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外伝『Tiger Lily』(1)
 『大丈夫。大丈夫よサキちゃん。きっと大丈夫』

 そう言って、いつも咲鬼の頭をなでてくれた老婆が今朝、死んだ。
 「…おばあちゃん…?」
 咲鬼が、船倉の暗闇の中で目を覚ましてみると、その老婆は咲鬼の小さな身体を優しく抱いたまま、冷たくなっていた。
 咲鬼はしかし、その事に驚かない。そういう言い方も何なのだが、もう何日も前から『覚悟』はできていた。
 だってその老婆はもう長い間、食べる事も飲む事もできず、数日前からは喋る事もできなくなっていた。昨日からはもう、目を開ける事さえなかった。
 ただ、咲鬼がその小さな身体を寄せると、まるでそれが本能ででもあるかのように、腕の中にゆっくりと抱きしめてくれる、それだけの存在になっていた。その優しい抱擁と温もりだけが、老婆の命の証であった。
 それももう、消えてしまった。
 「…おばあちゃん…」
 咲鬼の小さな呼びかけにも、応えはない。
 そうして老婆の死を確かめた咲鬼が最初にしたことは、老婆の体から衣服を剥ぎ取ることだった。
 無惨な行為だ。
 だが、老婆自身が咲鬼にそうしろ、と、強く強く言い残したことだった。
 『おばあちゃんが死んでしまったらね、私の持ち物と服を、一枚残らずサキちゃんが持って行っておくれ』
 一枚残らずだよ、きっとそうするんだよ、と、何度も何度も念を押したことだった。
 繰り返すが、無惨な行為だ。
 まして幼い咲鬼にとっては、自分がそうされるより辛い事だった。
 しかし、そうしなければ老婆の衣服は、全て船の水夫達に奪われてしまう。だから、咲鬼がその優しさから老婆の衣服を残したとしても、結果は同じ事なのだった。
 誤解のないように記すが、水夫には何の悪気もない。
 航海中の船内で死んだ人間は、その持ち物と服を全て生者に譲り、その死体は素っ裸のまま海に捨てられる、それが決まりであるだけだ。
 いかに残酷に見えようが、それが海のルールなのだ。水夫達はそのルールに自然に従っているだけであり、彼らとて死ねば同じ目に遭うのである。
 咲鬼たちが乗っているのは古い、もう大した物は運べなくなってしまった小さな貨物帆船だった。
 それが『余生』として選んだ仕事が、死んだ老婆を始め船倉を埋め尽くした、巡礼の輸送だ。
 巡礼者を聖地に運ぶ仕事は、金になる。
 巡礼者自身はほとんど金を持っていないため、その話は奇異に聴こえるかもしれないが、もちろんそれにはからくりがある。
 金を出すのは貴族、あるいは中央の金持ちだ。
 金はあるが暇がない、いや暇もあるのだが『自分自身が危険を冒して聖地に詣でる』なんて物好きなことに費やす暇はない、そういう人々。
 彼らに、こう持ちかけるのだ。
 『『代参』を募られてはいかがでしょう?』
 ここで言う『代参』とは、自分の代わりに誰かを聖地に派遣し、自分の代わりに参拝してもらうことを言う。
 『ご自身が巡礼に出られずとも、お金を出して代参の巡礼団を仕立てれば、それが貴方の功徳になります。その人数は多いほどよろしい』
 この話に乗って来る金持ちがいれば、あとは簡単だ。貧しい農村や漁村を回って、巡礼になる人間を募れば、あっという間に相当数の巡礼団ができあがる。
 本当に、人数はすぐ集まる。この巡礼募集というものが農村の人々にとって、実は『口減らし』にうってつけだからだ。
 老人と子ども。労働力にならない人間を村から合理的に『削減』する、絶好の機会だからだ。
 死んだ老婆も、そうして巡礼になった一人だった。
 フィゲル近くの貧しい村で巡礼に応募し、アルベルタで船に乗るまでの道程で咲鬼と出会い、ここまで同行してくれた老婆。
 『天津へ行きたいのかい? じゃあおばあちゃんと一緒においで。おばあちゃんも天津へ巡礼に行くんだよ。これも縁だ。大丈夫、きっと大丈夫だから』
 道ばたで、飢えと疲れと寂しさで動けなりかけていた咲鬼の手を、老婆はそう言って優しく引いてくれた。
 『おばあちゃんもねえ、一人ぼっちなんだよ』
 故郷の村が、疫病に襲われたのだという。
 夫も、息子も、嫁も、孫も、大切な家族は皆、一夏と持たずに逝ってしまったのだという。
 『おばあちゃん一人がね、生き残ってしまったのよ。…昔から、身体だけは丈夫でねえ。今となっちゃ、恨めしいばかりだけどねえ…』
 家族が皆死んでしまっては、老婆一人で畑を耕す事は不可能だ。疫病で壊滅状態の村にだって、彼女を助ける労働力は残っていない。
 身体一つで巡礼に応募し、自分の家族を始め亡くなった村人の冥福を祈ること。老婆に残された道は、もうそれしか無かったのだ。
 村を出て一ヶ月、咲鬼と出会って半月。
 アルベルタで船に乗って、また半月。
 『大丈夫、きっと大丈夫』
 だが、丈夫が自慢の老婆の身体も、そこで限界が来た。
 生まれて初めての海、生まれて初めての船。それも、古い小さな貨物船の船倉。
 『船酔い』が、老婆を襲ったのだ。
 航海初日から食べる事も飲む事もできなくなり、やがて動く事もできなくなった。まだ喋れるうちに、咲鬼に遺言するのが精一杯だった。
 『おばあちゃんは、もう駄目かもしれないけれど…大丈夫。サキちゃんは、きっと大丈夫だから』
 苦しい息の中で老婆はそう言って、自分が食べられない食事を咲鬼に食べさせた。
 咲鬼は食べた。
 泣きながら食べた。
 食べなければ、その食事はやはり誰かに奪われてしまう。
 だから食べた。
 そして今朝、とうとう老婆は死に、咲鬼は生き残ったのだ。

 (…ごめんなさい…)

 咲鬼の小さな手が、老婆の身体をのろのろと裸にしていく。
 船倉には他の巡礼達もいるのだが、咲鬼に手を貸す者はいない。少し前までは、まだ助け合う雰囲気も残っていたのだが、今はもう皆、自分が生き残るだけで必死なのだ。
 裸にする、と言っても大した作業ではない。
 唯一の夜具でもあるボロボロの外套、あちこちほつれ、破れた藍染めの着物、それに下着。
 それっきりだ。
 それっきりで、老婆の身体は裸になった。しわだらけの、垢染みた老婆の死体を、咲鬼はもう見る事ができなかった。
 老婆から剥ぎ取った着物を丁寧に畳み、自分の荷物の中に詰め込むと、ぎゅっと抱きしめて座り込む。
 水夫の、朝一の見回りが裸の老婆を見つけ、無造作に抱え上げて船倉の外へ出て行く。行き先は海。
 咲鬼は、それを見ない。
 抱えた膝に顔を埋め、目をきつく閉じ、ひたすら黙って水夫の足音が遠ざかるのを聞いていた。

 (…ごめんね…おばあちゃん…ごめんね…)

 繰り返される謝罪。だが涙はない。咲鬼は泣かない。
 だって、泣いても無駄なのだ。
 泣き声に応えてくれる人は、もういない。
 頭を撫でてくれる人はいない。涙を拭って、抱きしめてくれる人はいない。
 『大丈夫』
 そう言ってくれる人は、誰もいないのだ。

 (ごめんね…おばあちゃん…咲鬼は…おばあちゃんの名前も…知らないままだよ…)

 咲鬼という少女は、純粋な人間ではない。
 『鬼』だ。
 遥か過去にこの世界で起きた『聖戦』。その時代、人間が強力な魔物に対抗するために、別の魔物と混血して生み出された『伝承種(レジェンド)』。
 咲鬼はその末裔であり、しかも極めて貴重な『女性の鬼』だった。
 人間を遥かに越える身体能力と耐久力を持つ『鬼』は、その身体のどこかに角を持つことから『鬼』と呼ばれる。
 だがその力に比して、その血は強い劣性遺伝であり、角を持つ鬼はめったに生まれない。とりわけ『女性の鬼』は珍しく、それが生まれるのは百年に一度とも言われる。
 だが、咲鬼の貴重さはその『数の少なさ』にあるのではない。
 『女の鬼は、必ず鬼を生む』。
 それだ。
 もともと生まれにくい鬼にとって、この能力が何にも勝ることは言うまでもない。
 だからこそ、『女の鬼』の運命は必ず悲惨なものになる。
 その一生をかけて、ひたすら鬼を生み続ける。
 いや、生み続けさせられる。
 できるだけ子孫に多様な血を残すために、可能な限り多くの男の鬼と交わる。
 いや、交わらされる。
 過去に生まれた女の鬼はだから、そのほとんどが二十代になる前に発狂した。それでも、母体能力がある限り生み続けさせられた。
 五歳になった咲鬼の頭に角が見つかった時、咲鬼の運命もそうなるはずだった。
 『大丈夫。貴女はきっと助けてあげる』
 咲鬼の運命に逆らい、そう言ってくれたのは、母だった。
 母は咲鬼の角を隠し、普通の子として育ててくれた。そしていよいよ隠しきれなくなったとき、母はまだ幼い咲鬼を一人、鬼の里から逃がしてくれた。
 『お母さんの弟…お前の叔父さんの所へ逃げなさい』
 天津の瑞波へ。
 弟の『善鬼』の所へ。
 母は咲鬼を抱きしめながら言った。
 『大丈夫、弟は優しくて強い。きっと貴女を守ってくれる』
 そして咲鬼は、一人旅立った。
 会った事も、見た事もない叔父に会うために。
 鬼の掟を裏切った、一人の『はぐれ鬼』に会うために。
 
 咲鬼の乗った船が天津・石田の港へ着いた時には、船倉を埋め尽くしていた巡礼の数は半分近くにまで減っていた。劣悪な環境の中で、衰弱と病気のために命を落としたのだ。
  何せ船主にとっては、巡礼の数が減る事は大したことではない。普通の物品の売買と違い、現地で積み荷を売るワケではない。もらう金はもうもらっているから、 実質的な損はないのだ。確かに巡礼の数が減って聖地に参拝する人数も減り、その分『功徳』とやらが減る理屈だが、実はそれは何とでもなる。着いた天津で、 追加の巡礼を集めればいいのだ。
 だから咲鬼が一人、天津の港からこっそり姿を消しても誰も気がつかないし、もしついていたとしても追っ手など来なかった。
 天津・石田城下の桜園、その向こうにある危険な神社が、巡礼達の目的地。だが、咲鬼は違う。
 彼女の目的地である天津・瑞波の国は、石田の城下からさらに遠い。母が持たせてくれたなけなしの路銀だけで、何としてでもそこにたどり着かねばならない。
 港を外れ、安い食べ物を求めて露店街にたどり着いた咲鬼を、美味そうな匂いが包み込む。
 焼き物、蒸し物、様々な屋台が軒を連ねる露店街を歩くだけで、長い事ろくなものを食べていない咲鬼は目が回りそうだ。
 (…でもお金はないんだから…)
 歯を食いしばって歩く。
 その時だった。
 「おい」
 ぞっ。
 声をかけられただけで、咲鬼の全身が総毛立った。
 「待っていたぞ。…やはりここへ来たな」
 目の前に、『鬼』が立っていた。
 外見は、ごく普通の若い男だ。どこにでもある着物を着、どこにでもいるような雰囲気で露店街の真ん中に立っている。
 だが、間違いようはなかった。
 乱鬼。
 そういう名前の、鬼の里でも指折りの手練。
 鬼の里から咲鬼を追って来たのだ。いや、今の話から見ると、追って来たというよりは先回りして待ち伏せていたらしい。
 幼い咲鬼の必死の逃亡など、結局のところ筒抜けだったのだ。

 (…ごめんなさい…)

 咲鬼の心を、絶望が埋めた。

 (…ごめんなさい…お母さん…)

 涙はない。泣いても無駄だからだ。

 (…ごめんなさい…おばあちゃん…)
 
 涙の代わりに、咲鬼の表情から表情が消えた。

 (…『大丈夫』じゃ…なかったよ…お母さん…おばあちゃん…)

