2011.11.15 Tuesday
外伝「The Silver Wolf」(1)
「……失恋した」
夏の暑さが過ぎ、風の爽やかさが増し、空が青く高くなっていく季節。
冬待巴(ふゆまち ともえ)は、その高さを増す空を仰ぎながら1人、つぶやいた。
彼女の、そのつぶやきを聞く者は誰もいない。そのはず、ここはルーンミッドガッツ王国首都・プロンテラの王城内、それも最深部。王家に連なる女性達と、王の妾たちが暮らす『後宮』の入り口となる庭園だ。
庭園と言っても、周囲は高い壁に囲まれた『中庭』となっており、その奥にある宮門から先は、基本的に王以外の男性は立ち入れない。当然警備の目も光っている。
だから、まず用のないものがうろうろすることはなく、よって独り言を聞かれることもない。
しかし、もし仮に彼女の部下の1人でも、その『失恋』の呟きを聞いていたら、きっと驚愕したに違いない。
『氷雨の冬待』。
国軍王室親衛隊・後宮分隊、その副隊長を務める巴に付けられたあだ名だ。
このあだ名は元々、彼女が操る独特の攻撃魔法に由来するものだが、そもそも女性のあだ名に『氷』の文字が入った段階で、その意味する所はおおよそ想像がつくだろう。
いかなる時も冷静。絶対の公平。的確にして緻密。
無愛想で取っ付きにくく、付き合い悪くて愛想がない。
そして泣かない、笑わない、悲しまない。
加えて、見事に伸ばした金髪と、クールに冴えた近寄り難い美貌の主ときたものだ。
『氷雨の冬待』、それは尊敬と畏敬の念に多少の揶揄を加え、隠し味の嫉妬と忌避をキツめに効かせたあだ名だった。
そんな扱いを周囲から受けている巴が、こんな秋の庭園で独り言(それも色恋に関する内容!)を呟くなどという『乙女』な事をしている、と知られたら、
(びっくりした後で笑われるだろうな)
自嘲気味にそう思う。
周りから『氷』と揶揄されている事は、巴も自覚している。というよりそれは、巴自身がわざと作ったもの、というのが真実だった。
もちろん、それは理由あってのことだ。
彼女が仕事として守護する『後宮』という場所は一見、華やかで平穏な場所に見える。が、その実は『毒蛇の巣』のような場所だった。
『王の寵愛と権力』という最大のエサを巡り、人間が持つあらゆる欲望とマイナスの感情が渦巻く異形の棲家。虫も殺さぬような穏やかな妃も、まだ少女の面影を残した可憐な姫も、一皮むけば皆『蛇』だった。
そんな陰謀と嫉妬と憎悪が渦巻く場所で、巴のような二十歳を出たばかりの女性が生きていくのは、しかし容易なことではない。多少の愛嬌など、この蛇の巣の女たちが相手では何の役にも立ちはしなかった。
彼女達と同じ『蛇』となって生きるか、いっそストレスで心身を壊してとっとと実家へ戻され、親が見つけて来たそこそこの良縁に嫁いで、平凡な妻として残りの一生を終えた方がよほど幸せだったろう。
だが、巴にはそのどちらもできなかった。生まれ持った誰にも負けないプライドが、それを許さなかったのだ。
だから『氷』になる道を選んだ。
自分にも他人にも媚びずに生きて行くには、もう心の中の何もかもを殺して氷になるしかない。常に怜悧に、予断や感情を交えず事に対処していく事は、巴にとっては逆の意味での処世術。そしてささやかな抵抗。
しかし冬待巴、彼女だって女だ。
1人の時は、怒りもすれば泣きもする。迷いもすれば落ち込みもする。恋もする。
そして失恋だって、するのだ。
「あー畜生……失恋した」
同じ言葉を繰り返す。自分にそれほどの自虐趣味があるとは思わなかったが、今はそれも仕方ない気がした。だってそうでもしていないと、このまま果てしなく落ち込んで行きそうで、余計に憂鬱だったからだ。
そもそも失恋の内容からして『乙女』過ぎる。何せ、それが『恋』だったと自覚したのが、失恋した『後』なのだ。
