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第八話「Free Fall」(1)
 「…さあ皆様、出来上がりましたよ!」
 無代はわざと明るく、そしてできるだけ大きな声でそう告げると、蒸し器の蓋を取った。盛大な湯気と共に、胃袋を刺激する匂いが周囲に振りまかれる。
 『肉まん』。
 それは無代の得意料理の代表選手だ。かつて瑞波の天臨館を退学になった後、文字通り『屋台一つから身を起こし』、数年で店をチェーン展開するまでにした実力は本物である。冒険者となった今でも、カートの中には常にちょっとした店を開けるほどの道具と材料を欠かさず入れてある、それが役に立った。
 「この無代、自信の一品でございます! 皆様、どうぞ召し上がって下さいませ! 遠慮は無用でございますよ!」
 たちまち無代の周囲に人だかりができる。いずれも華やかな笑顔で無代に礼を告げ、熱々の真っ白な塊を手に、仲間同士さざめきながらまた散って行く。
 全員が、柔らかいブラウンカラーの給仕服に白いエプロン。
 白いヘアバンド。
 そして若い女性。

 カプラ嬢。

 世界中の街角で、あるいはダンジョンの入り口で、冒険者の荷物を預かり、また別な街への空間転移サービスを行い、また緊急時の位置セーブポイントともなる。空間操作の魔法を操り、冒険者のサポーターとなる女性達。
 『ディフォルテー』
 『ビニット』
 『ソリン』
 『グラリス』
 『テーリング』
 『W』
 その6人の『役』をそれぞれ襲名した『ナンバーズ』と、その交代要員である『ノーナンバー』のほぼ全員。
 それが今、無代と共にこの場にいる。若く美しい女性達の中で、男は無代一人という実に羨ましい状況だ。
 しかし、どうしてこんな状況になっているのか。それを語るのは少々、後回しにさせていただきたい。
 「さ、暖かいうちに召し上がって下さいませ。味には少々、自信がございますよ? さあ、どうぞどうぞ」
 無代の『名調子』が響く。かつて瑞波の街で屋台を引いていた時代に鍛えたものだ。
 彼の所まで足を運んで来たカプラ嬢達に、熱い塊を一通り配り終えると、今度は無代自ら肉まんの容器を抱え上げた。少し離れた場所で地面にうずくまったり、座り込んでいるカプラ嬢達に、やや強引に肉まんを配っていく。
 最初は力なく断る者もいた。が、熱く柔らかく、そしていい匂いのする塊を手渡されると、掌でその熱を感じたり、ゆっくりながらも口に運んでいく。
 「…どうぞ、召し上がって下さいませ」
 無代が最後に、一人のカプラ嬢の前に膝をつき、肉まんを差し出した。
 返事は無い。
 そのカプラ嬢は岩がむき出しの地面に座り込み、両手で両膝を抱え、その膝に顔を埋めたまま動かない。
 「最後の一個でございます…ぜひ。暖かい物を召し上がれば、きっと元気が出ます。…『D1』」
 「…その名で呼ばないで…」
 今度は返事があった。
 埋めた顔を微かに持ち上げ、しかし視線は下に落としたまま。
 『D1』。
 全てのカプラ嬢の頂点である『長女・ディフォルテー』。『D1』は、その名を襲名した者のさらに頂点。名実共に、現役最高のカプラ嬢であることを示す名だ。
 本名をガラドリエル・ダンフォール。
 無代とは、いささか荒っぽい出会いをした彼女だが、少なくともその時は、自信と自負に満ちあふれた『カプラ嬢の中のカプラ嬢』だったはずだ。
 それが今は、面影さえ無い。
 カプラ嬢にとって命の次に大切と言われる、その制服が汚れるのも構わず、地面に座り込んだまま。がっくりとうなだれたその姿は、出会った時の半分ほどにも縮んで見える。
 「…元気出して、それでどうなるの…? ここで…『BOT』にされるのを待つだけの私たちに…」
 D1の言葉に、しん、と沈黙が落ちた。
 「…」
 無代も黙ったままだ。配られたばかりの暖かい食事の効力で、多少なりとも湧き出していた活気が、嘘のように消えていた。
 だが、それもやむを得ない事だ。
 D1の言葉は真実であり、現実だった。
 無代とカプラ嬢達は現在、囚われの身である。極めて厳重な方法で、この場所に監禁されている。といって、どこかの牢に入れられているわけでも、手枷・足枷をはめられているわけでもない。
 というより、そんな物は必要なかった。まさに『この場所』そのものが、堅牢無比の牢獄なのだ。
 この場所。それは地上2000メートルの空の上。
 ジュノーフィールド。
 空中都市ジュノーの中心に据えられた『戦前種(オリジナル)・ユミルの心臓』が引き起こす重力異常により、無数の岩塊が空中に浮遊する奇跡のエリア。あの『ヤスイチ号』を擁するレジスタンスの基地もこのフィールドにあることを、読者は既に御存知だろう。その基地とはかなり離れているが、ほぼ同等の大きさを持つ、直径500メートルほどの『浮き島』。どこかから風で飛ばされたか、あるいは鳥が運んだ種が芽吹いたのだろう、低い灌木や雑草がわずかに生えるだけの、巨大な一枚岩。
 それがこの場所だった。
 ただ風だけが吹き抜けるその岩塊に、無代とカプラ嬢達は放置されていた。今は全員が、岩塊の土手っ腹に掘った巨大な穴の中に避難している。無代の提案で、カプラ嬢達がその持てるスキルをフルに使い、力を合わせて硬い岩塊をくり抜いたのだ。吹きさらしの空の上、気候は極めて厳しい。風を避け、火を焚いて暖を採れるこの避難所はとてもありがたかった。無代の料理も、その火を利用したものだ。
 この場所に来て丸一日、凍える夜も何とかやりすごせたのはこの穴のお陰と言えた。
 「…でも、ここから脱出する手段は見つからなかった…」
 D1が呟く。
 「…考えられる事は全部試したけど…全員、位置セーブ先を消されてて蝶の羽もテレポも使えない。ワープポータルも駄目。もちろんカプラの転送フィールドも展開不能…」
 D1が、ぶつぶつと呟く。
 定められたセーブ位置に戻れるアイテム『蝶の羽』を使っても、同様の効果をもつ魔法である『テレポート』を使っても、結果はこの場に戻ってくるだけ。自由に行き先を決められる『ワープポータル』も、ワープ先を定める『ポタメモ』が消滅しており、どこへも転送できない。全員が外部から何らかの干渉を受け、セーブ先やポタメモを消されてしまっていた。
 カプラ嬢と言えば全員が各職業のエキスパートであり、それがこの数だけ揃えばまさに精鋭。しかしそれでも、どうしても脱出法が見いだせない。
 翼を持たぬ人間は、ここを出られない。
 単純にして完璧な牢獄。
 「…諦めるのはまだ早うございます、D1」
 だが、この男に『降参』はない。
 精鋭揃いのカプラ嬢達から見れば、見習いカプラにも劣る実力しかない、木っ端のような冒険者。だがその意志の火を消す事はもう、誰にもできない。
 「まだ手はございます」
 無代が、力のこもった声で言った。
 「…え?」
 今度こそ、D1がぐっ、と顔を上げる。
 「最後のカードを、まだ切っておりません」
 「最後…?」
 思い切り眉を寄せるD1の鼻先に、無代が肉まんを差し出す。
 「話は喰ってから」
 「…どうするの…?」
 「…」
 無代は答えず、肉まんを差し出した手も動かさず、にっ、と微笑んで見せる。
 D1の手がのろのろと動き、だがしっかりと肉まんを受け取る。
 「…どうするって…言うのよ…?」
 再度の問いに、無代はさらに大きな笑顔で答えた。

 「『飛び降りる』のさ?」



 無代とD1、そしてカプラ嬢たちがなぜ、どういう経緯でこの空の牢獄に幽閉されたのか、まずそれを語る必要があるだろう。
 だがそれには時間を少々、巻き戻す必要がある。
 『カプラ嬢殺害』の濡れ衣を着せられた無代が、首都のカプラ支社で拷問を受けた日。
 そしてD1に救われたあの日。
 2人を空間転移させ、自らの元へ招いたのは、カプラ社の『相談役』を名乗る少年戦前種(オリジナル)だった。
 天井の高い、だだっ広い空間。それは『部屋』というよりも、何かの『ホール』のようでもある。ぐるりを囲む壁にはいくつか、高い位置に窓があるが、いずれも『青空』しか映していない。
 「…貴方が…『カプラ』?」
 さすがの無代が、信じられないという表情で訊ねる。
 「ソうデす、無代サん。カプラ社の相談役デ、名前も『カぷラ』」
 そう言って微笑む少年の顔は端正で、珍しい青色の髪も奇麗にセットされている。
 「そして、僕が『カプラそノモの』でス」
 そしてまた笑顔。
 少年とはいえスーツが良く似合い、それどころか『貫禄』さえ感じさせるのが不思議だ。もちろん『戦前種(オリジナル)』を名乗るからには、見かけが少年だろうが何だろうが、その年齢は並の人間を遥かに越えるはずなので、この貫禄はむしろ当然かもしれない。
 「…『我ガ社』の社員ガ大変ゴ迷惑をおかケしまシた。マず服ヲ替えテ下さイ、無代サん」
 少年の言葉と同時に、どこからか立派なスーツが出現し、無代の目の前にすとん、と落ちる。
 「当社かラのお詫ビの一端デす。どうゾご遠慮なク。ソれと、貴方のかートもお返シしまス」
 「…お気遣いありがとう存じます。では、お言葉に甘えさせて頂きましょう」
 無代がスーツを拾うと、拷問でボロボロの服を着替える。さすがに異姓のD1の目をはばかり、わざわざ広い部屋の隅に行って着替えたのだが、当のD1は何とも思っていないらしい。
 いや、というよりも『無代ごときの着替えどころではない』というのが本当だろう。
 「…相談役!」
 少年としか見えないカプラ社の役員に、長身の女戦士が縋り付かんばかりに詰め寄った。
 「D1、君ニも苦労ヲかけたネ」
 「いいえ! 『D1』はカプラ嬢の代表なのですから、当然の行動です。…でも…でも…」
 「…D1…」
 2人の間に沈黙が落ちる。その沈黙に、着替えを終えた無代が割り込んだ。
 「お話の途中ではございますが、相談役…『カプラ』さん? 私をココへお招き頂いた理由をお聞かせ願えますか? 拷問の謝罪だけではないのでしょう?」
 「…ハい、無代サん」
 『カプラ』が、無代の方に向き直る。
 「デもその前に、お二人に謝らナけれバなりまセん」
 「『二人』?」
 「そうデす。無代さン…そシて…D1ニも」
 少年の姿の『重役』が、驚いた顔のD1をもう一度見る。

 「ボくは、カプラ嬢殺害の犯人を知っテいマす」

 「…え…?」
 D1の表情が凍り付いた。
 「ゴめン、D1。ボくは犯人を知っテいる。…いヤ、彼女が殺さレるコとも、実ハ知っテいタんだ」
 静かな、しかし沈痛な告白。
 「…」
 D1も、無代も、黙って耳を傾けるしかない。
 無代は真剣な表情。もう一方のD1の顔色は、真っ青。
 「今、カプラ社に何ガ起きテいるのか、ボくは全部、察しガつイている」
 少年は静かに続ける。
 「…そシて、放置しテいたンだ」
 『カプラ』の声が小さくなる。その声は少年のものだが、しかし今、その響きは遥かな年月を生き抜いた老人のそれだった。
 「もウ、どうデもよクなっテいたんダ。会社も、カプラシステムも…ネ。ボくは長ク…生きすギた…」
 「…相談役…」
 D1が、混乱した表情で『カプラ』を見つめている。
 「D1、良く聞イて。今回ノ事態の全テはアイダ専務、ソして社長たち役員ノ、陰謀かラ始まッタ事ダ」
 「…役員…?」
 D1は、一言も聞き漏らすまいという緊張した表情で、カプラの顔を見つめる。
 「ソウ。彼らはボくかラ、『カプラシステム』を奪ウつもリだ。カプラ社を完全ニ自分たチの物にすルたメに。…そシて、殺さレたカプラ嬢ハ、その『道具』だっタんだヨ」
 「道具?!」
 「ソう。殺さレた彼女…カプラ嬢『シーリン』は…『BOT』だっタんダ」

 『BOT』。

 その言葉を静が、香が、ほぼ同時期に耳にし、その運命に大きく関わっている事を、もちろん今の無代が知るはずもない。
 「BOT? それは何なのですか?!」
 「…簡単ニ言うと、『魂を抜キ取らレて、誰かノ操り人形ニなっタ人間』」
 「!?」
 D1も無代も、思いがけない話に困惑を隠せない。
 「…どコかかラ攫って来たリ『買っテきタ』人間カら、魔法ヤら科学やラを使っテ魂を抜キ取り、新しイ『プログラム』ヲ入れテ、思い通リに動かス。…聖戦ノ時代ニ開発サれ、密かニ現代ニ伝わッた技術デす」
 「…ひでえ…」
 無代が顔をしかめる。
 元々『自由人』の気質が強い無代だけに、その『技術』とやらの思想に強い嫌悪を抱くのは致し方あるまい。
 「…じゃあ…じゃあ…あの殺された娘は…」
 「そウだヨ、D1。役員タちの手デ送り込マれた、彼ラの操リ人形ダ。仕込まれタぷろぐらむヲ使っテ、ボくのシステムに介入シ、ぼクの力ヲ奪うノが目的だっタ」
 「…では、彼女を殺したのは…?」
 黙り込んだD1に代わって、無代が話をすすめる。
 「多分、『うろぼろす4』の『魔女』だネ」
 「『ウロボロス4』?」
 「ソう。『次の聖戦ニ備える』事ヲお題目ニ、色々ナ秘密活動をしテいる連中ダよ。ずーっト、昔からネ」
 カプラの言う事がさっぱり理解できないのだろう。無代が眉間に皺を寄せて抗議した。
 「申し訳ない、『カプラ』さん。よくわかりません。『ウロボロス』? 『聖戦』? なぜここにそんなモノが出てくるのです?」
 「…『一番最初』カら、話さナいト駄目だろウね」
 『カプラ』の言葉と同時に、ふわり、と部屋の中にソファーが出現する。空間を自在に操るカプラ社の、何かの技術だろう。
 「座って下サい、無代サん。D1モ…」
 二人の客をうながしておいて『カプラ』は語り始めた。
 それは無代はおろかD1も、いや世界のほとんどの人が聞いた事すらない、遠い遠い昔の物語。

