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第七話「Wings」(1)
 「僕と世界を手に入れよう。流」
 コンドルリーダーことテムドール・クライテンの表情には、一点の曇りもない。
 完璧な微笑。
 対するタートルリーダーこと一条流の表情は、ほとんど無表情に近い。
 「…それはつまり、マグダレーナ様を裏切れということか? テム?」
 「裏切っているのはあっちだよ、流」
 テムドールの微笑に揺らぎはない。
 「人ならざる実験動物が、神に祭り上げられたのをいいことに好き放題やらかしているんだ。それは創造主たる我々に対する、根源的な裏切りだよ」
 (上手いことを言うものだ)
 流は内心で感心する。
 友人である無代も口は上手いが、それとは違う種類の上手さだった。
 テムドールの職はハイプリーストだが、確かにそれは神の言葉を代弁する者の巧さと言えるかもしれない。
 流には、そんなことを考える余裕さえある。
 「…兄様…!? タートルチームと共闘して、密かに王国内での勢力を拡大するだけではないのですか!?」
 むしろ驚愕したのは実の妹であるジュリエッタの方だった。
 「マグダレーナ様に反逆してウロボロス4を乗っ取るだなんて…そんな…!」
 「黙っていたことは謝るよ、ジュリア。確かにそれも嘘じゃないが、本来の目的は別にあったわけだ」
 テムドールはひたすら笑顔だ。
  ウロボロス4のリーダーに与えられた権限は強大だ。使える予算だけを見ても、作戦に必要となれば物資でも人員でも、ほぼ無制限に持ち出せる。流がタートルチームのために、大量の青ジェムを買い入れて各地に貯蔵しているのもその権限を使ってのことである。
 この力を密かに、自分の会社や国の利益になるように動かせば、それだけでも相当の成果を挙げられるだろう。
 無論、クルトやマグダレーナにバレればただでは済まないだろうが、事実上アタックチームを二分している流とテムドールが口裏を合わせれば相当の事ができる。
 テムドールは妹のジュリエッタにそう説明していたのだ。
 「この本来の目的に関しては、私がウロボロス4の全チームを完全に掌握してから事を起こすつもりだった。当然ジュリア、君にも手伝ってもらってね」
 妹の、血の気の引いた顔に向ってウインク。
 「だけど彼…流がどうにも手強くてね。下手をするとこちらが喰われかねないから、慌てて作戦変更という訳さ。ライバルとしては手強いが、味方になってくれればまさに最強のパートナーだ。おっと、これは少々腹を割りすぎたかな?」
 にっ、と歯を見せて笑う。ジュリエッタに笑顔はない。
 出し抜くはずの兄に、さらに大きなスケールで出し抜かれたのだから無理もなかった。
 (…さすが、兄の方が一枚上手か…。『腹を割る』とは良く言ったものだが…)
 流は内心、苦笑する。
 「で、改めて答えを聞きたいんだが、流?」
 「策はあるのか? テム?」
 流は逆に聞き返す。
 「マグダレーナ様の『神の座』が仮に偽りでも、その『実力』は本物だぞ。たとえあの人1人でも、ウロボロス4を全滅させるぐらい簡単だろう。今のオレに対抗策は思いつかん」
 流が発したこの問いが、実は極めて高度な試金石であると、テムドールが気づいたかどうか。
 その問いへの回答は、即座に返ってきた。
 「あるとも」
 本日最高の笑顔と共に。
 「それも複数だよ? あんな実験動物を地に這わせるだけに止まらない。世界さえ制することができる力が2つ。そして近々もう一つ、手に入る予定だ。キミの不安はもっともだが、それは杞憂というものさ」
 「…」
 テムドールの答えを吟味するように、流は一瞬、目を閉じる。
 そして、答えた。
 「断る」
 「…!」
 取り乱したのはテムドールではない。ジュリエッタだ。
 自分が取り込むはずだった男と、出し抜くはずだった兄。それが目の前で手を組むのはもはや必然、と思い込んでいたらしい。
 では当のテムドールは?
 「断る、それが君の答えだね?」
 破顔を微笑に戻しただけ。
 驚きも怒りも落胆もない。ある意味、流以上のポーカーフェイスと言えた。
 「そうだ。そしてコンドルリーダー、君を反逆罪で逮捕する」
 流がそう宣言するのと、室内に轟音が響くのが同時だった。
 テムドールの背後の窓ガラスが吹っ飛び、反対に流たちの背後のドアも吹っ飛ぶ。
 さらにテーブルまでが宙を舞った。流が、座ったままの姿勢から思い切りがんっ、と蹴り上げたのだ。
 信じられないほどの怪力。吹っ飛んだ巨大なテーブルが天井で跳ね返り、テムドールを上から襲う。
 しかしさすがにテムドール、飛来するテーブルは避けた。
 ただし、その選択肢は間違いだ。
 例えテーブルをまともに喰らったとしても、テレポの魔法を使うなり、ポケットのハエの羽根を使うなりして逃げるべきだった。
 彼の背後、砕け散った窓ガラスから飛び込んで来た人影は、マグダレーナ直下の『月影魔女』。そのパラディンとアサシンクロスの連携は凄まじく、さしもウロボロス4のトップアタックを率いるテムドールすら、ほとんど一瞬で制圧されてしまう。
 両腕を後ろにねじり上げられ、床に押さえ込まれる。さらに詠唱も、舌を噛む事もできないよう口にラバーの棒を噛まされ、両手両足を拘束。
 わずか数秒。
 さらに。
 後方で吹き飛んだドアからは誰も現れない、と見えた瞬間、ロビンリーダー・ジュリエッタの側にいきなり、スキンヘッドのモンク、流の部下であるヨシアが『出現』した。
 残影、と呼ばれる特殊歩法だ。
 ぎょっとなったジュリエッタを足払いで崩しながら呪文を詠唱。
 身体を鋼の如く強化するモンクのスキル、『金剛』。そのままジュリエッタを押さえ込みにかかる。
 「…っ!」
 女だてらにチームリーダーを務めるだけあり、ジュリエッタもとっさに、組み付いたヨシアに肘や膝を当てて反撃する。が、ヨシアはびくともしない。
 この堅さこそ、金剛モンクたるヨシアの真骨頂。そして気がつけばこちらも、身動き一つ取れないように押さえ込まれてしまう。
 鮮やかな固め技だった。
 反撃を許したのはむしろ、ジュリエッタに余計な怪我を負わせないよう手心を加えたためである。もしヨシアが本気ならば、今頃はジュリエッタの全身の骨やら関節やらを完全にバラバラにしていただろう。
 『絞め金剛』。あるいは少々揶揄も込めて『寝技金剛』。
 ヨシアが育った寺院の、ある意味『名物』でもある特殊モンク。
 抜群の防御力を得る代わりに動きが遅く、かつ強力な攻撃スキルが使えなくなる金剛モンクの弱点を克服すべく、その技を組技・関節技に求めた精華がそれだ。
 「おっとっと、動かないで下さいよロビンリーダー。下手に動くと大事な指とか筋とか痛めちまいますんでね」
 ヨシアが割と真剣な声で制止する。普段はふざけ半分の態度が多いだけに、そういう声を出すと妙な凄みがある。
 「ヨシアに従いなさい、ジュリア。悪いようにはしない」
 「…!」
 むしろ優しくさえある流の言葉。ジュリエッタはまるで、それに突き刺されたかのように身体を震わせ、すぐに沈黙した。
 何一つ出し抜けないどころか、男達の掌の上で踊っていただけだった。
 一瞬でそう気づいてしまう聡明さが、むしろ彼女を苦しめる。
 「ヨシア。彼女をオレの部屋にお連れしろ。丁重にな」
 「イエス・リーダー。さ、ロビンリーダー」
 ヨシアがジュリエッタの身体を起こしてやる。その身体は今や抜け殻のようで、ヨシアのされるがままだ。しかしだからといって、ヨシアにはわずかの隙もない。
 相手の身体に触れている限り、その動作のほとんどを瞬時に制圧できる技術と経験を体得している。まさにプロフェッショナルなのだ。
 「ご苦労、タートルリーダー」
 ヨシアとジュリエッタが出て行くのと入れ替わりに、砕けたドアからクルトが姿を表した。朝と同じパラディンの鎧姿。
 「大佐殿こそご苦労様です」
 流が敬礼で迎えた。
 顔を揃えた2人の男は、『月影魔女』の手によってテムドールが連行されるのを見送る。
 3人の男の視線が、複雑に絡み合い、すぐにほどけた。
 「…大佐殿。コンドルリーダーの口ぶりでは、彼らの計画はかなり進んでいるかと」
 「そうだな」
 テムドールの背中を睨みながら、クルトは難しい顔だ。
 「単なるウロボロス4の乗っ取りではない。…恐らく他のウロボロスも関与した、かなり大規模な計画と見える」
 「…何をするつもりでしょう。『世界を制する力』、と彼は言いました」
 「わからん。これはもうウロボロス4の範疇を超えている。マグダレーナ様を通じて王国上部に繋いでいただき、ヤツの尋問を行わねばなるまい」
 「リヒタルゼンの、彼の会社も」
 「調べねばな」
 二人の男が息を合わせたようにうなずく。
 「ところで大佐殿。ロビンリーダーですが…」
 「あの女は踊らされただけか」
 「そのようです」
 クルトの口調には蔑みの色があるが、流には何の色もない。
 「わかった。リーダーの任は解くが、罪は問わん。こうなってはコンドルチームもロビンチームも、まとめてお前に預けるしかなくなった。時間がないが…」
 「問題ありません、大佐殿」
 流の脳裏にユークの顔が浮かぶ。その顔が少々涙目なのは、あの少年のこれからの殺人的な忙しさを暗示しているのだが。
 「頼むぞ。『ウロボロス2』と『BOT』によるカプラ社への浸食も、食い止められたワケではない。忙しくなる。すぐにかかれるな?」
 「イエス・サー」
 「待て、タートルリーダー」
 立ち去ろうとする流を、クルトが呼び止める。
 「お前が事前に、コンドルリーダーの造反を予見し、事前に私に通報していたことはいいとしよう」
 「はい」
 「むしろ彼の造反に『同調しなかった』のはなぜだ?」
 クルトがずばりと聞いてきた。
 「『マグダレーナ様への忠誠』などと下らない事は言うなよ? お前達は王国軍人ではない。人質であり、使い捨てのコマだ。離反造反は、むしろ当然なのだからな」
 このクルトという軍人は根っからの現実主義者らしい。精神性などハナから、一切信じていないのだ。
 「…」
 「…なぜだ?」
 「彼…コンドルリーダーは…」
 流は静かに答えた。
 「私を『信用』していましたが、『信頼』はしていなかった。それが答えです」
 流に『仲間になれ』と勧誘したあの時。
 流は『自分にはマグダレーナ様への対抗策は思いつかない』と言った。
 この言葉が試金石だった。
 この言葉に対して、コンドルリーダーことテムドールは、自分の持つ力の大きさを持って応えた。
 『世界を制する力があるから心配いらない』と、自分の力の大きさだけを信じ、目の前にいる流の力は信じていなかった。
 流はそこが気に入らない。
 (…あいつなら…無代がオレの側にいたなら。『策はない』というオレに、きっとこう答えたはずだ)
 