失ってから自分の恋心に気づくとか、思春期の小娘でもあるまいし。この時代ならとっくに結婚して子どもがいる年齢の、しかしそれに背を向けて仕事一筋に生きて来た女なのだ。『不器用な女です』とか、今さらどの面下げて口にできるだろう。
さらに言うなら、その恋愛対象も、失恋状況も、どう考えてもぱっとしない。
(……まさか『あんなの』が好きだったなんて、ね……)
自分で『あんなの』と言うからには、必ずしも好印象を持っていた相手ではないことは明白だ。いやむしろ逆、ほとんど悪印象しか持っていない相手、と言って差し支えない。
恋愛対象だなんてこれっぽっちも思っていなかった、そんな男に気づかないうちに恋して、その男が別の女とくっついた後になって、それが恋だと気づく。
(はいはいどーせ馬鹿ですよ。恋愛耐性ゼロですよ)
という有様なのだから、もう溜め息しか出ないとしても仕方ないではないか。周囲が相変わらずの無人なのを良い事に、巴は空を仰いでもう一度、溜め息をつく。
「おーい、冬待っ!」
いきなり名前を呼ばれた。
「おーい、おいおい冬待冬待冬待っ! いい所にいてくれたぜ、おいっ!」
初秋の静けさを、巴の感傷ごとぶち壊すような銅鑼声が、庭園の入り口から響いた。
「……静かにしろ、ここは後宮の御前だと何度言えば分かる。『ウルフリーダー』」
「お、悪りぃ悪りぃ!」
こっから先も悪いと思っていない笑顔で、その男は頭をかきながら巴の側へどすどすと駆け寄って来た。そうすると、自然に巴が男を見下ろす格好になる。女性にしては長身で、かつ瀟洒なヒールの付いた黒革の軍靴をはいた巴より、男の背が頭半分は低いからだ。
しかしその男の存在感の前には、多少の背丈の差などまったく無意味だった。まず肉の厚みがケタ違いなのだ。足も、腰も、胴も、胸も、腕も、首も、ただただ 単純に太い。当然、それは脂肪ではなく全て筋肉である。巨大な生命力とパワーを無理矢理に押し固めて、日焼けした皮膚の下にこれまた無理矢理押し込んだよ うな、『男の肉体』そのものだ。
さらにその上に、何とも大きくて厳つい顔が乗っかっているのだが、これがまたお世辞にもイケメンとは言えない。短く刈った黒い頭髪の下に、特大の筆で殴り 描きしたような雑で太い眉。張り出した頬骨とゴツい顎が作る荒々しい輪郭。団子鼻。正直、それだけで気の弱い子どもなら泣き出しそうな迫力がある。
しかし肝心なのは、そこに嵌まった真っ黒なドングリ目と、真っ白な歯をニカっと見せたこの笑顔なのだ。
これがもう、とにかく愛嬌がある。
野生の獣、それも絶大な力を持つ巨大な肉食の猛獣が、目の前で破顔したらこんな顔になるかもしれない。男でも女でも、子どもでも年寄りでも、この笑顔の前 では恐怖や警戒など一瞬で吹き飛んでしまうだろう。そしてこの男が味方でいてくれることに心から安心し、安らぎすら感じるに違いない。
王国特殊部隊ウロボロス4・ウルフリーダー『一条鉄(いちじょう くろがね)』。
それがこの男の名前。『あんなの』と巴が呼んだ、その本人。
つまり『失恋相手』そのものだ。
「何の用だ、ウルフリーダー。ここは貴様ら外人部隊の来る所ではないと、常々申し渡してあるはずだ」
努めて無表情に、怜悧に、巴は鉄に対応する。
「おう、済まねえ済まねえ。分かってる。よーく分かってんだけどよ、ちょっと探し物してんだ。ちょっとだけ見逃してくれ、頼む冬待っ!」
ニカっ歯笑いのまま片目をつぶった(ウインクのつもりらしいが、どう見ても顔面痙攣の一種だ)鉄が、ぱんっ、と両手を頭の上で合掌すると、ぺこんと頭を下げる。見るからにゴツい筋肉ダルマ男がこんなことをやるものだから、ユーモラスの度合いもケタ外れ。
(……ダメだ。笑っちゃダメ)
巴は吹き出しそうになるのを必死で耐える。こういうことを出し抜けに、平然とやるのがこの鉄という男なのだ。そうしておいて、いつもこの手で他人を『落と す』。彼の周囲の人間がいつも、『鉄さんのアレで頼まれたら、どうにも断れない』と苦笑する所以である。男でも女でも、たいていこれで落ちてしまう、ある 意味『必殺技』だった。