 どことも知れない、遠い遠い世界で生まれた、小さな『魔物』の物語。

 かつて『この世界』とは違う『場所』に、『別な世界』があった。
 今となっては、その世界がどこにあって、それがどんな世界であったのか、それを知るすべはない。
 なぜなら、その世界は消滅してしまったからだ。
 消滅の原因はその世界に生まれた、ある『魔物』である。
 『魔物』という言い方は、正しくはないのかもしれない。その存在は決して何の『悪意』も持っていなかったからだ。
 例えば同じ微生物であっても、病気を引き起こす微生物を『病原体』、逆に人間に利益をもたらす微生物を『酵母』と呼ぶのに似ている。
 存在そのものは同じだが、持っている力によって『魔』あるいは『神』とよばれる者達。
 その『魔物』もまた、ある力を持っていた。
 それは『空間を操る力』だ。
 新しい空間を『創造』する。
 空間のこちらとあちらを繋げる。

 存在する空間を『削除』する。

 お分かりとは思うが、最後の一つが問題だった。思うがままに、今ある空間を消滅させてしまう力。
 その『魔物』に何の悪意もなかったとはいえ、この力が振るわれる事はまさに『災害』だった。
 この力に対し、その世界に暮らしていた者達は即座に、『魔物』を排除する戦いを始めた。やむを得ないことだろう。
 だが一方の『魔物』の方も、黙って消滅させられる理由はない。

 激しい戦いの結果、その世界は魔物の振るう力によって『消滅』した。
 
 一つの世界が、きれいさっぱり消えてしまったのだ。
 『魔物』はどうなったのか?
 その『魔物』は、消滅した世界から別な世界へと移った。『空間を繋げる能力』だ。
 では、消えた世界の住人達はどうなったのか?
 わずかに生き残った彼らもまた、戦いのために作られた強力な武器と共に、その『魔物』を追って来た。
 それが『この世界』。
 今、無代達が生きているこの世界だ。
 彼らが降り立った『この世界』はその時、戦いの真っ最中だった。
 『聖戦』。
 人間と神と魔、その激しい戦い。人間もまた戦いのために強化され、今とは比べ物にならない力を振るっていた。『魔物を追う人々』は彼らの力を借り、ついに『魔物』を封印することに成功する。
 魔物を滅する代わりに、極めて良く出来た『封印』に閉じ込めたのだ。
 『魔物』の、空間を操る力はそのままに、『彼』に意志と目的を与え、その力を『人々の役に立つ』ように作り替える。
 『病原体』を『酵母』に変えたのだ。
 もうお分かりであろう。

 新しい空間を作る力は『倉庫』に。
 空間を繋げる力は「空間転送」に。
 『魔物』はこうして、新しい名を得た。

 『カプラ』

 それがもう一つの、物語の始まりだった。

 「では…その『魔物』というのは…」
 無代の表情はもう、驚愕を通り越して呆然。
 「そウでス。ボくがその『魔物』」
 目の前の少年が、微かな笑みと共に名乗りを上げた。
 「『カプら』。『皆の役に立つものであれ』と彼らガくレた、新しイ名前でス」
 その名前。
 その力。
 かつて一つの世界を滅ぼし、今は世界中の冒険者達の礎となる者。
 「『魔物』の時代ノ記憶ハ、ボくにハありマせん。『記憶スる能力』がアりまセんデしたかラ」
 『記憶する事』、『他者を認識する事』、『コミュニケーションする事』。そのすべては、後に与えられたものだ。
 それが『封印』。
 「彼らモ、ボくの力ヲ全て消滅さセる事はできナかった。だかラ、人間の様ニ記憶し、学習シ、思ウ事が出来るヨうにしタのでス…多くノ犠牲を払っテ」
 「…犠牲…?」
 無代が訊ねるともなく呟く。
 『カプラ』は、その犠牲が何であるかは語らない。しかしその表情から、それが熾烈を極めたものであろうことは、無代にも容易に想像できた。
 「今ノボくは、かつテの力をほトんど使えまセん。正直、こコに『いるダけ』ト言っテも良イ。ソの力は全て、カプら嬢のみンなに分ケ与えらレていルのでス」

 『カプラ倉庫』
 『位置セーブ』
 『空間転送』
 
 カプラ嬢が操るそれらの力は、では元々は『魔物』の力だったのだ。
 世界を滅ぼした魔の力。
 「…」
 D1も無代も、もはや言葉一つ出ない。
 「そシて、コの力を誰も独占できナいように、『カプラ社』ガ作らレましタ」
 それが『会社』の始まり。
 確かに、これほどの力が何者かに独占されれば、それはもう世界を制したも同然だ。会社と言う組織でそれを防御する事で、世界に対する安全装置とするのは自然な行為だろう。
 しかし。
 「『カプラ社自身』が、ボくの力を独占しよウとする、そこマでは想定外デした…アイダ専務を始メ、現在ノ会社幹部は、ぼクから『魔』の力を奪イ…こノ力を自分のモのにすルつモりでス」
 「…もしそうなったら…?」
 無代が鋭く訊ねる。
 「彼らハ、『世界を制すル力』を手に入れルでしょウ」
 しん。
 広い室内に沈黙が落ちた。
 その沈黙を破ったのは、D1だった。
 「…そこまで御存知で…なぜ何も…して下さらなかったんです…」
 低い、熱の籠らない声。それは質問というよりも『詰問』に近かった。
 「…さっキも言った通リだヨ。もう、諦めテいたンだ」
 カプラが少年の姿で、少年の顔で、少年の声で、だが老人の響きの声で応えた。
 「ボくがこコにいル限り、こノ力を求メる者が必ず現れル。ボクを守ルはずノ会社デさエ、ぼクを裏切ル。…そして…かプラ嬢サえ『BOT』にさレた時…何もでキないボくは、モう絶望すルしかナかった…」
 カプラが遠い目をする。
 「やハりボくは『魔物』ダ。『疫病神』…ト言う方ガ適当かナ。だかラ…」
 それは小さな、小さな声で語られた告白。
 「もウ消えてシまおウ、っテ、そウ思っタんだ…こレ以上、誰かを犠牲にスる前に」



 「…『飛び降りる』?! 正気なの?! 地上までどれだけあると思ってるの! キリエかけててもアスムでも、とても耐えられるものじゃないわよ!」
 D1が無代に喰ってかかった。無代の『飛び降りる』という言葉を、ただ無謀としか捉えていない。
 が、それも当然の話だった。
 D1の言う『キリエ、アスム』とは、僧侶系の術者が使う『キリエエレイソン』、『アスムプディオ』などのバリア呪文のことである。敵から撃ち込まれる剣や飛んでくる矢、魔法をある程度防ぐ呪文。だが…
 「防御できるダメージには限度がある。地上2000メートルからの落下の衝撃なんか防げるはずがないわ!」
 D1の、その判断は正しい。
 だが、無代はじっと彼女の目を見て、反論した。
 「アスム・キリエじゃない」
 「え?」
 D1が一瞬戸惑う。
 「プリーストのバリア呪文じゃない。ソウルリンカーの『カウプ』を使う。それと『カイゼル』、『カアヒ』も」
 「…!」
 「カプラ嬢の中に、『魂』持ちのソウルリンカーが二人いる。条件は揃ってる」
 『カウプ』。それは『ソウルリンカー』と呼ばれる職業の人間が使う術の一つだ。その効果は、『1度だけ、いかなるダメージも無効化する』。
 『カイゼル』も同じくソウルリンカーの術で、『死亡しても一度だけ、即座に復活できる』。『カアヒ』は、身体に攻撃を受けるたびに、そのダメージを逐次回復してくれる呪文だ。
 これらの術は非常に強力だが、基本的に『自分』、もしくは『家族』にしか贈れない。が、『ソウルリンカーの魂』という術を使う事により、全くの他人にも贈ることが可能である。
 『魂持ちのリンカーが二人』、無代の言う条件とはそれだった。
 「地上まで真っ直ぐに落ちて、一発で地面に着地できれば、理論上は無傷で降りられる。死んでもカイゼルで復活、って寸法だ」
 どうよ、という顔の無代。
 「オシリスカードの刺さったアクセサリーでもあればいいんだが…そこまで贅沢は言えんか」
 彼の言う『オシリスカード』とは、並のモンスターよりも遥かに強力な『ボス』と呼ばれるモンスターが落とす、輪をかけて貴重なカードの一つだ。その効果は『死亡して復活すると、魔力体力を完全に回復する』。確かにそれがあれば、この高さからの落下して死亡したとしても『カイゼル』の効果で即復活し、生存できる可能性は高いだろう。
 「実は、ここに来るまではそれ、T2(ティーツー)が持ってたらしいんだけどね。取り上げられちまったらしい。残念」
 おどけて苦笑いする無代。だがそれを聞いたD1の眉間には、深い皺が刻まれる。
 「…そりゃ…理屈はそうだけど…無謀だわ! 身体の損傷が激しすぎれば復活できないこともあるのよ…うまく行く保証なんかないじゃない!」
 「保証?」
 D1の反論に今度は、無代の眉間に皺が寄る番だった。
 「そんなもん最初から無えよ。何するにしたってさ」
 無代の顔に、今度は太い笑みが浮かぶ。腹の底から何か熱いものが噴き上げるのを、無理矢理抑え込むような強い微笑。
 「だけど『保証がないこと』は、『やらない』理由にはならねえ」
 はっ、とD1の目が見開かれる。
 そして、目の前にいる男の顔を、もう一度見た。
 「確かに保証は無えし、成功する可能性だってホントは大して…いや全然無いのかもしれんさ」 
 そんな弱気な言葉は上辺だけだ。それが証拠に、無代の笑みはさらに太く、深くなる。
 「だけど、人間の魂イジくって『BOT』なんてモノ作って、カプラ社ごと世界を牛耳ろうなんて連中が幅利かしたらどうなるよ?」
 無代が立ち上がる。
 「そうなったら本当に何の可能性も…『夢』だってろくに見られない世の中が来ちまうよ」
 肉まんの容器を抱え、D1に背を向ける。
 「俺にはこんな事しかできんけどさ。それでも出来る事があるんなら、せいぜい頑張ってみるさ」



 「…そんな…馬鹿なっ!」
 『カプラ』の告白に、D1は思わず叫んでいた。 
 『消えてしまおう』。それはまるで『自殺の告白』なのだから、彼女が叫ぶのも仕方ないことだ。
 「ごメんネ、D1」
 『カプラ』が、小さくつぶやいた。
  「デも、『カぷラ社自身』がボくを裏切るナら、ぼクに出来る事はもう無イんダ」
 『カプラ』の声はずっと小さいままだ。
 かつて一つの世界を消し去った『魔物』。だが、その力には枷がかけられ、もはや自分で戦う事はできない。その力は等しく、カプラ嬢達に分け与えられている。
 そして、当のカプラ嬢が『BOT』となってその力を行使するならば、彼にはそれを止める力すらない。
 魔を神と言い換えるなら、彼はまさに『巫女に裏切られた神』であった。
 偽りの神の声と、神の力を行使する巫女を、止める事も殺す事もできない神。
 ならば、神として苦しむことをやめ、考える事もやめる。そう決断したとて、誰が責められよう。
 「…! そんなことは私がさせません! 『BOT』なんて…そんなものをカプラ嬢にさせてなどおかない!」
 D1が力強く宣言する。
 「カプラ嬢を守るのが私の仕事です。その誇りを穢す者を許してはおきません…!」
 「…だガ、君に何ガできル? D1」
 「!」
 「…ゴメんよD1、君ノ決意を馬鹿ニするつもリはなイんダ。でモ、この会社ぐるミの陰謀にハ、さしモのキミも…」
 「そんなはずはありません! 『BOT』の存在を告発すれば…」
 「どこニ告発すルの?」
 「…え? …それは…王国の司法機関に…」
 D1の言葉に、カプラが首を振る。
 「…『BOT』の技術を伝え、そレを制作できルのは、王国の秘密組織『ウロボロス2』だケだ。…社長達の陰謀にハ、間違いナく王国そノものが関わっテいル。君ノ訴えハ無視されルか…君自身が『排除』サれてしマうだロう」
 「…!」
 D1の表情が固まる。代わって、それまで黙っていた無代が口を挟んだ。
 「『ウロボロス』、その名前がまた出てきましたね? しかし、『ウロボロス』はBOTを殺す組織だったのでは?」
 「『ウロボロス』は一つデはなイのデす」
 カプラが無代に解説する。
 「ぼクの知る限リ、9つノ組織ガそれゾれ、好き勝手ニ活動しテいる。カプラ社乗っ取りのタめにBOTヲ送り込んだノが『ウロボロス2』。それヲ阻止しヨうトBOTヲ殺シたノは『ウロボロス4』。まぐだれーな・ふぉん・ラウム、通称『四ノ魔女』という女性が率イる組織でス」
 「…『仲間割れ』というワケですか」 
 「イいえ。彼ラは元々、仲間なンかでハありマせん」
 カプラは真っ直ぐに無代を見る。
 「『ウロボロス2』が『カプラ社』と接近すレば、ソの勢力が強クなりすギる。『四ノ魔女』ハそれヲ嫌っテいルだケです。しカし彼女モまさカ、『ウロボロス2』がカプラ社そのモのを手に入レようトしてイるとハ、気づイていナいでシょう」
 「…」
 今度は無代が黙る。
 『ウロボロス』。
 それが、無代がずっと探し続けた友『一条流』が現在、所属する場所とまでは、さすがの無代も夢想だにしない。しかも、正に今話題に上っている『BOT殺し』こそ、流たち『ウロボロス4』の仕業であるとは。
 だが、無代の表情にははっきりと、何かの確信を掴んだ表情が浮かんでいる。
 (…やはり、この線だ…!)
 カプラガードから拷問を受けながら、それでも食らいついてたどり着いたこの場所。この情報。それが、追い求める何かに繋がっていることを、無代はほとんど確信していた。
 「…では、その『BOT』を排除する『ウロボロス4』なら、私たちの味方になってくれるのでは…?」
 D1がすがるような声を出す。
 しかし、カプラは小さく首を振った。
 「彼ラも、決しテ我々の味方デはありマせん。…それニ忘れテはいけナい。彼らハ『かぷら嬢』を殺しタ。例エそれガ『BOT』でモ…」
 D1がぐっと詰まる。
 全てのカプラ嬢の頂点である『D1』にとって、カプラ嬢の安全を守る事は至上命題である。確かに、それが『BOT』などという得体の知れないものであったとしても、カプラの制服を血で汚された事実に変わりはない。
 「…ならば…ならば…」
 D1の瞳に暗い火が宿る。
 「…社長以下、陰謀に関わるものたちを、私が…」
 『殺す』、そう言わんばかりの不気味な覚悟が、D1の身体から炎となって立ち上る。
 「…ダめだよ、D1。ソの制服を自ら、罪の血で染めルことは…」
 「でも…!」
 「そレに、多分もう遅イ…」
 「!」
 カプラが目を伏せる。
 「社長達はモう既に、相当数の『BOT』ヲ用意してイる。現役カプラ嬢の中にモ、もう相当数のBOTがいルはずダ。『ウロボロス4』が殺シたのは、そのホんの一部に過ぎナい。そシて…そのBOTを一気に『カプラシステム』に接続すレば、いツでもシステムを乗っ取レる。…今この瞬間デも」
 「…では…諦めろと!」
 「…」
 「相談役!」
 D1が今度こそ、少年に掴みかかった。『カプラ』の目の前に跪き、彼のスーツの裾を拳が白くなるほど握りしめる。
 「…社長達ハ、とテも上手に事を運んダ。ぼクでさエ、気がつイた時にハ遅かっタ…」
 カプラはD1に詰め寄られながらも、静かに語る。
 「…彼らカら『カプラシステム』を守ル事は、今とナっては難しイ。…でモ、モし可能性がアるとスれば…」
 「…それは!?」
 カプラがぐっ、と唇を噛み締める。そしてD1と無代の顔を交互に見て、言った。
 「あル場所へ行っテ欲しイ。D1。そシて無代サん。…そこデ『彼女』に会っテ欲シい」
 「その場所とは?」
 「ニブルヘイム」
 無代の問いに、カプラの答えは短い。
 「では…『彼女』とは?」