 『嘘つけ、馬鹿』

 そう言って、流の尻を蹴飛ばすはずだ。
 流が、それこそ寝ても覚めてもあの『完全再現種』に対抗する方法を考え続け、不完全ながらも即座に実行できる策の一つや二つは常備しているはず、と、無代なら言わずとも分かるはずだ。
 (悪いな、テム。自分と組めと誘うなら、もう少しオレを高く買ってほしかったな)
 流は内心で、コンドルリーダーのハンサムな顔に軽く詫びる。
 「信頼か…下らん」
 質問したクルトは、だが流の答えをばっさりと切り捨てる。
 「組織(システム)と実行戦力(パワー)の前では無用のものだ。お前はそれを作り出すことだけを考えていろ」
 「…はい、大佐殿」
 流は反論しない。
 二人の男はそれぞれにきびすを返し、破壊された部屋を後にする。
  

 男の一人、一条流が向ったのは自分の部屋。
 ドアを明けると、リビングにヨシア。そして未だダンサー姿のジュリエッタが呆然と椅子に座っている。ヨシアが流の寝室から持って来たらしい毛布で、身体を包んでいた。
 午前中、あれほどに艶やかだった髪は乱れ、流の部下であるサリサ・ゾシマが賞賛した見事な化粧も跡形も無い。
 生来の整った容貌そのものは損なわれていないにしても、何より彼女を内側から支えていた『意志』の力が根こそぎ奪われているため、その輝きも今やか細い。
 「…ヨシア、少し外してくれ」
 「イエス…あー、お一人で大丈夫すか? リーダー?」
 「危なくなったら呼ぶさ。それと、ひとつ頼まれてほしい」
 「イエス・リーダー?」
 流が小さくつぶやくのに、ヨシアが一つうなずくと、ご注意なすって、と言いおいて部屋を出て行った。まあ部下としては上官の身を案じるのは当然だが、流ほどの威丈夫が女一人にそうそう不覚を取るとも思えないので、最後のは冗談半分だ。
 「…さて、ジュリア」
 びくん、とジュリエッタの身体がすくみ上がる。流の言葉一つ一つが、もはや鞭のようだ。
 「ジュリア、君は罪には問われない。リーダーは降格になるが、ロビンチームがウチのチームに併合されれば、引き続き君に指揮してもらうつもりだ。何も変わらない」
 流はジュリエッタが座る椅子の前に片膝をつき、視線の高さを女に合わせた。
 その目をじっと覗き込む。
 ジュリエッタは必死で目を逸らそうとするが、流の鋭く、そしてある種の『磁力』をたたえた視線には到底抗しきれず、意志とは無関係にその目を見つめ返してしまう。
 「これで、君の望みは叶う」
 「…!?」
 流はほとんど表情を変えない。
 「コンドルリーダーことテムドール・クライテンは逮捕された。もう陽の当る場所に戻る事はできないだろう。つまり…」
 はっ、とジュリエッタが息を飲む。
 「全ては君の物になる。ウロボロス4も、会社も、クライテン家も」
 「…ひ…」
 ジュリエッタの顔が無惨に引きつった。流の言葉の意味をやっと理解し、同時にそれが引き起こす『結果』も理解してしまう。
 それは確かに、彼女が望んだ事だ。ただ、それは彼女の望んだようにはならなかった。
 彼女は、兄を出し抜きたかった。
 妹であるジュリエッタに鮮やかに出し抜かれ、這いつくばる兄。それを高みから見下ろしながら、自分の選んだ男、一条流の手でうやうやしく捧げられる花を、微笑しながら受け取る。
 それが彼女の望みだった。
 だが現実は違う。
 その花は一条流という男によって無惨に根こそぎにされ、泥も棘もそのままに、今やジュリエッタの頭上からぶちまけられようとしている。
 確かにそれは自分の物になるだろう。だが、もはや彼女には、その花を受け取ることは苦痛でしかない。
 ウロボロス4の幹部の座も、実家の財産も、会社の経営も、今はもう『恐怖の対象』でしかなかった。
 それはそうだ。あの兄でさえ、ああもあっさりと叩き潰されてしまった。
 ジュリエッタにとって兄は憎悪の対象だったが、それ以上に崇拝の対象でもあったのだ。
 憧れが嫉妬に、尊敬が憎悪に変わっても、兄は自分よりも『上』の存在だった。
 その兄が他人によって簡単に踏みにじられるのを見せつけられ、同時に自分の無力さを思い知らされ、ジュリエッタの心は既にぽっきりと折れていた。
 「ジュリア?」
 流の優しい声が響く。
 だが、彼女は弱々しく首を横に振るだけ。
 「…君が望んだことだ」
 ジュリエッタのイヤイヤが激しくなる。
 髪が乱れ、唇がだらしなく歪む。もう泣き出す寸前だった。
 それでも、瞳だけは流のそれから逸らすことができない。
 地獄だった。
 「…大丈夫だ。ジュリア。オレがついている」
 ふわり。
 ジュリエッタの両肩を大きく、暖かい物が包んだ。流の両手だ。
 ふ、とジュリエッタのイヤイヤが止まる。
 「…あ…」
 歪んだ唇から、弱々しい声が漏れた。
 荒波に溺れる者が、すがる木片を見つけた目。
 「君が望むなら、ウロボロス4も『君の会社』も『君の家』も、オレが全面的にバックアップしよう。…パートナーとしてね」
 太く、落ち着いた声。木片が巨木に、巨木が船に見えて来る。
 「…流…」
 ジュリエッタの唇がわなわなと震えた。
 「安心していい。君を陥れるつもりなら、とっくにやっている。君の兄上とは相容れなかったが…君とは上手くやっていけると確信しているよ」
 す、と流がジュリエッタの肩を放すと、ジュリエッタの椅子の前にその太い片膝をついた。
 握手を求め、大きな右手が差し出される。
 「流…!」
 真っ暗な荒波の中、救助の光を明々と照らした大船が目の前に停まったのだ。
 ジュリエッタは夢中で右手を出す。肩にかけられた毛布が床に滑り落ちるのも構わない。
 その時だった。
 ジュリエッタの手がふ、と止まった。
 すがりつくはずのその手が、何かに張り付いたように動かない。
 「…ジュリア?」
 流が、差し出した手を動かさないまま、微かに首を傾げる 
 「…!」
 ジュリエッタの喉がごくり、と鳴った。
 頭の中で警報が鳴り響いている。
 
 (…この手を取ってはいけない…!)

 それは、彼女の今の心理状態では全く信じられない、正反対の衝動だった。
 現に、早くその手を取れ、そうすれば楽になる、という心の叫びもまた強烈なのだ。
 この手を取れば、楽になれる。揺るぎない安心が手に入る。
 だが、ジュリエッタの手は止まったままだ。
 (…今、この男の…一条流の手を取れば…いえ、この手にすがりつけば…)
 自分はどうなるのか。
 この手にすがりついた後に、自分にはどんな人生が『残されている』のか。
 この強力な男にすがり、頼りきり。
 この男の機嫌を損ねないように笑顔を絶やさず、身体を磨き、言葉を飾り。
 この手を離される日を怖れ、見捨てられる悪夢におびえ。
 たとえこの男が約束を守り、自分を最後まで支えてくれたとしても。
 一生を盤石の安心の中で過ごす事ができたとしても。
 それでも。

 「…それは、私の人生じゃない」

 涙があふれた。
 言ってしまった。
 それは言ってはいけない、しかし言わなければいけない言葉だった。
 途中まで差し出した手は膝に落ち、そして握り拳に変わった。
 差し伸べられた救助の手を拒否し、荒波を漂う方を選んだのだ。
 一条流の手は、差し出されたまま微動だにしない。が、ジュリエッタはもう、その手を見ていない。
 見ているのは自分の、二つの拳。か細く、小さいけれど、しかしそれは確かに『拳』。
 「…それが君の答えか?」
 今までの優しい響き嘘のような、ぞっとするほど色の無い声が響いた。
 だがジュリエッタは、涙に濡れた目をぐっ、と男の目に向ける。
 「…『女は』…」
 「…む?」
 「『女は馬鹿な方が幸せになれる』。…父の口癖です。そして、私の大嫌いな言葉」
 「…」
 「でも…『嘘』ではないのですね。今、分かりました」
 ぐい、と涙をぬぐう。
 その手に、魔法のようにナイフが出現していた。
 「毒特化のナイフです。ごめんあそばせ?」
 「…いいんだな?」
 「ええ」
 差し出された手を握る代わりに、女は毒化のナイフを突きつけた。
 「幸せになれずとも、私は私でいたい」
 「わかった」
 差し出された流の手が引っ込められる。
 「ヨシア!」
 流の声に即座にドアが開き、ヨシアが飛び込んで来る。
 「…!」
 ジュリエッタが、はっと身構えるが、ヨシアは流の後ろでぴたり、と止まると流に何かを手渡しただけだ。独特の形をした黒いケース。
 「…あ!」
 「君のバイオリンだ、ジュリア。オレは門外漢だが、相当の名品と聞いた」
 流はバイオリンケースをジュリエッタに放ると、窓の外を指差した。
  「ここから真っ直ぐ走って…見えるか? あのアジサイの茂みを探せばカギ付きロープが隠してある。それを使ってあの壁を越えれば王宮のエリアだ。見つから ずに抜けられたら町に出られる。ダンサーならロープ使いはお手の物だろう。…もしも外で『無代』という男に会ったら、そいつは信用できるからオレの名前 を出せ。…オレからは以上だ」
 「…流」
 ジュリエッタがバイオリンのケースをしっかりと胸に抱いた。
 「自分でいたい、というならそうするがいい。その翼で、力尽きるまで飛べ。ロビンリーダー」
 突き放すような別れの言葉だったが、しかしジュリエッタの唇には笑みが浮かんだ。
 「私がこうすると分かってたの?」
 「想定内だ」
 「…ほんと、イヤな男!」
 そんな憎まれ口も、力強い笑顔から発せられたなら、意外と粋な別れの挨拶になった。
 ばん、と窓を開けると外に身体を踊らせる。ダンサーの衣装が風になびくと、それは本当に翼であるかのように見えた。
 本当の空は飛べないが、しかしそれは翼だ。
 その後ろ姿がみるみる小さくなり、流の言葉通りロープを見つけると、高い壁に難なく引っ掛けてするすると登っていく。
 「…いいんですか、リーダー。逃がしちまって」
 ヨシアが訊ねるが、あんまり心配そうな声音ではない。
 「彼女の処遇はオレに一任されている。別に『逃がすな』とは言われていない」
 「うは、かっけえ…あ、失礼しました、リーダー」
 ヨシアがごりごりと、スキンヘッドをかく。
 「…すんません。ぶっちゃけコンドルリーダーを…造反者とはいえ、仲間をクルトのオッサンに『売る』ような上官にはもうついてけねーとか思ってたんですがね、さっきまで」
 「…」
 「でもやっぱ、あんたイカしてる。…ユークの坊主がべた惚れするのも無理ないっすわ」
 「下らん事を言ってないで、さっさと脱走者を追え。『逃がすなよ』?」
 「へーへー。…ロビンリーダーが脱走したぞ! タートルチーム! 出あえ! 出あえ!」
 わざとらしく大声でがなりながら、ヨシアがひょい、と窓枠を越えて飛び出して行く。
 ジュリエッタの姿はもう、どこにも見えない。


