する。
 が、抗議された方は涼しい顔。
 「あら、これは失礼致しました、スヴェニア卿」
 ユークの『姓』の方を尊称で呼びつつ、わざとらしく頭を下げた女性は、ヒールの分だけユークレーズよりも背が高い。
 眉を奇麗に整え、唇を艶やかに、しかし品良い色に塗っており、そして肌もあらわなダンサーの衣装が反則級に似合っていた。

 『ロビンリーダー』。本名をジュリエッタ・クライテン。

 昨夜、流が指揮するタートルチームと共闘したロビンチームのリーダー。
 職業はダンサー。早くからバイオリンの天才少女として鳴らした腕前で、その演奏術には定評がある。
 何やら豪華な飾りのあるバスケットを、両手で身体の前に下げているのは、そうるすると自然に腕の間で、豊かな胸が強調されるからか。
 若い女性の魅力を十分に備え、そしてそれを最大限に活用する術を知り尽くしているらしい。
 「タートルリーダー、とお呼びした方がよろしいでしょうか? 流様?」
 「できれば」
 流が短く応えるのに、形の良い眉を微かに寄せて、
 「でも、貴方をタートル、などと呼ぶのは失礼な気がして…」
 「いえ。私の国では逆に、亀は長寿の動物としてむしろ縁起が良いのです」
 もの凄くどうでもいい答えなのだが、ロビンリーダーは素晴らしい笑みで受ける。
 「そうなのですか! では私も、誇りを持ってそう呼ばせていただきますわ、タートルリーダー。…昨夜は本当にありがとうございました」
 「任務を果たしただけです、ロビンリーダー。賞賛されるべきは、実際にモンスターを撃破した貴女のチームだ」
 「いいえ」
 ロビンリーダーがす、と流に近づく。何と言うか実に様々なニュアンスを含ませた前進に、ユークでさえちょっと鼻白んで後退する。
 微かに上気した肌の熱と、これまた上品な香水の香りが同時に男に伝わる、絶妙の距離。
 「タートルチームの盤石の支援のお陰です。私たちはただ、子供のようにスキルを撃ちまくるだけでよかった。…まるで、太古の父神の胸に抱かれているような安心感でした…」
 「さすが、詩人でいらっしゃる」
 流が苦笑する。
 「ま…」
 首を傾げて微笑む仕草。
 
 ちなみに彼女、朝の会議で流の味方をした『コンドルリーダー』ことテムドール・クライテンの実の妹。
 そして、一条静にこてんぱんにされた『ファルコンリーダー』ことマレル・キタナダの恋人でもある。
 この3人はいずれもリヒタルゼンの出身。
 ファルコンリーダーが大企業の重役の息子なら、『コンドルリーダー』と『ロビンリーダー』の2人はその会社の社長の子息、という間柄
 『ファルコン』が『コンドル』を異常に恐れていたのはそのせいである。
 だがジュリエッタと言えば昨夜、タートルチームと組むまでは、流の事を田舎者扱いする一派だったはずである。まあ、実兄である『コンドル』が流を高く買っているため、表には出していなかったが…。
 どうやら、一夜で鞍替えしたらしい。
 「タートルリーダー、朝食はお済みなのですね…マグダレーナ様と…?」
 「ええ、ご相伴に預かりました」
 「まあ、羨ましい! でも貴方だからこその光栄ですね」
 一言ごとに、流との距離を微妙に縮めて行くのも、何かの技術の一つなのだろうか。
 「…あの…ロビンリーダー? 失礼ですが、タートルリーダーはお疲れなのですが…」
 ユークレーズが、何か未知の生物にでも声をかけるように、おっかなびっくりの様子で抗議する。
 が、効果無し。ユークを取り巻いている事務方の連中も、どうしたらいのやら、という様子だ。
 「お着替えも、身体のお清めもまだなのでしょう? お手伝いしようと思って参りましたの」
 ひょい、と両手に下げたバスケットを挙げてみせる。わざわざ肩をすくめるようにするのも視覚効果の一種か。
 「子供ではありませんので、貴女のお手を煩わせるまでもありません」
 「まあ、貴方を子供だなんて、思ってもおりませんわ。…色々な意味で」
 くすり、と笑ってみせる。逃がす気なし、ということらしい。
 「あー、こほん」
 わざとらしい咳払いが、流の部屋の中から響いたのはその時だ。さすがのジュリエッタが一瞬、そちらに気を取られる。
 「失礼」
 その隙を付くように、流がジュリエッタの脇から太い腕を伸ばして、自室のドアを押し開けた。結果、彼女が流の胸に肉薄する結果になったのだが。
 「お疲れさまです、リーダー」
 ドアの向こう、流の自室では5人の男女が、敬礼しつつ流を迎えていた。スキンヘッドのモンクに、流を凌ぐ巨漢の鎧武者、逆に重装甲ながらユークよりも背の低い女戦士と、なかなかにユニークな顔ぶれだ。
 流の部下、タートルチームの小隊長、『ユニットトップ』達である。
 「ご苦労。待たせてすまんな」
 「いえ、リーダーこそ色々ご苦労なことで。…ロビンリーダーも、色々お疲れさまであります!」
 『色々』の発音に妙に力を入れつつ、ニヤリ、と笑ってみせたのはスキンヘッドのモンクだ。
 「ありがとう…ヨシア、でしたね? 昨夜はお疲れさまでした」
 ジュリエッタが、皮肉なぞ全く感じていない笑顔で敬礼を返す。
 「皆、せっかく集まってもらったが…ミーティングはオレ抜きで行ってもらう。朝飯でも喰いながら、詳細をユークに聞いてほしい。以上だ」
 「了解!」
 全員が再び敬礼し、ドアの前から身体をよけた流とジュリエッタの横を抜け、部屋から出て行く。
 「ああ、ヨシア」
 最後になったスキンヘッドのモンクを、流が呼び止めた。
 「イエス、リーダー?」
 「例の件、お前の望むようにしよう。その代わり…」
 「分かってます。そっちはリーダーのご希望通りに。…ワガママ言ってすんません」
 「構わん。今後ともよろしく頼む」
 「こちらこそです。…では、失礼します」
 やはりニヤ、と笑って部屋を後にする。
 「ロビンリーダー。手伝い云々はともかく、立ち話も何ですので。どうぞ」
 「ありがとうございます、タートルリーダー。では」
 流の胸板を軽く押すようにして身体を放し、部屋の中に滑り込む。
 続いて流が巨体を部屋に入れ、ぱたん、とドアを閉じた。
 ウロボロス4のチームリーダーに与えられる部屋は、このちょっとしたミーティングも可能なリビングと、ドアで仕切られた寝室兼書斎の二間だ。
 「…部下の方々にはご迷惑だったかしら?」
 「事務連絡だけですので、ユークがいれば十分です。…で、本来の御用向きは?」
 流がジュリエッタの荷物を預かり、椅子を引いてテーブルにつかせる。
 「兄からの伝言を。午後、お茶をご一緒にと…『例の件』だと存じますわ」
 「承知した、とお伝え下さい」
 「はい。…で、ここからは私の用向き。お手数ですが、バスケットを開けて頂けます?」
 「喜んで」
 豪華な飾りを持つバスケットを開けると、
 「…ワイン、ですか」
 「実家から持って参りました取って置きですの。貴方と味わいたくて」
 流がワインの瓶とグラス二個、それにレースのクロスを取り出したところで、ジュリエッタがバスケットを取り返す。
 「でもその前に、どうぞお着替えを。本当に清めの道具も持ってきましたので、お手伝いしますわ」
 さすがに流が苦笑する。
 「繰り返しますが、私は子供ではありませんよ」
 「私も子供ではありませんわ」
 ジュリエッタがふ、と立ち上がると、その身体を流の巨体に預けた。
 今度こそ邪魔者はいない。
 「これでも、下心満載で押し掛けておりますのよ? お分かりでしょう?」
 「私には婚約者がいます」
 「存じております。…でも気にしませんわ。『今』貴方の側にいるのは私なのですもの」
 バイオリンの弦を操らせれば、歴代のウロボロス4でも最高と謳われたその指が、流の頬から首筋を撫でる。
 そして、その甘い身体をそのまま注ぎ込むような、何かの魔術にも似たキスが流の唇に贈られる。
 「ジュリア、って呼んで? 流…」