 「『N0(エヌゼロ)』…ですね…?」

 その問いに答えたのはカプラではなく、D1だった。
 「『N0』!?」
 「そうデす。生と死の狭間に立ち続ケる、『原初にシて永遠のカプラ嬢』」
 『死の都ニブルヘイム』。
 その街にも、カプラ嬢はいる。
 永劫の暗闇の中、死者と魔物だけが徘徊する呪われた『死者の街』で、そこに挑む冒険者達をサポートするカプラ嬢。
 ただし…。
 「…彼女には交代要員のナンバーズも、ノーナンバーもいない…。ただ1人…たった1人で24時間…365日、あの場所を守り続ける。だから『0(ゼロ)』…」
 D1が低くつぶやく。
 「ソう。そシて彼女こソ、『カプラシステム』の番人でアり…『カプラの封印』の守護者』」
 カプラも低く、つぶやく。
 「そシて、史上最初のかぷら嬢、だカら…『0』」
中の人 | 第八話「Free Fall」 | 02:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第八話「Free Fall」(2)
 無代の『飛び降り』の準備は着々と進んだ。
 無代を守る神秘の術を使う、2人のソウルリンカーは待機済み。さらに、バリア呪文を重複して使用するために、プリーストのカプラ嬢も確保してある。
 加えて無代の計画に協力してくれるカプラ嬢たちから、様々な防具やアイテムの提供も受けていた。強力な武器や防具は没収されてしまっていたが、それでも多少のモノは用意できる。彼女らはそれを惜しげも無く、無代の計画に差し出してくれていた。
 この空の上の牢獄に幽閉されてから、まださほどの時間は経っていないのだが、既にこれほど多くのカプラ嬢と語り合い、その信頼を得ているところはさすが無代、と言った所か。
 「ん、これでよし。…と言ってもあくまで頼りは『カウプ』。防具は気休めよ。わかってるわね、無代さん」
 「承知しております、『G1(ジーワン)』」
 無代に防具を着せてくれた『G1』は、カプラ『グラリス』のトップ嬢だ。
 知的な眼鏡姿が特徴の『グラリス』だが、他のカプラ嬢に比べてやや異質な印象を受ける。制服の肩に『螺旋(スパイラル)』を持たない『無螺旋(ノースパイラル)』。
 実は『グラリス』を務めるカプラ嬢達は、いわゆる『生え抜き』のカプラ嬢ではない。元々は王国の騎士団や教会、セージキャッスルやマジシャンズギルドなどから引き抜かれた、他職業のエキスパートだけで構成される『教官部隊』、それが『グラリス』である。そして他のカプラ嬢に、それぞれの持つ最先端のスキルを教授することを役目とする。
 その中でも『G1』の名を冠するこの女性は特に有名。なぜなら現役カプラ嬢の中でも、その頭上に『鷹』を従えたカプラ嬢は彼女ただ一人しかいないからだ。
 本名は『ルフール・シジェン』。だが世間ではその名よりも、『鷹カプラ』の異名の方が通りが良かろう。
 彼女が『グラリス』として街角に立つ時、その頭上には必ず、その愛鷹が舞うのだから。
 「…私たちも最大限のサポートをするつもりだけど…、さすがにこの高さから飛び降りた、なんて経験は無いから。一か八かね、ほんと」
 「それも承知の上です、G1」
 「…考えたけど…『私もやる』とはどうしても言えなかった。…笑って頂戴」
 G1が視線を落として、自嘲気味に笑う。
 この『G1』、元はフェイヨンで一、二を争う猟師だった経歴の持ち主だ。が、カプラ嬢に憧れ、一芸を競う『グラリス枠』に応募し合格。礼儀作法の一から下積みを重ね、ついに『G1』にまで上り詰めた時には、もう現役最年長に近くなっていたという苦労人である。
 しかし、今は相棒の鷹がいないせいもあってか、さすがに懊悩の色が濃い。
 「『灰雷(ハイライ)』…私の鷹の翼が、今ほど羨ましいと思った事はないわ。…ちゃんと餌をもらえているといいけど…」
 カプラ嬢宿舎の鷹小屋に残された愛鷹を思うのだろう、懊悩はさらに深い。
 「きっと大丈夫でございますよ。それに、こんな場所から飛び降りるとか、どうせ無謀な話ですから。お付き合い頂く必要はありませんとも」
 無代が安心させるように笑うと、G1もつられて少し笑う。
 「…ちょっと失礼、用を足して来ます」
 言い置いて、無代は『避難所の穴』を出た。
 わずかな草木がまばらに生えただけの、吹きさらしの岩肌。そこを少し歩いて、人気の無い場所まで来るとうずくまる。
 「…うえ…」
 吐いた。
 「…畜生…情けね…」
 顔をしかめて、両手で胃を押さえる。
 「…痛ってぇ…」
 ズキ、ズキと、内臓の中から錐か何かを突き立てられているような痛みが突き上げる。病気や怪我ではない、精神的なものだ。
 当たり前だった。
 地上2000メートルから飛び降りるのだ。ダメージ無効・復活の魔法があると言っても『すぐ生き返るから死ね』と言われて平気な人間はいない。その精神的・肉体的な恐怖とストレスが消えるワケがなかった。こんなことが平気な人間がいたら、それは勇敢なのでも何でもない、ただ『壊れている』だけだ。
 確かに無代はこれまで、何度も自分の命を危険に晒しながら、文字通り身体を張って様々な目的を達して来た。しかしだからといって、脅威に対する恐怖や不安が無くなるわけではない。
 無代は人間なのだ。
 「…誰だ?」
 無代が背後に声をかける。
 「…すまん…私だ」
 応えたのは『D1』。外に出る無代を追って来たらしい。
 「…見るつもりはなかった。すまなかった」
 「こっちこそすまねえ。…みっともないトコ見せちまって」
 無代がぐい、と袖口で口をぬぐうと立ち上がった。D1に対してはこの男、もうタメ口である。
 「…ま、アンタになら見られても構わねえよな。…景気づけに一杯ひっかけたい気分だけど、さすがに酒はないからなあ」
 「…マステラ酒なら1瓶ある」
 「お?」
 「…飲む?」
 「ありがてえ」
 D1が腰の物入れから取り出した小さな瓶に、無代はおどけて合掌し、押し頂く。
 蓋を開け、一口飲んだ。
 「…う…効く効く…」
 マステラ酒は『酒』と名前がついてはいるが、本来は体力を大幅に回復させる貴重な『薬』であり、決して嗜好品ではない。が、今はまさに天上の甘露だ。
 「…私にもくれ」
 「瓶、口つけちまった」
 「いい」
 それでも無代が一応、ハンカチで瓶の口を拭ってから渡すと、D1はしばしその瓶を睨んでいたが。
 「…!」
 ごくごくごくっ!
 「お…おい!」
 無代が止める暇もなく、天を仰いでラッパ飲み。
 「…うっ…げふっ! げふっ! ご…ほっ!」
 「あー! 言わんこっちゃない、そんな飲み方するから…」
 身体を海老のように折り曲げて咳き込むD1の背中を、無代が撫でてやる。D1は代わらぬカプラの制服姿なものだから、これはなかなか珍しい光景だった。
 「…ごほ…。…何で…?」
 「ん?」
 「…何で、そんな無茶なこと出来るの?」
 「俺の事か?」
 「…そうよ!」
 がば、と胸ぐらを掴まれた。思えば、彼女に胸ぐらを掴まれるのは二度目だ。一度目は王都のカプラ支社で、拷問から助けられた時。
 だが、今回は様子が違う。
 掴む力も釣り上げる力も弱く、無代を持ち上げるどころか、見ようによってはむしろ縋り付いているようにさえ見える。
 「こんな所から飛び降りるなんて正気じゃない! …今だってあんなに吐いて…」
 「…まあね」
 無代は自重気味に笑う。が、その瞳に曇りはない。恐怖はあっても、退くことはしない。
 その目を前にして、D1は無代の胸ぐらを掴んだ手を離すと、がっくりとうなだれた。
 「…私は…駄目だ…」
 「…」
 無代の前で、D1の身体が膝から地面に落ちた。
 「…私は…怖いんだ。カプラ嬢になって、頂点のD1を襲名して…横暴と言われようとも、カプラ嬢の誇りを守って…。その人生を疑った事はなかったのに…」
 D1がその拳を握りしめる。
 「…その力が…私がずっと誇りにして来たカプラ嬢の力が…魔物の力だったなんて…!」
 がん、と、D1の拳が地面を、遥か空の上に浮く巨大な岩塊を殴りつけた。
 その叫びを聴いた者は、無代だけだ。
 彼女の苦悩。
 それは『D1としての勤めを果たせなかった』だけではない。
 世の女性の憧れであり、冒険者達のアイドルであり、『世界で最もやりがいのある仕事』と信じていた、カプラ嬢という存在。
 世界の誰も使えない強力な力を、全ての人のために分け隔てなく行使する、その自信と誇り。
 それが、得体の知れない『魔』の力を借りただけのもの、と知ってしまった時、D1の心は、存在は砕かれた。
 「…分かってる…ここでこうしていても仕方ないって…分かってても…どうしても…!」
 『D1』としての自分を支えていたもの、それが微塵に砕けてしまった。どれほどの実力があろうと、どれほどの人望があろうと、『自分』が砕けてしまってはどうしようもなかった。
 今のD1は、もう何者でもない。腕利きのパラディンでも、カプラ嬢の頂点を究めた者でもない。
 「…」
 無代にも、彼女を救う言葉はない。
 ただ。
 「…俺だってさ。落っこちずに済むならやりたくねえよ」
 膝をついたD1を前に、静かに告白する。
 「…でも、落とし前はつけなくっちゃいかんしな」
 「…『落とし前』…?」
 意味が分からなかったのだろう。D1が、俯いた顔を上げた。
 「そう…アンタに言っても分からんだろうけど…ちょっと前まで、俺は腐ってた」
 「…?」
 案の定、分からないという顔のD1。
 「故郷を飛び出して、いっぱしの冒険者になって名を挙げて…行方不明の友達を捜し出して、故郷に錦を飾る。そう決意してプロンテラへ来た。…でも、どれ一つとして果たせなかった。…『約束』したのに…」
 「…」
 どこまで行っても凡人の自分。
 その程度の冒険者なら、あの街には掃いて捨てるほどいた。それでも何とか腕を上げようと、金を儲けようと頑張れば頑張るほど、周囲との差が開いて行くようなネガティブな幻想。意志だけが空回りし、さっぱり現実がついてこない感覚。
 気がつけば、故郷を出る時に抱いていた『輝かしい未来』は、現実と言う壁の前で砕け散っていた。英雄になるはずの自分は、跡形も無くばらばらになっていた。
 残ったのは、情熱を失った『男の抜け殻』。生きているだけの自分。
 その『砕けてしまった自分の欠片』をもう一度拾い集め、やっとのことで『自分』を造り直し再び立ち上がる事ができたのは、静の叱咤と、『天井裏の魔王』の導きがあったからだ。

 彼らと交わした『約束』があったからだ。

 「…でも…死んじゃうかもしれないのよ?」
 「それは理由にゃならねえ」
 無代はきっぱりと言った。
 「俺は今、生きてる。死んでいた俺が、こうして生き返ることができたのは『約束』のお陰だ」
 
 せかいをかえてみせろ

 「なら、今の俺の『命』は『約束』と同じものだ。『無代っていう約束』、それが今の俺」
 にか、と無代が笑う。
 それは強がり。それは虚勢。
 耳障りの良い言葉で、無理矢理自分を騙しているだけだ。
 それなのに、その笑顔がやたらと清々しいのはなぜだろう。