 砕けたドアの前で別れたもう一人の男、クルトが向ったのは王宮の監獄。
 衛兵の同行を断り、連行されたコンドルリーダー、テムドール・クライテンの『檻』を1人で訪れる。
 鉄格子の向こうに、質素なベッドに腰掛けたテムドール。
 腕には手錠。
 「これは大佐殿。わざわざのご来訪恐縮です」
 その表情はいつもの微笑。
 罪人として鉄格子の向こうにいるにも関わらず、暗さや自嘲は混じっていない。
 「いいザマだな、コンドルリーダー」
 「『元』です。ご覧の通り、『恋人』に袖にされまして」
 恋人とは流の事だ。いささかゴツい恋人だが。
 「…それは残念だったな」
 「ええ、返す返すも残念です。…しかし、これではっきりしたでしょう?」
 テムドールがゆっくりと立ち上がり、鉄格子の外のクルトと相対した。
 二人の男の視線がぱちん、とぶつかる。
 「大佐殿がご執心だった一条流は『選ばれなかった』」
 「…」
 無言で、クルトがポケットから取り出したのは、鍵だ。それも二つ。
 檻を空けてやり、中から出て来たテムドールの手錠も外してやる。
 「…良い気になるな。貴様の力など、一条流の足元にも及ばん」
 吐き捨てるようなクルトの言葉。だが逆にテムドールの微笑が深くなる。
 「でしょうね。認めますよ。…しかし、私は『選ばれた』。世界を変える…運命にね」
 そしてまた、あの素晴らしい笑顔が戻ってくる。
 「さあ、世界を変えに参りましょう、大佐殿。私たちと同じく『選ばれた』同志達が待っている」
 テムドールがさっさと歩き出す。
 それは到底、罪人の態度ではない。彼の言葉通り、選ばれた者の自信と確信に満ちた歩み。
 (…だが、果たしてそうだろうか…?)
 その後ろ姿に、クルトはふと思う。
 (…あの男…一条流こそが『選ばれている』のではないか…もっと…大きな物に…?)
 だが、それを深く考えるには、クルトという男はいささか現実主義者に過ぎる。
 (…バカバカしい。我々にはパワーがある。全てを圧倒できる…パワーが)
 クルトは首を振り、テムドールを追い越して歩き出す。
中の人 | 第七話「Wings」 | 16:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第七話「Wings」(2)
 ヤスイチ号、正式名称は飛行戦艦「アグネア」。
 その『母港』は、シュバルツバルドの浮遊岩塊空域にある。
 ヤスイチ号と同じく、ほぼ正体不明のエネルギージェネレーターである戦前種「ユミルの心臓」。その余りにも強大な浮遊力場は、ジュバルツバルドの首都ジュノーを都市ごと天空に浮遊させるに留まらず、その周囲にも半径数十キロにわたって無数の岩塊を浮かばせている。その中には直径数百メートルに達する岩塊も複数あるが、そのほとんどが無人(渡る手段がないのだから当然だ)のまま放置されていた。
 ヤスイチ号の母港、と同時にレジスタンスの本部でもある施設は、そんな浮遊岩塊の一つに作られている。
 岩塊の土手っ腹をくり抜いた細長いドックには今、ヤスイチ号こと『アグネア』と、その姉妹船である『セロ』の2隻が並んで停泊しているのだが、本来はヤスイチ号1隻だけのために作られたドックだけに、狭い事この上ない。
 2隻の船はほとんど船体をこすり合わせんばかりに接近した状態で、その見えない翼を休めていた。
 このレジスタンスの空中基地は、およそ3つのブロックに分かれている。
 この細長いトンネル状のドック。
 岩塊内部に蟻の巣のように張り巡らされた居住区。
 そして、岩塊の最上部に設けられた指令区の3つだ。
 「待って下さい議長殿! これでは完全に罪人扱いではありませんか!」
 ヴィフが抗議の声を響かせたのは、その指令区の一画。本来は捕虜を尋問するための、はっきり言えば『拷問室』。
 「まだ革命法廷は開かれてもいません! 船長…同志クローバーはまだ罪人ではないはずです! せめて独房に…」
 「時間がないのだ。同志ヴィフ」
 抗議の声をピシャリと遮ったのは、あの時『セロ』から響いていた声。クローバーが『ブロイス』と呼んだあの声だ。
 ブロイス・キーン革命評議会議長。
 年齢は30代中盤と、クローバーよりも若い。それが事実上レジスタンス組織のトップである『議長』の座にいるのは、彼の家系に原因がある。
 ブロイスの祖父は、ルーンミッドガッツ王国の教会に属する大物の聖堂騎士であった。
 しかしある時、組織内部の対立に巻き込まれて異端の疑いをかけられ、部下ともども王国を追われた。
 彼らがその遺恨を晴らすために組織した、それが王国レジスタンスの起源なのだ。
 言うなれば、生まれながらのレジスタンス。
 美しいプラチナブロンドを惜しげもなく刈り込んだ風貌は禁欲的で、チェイサーという職業も相まって、野に伏しつつも大義の成就を狙う革命の士としての風格を備えている。
 ただその目。
 確かに『鋭い』という表現は当てはまるが、そこにはどうも、誰も信頼しない『猜疑』、誰にも心を開かない『怜悧』の光が混ざる。
 彼よりも年長者ながら、あえて望んでその部下に甘んじているクローバーに言わせれば、
 『本来は『ナンバ−2』の方が向いてる男だ。ああ人を疑うばかりでは、組織がやせ細ってしまう』
 ということになる。
 例えば組織のトップにはもう少し鷹揚な人物な人物を据える。そしてその副官として彼が収まっているならば、組織はもっと上手く行くだろう、と。
 だがそのクローバーは今、無惨な状態だった。
 拷問室の壁に固定された2本の鎖に両腕を繋がれ、床に膝をついた状態で拘束されている。足首には鎖付きの鉄球。いかにクローバーが歴戦の古兵といえども、これでは戦う事も逃げる事も不可能だ。
 もっとも今の彼には、そんな気持ちすらないようだった。
 船内で拘束された時のままの着古したツナギに、髪もざんばら。がっくりと力なくうなだれた頭には『意志』というものが感じられない。
 ヴィフが彼の名誉のためにブロイスと争っているにも関わらず、反応を示さない。
 「時間…ですか?」
 ヴィフがブロイスに詰め寄りながら訊ねる。
 「そうだ。『セロ』と『アグネア』の両船が手に入った以上、ためらっている理由はない。直ちに王国を『解体する』作業に移る。形式や、まして感傷に浸っている暇など我々にはないのだ。同志ヴィフ」
 「しかし…」
 「今すぐこの男を『処刑』することもできるが、それは我々が悲願を達成する日を迎えてからでもよかろう。むしろこれは温情というものだよ」
 ブロイスは表情一つ変えない。
 「情を捨てたまえ、同志ヴィフ。確かにキミの優しさは美徳だが、戦いには無用だ。…一生捨てたままでいろとは言わない。大義の成就の日まででいいのだ。…それも今となってはほんのわずかな時間だ」
 「…」
 ヴィフは押し黙る。
 「考えてもみたまえ。今や我らレジスタンスは戦前種を3つも手に入れた。2隻の空中戦艦と、あの女教授。王国を制するのに何の不安もない」
 「…先生はレジスタンスのものじゃありません。協力して下さってるだけです。お弟子さん達の体が見つかるまで…」
 ヴィフが反射的に抗議するが、ブロイスは動じない。
 「問題ない。BOTにされたその『弟子達』は見つからない。…いや、見つかる。死体でね」
 「何ですって!」
 ブロイスの言葉に、ヴィフが跳び上がらんばかりに驚く。
 「蘇生不能になった弟子達の死体を見せてやれば、あの女教授は間違いなく復讐の鬼となって王国を襲うだろう。そしてその身が砕け散るまで戦ってくれるはずだ。いささか扱いにくい女だが、我々にとってこの上ない戦力には違いない」
 「どういうことなんですか議長殿! 先生のお弟子さん達が死ぬって…どうして分かるんですか!」
 「…『ウロボロス』さ…」
 いきなり、クローバーの声が拷問室に響いた。
 「…船長?!」
 「『議長殿』はウロボロスとつながったんだ。そうだろう? ブロイス?」
 両腕を拘束され、顔を床に向けたままで、クローバーは目の前の男に問いかける。
 「そうでもなきゃ、ある日突然『セロ』を手に入れたり出来るはずがない。…そして『BOT屋』こと『ウロボロス2』と同盟を結んだ、そんなところだろう」
 クローバーがぐい、と顔を上げ、屈従の姿勢からブロイスを睨み上げる。
 「…だって…『ウロボロス』って王国の組織じゃ…?!」
 ヴィフがもう、訳が分からないという風情で首を振る。
 が、ブロイスは相変わらずの無表情。
 「その通りだ、クローバー。…いや『先輩』と呼ぶべきかな? 今や私が『ウロボロス6』なのだから」
 無表情。
 逆にクローバーの目に炎が灯る。
 「…教会だな…? 俺が盗んだ『アグネア』を取り戻すために、どこかで新たに発見した『セロ』をエサにしてお前を釣った、というわけだ。…相変わらずだな、あそこの連中のやることは」
 「利害の一致、というヤツだ」
 ブロイスがクローバーを見下ろす。
 「教会は、長く続きすぎた王国の支配にくさびを打ち込みたがっている。9つのウロボロスを一つにまとめ、そっくり教会の指揮下に移す。そうなれば王国は事実上、無力化されたも同然だ。『セロ』と『アグネア』があれば簡単な『作業』だよ」
 「…その功績で、お前は聖堂騎士団長様か」
 「『騎士枢機卿(カーディナルナイト)』だ。…『法王』とまでは、まだ言うまい」
 「次期法王候補様に悔悟を聞いて頂けるとは、もったいなくて涙も出ねえ」
 クローバーの皮肉にもキレがない。
 「何とでも言いたまえ。既に他のウロボロスも、私の力を怖れて次々に同盟を求めて来ている。これを機に『皆で世界を変えよう』とね。彼らもまた、長い膠着の歴史に飽きているのだ」
 「『私の力』ね」
 「『私の力』だ。利用できるパワーを全て利用する。それこそがパワーだよ。BOT化されたあの女教授の弟子達…探し出してこちらに引き渡すよう、ウロボロス2に依頼してある」
 無表情。
 「それに同志ヴィフ、天津の、瑞波国の王女を保護したそうだな?」
 香の事だ。
 「は、はい議長殿。ヤスイチ…『アグネア』の医務室に保護しております」
 「見張りは?」
 「眠っておられますので、特に…」
 「付けろ。そしてアグネアの船内ではなく、指揮区画の独房に移せ。絶対に逃がすな。人質として瑞波を動かすもよし、王国に殺されたことにして、あの女教授と同じように瑞波を王国にけしかけるのも面白い。使い道は様々だ」
 「?!」
 反射的に抗議しようとしたヴィフよりも、しかし一瞬速く、
 「ブロイス!」
 クローバーの、凄まじい怒声がびん、と拷問室を揺らした。
 「貴様! 香姫様に指一本でも触れたら許さんぞ!」
 「許さなければどうするというんだ?」
 無表情。
 「それに、悲願達成のためには仲間さえ犠牲にしてきた私たちだ。部外者にどれほどの犠牲が出ようと、仲間の命より大切という事はあるまいに。違うかね?」
 「貴様の詭弁は聞き飽きた」
 「詭弁ではない。情を捨て、利用出来る物は全て利用する。目的達成のためにはそれが必要だ」
 やはり無表情。
 「同志ヴィフ、もういいだろう? この男は嘘つきで、今や負け犬だ。君の情に免じて即時処刑は保留するが…」
 ヴィフの表情は硬いまま。
 「その日まで、ここで拘束する。行くぞ。君は『アグネア』の出発準備に掛かりたまえ」
 それだけ言うと、ブロイスは拷問室を出て行く。
 ヴィフが一瞬、クローバーの目を見つめた。
 2人の視線が絡む。が、クローバーは無言。
 「…同志ヴィフ!」
 「…はい、申し訳ありません、議長殿」
 ヴィフはその形の良い唇を噛みながら、拷問室を後にする。
 若者の体がドアをくぐり、その背中がクローバーの視界から消えるまで、不自然なほどに長い時間がかかった。
 クローバーには、その時間の意味が痛いほど分かっていた。
 彼が、自分にどうしてほしいのかも分かっている。
 だが、クローバーは無言を貫く。
 ただ若者の背中を、そして彼の消えていったドアを、いつまでも見つめていた。


