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外伝「The Silver Wolf」(1)
 
  「……失恋した」
 夏の暑さが過ぎ、風の爽やかさが増し、空が青く高くなっていく季節。
 冬待巴(ふゆまち ともえ)は、その高さを増す空を仰ぎながら1人、つぶやいた。
 彼女の、そのつぶやきを聞く者は誰もいない。そのはず、ここはルーンミッドガッツ王国首都・プロンテラの王城内、それも最深部。王家に連なる女性達と、王の妾たちが暮らす『後宮』の入り口となる庭園だ。
 庭園と言っても、周囲は高い壁に囲まれた『中庭』となっており、その奥にある宮門から先は、基本的に王以外の男性は立ち入れない。当然警備の目も光っている。
 だから、まず用のないものがうろうろすることはなく、よって独り言を聞かれることもない。
 しかし、もし仮に彼女の部下の1人でも、その『失恋』の呟きを聞いていたら、きっと驚愕したに違いない。

 『氷雨の冬待』。

 国軍王室親衛隊・後宮分隊、その副隊長を務める巴に付けられたあだ名だ。
 このあだ名は元々、彼女が操る独特の攻撃魔法に由来するものだが、そもそも女性のあだ名に『氷』の文字が入った段階で、その意味する所はおおよそ想像がつくだろう。
 いかなる時も冷静。絶対の公平。的確にして緻密。
 無愛想で取っ付きにくく、付き合い悪くて愛想がない。
 そして泣かない、笑わない、悲しまない。
 加えて、見事に伸ばした金髪と、クールに冴えた近寄り難い美貌の主ときたものだ。
 『氷雨の冬待』、それは尊敬と畏敬の念に多少の揶揄を加え、隠し味の嫉妬と忌避をキツめに効かせたあだ名だった。
 そんな扱いを周囲から受けている巴が、こんな秋の庭園で独り言(それも色恋に関する内容!)を呟くなどという『乙女』な事をしている、と知られたら、
 (びっくりした後で笑われるだろうな)
 自嘲気味にそう思う。
 周りから『氷』と揶揄されている事は、巴も自覚している。というよりそれは、巴自身がわざと作ったもの、というのが真実だった。
 もちろん、それは理由あってのことだ。
 彼女が仕事として守護する『後宮』という場所は一見、華やかで平穏な場所に見える。が、その実は『毒蛇の巣』のような場所だった。
 『王の寵愛と権力』という最大のエサを巡り、人間が持つあらゆる欲望とマイナスの感情が渦巻く異形の棲家。虫も殺さぬような穏やかな妃も、まだ少女の面影を残した可憐な姫も、一皮むけば皆『蛇』だった。
 そんな陰謀と嫉妬と憎悪が渦巻く場所で、巴のような二十歳を出たばかりの女性が生きていくのは、しかし容易なことではない。多少の愛嬌など、この蛇の巣の女たちが相手では何の役にも立ちはしなかった。
 彼女達と同じ『蛇』となって生きるか、いっそストレスで心身を壊してとっとと実家へ戻され、親が見つけて来たそこそこの良縁に嫁いで、平凡な妻として残りの一生を終えた方がよほど幸せだったろう。
 だが、巴にはそのどちらもできなかった。生まれ持った誰にも負けないプライドが、それを許さなかったのだ。
 だから『氷』になる道を選んだ。
 自分にも他人にも媚びずに生きて行くには、もう心の中の何もかもを殺して氷になるしかない。常に怜悧に、予断や感情を交えず事に対処していく事は、巴にとっては逆の意味での処世術。そしてささやかな抵抗。
 しかし冬待巴、彼女だって女だ。
 1人の時は、怒りもすれば泣きもする。迷いもすれば落ち込みもする。恋もする。
 そして失恋だって、するのだ。
 「あー畜生……失恋した」
 同じ言葉を繰り返す。自分にそれほどの自虐趣味があるとは思わなかったが、今はそれも仕方ない気がした。だってそうでもしていないと、このまま果てしなく落ち込んで行きそうで、余計に憂鬱だったからだ。
 そもそも失恋の内容からして『乙女』過ぎる。何せ、それが『恋』だったと自覚したのが、失恋した『後』なのだ。
 失ってから自分の恋心に気づくとか、思春期の小娘でもあるまいし。この時代ならとっくに結婚して子どもがいる年齢の、しかしそれに背を向けて仕事一筋に生きて来た女なのだ。『不器用な女です』とか、今さらどの面下げて口にできるだろう。
 さらに言うなら、その恋愛対象も、失恋状況も、どう考えてもぱっとしない。
 (……まさか『あんなの』が好きだったなんて、ね……)
 自分で『あんなの』と言うからには、必ずしも好印象を持っていた相手ではないことは明白だ。いやむしろ逆、ほとんど悪印象しか持っていない相手、と言って差し支えない。
 恋愛対象だなんてこれっぽっちも思っていなかった、そんな男に気づかないうちに恋して、その男が別の女とくっついた後になって、それが恋だと気づく。
 (はいはいどーせ馬鹿ですよ。恋愛耐性ゼロですよ)
 という有様なのだから、もう溜め息しか出ないとしても仕方ないではないか。周囲が相変わらずの無人なのを良い事に、巴は空を仰いでもう一度、溜め息をつく。
 「おーい、冬待っ!」
 いきなり名前を呼ばれた。
 「おーい、おいおい冬待冬待冬待っ! いい所にいてくれたぜ、おいっ!」
 初秋の静けさを、巴の感傷ごとぶち壊すような銅鑼声が、庭園の入り口から響いた。
 「……静かにしろ、ここは後宮の御前だと何度言えば分かる。『ウルフリーダー』」
 「お、悪りぃ悪りぃ!」
 こっから先も悪いと思っていない笑顔で、その男は頭をかきながら巴の側へどすどすと駆け寄って来た。そうすると、自然に巴が男を見下ろす格好になる。女性にしては長身で、かつ瀟洒なヒールの付いた黒革の軍靴をはいた巴より、男の背が頭半分は低いからだ。
  しかしその男の存在感の前には、多少の背丈の差などまったく無意味だった。まず肉の厚みがケタ違いなのだ。足も、腰も、胴も、胸も、腕も、首も、ただただ 単純に太い。当然、それは脂肪ではなく全て筋肉である。巨大な生命力とパワーを無理矢理に押し固めて、日焼けした皮膚の下にこれまた無理矢理押し込んだよ うな、『男の肉体』そのものだ。
  さらにその上に、何とも大きくて厳つい顔が乗っかっているのだが、これがまたお世辞にもイケメンとは言えない。短く刈った黒い頭髪の下に、特大の筆で殴り 描きしたような雑で太い眉。張り出した頬骨とゴツい顎が作る荒々しい輪郭。団子鼻。正直、それだけで気の弱い子どもなら泣き出しそうな迫力がある。
 しかし肝心なのは、そこに嵌まった真っ黒なドングリ目と、真っ白な歯をニカっと見せたこの笑顔なのだ。
 これがもう、とにかく愛嬌がある。
  野生の獣、それも絶大な力を持つ巨大な肉食の猛獣が、目の前で破顔したらこんな顔になるかもしれない。男でも女でも、子どもでも年寄りでも、この笑顔の前 では恐怖や警戒など一瞬で吹き飛んでしまうだろう。そしてこの男が味方でいてくれることに心から安心し、安らぎすら感じるに違いない。
 
 王国特殊部隊ウロボロス4・ウルフリーダー『一条鉄(いちじょう くろがね)』。

 それがこの男の名前。『あんなの』と巴が呼んだ、その本人。
 つまり『失恋相手』そのものだ。
 「何の用だ、ウルフリーダー。ここは貴様ら外人部隊の来る所ではないと、常々申し渡してあるはずだ」
 努めて無表情に、怜悧に、巴は鉄に対応する。
 「おう、済まねえ済まねえ。分かってる。よーく分かってんだけどよ、ちょっと探し物してんだ。ちょっとだけ見逃してくれ、頼む冬待っ!」
 ニカっ歯笑いのまま片目をつぶった(ウインクのつもりらしいが、どう見ても顔面痙攣の一種だ)鉄が、ぱんっ、と両手を頭の上で合掌すると、ぺこんと頭を下げる。見るからにゴツい筋肉ダルマ男がこんなことをやるものだから、ユーモラスの度合いもケタ外れ。
 (……ダメだ。笑っちゃダメ)
  巴は吹き出しそうになるのを必死で耐える。こういうことを出し抜けに、平然とやるのがこの鉄という男なのだ。そうしておいて、いつもこの手で他人を『落と す』。彼の周囲の人間がいつも、『鉄さんのアレで頼まれたら、どうにも断れない』と苦笑する所以である。男でも女でも、たいていこれで落ちてしまう、ある 意味『必殺技』だった。
 「とにかく、この先は誰だろうが男性の立ち入りは禁止!」
 巴は負けじと表情を変えず、しかし内心は必死に、『後宮の守護者』にふさわしい厳めしい声を出す。
 「えー……」
 そんな巴に鉄が、今度は情けない声を出し、同時に悲しそうな顔をする。これまた太い眉と大きな口が見事な『への字』を描き、今にも泣き出しそうな猛獣の顔。
 巴はまた吹き出しそうになるのを何とかこらえた。だが限界。もうこれ以上はいけない。
 「……探しものとは何だ?」
 結局、落とされた。
 「おお! 聞いてくれるか冬待っ!」
 「聞くだけだ! あくまで聞くだけだからな!」
 わかってる。かっこ悪い。でもこれ以上ちょっと耐えられない。 
 「ありがてえ、恩にきるぜ冬待! 実はな、探し物ってのは、オレの『兄貴』なんだ」
 「兄?!」
 「おう。どうやら城ん中で迷子んなっちまったみたいでなー」
 「迷子?!」
 巴は目を丸くしてしまう。鉄の兄と言ったら少なくとも自分より歳は上のはずで、『迷子』と言われてはいそうですか、と聞ける話ではない。
 しかもこの男の兄と言えば……。
 「確か天津の、大名ではないのか?! お前の兄って?!」
 「おう、さすがよく知ってんな。その通りさ」
 ニカっ、と鉄が笑う。
 「天津は瑞波の国の守護大名、一条瑞波守銀(いちじょう みずはのかみ しろがね)。それがオレの兄貴さぁ」
 「兄貴さあ、じゃないだろう! なんでそんな……そんな方がこの城の中で迷子になってるんだ?!」
  我ながら素っ頓狂な声が出てしまうが、それも仕方ないだろう。天津の諸国はいずれもルーンミッドガッツ王国の友好国ではあるが、それだって『他国』には違 いない。その中でも最強クラスの軍事・経済力を有すると目される『瑞波の国のお殿様』が、このプロンテラ城の中で迷子になっているという状況がそもそも信 じられない。
 「あー、実はお忍びでなあ。今朝着いたんだよ。ウチの『魔女婆さん』の計らいでな」
 鉄がぽりぽりと頭をかく。
 「ほれ……俺らの結婚式、あるだろ?」
 「あ……」
 ずきん。
 巴の胸を、痛みが刺した。
 そう、この男は結婚するのだ。
 数日前、突然発表されたこのニュース。それに涙した国軍の女性兵士の数は知れない。
 なにせこの鉄という男、こんな顔と風貌のくせにやたらとモテる。先ほど見せた愛嬌だけではない。性格が豪気そのもので、面倒見もいい。気前も気っ風も良く、それでいて気遣いもできる。
 そしてなによりも、強い。
  モンクとして超一流の戦闘能力に加え、独自に編み出した垂直落下型の『阿修羅覇鳳鎚』が見せる驚天動地の破壊力。しかも外人部隊ウロボロス4の中で、最大 最強のアタックチームを率いて、戦えば必ず勝つ、という恐るべき戦人(いくさびと)ぶりは知らぬ者とてない。顔や風貌がどうでも、この男のそんな実像を 知って、女がなびかないはずがなかった。
 それが突然の結婚宣言。
 悲嘆にくれる女性兵士(城の女官も含まれる)のその中に、巴もいたというわけだ。
 「そうだったな。その……おめでとう、ウルフリーダー」
 今この場で言わなくてもいいような話をつい口に出してしまうのは、巴も結構慌てているのだろう。だが鉄は気にした様子もなく、
 「おう、ありがとよ。……やっぱ照れんなー、こういうのよ」
 眉をへの字にしたまま笑う。何だか泣き笑いのような顔だ。
 (……泣きたいのはこっちよ)
 巴は内心で毒づいた。
 大体、この男はタイミングが悪過ぎる。
 巴が鉄の結婚のニュースを聞いてショックを受け、なぜ自分がショックを受けたのか悩み、やっとのことで自らの恋心に気づき、寂しい初秋の庭園で1人、失恋を噛み締めている最中だったのだ。
 そこにノコノコ現れて、こうして2人きりだなんて。
 (なにこれ……どんな罰……?)
 本気で天を恨む。
 (どうしてこうなっちゃったかな……)
中の人 | 外伝『The Silver Wolf』 | 08:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝「The Silver Wolf」(2)
 
  改めて思い出してみると、出会って間もない頃は巴も、この男のことを本気で嫌っていたと思う。
 最下級とはいえ王国貴族の出身である巴にとっては、この男のすべてが受け入れがたかった。外見も行動も、野卑で下品でワガママ。上品さだの知性だのスマートさだのとはほとほと縁遠いこの男に対し、そもそも評価する基準すら持っていなかった。
 だが時が経つにつれて、その評価は変わっていく。特に、国軍に非常事態が起きるたび、巴の鉄に対する評価は劇的なほど変化していった。
 巴が軍人として守護する『後宮』は、ある意味で政治機密の塊だ。王室の後継争いをその最たる物として、政治の表舞台には決して出てこない、裏の事情がたっぷりと詰まっている。
 その『裏の事情』は時として、いや結構頻繁に火を噴く。
 後宮でのいさかいが王宮における権力争いに発展し、それが他国の介入を招いて(他国そのものが裏で糸を引いていることも珍しくない)、王国内の貴族同士による内戦に発展する、といったきな臭い事件は後を絶たない。
  王国としては当然、これを鎮圧しなければいけないのだが、こういう『込み入った事情』のある戦には、実は正規軍は出撃しにくい。それというのも正規軍の指 揮官や士官達は、結構な確率でその内戦の当事者達と何らかのつながりあったり、下手をすると内戦そのものに直接関わっていたりするからだ。鎮圧どころか、 自分の都合のいいように戦況を操ったり、火に油を注ぐような事態にもなりかねない。
 そこで登場するのが、鉄たち『ウロボロス4』だった。彼らは王国軍で唯一の『外人部隊』である。
 といっても、その存在は基本的に秘密とされ、表向きは『外部教導部隊』という扱いになっている。ルーンミッドガッツ王国の外、王国と友好関係にある国々から王族や貴族などのエリートを集め、彼らを『王国の良き友として教育する事』が、その表の存在理由だ。
 だが、実際はそうではない。
  王国内における『しがらみのなさ』を逆に利用し、こうした内戦への介入や他国における機密作戦、果ては国内での要人の暗殺まで行う『何でも部隊』。そして もし立場が危うくなれば、直ちに命ごと切り捨てられ、そんな部隊は最初からなかったことになる。便利な使い捨ての『汚れ戦争屋』、それが彼らの実態だ。
 といって、彼らに拒否権はない。彼らは王国の絶大な力を背景にした『人質』であり、拒否すれば彼ら自身のの命はもちろん、彼らの故郷にとっても計り知れない不利益が生じるだろう。
 だがその一方で、彼らには王国との太いコネと、その高度な技術が惜しげもなく供与されるというアメとムチ。爆弾入りの見えない首輪を付けられた戦士達。
 その戦士の中でも最強の男こそ、この鉄だった。
 人呼んで『鉄狼(アイアンウルフ)』。あるいはその闘い振りから『狂鉄(クレイジーアイアン)』。
 複雑な事情の絡む紛争に対し、その圧倒的な力でもって嵐の如く武力介入を行い、一気に鎮圧する。ろくに作戦も立てず、おおざっぱな状況だけ掴んで即出撃し、あとは戦場の機微を的確に捉えるだけで、最小限の被害で目的を達してしまう。

  『よーするに、ケンカの仲裁よ。とにかく両方のケガが少ないうちに間に飛び込む。んで、まず優勢な方をぶん殴って、すぐに劣勢な方もぶん殴る。とりあえず どっちも足腰立たない程度にな。こん時、同んなじぐらいのケガになるようにして、後で文句の出ないようにすんのが秘訣だな』