 ゆうしゃでなくても えいゆうでなくても

 「それにさD1。何たってこれ、チャンスだろ?」
 「…『チャンス』…?」
 これまた意味が分からなかったのだろう。D1が訊き返す。
 「そう。『チャンス』。俺みたいな『凡人様』が、『英雄様』に肩を並べる大チャンス」
 にか、とまた笑う。今度は、ちょっとだけ悪戯っぽい笑顔。
 「こんな俺でもさ、実はお姫様が婚約者だったり、王子様が友達だったりするんだぜ? でもコレがさ、釣り合わないったらないワケよ」
 こちとら天下の凡人様だもん、と自嘲。 
 「でもここで頑張って、カプラ社とか世界とか救っちゃったりしたらお前、一気に成り上がりだろ。ココは一発行っとかねーとさ」
 親指立てて決めポーズ。
 「…ぷっ…」
 D1が思わず吹き出した。
 「えっ! 笑うとこ?! 笑うとこじゃねーだろ!?」
 無代が抗議するが、顔は笑っている。

 おまえなら きっとできる

 「『欲張り』なら誰にも負けねーよ。勇者でも英雄でもないけどさ」
 (…負けた)
 無代の笑顔を前に、D1は内心で白旗を上げた。
 この男はきっと、ずっとこうして生きて来たのだろう。
 何一つ優れたものなど持たず、それでも『何か』を掴むために身体ごと、命ごと投げ出すように生きて来たのだろう。
 負けて、泣いて、逃げ出して、それでもその度に『砕け散った自分』を拾い集めて、そして立ち上がって来たのだろう。
 笑顔で。
 「…分かったよ、無代」
 D1は立ち上がった。汚れてしまったカプラのスカートをパンパンとはたき、腰をしゃんと伸ばす。
 そして右手の拳を握ると、無代の胸をどん、と一つ、突いた。
 「…女たらしの、落ちこぼれ冒険者だとばっかり思っていた。謝る」
 「思ってたのかよ! …いやまあ、だいたい合ってるけどさ」
 わはは、と無代。
 「だが、無代。お前、一つ嘘をついたな」
 「…嘘?」
中の人 | 第八話「Free Fall」 | 02:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第八話「Free Fall」(3)
  「N0(エヌゼロ)…」
 カプラの言葉に、無代がうめくように応えた。
 「では『その 方』に会えば、カプラ社 を守れるかも知れない、そういうことですね?」
 無代が『カプラ』に念を押す。だが、カプラはそれを否定も肯定もしない。
 「…かぷら社 のシスてむは、ぼクの持つ『空間の魔』の力を基礎とシていマす。そシて、そレを運用すルたメの『ぷろぐらむ』、その『おりじなる』ヲ、「N0」ハ持っテい る。だかラ、他のカプラ嬢を全テBOTに入れ替えテも、彼女ダけは不可侵デす」
 
 『彼女だけは大丈夫』

 カプラ嬢が殺 害された際、カプラガードが全カプラ嬢に護衛を付けると決めた時、『一カ所だけを除く』と言った意味。
 原初にして、唯一にして、不可侵のカプラ 嬢。
 それが「N0」。
 「…正確にハ『彼女達』デすが…」
 「『達』?」
 カプラが謎めい た言葉を無代が聞きとがめ る。
 「…会えバ分かりマすヨ。…タだ、『彼女達』の力があっタとしテも…社長達の計画ヲ阻止でキるかどウか…。でモ、彼ラが計画ヲ実行しタ時、 『かぷらシステム』を自由に使エるのは彼女ダけデす」
 「分かりました、お引き受けします。…ただ、一つおお訊ねしてよろしいですか、『カプラ』 さん」
 「何デしょう、無代さン?」
 無代が立ち上がり、『カプラ』と相対する。割と長身の無代を、『カプラ』が見上げる格好。
  「…こんな大事を、D1はともかく何故『私』に? 落ちこぼれの木っ端冒険者ですよ、私は?」
 「あア、そノ事でスか」
 『カプラ』が 笑った。
 「無代サん、貴方が似てイたかラでス」
 「似ていた?」
 「そウ」
 『カプラ』がその目を少し閉じて、言っ た。
 「遠い昔、ボクに名前ヲくレた人々に。…彼らモまた貴方のよウに、『屈しナい目をシた人々』デ…し…」
 『カプラ』の言 葉が不自然 に途切れた。
 「…どうしました?」
 「相談役…?!」
 無代とD1が慌てて『カプラ』の様子を伺うが、少年の姿の『小さ な魔』 は呆然と立ち尽くしたまま、
 「…遅かッた…社長達ガ…予定を早めタらしい…!」
 「!」
 「…各地の…カプラ嬢達が一斉に 『BOT』ニ…しすてむガ乗っ取ラれまス…急いで転送ヲ…ウンバラへ…!」
 ウンバラは、ニブルヘイムへの入り口となる街である。死の街である ニ ブルヘイムには、空間転送で直接訪れる事はできないのだ。
 「…相談役は?!」
 「だメだ。…ぼクは…ボくの意志モ奪わレ…る…」
  「相談役!」
 少年の目からは光が、顔からは表情が消えて行く。
 駆け寄ろうとするD1と無代。が、その動きが『声』によって止まった。

  「…『無代』…『D1姉さん』…」

 名を呼ばれて はっ、とD1が、無代が振り向く。
 「D4!」
 「…モーラ…?」
  そこに『D4』、モーラが立っていた。
 姿勢よく着こなしたカプラの制服。『ディフォルテー』の青いヘアピース。
 そして無代 の、一夜限 りの恋人。
 「無事だったのね!? 外は?! 他のカプラ達は?!」
 D1ことガラドリエル・ダンフォールが、後輩の姿に声を荒げる。
  「どうなのD4! D2、D3は?1 G1姉さんは?」
 「…大丈夫です、D1姉さん。すぐに皆の所へ案内しますから…」
 「皆の 所…?」
 違和感。だが、真実を悟るのは無代の方が早かった。
 「…違う!」
 無代は叫んでいた。
 『D4・モー ラ』。 その声を、その瞳を、その肌を、誰よりも近くで感じたのはまだ一昨日の夜の話だ。その温もりを、一つのベッドで共有したのは。
 「それは…モー ラ じゃない! 『モーラだけどモーラじゃない』! 気をつけろD1!」
 「え?」
 D1が思わず、モーラと無代を見比べる。
 無代 の厳しい表情に対し、モーラは無表情と言ってもいい。
 「…D1…そレは…」
 『カプラ』が、最後の力で言葉を絞り出す。

  「…それガ、『BOT』ダ…D4はもウ、D4じゃナい…」

 「…転送しま す。D1姉さん、無代…」
 何も聞こえていないように、 『モーラ』が宣言した。
 「待て!」
 無代が『モーラ』に飛びかかる。しかし『モーラ』のスカートが翻る方が早い。
 美しい曲線 を描いて高々と上がった蹴り脚が、モーラのしなやかな身体と一緒に斜めに、これも美しい弧を描いて振り下ろされる。
 『トルリョチャ ギ』。いわゆ る回転蹴りだ。モーラは『拳聖』である。それもDナンバーを持つ超一級のカプラ嬢。
 『無代ごとき』が避けられるものではない。
 び んっ!
 重さよりもキレ味を重視した、ハンマーというよりは鋼のムチのような一撃が、無代の首筋を撃ち抜く。
 「が…っ!」
 無 代の首がかくん、と揺さぶられた。頭蓋骨の中の脳が一瞬でシェイクされ、平衡感覚を奪われてそのまま床を這う。意識まで刈られなかっただけ、無代の打たれ 強さを褒めるべき場面だった。
 「D4!?」
 D1が反射的に腰の剣を引き抜く。パラディンの使う、強力な片手剣 だ。が、構えられたその 剣先には力がない。
 例えばあの一条静のような使い手ならば、相手の構えを一目見ただけで、あるいはその剣先を一目見ただけで、その人間の意 志を 悟る事ができるという。
 もし、あの比類なき使い手である姫君が、今のD1のそれを見たならば、そこにはただ『困惑と迷いしかない』と即座に断ず るだろう。
 D1ほどの強者でも、そんな剣では脅威たりえない。
 『モーラ』のスカートが再び翻る。剣を握った拳を撃ち抜かれ、D1の手 からあっさりと剣が飛んだ。
 「っ…! D4! どうしたの?! 正気に戻って!」
 「だ…めだ…っ!」
 剣を失いながら も 『モーラ』に必死で訴えるD4に、床を這ったままの無代が苦しい声をかける。
 「そ…いつは…もうモーラじゃ…ない!」
 そうだ。
  違うのだ。
 無代は誰よりも、それが分かる。いや、分かってしまう。
 モーラの、あの生命力に溢れた肢体。生まれ持った輝くような才能 を、厳しい下積みで磨きに磨いた実力、それに裏打ちされた自信。
 そこから滲み出す優しさ。
 見据えた明日。
 希望。
  無代が、自らの失意の日々の中で惹かれ、魅せられた『モーラ』の美しい『あり方』。
 だが今、彼らの目の前にいる『それ』には、全てが無かった。
  奪われたのだ。
 魂ごと。その美しい魂ごと。何者かに根こそぎ奪われてしまったのだ。
 『BOT』。
 蹴りの一撃で惨 めに床を這 いながら、無代は痛みと同時に吐き気にも耐えねばならなかった。蹴られ、脳を揺らされたからではない。
 心を撃たれたのだ。
 無代自身が 暗闇の中で惹かれたものを、魅せられたものを、目の前で無惨に奪われた。愛しいものを、その形だけ残して破壊された。
 こんな残酷な奪 われ方はな かった。
 「そんな…そんな…!」
 D1もまた、ようやくその事を悟っていた。そして無代と同じ衝撃で、心のどこかを破壊され た。
  『ディフォルテー』の先輩として優しく、時に厳しく接して来た後輩だ。いずれは『D1』を継ぐ者になるかも、という予感もあった。
 モーラもま た、その気概と希望を隠しもせず、日々を精一杯生きていた。
 (妹のように…思っていた…!)
 だからこそ、『無代』などというチンピラ 冒険者に口説かれ、一夜で捨てられたと聞いて激昂したのだ。モーラが泣いて止めるのも聞かず、カプラガードに殴り込んで無代をとっちめたのだ。
  それが奪われた。こんなにも残酷な形で。
 そして『相談役』の言葉が本当であれば、カプラ社は今まさにこの『BOT』によって侵略さ れようとして いる。
 幼い頃から憧れ、努力し、手に入れた『カプラ嬢』の制服。カプラ嬢の頂点たる『D1』の称号。
 それに付随す る、『カプラ嬢を守 る』という責任と、それを果さんとする気概。
 (…私は…!)
 『モーラ』のスカートが立て続けに翻り、空気に焦げ目を残しそうな 鋭い蹴 りがD1を襲う。
 よろよろと避けるのがやっとだ。
 一度だけ防御した腕は、恐らく青アザになっている。早く治療しないと数分後には見事 に腫れ上がり、動かなくなるだろう。
 (…私は…何も守れない…)
 腕が上がらない。脚が動かない。
 カプラ社と、 カプラ嬢の誇 りを守るためなら、魔王とでも一騎打ちしてみせると思っていた。
 だが、魂を奪われた後輩の、『カプラ嬢の形』をした『モノ』を前に、D1の心は 激しく動揺せざるを得なかった。
 (…守れ…なかった…)
 すとんっ!
 D1の防御をや すやすとすり抜けた『モーラ』の足刀が、 槍の鋭さを持ってD1の腹部を抉る。
 「かは…っ!」
 D1の身体が、『く』の字に折れた。心と一緒に。
 「…」
 す う、と、息一つ切らさずに、モーラが構えを解く。いや実際、無代はもちろん今のD1が相手なら、制圧するのに息を荒げる必要など全くなかった。
  「制圧しました、アイダ専務」
 『モーラ』は何の感情も無く、モーラの顔で、モーラの声で、宣言した。
 「ご苦労、 D4」
 どこ からか、カプラ社専務『ヒルメス・アイダ』の声が響いた。カプラ社の音声伝達技術『積木霊』だろう。
 「まあそういうことだ、D1」
 い ちいち説明なんかする必要もない、というバカにしたような響き。
 「キミの仲間達には、すぐに会わせてあげよう。何、心配はいらん。数日後には全 員、私の忠実な人形となってもらう。…D4と同じようにね」
 「…!」
 D1が、きっ、と顔を上げるが、その視線を向ける相手はそこには いない。
 「…専務っ!」
 「…転送します」
 D1の威嚇の声も届かないまま、モーラが静かに告げた。
 無代とD1の 身 体が、転送の光に包まれる。