「とにかく、この先は誰だろうが男性の立ち入りは禁止!」
巴は負けじと表情を変えず、しかし内心は必死に、『後宮の守護者』にふさわしい厳めしい声を出す。
「えー……」
そんな巴に鉄が、今度は情けない声を出し、同時に悲しそうな顔をする。これまた太い眉と大きな口が見事な『への字』を描き、今にも泣き出しそうな猛獣の顔。
巴はまた吹き出しそうになるのを何とかこらえた。だが限界。もうこれ以上はいけない。
「……探しものとは何だ?」
結局、落とされた。
「おお! 聞いてくれるか冬待っ!」
「聞くだけだ! あくまで聞くだけだからな!」
わかってる。かっこ悪い。でもこれ以上ちょっと耐えられない。
「ありがてえ、恩にきるぜ冬待! 実はな、探し物ってのは、オレの『兄貴』なんだ」
「兄?!」
「おう。どうやら城ん中で迷子んなっちまったみたいでなー」
「迷子?!」
巴は目を丸くしてしまう。鉄の兄と言ったら少なくとも自分より歳は上のはずで、『迷子』と言われてはいそうですか、と聞ける話ではない。
しかもこの男の兄と言えば……。
「確か天津の、大名ではないのか?! お前の兄って?!」
「おう、さすがよく知ってんな。その通りさ」
ニカっ、と鉄が笑う。
「天津は瑞波の国の守護大名、一条瑞波守銀(いちじょう みずはのかみ しろがね)。それがオレの兄貴さぁ」
「兄貴さあ、じゃないだろう! なんでそんな……そんな方がこの城の中で迷子になってるんだ?!」
我ながら素っ頓狂な声が出てしまうが、それも仕方ないだろう。天津の諸国はいずれもルーンミッドガッツ王国の友好国ではあるが、それだって『他国』には違 いない。その中でも最強クラスの軍事・経済力を有すると目される『瑞波の国のお殿様』が、このプロンテラ城の中で迷子になっているという状況がそもそも信 じられない。
「あー、実はお忍びでなあ。今朝着いたんだよ。ウチの『魔女婆さん』の計らいでな」
鉄がぽりぽりと頭をかく。
「ほれ……俺らの結婚式、あるだろ?」
「あ……」
ずきん。
巴の胸を、痛みが刺した。
そう、この男は結婚するのだ。
数日前、突然発表されたこのニュース。それに涙した国軍の女性兵士の数は知れない。
なにせこの鉄という男、こんな顔と風貌のくせにやたらとモテる。先ほど見せた愛嬌だけではない。性格が豪気そのもので、面倒見もいい。気前も気っ風も良く、それでいて気遣いもできる。
そしてなによりも、強い。
モンクとして超一流の戦闘能力に加え、独自に編み出した垂直落下型の『阿修羅覇鳳鎚』が見せる驚天動地の破壊力。しかも外人部隊ウロボロス4の中で、最大 最強のアタックチームを率いて、戦えば必ず勝つ、という恐るべき戦人(いくさびと)ぶりは知らぬ者とてない。顔や風貌がどうでも、この男のそんな実像を 知って、女がなびかないはずがなかった。
それが突然の結婚宣言。
悲嘆にくれる女性兵士(城の女官も含まれる)のその中に、巴もいたというわけだ。
「そうだったな。その……おめでとう、ウルフリーダー」
今この場で言わなくてもいいような話をつい口に出してしまうのは、巴も結構慌てているのだろう。だが鉄は気にした様子もなく、
「おう、ありがとよ。……やっぱ照れんなー、こういうのよ」
眉をへの字にしたまま笑う。何だか泣き笑いのような顔だ。
(……泣きたいのはこっちよ)
巴は内心で毒づいた。
大体、この男はタイミングが悪過ぎる。
巴が鉄の結婚のニュースを聞いてショックを受け、なぜ自分がショックを受けたのか悩み、やっとのことで自らの恋心に気づき、寂しい初秋の庭園で1人、失恋を噛み締めている最中だったのだ。
そこにノコノコ現れて、こうして2人きりだなんて。
(なにこれ……どんな罰……?)