 泣いても頭を撫でてくれる人はいない。涙を拭ってくれる人もいない。
 全てを諦めた。いや、諦めかけていた。
 自分の運命からは、決して逃れられないのだと諦めかけていた。
 「おーい、そこのチビ遍路さん」
 そんな咲鬼の真横から、気の良さそうな声がかけられた。
 ずらりと並んだ露店街の、露店の一つ。
 「巡礼に御報謝」
 『御報謝』とは、貧しい巡礼者に物を恵む事で、恵んだ者が功徳を積むという習慣のことである。
 ぽん、と、咲鬼の鼻先に白い塊が突き出された。ほかほかと湯気を上げる、大きな白い塊。
 「『肉まん』ってんだ。初めてか? 喰ってみなよ、美味いぜ?」
 ぱか、と、咲鬼の目の前で『肉まん』が2つに割られる。
 肉汁たっぷりの具が溢れ、咲鬼の鼻と胃を刺激する。
 咲鬼はちら、と乱鬼の方を見る。
 乱鬼は無表情。だが咲鬼がもしこの露天主に助けを求めたり余計な事を喋れば、咲鬼ではなくこの露天商が殺される。
 そういう事を平気でするのが『鬼』なのだ。
 「…ありがとう」
 咲鬼は小さな声で礼を言うと、割られた肉まんを受け取り、一口食べた。
 そして微笑んだ。
 「…美味しいです」
 嘘だった。
 味など分からない。
 ただ、すべきことをしただけだった。
 「…行くぞ」
 乱鬼が低く声をかけてくる。
 咲鬼はもう、逆らう事など思いつきもせず、それに着いて行く。
 露店主の顔も見ないで、軽く頭を下げて歩き出す。
 「…よう、ちょっと待ちなよ」
 そんな咲鬼の様子をじっと見ていた露店の主が、二人を呼び止めた。
 咲鬼が驚いて振り向き、乱鬼がゆっくりと振り向く。
 「…何だ?」
 低い声で、乱鬼が露店主に相対する。
 「…いけねえなあ…。いけねえよ、あんた」
 「…何がだ?」
 乱鬼の声が、さらに低くなる。用心深い者なら、それだけで避けて通るような剣呑なオーラが漂う。
 だが、露店の主は引き下がらなかった。
 「子どもにさ、そんな顔させちゃいけねえ」
 咲鬼は初めて、その露店主の顔を見た。
 若い。まだ20代になったばかりだろう。決して整った美男子ではないが、強さと愛嬌が同居した、なかなか印象的な容貌だ。そこそこ長身の身体は引き締まり、男として一人前になろうとする寸前、という雰囲気。
 「他所じゃどうか知らないが、天津じゃ子どもにこんな顔させるヤツは、大人とは呼ばねえんだぜ?」
 頭に巻いた頭巾、というかバンダナをぐい、と取ると、緑がかった黒髪がばさっと揺れる。
 「泣く事さえ諦めちまった、こんな顔をさ」
 「…」
 乱鬼の目から表情が消えた。露店主が、ただ言いがかりをつけているだけと判断したのだ。
 (…だめ…!)
 咲鬼の背中にイヤな汗が流れた。相手が誰でも、ここが人ごみでも、乱鬼はこの人を殺す。それどころか、貴重な女鬼である自分を連れ去るためには、この露店街の全員を皆殺しにすることさえ躊躇しないだろう。
 そして、鬼である彼を止めることが出来る人間は、まず存在しない。
 「アンタがこの娘の何かは知らないけどさ、こんな顔させてるようじゃお里が…!」
 ごっ!
 若い露店主は、言葉を最後まで言う事ができなかった。
 横殴りの裏拳。乱鬼のそれが、露店主を襲ったのだ。
 予告無しの攻撃に、露店主の身体が真横に吹っ飛ぶ。露店街の人ごみを巻き込みながら、地面にたたき付けられる。
 (…!)
 咲鬼は、露店主が死んだと思った。だが…。
 「…やりやがったなこの野郎!」
 がば、と、吹っ飛ばされた露店主が起き上がったとみるや、低い体勢から身体ごと、乱鬼の足に思い切り体当たりを敢行した。
 「…むっ!」
 意外な反撃だった。乱鬼でさえ、その反撃を躱しきれなかった。乱鬼の一撃を曲げた腕でブロックし、その上に自分から横に跳んで衝撃を殺したらしいのだが、それにしても大した根性だった。
 「こん畜生が!」
 乱鬼の足に両腕でしがみついた露店主が、乱鬼を倒そうともがく。だが、乱鬼は倒れない。そこは鬼の怪力だ。
 一方で乱鬼の方も、露店主をなかなか振り切れない。乱鬼の動きにしぶとく食らいつき、倒せないまでもその動きを上手く封じている。
 さっき乱鬼の一撃を殺した体捌きといい、決して達人と言うワケではないにせよ、かなり『修羅場慣れ』しているらしい。何よりも、その思い切りの良さと捨て身っぷりが、いっそ下手な武芸者よりも厄介だ。
 「…ちっ」
 乱鬼が、露店主を振り切るのを諦めた。諦めたと言っても、それは露店主の安全を意味しない。
 振り切るより、いっそ殺そうと決めたからだ。
 ぐっ、と乱鬼の拳が固められる。
 (!)
 鬼の里で育った咲鬼は、その拳の威力を良く知っている。下手なハンマーそこのけの頑丈さと破壊力を持つ鬼の拳だ。振り下ろされれば、人間の頭などそれこそ熟した果実のように潰されてしまう。
 「…だめ…っ!」
 気がつけば、咲鬼は自分の身体を露店主の上に投げ出していた。
 鬼の拳が止まる。そのまま振り下ろせば、大事な咲鬼の身体を傷つけてしまう。
 「…お願い! この人を殺さないで! 行きますから! 咲鬼は貴方と行きますから!」
 「ふ…ざけんなっ!」
 咲鬼の必死の懇願に、しかし激しく反応したのは庇われた露店主の方だった。
 乱鬼の足にしがみついていた腕を放すや、がっ、と咲鬼の身体を抱きしめてごろん、と地面を転がる。スマートなやり方でなくとも、そういう泥臭い動作の一つ一つがやけに確実で、妙に頼もしい。
 「チビは黙ってろい! 今は大人の時間なんだよ!」
 馬鹿な、と咲鬼は思う。
 何を言っているのか、この若者は。
 明らかに死地にいるのに、それこそ袖が触れ合っただけの自分のために、命が危ないのに。
 長生きできないタイプ、というのが本当にいるなら、こういう若者の事を言うに違いない。
 だが、咲鬼は後に知ることになる。
 『長生きできないタイプが、必ずしも短命とは限らない』。そのことを。
 今度こそ、無慈悲な鬼の拳が若い露天商の顔面を襲う。確実に命を奪うための、撃ち抜く拳。
 「!」
 だが、その拳は逸れた。いや逸らされた。
 (…針…?)
 咲鬼の目にはそう見えた。
 さっきまで露店主が『肉まん』とやらを売っていた露店から、何かが電光のように滑り出て、乱鬼を横合いから襲ったのだ。
 針。
 そう見えたのはその『何か』が小さく、細い女性だったからか。
 あるいはその武器が、細く尖らせた掌だったからか。
 または、その冷たいとさえ見える美貌と、無感情な瞳がそう思わせたからか。
 例え鬼の身体でも、まともに喰らえば間違いなく致命傷になる『針掌』の一撃。それを躱すために、鬼の拳は逸れた。
 さらに、針が奔る。
 目、喉、心臓、みぞおち、脇腹、下腹部。確実に致命傷を与えるために、問答無用の急所だけを躊躇無く狙う。女性らしい優しさやたおやかさとは無縁の、無慈悲にして無感動な、機械のような攻撃。その正確さと強力なバネは、人間技の域を超えていた。
 さしもの乱鬼が下がる。だが下がると言っても逃走ではない。反撃体勢を整えるための一時的な退却にすぎない。事実、針の攻撃は一度も乱鬼の身体を捕らえていないのだ。
 「…ふっ!」
 鬼の拳が振るわれる。
 ぎん! という金属音にも似た風切りの音。針の女性は辛うじて躱したが、闇色の美しい黒髪が数本、引きちぎれて宙を舞う。
 ぎんぎんぎん!
 乱鬼の反撃が連撃となって女に襲いかかる。女はすべて躱した、が、さすがに反撃の隙はない。
 「…」
 今度は女がわずかに下がる。
 それを好機、と見たのだろう。女を一気に圧倒するために前進しようとした乱鬼の体勢が、しかしがくん、と突然乱れた。続いて脚に鋭い痛み。
 露店主だ。
 乱鬼の油断だった。女に気を取られている隙に、露店主が再び乱鬼の脚にしがみついたのだ。そして今度はしがみつくだけでなく、乱鬼の膝の裏に噛み付いたのだ。
 そこには、急所となる腱がある。露店主は躊躇無く、その腱を噛み切っていた。
 「ぐっ!」
 ぶん、と鬼の拳を振るい、下半身の敵を叩き潰そうとする。だが、先手を取った露店主の方がしぶとかった。しがみついた腕をさっさと離すと、またごろんと転がって拳の射程外に逃げてしまう。
 「ざまーみろい!」
 捨て台詞も小面憎い。が、乱鬼は追撃できない。女の針が、再び乱鬼を襲う。露店主と女、なかなか見事な連携だった。
 いかに乱鬼といえども、膝裏の腱を噛み切られてなお、女の針掌を躱して反撃することは不可能だ。
 「…くそっ!」
 周囲にかなりの人だかりが出来ている。人の多い露店街でこれだけの騒ぎを演じたのだから当然だった。
 鬼の決断は早い。
 だんっ!
 残った片足で思い切り地面を蹴ると、一飛びで人垣を飛び越え、露店街から姿を消す。いずれ人間業ではない、モンスター級の身体能力に人垣がどよめく。
 すっ、と『針の女』が追おうとするが、
 「追うな、香!」
 ぴた。
 露店主の制止の声で、見事なぐらいあっさりと追跡をやめた。
 「ありゃマトモじゃねえ。下手に追いかけたらお前も危ねえよ」
 香、と呼んだ女の身を案じての制止だったようだが、そもそもそのマトモじゃねえ鬼相手に無茶苦茶な喧嘩をふっかけたのは彼の方だ。
 「…」
 気のせいか、無表情な女性の顔にも少々、うんざりした色がないでもない。
 「…お、チビすけ大丈夫か? ケガないか? すまねーなあ、妙な事になっちまってさ」
 露店主が、地面にへたり込んでいた咲鬼を抱え起こし、ぽんぽんと身体のほこりをはたいてくれる。が、彼の方こそ泥まみれで、あちこち出血やら打ち身の痣やらを飾っている。ひょっとしたら骨にヒビぐらい入っていてもおかしくない。
 「…だ、大丈夫です…。ありがとうございます! そ、それじゃっ!」
 咲鬼はその場を逃げるように駆け出そうとした。これ以上、彼らの迷惑にはなれない。さっきは確かに助かったが、あれで諦めるような鬼達ではない。おそらくは複数の鬼がこの国に入っているはずで、下手をするとその全員が今度こそ、咲鬼を捕まえるために襲って来る。
 この若い露店主はたしかにしぶとく、香という女性も異能の持ち主だ。だが、複数の鬼の前ではそんなもの、何の障害にもなりはしない。まさに鎧袖一触だろう。
 (…行かなきゃ!)
 礼儀を欠くことは承知で、しかし駆け出そうとする咲鬼の手を、だが露店主がしっかりと掴んだ。
 「おっと、行かせねーよ。チビさん」
 「!」
 「言ったろう? 子どもにそんな顔させるヤツは、一人前の大人じゃねえんだ」
 露店主がにか、っと笑う。
 「…でも…!」
 「ちょっと痛い目見たからって、出した手をあっさり引っ込めるようなヤツも、な」
 ぽん。
 露店主の逞しい手が、咲鬼の頭に乗せられた。
 「大丈夫、心配すんな」
 ぐりぐり、と頭を撫でられた。
 「『あんなの』よりもっと強くて優しいのが、この天津にゃごまんといるんだ。だから…」
 露店主はもう一度、にかっと笑う。
 「子どものくせに諦めてんじゃねえよ。大丈夫。大丈夫だ」
 自分だっていい加減ボロボロのくせに、やけに自信満々なのが不思議でたまらない。
 だが。
 
 (…大丈夫…)

 その言葉。

 (…大丈夫)

 信じたい。

 (…大丈夫…)

 その言葉を、信じたい。
 母から、老婆から、咲鬼がもらった言葉。
 それはただの言葉で、何の根拠も、まして力もありはしない。でも幼い咲鬼には、その言葉を信じて夢中で走る、それしかできなかった。
 だけど咲鬼には、その言葉がか細い、本当に細い糸となって咲鬼をここまで導いてくれた、そんな気がするのだ。
 そして今、目の前の若者から受け取った同じ言葉。
 