 「かーっ、いいねえ! やっぱいい男にゃいい女が付くねえ! おい!」
 一方、流の部屋の外。
 ある意味『お邪魔虫』扱いで放り出された、ユニットトップ連とユークレーズ達。
 ぞろぞろと食堂の方へ歩きながらの話題は当然、彼らの若き指揮官だ。
 「お着替えのお手伝い、と来たもんだ。男の部屋に夜ばい…ってかもう昼だけどさ。にしたって言う事が違うわな」
 ニヤニヤ笑いで大声を上げているのは、ヨシアと呼ばれたスキンヘッドのモンク。
 元はラヘルにある大寺院に口減らしのために入門させられた農民の子で、修行の末に金剛モンクとして大成したものの、どうにも聖職者にしては性格が荒っぽすぎて、厄介払い半分でウロボロス4に来た。
 どこのチームも持て余し気味だったのを流が引き抜いて、移動支援特化『ウイングユニット』のユニットトップに据えた経緯がある。
 「な…! もう、ヨシアさん! 変な事言わないで下さい! リーダーがあんな破廉恥な誘惑に引っかかるワケありません!」
 ユークレーズが真っ赤になって反論する。だが、それを冷静な女性の声が遮った。
 「…甘いね、ユーク。アンタにゃまだ分かんないだろうけど…あの女、できるよ…」
 飾り気のない、しかし滑らかで機能的な重装甲をまとった女性は、サリサ・ゾシマ。何とタートルアイランドを拠点とする海洋民出身のクルセイダーだ。
  恐らく、ウロボロス4の前衛職中最も背が低い。が、巨大な盾と片手斧を武器に、敵の腰より下の空間をホームグラウンドとして戦う『甲撃術(ビートルアー ツ)』の使い手であり、その局地的な阻止力と耐久性、そして意外な機動性を武器に、耐久型遊撃特化「ハンマーユニット」を率いる。タートルチームの数少ない火力職は全員、彼女の指揮下だ。
 「…女のアタシにゃわかるがね。あのツヤっツヤの肌にサラっサラの髪。朝のミーティングから1時間ちょっとの間に髪洗って肌整えて…。しかもあのメイク。塗ってるって感じさせない技量と来たら、ちょっとしたもんさ。我がリーダーといえどもわかんないよー?」
 「…そ、そんな…!」
 ユークレーズが本気で顔色を変える。が、そこにもう一つの声がかぶさった。
 「ありえん。我がリーダーに限ってそのようなことはな」
 その声はあくまで低く、太い。広大な森の中で最も大きな巨木が喋り出したような、聞く者に畏怖さえ感じさせる声。
 「そうです! そうですよね! ダインさん!」
 味方を得て急に元気になったユークが声の主を見上げる。遥かに高く。
 身長2メートル15センチ。ウロボロス4で唯一、流を凌ぐ巨体を持つこの男は、ダイン・アングロル。
  フィゲルの田舎貴族の長男で、職業はこれもクルセイダーだ。が、抜群の耐久性を誇る肉体を持つ代わりに、反比例して運動能力が余り高くなく、どこの部隊で も独活の大木扱いされていた。それだけに、自分を引き抜いて定点防御特化「ウォールユニット」のユニットトップに抜擢してくれた流への心酔は深い。『リー ダーのためならこの身は砕けても本望』と公言してはばからないこの巨漢は、ユークレーズと並んで『流びいき』の二大巨頭だった。
 「そういうけどよ。ウチのリーダーがロビンリーダー喰っちゃったからって、何か不都合あるか? どっちも独身じゃね?」
 「だよね〜。リーダーには婚約者がいらっしゃるらしいけど、まだ16歳のお姫様だそうじゃないか。あのリーダー乗っけるのは大変じゃないかね〜。その点、ロビンリーダーは根性入ってるよ、ありゃあ」
 「…お前達は下世話に過ぎる。『喰った』『乗せた』と…少しは言葉を選べ」
 「そうですよ! くっ、喰うとか! ヨシアさん下品すぎです! …サリサさん…乗せる…って何ですか…?」
 ダインが重々しくたしなめ、ユークレーズが首を傾げる。
 ちなみに、昨夜ファルコンチームを壊滅させた『化け物女剣士』こそが流の婚約者、という事実はユークしか知らない。余計な遺恨や先入観をバラまく必要はない、という流の判断だ。
 それを知っていたら、サリサの評価もかなり変わっていることだろうが…。
 残る治癒特化『ヒールユニット』を率いるパラディンのモーリス・リンが静かに苦笑。治療特化のトップがパラディンとは意外だが、これはタートルチームにおいて僧侶・モンクが全員、優先的にウイングユニットに編入されているのが原因だ。
 『一秒でも速く行動地点に到達し、一秒でも速く退却する』
 チームの存在意義の第一をそこに置いた、指揮官である流の指示である。
 『どんなに強力なチームも、戦うべき時に戦うべき場所へ到達できなければ意味がない』
 そう断言する流はとにかくワープポータルを使える人員を最優先に、かつ完璧に組織している。
 ゆえに『芸術』。
 その部隊移動システムが起動すると、まずダイン率いるウォールユニットが送り込まれて核となる陣地を確保。続いてサリサのハンマーユニットが敵を駆逐しつつ、制圧地を広げて行く。
 その後方から、ウイングユニットの仕事から解放された僧侶勢が、ヒールユニット兼務として支援を行う。そして退却の時は再び、ウイングユニットに戻るのだ。
 最も人数の少ない強化支援特化『メロディーユニット』のオーロフ・ミシマギは、彼らのおしゃべりには我関せず。それもそのはず、このモスコビア出身のバードは王国語をほとんど理解しない。彼の半歩後ろに控えた少年従者のヤミンが通訳しない限り、会話に加わることはないのだ。
 が、その代わりさっきから途切れる事無く、ご機嫌で軽妙な口笛を吹き鳴らしている。
 彼らが秘密部隊のメンバーだということを一瞬忘れるほど、個性的でにぎやかな一団。
 ふと、ユークレーズが思い出したように、
 「…あ、ヨシアさん。さっきリーダーがおっしゃってた『例の件』って…」
 「ああ、アレな。オレ、ユニットトップ降りるんだ。つーかウイングユニットからも追ん出て、一人でやらしてもらうんだわ」
 「ええ!?」
 ユークレーズが目を剥いてヨシアに食って掛かる。
 「何勝手な事言ってるんですかヨシアさん! 駄目ですよ! ウチで一番重要なウイングユニットのトップがそんな…」
 「だってなー。毎度毎度、移動経路とか憶えらんないしよ〜。いっつもお前に怒られてばっかじゃん、オレ? お前に迷惑かけすぎだって、リーダーからも言われてるしな」
 「それは…ヨシアさんが真面目に憶えないからです! だからって…ユニットトップ降りるなんて…僕、そんなつもりじゃ…」
 「いやいや、お前のせいじゃないって」
 ヨシアが筋肉質の腕を伸ばし、ユークのプラチナブロンドをがしがしと荒っぽく撫でる。
 「やっぱオレ、このやり方馴染めないんだわ。努力とかの問題じゃなくてさ。で、リーダーに相談したら、好きにさせてくれるって言うからさ」
 「アンタぐらい硬けりゃ、ハンマーでも大歓迎だよ? その気があったら来な」
 「…ウォールでも使えん事はない…少し静かにしてもらうが」
 サリサとダインはさして慌てもせず、呑気に自ユニットに誘ったりしているが、ユークレーズはずっと憂い顔だ。
 「でも…ヨシアさん、ホントはできるのに…」
 「この方がいいんだって。後任はジルだから、そっちのが絶対向いてるべ」
  ジル・ソービニアはヨシアと同じ、ラヘルの出身の女モンクだ。だがヨシアが育った寺院より遥かに戒律の厳しい名門寺院で育ったためか、ヨシアとは正反対に生真面目で几帳面。ただ戦闘能力と戦場での勝負勘、という点でどうしてもヨシアに分があるため、ナンバー2に甘んじていた。
 正直、ヨシアとは折り合いが良いとはいえず、組織を優先するならばむしろ当然の人事なのだ。
 「ジルならきっちりやるさ。ちと融通は効かないけど、その辺は上手く頼まあ」
 ユークレーズの頭から手を離し、今度はがっちりと肩を組む。
 「…で、ヨシアさん、これから何を?」
 「内緒だ」
 「ええええ!?」
 わっはっは、と笑いながら自分のスキンヘッドをつるり、と撫でる。
 「リーダーの特命、とだけ言っておこう!」
 「…」
 ユークレーズの眉間のしわが取れない。が、何を言っても駄目だということは彼にも分かっている。
 ふう、とため息。
 「じゃもう、勝手にして下さい。でも、行動のレポートとお金の清算はちゃんとしてくださいね!」
 「へいへい。…さーメシだメシ。もう昼になっちまうよ。今日の朝飯何だっけ」
 「トーストとスクランブルエッグ。スペシャルは鹿肉のハム。スープはミネストローネ。飲み物はいつものコーヒーとミルクとオレンジジュースです! 献立ぐらい憶えて下さいよ!」
 「んなもん一週間分もその先も憶えてんの、お前ぐらいのもんだって、ユークよぉ」
 タートルチームのにぎやかな食事は、ウロボロス4の名物の一つなのだが、今日はまた一段と賑やかになりそうだった。
中の人 | 第六話「Flash Memory」 | 01:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第六話「Flash Memory」(2)
 永久飛空船「安全第一(Safety First)号」、通称「ヤスイチ号」の医務室。
 夜の帳が降りたばかりの時刻。
 シールドが開けっぱなしの窓の、分厚い装甲ガラスの向こうから、煌々とした月の光が差し込んでいる。
 灯りを落とした部屋の中で、その光だけが唯一の光源である。
 香はベッドに半身を起こし、背もたれに用意してもらった大きなクッションに軽く体重を預けている。
 隣のベッドではハナコが、まだ毛布に包まって爆睡中。
 ベッド脇のテーブルには、クローバーとヴィフが椅子を並べて座っていた。
 