 「…どうしよう…」
 ヤスイチ号の医務室。
 ハナコは一人、自分のベッドに浅く腰掛けたまま、不安そうにつぶやいた。
 クローバーが拘束され、自分達がこの医務室に軟禁されたあの夜から、かなりの時間が経っている。ヤスイチ号は翌日にはどこかに停泊したようだが、それがどこなのか、クローバーが言っていた通り彼らの『基地』なのか、ハナコには何の説明もない。
 医務室の窓もシャッターが降りたまま。
 何度か食事と飲み物が届けられたが、スタッフは皆無言で、ハナコの質問に答えてくれる者はいなかった。
 香はあれから、ずっと眠っている。
 人形のように端正な顔も、毛布に包まれた細い体も、ぴくりとも動かない。呼吸もごくゆっくりとしたもので、一見すると本当に人形が横たわっているかのようだ。
 『世話役』を自認するハナコでさえ、時々不安になってその額や頬を軽く触り、そこに健やかな体温があることをつい確認してしまうほど。
 (…香さんが眠っている間は、ハナコがお守りしなきゃ…!)
 そう自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせようとする。
 だが、不安な気持ちは消えない。
 ハナコには、あの島で香やクローバー、翠嶺らに救助される以前の記憶がない。
 それは、いざという時にどう行動すればいいか、という知識や経験がない、ということでもある。
 ハナコに残されているのはだから、直感と本能に頼った行動しかない。が、それで本当に香と自分を守れるのか、クローバーを救い出せるのか。
 不安ばかりがつのる。
 (…翠嶺先生がいてくれたら…せめて香さんが目を覚まして下さったら…)
 もしそうだったなら、どれほど心強いかと思う。
 彼女達なら、その比類ない知識と経験、そして決断力と行動力を存分に駆使し、この状況を必ず打開してくれるだろう。
 だが今、彼女達はここにはいない。
 (…ハナコがやるしかないんだ…でも…)
 堂々巡りの間に、ハナコの不安は大きくなるばかりだ。
 ぽぉん。
 その時だった。医務室の扉が解錠される確認音。続いて、扉が音も無くスライド。
 次の食事にはまだ早い。 
 「…誰ですか…?」
 ハナコが思わず腰を浮かせる。
 そこへ踏み込んで来たのは武装した一団だ。
 「動くな」
 ハナコに剣を突きつけて制止させ、別の一団が担架を持って香のベッドに近づく。
 「な、何をするんですか!」
 ハナコが慌てて抗議するが、返事はない。
 「か、香さんに触らないで下さいっ! …船長さんは…? ヴィフさんはどこですか! あなた達は誰なんですか!」
 やはり返事はない。
 (…香さんが…連れて行かれちゃう!)
 ハナコの頭がかっ、と真っ白になった。
 それまで彼女の心を重く塞いでいた不安や困惑が、ほとんど一瞬で消失する。
 ハナコの心の奥に灯った超高温の炎が、不純物を一瞬で焼き付くしたのだ。
 炎。
 (…こいつら…!)
 それは『怒り』だった。
 (…こいつらは…!)
 燃え盛る、などというお優しい怒りではない。それは翠嶺の『熱線砲(ブラスター)』もかくやという、純粋な『熱塊』だった。
 「…でたな…悪者ぉぉぉぉっ!」
 ハナコの腕が無意識にがっ、と何かを掴んだ。同時に、その感触と重さが彼女に勇気を与える。
 「貴様! 動…」
 動くな、と言おうとした男は、最後までその台詞を吐く事はできなかった。
 ハナコがその腕でぶぉん! と振り回した『物体』が、彼の体を直撃したのだ。
 ぐしゃ! と、その体が壊れた人形のように弾け、担架を抱えた仲間数人をも巻き込んで、医務室の壁際まで吹っ飛んだ。
 「香さんに、触るなあ!!!」
 ぶぉん! と二振り目。
 眠ったままの香を抱え上げようとしていた2人が、同じく軽々と吹っ飛ばされる。
 「こいつ!」
 扉の側で後詰めをしていた2人が、慌てて剣を抱えてハナコに迫る。
 そして、ぎょっとして止まった。
 二人の顔が強ばる。
 その顔に、『これ無理』という文字が浮かんで、消えた。
 彼らが見たもの。
 それはもう、言うまでもないだろう。
 『ベッドを構えたハナコ』だった。
 ぶぉん!
 三振り目。げしぃん! と、構えた剣ごと二人の男が吹っ飛ぶ。
 ハナコの、たった一人の戦いが始まった。


 両腕両足を拘束されたままでも、クローバーはほとんど熟睡することができる。
 戦士として鍛え抜かれた心身と、どんな時でも次の行動のために力を蓄えるという本能によるものだ。
 そして熟睡状態であっても、異常があれば即座に覚醒し、行動することも同時に、可能だ。
 そのクローバーの神経が異変を捉え、彼の心身に覚醒を促した。
 カチャ。
 拷問室の鍵が開く音。戦前種であるヤスイチ号のハイテクなそれとは比べ物にならないが、それでも頑丈さには定評のある鍵だ。
 そっと開かれた扉から滑り込んで来たのは、クローバーが予想した通りの人物だった。
 「…ヴィフ」
 「…」
 慎重に扉を閉めた若者はしかし無言で、クローバーの方を見る事もせず俯いたまま。
 「…」
 クローバーも無言のまま、ヴィフの俯いた顔を見つめる。
 重く、濃密な時間が流れた。
 無言の中に込められた意志だけが、狭い部屋に静かに溜まっていくようだ。
 「…どうして…」
 その沈黙を破ったのは、やはり若いヴィフだった。
 「…どうして、何も言ってくれないんですか…船長…」
 そこで初めて、ヴィフの目がクローバーの目を見る。だがその目には力は宿っていない。
 不安と、迷いに満ちた目は、誰かに何かを伝えることはできない。
 「…船長!」
 「…甘えるな、ヴィフ」
 今までヴィフが聞いた事もない、厳しい声が響いた。びく、と、ヴィフが叱られたかのように体をすくませる。
 「俺はお前に、香様とハナコちゃんの身柄を頼み、お前はそれを引き受けた。俺のやるべき事はそれで終わった。後はお前だ」
 「…」
 ヴィフが再び俯く。葛藤と言う名の嵐が、若者の胸を掻きむしっているのが、彼を見守るクローバーにもはっきりとわかる。
 クローバーとの約束を守るなら、ブロイスの命令に背く事になる。
 逆にブロイスの命令に従うなら、クローバーとの約束は破らざるをえない。
 だが、ヴィフという若者はその優しさ故に、答えを出す事ができない。
 だから答えを探しに、いや、答えを『もらいに』来たのだ。
 だが、クローバーは彼に答えを与えない。
 「俺たちはもう、船長でも部下でもない。献身と支援の相方でもない」
 「…」
 ヴィフが再び俯いた。
 彼にも分かっているのだ。
 あの夜、空の上で、クローバーとヴィフは決別した。ヴィフはクローバーの過去を許せず、彼を裏切り者と呼んだ。そして叫んだのだ。
 『子供扱いするな』、と。
 だからヴィフが今この部屋に、クローバーから『答えをもらいに』来るのは甘えでしかない。
 「…自分で考えろ。自分で悩め。…内臓が千切れるほど悩め。そして、自分で決めろ」
 クローバーの声は変わらず厳しい。
 だが、そこに限りない思いやりが込められている事を、誰よりもヴィフは理解できた。
 「悩まず、疑わず…自分を騙して突き進んだ…俺のようには、なるな」
 その思いやりが決して上辺だけのものでないことも。
 ぐっ、とヴィフが何かを飲み込む音。
 「…夢なんです…」
 ヴィフがもう一度顔を上げた時、その目は涙に濡れていた。
 「…母の…夢なんです…。もう一度…奪われた故郷の屋敷で…お茶会をするのが…」
 きしむような声。
 「父はあの日、市民に首を刎ねられました。僕が生まれ育った屋敷は焼かれ、花壇は踏みにじられた…」
 涙に濡れた瞳は、もうどこも見ていない。
 「母は幼かった僕を連れて、必死でアルベルタの親戚の家まで逃げ延びて、その屋根裏部屋にかくまわれました。薄暗くてカビ臭い部屋で、何年も…。それで病気になって…僕がプリーストになったのは、母の体を支えたいからだった…」
 貴族の座を追われた、金も力も無い母子がたった2人で、人の善意にだけすがって生きて行く事が、奇麗事で済むはずもない。
 子供が決して見るべきではないことを、彼が見てしまう事もあったろう。
 クローバーは何も言わない。それは過去に、ヴィフの口から何度も聴いた話だ。
 何度も。何度も。
 辛い過去と、ささやかな夢の話。
 しかしその過去と夢こそが、この若者を支えて来たのだ。
 その経験を積み重ねて、今の優しい若者になったのだ。
 ヴィフがポケットから鍵を出した。クローバーの枷の鍵だ。
 まず左の足かせを外す。
 「…ヴィフ…」
 「…僕にはまだ分かりません…」
 その声は泣き声。しかし、ためらわずに左の足かせも外す。
 「…でも、こうしなきゃいけない気がするんだ…こうしなきゃ…」
 自分に言い聞かせるように、右手の手かせを外そうとして、その手が止まった。
 「…鍵が…合わない…!?」
 涙に濡れたヴィフの顔が白くなった。
 「…ブロイスか。…ハナからお前を信用してなかったな…」
 クローバーが吐き捨てる。
 「その通りだ。…失望したよ、同志ヴィフ。いや、もう同志ではないな」
 扉が開いた。
 クローバーとヴィフには、もう見なくても分かっていた。
 部下を連れたブロイスが拷問室に入って来る。
 「ヴィフ、お前を逮捕する。…いや、クローバーと一緒に、この場で処刑するとしよう」