「俺は『無代』ってんだ。こいつは『香』。天津の、瑞波の国の住人だよ。大丈夫、信用してくれ」

 瑞波。
 それは咲鬼が向うべき場所だ。
 繋がるのだろうか。
 細い糸は、繋がるのだろうか。

 信じれば、繋がるのだろうか。

 「…あの…無代…さん」
 「ん?」
 絶望に塗りつぶされようとした心の底に、わずかに残った希望を、咲鬼は勇気に変えた。
 「瑞波の国の…『善鬼』という人を…ご存知ありませんかっ…!?」
中の人 | 外伝『Tiger Lily』 | 07:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝『Tiger Lily』(2)
  鬼の里を逃げ出した咲鬼が、必ず天津・瑞波へ向うと予測し、石田の港で待ち伏せていた『鬼』は案の定、乱鬼一人ではなかった。 複数だ。
 その一団のリーダーは『逆鬼』といい、経験と鍛錬を積み重ねた、鬼の里の幹部の一人である。
  乱鬼が咲鬼を発見・確保しようとするのを、無代と香によって阻まれた時、リーダーの逆鬼は露店街の外にいた。知らせを受けた彼が知らぬ顔で現場に急行して みると、咲鬼、無代、そして香(逆鬼は無代、香の名前も素性も知らず、ただ若い夫婦者と見た)の三人が丁度、露店の店じまいの最中だった。
 香が、通りがかりの若いアコライトにいくばくかの小銭を渡し、傷ついた無代の治療を依頼する。露店街にはこうした、修行のために仕事を求める冒険者が数多くおり、安価でそのスキルを用立ててくれる。
 無代がヒールの光に癒されている間に、香がてきぱきと肉まんの露店を片付け、荷物をあっという間にカート一つにまとめる。周囲の人々には、小柄で痩せぎすながらよく働く娘、とでも映るだろう。香には、顔面の筋肉を操作して容貌を変える技術もあるが、今は使っていない。
 が、もし万一香の顔を知っている者がこの様を見たとしても、まさかそれが『瑞波国の姫君』とは思いもしまい。
 逆鬼も当然、そんな事は考えつきもしない。
 無代へのヒールを終えたアコライトが、今度はワープポータルを使う。これも料金の内、なのだろう。カートを引いた無代と香、そして咲鬼の三人がたちまち、転送の輪の中に消えた。
 「…」
 それを見届けた逆鬼は、また何気ない風を装ってアコライトに近づき、
 「すんでのところでツレの三人組と入れ違ってしまってね。彼らはどこへ行ったのかな?」
 言いながら、アコライトの手に金を握らせる。香が先ほど払った金の、およそ数倍。
 『瑞波の首都、瑞花の街』
 それだけ聞き出すと、逆鬼は短く礼を言って露店街から出た。早足で街を突っ切り、港に近い、とうに潰れた茶屋の一つに入る。
 扉を一歩入るや否や、薄暗い店内にざっ、と人影が満ちた。どこからか集まった、配下の鬼達だ。
 「瑞波」
 「町外れの料理屋・泉屋の店主で『無代』」
 短い時間で集められた情報が、これまた短い時間でやりとりされる。
 「…行くぞ」
 逆鬼が低く、短く告げる。返事はない。
 ただ、灯りもない店の暗がりの中、無言で立ち上がった男達のシルエット。
 『鬼』
 その数、三十。
 一夜とかからず、瑞花の街を廃墟にできる。


 瑞花の街に到着した無代と香が、咲鬼を案内してくれたのは、街の中心部から少しはずれた場所にある、一軒の小さな料理屋だった。
 看板は『泉屋』。
 「俺の店なんだ。おーい、戻ったぜー」
 無代はちょっと自慢そうに言いながら、店の暖簾をくぐる。
 「親方、お疲れー」
 「おかえりなせー親方ー」
 夕方からの開店準備中だったらしい、店の中やら厨房やらから、店員達が次々に顔を覗かせて無代を出迎える。男女とも若い連中が多いが、中には明らかに無代よりも歳上の者もいた。
 「親方…ってその娘さんは?」
 「おう、この子はな…」
 無代が説明しようとする前に、
 「親方…まさか『隠し子』!」
 「何いっ!」
 「…いつかやると思っていた! 予測はできていた!」
 「ようじょ…ようじょ!?」
 「つまりオレの嫁という事だな?」
 「いやいやオレの嫁だろ?」
 あっという間に人だかりができる。
 「うるせーお前ら! まず人の話を聞かんかー!」
 無代がキレるが、店員達は知らん顔だ。
 「だが待ってほしい。私の『妹』という可能性もあるのではないか」
 「既に『お姉様』と呼ばせることが決定しているアタシに隙はなかった」
 「ちょっと誓いのロザリオ買って来る!」
 女店員といえども容赦がない。無代がいくら言っても止まらない。
 「…こほん」
 ぴた。
 その騒動を、咳払い一つで見事に治めたのは、香である。
 「…失礼しました〜」
 「さー仕事仕事っと」
 「お嬢ちゃん、ごゆっくりねー」
 店員達が一斉に、潮が引くように持ち場に帰って行く。この現金さには、無代も怒るより苦笑。ちなみに店員は皆、香の素性を薄々知っているのだが、この怖れられ方はただ香の身分によるものだけではない。
 怒らせてはいけない人間が誰であるかぐらい、彼らにだってわかるのだ。
 「すまねーなーもう、うるさくってさ。さ、座った座った。今、温ったかい物持って来るからな」
 成り行きに呆然としている咲鬼を、無代は奥まった席に座らせる。
 本当にすぐ、ほかほかと湯気の立った食事が運ばれて来た。鬼の里にいた頃でさえ、見た事もないような献立だ。
 「さあ喰え。残しやがったら承知しねえぞ?」
 咲鬼の正面にどかっ、と座った無代が笑顔で勧めて来る。
 咲鬼にだって『見ず知らずの人についていって、食事を食べさせてもらう』事の意味ぐらい分かるし、例えばこの食事に何か余計なモノが入っていて、気がつけばどこかに人身売買、となる可能性がないわけではない。
 しかし咲鬼はもう、目の前の若者をとことん信用するつもりだった。
 咲鬼から見てさえ『大丈夫なのかこの人』と思ってしまうぐらい、無茶で無鉄砲な若者。咲鬼と出会ってからでさえ、二三度死んでいても不思議ではない。
 よく見れば、顔だの手だの肌の見える所は至る所傷だらけだし、首に至っては『一度千切れたような』痕まである。この調子じゃ、見えない所はもっと凄いはずだ。恐らく、これまでもあんな無茶苦茶な事を繰り返しながら生きて来たのだろう。
 そして自分の方が痛いはずなのに、何よりもまず先に、誰かの頭を撫でるのだ。
 そして『大丈夫』と言うのだ。
 だからもう、咲鬼はこの無代と言う若者を信じる事に決めていた。
 「い…いただきますっ!」
 店の奥の店員達にも聞こえるように、思い切り大きな声を出して、箸を握って食べ始める。
 「美味いだろ?」
 無代が聞いて来る。
 「はい! 美味しいですっ!」
 皆に聞こえるように。
 大きな声で、笑顔で。
 「すごく美味しいです!」
 だってそうしないと。
 泣いてしまいそうだから。
 本当に暖かくて、美味しくて、嬉しくて、だから泣いてしまいそうだ。
 時々、店の奥から代わる代わる店員達が顔を覗かせて、咲鬼の様子をうかがって行く。それに、笑顔で応える。 
「…」
 だが、なぜか正面に座った無代は、少し不満そうな顔をしていた。なぜそんな顔をするのか、咲鬼には理解できない。
 (…嬉しがり方が足りないのかな…)
 そう思うのだが、これ以上はしゃいで見せるのも何だかわざとらしい。
 「…お代わり?」
 「は、はい! いただきますっ!」
 無代に茶碗を差し出すと、また大盛りの飯とおかずが運ばれる。
 ちょっと苦しくなるほど食べて、飛び切り大きな声でごちそうさまを言った。 
 「…ん。お粗末」
 言われた無代は相変わらず、何だか不満そうな顔。
 「…あの…無代さん…?」
 恐る恐る声をかけてみる。
 「…あー、お前さ」
 無代が咲鬼の目をじっと見て、何か言おうとした時だった。
 「おう、邪魔するぜ」
 びん、と低く声を響かせて、一人の男が泉屋の店の暖簾をくぐるのが見えた。
 くだけた着流しに編み笠。腰には脇差し代わりの短棍が一本、無造作にぶち込まれている。ということは刃物の持てない、モンク系の武人だろう。
 背丈はそれほどでもない。が、幅と厚みが半端ではない。その上に、何と言うかその全身からほとばしる精気、存在感のオーラといったモノがただ事ではない。
 「いらっしゃいませ」
 無代が立ち上がり、素早く応対に出る。
 「わざわざのお越し、恐縮に存じます」
 「なに、構わねえ。…嫁も一緒だ」
 編み笠の男が顎で後ろを指すと、そこにすらりと長身の、やはり傘を被った女性のシルエット。手に何やら荷物を抱えて、無代に軽くうなずいてみせる。。
 「奥の部屋、構わねえな?」
 「ご案内致します。…おし、今日はこの店、貸し切りだ! 暖簾降ろしとけ! チビ助、お前は後からおいで」
 無代が、客の傘と荷物を受け取りながら、一息に三つの声を出す。
 前半は丁寧に、目の前の武人とその後ろに控えた夫人に。
 真ん中は大きくはっきりと、店の店員に。
 そして最後に優しい声で、咲鬼に。
 そのどれも、別に『作った声色』ではない。自然に、出すべき相手に出すべき声と表情がある。
 咲鬼は、二人の客を案内して行く無代の姿を見送りながら、不思議そうな顔をしていた。
 だって咲鬼は今まで、あんな『豊かな表情と声』を持つ人に、会った事がなかったのだから。