 「無代さん。キミ、ブラックスミスなら、コレ持ってって頂 戴」
 『飛び降り』の準 備を終えた無代の前にどすん、と大振りの斧が差し出された。ゴツい刃を下にして地面に置き、それを支点に柄の方をほい、と放られる。
 「…これ は…W1(ダブルワン)?」
 「知らない? これが『呪砕き(ドゥームスレイヤー)』よ」
 放られた柄を握った無代に、得意げに教えるの はW1。カプラ『W(ダブル)』のトップを張るカプラ嬢だ。
 『W』は金髪のツインテール。『カプラ嬢の末っ子』という設定の、最も少女っぽい外 見。
 『W1』、本名『カヤ・ウィンゼル』。
 彼女はその『Wの役』を、実に20年に渡って務める現役最年長のカプラ嬢である。それも、 ヘアビースなどの仮装を一切使わない『地』で。
 実生活では既に結婚して子どももいるのだが、外見といい声といい、20年間全く変わらぬ 『少女っ ぷり』ときたら、『カプラ嬢七不思議』の一つに数えられるほどだ。
 「…こんな凄いものを…」
 「マトモな武器はみんな取り上げられ ちゃったけどね。これは『マトモじゃない』って思われたみたい」
 がはははは! 笑い声が場違いに豪快だ。見かけも声も『金髪ロリータ』なだけ に、この違和感は凄まじい。
 ちなみに『マトモじゃない』とは、この『ドゥームスレイヤー』という武器の特性による。非常に大きな威力があるが、 持ち主が相当の腕力を持っていないと使えず、さらには持ち主の気力体力を大幅に消耗するという呪いまでかかっている。『実戦には役に立たない武器』、いわ ゆる『ネタ武器』のレッテルは仕方ないところだ。
 「ココに放り出されてから、この避難壕掘ったり色々役に立ったけど、もうココじゃ用済みで しょ。持ってって頂戴」
 「…しかし、貴女の武器が…」
 「大丈夫、作るから!」
 にこ、と微笑む。
 このW1は腕の い いホワイトスミスであり、カプラ嬢達の使う武器の多くは彼女が自ら制作した物、という事実は有名だ。
 「キミが肉まん作るの見てね。負けちゃいら れないと思ったの。キミと同じく、鍛冶道具はいつも持ってて取り上げられずに済んだし、材料も皆の荷物をかき集めれば何とかなる。炉はその辺の岩削って自 作する!」
 ぐっ、と親指を立てた拳を突き出し、もう片方の手は腰。
 自分よりだいぶ歳上と知っていても、その反則的に可愛い仕草に無代 も思わず頬をゆるめる。
 「…無代さん、落下場所が決まった」
 G1が声をかけてきた。
 彼女は先ほどからずっと岩塊の端っこに 寝そべって、遥か真下の地上を覗き込んでいる。スナイパーの持つ異常な視力と、風を読む能力(それは弓使いに不可欠な能力だ)で、落下地点と落下のコース を選定しているのだ。防御の呪文があるとはいえ、落ちる場所はできるだけ穏やかな場所がふさわしい。もし落下の途中で何か障害物に当ったりすれば、それだ けで防御呪文が消えてしまうことも予想される。
 「…見えるかい、あの湖。あそこがいいだろう。風は北東に吹いてるから、もう少し待てばこ の岩が あの上に流されるはずだ」
 G1が淡々と説明する。無論、この高さから落ちれば、激突する先が地面だろうが水面だろうが大した違いはない。防御呪 文がなければ即死、という結果があるだけだ。
 が、わずかでも生存の可能性が高くなる落下地点としてG1が選んだ落下地点が、そのジュ ノー近くに ある名もない湖だった。
 「すぐ側に高い岩山があるのが気になるけど…」
 「了解ですG1。見事、ホールインワンで落っこちてみせます よ」
 無代が軽口で応じる。それが強がりに過ぎないと分かっていても、G1、W1を始め、集まったカプラ嬢達の間に笑いが漏れる。
 その 笑いの輪が、一つの言葉で途切れた。
 「…待って、無代」
 無代を囲んだカプラ嬢達の人垣が割れる。
 そこから姿を 現したのは D1。だが、先ほどまでとは様子が違った。
 奇麗に結い直したらしい真紅の髪はほつれ一つなく、背筋がぴんと伸び、足取りも力強い。そ して何よ り、彼女の象徴とも言うべき強い瞳の光が、奇跡のように復活していた。
 つかつか、と歩いて来たD1が、G1、W1らに囲まれた無代の前で止ま る。そして何を思ったか、カプラの制服の裾を両手で掴むと、
 「…っ!」
 がばっ、と真上に脱ぎ捨てた。
 「ちょ…っ!」
  「な…!」
 無代はもちろん、何事かと見守っていたG1らカプラ嬢たちが仰天する。気でも狂ったのか、と思った者さえいた。
 制服を脱い だD1の身体に残ったのは、色気の欠片もない機能的な下着だけだ。だが、その下の肉体は見事にシェイプアップされ、戦士としての機能と女性としての魅力を 鮮やかに両立している。
 「…G1姉さん、これを」
 D1が静かに、だが決然と、脱いだ制服をG1に差し出した。もう片方の手で、頭を飾 るカプラのヘアバンドも外し、共に差し出す。『D1』はカプラ嬢の最高峰を示すナンバーだが、G1のように歳上のカプラ嬢に対しては、後輩としての礼を尽 くすのがしきたりである。
 「…どういうつもり? D1?」
 差し出されたG1は、もちろんすぐには受け取らず、眉間に軽く皺を寄せて聞 き返す。
 「…私は、これを着ける資格がありません」
 先輩カプラ嬢を前に、D1が決然と宣言した。
 「カプラの最高 峰たる 『D1』を名乗る資格はおろか、この制服を着る資格も、ヘアバンドを着ける資格もない」
 「…」
 G1は黙って後輩の言葉を聞いている。 それは、周囲を囲んだカプラ嬢達も同じだ。
 この岩塊に幽閉されてからすっかり意気消沈したD1の姿に、少なからず失望した者も多い。 そんな彼女 らにとっても、これは久しぶりに見る『強いD1』の姿だった。
 「…私は、自分が誇りを持って行使してきた『カプラの力』に、あんな背景があった なんて知らなかった。そして…初めて『怖い』と思った」
 D1の、飾り気の無い告白。それがカプラ嬢達の間に広がっていく。
 「正直、私 はこれからも今まで通り『カプラ嬢』でいられる自信がない。昨日までの私、『D1』はもう砕け散ってしまった」
 自分自身の、弱 さの告白。だがそ の言葉は決して弱いものではない。
 「私は何も守れなかった。殺された後輩達も、会社も、相談役も、D4も、私自身の誇りも、 何一つ守れなかっ た。ここへ来てからの、私の情けない姿を皆がどんな目で見ていたか、それも知っていて、それでも立ち上がる事をしなかった。…もう『カプラの守護者』たる 資格はない。だから、制服とヘアバンドを外した」
 「…だから? だからどうするというの、D1?」
 G1が厳しい顔 で、眼鏡を直しなが ら問いかける。この眼鏡は当然、伊達眼鏡だ。王国でも指折りのスナイパーである彼女に、眼鏡など無用の長物である。一切度の入っていないその眼鏡越しに、 後輩を見つめる鋭い視線。それはカプラ嬢としてではなく『カプラの教官』たるグラリスの顔だ。
 「…だから…」
 D1はその視線 を真っ直 ぐに受け止める。
 「…だから『取り返しに』行きます!」
 「『取り返す』?」
 「はい。…砕け 散った『私の欠片』を拾い集めて もう一度…もう一度『私は私になる』。その時、私がまたカプラ嬢でいられるかどうかはわからないけれど…。それでも、ここで黙って『私が私でなくなる』よ りはいい」
 ぐっ、とD1が無代に向き直る。
 「私も飛ぶ。連れて行ってくれ、無代」
 「!」
 D1の言葉に、 G1を始 めとするカプラ嬢の間に、悲鳴に似た驚愕が広がった。だがD1の態度に一切の揺らぎは無い。
 まっすぐに無代を見つめる。
 「無代。私は さっき、お前の事を『嘘つき』と言った」
 「…? ああ」
 「お前が言った『大事な人々との約束』、『成り上がるチャンス』、 どちらも本 当だろう。…だがもう一つ、理由があるはずだ」
 D1が人差し指でびしっ、と無代の鼻面を指差して、言った。
 「…お前は、 モーラを助け るつもりなんだ。違うか?」 
 「…」
 無代は応えなかった。
 いや『応えられない』と言った方が正しいだろう。
 そも そも、BOTにされてしまったモーラを助ける事ができるのか、それが無代には分からない。もし方法があるとしても、その方法など見当もつかない。
  だが、諦めるつもりはなかった。モーラを助けられるなら、その方法があるなら。
 そしてそれが自分に出来る事ならば。
 無代はどんなこ と でもするつもりだった。
 「…お前は嘘つきだ。無代」
 D1が繰り返した。
 「だが、信じるに足る男だと思う。私を連れて行って くれ。きっと役に立つ」