 鉄に言わせるとそういうことらしい。
  だが、巴にとってそれは、まるで魔法でも見ているような(彼女自身が魔法使いなのでこの表現は変だが)気分だった。子どもの頃からろくに喧嘩などしたこと もなく、軍人としてはエリートでも、戦場での実戦経験となると決して豊富とは言えない彼女の目には、そんな鉄の理屈抜きの『戦人』ぶりは眩しかった。
 鉄の故郷である天津は、未だ治まらぬ戦乱の中にある。彼が生を受けた『一条家』も、名門の武家と言えば聞こえは良いが、元をたどれば要するに腕っ節一つでのし上がった野党の頭みたいなものである。
 頭一つ、腕一本。それを武器に1人でも多くの手下を手なずけ、土地をもぎ取り、城を奪い、権勢の構造を作り上げる。
 野卑だが怜悧。狡猾だが剛毅。いずれにしても一筋縄ではいかない、味方にすれば頼もしく、敵に回せば厄介な『男』。
 その見本が、この鉄という男だった。
 今、目の前で、ユーモラスとさえ言えるほどの愛嬌を見せている、その姿だけに騙されてはいけない。もし本気にさせれば……
 (私でも苦戦は必至。そして多分……負ける)
  若くして後宮守護の副長という要職にある巴の、その戦闘能力が誰に劣るはずもない。実戦経験の乏しさなど軽く吹き飛ばすほどの、その魔法の実力あってこそ の地位なのだ。彼女が魔法を学んだセージキャッスル、その創立者の1人であり、伝説の賢者でもある『戦前種(オリジナル)・翠嶺』の教え子、という称号は 伊達ではない。
 それでも目の前の、この戦のために生まれて来たような男の前では、絶対の自信を持つ魔法の数々も頼りなく感じてしまう。
 巴も軍人、そして女。ゆえに『強者』への憧れは隠せないものなのか。
 「冬待もさ、結婚式には顔出してくれよな。嫁も……桜のヤツも喜ぶからよ?」
 「……ああ」
 おめでたい話で仏頂面を続けるのも何なので、少しくらいは笑おうと思ったのだが、どうやっても引きつってしまいそうなので、やっぱり無表情を貫く。
 居心地が悪いったらない。
 「で、冬待。後宮の中、探してもいいかよ?」
 「駄目に決まってるだろう」
 ついでの無表情で、鉄の申し出を拒絶する。
 「後宮には王以外の男は入れない。これは絶対の決まりだ。それにお前の兄とて男だろう? もし迷子になったとしても、後宮に迷い込むなんてことはあり得ない」
 「あー、まあなー。まさかココじゃないよなー」
 巴の正論に、鉄もしぶしぶ引き下がる。
 「じゃ兄貴のヤツ、どこ行っちまったのかなー」
 またごりごりを頭をかく鉄の後ろから、数人の男女が駆けてくるのを巴の目が捉えた。
 「お前の部下が来たぞ、ウルフリーダー」
 「お?」
 言われて振り向いた鉄が、彼らを視認する。
 「おう、お前らご苦労。すまねえなホント」
 「リーダー! 兄上様は見つかりましたか!」
 「いや、まだ見つかんねえ」
 鉄に呼びかける若い男女の軍人達には、巴も見覚えがある。いずれも鉄が率いるウルフチームの隊長達。1人、異様に背の高い、荒鷲のような風貌の男が目を引くが、これが鉄の副官だったはずだ。プリーストが着る僧服の意匠を取り入れた、黒い軍服が不気味なほど似合う。
 名前は確か……そう『善鬼(ぜんき)』。
 「一同、静まれ。後宮の御前だ。冬待分隊長殿に迷惑がかかる」
 その善鬼の声が響く。弦楽器の最も太い弦をびぃんと弾いたような、音量以上の迫力のある声に、ぴた、と騒ぎが収まる。。
 「おう善、そっちはどんな具合だ?」
 「申し訳ありませんリーダー。ウルフチームに加えてベアー、ジャガーも協力してくれていますが……まだ」
 「おお、あの連中もかよ。有り難てえなあ」
 鉄がまた、見えない何かにぱちん、と手を合わせる。
 「……リーダー。これだけ探して見つからないとなると、別な可能性も考えるべきでは」
 善鬼が進言する。これでもかと腹の据わったキレ者、という言葉がぴったりの風格。巴のそれは作ったものだが、この善鬼の落ち着きは間違いなく生来のものだろう。 
 「なんでえ善。まさか兄貴が誘拐されたとでも言うのかよ」
 「リーダーの兄君様が、国際レベルの要人でいらっしゃるのは間違いありません」
 「む……」
 鉄が太い腕を組む。
 「参ったな。もしそうならヤベえぞ……もっと真面目に護衛付けとくべきだったぜ」
 うーむ、と頭をひねる鉄を、善鬼を中心とした隊長達が取り囲み、真剣な表情で何やら話し合っている。
 (いつも中心にいるのは、この男だ)
 巴はその様子を見守りながら、心の中で少し羨ましく思う。
 (……私も、あの中に混ざりたい)
 淡い衝動。我ながらどこまで乙女なんだと呆れるほどだが、しかし衝動には抗い難いものがあった。あの中に混じって共に語り合い、戦場で肩を並べて、あるいは背中を守り、守られながら戦ってみたい。
 (戦いたかった……)
 巴がその衝動を何とか振り切った、その時だった。
 「鉄さん……っ!」
 庭園の入り口からもう1人、女性が駆けて来る。ソウルリンカーと呼ばれる職業の意匠を模した軍服は、淡い桜色だ。
 ずきん。
 巴の心にまたしても痛みが走る。まったくどこまでタイミングが悪いのか。
 この2人と来たら。
 「おう、桜! 帰ったのか!」
 「はい、ついさっき戻りました」
 明るく、それでいて柔らかな声。鉄の元に駆け寄り、にっこりと微笑んだその女性は、鉄と同じくウロボロス4の幹部、チームリーダーの一人。
 だが、とてもそうは見えない。
 身体は小柄だがそれなりに引き締まり、若い雌鹿のような躍動感をたたえている。が、クセのない髪はその名前の通り見事な桜色で、煙るような灰銀色の瞳には鋭さの欠片もない。小振りで形の良い唇にいつも浮かんでいる笑みは、ちょっと悪戯っぽい少女のものだ。
  加えて彼女の周囲には常に、ある種不可視のオーラのような物が漂っているのだ。神が宿ると信じられる霊山の、その山腹に咲き乱れる花畑を思わせる、清浄で 美しいオーラ。こればかりは、後宮勤めで美姫は見慣れている巴でも、過去に類を見たことすらない。一種の反則、とさえ思える、生まれながらに天から与えら れた魅力そのものだった。 
 それらの要素がすべて溶け合ったら最後、この桜の周りにいる人間は、いつも安らかで清らかな空気に包まれているような癒しを感じて離れられなくなってしまう。
 そんな彼女が『軍人』と言われて信じる者はまず1人もいないだろうが、彼女もまたまぎれもない軍人だ。
 
 ウロボロス4・ラビットリーダー『十夜霧 桜(とよぎり さくら)』。

 それが彼女の名前(その名が彼女の出自を隠すための偽名だと、巴が知るのはまだ少し先の事だ)。
 そして、巴を失恋させた、まさに当人。
 「で、桜。そっちの首尾は?」
 「はいっ! フェイヨン洞窟の再封印は無事完了。洞外へのモンスター流出は止まりました。あと100年は余裕で大丈夫!」
 ふんっ、と胸を張る動作が何とも天然で可愛い。実際には巴と同い年なのだが、ずっと幼く見える。
 「おー、よしよし、よくやった」
 鉄がゴツい手で、桜の頭を掴んでぐりぐり。
 「あああああ」
 桜は身体ごとぐらぐら。周囲の部下達からはくすくすと笑い声。
 ずきん。
 巴の胸にはまた痛みが走った。
 鉄と桜。美女と野獣、というよりはそのまんまオオカミとウサギ、という方がしっくりくるカップルだ。ギャップは凄まじいものの、逆に一周してお似合いと言えばお似合いなのかもしれない。
 ずきん。
 巴の胸の痛みが増す。
 (……もう、どんな拷問よこれ!)
 とっととどこかへ行ってほしい。どこか自分の知らない所でいちゃついてほしい。
 「あの、鉄さん? 兄上様のこと……」
 「おう、桜も聞いたか。疲れてるとこホントすまねえんだが、ウサギの衆も探すの手伝ってくれるとありがた……」
 「大丈夫」
 ふっ、と桜が鉄の言葉を遮った。
 「あ?」
 「大丈夫、安心して下さい鉄さん。兄上様はご無事ですし、ほどなく帰っていらっしゃいます。私にはわかる」
 「……」
 鉄をはじめ、その場にいた全員が沈黙。そして全員が桜の顔を凝視した。
 (……始まった!)
 同じく桜を凝視する巴の全身に、さあっ、と鳥肌が立つ。それは巴が、この桜という女性と出会ってからこれまで何度も経験した感覚。
 『自分が全く理解できない何かが、そこで起きている』感覚。
 桜を中心としたこの場所がいきなり、数千メートルの海底にでもなったかのような、『深みにはまる』感覚。
  外部の音が一斉に遠のき、代わりに耳の奥がきーん、と鳴る。が、巴にはこれが幻聴だと経験から分かっていた。視野が異常に狭窄し、目の前に立つ桜の姿だけ しか見えなくなる。それがさらに進行すると、いつしか桜の顔だけになり、最後にはその灰銀色に煙った大きな瞳だけで視界が塞がれてしまう。
 しかしこれも幻視だ。
 感覚の全て、そして思考の大半が、桜によってごっそり奪われる感覚。
 「大丈夫……兄上様は大丈夫」
 まるで未知の呪文のような、桜の声だけが聞こえる。それは天津の国で太古の昔、人々を異能の力で導いたという巫女の姿そのものだ。人間には決して知覚できないものを見、聞き、触れ、そして語ることができるその力は、時に人の運命さえ垣間見ることが出来るという。
 
 『鬼道』。

 桜が受け継いだその力の名前と意味を、巴が知るのもまだ少し先の事になる。今はただ、世にも稀な異能の力、と認知するだけだ。
中の人 | 外伝『The Silver Wolf』 | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝「The Silver Wolf」(3)
 
  ふっ、と、その異常な感覚が消えた。それが始まった時と同じ、いきなりの消失。周囲の音と風景が一斉に戻って来る。それはもちろんずっとそこにあったもので、ただ巴たちの感覚が『奪われていた』だけという証拠だ。
 「ぶはっ!」
 ずっと息を止めていたらしい鉄が、たまりかねたような呼吸をした。
 「大丈夫? 鉄さん?」
 何事も無かったかのように、すっかり元の優しい雰囲気に戻った桜が、咳き込んだ鉄を気遣う。鉄の部下たちもほっと一息ついたようだ。
 「げほ……お、おう、大丈夫だ。……じゃあよ、桜。ホントに兄貴は大丈夫なんだな?」
 「ええ」
 にっこり、と桜が微笑む。
 「私が嘘ついたことある?」
 「あるだろ」
 「む? むむー! 鉄さん、あなた私の力を疑うのっ?!」
 からかい半分の鉄に、桜が口をへの時に曲げて抗議するが、まあどうみても他愛のないおふざけである。鉄の部下たちも苦笑気味だ。
 だが、巴だけは違う。
 胸の痛みに耐えるのにも、そろそろ限界だった。
 「……おい。迷子探しのめどがついたなら、いい加減に出て行ってくれ」
 無表情も厳めしい声も今日はこれが最後、と頑張って頑張って、巴は言い放つ。
 「お、おう、すまねえ。邪魔してすまなかった冬待」
 ぱん、とまたひとつ合掌で拝むと、鉄が背を向ける。
 「……」
 ずきん。
  その背中を見ただけで痛いのに、去って行く鉄の姿を見ようものならどれほどの痛みが襲ってくるか。そんなものに耐える自信も義理もないので、巴は先手を 打って無言のまま背を向ける。サボりすぎた、仕事場に帰らねばならない。そんな言い訳をしながら、そのすらりと長い足で歩き出そうとして。
 つん。
 歩き出せなかった。
 誰かが後ろから、巴のマントを引っ張ったのだ。
 「……桜」
 「えへ」
 「離しなさい」
 「やだ」
 「離せ」
 「ねー巴ちゃん、あのね?」
 「『冬待副隊長』と呼びなさいっていつも言って……」
 「うん、巴ちゃん。あのね」
 「アンタ少しは人の話を聞きなさいよ!!」
 とうとうキレた。『後宮の御前だ静かにしろ』、と言った本人がキレて怒鳴っていれば世話はない。
 「しーっ、ダメだよ巴ちゃん、大声出しちゃ」
 「!!!!!」
 この娘ときたらもう! と、巴が目を吊り上げて振り向く。
 そこに桜の満面の笑顔があった。鉄らの一団はもう姿が見えず、桜だけだ。ご丁寧に右腕を真っ直ぐ斜めにぴっ、と伸ばして掌をこちらに向けたポーズ。
 「やっほー、巴ちゃん」
 がく、と巴の全身から力が抜ける。
 「桜……」
 「んん?」
 今はすっかり表情を取り戻した灰銀色の瞳がぱちくり、と見開かれ、小動物の動作で小首をかしげて巴を覗き込む。これが演技ではなく天然というのだから、ウロボロス4最強の『男殺し』と言われるのも当然だ。
 そうなのだ。この桜、実は鉄に劣らずモテる。
 可憐そのものの外見と動作に、誰にも分け隔てなく明るく接する人格。それに加え、普段から身にまとう神秘的な雰囲気。先ほど見せた異能の力を知る者は少ないが、それでも周囲を惹き付けてやまない和やかな魅力を惜しげも無く振りまく彼女を、愛さない者はいなかった。
 だからこそ、今回の鉄との結婚宣言は、男性兵士達の周囲にも涙の海を作らせたものだ。
 『氷』何とか、などと呼ばれて疎まれる巴とはえらい違いである。
 「大丈夫? 巴ちゃん?」
 「大丈夫よ」
 いやもう全然大丈夫じゃないのだが、それ以外に答えようがないではないか。
 「……あのね、巴ちゃん」
 「婚約おめでとう。桜」
 せめてもの意地で、言われる前に言ってやった。
 「……ありがと、巴ちゃん」
 桜が笑顔を見せた。が、その瞳には微かな影がある。
 (どうせ知っているのだ。この娘は……私の想いも)
 巴は諦め気味に溜め息をつく。
 巴と、この桜との付き合いは決して長くはない。しかし二人が初めて出会った日から、桜はちょっとおかしいぐらい巴に懐いた。
 巴が食堂で1人食事をしていると自分の盆を持って押し掛けて来るし、夜にはこっそりお菓子持参で、巴の宿舎に忍び込んで来る。
 最初のうちこそ巴も、そんな桜に迷惑、もう来るな、といい続けてたものだ。が、桜がさっぱりやめようとしないので、ほどなく諦めた。
 それに正直、巴自身もそこまで迷惑に思っていたわけではない。
 何と言うか、人懐っこい猫を相手にしているような気分なのだ。お腹が減ったり、寂しくなるとひょっこりやってきてゴロゴロと懐き、少し相手をしてやると気が済んだらしく、またふっといなくなる。
 この『間合い』が実に的確と言うか、巴が本当に不快に思うギリギリの所をちゃんとわきまえて来る。
 こうなると巴だって人間だ。寂しい時、愚痴の一つも言いたい時がある。桜が持ち込んだお菓子を齧りながら、気がつけば一つのベッドで毛布を引っ張り合って、目が覚めるてみれば朝、ということも度々。
 『桜』、『巴ちゃん』と、そう呼び合う間柄になるのに、さほどの時間はかからなかった。巴にとっては軍の中で唯一、友達と呼べるのがこの桜なのだ。
 だから彼女の異能、人の心や未来を見通すその力のことも知っている。桜ならば、巴自身さえ気づかない鉄への想いを、巴よりも先に知っていてもおかしくなかった。
 「結婚式には行くわ。幸せになってね、桜」
 桜の目を見ないで、巴はそう言うと立ち上がる。
 「……巴ちゃん。ね、聞いて?」
 「ごめん、今聞きたくない」
 我ながら子供みたいだ、と自覚はしているが、もう止めようがなかった。『裏切り者!』、そう言わないでおくのが精一杯。
 だってひどいじゃないか。
 桜ときたら毎回、巴の所にやってきては鉄の話ばかりしていた。鉄さんがこう言った、鉄さんが怒った、鉄さんが笑った、鉄さんが喧嘩した、鉄さんが、鉄さんが。
 それを、巴の隠れた想いを知ってやっていたとしたら、あんまりではないか。
 ああ、でもそれも違う。本当は桜が悪いんじゃない。
 (桜の話を聞いたから……彼女から鉄の話を聞いたから、私は……)
 鉄のことを想うようになったのかもしれない。いや、多分そうなのだ。
 だから、これは巴の八つ当たり、逆恨み。
 「……巴ちゃんに、鉄さんのこと知って欲しかったの」
 桜は目を伏せたまま、呟いた。
 「鉄さんのこと、好きになって欲しかったの。だからいっぱい喋ったの。鉄さんのこと、いっぱい!」
 決然とそう言い切った桜が、巴の目を真っ直ぐに見た。
 『自分が好きな人を、友達にも好きになって欲しかった』。その時の巴は、桜の言葉の意味をそう理解した。
 そこにもっと、もっと遥かに深い意味がある事を知らずに。