 しばしの後、咲鬼は店員の一人に連れられ、店の奥の部屋に案内された。ふすまの向こうに声をかけると無代の返事があり、す、とふすまが開く。
 恐る恐る入った。
 床の間の前の上座に男。その隣に女。さらにその隣に、香と呼ばれたあの若い女性。そして入り口の脇に、無代が正座で控えていた。
 「そこへ座んな」
 無代に促されるままぎこちなく一礼し、男と女の前に正座する。
 「…お館様、奥方様。これが『咲鬼』です」
 無代が、上座の男女に咲鬼を紹介してくれる。
 「おう。…おめえさんが、善鬼の姪っ子かい?」
 「…は、はい」
 上座の男が、優しい声で話しかけてくれる。赤みがかった髪を無造作に整えただけの、厳つく威圧的な容貌。だが、こういう優しい顔をすると別な意味で、実に魅力的だ。
 「俺は『一条鉄』、これは嫁の『巴』だ」
 「…この瑞波の国のお殿様と、お妃様だよ」
 男の名乗りに、無代が註釈してくれる。が、咲鬼はきょとんとするしかない。
 「…?…??」
 「ま、信じられんのも無理はねえがなあ」
 上座の男、鉄が苦笑する。
 「おめえさんの叔父貴、善鬼の野郎は今、ウチの家来なんだがよ。ちょっと他所の国へヤボ用で出かけてて、すぐに帰れねえんだ。で、代わりで済まねえんだが、俺たちが来たってわけさ。そこの無代の知らせでな」
 『代わりで済まない』も何も、もしその話が本当ならば、目の前にいるこの男は『国家元首』で、隣の女性は『ファーストレディー』ではないか。それが咲鬼一人を出迎えるために自ら足を運ぶなど、いくら咲鬼が幼く世間知らずと言っても、にわかに信じられる話ではない。
 「…そうですね。どうしたら信じてもらえるかしら…?」
 上座の女、巴が微笑しながら首を傾げる。元々天津人ではないらしく、艶やかな金髪に鋭い美貌の持ち主。だが、その物腰には年齢相応の落ち着きと余裕がある。
 「ま、とりあえずアレだ。おめえさんたち『鬼』の事はよく知ってる。何せ善鬼の野郎が『はぐれ鬼』になった時、護ってたのが俺の前の嫁だからなあ…」
 「…あ」
 咲鬼が驚いた顔をする。その話は、咲鬼も母から聞いていたからだ。叔父であり、鬼の里でも最強と謳われた手練でもあった善鬼が、里の掟を破ったまま戻らなかった、遠い昔の話。
 「…まあ、こう言っちゃ何だが、善鬼のヤツは俺の元嫁に惚れててな。だがそれを護れなかった事を悔いて…その『娘達』を護ろうと、鬼の掟に背いて俺についてきてくれたのよ。その娘の一人が、そこの香さ。三姉妹の、真ん中だ」
 話を振られても、香は特に反応を返さない。冷たい美貌には表情がなく、咲鬼にも興味なさげ。
 「だからまあ、おめえさんの事情も大体分かる。…『女の鬼』なんだろ、おめえ? …だから一人で逃げて来た、だな?」
 「…」
 それは咲鬼にとって隠すべき事なのだが、もう隠しても無意味なようだった。
 それに、信じると決めたのだ。
 咲鬼は懐に大事に仕舞ってあった、母からの手紙を取り出した。す、と無代が寄って来る。
 「…いいのか?」
 「はい」
 咲鬼は無代の目を見て、はっきりと答えた。
 「母が、叔父に見せるようにと持たせてくれた手紙です」
 無代はしっかりとうなずき、それを受け取るとそのまま、両手で鉄に手渡す。
 「…読ましてもらうぜ」
 片手でそれを受け取った鉄は丁寧にその手紙を開くと、ぱらり、と広げて文面に目を走らせる。
 読み終えると、そのまま隣の巴に渡す。
 手紙は巴が読み、また丁寧に畳まれると、無代を介して咲鬼に返された。
 「…先に訊いとくがよ。おめえこの手紙、読んだかい?」
 鉄が咲鬼に訊ねる。
 咲鬼は首を振った。
 「いいえ。母が、お前は読んではいけないと」
 「…そうかい」
 鉄は一瞬だけ目をつぶると、かっ、とその目を開いた。
 「よっしゃ、分かった! 咲鬼って言ったな。よくまあ、たった一人でここまで来たぜ。辛かったろうが…もう心配いらねえ。善鬼の野郎は俺の息子も同じ男、その姪っ子ってんなら…何だ? ま、要するに『身内』ってことよ」
 がさっ、と上座を立った鉄が、どかどかと咲鬼の側に来て膝をつくと、わしっ、とその頭を掴んだ。
 「大丈夫だぜ。後は俺たちに任せな」
 ぐりぐり、と撫でられた。荒っぽいが、決して粗雑ではない。
 「何が来ようが絶対ぇ守ってやらあな。…やい無代、てめえ、ちゃんと『釣って』来たんだろうな?」
 「抜かりはございません」
 無代は即答。
 「この娘を連れ去ろうとしたヤツ、絶対追って来ると思いましたんで。露店から転送で跳んだ後、すぐに香に顔を変えて跳び戻らせて、様子を見させてました。そしたら、俺たちを送ってくれたアコライトに、直後に行き先を訊いてったヤツがいた」
 逆鬼である。それを香がさらに追跡し、鬼の溜まり場となった廃墟の茶店まできっちりと確認している。
 「来ますよ。今夜にも」
 「よっしゃ、おめえにしちゃ上出来だ。流のヤツは呼んであるな」
 「すぐ参上します、と」
 「さあさあ、そうと決まればまずお風呂ですよ」
 小難しい顔になった男どもを尻目に、巴がぽんぽんと手を打った。
 「女の子はいつでも奇麗にしておかないと。…無代さん、お風呂お借りできますね?」
 「沸いております。ウチの女衆に入れさせましょ…」
 「私が入れます」
 どん、と巴が宣言する。
 「は?」
 「女の子をお風呂に入れるの、夢だったのよ。流は男の子だし、静さんは私と一緒は嫌がったし…」
 「はあ…」
 無代が困った顔をするが、巴は構わず、
 「さあ咲鬼さん、お風呂お風呂。着物も奇麗なものに替えましょうね。うちの姫達の、昔の着物を持ってきたのよ」
 「あの荷物はそれですか」
 無代が苦笑する。
 「ま、その着物も、荷物の方も、もう役目は終えてる感じだしな。新しくしていただくか?」
 「…はい」
 「ん?」
 咲鬼の一瞬の迷いを、しかし無代は見逃さなかった。
 「どした? 言ってみな? 遠慮はいらねえ」
 「…」
 ぐっ、と一瞬つまったが、咲鬼は勇気を振り絞る。
 咲鬼の、わずかな荷物と一緒に持って来た着物。確かに汚い。確かに古い。確かに傷んでいる。
 でもそれは、あの老婆のものだ。
 あの老婆の、命と一緒に託されたものだ。
 だから咲鬼は無代や、この国のお殿様や、そのお妃様や、そのお姫様を前に、その話をした。
 こんな汚いモノを大事にしても、と馬鹿にされてもよかった。
 洗ったところで傷みすぎていて着る事も出来ない、無駄だ、と迷惑がられてもよかった。
 それでも、あの老婆の気持ちを裏切るよりましだった。分かってもらえないと覚悟で、懸命に、あの老婆との旅の話をした。
 「…だから…それを捨てないで下さい。自分で…自分で洗いますから。ご迷惑をおかけしませんから!」
 「…」
 咲鬼がそう言って頭を下げ、小さな頭を畳にこすりつけると、部屋の中に沈黙が落ちた。
 と、思ったらすん、と鼻をすすり上げる音がした。
 咲鬼がびっくりして顔を上げると、鉄が涙ぐんでいた。
 「…いい話だなぁおい…」
 「…よく話してくれました、咲鬼さん」
 国家元首とファーストレディーが、それぞれに感銘を受けた顔で咲鬼を見ていた。
 「それは捨てるなどとんでもないわ。…そのお着物、見せて頂けるかしら?」
 巴が優しく微笑むと、咲鬼からその着物を受け取った。
 木綿の、素朴な藍染め。汚れと傷みで、もう元の柄も良くわからないが、どうやら花の柄であるらしい。
 それは、老婆の嫁入り道具だったのだという。
 長い年月の間に傷み、もう着なくなっていたのだが、家族を襲った疫病の薬を買うために何もかも売り払い、残ったのがこれだけだったのだという。
 粗末でも汚れていても傷んでいても、それは一人の人間が生きた証だった。
 「まず、洗いましょう」
 巴が着物をひらり、と広げると、そのままふわり、と宙へ投げた。
 「?」
 咲鬼が不思議そうにそれを見上げた次の瞬間、
 「ファイアーボルト」
 巴の口から、魔法の呪文が紡ぎ出された。咲鬼も知る、全てを灼き尽くす炎の魔法。
 「?!」
 部屋の中が一瞬、真っ白に染まるほどの閃光。
 咲鬼の『鬼の目』だけが、宙に投げられた老婆の着物に、無数の炎の矢が襲いかかるのを捉えた。
 (…着物が…燃えてしまう!)
 だが少女があっ、と腰を浮かした時にはもう、全ては終わっていた。
 ふわり。
 老婆の着物が咲鬼の目の前に落ちて来て、畳の上に広がった。
 無傷。
 焦げ跡一つない。いや、それどころか…。
 「おお…見事なもんだなおい」
 鉄が感嘆する通り、着物は見事に蘇っていた。破れ・ほつれはそのままだが、長年の汚れが奇麗さっぱり消え去り、見えなくなっていた藍染めの柄が鮮やかに浮き上がる。
 『当代随一のボルト使い』と謳われた一条家の奥方・巴の神技。
 『灼雨』
 威力を極小に絞り込んだ炎のボルトを数万発、同時に射出して敵を釘付けにする離れ業を、『洗濯』に使うと言う発想は主婦ゆえか。精密にコントロールされた極微の炎が、老婆の着物に染み付いた汚れだけを焼き切り、浄化した、と言われて理解できる人間がどれだけいるか。
 だが当の巴には、その程度の芸は何ほどのこともないのだろう。
 「…百合…ですね」
 こちらも広げられた着物の柄を、感嘆の目で眺めている。
 藍色の地に、白く染め抜かれた百合の花。
 田舎の職人の素朴な手で、しかし力強く染められた大輪の百合が今、咲鬼の目に命を訴えかける。
 (…おばあちゃん…!)
 ぐっ。
 泣くまい、とこらえる。
 「…香さん」
 巴が、隣に座った香に声をかけた。
 「はい」
 それまで人形のように座っていた香が初めて、義母の声に応える。
 「このお着物、直せますね? 貴女なら」
 「…」
 言われた香はまず巴を見、次に畳の上の着物をじっと見た後、最後に咲鬼の後ろにいる無代を見た。
 咲鬼からは見えない角度で、無代がぶんぶんぶんぶん、と頭を縦にうなずかせる。
 『直してやれー!』
 という意思表示だ。
 「…はい。お義母様」
 「ありがとう、香さん。では早速お願いします」
 香の表情からは何の熱意も感じられないが、やると決めた以上、ぐずぐずしないのが香だ。袖口から二本の長い針を取り出し(後で咲鬼が知った事だが、それは香の隠し武器の一つだった)、両手につまむと着物の側にうずくまる。
 一つ目、袖口の大きな破れをじっと見ていた香の手が、いきなり動いた。
 二本の針が凄い勢いで、しかし恐ろしいまでに正確に動き、破れ千切れた着物の糸をほどき、新たに撚り合わせ、そして織り直して行く。
  布の破れ口に新たな布を織り込む『かけはぎ』という修復法が存在するが、香のそれはレベルが違う。足りない糸の繊維を一本ずつ、他の場所から引き抜いてき て、新たな糸を再生するのだが、その時、藍染めの柄がきちんと再生されるように、繊維の位置をひとつずつ計算している。
 確かに理論上はやってやれないことはないのだろうが、問題はそのスピードである。人間業とは思えないほどに速い。
 香が瞬きもせずに針を奔らせる所、あっというまに傷はふさがり、ほつれは直り、百合の花が咲き誇る。
 それはもう『修復』というよりは『再生』に近い。
 「さ、ここは香さんに任せて、咲鬼さんはお風呂ね?」
 今度こそ巴が立ち上がり、有無を言わせず咲鬼を風呂へ拉致したのだった。
 
 「おおお、奇麗になったじゃねえか!」
 『泉屋』の広い風呂で、襷がけに腕まくり・鉢巻姿の巴に徹底的に洗われた咲鬼が巴と共に元の部屋に戻ると、鉄の大声が出迎えてくれた。香の姿が消えていたが、どうやら修復に集中するために別の部屋に移ったらしい。
 代わりに新たな男がいて、鉄、無代と何やら相談中である。
 「おっと、こいつが俺の義息子でな、『流』ってんだ」
 「あ…咲鬼と申しますっ!」
 咲鬼が慌てて正座し、頭を下げる。
 「一条流だ。よろしく頼む」
 重く応えた男はまだ若い。無代と同年代だろう。
 が、年齢より何より、とにかく『大きい』。
 背が飛び抜けて高いのに加え、腕も、胴体も、足も、首も、太い。といっても太っているのではなく、鍛えているのだ。
 顔立ちは整っており美男子と言えるが、この大きさと逞しさが加わると単なるハンサムの範疇を超えてしまう。恐ろしいほどの『漢っぷり』だった。
 「その着物…『静』のお下がりですか、母上」
 「そうよ。ちょうどぴったりだったわ」
 巴が自慢げに、後ろから咲鬼の両肩を掴む。男どもに見せつけよう、という格好だ。
 「…よく似合う」
 ふ、と表情を緩めた流が手を伸ばし、その大きな手でぽんぽん、と頭を軽く叩いた。
 見かけとは異なり、この若者も無代や鉄と同じ魂を持っていることを、咲鬼は敏感に感じていた。
 「んじゃ、そういう手はずでいいな、流?」
 「承知しました義父上。…しかし、繰り返しになりますが義父上御自らお出になる必要は…」
 「これはウチの身内の問題だ」
 鉄が、流の抗議をぴしゃりと遮る。
 「瑞波の国の問題じゃねえ。だから流よ、お前ぇも心しな。この件でケガしたり死んでいいのはウチの身内だけだ。天臨館のガキどもを訓練名目で使う事までは目つぇぶってやるが、ケガ一つでもさせたら承知しねえからな」
 「承りました。では手はず通りに。…無代、お前の店が少々、壊れるかもしれんが」
 「いいぜ」
 鉄の義息子というからにはこの流、瑞波の国の世継ぎ、つまりプリンスであるはずだが無代はタメ口。
 「石田の城下で良い物件があったからな。そこに支店出したら、どうせここは改装する予定だったんだ。少々なら壊してくれて構わんぜ」
 「で、一条家の金で改装しろ、というわけか?」
 「それはお心次第さ」
 そう言ってにやり、と笑い合う二人の若者は、どうやらかなり気心の知れた友人らしい。
 「問題ねえ。そんぐらい出してやる」
 その会話に割り込んだのは鉄だ。言うなり、懐からなにやら掴み出してぽいぽいと無代に放る。
 「おっ…とっと。こりゃ早速、ありがとう存じます」
 無代が受け取ったのは『切り餅』と呼ばれる小判の束。『狂鉄』こと一条鉄の金払いの良さは、瑞波の伝説の一つである。
 「そいつは改装とやらの手付けと、今夜の炊き出し代だ。美味いもの喰わせやがれよ」 
 「承知いたしましてございます。…よし、おいチビ助、お前も手伝え。働かざるものなんとやらだ」
 「…では義父上、私も指揮に戻ります」
 「おう。…抜かるんじゃねーぞてめえら。今夜は我が一条家挙げての…」
 鉄がにやり、と笑う。
 「『鬼退治』だ」