本気で天を恨む。
(どうしてこうなっちゃったかな……)
夏の暑さが過ぎ、風の爽やかさが増し、空が青く高くなっていく季節。
冬待巴(ふゆまち ともえ)は、その高さを増す空を仰ぎながら1人、つぶやいた。
彼女の、そのつぶやきを聞く者は誰もいない。そのはず、ここはルーンミッドガッツ王国首都・プロンテラの王城内、それも最深部。王家に連なる女性達と、王の妾たちが暮らす『後宮』の入り口となる庭園だ。
庭園と言っても、周囲は高い壁に囲まれた『中庭』となっており、その奥にある宮門から先は、基本的に王以外の男性は立ち入れない。当然警備の目も光っている。
だから、まず用のないものがうろうろすることはなく、よって独り言を聞かれることもない。
しかし、もし仮に彼女の部下の1人でも、その『失恋』の呟きを聞いていたら、きっと驚愕したに違いない。
『氷雨の冬待』。
国軍王室親衛隊・後宮分隊、その副隊長を務める巴に付けられたあだ名だ。
このあだ名は元々、彼女が操る独特の攻撃魔法に由来するものだが、そもそも女性のあだ名に『氷』の文字が入った段階で、その意味する所はおおよそ想像がつくだろう。
いかなる時も冷静。絶対の公平。的確にして緻密。
無愛想で取っ付きにくく、付き合い悪くて愛想がない。
そして泣かない、笑わない、悲しまない。
加えて、見事に伸ばした金髪と、クールに冴えた近寄り難い美貌の主ときたものだ。
『氷雨の冬待』、それは尊敬と畏敬の念に多少の揶揄を加え、隠し味の嫉妬と忌避をキツめに効かせたあだ名だった。
そんな扱いを周囲から受けている巴が、こんな秋の庭園で独り言(それも色恋に関する内容!)を呟くなどという『乙女』な事をしている、と知られたら、
(びっくりした後で笑われるだろうな)
自嘲気味にそう思う。
周りから『氷』と揶揄されている事は、巴も自覚している。というよりそれは、巴自身がわざと作ったもの、というのが真実だった。
もちろん、それは理由あってのことだ。
彼女が仕事として守護する『後宮』という場所は一見、華やかで平穏な場所に見える。が、その実は『毒蛇の巣』のような場所だった。
『王の寵愛と権力』という最大のエサを巡り、人間が持つあらゆる欲望とマイナスの感情が渦巻く異形の棲家。虫も殺さぬような穏やかな妃も、まだ少女の面影を残した可憐な姫も、一皮むけば皆『蛇』だった。
そんな陰謀と嫉妬と憎悪が渦巻く場所で、巴のような二十歳を出たばかりの女性が生きていくのは、しかし容易なことではない。多少の愛嬌など、この蛇の巣の女たちが相手では何の役にも立ちはしなかった。
彼女達と同じ『蛇』となって生きるか、いっそストレスで心身を壊してとっとと実家へ戻され、親が見つけて来たそこそこの良縁に嫁いで、平凡な妻として残りの一生を終えた方がよほど幸せだったろう。
だが、巴にはそのどちらもできなかった。生まれ持った誰にも負けないプライドが、それを許さなかったのだ。
だから『氷』になる道を選んだ。
自分にも他人にも媚びずに生きて行くには、もう心の中の何もかもを殺して氷になるしかない。常に怜悧に、予断や感情を交えず事に対処していく事は、巴にとっては逆の意味での処世術。そしてささやかな抵抗。
しかし冬待巴、彼女だって女だ。
1人の時は、怒りもすれば泣きもする。迷いもすれば落ち込みもする。恋もする。
そして失恋だって、するのだ。
「あー畜生……失恋した」
同じ言葉を繰り返す。自分にそれほどの自虐趣味があるとは思わなかったが、今はそれも仕方ない気がした。だってそうでもしていないと、このまま果てしなく落ち込んで行きそうで、余計に憂鬱だったからだ。
そもそも失恋の内容からして『乙女』過ぎる。何せ、それが『恋』だったと自覚したのが、失恋した『後』なのだ。