 『何もかも、お話ししましょう』

 自らが『ウロボロス6』だと告白したクローバーが香にそう申し出て、ヴィフにも聞いてほしい、と、この席が設けられた。
 3人だけの(ハナコはずっと眠っている)静かな食事が終わり、話はとうとう『ウロボロス』に及んでいる。
 「…あの『ウロボロス』という組織の発祥は、聖戦直後にまで遡るそうです」
 クローバーが気の遠くなるような話を始めた。
 「聖戦を辛うじて生き抜いた人間達が、次に考えたのが『次回の聖戦の必勝』でした」
 感心すると言うか呆れたと言うか。
 あの凄まじい戦いの直後から、人々は『次の戦い』を見据えていたのだという。
 「新しい魔法、新しい武器の開発はもちろん、聖戦時代の遺物の維持収集や、新たな『神』や『魔』との契約まで。その活動は様々だったといいます」
 「…」
 香とヴィフは黙って聞き役に徹している。
 「それらの活動がいつか、一つの組織にまとめられました。それが『ウロボロス』」
 ウロボロスは当初から複数のグループに別れており、しかも必ずしもお互いに友好的ではなかった。衝突や合併吸収を繰り返しながら、いまの「9つ」に収まったのは130年ほど前のことらしい。
 「それぞれの組織には9人の『頭』がおります。私がかつて『6の頭』だったように。ですが『頭』はあくまで現場の指揮官であって、組織の支配者ではありません」
 実際に組織を掌握しているのは、その『後ろ』にいる者達。
 具体的には、王国の大貴族や大寺院、結成が聖戦時まで遡るような古参ギルドや大企業。そういう『聖戦と王国の歴史そのもの』であるような者達が、それぞれの組織のバックにいる。
 「しかも、一つの組織に一つのバック、というような単純なものではありません。複数のウロボロスに影響を持つ大物もいるし、逆に一つのウロボロスを200近いバックが支えているようなケースもある。正直、その相関図を完全に描ける者はこの世にいないでしょう」
 香の頭の中に、薄暗い壷の中で蠢く無数の蛇のイメージが映り込む。『次の聖戦に勝つ』という目的は確かに悪くないはずなのに、どうしてもいい気分にはなれない。
 「私のいた『ウロボロス6』を例に取りましょう。『6』のバックには教会と、2人の大貴族がおりました。2人とも身内から司教を出している、教区の大物です。…で、その組織の目的は…聖戦時の遺物、つまり『戦前種(オリジナル)』の捜索と収集でした」
 聖戦。
 その戦いに投入された武器、魔法、そして人間。それらは現代のそれとは比べ物にならない『性能』を誇り、しかも模倣や再現が極めて難しい。
 故に『オリジナル』。
 翠嶺のように聖戦後、セージキャッスルの創立に参加し、その後も放浪を続けながら永世名誉教授の地位を保ち続けるような『例外』を除き、戦前種の多くは聖戦の後忘れられたり、故意に隠されたり、また自分の意志で姿を消した。
 それらの事物を捜索し、収集・保存する。
 『ウロボロス6』・クローバーに与えられた任務はそれであった。
 教会の聖堂騎士として、武力も指揮能力も、そして信仰心も抜きん出ていた彼が『ウロボロス6』にスカウトされたのは、20代後半の時だったという。
 再び起きるであろう聖戦に勝利するために、太古の強力な武器や人を集める。
 『崇高な仕事だぞ?』
 クローバーをスカウトした人間(それすら『代理人』であった)は、そう言ってクローバーの肩を叩いた。
 だが、その『崇高』な目的以上にクローバーを引きつけたことがある。
 『この仕事に邁進すれば、君の息子にもきっと、神の恩寵があるだろう』
 その男はそう言って微笑んだ。
 「…私には息子がいまして…。ですが難病で…私には祈るしかできなかった…」
 妻は既に亡く、聖堂騎士としての勤めの傍ら、老いた母の手を借りつつ息子の看病と介護に明け暮れていた日々。
 それに光が差したのだ。
 クローバーが『代理人』の手を取った次の日に、彼の一家は中央教会の一画にある特別の宿舎に移され、息子には完全な看護と治療環境が供された。老いたクローバーの母も孫の介護と家事から解放され、その2年後にこの世を去るまで暖かく、心静かな日々を送ることができた。
 「…その日々と引き換えなら正直、私はどんなことでもしたでしょう…」
 彼に与えられた『崇高な仕事』は、だが決して奇麗事ではなかった。
 忘れられた遺物の発掘はまだいい。
 だが故意に隠されたもの、自分の意志で隠れたものを『収集』する作業は、ほぼ毎回『力ずく』の事態になった。
 「辺境の部族や、小さな国が『ご神体』や『守り神』として隠し持っているケースが多かったのです。それらの『収集』は事実上、『略奪』でした…」
 自ら軍を率いて交渉し、決裂すれば攻撃して奪い取る。
 いや、最初から交渉など形式に過ぎない。最初から奪い取ったのでは体裁が悪いから、形の上だけ交渉したふりをするだけだ。
 「…その頃は、強力な『戦前種』がこんな風に野放しにされていたのでは、世界にとって不安要素になる、一カ所で厳重に管理した方がいいのだ、そう信じておりました。…ごまかしはいたしません。本気でそう信じていた。そして…」
 クローバーが言葉を切った。
 「…そしてこの手が…私の手が血にまみれればまみれるほど…息子が神の恩寵に近づくと…本気で信じておりました…」
 クローバーの目に降りた涙の幕が、月の光を複雑に反射する。
 ヴィフがそっとハンカチを差し出すが、クローバーは手でそれを断ると、ぐい、拳で涙を拭う。
 「…お前のハンカチなんざ、オレにゃもったいねえ…」
 おどけた苦笑いも、さすがに力がない。
 ヴィフは黙ってうつむくと、ハンカチをぎゅっと握りしめる。
 「…そんな時です。このヤスイチ…『飛行戦艦アグネア』が見つかったのは」
 クローバーがぎゅっ、と唇を引き締める。
 その『船』はジュピロス廃墟の近く、地中にほぼ埋まる形で発見された。
 だが『発見』という言葉には語弊があるだろう。
 その船体は既に遠い昔から、ある少数民族が神体として祭っていたからだ。ただ外の世界には知られていなかっただけにすぎない。
 この少数民族こそ香の母、桜の出身部族である『御恵(みめぐみ)』。
 「彼らは廃墟の近くでひっそりと暮らしていましたが、長年、世間からは全く無視されていました」
 その一族の秘密がひょんなことから『ウロボロス6』の元に届いた。
 それは、辺境の異教徒である彼らを改宗させようと集落を訪れた、教会の牧師からの情報。
 『異教の神を崇める一族が、『戦前種』の構造物を隠し持っている』
 そこまで聞けば、後はクローバーの仕事だ。
 いつものように直属の軍を率いて現場に向い、抵抗すればこれを攻撃する。
 だが、その時ばかりは『いつものようには』いかなかった。
 『霊威伝承種(セイクレッド・レジェンド)』。
 後にそう呼ばれた一族の、ソウルリンカーさえ遥かに越える凄まじい霊能力の前に、『ウロボロス6』はかつてない苦戦を強いられる。
 身体能力や魔力、スキルを強化し、1人が数人分もの働きをする『御恵』に、さしものクローバーも何度も命の危機にさらされたという。
 最後は教会の異端狩り機関『弔銃部隊』までが投入され、やっとのことでこの厄介な敵を破ることに成功した。
 が、その時、既に『ウロボロス6』の兵力は半分近くにまで減っていた。
 といっても、教会が真に恐怖したのは御恵の戦力ではない。
 『霊威伝承種』・御恵の一族は戦いの中で、別の動きも見せていた。
 『ある強力な魔物の召還』。
 普通なら眉唾で終わりそうな話だが、『霊威伝承種』が相手となると俄然真実味を帯びる。
 『生まれつき体内に魔法陣を持ち、それを発動させる事で無双の魔物を召還できる』。
 それが御恵の一族の持つ力と分かった時、教会が取った策は一つ。
 『悪魔の一族・御恵を根絶やしにせよ』
 それだった。
 実行役はもちろん、クローバーだ。
 逆恨みとはいえ、部下を失った恨みはあった。また、それ以上に『魔の召還』を行おうとする異端のテロを許さない、という自己肯定もある。
 「…正義は我に、相変わらず本気でそう思っておりました。そして、それはほぼ成功した…」
 『ウロボロス6』と教会の全組織を動員した殲滅作戦。さらには御恵の生き残りに対する激しい拷問。
 それにより、御恵の一族は根絶やしにされた。
 「…ただ一人、貴女のお母上様を除いて、です。香姫様…」
 「…」
 香は沈黙したまま。
 「今にして思えば…『ウロボロス4』…『四の魔女』がお母上様を保護していたのですね。マグダレーナ・フォン・ラウム…あの『完全再現種(パーフェクト・リプロダクション)』が…」
 クローバーが遠い目をする。
 「…実は…疑ってはおりました」
 ぽつり、と言葉が落ちる。
  「拷問でも誰も口を割りませんでしたが…族長の孫娘の数がどうも一人足りないようだ…と。そして同時に、ウロボロス4に前代未聞の力を持つソウルリンカー がいる、という噂があった。しかし結局確証のないまま、捜索は打ち切られました。どうやら、雲の上の方で話しがついたらしかった…『ウロボロス8』が乗り 出してきたという話もありましたし」
 それぞれのバックにいる者達が接触し、何らかの取り引きが行われ、現場に流れた血の量とは無関係に幕が引かれる。
 クローバーにとっては不本意だったが、次の仕事が待っている以上、そうも言っていられなかった。
 次の仕事。
 『空中戦艦アグネア』の発掘だ。
 集落の奥まった林の中、船尾の一部だけを地上に覗かせたアグネアの入り口を掘り出し、恐る恐る船内に入った日の事を、クローバーはよく憶えている。
 「…手を触れるだけでドアが開きましてね。光に案内されて艦橋へ入ったんですが…一目見ただけで分かりました。『コレはヤバい』ってね…」
 大きな手で顔をごしごしとこする。
 「明らかに、この世界のモノじゃありません。どこか別の、全く違う文明によって作られ、何かの原因でこの世界へ招かれたもの、と直感しました」
 部下達に船内への立ち入りを禁止したクローバーは一人、艦橋にあった『説明書』を読んだ。幸い、聖堂騎士としての教養でそれぐらいの古文書は読める。
 「…鳥肌が立ちました…想像を絶する戦闘能力が手に入った。御恵のことなんかどっかにすっ飛んでました。…『これで仕事が楽になる。もっと殺せる』ってね」
 泣きそうな声。
 「…馬鹿でしょう…? もうね、その時にはそれしかなかった。これで楽に、たくさん殺せる。部下を失わなくても…いや部下なんかいなくても、こいつがあれば好きなだけ勝って、楽に仕事ができる…そんな風にしか考えられなくなってた…」
 興奮して興奮して、やっと寝付いた次の朝。
 知らせが届いた。