 真っ白な頭巾を被って、真っ白な割烹着を着て、咲鬼は『泉屋』の厨房の中をくるくると立ち働いた。
 包丁を握った無代が、時々大声で店員達を怒鳴りつけるのは、全員が咲鬼のその姿に和んで手が止まるからだ。
 「そういう親方だって和んでるくせにー」
 「自分たちにも和む権利を要求する!」
 「うっせー!」
 賑やかな中にも料理は進む。
 店員達が作る大量の握り飯や、様々な具を炊き込んだ稲荷、それに大鍋の豚汁やらうどんやらは、店の土間から直接ワープポータルでどこへやら運ばれる。
 そして無代の作る凝った料理は、奥の部屋の鉄と巴に。これは咲鬼が盆を持たされて運ばされるのだが、それが鉄と巴を多いに喜ばせたことは言うまでもない。
 その作業が一通り終わると、無代は店員のほとんどを店から帰宅させた。残ったのはわずか2人ほど。
 店の中にしん、とした緊張が満ち始めたその時だった。
  「…無代」
 姿を消していた香が、ひょっこりと厨房に顔を出した。
 「…来やがったか?」
 無代が聞き返すのへ、香がこくり、とうなずく。
 咲鬼の喉がごくり、と鳴る。
 続いて厨房に顔を覗かせたのは鉄だ。年齢を感じさせない、鍛え抜かれた身体は既にもろ肌脱ぎ。両手には使い込まれて丸く変形し、元の色が分からないほどに黒光りするナックルががっちりと嵌まっている。後ろには、肌も露な魔術師姿の巴。
 「おう無代、酒よこせ」
 「承知」
 無代が差し出す酒の徳利を受け取ると、ぐっと口に含み、
 「ふっ!」
 左拳に酒飛沫。
 続いて右。
 「うし! おう、咲鬼坊よ」
 「は、はいっ!」
 緊張する咲鬼に、鉄がにかっ、と笑いかける。
 「大丈夫、ちょっとの辛抱だからよ。…待っててくれや。な?」
 「はい…あの!」
 「ん?」
 咲鬼が精一杯の声を出す。
 「ご、御武運をお祈りしますっ!」
 「…おう! …よっしゃ巴!」
 酒の徳利をそのままぐい、と肩に担ぐと一同に背を向け、
 「…こりゃ負けらんねーぜ!」
 「はい…殿様!」
中の人 | 外伝『Tiger Lily』 | 07:02 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝『Tiger Lily』(3)
 『泉屋』襲撃決行の時刻、鬼のリーダーである逆鬼には十分な余裕があった。 なにせ成年の鬼が三十人。この人数は『火力』としても十分だがそれ以上に小回りが効き、スピード重視の動きができる。いわゆる『少数精鋭』だ。
 瑞波城下の役人どもに気づかれる前に、一気に『泉屋』とやらを襲い、咲鬼を奪う。そしてそのまま鬼の里へのワープポータルに乗ってしまうと考えれば、あと数分後には全ての『作業』が終わるだろう。
 瑞波には、鬼の里の裏切り者である『善鬼』がおり、咲鬼が彼を頼って来た事は明らかだ。だが善鬼は現在、瑞波の守護大名である一条家の筆頭御側役という地位にあり、庶民がおいそれと会える立場にはない。咲鬼が無代とやらに『自分は善鬼の知り合いだ』と話したところで、すぐに善鬼に話が通る、などということはありえない。現代で例えるなら、その辺にいる迷子の子どもがこれもその辺の店の店主に、『自分は内閣の大臣の一人と知り合いだ』と訴えたのと同じか、それ以上に厄介な事態なのだ。
 無代とやらがそれを信じたとして、根気よく瑞波の役人に話を通し、さらに運良く上に話が 通ったとしても、それが善鬼の所まで到達するのには早くても数日、そんなところだろう。
 『泉屋』についての情報も集まっている。
 瑞波城下の外 れにある『天臨館』という学校の正門近くにあり、そこの学生客を当て込んで最近開店した料理店。店主は天臨館を退学になった落ちこぼれだが、料理の腕は確からしく屋台一つから短期間でその店を持った。昼間に石田城下にいたのは、そこに支店を出す算段をつけに来ていたものらしい。
 昼時は飯、夜は 酒でなかなか繁盛しているが、今夜は貸し切りの客がおり、店に人は少ない。
 絶好の機会。乱鬼はそう捉えた。
 確かに逆鬼が得た情報に『間違い』はない。ただいくつかの情報が『欠けている』だけである。
 それも、割と重要な情報がいくつか…だが、逆鬼も誰も、その情報を集めるには時間も情報網も全く足りていなかった。このことを逆鬼の怠慢と責めるべきかは、なかなか微妙な所だろう。
 『今夜、即実行」
 ともあれ、逆鬼は決断を下した。
 三十人の『鬼』は、既に瑞花の町に入っている。
 逆鬼自身の余裕 に反して、彼の立てた作戦は入念だった。三十人をチームごとに分け、細かく役割を振った上でそれぞれのチームが時間差で行動する。
 『鬼』として各国に傭兵として雇われ、それぞれに厳しい活動に身を投じて来た逆鬼に、余裕はあっても油断はない。
 その逆鬼の放ったまず第一の、そして最大の矢が、泉屋に迫っていた。
 襲撃班の正面を担う、その数二十四。堂々と、大胆に夜の道を駆け抜け、店の付近できっちり十二人ずつの二班に分かれる。一 班は表、二班は裏から店を挟撃するのが作戦だ。さして大きくもない泉屋を二十四人もの鬼で両側から挟み撃ち、というのは作戦としては贅沢極まりない。蝶一匹を複数のダイナマイトで殺すような作業と言える。
 相手が蝶でなく蜂でも同じ事だ。
 だが現実には少々、勝手が違った。彼らが相手にするのは、蝶でもなければ蜂でもなかったからだ。

 「よお」

 正面に向った鬼達の『上』から、声が振って来た。
 「悪ぃがこの 店ぁ今夜、俺が貸し切ってんだ。ご遠慮願おうか」
 屋根の上、『泉屋』の看板の真横にどかっ、と胡座をかいたまま鬼どもを見下ろしているの は、何のつもりかもろ肌脱ぎの男。側に徳利を持った女がそっと控え、男の杯に酒を注ぐ。
 「月の良い夜だ、一杯ぐらいなら奢ってやってもいいが…」
 鬼どもが一斉 に抜刀。
 「…そういう雰囲気でもなさそうだなおい」
 ぐい、と杯を干して立ち上がる。
 『立ち上がる』。ただそれだけの動作で、百戦錬磨の鬼どもが一瞬、ふうっ、と気圧されたように退がる。
 「よし、鬼ども。そこ『動いてみな』?」
 『そこを動くな』ではない。奇妙な挑発。
 当然、そんなものは挑発とも思わず、鬼達が動こうとする。鬼の驚異的な身体能力があれば、屋根の上の男でさえ平地にいるのと大差ない。
 跳ぶ、と身体に力を入れようとして、十二人の鬼が揃って愕然とした。
 動けない。
 身体が動かな い。
 様々な戦いを経験して来た鬼たちだけに、それがマヒや呪いといった状態異常でないことは即座に分析できる。では、なぜ動けないのか。
 攻撃を受けている。ヒットストップ。
 敵からの攻撃が着弾している間、こちらは動く事ができなくなる現象。
 (だが…どこから?)
 そもそも攻撃 されているという感触さえ無いのだ。
 パニックになりかかった鬼の一人がその時、あることに気がついた。
 (…寒い…?)
 そう、周囲の 気温が下がっている。いや『下がっている』などという中途半端なものではない。周囲の空気そのものが凍り付いたような極低温が、いつの間にか彼らを包んでいる。猛烈な冷気が大量の霧を生み、さらにその霧さえ空中で凍り付いて地面に降り注ぐ。
 ダイヤモンドダスト。
 月光を映して美 しい。
 (…これは…! 『氷雨』!?)
 その技の名を、鬼達でさえ知っていた。極秘とはいえ瑞波へ潜入する以上、彼らにも予備知識ぐらいはある。
 この国で『三番目に警戒すべき相手』。
 当代随一のボルト使い、一条家御台所・一条巴。
 その技は、ダ メージ1以下に調整された数万発のボルトを、認識可能なフィールド全体に同時射出する。敵を倒すためではない。
 動けなくするた めに。
 元ルーンミッドガッツ王国王室親衛隊・後宮分隊隊長。その地位にあった現役時代には、数千の軍勢をたった一人で釘付けにしてみせたこともあ るという。
 その巴にとっては、『たった十二人』の鬼を釘付けにするぐらい朝飯前である。
 鬼どもに恐慌が走った。確かに動けないことも 大問題だが、問題がそれだけに終わらないことが明らかだからだ。
 一条巴のあるところ、ではその隣にいるこの男は。
 この国で『二番目に警戒すべき相手』。
 一条家当主・一条鉄。
 元ルーンミッドガッツ王国秘密部隊・ウロボロス4特攻隊長。
 「久々にホネの ある相手らしいからな。ちっとは楽しませてもらおうと思ってたんだが…」
 鉄が壮絶な笑みを浮かべる。
 「可愛い身内が待ってんだ。悪ぃが、ちゃっちゃと済ませるぜ」
 言い終わらないうちに、鉄の身体が遥か宙を舞う。
 「阿修羅」
 その技。
 「覇鳳鎚!」
 垂直落下式阿修羅・『鎚』。その象徴である『縦書きの気文字』が、狙われた鬼が見た最後の光景だった。
 凄惨な血飛沫。
 だが、荒れ狂う冷気はそれすら凍り付かせ、月光を紅玉に変える。
 
 一方、裏口へ回った十二人もまた、予想外の事態に直面していた。
 泉屋への裏口を目指し、途中の運河にかかる『跳ね橋』を渡ろうとした直後のことだった。
 瑞波の首都、瑞花の町は『運河の街』である。大河『剣竜川』、通称 『大剣竜』の河口に、巧みな治水技術を駆使して拓かれたこの街は、至る所網の目のように運河が走り、まるで都市の血管のように生活用水と物流の両面を支えている。
 その運河にかかる精巧かつ重厚な跳ね橋が、十二人の鬼の前で突然、上がり始めた。
 さすがにぎょっとして、鬼どもが止まる。
 どういう原理なのか、無人のままの跳ね橋がみるみる、その大きな腕を天に持ち上げるのを、さすがの鬼達が呆然と見上げる。
 だが、それは彼らを襲う異常事態の、まさに幕開けに過ぎなかった。
 鬼の一人が月明かりの中、何かが動くのを捉えた。。
 運河の、水の上。
 何かがこちらへ向って移動して来る。かなりのスピード。そして…とてつもなく大きい。
 その正体は、『それ自身』が明らかにしてくれた。ぱん、という破裂音と共に、高々と打ち上げられた照明弾。
 夜空に偽の、しかし見事に明るい太陽が出現する。
 「船!?」
 それは船だった。それも、その辺の小舟や川船ではない。
 遥か月をも突くがごとき帆柱。巨大な船体。
 堂々たる、それは外洋艦だ。
 瑞波中央水軍・二番艦『二ノ丸飛鯨(ニノマルトビクジラ)』。
 当主・一条鉄の御座船である旗艦『本丸蝦蟇鯨(ホンマルガマクジラ)』に次ぐ第二の船。『蝦蟇鯨』が、その巨体と猛烈な火力武装により『移動要塞』の風格を備えるのに対し、御曹司・一条流の御座船となるこの二番艦 はまるで正反対の設計思想を持つ。
 縦帆三本帆柱。細く絞り込まれた船体。現時点において、同級艦では恐らく世界最速を誇る、 機動力重視の『巡洋艦(クルーザー)』。
 とはいえ、並の軍船を凌駕する武装をも兼ね備えた、瑞波水軍が誇る『海の二ノ丸』。
 それが今、瑞 花の町のど真ん中を突っ切り、鬼どもの元へ突き進んでくる!
 
 (…しかし、コレでは使えんなあ…)
 その『飛鯨』の甲板、特別に設えられた指揮卓に座った一条流はしかし、内心で不満である。
 この『飛鯨』は、瑞波の先代当主で流の実父・一条銀の指揮によって建造されたものだ。その時、銀が盛り込んだアイデアが『瑞花の町の運河を航行できること』であった。
 船幅と吃水を計算し、運河の方にも様々な工夫を加えた結果、この 『飛鯨』は瑞花の運河の、実に八割を航行可能である。
 この能力を使い、いざ瑞花の街が市街戦となった際には『移動拠点』として絶大な攻防力を発揮する、はずだったのだが…。
 (…足が遅い…)
 流の不満はそれである。
 順風の時には帆で、そうでない場所は運河の両側から数十騎のペコペコで牽引して移動するのだが、それにしても速度が出ない。
 確かにこんな狭 い水路で速度を上げれば、たちまち岸に激突してしまうだろうから無理もないが、とにかく何事もスピード重視の流には不満でたまらない。
 (…やはりこの船は、外洋での機動戦にこそ真価がある…。むしろ運河には専用の『移動砲台』を作った方が…)
 ごちゃごちゃ考えている流だが、その発想が後 に、瑞波名物『運河砲(キャナルガン)』を生むことになるのだから、物騒な若様ではある。
 (…まあ、操船の訓練にはうってつけだが な…。よくやっている)
 総舵手始め、クルーの動きは精密そのもので、こんな夜でも見事に狭い水路をすり抜けて行く。
 「目標補足!  照明弾!」
 「照明弾!」
 帆柱頂上の監視係からの指示で、照明弾が上がる。夜の闇が切り裂かれ、流の目にも『敵』が 見えた。
 「よし。撃て」
 あっさりと、面白くもなさそうに流が命令する。
 「艦首全門、照準良し。撃てぇ!」
 『飛鯨』の砲術奉行、こちらは気合い十分で命令する。
 轟音。
 艦首四門の大砲は見事に、一つの発射音を揃 えた。