失ってから自分の恋心に気づくとか、思春期の小娘でもあるまいし。この時代ならとっくに結婚して子どもがいる年齢の、しかしそれに背を向けて仕事一筋に生きて来た女なのだ。『不器用な女です』とか、今さらどの面下げて口にできるだろう。
さらに言うなら、その恋愛対象も、失恋状況も、どう考えてもぱっとしない。
(……まさか『あんなの』が好きだったなんて、ね……)
自分で『あんなの』と言うからには、必ずしも好印象を持っていた相手ではないことは明白だ。いやむしろ逆、ほとんど悪印象しか持っていない相手、と言って差し支えない。
恋愛対象だなんてこれっぽっちも思っていなかった、そんな男に気づかないうちに恋して、その男が別の女とくっついた後になって、それが恋だと気づく。
(はいはいどーせ馬鹿ですよ。恋愛耐性ゼロですよ)
という有様なのだから、もう溜め息しか出ないとしても仕方ないではないか。周囲が相変わらずの無人なのを良い事に、巴は空を仰いでもう一度、溜め息をつく。
「おーい、冬待っ!」
いきなり名前を呼ばれた。
「おーい、おいおい冬待冬待冬待っ! いい所にいてくれたぜ、おいっ!」
初秋の静けさを、巴の感傷ごとぶち壊すような銅鑼声が、庭園の入り口から響いた。
「……静かにしろ、ここは後宮の御前だと何度言えば分かる。『ウルフリーダー』」
「お、悪りぃ悪りぃ!」
こっから先も悪いと思っていない笑顔で、その男は頭をかきながら巴の側へどすどすと駆け寄って来た。そうすると、自然に巴が男を見下ろす格好になる。女性にしては長身で、かつ瀟洒なヒールの付いた黒革の軍靴をはいた巴より、男の背が頭半分は低いからだ。
しかしその男の存在感の前には、多少の背丈の差などまったく無意味だった。まず肉の厚みがケタ違いなのだ。足も、腰も、胴も、胸も、腕も、首も、ただただ 単純に太い。当然、それは脂肪ではなく全て筋肉である。巨大な生命力とパワーを無理矢理に押し固めて、日焼けした皮膚の下にこれまた無理矢理押し込んだよ うな、『男の肉体』そのものだ。
さらにその上に、何とも大きくて厳つい顔が乗っかっているのだが、これがまたお世辞にもイケメンとは言えない。短く刈った黒い頭髪の下に、特大の筆で殴り 描きしたような雑で太い眉。張り出した頬骨とゴツい顎が作る荒々しい輪郭。団子鼻。正直、それだけで気の弱い子どもなら泣き出しそうな迫力がある。
しかし肝心なのは、そこに嵌まった真っ黒なドングリ目と、真っ白な歯をニカっと見せたこの笑顔なのだ。
これがもう、とにかく愛嬌がある。
野生の獣、それも絶大な力を持つ巨大な肉食の猛獣が、目の前で破顔したらこんな顔になるかもしれない。男でも女でも、子どもでも年寄りでも、この笑顔の前 では恐怖や警戒など一瞬で吹き飛んでしまうだろう。そしてこの男が味方でいてくれることに心から安心し、安らぎすら感じるに違いない。
王国特殊部隊ウロボロス4・ウルフリーダー『一条鉄(いちじょう くろがね)』。
それがこの男の名前。『あんなの』と巴が呼んだ、その本人。
つまり『失恋相手』そのものだ。
「何の用だ、ウルフリーダー。ここは貴様ら外人部隊の来る所ではないと、常々申し渡してあるはずだ」
努めて無表情に、怜悧に、巴は鉄に対応する。
「おう、済まねえ済まねえ。分かってる。よーく分かってんだけどよ、ちょっと探し物してんだ。ちょっとだけ見逃してくれ、頼む冬待っ!」
ニカっ歯笑いのまま片目をつぶった(ウインクのつもりらしいが、どう見ても顔面痙攣の一種だ)鉄が、ぱんっ、と両手を頭の上で合掌すると、ぺこんと頭を下げる。見るからにゴツい筋肉ダルマ男がこんなことをやるものだから、ユーモラスの度合いもケタ外れ。
(……ダメだ。笑っちゃダメ)
巴は吹き出しそうになるのを必死で耐える。こういうことを出し抜けに、平然とやるのがこの鉄という男なのだ。そうしておいて、いつもこの手で他人を『落と す』。彼の周囲の人間がいつも、『鉄さんのアレで頼まれたら、どうにも断れない』と苦笑する所以である。男でも女でも、たいていこれで落ちてしまう、ある 意味『必殺技』だった。