 「う、りゃああああ!!!」
 もう何振り目になるのか、ハナコがベッドを振り回し、レジスタンスの男達を吹っ飛ばした。
 ハナコのたった一人の戦いはまだ続いていた。
 が、そろそろ終わろうとしている。
 ハナコの敗北で。
 確かに、ハナコには怪力がある。昨日、ハナコがベッドを振り回した際は、確かに古兵のクローバーさえ退けた。
 だが、それはあくまで彼らがハナコを傷つける気がなかったからだ。
 クローバー達はハナコを保護する事を最優先に、武器を一切使わなかったし、強力なスキルも使用しなかった。
 だが、今回は違う。
 最初こそ、不意をつく事で数人を倒すことができたものの、完全武装した彼らはダメージを回復すると直ちにハナコを『殺しに』来た。
 振り回される巨大なベッドの隙をつき、剣で、また短剣でハナコの腕や脚を狙って来る。
 プリーストによる防御呪文をかけて突っ込まれれば、ベッドの一撃といえども相手を制圧するのは容易ではない。
 ましてハナコは何の戦闘訓練も経験もないのだ。怪力だけの戦いは所詮、長くは続かない。
 「…きゃ…!」
 一瞬、ハナコの足がもつれ、振り回していたベッドの勢いが弱まる。
 (…まずい…っ!)
 ハナコの焦りはしかし、やはり見逃してはもらえなかった。
 だっ、と突っ込んで来たモンクらしい男が棍棒でハナコの腰をぶん殴る。
 「が…っ!」
 むしろ剣ではなかったため打撲で済み、骨折もしなかったから幸いとも言えた。が、彼女の戦いを終わらせるには十分な一撃。
 たちまち抑え込まれる。
 「は、放せえっ!」
 怪力を発揮して振りほどこうともがくハナコの顎が、がん、と殴られた。
 ぐらん、と頭が揺れる。
 いかに怪力の持ち主でも、体は普通の女性のものだ。顎を殴られ、その反動で脳を揺らされるともうアウトである。
 「…ち…くしょ…う…」
 殺される、と思った。
 涙が出た。
 せっかく香や、クローバーや、翠嶺や、ヴィフ達が助けてくれたのに。
 いい人たちが皆で、自分を助けてくれたのに。
 また悪者にやられて、今度こそ殺されてしまう。
 そう思うと、悔しくて悔しくて、ひたすら悔しかった。
 そして、自分の事を『友達』と呼んでくれた香を、約束した通りに守ることができないことが情けなくて、申し訳なくて、ただ涙があふれた。
 「…香…さん…」
 必死に力を振り絞り、香のベッドを見上げる。
 その目がしかし、ぽかんと開かれた。 
 「香…さん…?」
 ベッドの上で、香が『起きていた』。
 腰から上半身をぴん、と垂直に立て、顔を正面に向けて、その闇色の目をぱっちりと開いている。
 その顔がゆっくりと、ハナコの方を向いた。
 何だか、操り人形のような不自然な動き。
 その目がハナコの視線を捉える。
 唇が動いた。
 
 「『ハナさん』、今助けるから、動いちゃ駄目だよ?」

 『香』の姿で、『香』の声で。
 『香ではない誰か』が言った。


 名前を呼ばれたヴィフは、しかしもう何もかも分かったという様子でゆっくりと振り向いた。
 「ブロイス議長…」
 「備えあれば憂い無し、だね、ヴィフ君。君がこうするのではないかと、用心していた甲斐があったよ」
 表情は無表情だが、自分の考えが図に当るとさすがに嬉しいのか、饒舌さに拍車がかかっている。
 「ルーンミッドガッツ王国を打倒し、奪われた領地を取り戻して貴族に返り咲く。…夢が叶う寸前だったものを、バカなことをしたものだね」
 ブロイスに皮肉を言われても、しかしヴィフの表情は意外にも平静だ。
 「…知ってるんだ…」
 「何?」
 「…知っているんです、僕は」
 ヴィフがブロイスの目を見返した。
 「貴族だった僕の父が殺された日は今、故郷の『祝日』なんです。民を苦しめ続けた『暴君』が倒された日だって」
 「…ほう」
 ブロイスは興味なさげだが、ヴィフも別に聞かせるつもりで喋ってはいない。
 「…父は確かに、良い領主じゃなかった。…いえ、はっきり言って悪い領主でした。税金は重く、その金は自分の…僕たちの贅沢に使われた。奇麗な女性にも目がなかった。家来達も町で市民をいじめてた…僕には優しい父だったけど…でもやっぱり、恨まれて当然の人だった」
 辛い告白を続けながら、しかし反対にヴィフの声に力がこもり始める。
 「僕のために苦労してくれた母の、夢をかなえてあげたい。失われた僕の少年時代を取り戻したい。…でも、それが人々に悪夢を蘇らせるだけだったら…僕は…」
 「…ヴィフ君、結構な演説だが…」
 「静かにしろ、ブロイス」
 クローバーが、とてつもない威圧を含んだ声でブロイスの茶々を遮った。かつて『死神』と異名を取った男の迫力だ。さすがのブロイスが一瞬黙る。
 「…僕は…貴族になんかならなくていい…」
 ヴィフの目から涙が消えていた。
 この優しい若者は今、決別しようとしていた。
 優しいだけの自分、流されるだけの自分に別れを告げようとしているのだ。
 薄暗い屋根裏部屋でうずくまるだけの自分を捨て、その若々しい翼を広げようとしているのだ。
 それを邪魔したり、茶々を入れる事は許さない。
 クローバーは両腕を拘束されたまま、深くそう決意していた。
 「…ブロイス議長。クローバー船長を処刑し、翠嶺先生や香さんたちを利用するというあなたの決定には従えません」
 ヴィフの声が、意志の力で響く。 
 「僕は貴族に戻れなくても…戦士としてずっと未熟なままでも…」
 その瞳が、意志の力で輝く。

 「…それでも! 僕は『卑怯者』にはなれません!」

  ヴィフの見えない翼が、その場にいる全ての者の頬を打った。
 「…殺せ」
 無表情な命令が拷問室に響く。だがもう一つの声が、その声をかき消した。
 「ヴィフ! 俺を自由にしろ! 鍵が無いなら手首を喰いちぎれ!」
 クローバーだ。
 声もさることながら、その内容もまさに壮絶。
 だが。
 「はい、船長!」
 ヴィフは一切のためらいなく、その言葉を『受けた』。頑強な手かせに拘束されたクローバーの手首に噛み付き、口から溢れる血を拭いもせずに深く、深くその歯を突き立てる。
 同時にクローバーも、全身の力でその腕を引っ張る。ヴィフが噛み付いて作った『裂け目』から肉が、腱が、骨が、ばりばりと音を立ててちぎれていく。
 常人ならそれだけで気を失うほどの激痛だろう。老人子供なら、そのショックで死亡してもおかしくない。
 だが、クローバーはそれこそ眉一つ動かさない。あのフールのように痛みを感じない身体というならともかく、これは尋常の忍耐力ではなかった。
 『献身者(ディボーター)』。
 戦場で、他人の傷と痛みを自分の身体で肩代わりする、それは守護の戦士の称号だ。
 そうして生きた日々が、彼の心と身体をこのようにしたのだろう。
 身体の傷も、痛みも、決して消す事はできない。だがそれよりも大切なものがある時、人は痛みを『超える』ことができる。
 「ぅおおおおお!!!!」
 クローバーが吼えた。ばきん! ぶちぶちぶちっ! 耳を覆いたくなるような音が響き、ついに手首が千切れた。
 即座にヴィフがそれを拾い、元の位置にくっつける。吹き出す鮮血で凄まじい有様。
 「ヒール!」
 治癒呪文。『パッシブヒーラー』ヴィフの途切れない治癒力が、クローバーの傷を猛烈な勢いで癒していく。
 「こっちもだ! ヴィフ! 急げ!」
 クローバーが若者を怒鳴り上げた。『死神』と呼ばれた男の、手加減無しの怒声。
 当然ながら、ヴィフが憎いわけではない。
 クローバーはこの若者を認めたのだ。
 教え導き、かばい守る者ではなく。
 共に戦い、共に死ぬ者として。
 「殺せっ!」
 一瞬、あっけにとられていたブロイスと部下が、やっと我に返ったように2人に襲いかかる。
 クローバーの手首に噛み付いたヴィフの、やや華奢な背中に剣が降る。
 それを、自由になった方の腕でかばおうとするクローバーにも、短剣の斬撃が浴びせられる。
 クローバーは足元に転がった足かせの鉄球を蹴り上げ、腕を振り回し、腹の底から怒声を絞り出しながら敵を威嚇した。
 「貴様ら! ヴィフに手を出すな!」
 敵の剣すら鈍らせる、血と鉄の匂いの中で生きて来た男の裂帛の気合い。