 撃たれた鬼の方は、それこそたまったものではなかった。
 なにせ正真正銘の『艦砲射撃』なのだ。鬼の力がどうの、耐久力がこうのというレベルの話ではない。
 直撃を喰らった数人はもちろん、砲弾が掠めただけでその衝撃波によって身体を引き裂かれる。
 もちろん、大砲である以上次弾の装填には一定の時間がかかる。だが、鬼達にはその隙さえ与えてもらえない。『飛鯨』からは艦砲だけでなく、舷側から弓手による矢が、銃手による銃弾が、それこそ豪雨のように降り注いでくるのだ。
 反撃はおろか、逃げる事すらできない。あっという間に、その身体を簾のように細切れにされる。
 それでもまだ、そこで矢や弾に当って死んだ者たちは幸運と言えた。
 逃げ場を求めて、運河に飛び込んだ者に比べればだ。
 実は、飛び道具で狙われた場合、水中に逃げるのは正解である。現代の高性能な銃であっても、水中の敵を撃つのは難しい。銃弾が水面に着弾した途端に、その衝撃で粉砕してしまうのだ。
 だが、この男が指揮を執る場合、その限りでは ない。
 「凍結」
 一条流の命令が飛ぶ。
 「凍結!」
 甲板に整列していた魔術師の一団が、弓の一団に代わって一斉に舷側 に駆け寄る。徹底的に訓練された動き。
 「ストームガスト!」
 複数の口が唱える呪文もまた、一つの音を揃える。
 ぐあっ!
 局地的な極低温が運河水面の直上を乱舞し、水面が一瞬で凍り付く。いや、その凍結力は水面だけに止まらない。
 完全凍結。
 水に飛び込んだ 鬼達の身体ごと、運河の底まで氷が埋める。
 「撃て」
 いくら鬼でも、そのまま放っておけばほどなく窒息死するのだが、それは一条流の情けだったろうか。
 いや違うだろう。単に砲撃手の経験を積ませるためにすぎまい。
 「艦首全門、照準良し。撃て!」
 轟音。
 大量の氷塊ごと、鬼の身体が粉砕される。
 「目標の完全破壊を確認」
 「…うむ」
 報告に、大して嬉しそうでもなく流がうなずく。
 「御曹司」
 「む?」
 側で話しかけたのは、魔術班を統括する術仕奉行。
 「本日の運河水温、二十度。ストームガスト五発で完全凍結。データ通りです」
 「そうか…よろしい」
 むしろここで嬉しそうな顔をする一条流。運河の水がどうやれば凍るか、そんなデータまで揃えているらしい。
 (…そうか、運河の水を凍らせて砲台を固定すれば、狙いはつけやすいな…)
 返す返すも用意周到、かつ物騒な若君である。
 「『飛鯨』は待機。総員、炊き出しの飯を食っていいぞ」
中の人 | 外伝『Tiger Lily』 | 08:03 | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝『Tiger Lily』(4)
 「…殿も若も、派手にやってんな…?」
 『泉屋』の厨房。
 無代は土間の丸椅子に腰掛けたまま、つぶやく。
 その側では同じ丸椅子に、咲鬼が身体を硬くして座っていた。
 店には他に、隣の部屋で着物の『再生』に集中している香、そして厨房を片付けている男女一人ずつの店員だけ。
 さっきから、表では鉄が放つ阿修羅の音が、裏ではそれの数倍の音量を持つ『艦砲射撃音』が、地鳴りを伴って店を揺らしている。
 実際にはほとんど『一方的な殺戮』なのだが、様子の分からない咲 鬼にはただ『酷い事が起きている』ことしか分からない。自分の身がいくら安全でも、外で戦う人々の方はどうなのか、不安でたまらなかった。
 「大丈夫。あ の人達が戦う時ゃ、『相手の方が気の毒』ってレベルだからさ」
 無代が励ましてくれるのへ、
 「はいっ!」
 と笑顔で応える が、さすがに顔色が悪い。
 無代がまた、不満そうな顔をする。
  「…おまえさあ」
 何か言おうとして、だがまた最後までいう事はできなかった。
 「無代!」
 香の鋭い声。
 「?!」
 無代が腰を浮 かせる。
 「下っ!」
 香の叫びは、やや遅かった。厨房の土間の、その地面が盛り上がり、爆発する。
 「が…っ!」
 「きゃ!」
 無代と咲鬼が 椅子から投げ出され、泥まみれになって土間を転がった。
 爆発の土の中から、鬼が現れる。
 乱鬼。
 昼間、石田の城 下で咲鬼を発見し、連れ去る所を無代と香に阻止された、あの若い鬼だ。
 地中を掘り進み、店内に直接侵入する『強襲班』は、リーダーの逆鬼が周到に用意した『二 の矢』である。
 乱鬼はそれに『志願』した。無代に噛み切られた足はとっくにヒールで癒えていたが、戦闘員でもない相手に手傷を負わされ た恥は、不気味な炎となって乱鬼の胸にある。
 「…」
 物も言わずに咲鬼に殺到し、その小さな身体に手を伸ばす乱鬼に、しかし再び無代が立ち向 かった。
 「しつけえぞこの野郎!」
 低い姿勢からのタックル。しかし、いくら何でもこれは『馬鹿の一つ覚え』の域だった。
 もはやその動 きを予測済みの乱鬼が、余裕を持って無代を迎え撃つ。振り上げた拳で、無代の頭を真上からぶっ叩く。
 ごっ!
 イヤな打撃音が して無代の身体がびたん、と垂直に地面に叩き付けられる。鼻血か、土間の地面に赤い物が散る。
 「…ひ…」
 その有様を咲鬼 が身体をすくませる。
 だが、はっとなったのはむしろ乱鬼の方だった。鬼の本気の拳を喰らっても、無代の頭が砕けない。それどころか、帰って来たのは異様な手応え。
 「効かねえ!」
 無代が跳ね起き、ついに乱鬼の脚にしがみつく。ただし顔はやはり鼻血と泥で、何とも物凄い有様だ。
 「!」
 乱鬼が追撃の拳を振るう。頭に、身体に、しかし一撃で致命傷を与えるはずの拳を喰らっても、無代は全く怯まない。
 「『色惚け鬼』の拳骨なんざ、この無代様にゃ通じねえ!」
 吼える。そしてまた噛み付く。
 昼間の再現だ。
 香が両手に針を 持って殺到する。が、今度は再現とはいかなかった。
 新たな鬼が、地面の穴から出現したのだ。
 「…!」
 香の攻撃が阻 止される。さらに反撃が来る。
 「香! ここはいい! 着物を守れ!」
 乱鬼の脚を思い切り噛み切った無代が、血ま みれの口で叫ぶ。
 「俺は治るが、着物は直らねえ!」
 言っていることが無茶苦茶だが、香はそれに従った。素早く土間を飛び退くと、修復中だっ た着物を恐ろしい速度で畳んで懐にしまい、さらに飛び退く。二人目の鬼が、それを追う。
 「幼女一人かっ攫うのに、大の鬼が二匹かよ! 情けねえな おい!」
 無代がまた吼える。威勢はいいのだが、状況はいいとは言えなかった。とにかくめった打ちである。
 叩いている乱鬼 にも、無代の耐久力のからくりはもう知れていた。防具だ。
 見かけの衣服の下に、薄くて軽いが異常に耐久性のある防具を仕込んでいる。当主である一 条鉄の一声で、一条家の宝物蔵から引っ張り出されてきた神器級の防具ばかり、頭の頭巾の中、着物の下などあらゆる場所に着込んでいるのだ。鬼の拳といっても、そうやすやすとは貫けない。
 だが、着ているのは所詮、凡人の無代である。いずれ限界はくる。
 乱鬼の脚にしが みついた手は、指の何本かが変な方向に曲がっているし、右目はもう明らかに視力が無い。左耳からの出血は、鼓膜の奥にまでダメージを受けている証拠だ。他にも肩や肘、膝の関節が外れかかっている。
 それでも食らいつく。
 そして吼える。
 「惚れてる、っ てんならいいさ。このチビにな。だが、ただかっ攫ってって無理矢理孕ませるだけなんざ、そんなのは許せねえ! たとえ鬼だろうが、やっていいことと悪い事 があらあ! っぐうっ!!」
 がん!
 今度こそまともに、乱鬼の拳が無代の顔面を撃ち抜いた。ぼろぼろ、と砕けた歯が地面に散らばる。
 ずるり、と無代の身体が落ちる。
 その様を、咲鬼は見ていた。
 土間に尻餅をつき、身体をすくませながらずっ と見て、そして聴いていた。目の前の若者の有様を見て、聴いていた。
 『身体を張る』という言葉があるが、これほど雄弁な身体の張り方など、咲鬼は見た事も聴 いた事も無かった。
 何のために殴られているのか。いや、戦っているのか。
 何に怒っているのか。
 何を守ろうとし ているのか。
 幼い咲鬼にも、分かりすぎるぐらいに分かった。

 かっ!

 咲鬼の心の中に、何かがきざした。
 かっ!
 咲鬼の身体の奥 の、何かが燃えた。
 かっ!
 頭が熱い。

  角が、熱い。

 今は髪の毛に隠れた小さな、咲鬼の『鬼の証』が、その角が熱 い。
 「…この…」
 目が熱い。
 「この…やろう…っ!」
 頬が熱い。
 首が熱い肩が熱 い胸が熱い腹が熱い脚が熱い身体が熱い。
 心が、熱い。
 「おまえ…なんか…!」
 目の前の乱鬼を 見据える。
 (吼えろ…! あの人のように!)

 「おまえなんか に、まけるもんかあっ!」

 声が出た。
 高く、高く響 く。
 表の阿修羅の音にも、裏の大砲の音にも、それは決して負けることなく響き渡る。
 「まける、もんかああああっっ!!!!!」
 小さな身体を 折り曲げるように、命の限り咲鬼は叫んだ。
 いや吼えた。
 諦めるのをやめて、そして逆らうのだ。
 身体を張って、 知恵を絞って、運命に逆らうのだ。
 あの人のように。あの人達のように。
 「大丈夫」
 母が言ってくれ た。
 「大丈夫」
 老婆が言ってくれた。
 「大丈夫」
 あの人が、あの人達が言ってくれた。
 だからもし、こ こで咲鬼が諦めてしまったら。運命に屈してしまったら。

 (みんなを『嘘 つき』にしてしまう!)

 だから、力の限り吼えた。
 「おまえなん かに負けない! ぜったい負けない! あたしは大丈夫だ! みんなを嘘つきになんかするもんか!」
 吼える度に力が湧いてくる。命が湧いてくる。
 咲鬼は今こそ、自分の意志で生きていた。生きると決めた。
 咲鬼がいくら叫んでも、だが乱鬼は無表情だ。子犬が吠えるほどにも感じていない。地面に落ちた無代をもう見る事もなく咲鬼に近づいて来る。
 だが、咲鬼はもう目を逸らさない。すくみあがることもない。その小さな全身に、ありったけ の力を込める。
 怒るんだ。逆らうんだ。戦うんだ。

 (生きるんだ!)

 「…よく、言ったぜチビ鬼…!」
 めちゃくちゃに潰れた声が、咲鬼の耳に届いた。咲鬼の叫びには無表情だった乱鬼の顔が、これには激しく歪む。
 無代だ。
 まばらに歯が抜け、頬の肉が裂けて骨まで見える血まみれの顔を上げて、無代が再び乱鬼の脚にしがみついていた。
 「…だけどな、勘違いすんなよ。まだお前の… 子どもの出る幕じゃねえぞ」
 がっがっがっ! 乱鬼が今度こそ、息もつかずに連打を浴びせるが、無代は離れない。その折れた歯で、再び乱鬼の膝裏に噛み付き、浅いながらも肉を噛み切る。
 そして吼えた。
 「…まだ…『大人の時間』だ! そうだろ…善兄ぃ!」

 「その通りだ」

  咲鬼はその時、生まれて初めて、成年の鬼の身体が『吹っ飛ばされる』のを見た。
 乱鬼の身体が、それこそ何かの爆発に巻き込まれでもしたように、真後ろに吹っ飛んだのだ。そしてそのまま、厨房の端っこにある大きな柱にめり込む勢いで激突する。
 「?!」
 さすが鬼の耐久力だけに、乱鬼はそれで死ぬ事はおろか大した手傷も負わない。が、その顔には明らかな驚愕があった。
 「…貴様…!」
 吹っ飛んだ乱鬼の前に、一人の男が立っていた。無代を上回る長身だが、地味な作務衣に頭巾。それは『泉屋』に残った店員のうちの一人のはず…。
 「善鬼っ!」
 乱鬼の顔が歪 んだ。
 「久しぶりだな、乱」
 『店員』の頭巾が落ちる。鷹のような鋭く、厳しい容貌。
 頑丈な作務衣の両肩が紙のように破け、そこから攻撃的な形状の『角』が出現する。『肩角(ショルダーホーン)』を持つ鬼は、その抜群のパワーこそが特徴だ。
 その角のせいで、何倍にも大きく見える背中。咲鬼と無代の位置からは、その背中しか見えない。
 一条家筆頭御側役・善鬼。
 鬼の掟を裏切 り、鬼の里を抜けた『はぐれ鬼』。
 その大きな背中が、咲鬼と無代を守る不抜の盾となって立ちはだかった。
 「無代、『釣り針』ご苦労」
 「何の。これしか芸がねえんでさ」
 背を向けたままの無愛想なねぎらいに、ボロボロの無代は軽く応じる。
 「咲鬼」
 「…はい」
 相変わらず背を向けたまま、声も変わらない。それが善鬼という男だ。
 「よくぞここまで来た。隠してすまなかった…俺が、善鬼だ」
 「はいっ!」
 振り向きもし なかろうが、声が無愛想だろうが、初めて会った咲鬼にも分かる。