 「息子が死んだ」、と。

 「…真っ暗になりました。今までの事も何もかも、底なしのでっかい穴に吸い込まれたみたいに…」
 クローバーが、思い出すのも辛い記憶を無理矢理、心の中から掴み出す。
 「…そして…やっと気づいたんです。『他人を不幸にして幸せになれるわけがない』。馬鹿だ。…馬鹿です…。そんな当たり前の事に気づかずに…いや…」
 噛み締めた唇から血がにじむ。
 「いや…違います…。本当は気づいていたのに…気づかない振りをしてただけなんです。馬鹿ですらない…卑怯者だ…」
 クローバーの声が,慟哭の色を帯びる。
 「…船長」
 ヴィフがいたたまれなくなったようにクローバーに声をかける。が、若く経験も浅い彼に、このボロボロに傷ついた古戦士に掛けられる言葉などない。
 「…船長…」
 子供のようにそう繰り返すだけ。
 だがそれでも、クローバーをわずかに救うことはできたようだ。
 「…すまんヴィフ。みっともない話聞かせた上に、みっともないトコ見せちまって」
 「いえ…」
 むしろヴィフの方が、泣きそうな顔でうつむく。
 息子の死の知らせを受けたその夜に、クローバーは一人で『アグネア』を動かし、脱走した。
 「この船をこのままウロボロスに渡したら、それこそどれだけ人が死ぬかわからない…自分が散々殺しておいて、もう今さらですが…」
 きっ、と暗い天井を睨みつける。
 「…一人殺すも二人殺すも同じ、って思ってましたが…違うんです。一人殺せば一人分、二人殺せば二人分、『業』を背負うんです。…もう…もう沢山だったんです。こんなことは…」
 もう沢山だ、その言葉にクローバーは、限りない情感を込めた。
 「…」
 香は相変わらず、静かにその言葉を聞いている。
 が、もし香を良く知る、例えば家族や無代がその様子を見たら、きっと驚くに違いない。
 彼女が他人の話を真正面から、かつ真剣に聞くのはひょっとしたら、生まれて始めてかもしれなかった。
 だが、その変わりつつある香を理解できる者は、そこにはいない。
 「…ヤスイチ…『アグネア』を、どこか二度と見つからない海にでも沈めよう、とも思ったんですが、そうしなかった。…気になる事があったんです」
 クローバーの話は終わっていない。
 艦橋にあった説明書。
 それには船の操縦法の他に、3つのことが書かれていた。
 一つ。
 この船が、この世界とは別の世界で建造されたこと。建造の目的が、その世界を滅ぼしたある『魔物』に対抗するためであり、その魔物を『追いかけて』この世界に来た事。