 「俺の『息子』に手を出すな!」
中の人 | 第七話「Wings」 | 17:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第七話「Wings」(3)
 それは『戦闘』というには余りにも奇妙な戦いだった。
 ハナコに『動くな』と指示した『香』はひょい、とベッドを降りると、ハナコを押さえつけている男達の所へすたすたと歩く。
 その両側から剣と短剣が襲いかかった。どちらもフェイントを織り交ぜた、しぶとく厄介な攻撃だ。
 だが、『香』がどこをどうしたものか。
 ぽき。
 間の抜けた音と共に、剣が鍔元から『折れた』。
 ぼろり。
 これまた間の抜けた音と共に、短剣の柄と刀身が『分解』した。
 『武器破壊』、だがあまりにも鮮やか過ぎて、まるで手品か魔法のようだ。
 「?!」
 一瞬で武器を失った二人の敵に、『香』の掌底が叩き込まれる。
 狙いは顎。
 かくん! かくん! と二つの顎が頭ごと変な方向にひん曲がり、一瞬で意識を吹き飛ばされる。
 2つの身体が、膝から垂直に床へ落ちる。
 体重の軽い『香』の体では本来、打撃技の威力はあまり期待できない。香が普段、手刀による『斬撃』あるいは『刺撃』を使い、しかも人体の急所である経絡を狙うのはそのためだ。
 だが、この『香』の掌底はそのスピードと狙いの正確さで、馬鹿にできない威力を相手に与えることができるようだ。
 言うなれば、ハイスピードで打ち降ろされるミニサイズのハンマー。
 「…な…?!」
 ハナコを6人掛かりで押さえつけていた男たちが、一瞬その拘束を緩める。ハナコには脱出の好機。
 (…動いちゃ駄目…動いちゃ駄目…)
 しかし、ハナコは動かなかった。『動くな』という『香』の言葉を、無意識に守ったのだ。
 そしてそれは正解だった。
 ぽき。
 がしゃ。
 ぽろ。
 ぽこ。
 べちゃ。
 間の抜けた音が連続して響く。
 例によって、男たちの武器があっさりと破壊されたのだ。
 武器を失ってもなお、反撃しようとした者もいる。
 だが『香』の狙い澄ました掌底を顎に喰らい、またもや膝から垂直に落ちる。
 ものの数十秒ほどで、医務室の中で意識のあるのはハナコと『香』だけになった。
 「…うーん、やっぱり『女の人の体』は使いにくいなあ…」
 『香』がしげしげと『自分』の手を眺めてつぶやく。
 「…こっちを『姉さん』がやってくれればよかったのに…あ、でも魂接合のサポートは姉さんじゃないと無理か…」
 なにやらぶつぶつと文句を言っている。
 「…あの…?」
 ハナコが体を起こしながら、おずおずと『香』に話しかける。
 「ん?」
 「…あなた…誰…?」
 そう訊ねられた時の『香』の表情が、ハナコの目にずっと後まで焼き付いた。
 それは、とても懐かしそうで。
 同時に、とても優しく。
 そして、少しだけ寂しそうだった。
 なぜこの人がそんな目で自分を見るのか、ハナコには分からない。
 「…あの…?」
 「…ごめん…。あのね、『ハナさん』。今は、ボクが誰なのかは言えないんだ。…ルール違反になっちゃうから」
 ハナコには『香』が何を言っているのか半分も理解できない。
 が、『香』の表情が本当に済まなそうで、そして辛そうに見えたので、それ以上訊ねることができなかった。
 「でもコレだけは言える。ボクはハナさんの味方だよ」
 にかっ、と白い歯を見せて笑う。
 元々が微笑することさえ珍しい香の顔だけに、その笑い方をすると凄まじい違和感だ。
 が、決してそれが似合わないわけではない。むしろ普段の香では絶対に見られない意外な、そして強烈な魅力を放っている。
 「そしてクローバー船長と、ヴィフさんと、ヤスイチ号と…『この人』の味方さ」
 最後に『自分の体』を指差す。
 親指。
 そしてまた、にかっ。
 「…ぷっ」
 ハナコは吹き出してしまった。香の体でそんなことをされると、どうにも違和感がおかしな方向へ行ってしまう。
 (…この人、ずるい)
 そう思う。
 この顔で、そんな笑い方をされたら、信じないわけにはいかないではないか。
 「さあ、ぐずぐずしちゃいられない。船長とヴィフさんが危ないんだ。助けなきゃ。ハナさん。こいつら縛って、船の外に放り出すよ」
 「…は、はいっ!」
 ハナコは素直にうなずいてしまう。
 『香』が、壊した敵の武器を使ってシーツを裂き、それを撚り合わせて紐を作る。元はただのシーツにもかかわらずやたらと頑丈そうで、しかも異常なほど制作の手際がいい。男達全員を縛り上げるのに十分な長さをあっという間に確保。しかもまだかなりの長さが余る。
 ハナコは出来上がった紐で片っ端から男達を縛り、その怪力でまとめて担ぎ上げた。担ぎきれない何人かはずるずると床を引きずる。
 「操縦席へ行くよ。船長達を助けるには、ヤスイチの力が必要なんだ」
 廊下に出ても、誰もいない。船内は彼らの他には無人のようだ。微かに、倉庫からペコペコの鳴き声がするのは、クローバーの愛鳥だろう。ちゃんと餌をもらえているのか、ハナコは不安になるが今はどうしようもない。
 ハナコが起こした騒ぎを聞きつけられた様子はなく、援軍の気配もないのが救いだった。
 途中の乗降ハッチから男達を放り出す。
 さすがに船外にいた連中が異変に気づくが、『香』がさっさとハッチを閉じ、内側からロックしてしまう。
 「…うあ、このロックシステム『新品』だ…。パスワード、デフォルトのまんまだよ、もう…」
 何かまたぶつぶつ言っている。
 たどり着いた操縦室のドアはロックされていた。だが、『香』が扉の側のボタン群をちょいちょいと操作すると、あっさりと開いてしまう。
 「…だからパスワードぐらい変えろって…」
 さっさと操縦室に入ってハナコを迎え入れると、ドアを閉めてロック。
 ハナコは初めて入る、ヤスイチ号の操縦室だ。
 内部は以外と広く、窓は両側に2つ。正面は窓ではなく、巨大なモニターになっている。
 席は4つ。
 モニター前に二つ並んでいるのが正、副の操縦席。その後方にあるのが通信と火器管制席だ。
 「…うあ、後ろの2席、カバーかかったまんまだ…。そーだよなー。『この時代』はまだ通信相手いないし…火器だって無いもんなー」
 『香』が、何とも言えない様子で室内を見回している。
 「…あの…あなた、ヤスイチ号を知ってるんですか…?」
 ハナコの質問を受けて、『香』はぽりぽりと頭をかいた。
 「うーん…知ってると言えば知ってる。でも、『今のヤスイチ』に会うのは初めてなんだ」
 「??」
 「…ごめん、詳しくは説明できない。でも、ヤスイチはボクをちゃんと知っているよ。『彼』には時間の流れなんか関係ないからね」
 にか、と笑ってみせる。
 「ヤスイチ号はね、ホントに本気を出せば、時間を超えて過去でも未来でも、この世界とは全然違う別の世界にだって行けちゃう。言ってみれば『機械の神様』なんだよ。実際、彼はこの世界とは違う世界からやってきたんだ」
 『香』が、操縦席に向って歩きながら語る。
 「それをサポートするために、彼の『記憶』は『超空間通信』を使って、どこの世界にも、どこの時間にも属さない『場所』にある『無限記憶体』に蓄えられる。だから過去に経験した事も、『これから経験する事』も、彼は全部知ってる」
 「???」
 ハナコは目を白黒させるばかりだ。
 「でも、『この時代』のヤスイチ号はまだ半分眠っている。彼を目覚めさせるために、ボクは来たんだよ」
 「????」
 もう何が何だかさっぱりわからない、というハナコの顔に向って、にかっ、ともう一度笑うと、『香』は正面のモニターに向き直った。席には座らず、立ったままだ。
 
 「さあ『ヤスイチ』。『ボク』が『誰』だか分かるかい?」
中の人 | 第七話「Wings」 | 17:46 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第七話「Wings」(4)
  ちか。
 今まで真っ黒だった巨大なモニターが一瞬、瞬きのような光に 包まれ、船外の風景を映し出した。
 狭いドックの中は今、ちょっとした騒ぎの真っ最中だ。
 香を拘束するた めに船内に入った男達が、逆に何者かに制圧されて叩き出され、ヤスイチ号は内部からロックされてしまった。閉め出しを喰らったスタッフやレジスタンス達 が、何が起きたのかと騒いでいるのが見える。
 「ふん。いくら騒いだってヤスイチの中には入れるもんか。こっちが許可しない限り、ワープ ポータルだって遮断できるんだぜ」
 『香』がバカにしたようにつぶやく。

 「『ヤスイチ』! いつまで寝てるつもりだい? 早く起きてボクを見ろよ!」
 
 ぴん。
 『香』の言葉 に反応し、巨大なモニターの一部に黒く反転した一画が出現した。
 そこに『文字』が表示される。

 …Are you "Enishi" ?

  その『文字』を、ハナコは理解できない。が、『香』はそれを見て、満足げに微笑む。
 「そうだよヤスイチ。えらいぞ、ちゃんと『知っていた』ね」

 …How do you do? …And long time no see Enishi. …Where is "Kizuna" ?

 「…うん、『初 めましてひさしぶり』。…っておい、ここで『姉さん』かよ? どんだけ姉さん好きなんだよお前」
 苦笑しながら突っ込む『香』。まるで懐かしい 友人に出会ったような『ノリ』だ。
 「でもごめんな。姉さんは先日の無理がたたって、しばらく『こちら』に来られないんだ。だ からボクで我慢しておくれよ」

 …OK.…Order prease. Enishi.

 だが『香』は首を振る。
 「…それは駄目 だ。ボクは君に命令しに来たんじゃない。起こしに来ただけだ。…君が今、ここで決めるんだ。自分が何で、これからどうするのか」

 …I…I…What am I ? …Who am I ?

 「うん。君は何? 君は誰?」

 …I am… am I …your friend? Enishi?

 「…」
 一瞬、『香』が虚を突かれたようにぽかんとする。

 …Enishi?

 「…うん…うん…馬鹿野郎…泣かせるなよ…そうだ…そうだよ! 君は僕の…僕たちの友達だよ…ずっと…ずっとだ…」
 『香』の目に、 うっすらと光る物がある。
 「…」
 すっかり傍観者のハナコには、何が起きているのか全く把握できない。
 ただ、この 『香』とヤスイチ号の間に、人間と機械の関係を超えたものがあることを、その直感で感じ取っていた。
 そして、それが今の自分や、香や、クローバー 達にとってとても頼もしく、そして信じるに足る力である事も。

 …Yes…I am not "Wepon"… but your "Friend".

  「そうさ。君は兵器なんかじゃない。僕らの仲間さ。さあ、君の『死にたがりの船長』を助けに行かなきゃ。エネルギーウイング『ルシファー』展開」

 …OK…Ready E.N.G.Wings …mode『Cherubim』.