 (『弟は優しくて強い。きっと貴女を守ってくれる』)

 母の言葉は本当だった。当然だ。
 母が咲鬼に嘘なんかつくはずがなかった。
 それはこの世で一番優しくて強い、『護る鬼』の背中だった。
 「善鬼ぃっ!」
 乱鬼が、叩き付けられた柱から身体を引きはがして吼えた。
 「…無代にこれだけ手こずっても、あれ以上の増援が来ない」
 だが、善鬼の声は冷静だ。
 「…つまり乱鬼、お前が本槍だ」
 咲鬼一人をターゲットにした強奪作戦。
 石田城下で香が得た情報から、鬼の人数は 『三十』と割れている。そしてそのリーダーの顔から、それが逆鬼であることも知れていた。香が描いてみせた精密極まりない似顔絵から、善鬼が楽々と特定し たのだ。
 指揮官が逆鬼ならば、三十人が全員で一斉に一方向から襲う、などという芸の無いことはしない。戦力を過信せず、必ずチームを分けて時間 差かつ連携した波状攻撃を仕掛けて来るはずだ。万一どこかの攻撃が止められても、どれかの矢が目的を達する。
 その内の一つを潰すのは難しくない。が、周到に分散され、連携した波状攻撃のすべてを潰すとなると難しい。
 だからこそ本槍、つまり本命の攻撃がどこに来るか、それを特定するために。
 「俺が『釣り針』ってわけさ」
 大けがのまま土間にべったり座り込んだ無代 が、しかし上機嫌で解説する。
 「咲鬼、無代に薬を。そこの壷のがそうだ。頭からいけ」
 「はいっ! … とう!」
 だば!
 「ごふっ!!!」
 咲鬼が大きな壷の中身を思い切り、無代の頭からぶっかけた。無代が盛大にむせるがその効き目は確かで、傷はもちろん折れた歯までもりもり回復していく。
 「すまんな咲鬼。そういうわけで名乗れなかったのだ」
 もし先に名乗っ てしまえば、咲鬼のそぶりから、鬼に対する罠が露見しないとも限らない。相変わらず善鬼は振り向きもせずに謝罪する。
 「だから乱、お前さえ潰せば、もう次の矢はない」
 「…潰してみろ…善鬼!」
 吼える乱鬼におう、と善鬼が応じる。
 がき!
 善鬼の右手が 乱鬼の左手に、乱鬼の右手が善鬼の左手に、それぞれがっちりと組まれた。
 手四つ。
 善鬼の額が、乱鬼の額に密着する。
 乱鬼の右肩 が、善鬼の左肩に密着する。
 ごりっ!
 ぞっとするような音が響いた。
 二匹の鬼の密着した部分に、あり得ない力がかかった音だ。
 人間を越えた力と耐久力を持つ『鬼』同士の戦いは、人間と違って打撃などでは決着がつかない。だからたいてい、このような『パワーに よる潰し合い』になる。
 技もフェイントもない、純粋な力だけを使った文字通りの『潰し合い』だ。
 ぎ。
 ぐ。
 ぐ。
 ご。
 が。
 ぐ。
 肉と骨がきし む音。それを聴いているだけで、人間の本能的な恐怖すら呼び覚ます。
 それはまるで、大地の底で地殻と地殻がこすれ合う、断層の形成音かと錯覚させる。あるい は遥か神話の時代、この大地を創造したという神々の戦いの再現のようでもあった。
「 …衰えたな善鬼。そしてオレは、強くなった!」
 乱鬼が吼え る。
 しかし、善鬼はあくまで冷静だ。
 「そうだな。お前の言う通りだ」
 常人なら数秒で肉塊になるであろう圧撃をお互 いにぶつけ合いながら、善鬼は顔色一つ変えずに応じる。
 「確かにお前は強い」
 「俺の勝ちだ!」
 「いや…乱、お前の負けだ」
中の人 | 外伝『Tiger Lily』 | 08:04 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝『Tiger Lily』(5)
  善鬼の声に変化はない。
 「惜しかったな。そんな『大怪我』をしていなければ、お前の勝ちだったかもしれん」
 「な…!」
 乱鬼の顔に何度目かの驚愕が浮かんだ瞬間、
 ぐしっ! 
 聞くに堪えないような音とともに、乱鬼の右膝が砕けた。決定的な隙。その機を逃さず、善鬼が渾身の圧撃を叩き込む。
 ばしばしべしべし!
 「が!!!!あっ!!!!」
 乱鬼が言葉にならない絶叫を上げた。その体が、砕けた膝から一気に崩壊。ずるずるっと体ごと後退し、先ほどの柱にだん、と押し付けられる。そして見る間に乱鬼の背丈が半分になり、さらに地面に向かって圧縮されていく。
 砕けた乱鬼の膝。
 それは、脚にしがみついた無代が乱鬼に殴られながらも、再び噛み切った場所だ。善鬼の『大怪我』という表現は大げさだったが、それでも力の拮抗した鬼同士の潰し合いにおいては致命的な弱点となったのだ。
 「…善… 鬼…っ!」
 乱鬼の体はもう、顔が善鬼の膝の辺りまで来るほどに押しつぶされている。
 勝負は完全に決していた。
 その時、 はっ、と咲鬼が気づいた。鬼の里で生まれ育った咲鬼が知る、死にかけの鬼の最後の一撃。
 「爆発する! 体に爆弾が!」
 思わず叫んでい た。
 異能の傭兵として身を立てる鬼たちが、任務を決してしくじらないために、命と引き換えに実行する自爆行動だ。
 「遅い…お前だけは…死ね、善鬼!」
 「…なるほど。これで完全に、ここに増援はないと分かった」
 変わらぬ善鬼の声。そもそもどうやったらこの男の声は変わるのだろうか。
 「!!」
 咲鬼が必死の形相で善鬼に駆け寄ろうとした。何ができるわけでもない、ただじっとしていられなかったのだ。
 だが、その手を無代が掴む。
 「大丈夫だチビ鬼。これも『想定内』だぜ。…静ぁっ!」
 無代が叫ぶ。同時に善鬼が乱鬼の体を放し、一気に真後ろに跳び下がる。
 残されたのは、半分潰れた乱鬼の体。
 その瞬間、目を見開いた咲鬼の視界を白銀の流星がすっ、と横切った。
 
 「っ…てぇりゃあっ!!!」

 裂帛の気合いは一瞬後から聴こえた。
 その流星は、乱鬼が叩き付けられたあの柱の後ろから出現し、乱鬼の首を柱ごと斜めにぶった斬り、地面すれすれで止まっていた。
 流星、それは刀だ。
 かちゃ、と止まっていた刀が返り、ぶん、と血振るい。白い華奢な手が、これも真っ白な懐紙で丁寧に刀身を拭うと、すっと鞘に納める。
 「『鬼の首』、取ったりぃ〜っ!」
 ぴょん、と柱の影から飛び出したのは、すらりとした少女の姿。これも地味な頭巾に作務衣姿の『残った店員』だったはずだが…。
 「誰が上手いこと言えっつったよ、静」
 「…む、何よ無代兄ちゃん。もっとほめなさいよねっ!」
 ひょい、と頭巾をむしり取れば、こぼれ出る黒曜石の髪と元気一杯の美貌。
 一条家三之姫、一条静。
 この時まだ十代前半、今は腰に戻した細身の刀一つで、大人の胴体ほどもある柱ごと乱鬼の首を叩き合とした剣豪とはとても見えない。
 「ほらほら鬼の首、しかも二個!」
 両手にどや、と生首を掲げてみせる。一個は乱鬼、もう一つは先ほど乱鬼の増援に来て、香を追って行った鬼の物だ。どうやらこれも静が仕留めたらしい。
 「だから! んなもん見せるな! シャレんなってねえ!」
 無代が青い顔で抗議するのだが、静は知らん顔。
 「静姫様、ご面倒をおかけいたしました」
 「なんのなんの!」
 善鬼が慇懃に頭を下げるのに、両手の生首をひらひら振って応える。
 「あ、咲鬼! アタシが一条家の末っ子の静…だけど、今日からはアンタが一番下だからね! 『静お姉ちゃん』って呼ぶのよ?!」
 「こんなチビに生首突きつけて何言ってんだお前は!」
 「はい、静お姉ちゃん!」
 「チビ鬼も手懐けられてんじゃねええ!!」
 無代が半ギレしているところへ、ドヤドヤと入って来たのは鉄、巴、そしてお付きの学生達を従えた流である。
 「おう、終わったか手前ぇら」
 「あ、お父様。ほらほら、鬼の首!」
 「おっ静、そいつぁなかなか気が利いてんじゃねえか」
 がっはっは、と静の頭を撫でる鉄。
 「おかしい… やっぱこの一族、何かおかしい…」
 無代が土間にへたりこんだままぶつぶつ。これもひょいと戻って来た香が、残った傷の手当をしてくれる。
 「ふむ、現場は制圧済みか…」
 周囲を確認したお付きの学生達から報告を受けた流が、面白くもなさそうにつぶやく。
 「よし『飛鯨』へ伝令。『泉屋』への直接砲撃は中止」
 何気なく、怖い事を指示したりしている。
 「…頭痛え…」
 無代と来たら、むしろ乱鬼に殴られたよりダメージが大きそうな様子だ。
 「…無代」
 傷の手当を終えた香が、無代の顔に自分の顔を寄せて話しかけて来 た。
 「ん?」
 「お店、傾いてる」
 「え?」
 みし。
 驚いて周囲を見回す無代の耳に、イヤな音が響く。香の言葉通り、明らかに店の柱組が音を立てて傾きつつある。壁土が割れてばらばらと土間に落ちる。
 「…さっき静が斬った柱…店の大黒柱…」
 「うあ…」
 みしみしみ し。
 傾きが大きくなる。倒壊まであとわずか。
 「やべ、皆外へ逃げ…!」
 「おい、無代」
 腰を浮かせた無代に、外から流が声をかけてくる。
 「『飛鯨』の主砲、もう弾込めちまったらしい。もったいないからこの店、撃っていいよな?」
 素晴らしい笑顔で、流が宣言した。

 (…失敗した…)
 鬼のリーダー・逆鬼は、瑞花の街中の宿にいながら、そう悟らざるを得なかった。
 店の表から十二人、裏から十二人。そして地中を掘り進む奇襲班が二名。計二十六名の鬼が、定刻になっても戻るどころか連絡一つ寄越さない。
 経験豊かなリーダーでなくとも、異常事態により任務は失敗したと判断するのは当然だった。
 攻撃に参加せずに宿屋に残った逆鬼を含む四人は、『後詰め』ではない。
 ここで言う『後詰め』とは、先制攻撃部隊が十分な成果を挙げられなかった場合に、後方から直ちに現場に投入され、ダメ押しの一撃を加える部隊の事だ。
 しかし逆鬼を含む四人はそれではない。
 彼らは咲鬼を鬼の里に確実に移送する為の『撤退支援』チーム だ。全員がワープポータルを使う。だから最初から先制攻撃の二十六人と連携攻撃をしていない。
 よって今から彼らが現場に行って攻撃したところで、ただの『四人だけの単独部隊』でしかなく、敵が先の二十六人を殲滅したとするならば、彼らもまた何の意味も無く全滅させられるだろう。
 よって戦略的に正しい道を選ぶならば、直ちにこの場でワープポータルを出し、鬼の里へ逃げ帰るべきだ。
 だが、逆鬼には迷いがある。
 任務失敗はもはやどうにもならないとしても、なぜ失敗したのか、その原因を調べずに帰れば、リーダーとして鬼の里での激しい糾弾は避けられない。
 単なる料理屋の主人が、二十六人もの鬼を一夜にして殲滅する方法など、当の逆鬼にさえ想像がつかない。何らかの追加戦力があったとしか考えられなかった。先ほどから聴こえていた、明らかに大砲の砲撃音のような音も、それに関係があると見て間違いあるまい。
 そしてこの先、第二次の咲鬼強奪作戦が行われるとしたら、これらの情報を持ち帰らないことは致命的だ。
 『隠密裏に、店の様子を見に行く』
 逆鬼が下した決断はそれだった。鬼の残党の四人をさらに2つに分け、二人ずつのチームが時間差で宿を出て、『泉屋』へ向かう。四人同時に襲われないための用心だ。
 まず二人が出発し、続いて逆鬼ともう一人の若い鬼が出発した。逆鬼は自分の前に、若い鬼を走らせる。二人同時に襲われないための用心だ。
 用心に用心を重ねた。だがその事が結局、逆鬼のその後の運命を過酷な物にしたのだから皮肉だった。
 逆鬼の十メートルばかり前、夜の街を疾走していた若い鬼が突然、急停止した。
 異常を感知した時の行動だ。逆鬼も止まる。
 ぐしゃん!
 逆鬼の耳に、奇怪な音が届いた。
 びしゃん!
 続いてもう一 つ、音が響いた。
 と同時に、逆鬼の足下に何かがすっ飛んで来て、ぼとっ、と落ちた。
 「!」
 逆鬼ほどの男 が、一瞬立ちすくむ。それは人間、いや『鬼の上半身』だったから当然だ。先に出た、二人組の一人。
 雲に隠れた月のわずかな光と、鬼の視力を頼り に暗闇を透かすと、もう一人の鬼も発見できた。
 夜の街路に半ば埋もれるようにして、全身を無惨に潰され、息絶えている。
 『潰されていた』というからには、潰した相手がいる。
 月にかかった雲が流れた。
 月光が瑞花の街路を淡く照らし出す。
 『潰した主』 は、そこにいた。
 逆鬼が最初に見たのは、並よりふた回りは巨大な、ペコペコのシルエットだった。そのシルエットが月光の中で、燃え上がっ たように見えた。
 いや、燃えたのではない。
 紅いのだ。
 全身が深紅の羽根の、巨大なペコペコ。
 (…!!!)
 その意味を理解した逆鬼の背中を、戦慄が貫いた。深紅の巨大騎鳥など、世界にただの一羽しかいない。だが、それよりも希少で名高いのは、むしろその乗り手の方なのだ。
 