 『いつか遠くない未来、私はいなくなってしまうから』

 桜の運命と、深く隠されたその想いを知らずに。
 だから、巴は拒絶した。
 「もういいわ。済んだことだもの」
 精一杯意地を張って、背筋をしゃんと伸ばして桜に背を向けて、そして歩き出す。唯一の友達と、想い人をいっぺんに失った女の、精一杯の虚勢。
 「……巴ちゃん……っ!」
 背中から、桜が呼ぶ声がする。
 「巴ぇーっ!」
 まだ呼んでいる。ちょっと涙声。
 「冬待ぃーっ! 巴ぇーっ!!!」
 いくらなんでもうるさい。静かにしろ、と注意するために振り向いた巴の目の前に、桜がいた。いつ近づいたか巴にも知覚できなかったが、あるいはソウルリンカーの体術でも使ったか。
 桜は両手を拳に握り、それを豊かな胸の前に揃えて構えるポーズ。そして、

 「ふぁいとーぉぉおおっ!!!」

 「?!……はあ?!」
 何とも頓珍漢なエールにぽかん、となってしまった巴の隙を突いて、桜がその首っ玉にがば、と抱きついた。避けるひまもない。
 そして巴の耳元で呟く。
 「……運命が、貴女を迎えに来る」
 「?!?!」
 「でも負けないで。運命なんかに引きずられないで」
 桜が、巴の首に回した腕を解くと少しだけ顔を離し、巴の目を見つめた。
 「貴女の運命は、貴女が選ぶのよ。冬待巴」
 桜の灰銀色の瞳が一瞬、あの異質な輝きを帯びたと見るや、すぐに消えた。同時に巴の首っ玉に抱きついていた手をぱっと放してくるり、と巴に背を向け、あっという間にその場を走り去ってしまった。
 「……なんなの?」
 何が何やら分からない。が、桜にはこの手の不可思議な言動が珍しくないので、巴も一つ首を振って、余り気にしない事にした。
 いや、気にするなという方が無理なのだが、今はとにかく頭を使いたくない。
 初秋の庭園を早足で抜けると、彼女の仕事場である後宮の瀟洒な門が現れる。いよいよここから先は王を除いて男子禁制。門を守る衛兵までも女性であり、巴の部下だ。彼女らの緊張した敬礼に軽く答礼して、門をくぐる。
  この後宮は、巨大なプロンテラ城の中層から上層へ続く一角にあり、市街地から数えると実に5つもの城壁に守られた、まさに城の最深部にあたる。王その人が 暮らす上層まで壁一枚という、中枢の中の中枢だ。そして遥か過去、この地に城が建設された当時の構造物が残る、最も古い部分でもある。
 石造りを基本とする構造物は、いずれもその表面に歳月を刻んで厳めしく、装飾品も同様に時代じみている。
  初めてこの場所に赴任した時、巴の心は満足感で一杯だった。顔や家柄やコネではなく、実力でこの場所に立てる人間は、ごく一握りのエリートだけだ。しかも 王室親衛隊の士官といえば、国軍の将軍クラスでさえめったな口は聞けない。若くして、それも女の身でこの場所に至った事は、巴の心を満たすのに十分だっ た。
 そう、傷ついてしまった自尊心を満たすには。
 巴の生まれ育った『冬待家』は代々、魔法ギルドやセージキャッスルに人材を送り込んで来た学者の家系である。
 余談になるけれども、その名前から分かる通りルーツは天津からの移民だが、世代を重ねた結果として、もう巴には天津の血はほとんど流れていない。
 その冬待家、何代か前の先祖が魔法ギルドの長を勤めた功績で、下級ながらも王国貴族に列せられたことから、以後王国軍にも人材を送り込んでいる。
 巴もその一人、というわけだが、彼女の場合、真に望んでここに来たわけではない。
 (他に行く所がなかったんだもの)
 というのが真実。
 それというのも、巴が『優秀過ぎた』ことが原因だった。
  幼い頃から、魔法に対するセンスがずば抜けていた。セージキャッスルに入っても飛び級に飛び級を重ね、とうとう最後には、セージキャッスルの生きた伝説で ある『戦前種(オリジナル)・翠嶺』の直弟子に名を連ねるまでになった。聖戦以前から千年以上の歳を重ね、セージキャッスルの創立者の一人でもあるという 翠嶺が、自ら直弟子を取るのは極めて珍しい。だからこそ『翠嶺の弟子』という看板は、魔法の世界では最高レベルのステータスであり、それを弱冠十代で手に 入れた巴の実力はまさに本物と言える。
 だがそれは、彼女に本当の意味での幸せをもたらさなかった。
  時代はまだ、女が男の上を行くのを許さない時代。翠嶺のような『ケタ違い』の女性は別格としても、わずか十代の少女が次期教授だの、未来の院長だともては やされるのを許さない空気が満ちていた。いや、セージキャッスルの教授陣や生徒達による、多少の嫉妬などはまだマシだった。
 むしろ問題は、彼女の実家の方だ。
 男性優位を基本とした厳然たる家長制度を敷く冬待家は、巴が優秀であることは望んでも、優秀すぎることは望まなかった。そして彼女が一族の他の男達よりも高い地位に昇ることは、もっと望まなかった。
 彼らが巴に望む事は、一族の繁栄のために良い婚姻関係を結ぶための生け贄、あるいは『餌』だ。餌が上等であればその分、釣れる獲物も大きい。だが餌はどこまで行っても餌であり、豪華な晩餐である必要はない。
  だから、巴がセージキャッスルで名前を上げれば上げるほど、実家からは有形無形の圧力がかかった。日々の手紙に学資の停止、脅しに泣き落とし。正直、師で ある翠嶺が全力で守ってくれなければ、卒業すら危うかったろう。何とか卒業はしたものの、しかしセージキャッスルに教授として残る事はもうできなかった。
 いや、この組織に絶大な発言力を持つ師の翠嶺に、巴がそう望めば不可能ではなかったろう。しかし彼女はもうこれ以上、師に迷惑をかける気にはなれなかった。
 『じゃあ貴女、私と一緒に来ない?』
  その翠嶺からそう言って誘われたのは嬉しかったし、正直悩みもしたけれど、最後にはこれも断った。一年の大半を放浪の中で過ごす師の生き方、それを否定す るつもりはない。だが巴にはまだ、己の名を世に出したい、知らしめたいという想いがあった。実力では巴に劣るくせに、巴を否定した連中を見返したかった。
 さらには自分の力、特に独自に編み出した攻撃魔法に対するプライドもある。
 (この力と技を武器に、一人で生きてみせる)
 と。
  そのためには、持ち前の『武力』がまずモノを言う軍人はうってつけだ。中でも彼女が採用された王室親衛隊は、まさにエリートの中のエリート。名を上げた い、という巴の欲をひとまず満たしてくれる。それに、女ばかりの後宮守護部隊なら、女性であることへの差別もないだろう。
 後に、後宮の伝説にもなった採用試験を経て、この地位に就いた時の満足感を、巴は今でもはっきりと思い出すことができる。
 だが、それもほんの短い間の幻想だった。
 ここが『蛇の巣』と気づくまでの、ほんの短い間の。
中の人 | 外伝『The Silver Wolf』 | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝「The Silver Wolf」(4)
 
 すぐに、巴の顔から笑顔が消えた。だって、誰かに微笑みかければ、すぐさま別の誰かの嫉妬を買うのだ。
 あの人は誰それ派、この人は誰それ派、誰が好きで誰が嫌い、誰に恨みがあって誰を頼りにしていて。表向きは憎んでいるが内心は恩を感じていて、しかしいざ自分の利益のためとなれば殺すこともためらわない。
 あまりにも複雑かつ濃密すぎて、誰にも解きほぐせない人間関係。
 だから後宮の女は、決して本心では笑わない。本当の笑顔はただ、王その人にだけ捧げられる。
 そんな場所では親衛隊の立場だって、巴が思っていたものとはだいぶ違っていた。
 まず警備の意味が無いのだ。まあどう考えてもこの場所まで侵入して来る賊などいないだろうから、これは当たり前と言えば当たり前だ。
 だから、強力な武力を持つ巴ら女性士官の仕事は結局、後宮の女達の玩具になることだった。特に、若く美しく、そして誰よりも強い巴は、彼女達にとって最高の玩具だったのだ。
 といってもいかがわしい話ではない。
 その圧倒的な魔法の技で、男を圧倒する巴の力そのものを見世物にするのだ。
 彼女は事あるごとに、国軍の屈強な男性兵士を相手に、『訓練』と称する手合わせをさせられた。巴がその独特かつ強力な魔法を行使し、鮮やかに男達をねじ伏せるのを見物しながら、後宮の女達は何かの溜飲を下げるのだ。
 それは『男』という存在に対する屈折した憂さ晴らし、と言うのも間違いではなかろう。巴も最初のうちはそれを楽しむ気持ちがあったのも事実だ。
 だが今はもう、うんざりだった。何もかもがうんざりだ。
 このままここで、権力という名のゲームに興じる女達の玩具として一生を終えるのか。
 ちなみに巴の上司、つまり後宮分隊の隊長も当然女性で、かつてその神速の斬撃で名を馳せたアサシンクロス。現在53歳で階級は少佐。で、独身。
 『オレはな、男嫌いの女好きだから、ココが気に入っているがな』
 今も十分に美しく、その実力は巴も認める彼女はよく、笑いながら巴にこう言ってくれる。
 『冬待、お前はココに長居してはいかんぞ。まあ、オレはお前がいてくれる方が嬉しいが。……なあ、いっぺんでいいから『お姉様』って呼んでくれないか?』
 後半はまあ冗談としても、巴も上司の言うことが正しいと思っている。このままここにいても、もう良い事は何もないだろう。
 しかしだからといって、ここを出てどうするのか。誰か適当な男に嫁ぐのが早道ではあるが、それでは今まで巴がやってきた事は無駄になる。
 といってこれ以上、自分の名と技を世間に広める立場など望めはしない。
 はー、と溜め息が出る。
 誰しもに賞賛される地位で、誰にも文句を言われず1人、自由に生きる。
 手に入った、と思ったその場所が、実は出口の無い檻だったなんて。
 「……あー、駄目だ。下がる……」
 もろもろの憂鬱が手痛い失恋の痛みと混ざって、独り言のついでにまた溜め息。

 (冬待巴ぇーっ! ふぁいとーぉぉおおっ!!!)

 ああ、さっきの桜のエールは、この事か。気持ちはありがたいけれど、今の巴には、彼女のエールだからこそ余計に痛い。
 重い気持ちを抱えたまま、静まり返った廊下を歩く。彼女ら親衛隊に与えられた詰め所に向う廊下は、無人。
 その無人の廊下に、異変が起きたのはその時だった。
 巴の目が、真っ直ぐに伸びた廊下の向こうを、何かが横切るのを捉えた。
 人だ。
 身体の線が見えない、ローブのような服。それが天津の着物で、着流しという着方だと巴は見て取った。背中に、太く三つ編みにした長い銀色の髪が揺れている。
 (……男……?!)
 考えるより先に、巴の身体が反応した。王以外の男がこの建物にいるはずはない。万が一の例外があるとしても、親衛隊の副長である巴に必ず連絡があるはず。つまりあそこにいるのが本当に男ならば、問答無用で即座に殺してよい、いや殺さねばならない相手だ。
  ヒール付きの軍靴を黒いナイフのように閃かせ、親衛隊の証でもある深紅のマントを翻して、巴は走った。クラスは魔法使いだが、軍人としての鍛錬は人一倍積 んでいる。上着の内側に隠し持つために短く切り詰めた杖を素早く抜き、印を結びながら十字路に飛び出す。建物の構造は完璧に把握している。十字路の先の廊 下は窓も扉もない壁が続いていて、隠れる場所はない。
 はずだった。
 「いない?!」
  銀髪の男が通ったはずの廊下は、見渡す限り無人。壁も天井も歳経た石組み。それを、これまた歳経たタペストリーで覆った作りだ。建国の神話や、聖戦時代の 武勇伝をあしらったタペストリーはいずれも重厚で巨大なものだが、裏側に人が隠れることは不可能。床の絨毯の下はなおさらだ。
 「……サイト!」
 ぼうっ! と音を立てて出現した魔法の炎が、巴の身体を中心にぐるぐると回転を始める。姿を隠す魔法やスキルを見破る呪文。だが、それも空振りに終わった。
 巴の肌にぞっ、とする感覚が走る。
 (幽霊……)
 古い建物には付き物の話。しかもここは陰謀渦巻く後宮だ。恨みを『残さずに死んだ』人間の方が珍しいだろう。
 幸いにしてと言うべきか、巴自身はまだ体験した事は無かったが、親衛隊の同僚やら後宮の妾妃、女官達からその手の話はさんざん聞かされている。怖いから一緒に寝てほしい、と頼まれたことも一度や二度ではない(彼女らの真意がどうであれ無論、全て丁重にお断りした)。
 あれもその手の物なのだろうか。
 だがそこは魔術師として抜群の腕を持ち、軍人としての厳しい訓練も積んだ巴だ。恐怖は意志で克服し、あらん限りの感覚を研ぎすます。
 そして、それは無駄ではなかった。
 「……ん?」
 巴の感覚器の一つが、異変を捉えた。その形よく伸びた鼻がくん、と廊下の空気を吸い込む。匂いだ。巴でも、今のように集中していなければ分からなかっただろう、微かな残り香。
 (香の匂い!)
 それは、天津の高貴な人間が、自らの衣服に焚き込めるという香木の匂いだ。このプロンテラ後宮でも一時流行し、今でも時々行う妾妃がいるため、巴の記憶にもあった。
 幽霊ではない。確かに誰かがここにいたのだ。
 巴は魔術師の命でもある杖をしっかりと握り、印をきつく結び直す。魔法を使う予備段階、いわゆる『トランス状態』に一瞬で没入、と言っても魔法そのものを使うためではない。トランス状態がもたらす飛躍的な集中力の増大を利用して、感覚をさらに研ぎ澄ますためだ。
 (タペストリーの……裏!)
 微細極まるその残り香の発生源。巴が知覚したのは、タペストリーの中でもひときわ巨大な、聖戦の情景を描いた一枚。次元の裂け目から襲い来る魔物に対し、頭や肩、肘など身体の各所に『角』の生えた異形の戦士達が闘いを挑んでいる絵。匂いはその裏側へと消えていた。
 外から見る限り、壁とタペストリーの間には何も無い。タペストリーごと魔法で焼き払うか、と一瞬迷ったものの結局、用心しながら手でまくり上げてみた。
  (隠し扉?!)
 そこに扉があった。石壁と見事に一体化するよう偽装された扉が、ご丁寧に開け放してある。
 巴の驚愕は大きかった。
 親衛隊の幹部である自分さえ知らない隠し扉がこの後宮にある、という事実は余りに重大だ。しかもそこに、正体不明の男が入って行ったとなれば、これはまさに一大事である。本来なら即座に部下を呼び、上司に報告して捜索隊を組織し、大規模な討伐を行うのが筋だ。
 だが、その時の巴はある種の興奮状態にあった。秘密めいた場所、秘密めいた出来事。謎の……敵。気がつけば、まるで誘われるようにその身体を扉の向こうに滑り込ませていた。扉は開けたままだが、タペストリーが元に戻れば外からその存在を知る事はできまい。
 扉の向こうは暗闇、と思いきや明るい。夜でも昼のように明るいプロンテラの町を照らす、あの発光石が随所に埋め込んである。狭い隠し通路、それは壁の中を何処かへ繋がっているようだ。閉ざされた空間らしく、巴が察知した香の匂いが強く、はっきりと残っている。
 床に積もった埃の上に、複数の足跡がある。いずれも新しい。してみると巴も知らない間に、この通路はかなり利用されているのだろうか。だが誰が何のために、と考えるのは後だ。
 (追わなければ)
 本能のまま獲物の匂いを追う獣にでもなったように、巴は通路を駆けだした。ただし足音は殺す。そんな所も獣の狩りそのもの。
 すぐに分かれ道に行き当たった。一方は道なりに進む通路、もう一方は急勾配の階段。どちらに行くべきか一瞬迷う。だがその時、
 (……風?)
 ふわり、と階段の上から、明らかに外の風が吹き込むのを巴は感じた。そしてその風が、あの香りを運んでくる。上だ。石造りの階段を一気に駆け上がる。風が強くなり、香りも強くなる。
 ほどなく終点が来た。階段のどん詰まりに、重そうな石の扉が空に向って開かれている。階段の下方からは、青空しか見えない。
 最後の一歩。
 だん、と飛び出したそこは、狭いバルコニーのような場所だった。城で最も高い尖塔から僅かに突き出したているらしいバルコニーは、人が数人立てばもう満員になってしまうほどの広さしかない。
 そこに、その男は立っていた。
 「やあ、『こっちに来てしまったか』」
  男は、巴には意味不明の感想を述べながらにっこりと微笑んだ。その表情は柔らかく、敵意の欠片も感じられない。背にした秋の青空が凝ったような、渋い青灰 色の着物に懐手。腰帯に下げているのは印籠、というのだろうか。艶のある黒漆に、見事な螺鈿の細工で描かれた家紋には、巴も見覚えがある。
 (では……この方が……!)
 確信、そして同時に困惑。
 「……それがしは、ルーンミッドガッツ王国軍王室親衛隊・冬待巴中尉と申します。恐れながら、一条瑞波守銀様でいらっしゃいますか?」
 言葉遣いは丁寧だが、語気は鋭い。しかし問われた方の男は変わらず飄々とした顔。
 「おお、これは申し遅れた」
 軽く頭を下げると、
 「いかにもそれがし、天津は瑞波国の守護職、一条銀と申す。冬待殿におかれては、お役目ご苦労に存じます」
 やっぱり、と巴は内心で苦虫を噛み潰す。
 ではこれが鉄の兄、そして『迷子の殿様』なのだ。
 「ここで何を?」
 「さて」
 懐手にしていた右手がひょいと自分の顎に伸びると、そこをぽりぽりと掻いた。
 「何と申し上げたものかなあ」
 柔らかい笑顔が苦笑に変わる。ただそれだけの何気ない仕草。
 どきん。
 ほぼ臨戦態勢だったにも関わらず、巴の胸が鳴った。
 (……本当に、これがあの鉄の兄なの?!)
 内心で思わずつぶやく。
 なにせ一条銀、実に美男子である。
  細面の容貌だが決して女性的な所はなく、切れ長の目といい高い鼻梁といい、天津人にしては彫りが深くて印象的。銀髪をすべて後ろに梳いているために、その 秀でた額が露になっているのも、極めて知的な印象を抱かせる。背はすらりと高く細身で、肩があまり張っていない優しげなシルエット。気楽な着流し姿で秋の 風に吹かれている姿が、返す返すも絵になる。
 だがそれだけではない。
 その姿には、どうにも隠しがたい『影』がある。
  まず外見からして弟の鉄と正反対の銀だが、この兄弟が何よりも違っているのはその身にまとう『明るさ』だ。銀も決して陰鬱というわけではないが、どこまで も底抜けに明るい鉄を太陽とするなら、この銀はまさに月。夏の日差しを跳ね返す向日葵と、梅雨の雨にこそ映える紫陽花。こうして優しげに微笑んでいても、 その表情はどこか儚げで、ふと目を離したら最後、秋の空に溶けてしまいそうな雰囲気さえある。
 秋どころか真冬の空の下でも暑苦しい『肉食系』の弟とはえらい違いである。
 はっきり言って、巴にはストライク。
 (……って、何考えてるの私っ! しっかりしなさい!)
 自分を怒鳴りつけて、精一杯厳しい顔を作る。男の好み云々以前に、自分は失恋したばかりではないか。いやいや待て待てそれどころじゃない、今はそもそも色恋の話をしている場合じゃないぞ。
 「ここは我が王城の中枢、しかも男子禁制の後宮です。本来なら誰であろうが問答無用」
 「怖いな」
 ちっとも怖そうではない様子で、銀が笑う。
 「重ねてお尋ねします。ここで何をなさっておいでですか。この隠し通路のこと、なぜご存知なのでしょう?」
 「ん? 知らなかったよ?」
中の人 | 外伝『The Silver Wolf』 | 08:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝「The Silver Wolf」(5)
 