 二つ。
 この船を建造した者達の子孫こそが『御恵』であり、その『魔物』は彼らの血によって封印されていること。

 三つ。
 この船、アグネアには同等の力を持つ姉妹艦、『セロ』が存在する事。

 どれも看過できない情報だ。
 その『魔物』とやらが今どうなっているのか。御恵の一族が滅びた今、もしその魔物が生きていたらどうなるのか。
 「そしてもし『セロ』がどこかに残っていて、それが誰かに発見されたら…『セロ』に対抗できるのは『アグネア』だけです。だから、この船を失うことはできない、と思った」
 クローバーの瞳に、強い輝きが戻って来る。その輝きは決して明るいものではなかったが、しかし揺るぎない力を感じさせる。
 「…今、こうして空を飛んでるヤスイチは、実は本当の姿にはほど遠い…真の力はこんなもんじゃない」
 クローバーの言葉に力がこもる。
 「ヴィフ、こっからの話が肝心だ。良く聞いてくれ」
 声をかけられた若者が瞳を上げるが、その瞳の輝きは鈍い。
 迷いと不安。
 今まで信じて従ってきたものが、本当に正しいものだったのか。
 それを見失いつつある瞳。
 クローバーはそんなヴィフに一抹の不安を憶えつつも、意を決したように言葉をつなぐ。
 「ヤスイチの性能は、実は今の数十倍、数百倍…ひょっとしたらそれ以上なんだ。こんなプロペラ動力は予備もいいところだ。本来の力は封印されている。…オレはそれを解く気はないし、そんな力があることもオレの心の中にだけしまってきた」
 「…え…?」
 「説明書は燃やしちまった。レジスタンスの幹部連中でさえ、知らん。ヴィフ、今お前に話すのが初めてだ」
 「…」
 「『エネルギーウイング』。ヤスイチの本当の翼であり、武器の名前だ。それは12枚の光の翼で構成されていて…」
 「ま、待って下さい船長! どうして…どうして僕に…?」
 「黙って聞け!」
 ヴィフが暗闇にも真っ青な顔でクローバーに食って掛かる。が、クローバーはヴィフを一喝。
  「…12枚の光翼…『ルシファー』が揃えば、ヤスイチは無敵だ。そこらの魔王が束になってもかすり傷も負わず、逆に一瞬で形も残さず蒸発させられる。音より速く飛ぶヤスイチには誰も追いつけないし、3大ステルス機能を備えてるから発見も不可能。…ルーンミッドガッツ王国といえども、半日とかからず焼け野原にで きる」
 「…」
 「…王国をこの世から消滅させる。レジスタンスの…お前の願いもまた、簡単に叶うだろう。…だがそれは…それだけはしないでほしい」
 クローバーがヴィフに頭を下げた。
 ヴィフは凍り付いたままだ。
 「…この船を…ヤスイチそんなことに使わないでほしい。お前にしか頼めない。ヴィフ…頼む」
 「…どうして…」
 「…俺は償いをしなきゃならん。…こちらの姫様に…御一族を皆殺しにした罪のな…。俺の命なんかじゃ、到底償い切れるものじゃないが…」
 ヴィフがはっ、と香を見る。
 月明かりの差し込む闇の中に、香の闇色の瞳が静かに浮いていた。
 「…『鬼道』の目をお持ちの姫様にはさぞや…あっしを恨んでる連中の姿がお見えになるはず…」
 クローバーも香の瞳を見つめる。
 その瞳の色はあまりにも深く、ヴィフにもクローバーにも、その瞳から何の感情も、何の意味も読み取れない。
 怒っているのか。
 悲しんでいるのか。
 それとも無関心なのか。
 男達には到底汲み取れない香の心中はしかし、クローバーの話とは少し違うものでかき乱されていた。
 そう、香には『見える』。
 母から、そして今や香の知る所となった『御恵』の一族から受け継いだ、『霊威伝承種』の力。
 見えないものを見、触れえぬものに触れることができる、その力。
 クローバーの後ろに、香にはずっと見えている。
 それは、ずらりと並んだ死者の群れだ。
 一様にたくましく、鋭い目をした男達は、一目で恐るべき手練の者達とわかる。
 そしてその容貌。
 (…似ている…)
 特に、集団の中心にいる老人と、壮年の男。
 鋭い中にも、表情次第で優しさと愛嬌をたたえる容貌は、『一条の三姉妹の中で最も母に似ている』と言われた妹の静に、とてもよく似ていた。
 (…これが、私の…)
 失われたルーツ。
 『霊威伝承種(セイクレッド・レジェンド)』と怖れられた、史上最強の霊能力集団。
 そしてクローバーによって滅ぼされた幻の一族。
 『御恵』
 クローバーの言う通り、彼が殺した者達はそこにいる。
 そして彼らの霊力が死してもなお衰えていないことも、香にはひしひしと感じられた。
 まさに最悪の怨霊、それも集団だ。コレに狙われて命長らえるものは、恐らくこの世にいないだろう。
 だが不思議なことが起きていた。
 クローバーは生きている。
 少なくとも20年以上の時を、御恵の手にかかることなく生きている。怨霊達の手は、彼に及んでいないのだ。
 なぜなのか。
 香には『見える』。
 もう一つの、魂の姿が見えている。
 クローバーの背中。
 その背中を守るように寄り添った、一つの小さな背中。
 浮き出た背骨と肩甲骨。尖った肩。
 小さな背丈。細い骨と弱々しい肉。
 香の目にも痛々しく映る、少年にしても小さく細い身体。
 彼はその頼りない身体のまま、たった一人、クローバーの背中に立っている。
 最強の怨霊集団に相対するように、その細い身体を立たせている。
 『クローバーを守っている』と言いたいところだが、その表現はしかし、どう見てもふさわしくない。
 少年の存在が、あまりにも儚すぎるからだ。
 この世で最強の霊能力集団である御恵の一族に対して、少年の魂には明らかに何の力もない。
 大げさではなく、怨霊の誰か一人が指一本動かすだけで、このか弱い少年の魂など瞬時に霧散してしまうだろう。
 それは襲い来る津波の前に置かれた、たった一個の小さなテトラポッドにも似ている。
 だが。
 襲い来るはずの津波はしかし、動かない。
 彼らが動く気になれば、そんな防波ポッドなど何の障害にもならないのに、しかし動かない。
 間違いなく、この何の力もない痩せた少年が、クローバーを守っているのだ。
 怨霊達が動かない理由、香にはそれが理解できた。
 彼らがその強力な力を駆使し、目の前の小さな魂を消し飛ばしてクローバーを襲ったなら。
 自らの目的を遂げるために、目の前の障害を力で排除して押し通ったならば。