 D1の『落下宣言』は、ちょっとした騒動を引き起こした。
 しかし、とにかく時間が無かった。 ぐずぐずしていれば、風で移動する岩塊が落下地点の湖を通り過ぎてしまう。
 D1は結局、引き止めようとするカプラの先輩後輩の意見を振り切 り、 無代と共に飛ぶことになった。
 G1の指示で直ちに、余った装備がD1の身体を固める。高価な防具などは望むべくもない。 普段使いの、防具とも言 えないような装備品ばかり。それでも武具一式を身につけると、さすがD1を名乗るだけの風格はある。
 「行こう」
 準備ができると 同時 に、ためらいなく無代を促す果断さもまた、その復活ぶりを感じさせる。
 「…よし」
 無代も即応。こちらも完全武装だが、D1に比べると どうも武装がしっくりこないのは致し方ない。W1から託された『呪砕き』は背中に、刃を下にして背負っている。そのため柄が上に、肩から突き出して見える のが奇妙な感じを受けるのだが…。
 『コイツは振り回すんじゃない。『腰で捌く』のよ』
 短い時間なが ら、W1が教えてくれた『呪砕き』 の運用法。
 長い柄を腰の後ろに回し、刃と柄をそれぞれ腰の両脇でホールドしておいて、思い切った踏み込みと腰の回転でもって、敵に重い一撃を打 ち込む。
 『ベッドん中で女を泣かせる時の、あの腰使いよ。しっかり頑張ってね!』
 がっはっは、と笑う『金髪ロリータ』に、無代 も苦笑 するしかなかった。
 「…よし、魔法だ!」
 『カプラの教官』たるG1の指示が飛ぶと、ハイプリーストのカプラ嬢から防御の魔法が無代 と D1に贈られる。
 そして『魂』を交換し、薄青い光に包まれたソウルリンカーから『カイゼル』、『カアヒ』。
 そして『カウ プ』の術が贈 られた。
 一度だけ、どんなダメージも無効化する術。それが無代とD1の命綱だ。
 「…多くは言わない。また会おう、無代さ ん。…D1」
  G1が短く別れを言う。
 無代とD1はもう言葉は使わず、微かな頷きでそれに応えた。
 岩塊の端、そのさらに端へと二人が進む。もう 振り 向く事もなかった。
 飛ぶのだ。
 その場に居合わせた全員が、その感慨を熱く胸に抱いた。
 (…?!)
 その命がけの 飛 翔の直前、集中と緊張でギリギリまで研ぎすまされたD1の直感が、背後で何かの異変を捉えた。
 思わず振り向く。
 考えるよりも先 に身体 が反応するのは、彼女の武人としての鍛錬ぶりを示していた。そして鍛え抜かれたその『目』が、背後で見守るカプラ嬢達の人垣を一瞬で認識し、そして異変の 中心を瞬時に捉える。
 銃口。
 カプラの制服が並ぶ人垣の、わずかな隙間。
 そこから覗く凶 器の牙。
 それが狙うの は…。
 「無代っ!」
 やはり、考えるよりも身体が先に動いた。自分の隣で、今にも宙へ足を踏み出そうとしている無代を、身体で庇う。
  ぎぃいん!!!
 凶器の銃口が火を噴いた。吐き出されたのは単なる銃弾ではない。スキル攻撃。人間の1人ぐらい、一撃で微塵に砕く威力を 持つ。
  ぱきぃん!!
 凄まじいダメージがD1を直撃した。だが、D1は無傷だ。さっき贈られたばかりの『カウプ』の術が、そのたった一度の効果を発揮し たのだ。
 だが、肉体への直接のダメージは防げても、その凄まじい破壊力の余波までは消しきれない。D1、そして庇われた無代をも巻き込み、二人 の身体が数メートルも吹き飛ばされる。
 その先は、『空』。
 「…!」
 宙に放り出されながら、それでもD1の目は 脅威から視線 を離さない。凄まじい集中力の中で、一瞬一瞬がスローモーションのように間延びして見える。
 火を噴いた銃口を中心に、カプラ嬢の人垣が左 右に割 れる。
 G1が、その伊達眼鏡を宙に飛ばす勢いで銃口に殺到し、脚をムチのように使ってこれを宙に蹴り上げた。
 W1が、その小 柄ながら パワーに溢れた身体を投げ出し、銃の射手をタックルで引き倒す。
 凶弾の射手。
 それもまたカプラ嬢だった。
 『T4(ティー フォー)』。カプラ『テーリング』のNO4。職業は銃を操る『ガンスリンガー』。
 この岩塊に来てから一度も、誰とも口をきかず、岩の上でうずく まるだけだった。無代の肉まんも受け取らず、言葉も交わしていない。
 そこにいる全員が、この岩塊に来てからT4の顔を見たのさえ、ひょっとした ら初めてかもしれなかった。
 感情の無い表情。
 何の光も宿さない瞳。
 (…『BOT』…!)
 D1の心を、再 びあの痛 みが掻きむしる。
 まただ。
 また守れなかった。
 モーラに続いて、ここにも犠牲者がいた。
 『空の牢獄』 からの脱出を 阻むように、あらかじめプログラムされ、武器を持たされて送り込まれていたのだろう。鉄格子のない牢獄の、見えない看守。
 (…畜 生…っ!)
  自分が、『D1』たる自分がその義務を果たしていたなら。ここに幽閉された全員と、無理矢理でも語り合ってその心根を確かめ、皆の気持ちをもっと早く一つ にまとめあげていたなら。その中にBOTが紛れ込んでいるなど即座に見抜いていたはずだった。
 だがその後悔は遅い。
 「…D1っ!」
  無代が叫ぶ。
 彼には、何が起きたのかを全て把握する能力はない。だが、把握すべき大切な事はちゃんと把握している。
 だから叫んだ。
  D1にはもう『命綱』がない。
 『たった一度だけ、あらゆるダメージを無効化する』、その『カウプ』の効果。
 それが、あの 一発の凶弾で 消えてしまった。残っているのはわずかな防御呪文だけ。
 D1の目には、岩塊に残ったソウルリンカーが必死に岩の端まで駆け寄り、カウプを贈り直 そうとするのが見えている。
 だが、遅い。
 ご………お………
 重力が、D1と無代を捕らえた。
 一瞬が何時間に も感じ られた、集中力のスローモーションが終わる。
 ごぉぉぉおおおお……!!!
 無代とD1の全身に、叩き付けられたような衝 撃が襲う。
  地上まで2000メートル。
 落下が始まった。
中の人 | 第八話「Free Fall」 | 02:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第八話「Free Fall」(4)
  「…あっちゃん遅い!」
 静がそのしなやかな足で、石畳をかーんと踏 みならした。
 プロンテラ下町。晴天。
 雪のルティエでの一夜が明けた、その昼下がりである。
 『カプラ嬢(実 際には、彼女は『BOT』であったのだが)殺し』の集団を相手にとった、あの激しい戦いを終えた静、フール、速水厚志の三人がプロンテラの宿屋にたどりつ いたのは、もう明け方だった。
 しかも全員ずぶ濡れ。
 プロンテラの中央噴水に飛び込んで来たからだ。一夜をかけて 斬りまくった敵からの返り血で、血まみれなのを隠すために。
 顎の先から水滴を垂らしながら宿に入ると、早起きしてきた宿の女将とばったり出くわし た。が、さすがというか女将は騒ぎもしない。
 直ちに風呂が用意され、静が放り込まれる。
 一方、男二人は 裏の井戸端。それでもたっぷりの湯は用意された。
 身体を清め、武具を洗う。
 朝食をかき込む。
 そして眠る。
 三人が三人と も、さすがに限界だった。特に静は風呂の途中と食事中に二度ずつ、こっくりと居眠りをして女将に叩き起こされている。
 眠る前に若干の モメ事はあった。
 『ここで寝る! プルーフと一緒に!』
 フールのペコペコである『プルーフ』をいたく気に入ったらしい静 が、鳥小屋に居座ってしまったのだ。プルーフの背中にべちゃーっと張り付いたまま、気持ち良さそうにゴロゴロしている。
 女将がなだめす かしても頑として譲らないので、最後は女将もあきらめて、ため息まじりに毛布を持って来た。
 プルーフの大きな背中をベッドに、静が上機嫌 で毛布に潜り込む。
 当のプルーフは無関心。プルーフの持ち主であるフールも無関心。
 なぜか速水だけは、どういうつもりか頭にわさ わさと『ペコペコの羽』を飾って、静の視界をうろうろ。…だが残念ながら、寝ぼけ眼の静の眼中には入らず。それどころか、
 「…」
 心なしかプ ルーフにまで、呆れた目で見られてしまった。
 「…くっ!」
 どこまで本気なのか、速水がきっ、とプルーフとにらみ合うと、つか つかと鳥小屋を出て行ってしまう。
 「…速水クン。明日、お昼に宿の前で待ち合わせ」
 後ろから声をか けたフールをちらっと振り向いただけで、速水の姿は消えた。
 「…ペコペコに張り合ってどうすんのさ…涙目だったし…」
 さすがのフール が呟いたものだった。
 静は結局、昼前まで鳥小屋で熟睡。そして起きるなり、女将が用意した新しい剣士服を着、朝食兼昼食をたらふく食べ、約束 の少し前にはフールと共に宿屋の前に出たのだが…。
 「…あっちゃんが来ないっ!」
 静がまた足を踏み鳴らした。
 伸びやかな長 身の剣士姿は、下町を行き交う通行人の視線を自然と集めてしまう。昨夜の疲れや傷は奇麗に消失し、それどころか滑らかな白磁の肌や黒曜石の髪、瞳の輝きは さらに増したようだ。その精緻とさえ言える身体の色艶は天津人特有のもので、この国の人間にはない磁力にも似た魅力を放つ。そういう事には興味のなさそう なフールでさえ時折、静の姿に視線を奪われる瞬間があるほどだった。
 当の静はその視線をどう思っているのか(彼女ほどの達人が、それに気づいていないはずは なかった)、視線を返すこともせず、ただ眉を寄せて不機嫌そう。だが一方で、石畳に座ったペコペコのプルーフを撫でたり、寄りかかったりしながら結構呑気 に時間を過ごす。
 しかし、昼をかなり過ぎても、速水は戻って来なかった。
 「…来ない…!」
 「…事情がある のかも。バックがあるんでしょ? 速水クン」
 フールが、これは落ち着いた調子で応える。
 「…うん…」
 静も、そのこ とは分かっていた。
 速水厚志は『天津・芝村家』の人間である。
 芝村家は天津の天皇に仕える貴族であり、ルーンミッドガッツ王国と 天津との貿易を一手に握る大物だ。その権勢は、特に経済力のみを見た場合、静の実家である天津・瑞波国の守護大名『一条家』すら遥かに凌ぐ。
 だが、ここ ルーンミッドガッツ国内での芝村の立場は微妙な物があり、はっきり言って安定しているとは言い難い。天津人が王国内で起こすもめ事は全て芝村の責任に、と いう空気さえあるのが実情だ。
 だからこそ、天津ではちょっとした有名人である『一条家の末姫』が、事もあろうに単身プロ ンテラに家出して来たとなれば…その『お転婆姫』の動向に神経を尖らせるのは当然である。速水は静の、いわば『お目付役』として派遣された事は明らかだっ た。
 だというのに、『瑞波のお転婆姫と一緒になって、王国の秘密部隊らしい軍隊とガチでやり合った挙げ句、見事に潰走させました』などと報告した ら…。
 「…やっぱ怒られてるかな…あっちゃん…」
 静の表情が曇る。
 芝村家の事は静といえども噂しか知らないが、絶対君主である 当主・芝村巌の下、非常に厳しい家内統制が布かれていると聞く。その辺は、どちらかと言えば身内の情に厚い一条家とは正反対だった。
 「…といって も、余り遅くなるワケにもいかない。残念だけど、速水クンは置いて行こう」
 「…うん…」
 フールの冷静な提案に、静も気乗りしない様子 ながらうなずいた。宿の女将に伝言を頼み、荷物を背負い直す。といっても静の場合は銀狼丸と盾、それにいつもの腰のポシェット(また『飛爪』を補充してあ る)だけだが。
 「行こ」
 フールがプルーフを立たせて騎乗し、静に手を差し伸べる。
 「…後ろだよ」
 昨夜、静には 『鞍の前に姫乗り』されたのだが、今回は先にクギを刺す。
 「ちぇ」
 舌打ちしながらも苦笑いで、静は大人しくフールの後ろに横座り。
 ところで、絵 画などではよく描かれる『女性の横座り』だが、実はあまり安定した乗り方ではない。ましてプルーフのような『軍馬(?)』としての調教を受けたペコペコ は、乗っている人間の快適性など二の次だ。だが、静はその引き締まった腰をひょいと鞍に載せ、片手を軽くフールの腰に回しただけで、苦もなくバランスを取 る。下町の辻を抜け、南向きの大通りに出たプルーフがぐんとスピードを上げても、静のバランスは微塵も乱れない。露店街を抜け、一気に南の大門をくぐり抜 けてフィールドに出ると、プルーフの速度はさらに上がる。静が身に着けた、飾り気はないが丈夫な革のスカートや、ヘルムの下の黒髪が激しく風になびく。
 それでも静 は、まるで流れる雲にでも座ってるような風情で、緑豊かなフィールドの風の匂いを楽しみながら上機嫌である。
 フールは時折、 プルーフの足を止めて周囲を確認する。尾行を気にしているようだった。が、その度に、
 「…大丈夫。誰も付けて来てないよ」
 静の方が先に、 気楽な調子で応えた。この姫様の人間離れした感覚については、フールも身に染みにて知っている。
 「…ん」
 余計な時間をか けることなく、また走り始める。
 そして駆ける事しばし。風に混じる海の香りが『重さ』を伴うほどに濃くなった頃、王国の軍 港都市イズルードの街に入った。
 海に突き出した突堤の先から飛行船に乗る。王国の辺境区域と、隣国ジュノーを結ぶコースを 周回する飛行船は、浮力ガスの詰まった船体に木製の居住区、そして巨大なプロペラを持つ乗り物だ。無論、あの異世界の超技術によって建造された『ヤスイチ 号』に比べれば、多分に牧歌的な構造しか持たない。が、それでもこの世界の空を自在に行き来する乗り物として、非常に重宝されている。
 「…どこまで 行くの?」
 「ラヘル」
 静の質問に、フールが短く応える。
 ラヘルは大陸の東の端に近い、岩山と砂漠ばか りの辺境地帯である。『砂漠』と言っても、緯度の関係でかなり寒い地域もあり、また大陸最大の火山である『トール火山』にも近い。いずれにしても人が住む には過酷な、いやモンスター達にとってさえ住みやすいとは言えない、生命には優しくない地域である。
 着陸した空港さえ、荒野のど真ん中。乗客はこ こから、ぞろぞろと歩いてラヘルの街まで行くしかない。
 だが、フールはあえてその行列には混ざらず、空港で粗末な茶を2つ買って一つを静に渡し、 乗客達が去って行くまで一服。
 そして乗客の姿がほとんど見えなくなった頃、
 「…行こう」
 茶の器を露店 に返すと再びプルーフにまたがり、静を乗せ(無論後ろだ)、荒野を走り出した。
 道はない。それどころか、まともな目印さえない荒野。だが、フール とプルーフの走りに迷いはない。山の形や太陽の位置を使って方角を見定めるのは、荒野を行く冒険者に必須の能力だが、フールもまたその技術を身につけてい るらしい。
 (…北…)
 鞍の後ろで揺られる静は、冒険者アカデミーの課題で『ラヘルの街』そのものは訪れた事があ るが、この荒野に来るのは初めてである。だが、ある程度の方向感覚はぐらいは働かせられる。
 (このままずっと北に行けば…『氷の洞窟』が あるはず…)
 駆け出した冒険者としての地理知識を総動員して考える。
 『氷の洞窟』。
 大陸北方の入り口にあるその洞窟状ダンジョ ンは、内部が遥か高山地帯へと通じる風穴になっており、常に低温の空気がが充満した天然の冷蔵庫である。そして、世界でもそこにしか生息しない特殊な低温 型モンスターが数多く巣食っているはずだ。
 しかし、プルーフを操るフールは途中でそのルートを外れる。危険な食人植物、凶暴なネコに 似たモンスターを避けつつ、ほとんど人は通わないであろう山肌へとプルーフの嘴を向ける。
 その事には特に質問しなかったが…。
 「…フール、 気づいてる?」
 「え?」
 背中から投げられた静の緊張した声に、フールがプルーフの手綱を引く。さすがに異常を感じ たらしい。
 「…何か感じる?」
 「わからない? …血の匂い」
 「!」
 フールがぎょっ として辺りを見回す。
 「…ボクには感じないけど…」
 「まだかなり遠い。けど間違いない。風に乗って血の匂いがする。…人の血よ。それにあっ ち」
 静が、数百メートルも離れた荒れ地の向こうを指差した。
 「足跡。まだ新しい。…かなりの数」
 「…!」
 フールが大急ぎ でプルーフの手綱を返し、静の指差す方向へ走らせた。彼にはまだ何も見えないが、静が言うからにはそれは『ある』はずだ。
 「あそこ、ほ ら!」
 静が叫ぶと、まだ走っているプルーフの背から飛び降りる。
 石だらけの地面にびたっ、と頬をこすりつけるようなポーズで、その 鋭い視線を走らせる。ついで、その耳を地面に張り付けて音を聴こうとする。昨日、プロンテラの石畳で同じ事をし、足音から異常を感知してみせた静だ。だ が、いわゆる『岩砂漠』のため地面が石だらけで、うまく耳が付けられない。
 立ち上がった静が、そのブーツの先でがしがしと石を蹴飛ばすが、耳 をぴったりと付けられるような平らな土などそうそう出て来ない。
 「…!」
 静はむっとした様子で腰の銀狼丸をすらり、と抜いた。そのまま逆手 に持ち替え、両手で頭の上まで振り上げる。
 「…ふっ!」
 すと、と銀狼丸が地面に突き刺さった。子どもの頭ほどもある岩を豆 腐のように貫き、あるいは避け、その刀身の半ばまで埋まる。
 ご承知の通り、この銀狼丸という刀は決して名刀ではない。瑞波の先代の殿様・一条銀(い ちじょう しろがね)が、その短い生涯で鍛えたただ一振りの刀、という由緒はともかく、刃物としての出来は決して良くはない。店売りのツルギの方がまだまし、かもし れない。それが、こうも見事に地面に刺さったのはひとえに、使い手である一条静の非凡さによるものだ。
 『刃観』とでも言うのだろうか。刃物をどの ように使えば、その威力を最大にできるのか。そういうことが訓練によらず、生まれついての勘でわかってしまう。
 地面から垂直 に、見事に突き立った銀狼丸の側に、静が片膝を付いて身をかがめる。そして、その刀身にそっと耳を当てた。
 平らな地面がな いなら、地面に突き刺した刀を『集音器』代わりに使う、というこの発想。
 「…足跡から見てペコペコが200、徒歩が800、合わせて千、通 過は2時間以内。…今は足音は聞こえないけど、時間から考えて遠くへ去ったんじゃなくて、今は『止まってる』んだと思う。あるいはワープポータルで移動し たか…全滅したか。とにかく近辺でこの人数が移動してる音はしない」
 まるで『レーダー』、いやそれ以上と言えた。そもそも、こんな岩だらけの砂漠で『足跡』 なんか見分けられるものではない。熟練のチェイサーでも難しいだろう。
 静がす、立ち上がると地面に刺さった銀狼丸を抜き、懐から取り出した懐紙で丁寧に拭って 刃こぼれを確かめ、鞘に納める。
 「…どしたのフール? 早く行こ?」
 「…ヤバい事になってるかもしれない。キミは 引き返した方が…」
 「やだ」
 フールの申し出を言下に否定すると、フールより先にさっさとプルーフに乗る。
 「…わかっ た。でも危なかったらすぐ逃げて」
 「はいはい」
 無駄を絵に描いたような返事。
 フールは苦い顔 だが、ぐずぐずしている場面でもない。諦めたように騎乗すると、再びプルーフを走らせる。平らな岩砂漠から、山肌の斜面に入るとさらに岩だらけのひどい地 面になる。が、岩場だろうが何だろうか、ペコペコの走りを阻害する環境などそうそう存在しない。そういう意味では馬など問題にならないほど便利な騎乗生物 だ。
 「…血の匂いが濃くなってきた」
 静がフールに伝える。
 「…」
 フールは応えないが、その手綱捌きから見ても 急いでいるのは明白だった。
 そして。
 「…あそこ…!」
 静が指差す先に、『血の匂い』の元があった。
 男が一人、死 んでいる。
 岩だらけの山肌にわずかに生えた樹木の、とっくに枯れ果てて白骨のようになったその幹に、槍で胸板を貫かれたまま『縫い止められて』い る。
 血はその胸から地面に滴っていた。
 「…『ハーミット』…!」
 フールが呻くように呟くと、プルーフを一気に 駆けさせてその死体の元へ駆けさせた。
 『隠者(ハーミット)』とフールが呼んだその男はスナイパーだった。無惨にへし折れた弓 が、吊られた死体の足元に打ち捨てられている。フールがその胸に刺さった槍を引き抜くと、支えを失った身体が地面に崩れ落ちた。
 すかさずフール が、死者蘇生の魔法を込めたイグドラシルの葉を使う。が、予想できたことだが蘇生しない。こんな風に心臓をまともに貫かれては、蘇生限界時間などわずか数 分だ。死体の状況からみて、その時間はとっくに過ぎていた。