  「え?」
 銀のあっさりとした返事に巴が一瞬、虚を突かれる。
 「プロンテラ城内にこんな隠し通路があるなど、全く知らなかった。今朝、天津からプロンテラに着いて、初めてこの城を見て知ったんだ」
 「見て……?」
 巴はきょとんとした表情。それが面白かったらしく、銀の笑顔がさらに楽しげなものに変わった。
 「うん。いいかね? 我々の故郷である天津の城はね、材木を基本とした『軸構造』、つまり建物を『柱で支える構造』をしている。だけどここルーンミッドガッツ王国の城は違う。この国の城は、石組みを基本とした『面構造』、つまり建物を『壁で支える』構造なのだ」
 「……はあ」
 呆気にとられている巴をよそに、す、と銀が狭いバルコニーの中を移動し、城の外壁に手をかざす。長い年月の風雨に耐えた、見事な石組みの表面を興味深そうに撫でる。
  「だけど、このプロンテラ城の城壁には所々、不自然な場所がある。何が不自然かといいえば『厚すぎる』んだよ。城の外から見ての目算だが、上部構造物の規 模と重量を考えると、壁の厚みはこの半分でも十分なはずだ。それなら建設費用・期間・労力のいずれも、最低3割は減らせる。となると、設計・施工者がよほ どの間抜けか……」
 銀がぴっ、と細い指を空に向けて立てる。
 「他に理由があるか、だ。そこで、城の中を案内されている時にちょっと調べてみたら……」
 「壁の中に、この隠し通路があった、とおっしゃるのですか?」
 「うん。不自然な壁の厚み、その理由としては上出来だ。で、せっかく見つけたから、ちょっと散歩させてもらっていた、というわけさ」
 にっこり、と微笑む銀。その顔に巴は正直、怒りを通り越して殺意さえ憶えた。
 「……失礼ながら、おふざけが過ぎます。直ちにお戻り下さい。」
 「あ、いや、うん。……まあ、そうなんだがね」
 銀の態度はまるで、せっかく見つけた面白い玩具を取り上げられそうになった子どものようだ。
 「あー、ねえ冬待中尉?」
 「何でしょう」
 「私たちが今いるこのバルコニーは、一体何のために作られたと思う? 隠し通路の行き止まりにこんなバルコニーを作っても、飛び降りる意外にどこへも行けないのにさ」
 「知りません。興味もありません」
 「私が思うに、ここはね……」
 「いい加減になさってください!」
 とうとう巴がキレた。
 「ご自分のお立場というものをお考えになるべきでしょう! 他国の賓客と言えども、やって良いことと悪い事があります! 事と次第によっては国際問題では済まないのですよ!」
 巴の剣幕に、銀もさすがに真面目な表情になり、両手を上げて降参のポーズ。
 「いや至極もっともな意見だ、冬待中尉。悪かった、すぐに戻るよ。……だけどその前に、一つだけ確認させてもらっていいかね? いや大した事じゃない」
 「…… 何 で し ょ う ? 」
 奇麗に整ったその眉間に盛大に皺を寄せた巴の、これでもかと不機嫌な応えに、銀は苦笑しながらも口を開く。
 「では冬待中尉。君は我が弟である『一条鉄』の友人、ということで間違いないかな?」
 「……は?」
 「さっき中庭で、君たち2人が話しているのを聞いていたのだが、あの様子だと我が弟は、君の事を非常に信頼しているようだった。しかも、弟の妻となる女性……十夜霧殿か。彼女も君とは親しいようだが?」
 「聞いてた……?」
 「うん。壁の中からね」
 後宮入り口の庭園は、確かに城壁と繋がった壁に囲まれている。その中にも隠し通路が通っていて、そこから外の様子をうかがっていたという。
 「我が弟はああ見えて、人を見る目は確かだ。その未来の嫁である十夜霧殿も『特別な力』を持つ女性と聞いている。その2人が君に対して、極めて親しげな態度を取るということは、君はあの2人の友人ということ、だよね?」
 「お好きなようにお考え下さい」
  巴はぴしゃり、と言うと、その身体をバルコニーの入り口の脇へ寄せた。さっさと降りろ、という意思表示。銀もそれ以上は何も言わず、大人しく巴の脇を抜け て階段に降りる。巴としては石扉を開けっ放しにもしておけない。閉めようとしたものの、ゴツい金属の枠で補強された扉は予想外に重い。扉を受ける壁の方に も同じ形の金属枠がはめられており、これが少々錆びているため、開け閉めの重さを倍増している。
 これを1人で開けたというなら、優男に見える銀もやはり男だ。
 「手伝おうか、中尉?」
 「結構です!」
 銀の申し出を意地で断り、渾身の力で何とか扉を閉めると、それまで見えていた青空が消え、階段に暗がりが戻った。
 さらに巴は懐から杖を取り出すと、
 「!」
 ばちちちちっ!!
 一瞬、隠し通路の暗い階段に、ちょうど扉の形をなぞるように閃光が走った。そして閃光が収まった時、石扉をぐるりと取り巻く金属の枠と、それを受ける方の枠がすべて、暗い赤色に染まっている。超高温で『溶接』されたのだ。こうなっては人の手で開ける事は不可能。
 「おお?!」
 巴は、銀の驚嘆の声が背後から響くのを聞き、少し溜飲を下げる。どうだ、という気分。
 「中尉、今のは……?!」
 「『灼雨』、と申します」
 努めて無表情な声を出す。得意げな響きにならないようにするためだ。若くして王室親衛隊の幹部を務める巴の、これが得意技。ボルト、つまり魔法の矢。
 「『ファイアーボルト』と見たが、あんな撃ち方は初めて見た。中尉のオリジナルだろうか?」
 「左様です」
 「見た所、威力を極小に絞り込んだボルトを同時に、それも2000発以上撃ち込んだ?」
 「……はい」
 少し応えが遅れた。彼女の技を、初見でここまで正確に分析した人間は初めてだったからだ。
 「いや何とも恐るべき技術だ。この一条銀、感服した。さすがは世界最強の王国、人材に限りはないらしい。実にうらやましい限りだ」
 ここまで誉められれば巴も人間、決して悪い気はしない。銀の方を振り向きながら、
 「……『鳩』」
 あくまで無表情で、小さく呟いた。
 「ん?」
 「『伝書鳩』を飛ばすためのバルコニーでしょう。それも極秘に」
 あくまで無表情を貫きながらも先刻、銀から投げられた問いに答えた巴に、銀の端正な唇にまた笑みが戻った。
 「正解。うん、卓抜した魔法の技術に加えてその聡明さ、やはり弟の目に狂いは無いようだね」
 「以上です。お戻りを」
 「うん」
 銀は素直にうなずくと、先に立って階段を降りる。カツカツ、という巴の軍靴の音とペタペタ、という銀の雪駄の音が、どこかユーモラスな音を奏でる。
 合奏はすぐに終わった。階段が尽きて、先ほど銀を追って来た巴が一瞬迷った、あの分岐点にさしかかる。
 そこで、銀が足を止めた。
 「お早く、瑞波守様」
 後ろから促す巴には振り向かず、銀が肩越しに軽く右手を上げた。人差し指をぴっ、と立てる。
 そしてその指をくいっ、と斜め下へ向けた。床を見ろ、というジェスチャー。
 誘導されて視線を下に向けた巴が、はっ、と息を呑む気配。
 「気づいたかい、中尉殿?」
 「これは……?!」
 わずかな魔法の灯火の下、埃の積もった床に複数の足跡があることは巴も気づいていた。が、銀の指摘はそれではない。
 「この足跡は中尉殿、こっちのが私の足跡だね」
 言いながら銀が指差す先に、ヒール付きの足跡と、平べったい足跡がある。軍靴と雪駄の跡。
 だが、巴が息を呑んだのは別の事だ。2人の特徴的な足跡に混じって、明らかにそれとは違う足跡がある。踏まれた順番から言うと、巴よりも、そして銀よりもさらに先につけられた足跡。その複数の足跡が、隠し通路の分岐を別の方向へ向かっている。
 「まだ新しい……というより実は、私が彼らを追いかけて来たのだがね」
 「追いかけて?!」
 「うん。『散歩』の途中で偶然見かけたんだ。どうもその、良からぬ感じだったのでねえ……分かるだろう?」
 銀がゆっくりと巴を振り返りながら、しれっと言った。良からぬ、という言葉の意味は巴にも分かる。銀でも巴でもない複数の足跡には、いずれも見誤りようのない特徴があった。
 全て『踵がない』のだ。
 靴の踵を地面に着けないで歩く、それは、
 「アサシンの歩き方……」
 「正解」
 呻くような答えに正解をもらっても、今の巴には全然喜べない。王室親衛隊の幹部である自分さえ知らない隠し通路を、複数のアサシンが移動した足跡。それが意味する事が、巴にとって楽しい事であるはずがなかった。しかも巴はもう一つ、別な事にも気づいている。
 いや気づいてしまった。
 「……瑞波守様、これを私に教えようと?」
 「まあ、ね。……弟達の大切な友人に、不利になるような事態が避けられれば、と思ったのだが……かえって混乱させてしまったようだ」
 やはりそうだった。
 後宮の廊下で、銀がわざわざ巴の視線を横切った理由。そして、バルコニーでの邂逅の際、銀が言った言葉。
 『こっちに来てしまったか』。
 銀は、わざと巴をこの隠し通路に誘い、そしてこのアサシン達の足跡に気づかせようとしたのだ。巴が先にこの踵の無い足跡に気づいていれば、即座にその危険性にも気づいたはず。
 だが自分は気づかなかった。
 「すまない。素直に事態を伝えれば良かったのだが、どうも回りくどい事をしてしまった。できればまだ誰にも邪魔されずに、この通路の探索を続けたかったのだ。私の身勝手が招いた事で、本当に申し訳ない」
 銀が頭を下げた。
 「……いえ、瑞波守様のせいではありません。私の未熟です」
 巴は偽りなく、そう応えた。
 確かに隠し通路を勝手にウロウロした挙げ句、自分を惑わした銀に対する反発はある。だが、足跡に気づかなかったのは明らかに巴の落ち度だ。
 それに、今ここで銀の行動を責めるより、自分にはまだすることがある。
 「瑞波守様は、ここでお待ち下さい」
 そう言い置いて、アサシン達の足跡が続く分岐の先を睨みつける。賊の目的が何であれ、それを阻止するのが自分の仕事だ。まだ間に合うだろうか? いやきっと間に合う。
 「いや中尉、私も一緒に行こう。こうなっては君1人に押し付けるのも義理が悪い」
 「これが私の任務ですからお気になさいませんよう。ここでお待ちを」
 これから高い確率で修羅場になるというのに、着流しに雪駄履き、脇差し一つ帯びていない『お殿様』を連れて行くなどできるものではない。が、一方の銀も退かない。
 「行くってば」
 「邪魔です」
 「邪魔はしない。後ろで見てるだけ」
 「それこそ邪魔ですっ!」
 「押し問答している時間があるかね?」
 「どなたのせいでしょうかそれ!」
 あああ、と巴は頭を抱えたくなる。こんな時なのに、何だか分かってしまったのだ。
 (この人、やっぱりあの鉄の兄だっ!)
 爽やかなイケメンの外見に騙されちゃいけない、やっぱりアレと同じ、身勝手ワガママ自己中心的。
 「……天津の武士は死を怖れぬとか。行くと言われる以上、瑞波守様も『痛い怖い』は申されませんねっ!?」
 「無論だとも」
 『どや顔』でちょっと胸を張る銀の頭を、平手ではり倒してやりたい気持ちを抑えて、巴は銀に背を向ける。
 「……とにかく絶対に前に出ないで。後ろでじっとしてて下さいませっ!」
 「うん!」
 もう知るもんか、勝手にしろ。
中の人 | 外伝『The Silver Wolf』 | 08:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝「The Silver Wolf」(6)
  「サイト!」
 巴は、狭く暗い隠し通路の中で、アサシンの隠形を見破るレーダーの魔法を展開、『踵の無い足跡』を追って駆け出した。後からついてくる銀のことは、もう意識から追い出している。今は一刻も時間が惜しい。
 この隠し通路の存在こそ知らなかった巴だが、そこは親衛隊の幹部として後宮を知り尽くした彼女だ。外が見えない通路の中でも、自分が今どこにいて、この通路がどこに向っているかは予想がつく。
 (……今は図書館の西壁の中。そしてこの先は……妃様達のプライベートエリアだ!)
  王の正妻と、王の寵愛を受ける妾妃達が生活を送るエリア。王の居室から続く長い廊下の片側に、ずらり並ぶようにして女達1人1人の部屋がある。王は夜な夜 なその廊下を歩き、その夜の相手を選ぶしきたりだ。まるで仲買人の品定めを待つ商品のようだと、巴は思う。この隠し通路は、その『品定め通路』と並行し て、女達の部屋の奥の壁をつなぐように伸びている。つまりこの通路を使えば王と同じ様に、反対側から女達全員の部屋にアクセスできるのだ。イヤな予感しか しない。
 1人目の妾妃の部屋を過ぎ、2人目の部屋も過ぎる。3人目、4人目。
 (……どこ……っ!?)
 巴の焦りをよそに、踵の無い足跡は続いている、と見えたその時だった。
 「中尉!、上だ!」
 巴を追って来ていた銀が、背後から警報を発した。
 「!」
 はっ、と巴の視線が床から、天井に飛ぶ。
  そこに、一人のアサシンが張り付いていた。巴達の追跡に気づいてのトラップだろう。足跡が続いているように見せかけた上で、逆に上方からの不意撃ち。得物 はナイフ。隠密攻撃のため無駄な反射光を出さないよう、艶のない染料で黒く染めた刃物を手に、今しも天井を蹴って巴に襲いかかろうとする。重力加速度を味 方にした神速の攻撃は、常識では避けようがない。
 (やられた……!)
 巴の後方で、銀はそう思わざるを得なかった。
 不意打ちに気づいて警報を出すことはできたが、悪いことに巴は『魔術師』だ。剣士や盗賊、せめて僧侶系の戦闘職なら対応する術もあったろうが、魔法で戦うタイプの巴にとって、これは最悪の場面だった。
  当たり前だが魔術師は魔法で戦う戦士であり、敵と直接武器を交えて戦う職業ではない。そして魔法を使うには、それも強力な魔法であるほど一定の時間がかか る。だから通常、魔法使いは必ず複数の味方とパーティーを組み、前衛職が敵を食い止めている隙に、自陣後方から強力な魔法を詠唱して敵をなぎ払う、という 戦法を基本とする。
 だから今の巴のように単独行動中の魔法使いにとっては、この手の不意打ちや遭遇戦は最も危険な局面といえた。後方にいた銀でさえ、巴の身体が敵の刃で切り裂かれるのは不可避と判断し、いかに巴を救出し治療するかを考え始めたほどだ。
 だが、事態はその銀の想像すら超えて展開した。
 天井のアサシンが飛ばない。
 絶好のタイミングを逃したまま、凍り付いたように天井に張り付き、動かない。
 「……?」
 さしもの銀さえ状況がつかめず、あわてて目を凝らしたところで、アサシンが『落ちた』。飛んだのではない。天井から、真下の石の床に落下したのだ。ごっ! という激突音。音からしてヤバい、『顔面から行った』音。
 「うわ……っ」
 敵の事にも関わらず、銀が思わず声を出してしまったほど、それは危険な落ち方だった。天井から床までは2メートルもないが、だからといって石の床に顔からダイブするのに『適当な高さ』などあるわけもない。普通の神経の人間なら、数十センチだって願い下げだろう。
 床に落ちたアサシンはぴくりとも動かない。死んではいないが、意識が無いようだ。落ちた衝撃で意識がなくなったのではなく、明らかに落ちる前にもう意識がなかったのだ。
 (魔法?! だが……何をした?)
 倒れたアサシンをすばやく観察した銀の目が、その首に巴の『爪痕』らしきものを見つけるのにしばらくかかった。
 (頸動脈が、凍り付いている……?!)
  信じられない思いでさらに観察するが、間違いない。アサシンの首の両側、その皮膚が爪の先ほどの範囲で紫色に変色している。『凍傷』の症状だが、その範囲 の狭さに対して『深さ』はかなりあるようだ。人体の最大の急所の一つ、脳に血流を送る頸動脈。それを凍り付かせて血流を阻害し、脳をショック症状にして意 識を刈り取った。凍気を放って敵を攻撃する『コールドボルト』の魔法だろう。それにしても……。
 (なんという精密さと速度か!)
 銀ほどの男が、舌を巻くしかない。
  前述したように、魔法を発動するのには確かに時間がかかる。しかし、魔法の威力を小さくすればするほど、発動にかかる時間そのものは短くすることが可能 だ。つまり巴は、凍気の矢の威力を極小に絞り込む一方で、同時に発動時間も極小に短縮し、出会い頭の敵に対して瞬時にこれを撃ち込んだのだ。
 それもただ撃ち込んだのではない。その凍気の矢は威力が極小であるがゆえに、普通に撃ったのでは何ほどのダメージも与えられない。だからこそ、絶対の急所である頸動脈へ正確に、狙い澄ました2撃。そのたった2撃で敵を制圧したのだ。
 「……天晴れ」
 銀の口から、思わず感嘆の声が漏れた。
 「後ろで見ているだけ、というお約束でしたよ。瑞波守様」
 巴が振り向きもせず、床に落ちたアサシンの元へ歩きながら言う。だが、その声は至って平静で、責めている声音ではない。いやむしろ、ちょっと自慢そうな響きもあるのがおかしい。
 「申し訳ない中尉、出過ぎた真似だった。……しかしお手並み、実に天晴れ」
 「ありがとう存じます……ご助力には感謝いたします」
 礼を言うにも振り向かない。が、僅かに垣間見えるその頬が、すこし赤らんでいる。誉められて悪い気はしないらしい。
 「残りの敵はこの部屋でしょう。急ぎます。瑞波守様はこちらに」
 通路に残れ、という巴の指示に、
 「うん」
 銀も今度は素直にうなずく。
 「その者は放っておいても死ぬか、運良く生き延びてももう動けぬでしょう」
 床にぶっ倒れたままのアサシンを軽く顎で指す。頸動脈が凍り付いて血流が止まれば、ほどなく脳も死を迎える。もしその血流の熱で氷が溶けたなら助かる可能性もあるだろうが、脳へのダメージは既に甚大なものになっているはずだ。
 「承知した。御武運を、中尉」
 「ありがとう存じます。では」
 巴の片足がす、と上がり、一瞬だが見事な太腿のラインがあらわになる。艶のある黒革で作られたヒール付きの軍靴が、隠し通路の壁にとん、と当てられたと思うや、
 「……っ!」
 巴がその壁を思い切りがつん、と蹴っ飛ばした。驚くほどあっさりと石壁が回転し、光に満たされた室内の光景が目に飛び込んで来る。
 そこは寝室。巨大な天蓋付きの豪華な寝台が、部屋の中央を占領している。周囲の壁飾りや家具も贅を極めたものだが、巴も銀も当然、そんな物は見てもいない。
 2人の視線は寝台の上。これまた豪華な寝具の上に男が2人、女が1人、計3人の人間。一糸まとわぬ姿にされた女を、1人の男が上半身、もう1人が下半身を抑え込んだ、見ようによってはえらく滑稽な格好。
 それが寝技の格闘訓練でないとするなら、いわゆるレイプだ。
 抑え込まれた女の顔を見るまでもなく、巴にはその女が誰なのか既に分かっていた。部屋の位置から割り出したのだ。つい先日、この後宮に上がってきたばかりの、アルベルタを地盤とする貴族の娘。そして現在、後宮で最年少の妾妃。歳は、13歳。
 眠らされているらしく、目を閉じて男達のされるがままなのが、むしろ救いか。
 かっ、と巴が軍靴を鳴らして寝台に歩み寄る。
 「!」
 やっと巴に気づき、それぞれに武器を手にして臨戦態勢を取ろうとする2人の男に、凛たる巴の音声が響いた。