 それはかつてクローバーが、彼らにしたことと同じになる。

 『誇り』。
 彼らを動かさずにいるのは、それなのだ。
 怒りはある。恨みもある。それが消える事もありえない。
 しかしそれ以上に、彼らの誇りが自らの『蛮行』を許さないのだ。
 宿敵がやったことと同じ行為など、例え死して魂だけになろうとも、決してしない。
 そして少年もまた、謝罪するでもなく戦うでもなく、ただ静かにそこに立ち、怨霊達を見つめている。
 『決して相容れる事はない』と知っていて、また自分の無力さを知っていて。
 それでもたった1人で立ち続ける少年の顔立ちは、言うまでもなくクローバーにとてもよく似ている。
 条件も、理屈もない。
 この世でただ1人、この少年だけがクローバーの『味方』なのだ。
 怨霊と少年、相対する両者に、妥協できる点など一切ない。
 惨殺、拷問、略奪。怨霊達の受けた筆舌に尽くし難い行為は、どんな言葉や年月の経過を持ってしても消えることがなく、また色あせることもない。いかなる謝罪も、いかなる弁明も、役には立たない。
 だが同時に、少年のクローバーへの想いもまた、消える事も色あせる事もないのだ。
 その手を血で染めながら自分を守ってくれた『父』への想いにはやはり、いかなる非難も、いかなる糾弾も役に立たない。
 お互いの言い分、お互いの想い。
 それをを、すり切れるほどぶつけ合って。
 知って。
 理解して。
 それでも一切の妥協のない両者には、ついにこの『静止』にたどりつく。
 少年がそこを退くまで、怨霊達は決して動くまい。
 怨霊達がそこを退くまで、少年は決して眠るまい。
 (…なんという…)
 この奇妙で静かな対峙を前に、香の全身を何か強い感情が貫いた。
 (全器官…全器官、変調を修正…)
 いつものように思考を分割して対応しようとするが、無駄に終わる。
 死してなお熱く、静かに息づくその魂、その想いを、今の香はもう無視できない。
 誇り高く、意志強き男達と少年の姿が、香の心に深く突き刺さっていた。
 熱を持った、消えない傷と共に。
 クローバーが、香に裁かれることを望んでいることは、痛いほど分かる。
 だが、出来るはずがなかった。
 今初めて、この事実を知っただけの自分が、この対峙の前に出る幕などあるはずがなかった。
 自分は確かに当事者。だが、この光景の前では限りなく、部外者に近いのだ。
 香は一つ、深いため息をつくと、
 「…クローバー船長」
 長い沈黙を破ったその声は、自分でも驚くほどに優しい声だった。
 自分がそんな声を出したのは、恋人の無代相手にさえなかったのではないか。
 「はい、姫様」
 クローバーは一度、しっかりと目を閉じ、再び開く。
 その表情。ぞっとするほど色のない、静かな表情。
 それは戦士として、父として、既に死んでいる人間の顔だ。
 「いかなるお裁きも、喜んでお受けいたします。どうぞお心のままに…」
 「それはできません」
 香のきっぱりした拒絶に、クローバーが驚きの表情になる。
 「船長。私は、貴方を裁く立場にありません。貴方を裁くべき者達は他にいる」
 香は精一杯の優しさと強さを言葉に込める。
 「姫様、それは…!」
 「貴方には彼らの裁きを待つ義務があります。…それまで、生きなくてはいけない」
 安っぽい同情や感傷から出た、軽い言葉ではない。
 それが伝わるだろうか、香には自信がない。そんな風に他人に語りかけた事などないのだ。
 だが今は、今だけは伝わってほしい。
 この傷ついた戦士のために。
 香の心に熱い傷を残した誇り高き男達と、痩せた小さな少年のために。
 どうすれば。
 どうすれば。
 自分の見たものを、その熱く静かな対峙の事を、クローバーに語り聞かせるのはたやすい。
 だが、それはできない気がした。
 彼らの対峙はまさに彼らだけのものであり、例えクローバーといえどもそこに立ち入らせてはいけない、香はそう感じていた。
 「ですが…ですが姫様…!」
 「…手を」
 「…は?」
 「…どうしてもと言うなら貴方の命、私が預かります。船長…いえ、クローバー」
 クローバーが一瞬、雷に打たれたように身体を引きつらせた。
 「…手を」
 「…は、ははっ!」
 弾かれたように椅子から立ち上がり、香のベッドのそばにひざまずく。
 傷だらけの掌を、香に向けて差し出した瞬間。
 ぴっ!
 窓の月光さえ跳ね返す香の手刀が閃いた。
 「…!」
 つう、とクローバーの掌に血がにじむ。
 「…ヴィフ、船長にハンカチを」
 「はいっ!」
 痺れたように呆然としていたヴィフが、慌てて自分のハンカチをクローバーに握らせる。
 ぎゅっ、とそのハンカチを握りしめる手に、どれほどの思いが込められたか。
 クローバーがそのハンカチを、香に差し出す。
 その血のにじんだ布を受け取りながら、香はその幻の『重さ』を確かに感じていた。
 100分の1グラムの単位まで、素手で計測できる香の感覚さえ狂わせる。
 誰かの想いを受け取るとは、誰かの魂を背負うとは。
 (…この重さを感じること…)
 ハンカチにキスをして、それを懐にしまう。
 「…ヴィフ。貴方のハンカチを頂きます。それと、船長の手当を。ヒールはいけません」
 「は、はいっ!」
 ヴィフが飛ぶように部屋を出て行く。ここは元々医務室なのだが、昼間のハナコの大騒ぎの余波で治療用具は別室だ。
 ヴィフの後ろで扉が閉まる。
 「…姫様…」
 「クローバー。これで貴方の命は私のものになった」
 「…は!」
 「…私が死んでいいと言うまで、死ぬ事は許しません」
 「ははっ!」
 クローバーが、その逞しい両腕をがっ、と床につけ、ぐい、と頭を下げた。
 その頭が上がらない。
 その代わり、ぐっ、と何かを押し殺す気配。
 「…今だけ、泣く事を許しましょう」
 があっ!
 香の言葉が、全ての呪縛を引きちぎった。
 があっ! 
 があっ!
 男が泣いた。
 それはもう、人間の泣き声ではなかった。
 室内に満ちた青い月光の海をぶち割り、瞬時に沸騰させるような咆哮。
 かぎ爪と化した指が頭を、胸を、体中を掻きむしり、その身体から何かを引きずり出そうとするかのようにのたうち回る。
 香は、男がこんなにも激しく泣く所を、一度だけ見た事があった。
 父だ。
 実父の一条鉄がまだ『殿様』になる前。
 母を失った時。
 葬式を終え、父と、三人の娘だけになった士官用の宿舎で、父は泣いた。
 (…そうだ。ちょうど今の彼のように…)
 二人の男の姿が重なる。
 失ったもの。
 耐えてきた月日。
 苦しんだ歳月。
 何もかもを吐き出そうとして、だが何一つ吐き出せはしない。
 泣いて、消せるものなど何もないのだ。
 ただ、泣いて初めて、人は自分の心を見つめることができる。
 痛いのはどこなのか。
 苦しいのは何故なのか。
 泣いて、心をあらわにして、やっと人はその場所を知る。そして見つめることができる。
 癒す事も、立ち向かう事も、すべてはそこからなのだ。
 がああああ!
 香の目の前でのたうつその身体は正に、あらわになった『苦しみの形』。
 『悲しみの場所』そのもの。
 (…目を背けてはいけない…)
 香は自分に言い聞かせるように、クローバーの姿を見つめ続ける。
 (…癒す事はできずとも…目を背けてはいけない)
 見る事さえ辛く、また自分の無力さを知ってさらに辛くなるとしても。
 目を背けずに見る事。
 その強さこそが、人を癒す資格を得るための第一歩だと、今の香は知らない。
 だが後の世に、