 『香』が眉を寄せる。
 「ヤスイチ、『ケルビム』の四翼じゃ、『ルシファー』の十二 翼には…セロには勝てないぞ」
 
 …
 
 モニターは沈黙したままだ。
 『香』は語気を強めてモニターに話しかける。
 「…せめて衛 星軌道兵器群(サテライトアームズ)を呼ぶんだ、ヤスイチ。覚醒していないセロは、アレにアクセスできない。エアブースターと電磁シールドだけでも」

 …Sorry Enishi.

 表示されたのは謝罪の言葉。
 「…わかったよもう。この頑固者」
 はー、と『香』がため息をつく。
 「確かに、大 気圏内で『ルシファー』同士が激突したり、衛星軌道兵器なんか使ったら、地上にどんな影響が出るか分からない。…キミはこの時代から、優しい子だったんだ な」

  …Thank you Enishi.

 「…あんまり誉めてないけどね。頑固なとこも変わらないんだから…分かったよ、その代わり ヤスイチ」
 『香』が諦めたように、しかし決然と言った。
 「てめー、セロに負けやがったら承知しねーからな! 絶対、皆を運んで来いよ! 待って るからな!」
  
 …OK.See you again Enishi.

「うん…また会おう。きっとまた」
 次の瞬間、コックピットにある全ての計器に光が灯った。『香』とハナコの体を、無数の光が 彩る。
 「う、動いた…! 動き出した!」
 ハナコが目を丸くする。何せこんな巨大な機械を見る事さえ初めてなのだ。彼女の理解力の範 囲を完全にオーバーする事態に、ただ大声を上げて騒ぐしかできない。
 「よし、ハナさん、今から言う事を良く聞いて。それとコレ持って」
 『香』がハナ コに、男達を縛ったあの紐の余りを握らせる。
 「…は、はいっ!」
 「いいかい。ヤスイチは目覚めたけど、このドックの扉を開か ないと外に出られない。…ぶっ壊せば出られるけど、それじゃ人死にが出るからね。だから、ボクが外に出て、扉を開ける」
 「…は、はい」
 「でも、そし たらボクはもう、ヤスイチに戻っているヒマはない。ヤスイチはボクを置いて飛ぶから、船長とヴィフさんを拾って、そのまま逃げるんだ」
 「え…? え えええ?! だ、ダメです! そんなの…」
 ハナコが激しく抗議するが、『香』の意志は固い。
 「でないと間に 合わないんだよ。隣にいるセロが追って来たら、ヤスイチは破壊されてしまうかもしれない。ボク…『この人』の事は心配ない。外の連中には、『この人』を決 して殺せないワケがあるからね」
 「…でも…」
 「この判断、船長も納得してくれると思う。それと…ここからが肝心 だ。船長にきちんと伝えてほしい。まず、ここを脱出したら天津の瑞波の国へ行って。お爺さ…おっと違う、そこのお殿様、『一条鉄』って人に助けを求めるん だ。その人の事は船長が知ってる。それともう一つ!」
 『香』は、まだ不服そうなハナコの両肩をしっかりと掴む。
 「ヤスイチの翼 は『ルシファー』じゃない、『ケルビム』だ。他に武器もないから、まともに戦ったら『セロ』には勝てない。そう船長に伝えてくれ」
 「『ルシ ファー』じゃなく『ケルビム』…天津の…一条鉄…」
 「そう。…頼んだよ、ハナさん。」
 『香』がハナコの肩を離し、コクピットの窓へ 駆け寄る。小さな窓だが、開ければ人間1人ぐらいは通れる。
 「…あの!」
 「ん?」
 ハナコの呼びかけに、『香』が振り向いた。
 「…また…ま た会えますよね!?」
 「…」
 『香』の表情が初めて、ぐっ、と歪んだ。以外と涙もろいのかもしれない。
 そして感極 まったようにだっ、とハナコの元へ戻って来ると、その身体をがば、と抱きしめた。
 「…!?」
 「…会えるよ、ハナさん。きっとまた会え る!」
 いきなり抱きしめられて目を白黒させているハナコを開放し、『香』がにか、と笑う。
 「ボクは…ボクたちは待ってる!」
 もう涙はな い。
 窓に駆け寄り、そしてもう一度振り向くと、

 「…未来で!」

 『香』の体が窓を蹴って飛ぶ。
 外で騒いでいた連中が何事か、と注目する中、 ドックの床までかなりの高さをひらりと着地。
 同時に凄まじいスピードで走り出す。
 自動で閉じた窓に駆け寄ったハナコの目に、走 る『香』の後ろ姿が移った。
 何のつもりか、クレーンやらフォークリフトやら何やら様々な機械をひょい、ひょいと触りながら走っている。
 ヤスイチ号を 取り巻いていた連中(その中には『香』に打ち倒されたあの男たちも含まれていたが)が、『香』を追跡にかかる。
 その時だ。
 『香』が触れ たクレーンが、いきなり『暴れ出した』。その長い腕をぶん、と振り回し、巨大な引っかけ爪を床にどかん、と叩き付ける。
 男たちの一団が わっ、と立ち止まった。
 その彼らに、今度は無人のフォークリフトが集団で襲いかかった。数トンの荷物を持ち上げて運ぶその腕が、人間を次々に、 軽々と持ち上げてぽいぽいと放り投げていく様はなかなか壮観だ。
 『香』が、それらの機械に魔法でも使ったかのように。
 魔法をかけられ た機械たちが、まるで『香』を守るように共闘し、追跡者たちを力強く妨害する。
 『”アグネア”! 発信許可は出していない! 止まれ! 誰が動か している! 止まれ!』
 ヤスイチのコックピットに、外部からの悲鳴のような通信が届く。
 そう言われても、コクピットにいるのはハナコ だけだ。当然、うろたえるばかりで返事などできないし、ヤスイチ号を止めるなど論外である。
 「え? え? あ、あの…ごめんなさ いーっ!」
 「!?」
 若い女の声で謝られた方もさぞびっくりしたと見える。
 「”アグネア”! 中にいるのは誰だ! 船を 止めろ!」
 声が完全にでんぐり返った通信に対する答えは、ヤスイチ号自身が行った。
 ただし、相手はそれを理解できない。
 
 …No. I am not "Agnia". 

 …My name is "Safety First".

 …My friends call me "Yasuichi". 

 … I am going  …

 モニターに映る文字が、何かを噛み締めるように点滅した。

 …I'm Going to the "future"

 『香』がドックの一画の、操作室にたどり着いた。ロックなど最初からないかのようにあっさ りと扉を開き、中にいた男二人に掌底を叩き込む。制圧に数秒とかからない。
 そしてほとんど間を置かず、ドックの内部に大きな作動音が響き、正 面の巨大な扉が開き始める。
 扉の外は外は『青空』。
どっ、と外の風がなだれ込み、ドック内の固定されていない小物やらが乱舞する。
 『香』を守っ て暴れる機械たちに翻弄される男たちは、もう完全にパニック状態だ。
 操作室の窓から『香』の顔が見えた。
 にか、とあの笑顔。
 そして、握りこ ぶしにぴん、と親指を立ててみせる。
 「あ、ありがとう! あなたも元気で! きっとまた会いましょう!」
 多分聞こえは しないだろうが、ハナコは窓越しに必死で声を出す。
 そして『彼』の真似をして、握りこぶしにぴん、と親指を立ててみせる。
 それが見えた のだろう。
 『彼』の笑顔がぐっ、と大きくなった。
 ぶわ、とヤスイチ号の船体が浮き上がる。この時代の人間には決して理解できない、音も熱 もない浮遊力場。巨大な純白の船体が、滑るように扉へ向う。
 ハナコはただ呆然と、正面モニターの中でどんどん大きくなる『丸い空』を見つめている。
 そして。
 モニターの全 てが『青空』に染まった時。
 ヤスイチ号は空の中にいた。

 …Open E.N.G.Wings …mode『Cherubim』.

 直ちにエネル ギーウイング『ケルビム』を展開。
 四枚の光の翼を広げ、ヤスイチ号は空を駆ける。

 …未来へ。

 
 「ヴィフ!  俺はいい! 自分にヒールしろ!」
 クローバーの怒声が響く。
 もう一方の手首がたった今千切れ、強引に傷口 をくっつけた所だが、同時に彼らの最後も近かった。
 いかにクローバーが強者でも、武器も持たない防具もない片手で、同じく武器も防具も持たな いヴィフを庇いながら戦えるはずはない。
 それはわずかな時間を延命する効果しか、ない。
 ヴィフの背中に は、クローバーが庇いきれなかった傷が無数に穿たれている。一方、庇っているクローバーの腕も、まるですだれのように切り裂かれ、指はバラバラに折れ曲 がっている。
 ヴィフのパッシブヒールが無ければ、とっくに肘から先が無くなっていただろう。
 そのヴィフも、激しい出血と傷の痛みで意識が 薄れている。
 「ヴィフ! ヴィフ! しっかりしろ! ヒールだ!」
 「…ヒール…」
 「馬鹿っ! 俺じゃねえ! 俺はいい、お前 だ、自分にヒールしろっ!」
 「…」
 ぐら、ヴィフの身体から力が抜け、クローバーの身体にその体重が預けられる。
 死が近い。
 「献身(ディ ボーション)!」
 クローバーの身体から、奇跡の光がほとばしった。やっとスキルを絞り出した両手は、辛うじて手首でつながっているだけ。
 瀕死のヴィフ がこれから受けるダメージは全てクローバーが受ける。
 だが、これまでに受けた傷はどうしようもない。
 クローバーも満 身創痍の今、二人にこの場を切り抜ける力はもうない。
 ただ一分、一秒、自分たちの苦しみを長引かせることしかできない。
 その場にいる誰 もが、クローバーでさえそう思っていた。
 たった一分。
 たった一秒。
 しかし、彼らが命をかけて稼いだ時間は決して 無駄ではない。
 その一分。
 その一秒。
 それは無限の未来にむかって繋がる、何よりも貴重な時間だった。

 ばりばりばりばりっ!!!!