 「曲者ども! そこを『動いてみよ』!」

 『そこを動くな』ではなく『動いてみろ』。それこそ、長きに渡って巴の象徴となった言葉そのもの。『決め台詞』と気取っても、まあよかろう。
 その言葉と同時に、2人の賊の身体がぴたり、と動かなくなった。攻撃はおろか立つ事も、いや瞬き一つさえできない。
 「……おお……」
 またしても、銀の口から感嘆が漏れる。今度こそ、彼にも何が起きているのか理解できたからだ。
 部屋の中に、雨が降っている。
 目には見えないし、音もしないし、何一つ濡らすこともない雨。
 それはコールドボルト、凍気の雨だ。
  先ほど1人の頸動脈を凍り付かせたそれよりも、さらに威力を絞り込んだ極微のボルト。それが同時に数万発というスケールで、部屋の中に絶え間なく降り注い でいる。部屋の天井を埋め尽くす魔法陣は、極微のボルトを生み出すにふさわしく、爪楊枝の先ほどの直径しかない。それが無数に寄り集まると、確かに高空に 湧く雲のようだ。
 その凍気の雨が、2人の賊を絶え間なく撃っている。といってもダメージはない。極微のボルトはそれにふさわしく、産毛が触れた程度の威力しかないのだ。
 だからこの攻撃の狙いは当然、彼らにダメージを与える事ではない。
 敵の攻撃を受けた場合、一瞬だが身体が硬直する『ヒットストップ』と呼ばれる現象が起きる。今この2人を襲っているのは、まさにそのヒットストップの無限地獄。瞬きすら許されない永遠の硬直、それだった。
 超高速の呪文詠唱による、超精密魔法の連打。一発の威力を捨て、速度と正確さ、そして何よりも『数』によって敵を制圧する。
 殲滅ではなく制圧。
 『動いてみろ』。
 巴の言葉の意味こそがこれだった。炎のボルトで金属を溶接するのも、凍気のボルトで敵を昏倒させるのも、巴に取ってはほんの余技に過ぎない。
 今は伝説となった王室親衛隊への入団試験で、巴は、練兵場に集められた二千の兵を前に同じ言葉を放った。王その人を筆頭とする試験官達の眼前、その言葉を侮辱と取った二千の兵が巴に襲いかかろうとして、そして。
 誰一人として、巴の所までたどり着けなかった。
 剣も振れず、スキルも使えず、魔法も使えず、そもそも歩けもしない。王その人がもういい、と言うまで、二千の屈強の兵士が練兵場の上で人形と化したのだ。
 『氷雨』
 後に巴の二つ名の由来ともなった技。その二千の精兵すら釘付けにする力を持ってすれば、たかだか2人の賊など物の数ではない。
 巴の形の良い唇から、ほう、と白い息が漏れた。部屋を埋め尽くす氷雨の余波で、部屋の中の気温が急激に低下している。裸のままの少女が風邪をひいてはいけない。
 寝台の上に片膝を上げ、手に持った杖で2人の男を横殴り。マネキンを転がり落とすような気楽さで、2人の男が少女の身体から引き剥がされ、ごん、ごん、と床に落ちた。それには目もくれず、巴は少女の身体をそっと改める。
  少女はやはり薬を使われたらしく、まだ眠ったままだ。枕元で見つけたそれらしい薬瓶を調べると、幸いにもそれは巴も知る薬品だった。使われれば数時間は眠 り続けるが、心や身体には影響を残さない。まずは安心だ。また、どうやら本格的な陵辱には及んでいなかったようで、その身体も年齢にふさわしい清楚さのま ま。巴はほっと一息つくと、少女の身体を夜具で丁寧に包んでやり、ベッドを降りる。
 だが、巴はふと思う。
 彼女が今、汚されなかったからといって、それがどうだと言うのだろう。
 彼女が遠からず王の目に止まれば、どっちみちその身体を捧げることになる。後宮とはそういう場所なのだ。
 少女にとって、その心と身体を賊に汚されるのと、王その人に捧げるのと、果たしてどれほどの差があるのか、巴には答えられない。
 ただ、この少女が王のために捧げられた供物なら、捧げられるべき者に捧げられる方が、野犬に喰い散らかされるよりはいくらかはマシだろう、そう思うだけだった。
 そしてその供物を野犬から守ることこそが、巴の仕事なのだ。
 うんざりだ。
 ようやく2人の賊に目をやる。下半身丸出しの格好で床の上にひっくり返ったまま、止むことなく降りしきる氷雨の下で瞬きもできずに巴を見上げている様は、哀れを通り越して既に見苦しい。巴の表情にも嫌悪しかない。
 賊の正体にも、そも目的にも、巴は何の興味もない。こいつらを生きたまま、王室元老院直属の吟味役に引き渡せば、それで彼女の仕事は終わりだった。そのあとこの連中がどんな拷問にかけられ、何を話し(あるいは話さず)、その後誰がどうなるのか、巴の知ったことではない。
 うんざりだ。
 「……」
 久しぶりに魔法の腕を、それも一条銀という極上の観客の前で存分に振るって見せた興奮と誇らしさが、急速に冷えて行く。
 王への供物の番犬。
 野犬駆除の飼い犬。
 それが自分、冬待巴。
 そう思うと、自分の技を賞賛してくれた銀に対して、むしろ恥じ入るような気持ちになっていく。
 それを振り払うように、杖を一閃、そしてもう一閃。
 ばちばちっ!!
  氷雨に混じって落とされた2発の雷撃、『サンダーボルト』が、2人の賊の股間を直撃する。ほとんど八つ当たりに近い攻撃に、2人は声も出せずに悶絶し、白 目を剥いて意識を失った。命を落とすほどではないが、一滴の出血もしないほど奇麗に焼け焦がされたそこは、恐らく二度と使い物になるまい。
  気分としては放っておきたかったが、眠る少女の事を思えば、このままにしておくわけにもいかない。巴は両手に2人の片足をそれぞれ掴むと、ずるずると引き ずって隠し通路に戻る。寝台で眠るあの少女が目覚めた時、彼らと彼らがした事を記憶しているかは分からない。『夢でも見た』と思ってくれるのが一番だが、 そう上手く行くかどうか。今の巴にできる事といえば、犯人と隠し通路の痕跡を消しておく事だけだ。
 2人の身体を蹴り飛ばすようにして通路に放り込み、扉をくぐる。そして、そこで待っているはずの人物に声をかけた。
 「お待たせいたしました、瑞波守様……?」
 返事はない。
 暗い隠し通路の中、そこで待っているはずの銀の姿はどこにもなかった。
中の人 | 外伝『The Silver Wolf』 | 08:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝「The Silver Wolf」(7)
 
  「……!?」
 さすがの巴も、これには慌てた。
 とりあえず隠し通路の扉を閉め、3人の賊が金輪際動けないよう、その後頭部に雷撃のボルトを叩き込む。即席のスタンガンだ。そうしておいて床の足跡を確認する。銀の履く雪駄の平べったい足跡が、通路のさらに奥へと続いていた。ここから先は、王の居住区だ。
 冗談ではなかった。
 男が、それも他国の人間が後宮に入り込むのだって十分にアウトなのに、この上プロンテラ城の真の中枢である王のエリアにまで侵入したとなれば、もうごめんなさいで済む話ではない。それは既に、この国に対して『宣戦布告』したも同然である。
 もし露見したならば、銀は捕らえられて即座に処刑。同時に瑞波の国へ、およそ考えうる最強の軍が差し向けられて、数日後には草も生えない焦土と化すだろう。
 当然、巴だってただでは済まない。銀の侵入を阻止できず、それどころか一部は案内までした事がバレれば、彼女の両親ほか一族全員処刑、でも全然おかしくないのだ。
 はた迷惑どころの騒ぎではなかった。
 (何考えてるのよあの殿様は……っ?!)
 足跡を追って、巴が駆け出す。踵の無い足跡を追っていた先刻より、遥かに強烈な焦燥が巴の胸を焼く。
 ちょっとでも甘い顔をした自分が馬鹿だった。問答無用でサンダーボルトを叩き込み、意識をぶっ飛ばした上で、とっとと後宮から放り出して鉄に引き渡せばよかった。いやいや、いっその事ひっそりとお命を頂戴し、闇から闇へ消えて頂いた方がよっぽど後腐れがないぞ畜生。
 巴の怖い想像をよそに、隠し通路がまた階段へと変わる。大きな円を描きながら螺旋状に登って行くその階段は、どうやら城の一番高い尖塔の壁を伝って、その頂上へと伸びているようだ。
 巴はその階段を二段飛ばしで、そのうち勢いに任せて三段飛ばしで駆け上がった。見事な脚線が太腿まで躍動する様が見え放題だが、どうせ見る者はいないので気にしない。
 やがて、さしも鍛えた巴も息が切れて来る頃、光が見えた。出口。予想通り塔の頂上であるなら、そこは鐘楼であるはずだ。そしてこのプロンテラで最も高い場所。
  最後の力で駆け上がると、そこはやはり鐘楼だった。遥か塔の下から、太い鎖を牽引して鳴らす巨大な鐘が安置されている場所。ただ、王の死や王族の結婚と いったよっぽどの大事以外には、まず鳴らされる事はない。その鐘と、それを吊るす巨大な梁、あとは四方の柱と屋根だけというシンプルな場所。あらゆる方向 から吹き抜ける風が、巴の金髪を玩具にする。
 城を含む都市の中で最も高い場所であるため、建物の外に視界を遮るものはない。360度の地平線と、青空だけだ。
 銀の姿はない。
 ぞっとするような感覚が巴の全身を襲う。膝が砕けそうになるのを必死でこらえた、その時だった。
 「やあ中尉」
 飄々とした声が巴の耳に届いた。上だ。見上げれば、鐘を支える巨大な梁の上に、銀色の髪が揺れている。
  かっ、と頭に血が昇るの感じた。冷静であろう、という意志すら働かない。四方の柱にそれぞれ取り付けられた梯子のうち、一番手近なそれに取りつくと、自分 でも恐ろしいような勢いでよじ登る。一瞬で梁の上。梁と言っても、この巨大な鐘を支えるため、巨木を複数束ねて作られた代物だけに、太さが人の背丈ほども ある。さきほどのバルコニーよりよほど広いぐらいだ。
 その上に、銀がいた。
 梁にしゃがみ込んで何やらしていたのを終えて、ちょうど立ち上がった所らしかった。登ってきた巴を振り向くと、にっこりと笑う。
 その足元、巨木を束ねた梁の表面に、巨大な文字が書かれている。天津の文字だが、巴もセージキャッスル時代に学んだので読む事はできる。