 『瑞波の聖母』

 その名で讃えられることになる一人の女の、それは確かに第一歩であった。
中の人 | 第六話「Flash Memory」 | 21:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第六話「Flash Memory」(3)
 ルーンミッドガッツ王国・首都プロンテラ。午後もやや遅めの時間。ウロボロス4宿舎の、石造りの廊下。
 「…少し遅れてしまいましたね」
 ロビンリーダーことジュリエッタが流の前を歩きながら、しかしくすくすと笑う。
 兄との約束であるお茶の時間に遅れた事が、むしろ嬉しいかのような態度だ。
 「急ぎましょう」
 流はそう言いながらも、ジュリエッタをせかす事はせずに歩いている。
 流の部屋から1ブロック以上離れた、コンドルリーダーの部屋が目的地だ。
 「申し訳ありませんわ。私の身支度が遅いばっかりに」
 「女性の身支度には時間がかかるものです」
 例によってどうでもいい応え。だが、
 「特に貴女のような美人はね」
 何とお世辞のおまけがついた。
 前を歩くジュリエッタがわざわざ振り向いて、素晴らしい笑顔を向けざるをえないぐらいの事態だ。
 「…まあ、嬉しいわ。…流」
 「その呼び名は二人きりの時だけに。ジュリア」
 「はい」
 くすり、と笑ったところで目的地に着いた。ジュリエッタが軽くドアをノックすると、短い返事がある。
 まずジュリエッタが、続いて流が部屋に入った。
 流の部屋と同じ間取りの、広めのリビング。だが、こんな無骨な軍隊の宿舎でも、主の性格というものは個性として出るらしい。
 流の部屋にはないテーブルクロス、それも上質な薄緑色のそれと、色を合わせたカーテンの爽やかな印象だけでも、いかにも殺風景な流の部屋とは全く雰囲気が違う。
 「ようこそ、タートルリーダー。…若干の遅参だが、まあ許そう。軍事行動ではないからね」
 その部屋の主は笑顔で、それもわずかに面白がっているような皮肉を混ぜるという、非常に高度な表情で彼らを出迎える。妹もかなりの『技持ち』だが、兄もそれに劣らないらしい。
 『コンドルリーダー』、テムドール・クライテン。
 奇麗にセットされた金髪と、それが普段着らしいスーツ姿は、実に分かりやすい『エリート』の姿だ。一条流とて、彼を侮る連中が言うよりは遥かに高貴の家柄なのだが、このコンドルリーダーの分かりやすさはある意味万国共通と言えた。 
 「申し訳ない、コンドルリーダー」
 「いやいや。…ああ、ジュリア。チームリーダーを使い立てして悪いが、給仕を頼めるかい?」
 「はい兄さん。喜んで」
 ジュリエッタが笑顔で立ち上がり、茶を煎れにかかる。
 一見、仲の良い兄妹。
 だが流はついさっき、ベッドの中でジュリエッタから聞かされたばかりだ。
 彼女の、この兄に対するほとんど『憎悪』に近い想いを。
 『何もかも、兄の物なのです。私の物、と胸を張って言えるのはこの心と…バイオリンぐらい…』
 流の腕が太すぎて腕枕ができず、代わりに幼子のように身体を丸め、男の脇に身体を寄り添わせて彼女は言った。この身体でさえ、自分の物ではないと。
 『先に生まれた、それだけのことで。会社も、爵位も、両親の愛も、すべて兄のものです』
 自分はいずれ、会社のために嫁にやられるだろう。それだけの人生。
 『いつか…いつか兄から全てを奪い取ってやりたい…。そのために、私は力がほしい…。流…貴方さえ力を貸してくれれば…』
 野心を隠しもしない。流に対して、それを隠しても無駄だと判断したのか。
 あるいはそれさえも、彼女の『技』の一つなのか。
 『兄から奪った物は、結果としてすべて貴方の物になる…私も含めて…』
 沈黙したままの流に、ジュリエッタは小さく含み笑い。
 『隠すべき野望を、ずいぶん軽々しく口にする女、とお思いでしょう?』
 ふふ、笑い声が漏れる。
 『…兄に告げ口しても構いませんのよ…?』
 するり、と身体を滑らせて流の胸板、その『ぶ厚い』などという表現では追いつかないほど隆々と盛り上がった肉体の上にひょい、と上半身を乗せる。
 そして、流の顔を真上から覗き込みながら、
 『兄はどうせ、すべて知っていますから』
 そう言い放った表情。
 流の耳元まで流れ落ちる金髪と、その整った表情の中で、青い瞳だけが不気味な輝きを放っている。身体は情欲に火照っていても、そこだけはひどく冷えたままだ。
 不思議、というべきか、流は決してそれを嫌悪しない。
 それどころかこの若者は、むしろそういうあり方こそ自分の血に近いとさえ感じる。
 (…オレは元々、そういう性に生まれついたのだろう…)
 割と冷静に、自分をそう評する。彼自身も目的のために、瞳を凍らせることに何の抵抗もない。
 ただ違う事は。
 (オレには、あいつらがいる)
 亡き父の、母の、義父の。義妹達の。そして友の。
 彼らが自らの『生』に賭けた熱量、それがこの若者の心にも熱を宿らせた。
 火のない場所に、決して消えぬ温もりを運んだ。その温もりが集まって、ついにそこに火を灯した。
 決して消えない火を。
 『…どうか…私に力を…流…』
 ジュリエッタが、何かの呪術にも似た性技を流の肉体に流し込む。
 だが、流の心を呪縛する何の効果もない。 
 (ウチの義兄妹とはえらい違いだな…だが貴族だ何だの兄妹など、皆こんなものなのだろう…)
 当の流ときたら、呑気にそんなことを考えていたのだった。
 テーブルに、茶が来た。
 それぞれの目の前にカップが置かれ、ジュリエッタがポットから茶を注いでいく。
 「…タートルリーダー。改めて、アタックチームへの昇格おめでとう。ついでに…我が妹殿まで手に入れたようだね?」
 コンドルリーダーがにっ、と唇をつり上げてみせる。
 「ありがとう、コンドルリーダー。サポートチームからいきなりアタックは不安もあるが…『勝利の女神』がついてくれるのは心強い」
 流が受けるのを、ジュリエッタが聞きとがめる。
 「勝利の女神だなんて…それは貴方の方ですわタートルリーダー。私にとっての、勝利の守護神…」
 「おやおや」
 コンドルリーダーが苦笑する。
 「我が妹殿ときたら、もうすっかり君の崇拝者らしいよ」
 「身に余る光栄だ。…オレの事は『流』と」
 「では、私の事も『テム』で。…おっと、ただしこの3人だけの時にしてくれ。私をそう呼ぶのは、家族だけなんでね」
 「もう家族同然、ですわよね? 流?」
 ジュリエッタが微笑み、給仕を終えて席に着く。
 「さて…流。本題に入ろう」
 「…ああ」
 「キミと僕、そしてジュリア。タートル、コンドル、そしてロビンの3チームが揃えば、今やウロボロス4の全戦力の8割を掌握できる」
 コンドルリーダーの表情はにこやかで、それこそ会社の新製品でもプレゼンするかのようだ。
 「…それで?」
 「以前に話した通りだ。キミと僕、それに妹の三人で…ウロボロス4を乗っ取らないかい?」
 新製品の目玉機能でも説明するかのような明るさ。
 「その話は断ったはずだが」
 流がコンドルリーダーの視線を強く跳ね返すが、その明るさに一点の曇りもつけられない。
 「あの時とは、事情が変わっただろう? キミは今や、ウロボロス4に2つしかないアタックチームの片方を掌握している…それに、今朝、キミは知ってしまったはずだ」
 「何をだ?」
 「あの女…マグダレーナ・フォン・ラウムさ」
 ふふん、とコンドルリーダーが肩をすくめる。仕草そのものは軽薄だがその容姿と、内面から溢れ出る自信がそれを打ち消す。
 「マグダレーナ様が何だ?」
 「まがい物に『様』はいらないよ、流」
 あくまで品良く、優雅に見えたその顔に暗い、しかし力に満ちた何かが差す。
 それは美しい青空に突然、猛烈な雷雲が出現したような印象を与えた。
 「『あれ』は私の祖父たちが『ウロボロス8』を支援して作った実験動物だ。ただ余りに出来が良すぎたために、周囲があれを崇拝の対象にしてしまった。愚かな事だ」
 「…」
 流が今朝、朝食の席で知ったばかりの機密事項を、コンドルリーダーは既に承知だったらしい。
 「僕はウロボロス4での任務を終えた後、現在欠番になっている『ウロボロス8』を復活させるつもりでいる。前任者『速水厚志』は死亡しているから、次は僕自身がね」
 青空に出現した雷雲は、今や閃光と共に無数の稲妻を放ち始めている。
 「流。キミがウロボロス4となり、僕に強力してくれるならば、9つのウロボロス全てを手に入れる事も夢じゃない。その意味がわかるだろう?」
 そして稲妻は落ちる。
 「僕と、世界を手に入れないか、流」
 
 
 窓の外の月が、少し高く昇った。
 やっとのことで落ち着いたクローバーがぼそぼそと醜態の謝罪をし、これから眠りにつくという香をベッドに残して部屋を後にしてから、しばしの時間が経っている。
 ヤスイチ号のエンジン音だけが遠くに響く、静かな部屋。
 ぐすっ。
 ぐすっ。
 ぐしぐし。
 ぐすっ。
 「…ハナコちゃん?」
 「…ぶぁい…」
 はい、と返事をしたつもりだろうが、涙と鼻水でとてもそうは聞こえない。
 ぐしっ、ぐしっ。
 香が放ってやったちり紙でびすびすと鼻をかみ、ようやくまともな言葉に戻る。
 「…ハナコは…ハナコは間違っていました…」
 「…うん」
 「船長さんは、悪い人じゃなかったです…。とっても良い人です…」
 「うん」
 香には、ハナコがかなり前から起きていて、3人の話を聞いていたことはお見通しだ。
 がば、と花子がベッドから飛び起きる。
 「ハナコは! ハナコはひどい事を言ってしまいました! 怪しい奴! とか海賊! とか…。いっぱい暴れて壊しちゃったし…あ、謝らないといけません!」
 「そうね」
 「…許してもらえるでしょうか…」
 しょぼん、とうつむく。
 「…ハナコちゃん」
 「…はい」
 「…大丈夫。もともと、怒ってなんかないと思うわ」
 たった半日ほどで、香の優しい物言いもすっかり板についたようだ。
 ハナコの顔がぱあっ、と明るくなる。
 「はい! 謝ってきますっ!」
 「あ、その前に」
 「はいっ! 何でしょう、お姉様!」
 ドアへ向おうとした花子がくるん、と身体を回して帰って来る。
 「そろそろ私、眠るから。…多分、1日か2日は起きないと思う」
 「はい」
 「その間、私の身体をお願いね。それから…」
 「…はい?」
 香は少し微笑む
 「『お姉様』はやめましょう。香でいいわ。…友達、でしょう?」
 「…! は、はいっ! か、香さん」
 「はい、ハナコちゃん。…じゃあ、おやすみなさい」
 「おやすみなさい、香さん」
 言うなり、ぱた、と香はベッドに倒れた。と思った時には、もう眠っている。
 ハナコはかいがいしく、香の身体に毛布をかけたり、枕を直したり。
 ひとしきり世話を焼いておいて、ふむ、と納得の表情。
 そして。
 「…よしっ!」
 だっ! と開いたドアをくぐり抜けて走り出す。