 「『必ずや 残った鬼が様子を見に来る』とは、さすが流義兄様。慧眼の至りだな」

 びん!と夜の闇に響く、女の声。もう間違いない。
 『瑞波の国で最も警戒すべき相手』。
 いや、『そもそも出会ってはいけない相手』と 言った方がよかったろう。
 「つまらん『睨み戦』に出てたお陰で出遅れたが、『鬼退治』に間に合って、いや良かった良かった」
 『睨み戦』と は、単に軍を派遣して威嚇するだけの、戦闘のない戦の事だ。この乗り手は何せ、そういう戦には持って来いの人材なので、良く駆り出されるのである。
 その『睨み戦』帰りのそのままで、ここに駆けつけたとおぼしい。ペコペコも乗り手もまっさらの完全武装。
 一条家一之姫、一条綾。
 その『異常な武名』を知らぬ物は、鬼にすらいない。
 「我が夫(婚礼はまだだがな?)、善鬼の姪に悪事を働こうという鬼は貴様らだな? いや返事はいらん。オレがそう決めた」
 ぶん、と腕に構えた巨大な鉄棍を一振り。まだかなりの距離があるのに、その一振りで逆鬼のところまで、濃い血風が届く。
 得物は特に決めず、その辺の頑丈そうなのを適当に持って行く、というのが彼女の流儀だという。今回はその鉄棍で、鬼の上半身と下半身をぶった斬ったのだ。
 では、無惨に道に潰れたもう一人は?
 その答えはすぐ出た。
 「参るぞ、 『炎丸(ホムラマル)』」
 炎丸、それがこの巨大騎鳥の名か。言われた騎鳥がぐい、と頭を下げたと見るや逆鬼たちの元へ突進する。並みのペコペコにはあり得ない猛烈な加速。
 前にいた若い鬼は、避ける暇すらなかった。
 びちゃん!
 鬼の体が無惨に潰れ、街路に半ば埋まる。即死。それはもう、戦闘というよりは『人身事故』だ。
 先の一人と同じ死因、答えは『鳥に轢き殺された』であった。
 逆鬼はさすがに、経験を積んだ鬼だ。こういう場合にどうすべきかを即座に判断し、実行した。後も見ないで逃走したのだ。
 しかし、その判 断は正しかったが、いささか相手が悪かった。
 ざくん!
 音と共に、逆鬼の体が前のめりに地面に転がる。急いで立ち上がろう として、そして気づく。
 膝から下の脚がなかった。
 ばたばた、という音の方を見ると、自分の膝から下の脚が二本、道の反対側へすっ飛んで、 落ちていた。
 ざん!
 右腕の肘から先が飛んだ。
 ぞん!
 左腕。
 綾の鉄棍だ。逆鬼の必死の逃走も、既に綾の間合いの中とあっては無意味だった。
 「安心しろ。『一人は残せ』との命だ」
 全然安心できない事を、綾が言い放つ。それは、捕虜として『生かされる』という意味である。
 (ならば舌を!)
 噛もう、と食いしばった逆鬼の口に、
 ばつん!
 綾の特大の鉄棍が、真正面から突き刺さった。もう舌は噛めない。噛むべき歯も全て叩き折られた。
 「あ…か…」
 無理矢理大口を開けさせられたまま、逆鬼が目を見開いて呻く。棍棒でぶっ千切られた四肢からの出血と激痛で、普通の人間ならとっくに死んでいるだろう。
 だが鬼の体の凄まじい耐久性は、逆鬼に無惨な生を強いる。
 「ヒール!」
 周囲の闇から湧き出すように現れた一団が、逆鬼に回復の呪文を放っ た。綾の旗本部隊の女兵士達だ。無代の『元彼女』のジャスミンも今、ここに所属し、まさにその得意のヒールを飛ばしている。だがそれは逆鬼を癒すためではなく、生かしておくための残酷な治療だが。
 「安心せい、お主は捕虜ではない。鬼の里とやらへの『伝言役』となってもらう。伝言は二つ」
 綾が騎乗から、逆鬼の口に棍棒を叩き込んだまま、またしても全く安心出来ない事を言い放つ。
 「一つ。咲鬼にまた手を出すというなら、次はこの十倍の鬼で来い。もしそれ以下で来たら、今度はこちらから行く」
 三十の十倍の三百。それは里の成年の鬼の総数に近い。要は『総掛かりで来い』というのだ。
 綾の燃える様な美貌に、凄絶な笑みが浮かぶ。
 「二つ。善鬼は里で最強の鬼と謳われていたらしいが…」
 笑みが深くなり、それこそ肉食の鬼のような真っ白な歯がのぞいた。
 「オレはその善鬼を『喰った女』だ。次回はそのオレが先陣を切るから、重々覚悟して参れ。以上だ」
 言うなり、逆鬼の口に突き刺した棍棒を軽く握り直すと、
 「鬼は、瞼の瞬きで会話できると聞く。ならば、口が無くても伝言に不都合は無いな?」
 どうせ返事など聞く気もさせる気もない。逆鬼の口内の棍棒が無情に、真下にたたき落とされる。
 鬼の最後の一人、逆鬼の下あごが鮮血と共に地面に、落ちた。 


 爽やかな海風 が、咲鬼の頬を撫でて行く。
 空は幾つかの真っ白な雲を散らしただけの晴天。
 周囲は見渡す限りの海。
 水平線。
 瑞波中央水軍 二番艦・『二ノ丸飛鯨』、風に乗って自慢の快速を飛ばす、その甲板に咲鬼は立っていた。
 貨物船に乗って海を越えた咲鬼だが、実は水平線を見るのも、海風に吹かれるのも初めてだった。貨物船では船倉に押し込められ、外に出る事などなかったのだ。
 騒動から一夜明けた、その朝である。
 綾を加えた一 条家の面々は、止めの砲撃ですっかり『更地』になった泉屋から、運河の『飛鯨』に移ると、そのまま海へ出た。全員が船内で戦いの汚れを落とし、食事をし、一眠りを終えて起きたところだ。
 もっとも無代だけは、大事な店が更地どころか『盆地』になったショックでまだ寝込んでいるのだが…。
 「…咲鬼」
 飽きもせずに海を見つめていた咲鬼が、背後から名を呼ばれて振り向く。
 「はい、善叔父さま」
 善鬼だった。着物を濃い灰色の着流しに替えているが、服装ほどリラックスして見えないのは、この男の持って生まれた謹厳な雰囲気による ものだろう。
 「お前に話しておかねばならぬ事がある」
 善鬼が懐から、咲鬼の母の手紙を取り出す。それは船内で改めて、咲鬼から善鬼へ手渡されたものだ。
 「この手紙の中身の事だ。お前の母はお前を送り出した後…」
 「自ら命を絶った、ですね?」
 「…」
 咲鬼の言葉に、さしもの善鬼が一瞬、その目を見開いた。
 「…鬼の掟を破った制裁は厳しい。それに母が生きていれば私の、そして善叔父さまの人質として使われてしまいます」
 咲鬼はまっすぐに善鬼の目を見て、決然と言った。
 善鬼はその姿を黙って見つめていたが、やがて手紙を再び自分の懐に戻すと、
 「…その着物は、お世話になった方のものか?」
 突然、話題を変えた。
 「はい」
 咲鬼が、少し誇らしげに背を伸ばす。
 巴の技と、香の極精密の手によって完全に蘇った老婆の着物は、朝のうちにやはり香の手によって、咲鬼の体に合わせて裾上 げされた。老婆が元々小柄だったこともあり、子供の咲鬼にも着られるように見事に仕立て直されている。
 周囲の海の色にも負けぬ、素朴だが力強い藍染め。そこに真っ白に染め抜かれた百合の花。
 「『鬼百合』の花、だな」
 「はい」
 野に力強く咲くその百合は、『鬼の百合』の名を冠せられる。
 この海に儚く散った老婆の命が今、咲鬼という命の花となって咲き誇っていた。
 「…よく似合う」
 「ありがとうございます」
 この男が女の着物をほめるなどまずあり得ない、と知らず、咲鬼は顔を紅潮させて応える。
 「…咲鬼。お前は賢く、そして強い娘だ」
 「…?」
 す、と善鬼が長身を屈め、咲鬼の前に片膝をついて視線の高さを合わせる。
 「だが俺たち大人が、お前の強さに甘えてはいけない、俺はそう思う」
 鬼の目が、限りなく優しい光を宿した。
 「…泣いてくれ、咲鬼。お前はまだ、泣いていい。涙を我慢しなくてもいいのだよ」
 咲鬼の頭に、大きな手が乗せられた。
 「辛ければ、悲しければ、大声で泣いていい。 泣いて、そこら中に求めていいのだ」

 求めていい。

 抱きしめる手を。
 頭を撫でる手を。
 涙を拭う手を。
 優しい言葉 を。

 愛を。

 「そして俺たちは必ず、お前の涙に応えるだろう。…咲鬼、お前はまだ、子供でいいのだ」
 「…う…っ」
 ぐしゃ、と咲鬼の顔が崩れた。
 涙が、溢れ出た。
 小さな拳で必死に拭うけれど、透明な涙は後から後から溢れ出て、咲鬼の小さな拳ではとても 拭いきれない。
 代わりに、善鬼の指がそれを拭った。
 「う…う…ぁあああああああああ!!!!!!!」
 咲鬼は泣いた。
 ずっと、ずっ と我慢していたけれど、もう止められなかった。
 いや、止めなくてもいいのだ。
 目の前の大鬼の首に抱きつき、思い切り声を張り上げる。その背中を、大きな腕が優しく抱きしめる。
 
 うああああん! うわあああああん!

 海に、空に、小さな鬼の泣き声が吸い込まれて行く。

 (お母さん…)

 うああああん! うわあああああん!

 (おばあちゃん…)

 うあああん! うわあああああああん!!!

 (咲鬼は…咲鬼 はもう大丈夫です…)

 うううううああああああん!

 (聴こえますか…? 咲鬼はこんなに大きな声で、泣いてもいいのです…)

 うああああああん!!!

 船のどこかから、様子をうかがっていたに違いない一団の声が、風に乗って咲鬼の耳に届く。
 「お、泣いた泣いた。ちゃんと泣きやがったぜ、咲鬼坊のヤツ」
 「よろしゅうございました殿様。これであの娘も、立派な子供に戻れましたわ」
 「よし! ここ はお姉ちゃんとして慰めに行かなきゃねっ!」
 「ほほう、お前が生まれた時には既に『お姉ちゃん』だったこのオレに敵うとでも?」
 「はいはいチビ鬼、よかったよかった。よろしゅうございましたねっと…」
 「む? どうした無代、元気が無いぞ?」
 「お前が言う な! …俺も泣きてえよ…」
 「…無代…膝、貸す…?」

 応えてくれる人がいる。
 応えてくれる人達がいる。

 (…だから、大 丈夫…。咲鬼は…大丈夫です!)

 うわあああああん!!!!

 (そしていつか、私も誰かを護る人に…鬼になります! きっと…!)

 「…う…ふう…っ!」
 咲鬼はわざと子供っぽく、顔を善鬼の着物にこすりつけて最後 の涙を拭う。そして抱きついた腕を放すと、そこに善鬼の笑みがあった。
 多分、誰も見た事の無い鬼の微笑。
 咲鬼はその笑みに、泣き顔を最高の笑顔に変えて応えた。
 そして力強くその体を振り向かせると、彼女の笑顔を待つ人々の元へ、力一杯駆け出していく。

 二度とは枯れぬ鬼の百合が、海風に揺れる。

 おわり。
中の人 | 外伝『Tiger Lily』 | 08:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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