 『天津瑞波之国 一条一家参上』

  墨痕淋漓。見れば、銀の右手に筆が、左手に筆立てがある。筆そのものは細いものだが、ありったけの墨と全身の躍動でもって書かれたその筆致は、異国人であ る巴の目さえ奪う出来映えだ。四方から吹き付ける風に負けぬ奔放さと、巨大な石の城に負けぬ風格を併せ持つ、それは実に見事な、
 「……落書き……?」
 「うん」
 巴が呆然と尋ねるのへ、銀が満足そうにうなずいた。
 「コレやるならやっぱり、一番てっぺんでないとね」
 にかーっ、と今日一番の笑顔。そのやたらに白い歯と、邪気の欠片もない表情が、弟の鉄とそっくりなのを巴は今さらに認識する。
 脱力。ぺたん、と、気づけば梁の上に両膝をついていた。
 気が抜けた。ばかばかしすぎて、怒りもどこかへ行ってしまった。必死で追いかけてきた自分が、ひどく間抜けで無粋に思えてしまう。
 そしてこの殿様は、それを上回る本気のバカ殿様だ。
 「こんな悪戯のために……ここまで?」
 巴は呆れたような笑みを浮かべて、銀の顔を見上げた。悪戯小僧に散々振り回され、何とか捕まえたのはいいけれど、あまり感情的になるのも大人げなく感じて怒るに怒れない、そういう表情。
 「悪戯?」
 銀がちょっと意外そうに聞き返した。
 「悪戯でしょう? 他所の国のお城に落書きなんて、一国のお殿様のすることですか」
 「……本当にそう思うかい? 中尉」
 「え……?」
 銀の表情が急に、すう、と冷めた。
 巴の背筋が、ざわっ、とざわめいた。初めて見る銀の表情に、どきん、と胸が鳴る。色恋の意味ではない。不安、そして、恐怖。
 見開かれた巴の瞳孔、その中で、銀は懐から懐紙を数枚引っ張り出すと、梁の上にまたしゃがみ込んだ。懐紙が風で飛ばないように筆立てを置いて押さえ、右手の筆を紙の上に落とす。
 筆が動き出した。凄まじい速度だ。先ほどの落書きのために、もう僅かしか残っていない墨を注ぎ込んで、細く、しかし淀みない動きで何かを描き出して行く。銀の表情は引き締まり、その目は紙の上以外の何も映さないほどに集中している。
 あっという間に一枚目の紙を埋めると、銀はそれを片手で巴に押し付け、すぐに次の紙に移った。
 わけが分からないまま受け取ったその紙を見た巴はしかし、息を飲む。
 それは『図面』だった。
 巴の良く知る場所の、しかしその巴さえ知らない部分まで描き込まれた精密な絵図面。
 「プロンテラ城……!」
 巴が呆然と呟いたのも無理はない。それは、この城の絵図面だった。当然、例の隠し通路の存在も正確に描かれている。2枚目、3枚目、物凄い速度で描き出される絵図面は、5枚目を持って城の全ての場所を網羅した。その間、わずか数分しかかかっていない。
  人間離れした速度と正確さ。いやそれ以上に何という記憶力と再現力。銀がこの城に着いてからの時間と、その行動範囲を考えれば、そこまで隅々まで見て回れ たとは思えない。かなりの部分は類推や想像で書かれているはずなのだ。だがその部分さえ、実際に日々城内を見ている巴の知識とほぼ一致していた。
 今、この銀という青年の前に、難攻不落を誇るプロンテラ城は『丸裸』にされたのだ。
 何と言う『目』か。

 『とにかく目が凄い』

 ずっと後になって、銀がこの世を去ってから、その目をこう評した青年がいた。それよりも遥かに早いこの時、巴は既にその『目』の恐ろしさを実感として味わっていた。
 だが巴の認識はまだ甘い。
 目の前にいるこの青年が、城を『丸裸』にするだけで満足するものか否か。巴はすぐさま、それを知る事になる。
 「さて、では攻めようか」
 銀が、巴に渡した絵図面をひょい、と取り返すと、その一枚目を広げた。腰帯から閉じたままの扇子を抜き、とん、と図面の上に立てる。
 「まずここに100」
 銀が示したのは城を囲む堀の一角。図面ではそこに、隠し通路の出入口がある。100の数字は投入する兵力だろう。
 「そしてここに100、こっちにも100」
 とん、とん、と扇子が動く。堀の北の跳ね橋の下、そして城から少し離れた大聖堂の地下。いずれも隠し通路の出入口がある場所だ。
 「合計300で同時に攻め込む。ただし、誰も気づかない」
 巴の脳裏に、音も無く城内を進む瑞波武士の姿が映る。確かにこの隠し通路を使う限り、その10倍の数で攻め込んだとしても誰にも気づかれまい。それゆえに、わずか300の兵で事足りるのだ。
 「3分もあればここと、ここまで到達できる。そこで同時に火を放ち、こことここを分断する。これで中枢は外から隔絶状態になる。ここまで5分」
 城の中枢、つまり元老院、後宮、そして王権のエリア。ここを外部から分断されるのは、人体で言えば外科手術で心臓を摘出されるのに等しい。つまり死んだも同然、ということだ。
 「そこからもう7分あれば、中枢は全滅させられる。後宮の女には興味がないから逃がしてやるが……鳥かごの扉を開けても、逃げる事を知らない鳥を哀れとは思わん」
 巴の脳裏にはそれもまた、見てきたように映像として再生された。後宮が火の海になれば、妾妃の大半は死ぬだろう。なぜなら彼女達には、ここから『逃げる』という発想がないからだ。この後宮こそこの世で一番平和で安全な場所だと、心の底から本気で信じているからだ。
 そしてそれは、巴もまた同じだった。
 「さらにもう5分あれば、城の中枢を完全に火の海にできる」
  銀の言葉が、架空の時を刻む。5分、10分、15分。それに引きずられるように、巴の脳裏にも、この無敵の城が無惨に焼け落ちる幻視が、凄まじい早回しで 再生される。壮麗な塔が炎に包まれ、彼女が護るべき後宮の美妃達が熱と煙の中で息絶える。わずかに残った兵士達は、瑞波独特の優美な曲線を描く太刀を引っ さげた、精強極まりない瑞波武士達によって、声も立てられずに斬り捨てられていく。
 (……いやだ……)
 巴の喉が、カラカラに渇いている。全身に変な汗がにじみ、目にはうっすらと涙が浮かぶ。
 (……いやだ……いやだ……見たくない……聞きたくない……)
  銀の語るその架空の城攻めは、しょせんは絵空事だ。そんなこと現実には起きない、と思えばいいだけだ。だが、巴の優れた知性がそれを許さない。逆にそれが 『十二分に起きうる』と判断してしまう。銀の言葉がいちいち的を得ている、と分かってしまうだけに、無知と無理解を装って笑い飛ばしてしまう、ということ ができないのだ。
  20分、30分。もう城は原型を止めていない。無数のモンスターが巣食う廃城、あのグラストヘイム城だってここまでではないだろう。架空の『開戦』からま だ1時間と経っていない(銀が語り始めてから、まだほんの数分だ)はずなのに、既に100年もの時を経たような荒廃ぶりだ。
 (……止めなくちゃ……私が止めなくちゃ……)
  巴は必死に闘志を奮い起こそうとした。自分は王室親衛隊の幹部なのだ。王と王権に連なるものを護るのが仕事であり、それが誇りである。そこに仇なす者が現 れたなら、その力を振るって撃退するべきなのだ。銀の作戦を穴を見つけ、ポイントを押さえて反撃し、これを撃退すべきなのだ。
 だがいくら頑張っても、巴の心にはさっぱり闘志が湧いてこなかった。
 護らなくては、戦わなくては、と頭では思うのに、どこか心の深い部分では、別の事を考えている。

 (……このうんざりな場所が、綺麗さっぱり消えて無くなる……)
 
 深く、そして暗い、だが抵抗しがたい、それは衝動だった。
 護る? 何を護ると言うのだ? あの女達か? さっき助けたあの少女か?
 なるほど確かに、まだ可憐な、か弱い少女だ。
 だが巴は知っている。
  過去にも、彼女のような少女が後宮に上がって来たことはある。見知らぬ場所におびえ、巴にすがりつくようにしないと眠れない、そんな可憐でか弱い少女は他 にもいた。だが今、その少女は成長し、お付きの侍女や女官を平気で鞭打ち、汚い言葉でののしり、唾を吐きかける『蛇』になった。王にしか笑顔を見せない毒 蛇に『成長』した。
 その姿を暗澹たる思いで見つめながら、しかし巴はそのかつての少女を憎むことはできなかった。その明らかに間違った成長は、だって彼女のせいではないのだ。
 (全ては、このうんざりな場所のせい。だって、ここで生きていくためには、そうするしかないのだから)
 ならば。
 この場所こそが悪であるのならば。
 (いっそ消えてなくなってしまえ)
 そうすれば、今はまだ綺麗なままのあの少女も、蛇にならずに済むではないか。
 それは巴にとってむしろ甘美な、自己破壊的な衝動だった。自分が、それほどまでにこの場所を憎んでいたのか、と改めて驚愕し、そして恐怖する。
 だが、そんな自分自身への恐怖さえも、目の前にいるこの男への恐怖よりはよほどましだった。
 その言葉一つで幻の闘いを演出し、それを聞く巴の心の奥から、暗い衝動を引きずり出す。
 一条銀。
 それは悪魔か、いや魔王か。
中の人 | 外伝『The Silver Wolf』 | 08:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝「The Silver Wolf」(8)
 