 「せ! ん! ちょー! さ! あ! あ! あ! ん!」

 これでもかという大声でクローバーを呼ばわりつつ、どどどどどーん! という勢いで廊下を走り抜ける。
 「な、何だなんだ…って! は、ハナコちゃん!?」
 「ああ! い! た! あ! あ! あ! 」
 びゅーん、とハナコが加速。
 「ちょ! ぶつかるぶつかる…うぉごふぅ…!」
 ずどぉん! と、ハナコの身体がクローバーの土手っ腹に激突した。さしものクローバーが数メートルも廊下を滑走し、ひっくり返る。
 コクピットに通じる、左右に大きな窓のある広いブリーフィングルームだ。談笑したりゲームで暇を潰していたスタッフたちがの視線が、何事かと集中する。
 「船長さん! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
 「いでででで…な…どうしたんだよハナコちゃん? あーあー、ほら涙と鼻水拭いて」
 「は、ハナコのことはいいですっ! ひどい事言ってごめんなさい! いっぱい暴れてごめんなさいいいいい!!」
 クローバーを押し倒した格好でだあー、と泣き出す。
 最初は困惑顔だったクローバーだが、状況が分かって来ると表情を緩めた。
 「いいってハナコちゃん。確かにあっしのツラは怪しいしねえ。いきなり女の子の前に顔出しちゃいかんよな」
 わはは、と笑って、大きな手でハナコの頭をなでてやる。
 どうにも微笑ましい光景に、スタッフの間にも和んだ空気が流れた、その時だった。
 「…?」
 クローバーがハナコの異変に気づいた。
 ハナコの目が、窓の外に釘付けになっている。
 「…? どうした? ハナコちゃん?」
 「…あれ…何でしょう…?」
 「ん? 何か見えるのか?」
 クローバーがどっこいせ、と身体を起こすと窓の外を覗く。
 次の瞬間。
 「!」
 その身体ががば、と窓に張り付いた。目を剥き、口はわなわなと震えている。
 「…船長…さん? あれ…何ですか? 何か飛んでます…」
 ハナコが、急に様子の変わったクローバーに、心配そうに問いかける。
 だがその時には、その場にいたスタッフ達も窓に張り付き、口々に異常を唱え始めていた。
 「ばかな…!」「ヤスイチ…? しかしあれは…!」「そっくりじゃないか…!」
 月光の中、ヤスイチ号と並ぶように飛行する物体。
 それは、純白の船体の葉巻型飛空船。
 まさにヤスイチ号そのものだ。
 クローバーの口から、小さなつぶやきがもれる。
 「…『セロ』…」
 言葉に混じった混乱と絶望を感じ取り、ハナコが息をのむ。
 バチッ!
 窓の外が一瞬、稲妻に照らされたような閃光にさらされた。全員の目が一瞬、真っ白に白熱する。
 その視界が戻った時、クローバーを含む全員が驚愕の声を漏らしていた。
 ヤスイチ号そっくりの船体の、その後部から光が吹き出している。後方から前方へ、船体を抱え込むように前傾して伸ばされた光の翼は、ちょうど12枚。
 その圧倒的な輝きの美しさ、力強さの前に、天上の月の姿さえ霞む。
 「…エネルギーウイング・『ルシファー』…封印を…解いたのか…!」
 クローバーが苦いものでも飲み下すようにつぶやくのと、ヤスイチ号の船内に声が響くのが同時だ。
 「…聞こえているか? クローバー船長。…私だ」
 「…プロイス議長!」
 船内放送のスピーカーから流れてくる声にクローバーが応える前に、スタッフ達が混乱した声で反応した。
 「…そこにいるな? クローバー?」
 「…ああ。…プロイス…お前が…『セロ』を飛ばしているのか?」
 「そうだ」
 その声は意外に若い。そして自信と意志に満ちあふれている。
 「そして全ての真実を知った。よくも今まで我々を騙してくれたな、クローバー」
 「…! …一体いつ、どこで『セロ』を!?」
 「君がそれを知る必要はない。『容疑者』である君はね」
 「!」
 背後で微かなドアの開閉音。コクピットに通じるドアだ。
 と同時に、コクピットから武装した数人のスタッフが飛び出しクローバーを取り囲む。
 はっ、とクローバーが振り向いた時には既に、数本の剣やら短剣を突きつけられている。
 クローバーが動きを止めた。が、それは突きつけられた武器のせいではなかった。
 「…ヴィフ…」
 武装したスタッフを指揮しているのは、ヴィフだった。
 「…クローバー船長。動かないで下さい」
 その声は震えている。
 「…革命評議会、プロイス・キーン議長からの指令です。貴方を『Safety First号』…いえ『飛行戦艦アグネア』の船長から解任し、拘束します」
 その目はまっ赤だ。
 「…貴方は評議会への虚偽報告と、革命行動への怠慢の容疑で革命裁判にかけられます」
 その唇は真っ青。
 「…ヴィフ」
 クローバーの顔もしかし、若者に負けず劣らず絶望の色に染まっていた。
 「…船長…どうして…」
 若者の口から、千切れるような言葉が漏れる。
 「…どうして僕らを騙したんですか! 船長!」
 「…騙したつもりはない…」
 「騙したじゃないか!」
 その声はもう、泣き声に近かった。
 「王国を倒して故郷に帰る…それが僕の夢だって…知ってたでしょう…? どうして…」
 「…知ってるさ…だが、そのために何人殺す…? 何人殺される…?」
 「子供扱いするな! 裏切り者!」
 その叫びこそ、見捨てられた子供のようだ。
 「…容疑者の言葉に耳を貸してはいけない、ヴィフ。速やかにクローバーを監禁せよ」
 「はい、議長殿。…連行しろ!」
 声だけの命令にヴィフが応え、クローバーを取り囲んだスタッフに指示を出す。
 が、異変が起きた。
 「駄目ですっ!」
 クローバーに突きつけられた刃物の前に、立ち塞がったのはハナコだ。
 「ヴィフさん! あなた間違ってます! 船長さんはいい人です! 嘘だってついてません。…全部…あなた達のためにしたことじゃないですか! 分からないんですかっ!」 
 ハナコの剣幕にしばしたじろいだヴィフだが、すぐに硬い表情に戻る。
 「ハナコちゃん。これは僕たちの問題だ。そこをどいて、部屋に戻って」
 「どきませんっ! どうしてもって言うなら…ハナコはまた暴れますっ!」
 ざわっ、とスタッフの間に動揺が走る。昼間のハナコの暴れっぷりを知っているなら当然だ。
 さすがのヴィフの額にも、イヤな汗がにじむ。
 しかし、助け舟は意外な所から出された。
 「ハナコちゃん。そこをどくんだ」
 クローバーだ。腹をくくった声。
 「船長さん! で、でもっ!」
 「キミにもしもの事があったら、香姫様はどうなる? もうお寝みなんだろう?」
 「う…」
 ハナコの脳裏に、ベッドで眠る香の姿が浮かぶ。同時に、その肩に乗せられた信頼と責任の重さも感じてしまう。
 「ヴィフ。オレは抵抗しない。さっき香姫様にお預けしたばかりのこの命だが…やはり因果応報というものだろう」
 クローバーの表情に、暗い決意が宿る。 
 「だがヴィフ、香姫様とハナコちゃんは無関係だ。無事にお望みの場所にお送りする、って約束してくれ」
 「…わかりました」
 「…」
 力の抜けたハナコを、今度はクローバーが庇うように前に出た。
 「…手錠を」
 ヴィフがもう、何の感情も感じられない声で命じる。
 不気味なほど大人しく、クローバーが両手を出す。
 その手に、冷たく銀色に光る手錠ががちゃり、と落とされた。
 その瞬間、クローバーの二つの拳が真っ白になるほど強く握りしめられるのを、ヴィフが、そしてハナコが見つめていた。

 つづく。
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