 「…知り合いなの?」
 静が、死体に向って目を閉じるフールに訊ねた。
 「…兄弟、み たいなもの」
 その答えは、あの『BOT化』されたまま殺され、雪のルティエに葬られた『ビニット』に対するものと同じだった。
 「…静姫。詳 しい説明しているヒマは無いけど、やっぱりここから先は危険だ。キミは…」
 「…戦ったのね、この人。たった一人で…」
 フールの言葉を 無視して、静は周囲を見回しながら呟く。
 「…矢と、血の跡。少なくとも二十人以上『殺してる』。死体がないから、敵に蘇生され ちゃったんだろうけど…」
 「腕のいい弓手だった。ここの見張りが仕事で…食い止めようとしたんだ。…一人で」
 フールの言葉に も、知らず知らず無念が滲む。
 「ここはもう『戦場』よ、フール。ここで武士に『退け』って言う、その理由が『危ないか ら、怖いから』じゃ話にならないわ」
 「…キミって武士?」
 「そこ突っ込むトコ?」
 にっ、と笑って やり返す静に、フールはため息。
 「…わかった。でも退き時は誤らないで。蝶の羽で即、逃げるんだ」
 「はいはい」
 またしても無 駄。
 『ハーミット』を埋葬する時間もない。静は、ハーミットが頭に被ったままの帽子を取って、せめて顔に被せてやると、しばし手を合わせる。それ だけだった。
 騎乗したフールも、静も、もう後ろを見ない。
 岩山を駆けるプルーフの、強力な足の爪が岩を蹴る鋭い音だけが響く。ペコペコの爪には、 馬の蹄鉄と同じく鋼の金具を装着して強化するのが基本だ。
 「…また血の匂い」
 「『力(パワー)…魔術師(マジシャン)も…』」
 静が告げるの と、フールが二つの死体を視認するのが同時だ。
 岩場に放り出されるように、男のチャンピオンの死体が一つ、少し離れて女のウィザードの死 体が一つ。ウィザードが『魔術師』なら、チャンピオンが『力』だろう。
 「…兄弟?」
 「…近道するよ。振り落とされないで」
 静の質問にフー ルは答えず、代わりに短く警告するとプルーフの手綱を操り、巨岩だらけの斜面を一気に駆け上がる。横座りの静には辛い傾斜。フールの腰に回した片手に、も う片方の腕を回してしがみつく。
 がっ、ががっ! さしものプルーフの爪が、時折スリップするほどの難コースを、フールはし かし平然と登り切り、そして今度は下る。
 当然、下る方が難しい。技術はもちろん、乗り手にもペコペコにも落下の恐怖が襲うものだ。 だがフールとプルーフ、このコンビだけはその限りではない。そもそも彼らは恐怖を感じることがあるのか否か、それすら怪しむほど平然と、岩場を飛び抜ける ように下って行く。
 そして、人間の身長を遥かに超えるような巨岩が、いくつも折り重なるように積み上がった一角で、フールはプルーフの手綱 を引くと鞍を降りた。静も続く。
 岩と岩の隙間、ペコペコがやっと通れるほどの迷路のような天然の通路を抜けると、そこに 真っ黒な空間が口を開けていた。
 洞窟だ。
 フールが、その暗闇に向って声を投げる。
 「…博士…!  フールです! ご無事ですか!」
 「…フール…か」
 闇の奥から、応えがあった。年老いた、女性の声。
 「博士…!」
 フールがプ ルーフを座らせるや、マントを翻して洞窟の中へ駆け込もうとした。
 「…待って、フール」
 それを、静が言葉で止めた。
 「…その奥にい る人は誰…? その人は『生きてる』の? それとも『死んでる』の?」
 静の問いは奇妙なものだった。が、その表情は真剣だ。
 「…!」
 問われたフー ルの方がむしろ動揺した表情を見せ、言葉に詰まる。
 「…フール…。私から説明しよう」
 それに代わって、洞窟の奥から声が聞こえた。
 「今、そちら へ参ります。いささか身体を病んでおりますので、ご容赦下さい」
 漆黒の暗がりから、一人の女性がゆっくりと歩み出てくるのを、静は油断の無い目で見守 る。
 『教授』の服。色は黒。
 後ろへまとめた髪は真っ白で、顔にも老いの色が濃い。が、秀でた額と瞳の輝きは、知的で理 性的な人生を刻んで来た者に特有の、ある種の静けさをたたえている。
 「…一条…静姫様でいらっしゃいますね。…御身様がまだご幼少のおりに一度、御拝謁の栄 誉を賜ったことがございます。…お母上の『一条桜』様に、よく似ていらっしゃる…」
 「…?!」
 静の目に驚きの 色が浮かぶ。
 「大変申し遅れました。私はフランシア・センカル。そして…」
 深々と頭を下げる。
 「…元『ウロボ ロス2』、『BOT製造者(ボットメーカー)』と呼ばれた女でございます」
中の人 | 第八話「Free Fall」 | 02:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第八話「Free Fall」(5)
   ごぉぉぉおおおおお!!!!
 無代の体が、遥 か地上へと落下して行く。
 その状態を例えるなら、猛烈な水量を誇る巨大な滝の中に放り込まれたような、というのが最もふさわしいだろう。息も出来 ず、指一本も自由に動かせないほどの圧倒的な圧力が、無代の全身に叩きつけられる。ただしこの滝の水は上から下ではなく、逆に下から上に『降って来た』。
 いや、そもそ も無代の身体に叩き付けられているのは水ではない。
 空気だ。
 地上2000メートルから落下する二人の、その身体に襲いかかるの は、想像を絶するほどの空気の抵抗そのものだった。
 (…息が…! 目が…!)
 無代はパニックを起こしかけた頭を、必死で落 ち着かせようとする。が、何とか一つ呼吸をするのが精一杯で、目は全く開けられない。耳も、それこそ鼓膜が千切れ飛びそうなほどの爆音に侵されている。そ して永遠に続くかと思われるほどの落下感。現代の絶叫マシンでさえせいぜい十数メートルと考えれば、その恐怖ときたら根性だけが取り柄の無代さえ『涙モ ノ』だ。
 (…畜生…このままじゃ! …このままじゃD1が!)
 無代は必死に頭を回転させる。彼の身体を守る防御呪文はまだ健在 だ。が、D1のそれは違う。既にあのBOTが放った銃弾の一撃で、その効果は消滅している。このままでは残ったわずかなバリア呪文のまま、D1の身体は地 面に叩き付けられるだろう。そこに待っているのは…。
 無代には、それを救う手段は無い。
 冷徹に考えれば一端ここでD1を見捨て、自分 が生き延びることを考える場面だった。元々無理な計画だ。成功率50%ならばむしろ上出来と考えるべきだろう。また無代さえ生き残っていればD1が墜死し たとしても、死体の損傷次第では死体を蘇生させられる可能性もある。
 しかし生憎と言うか何と言うべきか、無代という男にはそういう思考回路は備わっていな い。
 『欲張り』。
 無代がD1に自分で言った通り、それを一言で言い表すならそれだろう。
 (…何とかしな きゃ…何とかっ!)
 それはまさに『ど素人の足掻き』もいい所だった。しかも結果として無代ができたことといえば、その両手両足をめちゃく ちゃに振り回しただけだ。
 呆れるほどささやかな抵抗。
 それでも無代は、猛烈な空気の抵抗に翻弄されながら、自分の両手両足をひたすらに、力の 限り振り回す。それで何ができるとも思っていない。無様でも何でも、とにかく何かしなくては、ただその衝動のままに身体を任せているだけだ。
 何の価値もな い意地。何の意味も無い行動。
 しかし運命というものは往々にして、その『無意味さ』に『意味』を与える。反対の言い方を するならば、運命が意味を与えるのは『行動した人間』だけなのだ。
そして無代という男はこれまでも、そうやって運命をもぎ取ってきたのだ。
 必死に振り回 す無代の手に、何かが触れた。
 無代はとっさにそれを掴む。無我夢中、という言葉がこれほどふさわしい場面は無かった。
 (… 髪…?!)
 無代の、それだけは他人に自慢できる料理の腕、その基礎となる指の感覚が、脳より先にそれを感知する。この空の上で、振り回した手に触 れる髪の毛がD1以外のものであるはずはなかった。
 後先考えず、掴んだ髪の毛を引き寄せる。髪の毛を引っ張られたD1には痛みもあるだろう が、今は構っていられない。
 (…すまんっ!)
 無代はその腕に渾身の力を込める。だが、D1の身体を何とか引き寄せようとするその手を、 別の手が邪魔をした。
 D1だ。
 その手は決然と、無代の手を払いのけようとする。それは『自分は放っておけ』という意思表 示だ。
 (…な…!?)
 それを感じた無代の頭が、それこそ沸騰した。
 (ふ…ざ…けん なこの野郎!)
 腹の底からの怒りが、無代の全身に火をつけた。
 断っておくが、もし立場が逆であったなら、当の無代だってD1と 同じ事をした可能性が高い。『自己犠牲』という行為は、ケースによっては批判の対象ともなるものだが、真に差し迫った事態に陥った時、『自分を勘定に入れ ずに』行動できる人間は確かに存在する。
 無代も、D1も、まさにそういう人間だった。
 だが、今の無代 の頭はそこまで回らない。ただD1の行為に対する白熱した怒りだけがある。が、その怒りが逆に無代に力を与えた。
 D1の妨害を無 視し、その髪の毛を引っ張る。髪の毛の何割かが千切れる感覚る。命綱であるその髪の毛が、全て千切れてしまえば終わりだ。
 (…そんな ら…!)
 咄嗟の閃き。髪を掴んだ右手、その反対の左手を飛ばし、無代の邪魔をするD1の『腕』をがっしりと捕まえる。髪の毛よりはよほど頑丈 だ。
 ぐい! 無代がD1の身体を思い切り引いた。がつん! という激突の勢いで、二人の身体が密着した。
 (…! あぶね え!)
 無代の脳裏に危険信号。密着の衝撃が大きすぎると、それが『ダメージ』と判定され、無代の身体を守る『カウプ』の呪文が消失してしまう。… が、幸いにも呪文は健在。
 D1の身体を両手で抱きしめる。恐らく、女性を抱擁する場面としてはこの世で最悪のそれだろう。
 (…お、凄 え…)
 それでもカプラ嬢の頂点を究めた女性の身体だ。一瞬でもその感触を楽しんでしまう無代という男、意外と大物と言えるかもしれない。
 D1ももう抵 抗しない。当たり前だが、別に無代に抱かれてどうこう、という話ではない。下手に暴れて無代にダメージを与えると、これも無代にかけられた『カウプ』が消 えてしまう危険性があるからだ。
 無代が必死に身体を捌き、自分の身体を下にしようとする。落下の衝撃を少しでも和らげよ う、というのだ。が、スカイダイビングの技術も何もない無代のこと、ただジタバタするだけという無様な格好。
 (…畜生…!)
 何とか、何と かならないかともがく無代が一瞬、その目を開く。凄まじい風でまた閉じてしまうが、その一瞬。
 (…山?!)
 無代の目に映っ た、それは確かに『山』だった。山の頂上。もう目の前だ。
 落下地点がずれている。
 最高峰のスナイパーであるG1でさえ読み切れ なかった予想外の風か、あるいは無代とD1がもがいた結果か。ともかく、無代とD1の身体は予定の落下コースを外れ、湖の側に聳えていた岩山の、その頂上 付近へ向けて落下している。
 考えている暇はなかった。
 無代がD1の身体を思い切り抱きしめる。今度ばかりは楽しむ余裕などない。衝撃に備え る、その時間さえろくになかった。
 がつん!!!!
 無代の背中に衝撃。自由落下の超高速のまま、岩山の頂きに直撃した のだ。
 その瞬間、無代の身体に贈られた『カウプ』の呪文が、そのただ一度の効果を発揮。本来なら無代の肉体が粉々に砕けるほどの衝撃が、ほぼノー ダメージに抑えられる。
 (…止まれっ!)
 瞬間、無代が祈る。ここで落下が終われば、無代もD1もかすり傷で済む。
 だが、残念な がらそう上手くは行かなかった。岩山はまるで鉛筆の先のように尖った形状で、その頂上にピンポイントで突き刺さる危機こそ回避できた。が、落下はまだ止ま らない。
 がきぃぃぃん!!
 二人の身体が、激突の衝撃で跳ねた。そのまま湖に向けて落ち込む急斜面を、なす術も無く転 がり落ちる。崖にしがみつけるような速度ではない。その上に、湖まではまだ数百メートルを残しているだろう。
 カ! カカカカ カカァァン!!!!
 鐘を乱打するような金属音は、無代とD1の身体にかけられたバリアの呪文だ。このバリアは一定のダメージを殺した後、自 動的に消滅する。そうなれば、無代もD1も、まるでヤスリの上を転がる蒸し菓子のようにその身体を削られ、バラバラにされるだろう。
 ばん!
 D1を抱きし めていた、無代の右腕が肩から千切れ飛んだ。落下の途中で崖の岩に接触したのだ。
 バリアが切れている。
 凡人ながらもそ れなりに鍛えた無代の腕が、枯れ枝のようにあっさりと千切れ、回転しながら宙を舞う。
 「…がっ…!」
 痛みよりもま ず、衝撃と熱さが無代を襲った。
 「!」
 D1が、宙に舞った無代の腕を咄嗟の反射神経でばしっ、と捉まえたと見るや、素早く『元 の位置』にくっつける。
 びぃん!
 千切れた傷口をD1の治癒呪文が包み、奇跡の光が瞬時に切断面を癒着させる。今度は『カア ヒ』の呪文がその効果を発揮したのだ。身体にダメージを受けるたびに、一定の治癒効果を連続して発揮する呪文。
 だがその治癒力 には限度がある。傷はすぐには塞がらない。切り立った崖を、体を削られるように落下する二人に、新たなダメージが次々に襲いかかる。
 『カアヒ』が 激しく、連続して起動するが、治り切らないダメージが確実に蓄積していく。
 そして、魔力の蓄積がほとんどない無代の体から『カアヒ』の呪文が 消失した。
 がきぃぃぃぃんんん!!
 (…!)
 悪い事は重なる。凄まじい衝撃音と共に、無代とD1の身体が崖から 弾け飛んだ。無代が背負った『呪砕き』が、崖から突き出した岩と激突したのだ。
 二人の身体が崖から放り出される。
 「がふっ…!」
 無代がその口 から盛大に鮮血を吐いた。激突の衝撃で、背骨と内臓に甚大なダメージを負ったのだ。
 「…ヒール!」
 がつん! D1 得意の『気付け型』、反動は大きいが治癒力も猛烈なヒールが、無代の身体を治癒する。この状態で治癒呪文を唱えられる女性など、世界中探しても何人もいな いだろう。さすがカプラの最高峰、D1を名乗るだけの事はある。
 が、立て続けの『受難』に、さすがの無代も意識が吹っ飛びかけ、気管に残った鮮血で呼吸 もまともにできない。
 そして落下も停まらない。
 「…!」
 二人を守る魔法の盾はもう存在しない。落下速度は岩山への落下で大 幅に削られたとはいえ、このまま水面に激突すれば間違いなく二人とも助からない。
 耳が千切れそうな風切り音。それはもう、彼らへの鎮魂歌になろう としていた。
 (…ちきしょう…駄目か…っ!)
 さしもの無代の頭にも絶望の闇がさした。思えば、あの空の牢獄を飛び出してから、まだいく らの時間も経っていまい。そして残された時間はもう数秒。
 (…畜生…!)
 風で開けられない目を、無理矢理こじ開けた。
 どうせ死ぬな ら、最後まで己の運命を見届けたい。それが無代の最後の意地だった。
 「…ヒール! …ヒール!」
 D1がまだ叫んでいる。それが彼女の最後の意 地だと、無代にも分かる。
 無代の瞳に、湖の水面が見えた。自由落下という異常な状態が引き起こす、凄まじい精神集中のせいだろうか。まだそれなり の距離があるのに、美しく澄んだ湖水に泳ぐ魚の群れまで、くっきりと見通せる。
 (…ちくしょおおおおお!!!! 済まねえ静っ!…流! … 香…!)
 人生の走馬灯、そんなロマンティックなモノは、無代にはない。ただ白熱した頭の中で、仕えたばかりの年下の主と、友と、恋人に詫びた。
 美しい、しか し確実な死をもたらす水の境界線が近づく。
 さあっ…
 その鏡のようだった水面に突然、真っ白な円が出現した。それは、 ちょうど無代たちが落下しようとする場所だ。
 その白い円がもの凄い速度で、その直径を広げる。
 (…泡…?)
 こんな怪現象 に対して何の知識も持たない無代だが、しかしその直感は正しかった。
 それは確かに泡だ。
 湖の中から凄まじい勢いで噴き上がる巨大な爆発、それが引き 起こす余りにも巨大な泡だった。
 ど、ど、どどどどどどどど!!!!
 真っ白な円の中心が見る見る盛り上がる。まる で、落下する二人の身体を迎えるように、巨大な水の柱が天を目指して立ち上った。
 ざぁん!
 無代とD1、二人の身体がその水柱に包まれ た。衝撃。無代の両肩が脱臼し、D1の右膝がアメのように折れ曲がる。首は重度のムチ打ち症状。
 「…ヒール!」
 だが、彼女の意 地がそれを救った。D1が、ほとんど無意識に唱え続ける治癒呪文が、二人のダメージを回復させる。
 巨大な水の柱が二人の身体を捉え、そのまま崩 れ落ちていく。本来なら水面で砕け散るはずの二人が、湖の懐に抱かれるように落下した。
 ず、ず、ずぅぅううん!!!
 水柱が完全に崩 壊し、湖全体が激しく波立つ。岩山の切り立った崖に、激しい水しぶきが打ち付けられる。
 無代は、水柱に抱かれながら水中に落下する直前、咄嗟に鼻 と口を塞いでいた。水に落ちる時に、溺れないようにするため身につけた『芸』だ。
 彼の生まれ育った瑞波の国・瑞花の街は、街中に縦横に運河の走 る、いわゆる水郷である。故に瑞花に生まれ育つ者で泳げない者など一人もおらず、また水難を避けるために、この手の技術は子どもの頃から叩き込まれるの だ。
 ちなみに鼻をふさぐのは、鼻の穴から急激に入り込んだ水が耳に伝わり、内耳にある三半規管にダメージを与えるのを防ぐためだ。三半規管は人間 が上下左右を感知するための重要な器官であり、これが狂うと『どちらが上か分からなくなる』。泳ぎが達者な人間が、水中で溺れる最大の原因がこれなのだ。
 (…生きて る…!)
 水中で、無代ははっきりと自分の状態を意識した。左足の鋭い痛みは、水中落下の際に痛めたのだろう。水の中ではD1のヒールも届くま い。内臓もあちこちやられているようで、猛烈な吐き気と悪寒がある。
 (構うか…生きてるって証拠だ!)
 無代は内心で吼える。なぜあそこで湖が爆発 し、結果として自分たちが助かったのか。それは確かに異常事態ではあるが、今はどうでもいいことだった。
 (呼吸は…水面 までギリギリ持つ! …それよりD1…!)
 必死に抱きしめ続けたD1の、その身体が動かない。気を失っているようだ。
 起こしている 時間はない。
 (間に合え…!)
 片手でD1の身体を支え、足と片腕で水をかく。鎧が重い。咄嗟に脱げるものは脱いだが、背 中の『呪砕き』だけは捨てられない。
 湖全体をかき混ぜるような波はまだ収まっていなかった。その中では人間二人の身体など、そ れこそゴミのようなものだ。だが無代は、下町のガキ大将だった頃から身体に染み付いた泳ぎと、水に対する感覚だけを頼りに、水面に向けて必死に上昇する。 身体のダメージと、ただでもギリギリの呼吸がさらに苦しい。
 (…もう少し…もう…少しだ…!)
 酸素を求めて肺が焼ける。限界を超えた肉体活 動の猛烈なストレスで、脳が芯から白熱する。
 (…もう…!)
 がば!
 水面に出た。
 「っはああ あ!!!!」
 空気が甘い。今まで味わったどんな食べ物飲み物よりも、それは魅力的な味だった。その空気を思うさま呼吸しながら、腕の中のD1を抱 え上げる。
 息がない。
 「D1!」
 大声で呼びかけるが、その大柄な身体には生気がない。結い上げられ た燃えるような赤髪が、今は半分以上ほどけて水に揺らいでいる。
 「おいD1! …糞っ!」
 蘇生の施術が必要だ。心臓マッサージと人工呼 吸。だが…
 (…岸が…遠い!)
 無代は歯噛みせざるを得なかった。何とか水面に浮上したものの、その位置は湖のほぼ中央。 いかに泳ぎの達者な無代でも、かなりの体力を消耗した今、単身ですら岸にたどり着くのは難しいだろう。
 それでも、無代は泳いだ。
 鉛の塊を持た されたようなD1の身体を抱き、同じく鉛のように重い足と片手で水をかく。一分、一秒でも早くD1を蘇生しなければならない。
 (間に合わな い…くそ、間に合わない…!)
 焦りが泳ぎを乱し、D1を抱えた腕が外れそうになる。必死で抱え直すが、体力がさらに無駄 に消耗されてしまう。
 無代とてかなりの重症、それを意志の力で支えているだけだ。それが切れれば、二人とも水に沈むしかないのだ。
 (ここまで… ここまで来て…っ!)
 無代は、最後の意地に火を灯す。
 「…死んでたまるか畜生っ!」