  「……以上、これにて落城」
 銀の扇子が、最後の絵図面をぴん、と弾いた。くしゃくしゃになった図面が風に煽られて、太い柱の上をひらひらと這う。が、銀はそれを追いもしない。視線を向ける事すらない。
 その目は、まっすぐに巴を見ている。
 「親衛隊による抵抗は限定的、という想定だがね。……さて中尉、この攻めに対して君はどう出る? 君の『制圧力』が守備側に加わった場合、局面にかなりの変化が出ると予想されるが、どうだい?」
 そんな評価を今されても、巴には嬉しくも何ともなない。既に闘争心も、義務感や使命感すら風前の灯火なのだ。だが、辛うじて残った自分自身のプライドをかき集めるようにして、巴は聞き返す。
 「……本気なの貴方?!」
 「本気?」
 銀の顔にあからさまな失望の表情が浮かぶ。つまらない事を聞く女だ、と思われたか。しかし構うものか。
  「確かに……確かにこの攻撃は成功するかもしれない。でもこんな攻撃は結局、無謀な軍事的冒険に過ぎないわ。場所が場所だけに影響は大きいけれど、突き詰 めれば単なる局地テロ。確かにこの国の王制は長期間混乱するでしょうけれど、その程度の混乱は過去にもあった。過去の例から見ても、混乱はほどなく立て直 されるわ。何より王国の兵力は全く損害を受けていない。反撃が始まれば、貴方の国は1日と持たない!」
 一気に捲し立てた、その割には結構しっかりとした反論になったのは、巴の知性を裏付けるものだ。そのせいなのかどうか、失望の表情だった銀の顔にまたあの面白そうな笑みが戻る。
 「……うん、確かに君の言う通りだ」
 「でしょう? 私が守備に参加する云々より、もっと大局で判断すべきよ。たまたま見つけた抜け穴から、虎穴に入って虎の子を得たのはいいけど、追いかけてきた母虎に村ごと滅ぼされたんじゃ何にもならないわ」
 「うまい表現だ」
 あはは、と銀が笑い声を上げた。が、すぐに巴に視線を戻す。
 「でも中尉? 私はこの城が落ちたとは言ったが、作戦が終了したとは言っていないよ?」
 「え?」
 巴の目の前で、銀の扇子がつい、と動く。その先は遥か北の地平線。
 「今、このルーンミッドガッツ王国は、隣国ジュノー共和国と緊張状態にある。アルデバラン北方の国境地帯では、両軍がにらみ合いの真っ最中だ。本来この首都を防衛するはずの第5軍団まで投入して、ね。よって、もし首都と王城に何かあっても、すぐには動けない。さらに」
 銀の扇子が今度は反対方向、遥か南を指す。
 「イズルードの軍港で今、何が行われているか君は知っているか? 中尉」
 「イズルード……? 確か、もうすぐ観艦式が……」
 「正解」
 銀がにやり、と笑う。
  「3日後、およそ30年振りに行われる大規模な観艦式のために、イズルードの港には軍艦が集結している最中だ。私がこの国を訪れた表向きの理由も実は、そ れに招待されたからなのだがね。少なくとも明日には、世界中に出庭っていた王国艦隊の8割、およそ800隻の軍艦が参加する予定になっている」
 銀の扇子はそのままで、視線だけが巴の目を射る。
 「その今、この城を落としたらどうなる?」
 ばちっ! たったそれだけの銀の言葉に、巴の脳裏でまた幻視が起きた。先ほどのよりも遥かに凝縮された、まるで爆発するかのような幻視。
 「……っ!」
 戦慄の表情を浮かべた巴を、むしろ満足そうに見る銀はやはり悪魔。いや、その風格と自信に満ちた体は『魔王』の名にこそふさわしいだろう。
 「地上部隊がすぐに動けない以上、観艦式は直ちに中止。しかる後に艦隊所属の海兵が城の奪還作戦に投入される」
 ぱっ、と銀の扇子が開いた。白い紙に鮮やかな藍染めの『透かし三つ巴』。
 「私の真の狙いはそこだ。こんな城の占領に興味はない。イズルードから海兵が首都に転移するタイミングでこの城を放棄し、かつ本国から瑞波軍の本隊をイズルードへ転送」
 ぱちん、と扇子が閉じられる。
 「軍船800隻。これをそっくり頂戴する」
 「!」
 「ルーンミッドガッツ王国が誇る、最新装備の軍船だ。これは頂きがいがある」
 巴が見た爆発的な幻視はすべて当っていた。いや、幻ではない。この男の前では『現実』だ。この男の扇子が別のどこかで振られる時、それは本当に起きるのだ。
  「待って……待って! それでも瑞波が反撃を受けるのは免れない! ジュノーとは、多少不利な条件でも和平条約を結んで、急いで国境の兵を引き揚げればい いだけじゃない。すぐに瑞波本国へ転送して攻め込むわ。軍船がいくらあったって、操船と海戦に熟練した兵がいなければ意味がないし、第一それじゃ国土は守 れない!」
 「守れなくていいんだよ」
 銀が巴の目を真っ直ぐに見ながら、驚くべき事を言う。
 「国土なぞ王国にくれてやる。そして瑞波の民は、瑞波を捨てる」
 「!」
 巴が息をのむ。
 「800隻の軍船と、数は言えないが既に建造済みの、我が瑞波の船に乗ってね。瑞波の民はその日から、海の民となるんだ」
 銀の扇子が再び開き、遥か高い空を指した。
  「私が瑞波の国を継いでから、最も力を入れたのが新造船の建設、そして新航路の開拓だ。今や瑞波は、王国も知らない新航路をダース単位で抱えている。未知 の島、未知の土地の情報もだ。この航路を使って貿易と開拓を行い、未知の土地に新たな港を開いていく。当然、海賊もやる」
 にや、と笑う顔は、高貴かつ狡猾な『魔王』そのものだ。
  「ルーンミッドガッツ王国でさえ、海に散らばった我々を追うことは不可能だ。大急ぎで船を建造したとしても、王国艦隊が元の規模に戻るには最低5年はかか る。それにこっちだって黙って見てはいない。ウチの妨害が上手くいけば、下手をすると王国艦隊は二度と元に戻らないかもね」
 巴の脳裏には今や、新たな幻視が生まれていた。住み慣れた土地を捨てて世界中の海に散らばり、波と風の狭間で富と力を蓄える瑞波の民。その『蒼き帝国』の姿が、巴の脳裏に鮮やかに映し出される。
 その頂点に、この魔王が立つのだ。
 「そして10年。10年の後、我々は帰って来る。今度こそ総てを奪いに」
 イズルードに、アルベルタに、水平線を埋め尽くす如く『蒼き帝国』の船が押し寄せる幻視。既にその時には、海路を断たれたことによる経済封鎖が王国の土台を揺るがし、ワープポータルによる内陸への侵攻も止める術はあるまい。
 かつて虎の子を奪った盗人が10年の後、今度は成長した子虎を従えて、ついに母虎をも仕留めに来るのだ。
 なんと希有壮大なビジョン。大胆かつダイナミックな『政治』であることか。
 (……銀色の魔王……)
 巴の全身を、冷たい汗が伝う。世界の全てを、指先一つでひっくり返す存在が、自分の目の前にいる。
 「どうかね、中尉?」
 「……可能です。認めましょう」
 巴は銀の目を見返しながら答えた。嘘はつけない。自分を守るために意地になって無理な反論をしたり、まして偽りを言うなど論外だ。銀の知性はそんなものを受け付けるどころか、軽蔑の対象としか受け取るまい。それは今の巴にとっては、なぜかひどく『嫌なこと』だった。
 「ですが……ですが、それは『綱渡り』です」
 巴の口が、ほとんど無意識に動いた。
 「確かに希有壮大なお話ですが、どこか一カ所でもほころびれば、初手から総てが崩壊する。貴方の指先一つで世界は変わるかもしれない、でも逆に、瑞波の国が民ごと消滅するリスクを背負う」
 そこまで言ったところで、巴の脳裏に何かが兆した。女の勘、と言ってもいいかもしれない。
 「瑞波守様、貴方ひょっとして焦っていらっしゃる?」
 「……」
 今度は銀が黙る番だった。巴の脳裏に、別の幻視が映し出される。
  「そう……船と海を使い、王国とは別の『経済圏』を作るという方法は確かに有効だわ。これから生まれる子ども達が成長し大人になる……うん、あと30年あ れば、貴方が考えている事の大半は実現できるはず。一か八かのリスクを抱えた10年よりも、より穏当で確実な30年を取るのが『まつりごと』の正道。そう ではなくて?」
 鋭い勘、だがその勘を、単なる勘だけに終わらせないこの知性こそ、冬待巴という女性の真の価値と言えるかもしれない。
 「……正解」
 銀が巴からゆっくりと視線を外し、広げた扇子を静かにたたんだ。魔王の姿はそのままに、巴には、その中身から魔力が失われたように見えた。
 「瑞波守様……?」
 「君の言う通りだよ中尉、私には……」
 突然、銀の顔が歪んだ。その膝ががくりと崩れ、柱の上にがくんとうつ伏せる。ぐうっ、という異様な音が、銀の喉の奥から絞り出される
 「あ……が……っ!」
 吐いた。
 先ほど書いた『落書き』は辛うじて避けたが、胃液ばかりの水っぽい吐瀉物が、異臭とともに梁の上に広がる。それも一度では終わらない。二度、三度と嘔吐が続く。三度目からは何も出なくなったが、それでも嘔吐が止まない。
 「瑞波守様?!」
 巴が慌てて銀の傍らにひざまずいて様子を見るが、いけない。吐く物がないのに嘔吐だけが続くのは、非常に強い苦痛を伴う。
 「大丈夫……だ……」 
 言いながらも、銀の顔色はもう土気色だ。苦痛の表情を見せまいと耐えているようだが、それが余計に痛々しい。思わず銀の背中を撫でた巴の手に、しかし異様な手応えが伝わった。
 (……!)
  それは、ぞっとするほど痩せた身体だった。身体の線が見えにくい着流しで隠されて分からなかった。辛うじて行動に不自由がない程度の筋肉はあるが、それ以 上の少しでも激しい運動や、まして戦闘には全く耐えられないだろう。まだ20代という銀の年齢を考えれば、あり得るべき事ではない。
 (病気……それもかなりの難病。臓器のいくつかは、まともに動いてない)
 医者でははない巴でも、その知識を総動員すればその程度はわかる。魔法による様々な治療が可能なこの世界では、『治せない病』というのは逆に相当厄介なものである。例えば現代で言うならば、他者からの臓器移植や高度な免疫治療を必要とするような病。
 巴の内心が伝わったのか、その手が払いのけられた。銀が巴の介抱から離れ、肘と膝を使って梁の端まで這う。とても一国のお殿様がする行為ではない、無様な姿だった。
 しかし必死だ。
 吐き気をこらえて歯を食いしばり、不規則な呼吸を繰り返しながら、何とか柱の一本に背を持たせかける。印籠を手に取り、その中から薬らしい包みを取り出す。
 が、そこまでだった。急速に呼吸が浅くなり、意識の混濁が始まっている。手に薬を握りしめたまま、その身体がずるずると沈んでいく。
 恐らくは、ほどなく死ぬ。
中の人 | 外伝『The Silver Wolf』 | 08:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝「The Silver Wolf」(9)
 「……!」
 銀の異常を前にして巴は、しかしその場に立ち尽くしていた。苦しむ銀を助けるべきか、それを迷ってしまっていた。
 だってそうじゃないか。
 この男は危険なのだ。いや危険どころではない、自分が仕える王国にとってまさに最大級の脅威そのものだ。そして今、その事を知っている王国の人間は、自分たった1人だけなのだ。
 (このまま放っておけばいい)
 巴の知性は、早々にそれが最良と結論づけていた。
 そうだ。自分が手を下すまでもない、放っておけばいいのだ。そして彼が死んだら、後は死体をこの塔から突き落としておけばいい。どうみても城内で迷子になった挙げ句の病死、そして墜落だ。彼の弟である鉄も、その死体から真実を導く事などできまい。
 それで、王国最大の脅威は消え失せる。後宮に男を侵入させてしまった、という巴の失態も、そこで起きた事も永遠に封印される。
 そうだ、放っておけ、と巴の知性が断言する。
 だが、その内なる知性の声はしかし、巴の耳に確かに届いた小さな声にかき消された。

 「……死ねん……」

 銀だった。もうろうとした意識の中で、か細い息の下で、銀がつぶやいたのだ。
 「……まだだ、まだ死ねん!」
 自分の心に、身体に、言い聞かせるかのような重いつぶやき。それが耳に届いた瞬間、巴にはすべてが分かった気がした。
 そう、分かってしまった。
 「……俺の……この手で……この手に……っ!」
 銀のつぶやき、いやそれはつぶやきではない。
 『叫び』だ。
 ひん死の獣の咆哮だ。
 そう、獣。
 どれほどに病んでいても、衰えていても、この男は『野生の獣』そのものだ。自分の目の前にある世界にその爪を、その牙を突き立て、その顎で噛み砕き、喰らい尽くす事しか考えない、それしかできない肉食獣だ。
  たとえそれが病み欠けた牙でも、衰え曲がった爪でも、あくまで自分の力で獲物を捕らえ、引き裂き、喰らう。そうでなければ満足できない。何一つ満たされな い。優しい仲間が彼のために捕ってきてきてくれる、柔らかく食べやすい獲物を、巣穴の底でただゆっくりと食べて生きる、それでは駄目なのだ。それは銀に とっては死と同じ、いや死よりも堪え難いこと。ただ飢えを加速するだけのこと。
 「……死にたくない……まだ……死にたくないよ……!」 
 そうとしか叫べない。そのようにしか生きられない。だからこそ、進行する病気に対して命がけの追いかけっこを挑みながら、あんな無謀ギリギリのビジョンを描き、ルーンミッドガッツ王国という世界最強の獲物を狙うのだ。
 『己の手で奪った物にしか価値がない』のだ。
 それは武士の誇りか、男の欲望か、それとも権力者の幻想か。いや、恐らくどれも違う。
 ただ、そのように生まれたから。
 本能。
 本当にそれだけだ。
 もっともらしい理由や理屈を付けたとしても、結局はすべて後付けに過ぎない。鳥は鳥ゆえに飛び、魚は魚ゆえに泳ぎ、狼は狼ゆえに喰らう。ならばこの銀という男もまた、それゆえに欲し、それゆえに挑み、それゆえに奪う。
 病に、時間に、そして世界に。
 すべてに。
 何がおかしい? 何もおかしくなどない。
 (……奇麗)
 巴はわけもなく、そう思った。目の前で叫び、もがき続ける銀の姿、それはお世辞にも良い格好とはいえない。身体は病み衰え、衣服は乱れ、薄汚れた梁の上に力なく崩れ落ちている。
 だがそれでも、巴の目にはその姿が美しく映った。そう、弟の鉄がその『いくさびと』ぶりで彼女を魅了したように、この銀もまた、彼女の目をまばゆく灼く野生の獣、そして『いくさびと』なのだ。
 それが今、望まぬままに命尽きようとしているのを、放っておいていいのか?
 冬待巴、お前はそれを許せるのか。
 自分自身に。

 (……許せるはずがない)

 気持ちが、知性の答えを覆した。それはもう、巴の『勘』と言ってもいい。
 女の勘を、知性によって生かす事が巴という女性の価値なら、その勘一つでいかなる理屈も飛び越えてしまえるのは、この女性の魅力と言えるかもしれなかった。
 当然、マズい事はたくさんあるだろう。賢い選択でないのも確かだ。
 しかしそれでも巴は、この銀という男の前で自分を偽ったり、嘘を言うことがひどく嫌だった。それをすると、自分がどんどん惨めになるようで、いたたまれないのだ。
 だから巴は、素直になることにした。
 すべてのことに。
 そして巴は、自分で選び取った。

 運命を。

 「……瑞波守様、お薬を」
 巴は銀の側に膝をつくと、その手から白い薬の包みをそっと取り上げた。開けて中身の匂いをかぎ、少量を舌の上に乗せる。
 (……かなり強い薬だ)
 アルケミストならもっと詳しく分かるかもしれないが、どうやら天津特有の薬草も配合されているらしく、巴の知識では薬の内容をすべて把握することはできない。が、それがほとんど『毒』に近いような強い薬であることは分かる。
 「……白…赤、黄……」
 巴の気配を感じたのか、銀が小さくつぶやいた。謎めいた言葉だが、巴は賢い。すぐに銀の腰に下がった印籠の中を改め、そこに赤い包みと、黄色い包みが入っているのを見つける。色の順番は、飲ませる順番だろう。
 腹をくくった。
 銀の、驚くほどに軽い身体を自分の膝の上に抱え、ポケットに常備した回復剤の瓶をいくつか出し、栓を抜く。まず白い包みの薬を自分の口に含み、続いて回復剤の中身をあおる。
 そして、その唇を銀の唇に、そっと重ねた。
 ゆっくりと、銀の口中に薬を流し込む。刺激の強い薬だけに、銀が咳き込んで吐き出してしまったら万事休すである。時間をかけた癒しのキス。その間、巴の鼻腔を銀の体臭と香の匂いが満たす。濃い牡の汗と、典雅な香が混じった官能的な匂いが、巴の脳髄をぐらぐらと揺さぶる。
 白の薬を飲ませ終わると、次は赤。それはどうやら麻酔薬であるらしく、巴の舌まで痺れが走る。
 同じ様に唇を重ねていると、次第に銀の呼吸が深いものに代わっていくのを感じた。薬を飲み下す唇に力が戻り、巴に抱えられるだけだった身体にも暖かみがさす。何よりもその黒い瞳が、今はしっかりと開かれ、自分を介抱する巴をじっと見つめている。
 巴はしかし、銀の目を見ない。見られていることは分かっていたが、わざと見ない。
 黄色の薬。
 唇を合わせると同時に、銀の腕が、す、と巴の首と頭に絡んだ。そのままぎゅっ、と抱き寄せられると、巴の身体が銀の身体の上に折り畳まれるように深く密着する。
 ふ……と、巴の呼吸が乱れた。
 「は……っ」
 薬を飲ませ終わると、まるで水中から息継ぎに戻るように、巴の頭が銀の腕を振り切って戻る。
 「終わり、ですよ。『お殿様』」
 深い息継ぎをひとつ。
 「ああ……ありがとう中尉、お陰で助かった。……起こしてくれるかい?」
 促されて、巴が銀の身体を起こしてやると、彼はそのまま身体を横に倒すと、四つん這いの格好になる。上半身を支える腕が震える様は、まさに病み衰えた獣そのものだ。
 「見ない方がいい。気持ちの良いものじゃない」
 銀にそう言われても、はいそうですかと目を背けられる巴ではない。半分は意地もある。その姿から目を離さない巴に、しかし銀もそれ以上、何も言わなかった。
 銀の背中がいきなりがくん、と反った。と思うと、今度は激しく丸くなる。痙攣だ。それも巴さえ見た事がないほどに激しい。
 「……む……ぐぅっ!」
 銀の顔が苦悶に歪んだ。先ほどの嘔吐の時もひどかったが、まだこれよりはましだった。目は血走り、全身から異様な汗が噴き出し、両手の爪が梁をかきむしる。どれほどの苦痛に耐えれば、こんな有様になるのか。
 「瑞波守様?!」
 巴が側に寄ろうとするのを、しかし銀は片手を上げて弱々しく制止する。
 「……ぐ……」
 吐いた。だが今度は胃液ではない。
 どす黒く濁った、それは血だった。
 先ほどの吐瀉物で汚れた梁の上に、さらに黒ずんだ血の染みが見る見る広がって行く。その先はついに、銀の落書きにまで達する。
 「げ……ぶ……」
 びちゃ。
 鮮血に染まった銀の口がひときわ大きく開かれたと思うや、そこから拳大の肉の塊が吐き出され、梁の上に落ちた。
 (あれは……内臓……?!)
 巴が思わず、その手を自分の口に当てていた。それほどまでに凄惨な光景。だが銀はそれさえ慣れているのか、よろめきながらも着物を汚さないように身体を起こし、懐から懐紙を取り出して口を拭う。真っ白な懐紙が、一瞬で血まみれになるのを、巴は呆然と見ていた。
 「見苦しい所を見せて、申し訳ない、中尉……」
 銀は微笑んで立ち上がろうとするが、駄目だ。膝から崩れる所を、危うく巴が抱きとめる。素早く、血や吐瀉物で汚れていない梁の端まで移動し、そこでまた銀を膝に抱いた。
 「瑞波守様、今のは……?」
 「内臓をね、『入れ替えた』のさ」
 銀が驚くべき、そしてぞっとするような事を言った。
 「入れ替えた?!」
 「そう。……私の身体は、あちこちポンコツでね。内臓のいくつかは、ものの一年か半年ですぐ動かなくなる」
 それ自体は巴の推察と同じなので驚かない。驚くのはその続きだった。
 「……だから、動かなくなった内臓を時々、こうして新しく入れ替えるのさ。なに、簡単だ。わざと毒を飲んで古いヤツを破壊しておいて、その上で回復剤を飲めばいい。すぐ新しいのが『生えてくる』」
 飲めばいい、生えてくる、などという簡単な話でないことぐらい、巴にだって分かる。銀の言葉が本当ならば、最初に飲ませた白い包みは巴が感じた通り、毒だったのだ。赤が麻酔。そして黄色が回復剤。さらに先ほど吐き出したあの肉塊はやはり、毒で破壊された『古い内臓』。
 何という無茶苦茶な治療法。いやこれを治療と呼ぶべきなのか。
 「無茶は承知。だがもう、これしか私が生きる方法はない」
 ならば受け入れる。どんなに苦痛でも、無様でも、生きる方を選ぶ。それが当然だと、銀の表情が告げていた。
 「……もう一度、回復剤をもらえないかな、中尉?」
 巴の膝の上から、銀がねだる。さて、どうしたものだろう?
 「ご自分で?」
 回復剤の瓶を差し出すと、銀の顔がそれはそれは不満そうに尖る。まったく、この殿様と来たら。
 「『お殿様』、その前に一つだけ」
 「ん?」
 巴が、銀の顔を真上から見下ろしながら、その目を見交わす。その見事な金の髪が、銀の顔にさらさらと触れる。
 「私……ついさっきまで、弟君様に恋をしていましたのよ……?」 
 「想定内だ」
 巴の告白に即答するや、にっ、と銀の唇が吊り上がる。同時にその黒い瞳が一瞬ぎらり、と閃くのを巴は見逃さなかった。
 獣の目。
 ただ意のままに捧げられる物など無意味だ。その爪で、牙で奪い取り、貪り喰らうことこそを無上の喜びとする、それは肉食の獣の目だ。弟に惚れた女だというなら、奪うまでのこと。
 その目の輝きを前に、ぞくり、と巴の身体を異様な衝動が駆け抜けた。獣の獲物にされたことに対する恐怖、いや違う。弟から兄に心を移す事へのためらい、それも違う。
 ぎりり。
 その瞬間、巴の心の中に、巴にだけ聞こえる異様な軋みが響いた。何がが何かを喰い破り、無理矢理外に出ようとする時、そんな音がするに違いない。
 ぎり、ぎり、ぎり、ぎぎぎぎぎぎ!!
 その幻の音と共に、巴の身体を駆け抜ける衝動もまた、激しさを増す。身体が、頭が、胸が、異様な熱に包まれる。
 ぎりっ!
 巴の中に、輝く爪が出現した。
 ぎりっ!
 鋭く尖った牙も生えた。
 「……は……!」
 このまま全身全霊で叫び出したいような、笑い出したいような衝動。それを辛うじて抑え、肺の中のありったけの空気を無音のまま吐き出す。自分でも驚くほど熱いその息が、膝に抱えた銀の髪を揺らすのを見て、巴は自分の視界が深紅に染まるのを感じた。
 昂り。
 それは獣の昂りだった。獲物をその爪と牙に捕らえた瞬間の、歓喜の昂り。
 そう、獣だ。
 冬待巴、彼女もまた獣だ。
 誰かの獲物として貪られるなどまっぴらだ。この爪で、牙で、逆に喰らい尽くしてこそ。
 ああ、分かってしまった。いや、もうとっくに分かっていたのに、分からない振りをしていただけなのだ。後宮という檻の中の飼い犬として、自分を偽っていただけだ。
 だが、銀という同じ獣の前で、偽りの姿を保てなくなっただけだ。
 そう、もう偽らなくていい。さあ喰らえ、貪れ、喰い尽くせ。
 「……いい顔だぞ、中尉」
 「巴、と。お殿様」
 「ならば銀、と。」
 「……しろがね」
 「……ともえ」
 がきっ! 接吻のはずが、歯と歯の激突になってしまった。どちらかの唇が切れ、どちらかの血がお互いの口腔に鋭い金属味を広げる。だがそれさえも、2匹の獣を余計に昂らせる媚薬にしかならなかった。
 銀は発作が収まったばかり、その肢体にはまだ力が戻らない。いや戻ったとしても、若く健康で鍛え抜いた巴のそれに及ぶべくもないだろう。しかし、巴にはいたわりや容赦の気持ちなど微塵もなかった。
 これは戦いなのだ。プロンテラの街の、その王城の、一番高い場所で繰り広げられる、運命の戦いなのだ。
 「……命を惜しんで、私を奪えると思わないで。銀」
 「それはこちらの台詞だ、巴」
 改めてのキス、それが開戦の合図。
中の人 | 外伝『The Silver Wolf』 | 08:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
外伝「The Silver Wolf」(10)
 