「とにかく、この先は誰だろうが男性の立ち入りは禁止!」
巴は負けじと表情を変えず、しかし内心は必死に、『後宮の守護者』にふさわしい厳めしい声を出す。
「えー……」
そんな巴に鉄が、今度は情けない声を出し、同時に悲しそうな顔をする。これまた太い眉と大きな口が見事な『への字』を描き、今にも泣き出しそうな猛獣の顔。
巴はまた吹き出しそうになるのを何とかこらえた。だが限界。もうこれ以上はいけない。
「……探しものとは何だ?」
結局、落とされた。
「おお! 聞いてくれるか冬待っ!」
「聞くだけだ! あくまで聞くだけだからな!」
わかってる。かっこ悪い。でもこれ以上ちょっと耐えられない。
「ありがてえ、恩にきるぜ冬待! 実はな、探し物ってのは、オレの『兄貴』なんだ」
「兄?!」
「おう。どうやら城ん中で迷子んなっちまったみたいでなー」
「迷子?!」
巴は目を丸くしてしまう。鉄の兄と言ったら少なくとも自分より歳は上のはずで、『迷子』と言われてはいそうですか、と聞ける話ではない。
しかもこの男の兄と言えば……。
「確か天津の、大名ではないのか?! お前の兄って?!」
「おう、さすがよく知ってんな。その通りさ」
ニカっ、と鉄が笑う。
「天津は瑞波の国の守護大名、一条瑞波守銀(いちじょう みずはのかみ しろがね)。それがオレの兄貴さぁ」
「兄貴さあ、じゃないだろう! なんでそんな……そんな方がこの城の中で迷子になってるんだ?!」
我ながら素っ頓狂な声が出てしまうが、それも仕方ないだろう。天津の諸国はいずれもルーンミッドガッツ王国の友好国ではあるが、それだって『他国』には違 いない。その中でも最強クラスの軍事・経済力を有すると目される『瑞波の国のお殿様』が、このプロンテラ城の中で迷子になっているという状況がそもそも信 じられない。
「あー、実はお忍びでなあ。今朝着いたんだよ。ウチの『魔女婆さん』の計らいでな」
鉄がぽりぽりと頭をかく。
「ほれ……俺らの結婚式、あるだろ?」
「あ……」
ずきん。
巴の胸を、痛みが刺した。
そう、この男は結婚するのだ。
数日前、突然発表されたこのニュース。それに涙した国軍の女性兵士の数は知れない。
なにせこの鉄という男、こんな顔と風貌のくせにやたらとモテる。先ほど見せた愛嬌だけではない。性格が豪気そのもので、面倒見もいい。気前も気っ風も良く、それでいて気遣いもできる。
そしてなによりも、強い。
モンクとして超一流の戦闘能力に加え、独自に編み出した垂直落下型の『阿修羅覇鳳鎚』が見せる驚天動地の破壊力。しかも外人部隊ウロボロス4の中で、最大 最強のアタックチームを率いて、戦えば必ず勝つ、という恐るべき戦人(いくさびと)ぶりは知らぬ者とてない。顔や風貌がどうでも、この男のそんな実像を 知って、女がなびかないはずがなかった。
それが突然の結婚宣言。
悲嘆にくれる女性兵士(城の女官も含まれる)のその中に、巴もいたというわけだ。
「そうだったな。その……おめでとう、ウルフリーダー」
今この場で言わなくてもいいような話をつい口に出してしまうのは、巴も結構慌てているのだろう。だが鉄は気にした様子もなく、
「おう、ありがとよ。……やっぱ照れんなー、こういうのよ」
眉をへの字にしたまま笑う。何だか泣き笑いのような顔だ。
(……泣きたいのはこっちよ)
巴は内心で毒づいた。
大体、この男はタイミングが悪過ぎる。
巴が鉄の結婚のニュースを聞いてショックを受け、なぜ自分がショックを受けたのか悩み、やっとのことで自らの恋心に気づき、寂しい初秋の庭園で1人、失恋を噛み締めている最中だったのだ。
そこにノコノコ現れて、こうして2人きりだなんて。
(なにこれ……どんな罰……?)
本気で天を恨む。
(どうしてこうなっちゃったかな……)