 「その意気だ」

 その孤独な叫び に、応えがあった。
 「!」
 無代が仰天して周囲を見回す。
 (…人…?!)
 ワケも分からず 水面を見回した無代の目に映ったのは、一人の人間だった。

 「もう少しだけ 頑張るがいい。すぐそこまで行く」

 意志の強さを感 じさせる、張りのある声。
 女性だ。
 (…え…?!)
 さすがの無代も、状況を飲み込めない。あまりにも驚く事が多過ぎ て、自分が何に驚いているのか分からないほどだった。
 ここは湖の真ん中。
 だがその声の主は、
 (…歩いて る…?!)
 何と、『彼女』は水の上を歩いている。すらりと長い足を優雅に踊らせ、まるで野原を散歩するような風情でこちらに歩いて来る。
 だが彼女が何 者であろうが、水の上を歩けるはずはない。
 そうだ、『彼女』が歩いているのは水の上ではない。
 彼女が歩いてい るのは、『氷の上』だった。
 季節はまだ冬には遠い。なのに、湖の水が凍っている。
 ばき。
 ばき。
 ばき…ばきば ききききき!!!!!
 彼女の歩みの先、まるで冬の女神の御渡でもあるかのように、湖の水が一筋に凍り付いて行く。
 魔法だ。コール ドボルト。
 彼女の両手に握られた二本の槍が閃くたびに、無代が見た事さえない凄まじい凍気のエネルギーが荒れ狂い、湖の水を暴力的なまでの力で凍 らせるのだ。
 その技に『名前』があることを、この時の無代はまだ知らない。
 そして先ほど湖を爆発させ、彼らを救ったのが彼女であること を。
 その技にもまた『名前』があることを。
 『凍線砲(フリーザー)』。
 そして『熱線砲(ブラスター)』。
 無代がそれを 知るのは、ほんの少しだけ先の事だ。
 「…!」
 今の無代はただ、この正体不明の救いの手に縋り付くことしかできな い。体に残ったなけなしの力を振り絞り、氷の方へ泳ぐ。
 氷の道がその数倍の速度で、無代の方へ伸びる。
 「ふっ…!」
 無代の手が氷 の道に掛かった。全身の痛みと、手が千切れるほどの冷たさをこらえてよじ上る。その襟首を、女の力強い手が掴んで引き揚げてくれた。
 「…ありがと う…存じますっ!」
 礼もそこそこに、無代はD1の体を引っ張り上げる。これも、女の手が助けてくれる。
 蘇生。
 「…ぐっ… が…はっ!!」
 激しい咳と共に、D1が蘇生した。
 「げふ…ぜ…ぐ…ふ…っ!」
 肺にまで水が入っている。無代はD1の背中を 撫でてやるしかできない。
 「飲ませなさい。ゆっくりね」
 無代の前に、治癒薬の瓶が差し出される。
 「あ、ありがと う…ありがとう存じます!」
 無代が馬鹿のように礼を繰り返しながら瓶を受け取り、蓋を取ってD1にすすらせた。効果はてきめん、すぐにD1の呼吸 が落ち着き、体に赤みがさす。
 「大丈夫そうだな」
 女の、実にあっさりとした声。
 「あんな所から 人間が落ちてくるとは奇怪だが、まあ余計な詮索はすまい。では、私は行く」
 「お、お待ち下さい! まだお礼を申し上げておりません!」
 無代が大慌て でその後ろ姿に声をかける。
 風をはらむ、青い教授服。
 瀟洒な白い帽子。
 「礼などいらん。名乗るほどの者でもない」
 両手には見事 な長槍が二本。
 「申し遅れました! 私は天津・瑞波の守護職、一条家の小者で無代と申します! どうかご尊名だけでも!」
 ぴた。
 さっさと歩み 去ろうとした、女教授の後ろ姿が止まった。
 くるっ、と振り向く。
 鮮やかなエメラルドグリーンのロングヘアが、湖の風になび く。
 「…『瑞波』の…『無代』…!?」
 宝石を削り出したような美貌の、その瞳がまん丸になった。

 戦前種(オリジナル)・翠嶺。

 無代と、この希有な戦前種との、それが最初の出会いであった。
 『この世の全ての戦前種と知り合いだった男』 無代の伝説。その第二幕。
 そして翠嶺自身から、『人生で最も出来の悪い弟子』と言われ続ける不思議な師弟関係の、その始まり。
 『出会いとい う宝箱』がまた一つ、無代の前でその扉を開いたのだ。



 その街に、朝日 が昇る事はない。
 といって、月や星の光が届く事もない。
 永遠の闇。
 供を引き連れ、巨大な骸骨馬に跨がった『死者 の王』が今しも、街の広場を悠々と行進してゆく。
 彼らに果敢にも挑んだ冒険者はつい先ほど、一人残らず返り討ちに遭った。今頃はどこか明る い街の、どこかのセーブポイントに飛び戻り、ある者は絶望し、ある者は悔しさを噛み締めながらリベンジを誓っていることだろう。
 『死の街・ニブ ルヘイム』
 その街角の、ありふれた日常の風景の中に、『彼女』もいた。

  『N0(エヌゼロ)』

 カプラの魔、そしてカプラ社の相談役だった少 年が、『原初にして永遠のカプラ嬢』と呼んだ、その姿。
 制服こそ他のカプラ嬢と変わらないが、その容貌は闇に溶けたまま見えない。冒険者達の応対 のために、か細い声で決まりきった台詞を呟く他は、何一つ口にする事もない。
 …はずだ。
 だが今、誰一人として生ある者のいないこの 時、信じられない事が起きた。
 死の王の行進が、彼女の前にさしかかると、ふ、とその歩みが止まる。
 「…ご苦労で した、王様…」
 N0の唇から、ねぎらいの言葉がこぼれ出た。決まった台詞しか聞いた事のない冒険者達が聞けば、何が起きたかと仰天する だろう。
 だが驚く事はそれで終わりではない。
 死の王が、馬の鐙から足を外した。
 片手に持ったその巨大な槍の穂先を、す、と 真っ暗な天に向けて差し上げた。
 それは『礼』である。
 王たる者が、この街角のカプラ嬢に礼を尽くす、いかなる理由 があるのか。
 「…『私』を狙う者は増えるでしょう…。これからもお願いします、王様…」
 N0の願いに応えるように、死の王が槍を構え 直し、また行進を始める。
 「…とはいえ…急いで下さい…無代さん…」
 N0の、わずかに覗いた唇に、微かな笑みが浮かぶ。
 「…早く…こ こまでいらっしゃい…待っていますよ…」
 静まり返った闇の街に、世界一孤独な呟きが響く。
 「…でも…『娘 の彼氏』があまりモテ過ぎるのも、『母親』として心配ですけど、ね…」
 くす。
 くすくす。
 悲鳴と泣き声だけが似合うこの街角に、この時 だけはひどく可笑しそうな笑い声が響いた。

 つづく
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