  夕刻。プロンテラ城後宮前庭園。
 「おおお兄貴ぃー! 無事で良かったー! 心配したぜホントに!」
 秋の少し冷たい風が吹き始めた庭園に、再び鉄の銅鑼声が響いた。それだけで2度ほど気温が上がった気さえする。
 「心配かけたな鉄。部隊の皆様にもご迷惑をおかけした。申し訳ない」
 銀が丁寧に頭を下げた。
 「いやまあ、兄貴が無事ならよかったさ。……お、冬待っ! ありがとなぁおい! 兄貴助けてくれて、感謝するぜホント」
 ぱちん、と両手を合わせて拝まれた。が、巴は表情ひとつ変えず。
 「もういい。とにかく早く出て行ってくれ。……兄君の事は不問にするから」
 「返す返すもすまねえ!」
 よほど嬉しいのだろう、鉄と来たらもう土下座の勢いである。
  巴が鉄に『銀を見つけた』と連絡したのが数分前。後宮に迷い込んだまま、体調を崩して動けなくなっている所を発見し保護した、という内容。まあ、まるっき り嘘というわけではない。その知らせが届くや否や、鉄、桜、そして善鬼の3人が揃って迎えに飛んできたのがついさっきの事。
 桜の『予言』があったとはいえ、やはり心配だったのだろう。鉄ほどの男が本気で涙目で、兄の身体に抱きつかんばかりの喜びようだ。
 一方の銀は落ち着いたものである。
 「うん、冬待中尉殿には誠にお世話になりました。瑞波守、このご恩は忘れません」
 しれっと頭を下げてみせる。
 ああ、張り倒したい。
 何がお世話になりました、だろう。
  この男と後宮の廊下で出会ってからの数時間、巴が体験した出来事を思い出すだけで頭痛がする。まかり間違ってそれが全部公になりでもしたら、その1分1秒 につきいちいち処刑モノの不祥事だ。巴と銀はもちろん、とばっちりで首が飛ぶ部下や上司だって、その数は10人や20人では済まないだろう。いや、下手を するとその何万倍もの血が流れる、大戦争に発展してもおかしくなかったのだ。
 それをそっくりまとめて『もみ消した』巴に対し、お世話になったの一言とは図々しいにも程があるではないか。
 といってもまあ、実際にもみ消したのは彼女の上司なのだが。
 銀と共に鐘楼を降り、後宮に戻った巴はそのまま上司の部屋を訪れた。ほとんど処刑も覚悟して、銀と隠し通路、そして3人の賊について報告した巴に、しかし上司である歴戦の女アサシンクロスは眉一つ動かさず、
 「お前は何も見なかった。オレも何も聞いていない。『了解』も不要、黙っていればいい」
 静かにそう言い、デスクの脇から愛用のカタールを手に取る。
 「襲われたチビ妃は、確かに何も憶えていないのだな?」
 巴は黙ってうなずく。賊の標的となったあの幼い妾妃は、昼寝の最中に薬を嗅がされたらしく、襲撃の記憶は全くなかった。
 「よし、その3人はオレが預かる。瑞波のお殿様とやらは、とっとと『狂鉄』に返してやれ」
 巴の足元にひっくり返ったままの賊3人をじろりと一瞥。おもむろに、えらく使い込まれた毒瓶を胸元から取り出し、その中身を両手のカタールにつー、と流す。轟! と重い蒸発音と共に、猛毒の黒いオーラが立ち上った。
 デッドリーエンチャントポイズン。
 アサシンクロスの使うこの毒を、その辺のちゃちな暗殺毒などと一緒にしてはいけない。このレベルともなれば、現代で言えば立派なBC、いわゆる生物化学兵器に匹敵する威力を誇る。
 「そこにいたら危ないぞ。もう行け」
 戦闘準備を整えたアサシンクロスが、部屋のドアをあごで指す。数秒の後には、3人の賊は跡形もなく『なかったこと』にされるだろう。
 「……ありがとうございます、『お姉様』」
 一瞬ぽかん、とした上司に軽く微笑むと、巴は上司の部屋を後にしたのだった。
 同じ様に、他の『物証』も消した。
  銀の提案もあり、巴はその炎の技『灼雨』を使って、隠し通路に付けられた足跡を埃ごと、全て焼き払った。まさか自分の技が掃除に使えるとは思わなかった巴 だが、これが非常に有効なのは意外な発見。銀が歩いた範囲だけでもかなりの距離があるにもかかわらず、あっという間にお掃除終了。
 梁の上の落書きや汚れも、同じ要領で焼き払う。せっかく書いた落書きだったが、当の銀は、
 『消していいよ。もうこんな城に興味はない。……手に入れるべき物は、他にある』
 と、笑ったものだった。
 そして全てを終えた後、ウロボロス4宿舎の鉄へ使いを出したというわけだ。
 とはいえ、これ以上ここで騒がれたらせっかくの隠蔽工作も台無しだ。
 「……早く出て行きなさい」
 巴は鉄ら4人にそう言い捨てると、彼らに背を向けて歩き出す。
 つん。
 歩き出せなかった。またマントを引っ張られる感覚。
 「……桜」
 「えへ」
 「離しなさい」
 「やだ」
 「離せ」
 「ねー巴ちゃん、あのね?」
 「だから人の話を聞きなさい!」
 巴が猛然と振り向くタイミングを見計らったように、桜がすっ、とその顔を巴の耳に寄せてきた。内緒話の構え。桜のピンク色の髪が、巴のすっきりとした頬を柔らかく撫でる距離。
 「……銀さん、上手だった?」
 「?!ななななっ、ナニ言い出すのよアンタっ!?」
 取り乱す巴が可笑しかったのだろう、くすり、と笑ってみせた桜の手が、巴の襟口にす、と伸ばされた。そして、そこから何かをすーっ、とつまみ出す。
 銀色の、長い髪。
 風に揺れる、その銀色の輝きを目にした瞬間、巴の脳裏に激しいフラッシュバックが起きる。
 プロンテラ城の、一番高い場所での短い逢瀬。
 開戦の合図が激しいキスなら、和平の合図は優しいキスだった。
  巴にとって意外な事に、2人の『戦い』はほぼ互角。体力と健康、そして鍛錬を武器に圧倒するはずの巴が、銀の経験と技術によって阻まれたのだ。巴だって未 経験というわけではないが、残念ながら銀には遠く及ばない。どうやらこのお殿様、大人しそうな顔をしてかなり経験豊富であるらしい。
  それでも、なけなしの体力を使い果たしたのだろう。和平のキスの後、銀は巴の豊かな胸の上に崩れ落ちるようにして、眠りに落ちた。吹きさらしの鐘楼は少し 寒い。巴はシーツ代わりのマントで、2人の身体を丁寧に包む。女の巴が銀を腕枕し、抱きしめた格好。素肌の胸元に銀の規則正しい寝息を感じ、巴はほっとす る。体調は悪くないようだ。
 安心したら、今度はちょっと憎らしくなった。
 ぎゅ。
 「……痛て」
 頬っぺたをつねったら、起きた。
 「……お目覚めですか、お殿様?」
 「……君が起こしたんだろう、中尉?」
 溶け合うように絡んだ身体をそっと離し、衣服を整え、乱れた髪を直す。銀の髪は、巴が編んだ。痩せた後ろ向きの背中。しかし遥か地平線を見つめるその瞳には、決して揺るがぬ意志の光が宿る。
 「私には時間がない」
 背中越しの告白。
 「内臓がやられる間隔も、どんどん短くなる一方だ。このまま行けばせいぜい10年。長くても20年は生きられまい」
 確信を持って紡がれる言葉。それは全力で運命に抗う意志と同時に、いつの日かすべてを受け入れる覚悟をも感じさせる。
 「残された私の時間では、世界を変えられないだろう。先ほどのような策はいくらでも編み出せるが、いずれも短時間で実行するには犠牲が大き過ぎる」
 髪を編むのは既に終わっているが、銀は背を向けたままだ。
 「『私の時間』を継ぐ者がほしい」
 その目を地平線に注いだまま、ゆっくりと銀が立ち上がった。
 「私が死んだ後も、私の力と、意志と、私という時間を踏み台にして、その先の未来へ進む者がほしい」
 その言葉の意味が、巴には痛いほど分かる。
 何でも出来るが、しかし何一つできないこの銀色の魔王が、ただ一つ、巴という女性にぶつけた想い。
 「そいつが、そいつらがきっと、私を未来へ連れて行ってくれる」
 そして銀は、最後の言葉を発した。背を向けたままで。

 「待っている。『夢を継ぐ者』を」 

 ぼっ!
 「わ!」
 桜の手につままれた銀色の髪が燃上がり、一瞬で燃え尽きた。精密を極めた巴の火ボルト。髪の毛だろうが命中させるのに何の苦労もない。
 桜はというと、突然の炎に驚いたのも一瞬。すぐに、にーっという笑顔に変わる。ああこの女、ついでに焼き殺したい。
 「ね〜、巴ちゃん」
 「何よ」
 「この後、鉄さんの部屋で宴会。銀さんが良いお酒持ってきてくれたの」
 「そう」
 「行こ」
 返事は聞かず、桜は巴に背を向けると、てててっと鉄達の方に戻る。
 「……」
 行かない、と即答できなかった。そんな自分に戸惑う巴の耳に、鉄と銀の兄弟の会話が届く。
 「……で、兄貴。どうよ、この城は?」
 「楽勝。半日で完落する。つまらん。……まあ、中身は別だが」
 「中身?」
 「ああ。いい女がいる」
 「兄貴ぃ……」
 聞こえてるぞバカ殿。ああもう、4人まとめて『掃除』したい!
 結局この巨大な城も、あるいは王国の強固なシステムを持ってしても、彼らを縛ることなど不可能なのだ。
 生まれてから一度も、檻に入ったこともなければ首輪を受けたこともない野生の獣たち。その牙を、爪を、獲物に突き立てるために生を受けた狼の群れ。
 庭園を出て行く銀たち4人の背中を、じっと見送る巴の胸に、痛いほどの衝動が突き抜ける。
 (……混ざりたい。あの群れに)
 だって、もう知ってしまった。自分も、冬待巴もまた獣だと。檻や首輪は、もううんざりだと。
 だが、巴には別の事も分かっていた。
  自分の足は、きっと前に出ない。後宮という檻、だがその偽りの平和と安寧の中で、巴の野生は衰え、飼い犬の本能の方が染み付いてしまった。病で衰えた銀を 笑うどころではない。真に衰え、やせ細っているのは自分の方だ。ここが蛇の巣と分かっていながら、いざそこを出ようとすれば恐怖と不安ばかりが先に立って しまう。
 情けなかった。
 その情けなさに耐えられず、巴が4人に背を向けようとしたその時だった。
 奇跡が起きた。
 いや『奇跡』というほど大げさなものではなかったかもしれない。ほんのちょっぴりの偶然が生んだ、ありふれた光景。
 だが、巴にとってそれは、まさに奇跡そのものだった。
 巴という女性の目に、生涯焼き付いて消えなかったその奇跡。
 背を向けて歩み去ろうとした鉄が、ひょい、と巴を振り向いた。
 同時に、桜が振り向いた。
 同じく、善鬼が振り向いた。
 そして、銀も巴を振り向いていた。
 4人が全く同時に、巴を振り向いたのだ。互いに示し合わせたわけではない、小さな偶然。
 そして巴を見る4人の瞳は、そろって同じ言葉を告げていた。

 『そんな所で何してる』

 誘うでもなく、命令するでもない。
 それはもう、とっくに『身内』と認めた者への視線だった。時に肩を並べ、時に互いの背中を守りながら、道無き荒野を共に旅する者への視線。
 仲間への視線。
 巴の胸が、何かの感情でいっぱいになり、それがふっと涙になって溢れそうになった。
 ああ、彼らは私を認めてくれる。飼いならされた番犬ではなく、同じ獣と見てくれる。
 共に、世界に牙を剥く獣として。
 それは今の巴にとって、どんな地位や賞賛よりも誇らしく感じられた。後宮という場所も、親衛隊の地位も、すべてが下らないものに感じられた。
 そうだ、彼らと共に行けるなら。
 彼らの歩く道、それはまさに修羅の道だ。その先にある物といったら、安全も、平和も、平坦な道も無い、敵だらけの荒れ果てた荒野だろう。何の保証もなく、何の賞賛もなく、そして何の報償も得られないだろう。
 そして毎日毎晩を戦って、戦い抜いて、愛し合って、愛し抜いて、最後は敵の血と味方の血が混じり合った泥の上で、互いの名前を呼び合いながら倒れるのだ。
 その血と泥を踏みしめて、また新たな『継ぐ者達』が歩んでゆくのを、路傍の屍となって見送るのだ。
 脳髄がじん、と痺れるほどの恐怖と不安。そして歓喜。この心と身体を、戦いと愛で灼き尽くす未来への、それは感情だった。
 「待っている」と、彼は言った。
 だが待たせはしない、と巴は決めた。
 「待て、お前たち」
 力強い声が出た。もう大丈夫。
 「兵舎での飲酒は禁止されている」
 無感情な巴の指摘に、4人が『はあ?』という顔になる。いい気味だ。
 そして続けた。

 「……どうせ飲むなら、城で一番高い所、ってのはどう?」
 
 行こう。
 獣となって、行こう。
 戦い挑む事しか知らぬ、この狼の群れと共に。
 そして、まだ見ぬ『夢を継ぐ者達』と共に。

 この時、この場所からつながる遥かな未来を目指して、冬待巴は歩き出す。

 おわり
中の人 | 外伝『The Silver Wolf』 | 08:10 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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