 拷問室の中に、数千枚の厚紙をまとめて破り捨てるような、もの凄い音が響いた。
 全員がぎょっと 身体を強ばらせる。
 その頭上から、ばらばらと小石やら建材の破片やらが降り注ぎ。
 そして『青空』が姿を現した。
 「…天井 が…?!」
 誰かが呆然と叫んだ。それはそうだろう。
 今まで何の異常もなく拷問室の上部を覆っていた天井が、その上の岩盤ごとそっくり消えて しまったのだ。
 まるで巨人の腕で抉り取られでもしたように。

  「せ! ん! ちょー! さ! あ! あ! あ! ん!!!!」

 その空から、 必死の涙声が響いた。
 「…ハナコちゃん…?!」
 戦士として経験豊かなクローバーも、さすがに状況が飲み込めていない。
 だが、それが この絶望的な状況を打開するカギになる、ということは、戦士としての本能で理解していた。
 「ハナコちゃん! どこだ!」
 轟!
 吹き飛んだ天 井から、空の風が吹き込む。
 その風に乗るように、純白の船体が姿を現した。拷問室の天井を岩盤ごと抉り取った、その光の翼は4枚。
 船腹にはでっ かく『安全第一』の文字。
 「アグネア!?」
 「ヤスイチ!?」
 ブロイスとクローバーが同時に叫んだ。
 「ここで すっ!! 船長さん! ヴィフさんっ! 掴まってぇ!」
 ばん、と開いたヤスイチ号の窓からハナコが首を出し、先に重りを付けた紐を投げ落とした。
 『香』がシー ツを撚って作ったあの紐に、通信席にあったレシーバーをひっぺがしてくくりつけたものだ。
 クローバーがとっさにそれを掴む。即座にヴィ フの身体に結びつけ、自分の腕にも絡めた。
 「引いて! ハナコちゃん!」
 傷のため、紐を持つ手に握力が足りない。見栄 も体裁もなく両手ですがりつき、ついでに歯で噛み付く。
 「はいっ! …ぅうりゃあああああああっっ!!!」
 ハナコが吼える のと、我に返ったブロイス達がクローバーとヴィフに襲いかかるのが同時。
 「紐を斬れ!」
 ブロイスのその指示は当然かつ的確なもの だ。
 だがわずかに遅かった。
 いや、決して遅くはなかった。ただ、ハナコの牽引力が『常識外れ』だっただけだ。
 びゅぅん!
 「ぶっ?!」
 引っ張れと指 示したクローバーでさえ一瞬、振り落とされかけるほどの加速度。大の男2人の身体が、軽々と宙を舞う。
 ブロイス達にはまるで、目の前から掻き消え たように見えたに違いない。
 逆バンジージャンプとでも言うべき、とんでもない牽引力だった。
 クローバーとヴィフの身体が勢い余ってヤスイ チ号の窓を越え、船体の上まで跳ね上がる。
 「うっわああああ!!!」
 クローバーといえども、翼もなく空中に放り出 されるなどという経験はしたことがない。
 (…落ちる落ちる落ちる…!)
 上昇する力が尽きた所でクローバーと、意識の ほとんどないヴィフの身体が落下を始める。
 このままではなす術も無く、元の拷問室の床に叩き付けられて死ぬだけだ。
 そんな間抜け な結末はまっぴら御免だった。
 「ハナコちゃん、手を!」
 夢中で叫んだ。
 「は、はいっ、 船長さんっ!」
 ハナコがさっと手を出す。この辺は素直な娘で助かったと言えるだろう。
 「献身っ!」
 空中で再び、 クローバーの身体から光の線が飛ぶ。
 目標はハナコ。
 光がハナコとクローバーをつなぎ、ハナコにかかるダメージを全てク ローバーに移す。
 がしっ、とクローバーの腕が、差し伸べられたハナコの手を掴んだ。
 落下の重力が加わり、それこそ重機でぶん殴ら れたような凄まじい衝撃がハナコの腕にかかる。
 ハナコは怪力の持ち主だが、その身体は普通の女性のものだ。クローバーの腕を掴んで止める ことはできても、代わりに彼女の腕が千切れるか、指が破壊されるだろう。
 だが、そのダメージを転化できたなら。
 「ぐうっ…!」
 クローバーの 顔が初めて苦痛に歪む。ハナコの腕にかかるはずのダメージが、まともにクローバーを襲っていた。
 両手首を千切ってまたつけるという荒行の後、 武装した敵を相手に素手で大立ち回りを演じたのだ。さすがのクローバーの耐久力も限界を超えていた。
 後は信じるのみ。
 「え、えええい いっ!」
 そのクローバーの信頼に、ハナコは見事応えてみせる。ただ無我夢中だっただけだが、それでもその怪力は確かに、2人の男の運命を変え た。
 がくん、と二人の落下が止まったとみるや、小さな窓をこじるようにして船内に引っ張り込まれる。
 ずっどおん!
 ハナコと、ク ローバーと、ヴィフの3人が、まとめて操縦室の床にひっくり返った。
 「…痛った…」
 「うお、ハナコちゃん、ケガないか、ケガ!」
 自分だって結 構な大ケガの癖に、開口一番そんなことを聞いて来るクローバーに、ハナコはふっと泣けそうになる。
 やっぱりいい人だー、と改めて思う。
 「ハナコは大 丈夫ですっ! この通りケガしてません! それよりお二人は!?」
 「おう、俺…あっしは大丈夫だがね。この若いのと来たらだらしねえ…おい、ヴィフ。いつ までもひっくり返ってんなよ」
 すぱん、と、その大きな手でヴィフの金髪頭を引っ叩いた。
 雑な扱いにもほ どがある。
 だが、効果は覿面だった。
 「…ぶっ…ひっ…ひ…どい…なあ…船長っ…ヒール!」
 ぶわっ。
 お得意の『途 切れないヒール』が起動、ヴィフの身体の傷が見る見る回復する。
 「…口ん中がジャリジャリします…」
 「血流しすぎた後、ヒールかけるとそうな る。体液が足りねーんだ。水分補給すると治るが、今はその暇無え」
 クローバーがヴィフに手を貸して立ち上がる。ついでにヴィフがクローバーにヒール。
 えらく息が 合っている。
 「…良かった…良かったです…二人とも…良かったです…」
 ハナコがそんな二人を、しゃくり上げながら抱きしめた。
 「…ハナコ ちゃん…よくやってくれた」
 クローバーがその大きな、また盛大に傷が増えた腕でハナコの頭をがしがし撫でる。
 「しかし…ヤス イチをよく動かせたな…?」
 「あ…あの…香さんが…」
 本当は違うのだが、今は詳しく説明しているヒマはない。ハナコにもそのぐらいの判断はつ く。
 「そうか…さすが『霊威伝承種(セイクレッド・レジェンド)』。…そういえば、コイツの正当な持ち主は、今や香姫様だもんな…って、姫様 は?!」
 一応納得したクローバーは、肝心の主の不在に気づく。
 「香さんは…ヤスイチを飛ばすために扉を開けてくれて…まだあそこ に」
 「…!?」
 ハナコは顔色を変えたクローバーに『香』から言われたことを必死で伝えた。
 『天津の瑞波へ 行く事』
 『光の翼の事』
 大急ぎで、しかしかなり正確に伝えたようだ。
 「…わかっ た。…ハナコちゃん、本当によくやってくれた」
 もう一度、クローバーがハナコの頭を撫でる。
 そして決然と 言った。
 「全員席につけ。天津へ向う」
 「はい、船長」
 「ええ!? でも! 香さんは…」
 即座に従ったの はヴィフ。抗議したのはハナコだ。
 「…大丈夫、ハナコちゃん。香さんは必ず助ける」
 ハナコに優し く、しかし決然と声をかけたのはヴィフだった。
 「…!」
 ハナコがヴィフを見て、一瞬息を飲む。
 クローバーと ヴィフ。
 正直、2人は顔も体つきも全く似ていないのだが、今、ハナコには2人が重なって見えた。
 2人の背中。
 それは、自分 の命が勘定に入っていない、男の背中だった。
 身体の痛みや心の悲しみより、もっと大事なもののために、それを『超える』覚悟を決めた男 の背中だった。
 この男たちは、やるつもりなのだ。
 やると決めた事のために、命なんか最初から無いものとして、戦うつもりなのだ。
 そして。
 ちかっ。
 ヤスイチ号の メインモニターが一瞬、瞬く。

 …Don't worry "Hanako"

 それはハナコにしか見えなかった。当然、見えても彼女には読めない。
 だが、ハナコ には感じる事が出来た。
 覚悟を決めた男は『2人』じゃない。
 『3人』だ。
 「…はい。ハナコは…ハナコは…皆さんを応援しますっ!」
 握りこぶしを 突き出して、指をぴんと立てる。
 親指。
 「おう、あっしらに任とけ、ハナコちゃん」
 「ハナコちゃん の応援があれば千人力だよ」
 ヴィフとクローバーが同じ様に、親指を立てる。
 「よし、行くぞ。『セロ』が出てくる前に、この場を『撤退』 する」
 「…そう言えば追ってきませんね、『セロ』」
 「追いかけたくても追いかけられないのさ」
 クローバーがに やり、と笑う。
 「ブロイスだよ。あいつは誰も信用しない。自分が乗らない『セロ』を飛ばすことは絶対にしない。あいつがドックまで走っ てセロに乗るまで、出て来ない」
 クローバーが分析してみせる。
 「成る程。じゃ『撤退』しましょう。ステルス システム起動」
 副操縦席のヴィフが、光学・音響・魔法の三大ステルス機能をオン。
 「…エネルギーウイングでの飛行は初めてだ が…早く習熟せんとな。『ケルビム』マックス。ヤスイチ号、最大戦速。目標天津」
 4枚の光翼がぶん、とはためきヤスイチ号が一気に加速。
 同時にステル スシステムが純白の船体を包み込む。
 後には青空しか残らない。


 「…無事出航…っと」
 ドックの操作室 から見送る『香』が、満足そうな笑顔を見せた。
 「…こっちもそろそろ限界か…。こんだけやっちまったら…もう二度とこっちには来られない だろうなあ…」
 少し寂しそうな独り言。
 「後は…無事ボクらを『産んでもらう』しかない…。頑張ってよ…『母さん』」
 『香』が自分 の胸に手を当てた。
 それは、時間と空間を超えた、奇跡のエールだった。
 きっ、と顔を上げ、悠々と操作室を出る。
 いつのまに か、操作室の周囲にはもの凄い数の包囲網。
 その人垣の後ろにいる一人に、『香』は真っ直ぐに声を放つ。
 「『ウロボロス 6』ことプロイス・キーンだな」
 その鮮やかな態度に目を奪われたか、ざっ、と人垣が割れる。
 『香』とブロイ スが相対した。
 「さあ、この身をウロボロスの巣へ連れて行くがいい。この身は『霊威伝承種(セイクレッド・レジェンド)』の血と霊力を 受け継ぐ最後の一人。他のウロボロスが涎を流して欲しがるモノだ」
 堂々の名乗り。
 「我は再び眠るが、この身は丁重に扱えよ。妙な傷でも付けて、他 のウロボロスにつるし上げを食らっても知らんぞ」
 にやり、と笑って、その場にどかっ、と座り込む。
 (ボクはこれで 行くけど…大丈夫。必ず『父さん』が助けてくれる…)
 その言葉を聞く者はいない。
 だが、『香』の意志とは無関係に、その右手が す、と上がると。
 ふわ、と自分の頬を包んだ。
 それが、しばしの別れの挨拶であるように。

 つづく。
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