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第十一話「Mothers' song」(1)
 『それ』は夢を見ていた。

 夢と言っても『それ』の見る夢は、普通の人間が見るそれとは少し違う。
 一般に『夢』とは、眠っている間に脳が過去の記憶をランダム再生した、その結果として現れるものだ。内容が支離滅裂だったり、歓喜や恐怖といった感情がやたらと強調されるのもそのせいである。
 対して『それ』の見る夢には、そのランダム性がまったくない。つまり過去に体験した記憶がそのまま、ほぼ完全に再生されるのだ。なにせ単なる視覚再生だけでなく、聴覚や嗅覚といった『五感』までも再現されるわけだから、もうそれは夢であって夢ではない。まるでタイムマシンに乗って過去へ行き、その時間をもう一度体験しているようでさえある。
 それはこんな夢。こんな記憶。

 夜。
 空に、音がしそうなほど冴えた三日月が明るい。
 その月を、天井に開いた大きな穴を通して、『それ』は見上げていた。
 木造の、しかしかなり頑丈に作られている建物の中。だがその建物は、いっそ見事なくらいに崩壊していた。屋根は7割方が吹き飛び、四方の壁も似たような状態だ。
 外身がそうなら、中身はもっとひどい。
 内部に作られていた巨大な『飼育ポッド』は、10個のうち9個が跡形も無く破壊されている。粉々になって床一面にぶち撒かれた強化ガラスが、月光に照らされて白い砂漠のよう。唯一残ったポッドも、円筒形のガラスを持ち上げていた天井そのものが破壊されたため、今はばったりと横倒しになっていて、とても無事とは言えない有様だ。
 音は無い。建物の周囲は深い針葉樹の森に囲まれ、そこから虫の声が届いて来るのだが、それは逆に建物の内部の不気味な静けさを際立たせるだけだ。
 幼児ほどの大きさの『それ』は、静けさだけが支配する建物の真ん中に一人、長い時間立っていた。砕けたガラスの砂漠に、その脚が半分埋もれていて、そこから奇妙に蒼い影が少しだけ、落ちている。どれくらいそうしていたのか、天井の穴から見える三日月が、空の上をかなり動いた頃。
 建物の外から、初めて人の声が届いた。

 「こんばんは。……お邪魔していいかしら? あ、『玄関』って、ここでいいのかな?」

 女性の声。
 そして何とも力の抜けた、しかもちょっと的がズレた挨拶。そこに『それ』がいることは、あらかじめ承知していたようだ。
 実際、壁の7割が吹っ飛んだ建物をつかまえて『玄関』もへったくれもないのだが、彼女が入って来た場所は偶然にも、元々は玄関であった場所だった。とはいえ今は玄関どころか壁も、ついでに屋根までまとめて奇麗に消し飛んだ穴、というかただの空間である。
 その空間に現れた彼女の姿を、『それ』は見た。
 どちらかと言えば小柄な、しかし野生の雌鹿のように引き締まった身体。だが決して貧相な印象はなく、それどころかその胸や腰には、成熟した女性らしい豊かさをたたえている。細い首の上に乗った小作りの顔と、ピンクがかった独特のブロンド。その髪色に合わせたような薄紅色の衣装は、『ソウルリンカー』と呼ばれる職業のものだ。やや堅く軍服風にアレンジしてあるものの、それでも彼女の女性的な魅力を損なうには至っていない。
 しかし、彼女を最も魅力的に見せているのは決してその容姿ではない。
 雰囲気。
 オーラ。
 色々な言い方があるだろうが、まずはその表情。ふんわりと優しく、そして何もかもを『許す』笑顔だろう。
 そして彼女はその笑顔で、
 「素敵なお家……あーいえ、うん。素敵なお月様ね」
 さすがに言い直しながら近づいて来る。砕けて散らばるガラスの砂漠が、その足元でしゃり、しゃり、と奇妙に美しい音を立てた。
 静けさの中で一人ぼっちだった『それ』は、本音を言うとちょっぴり寂しくなっていた所だったので、その音と人の気配に少し安心する。
 そして彼女がもう一度、あの笑顔を見せた時。

 『それ』は、彼女を食べた。

 その小さな体内から、本体の数倍もある捕食器官を超高速で射出。相手を頭から飲み込み、さらに捕食器官内にある強力無比の消化器官で瞬時に溶解・液状化。次いでそこから余計な水分だけを絞り出し、ほんの一握りにまで圧縮しておいて、捕食器官ごとすぽん、と体内に戻す。わずか数秒の食事。
 だが食事を終えたはずの『それ』は、奇妙な感覚に首を傾げた。食べたはずなのに、お腹が空っぽ。
 (……?)
 疑問を感じたその瞬間。
 「めっ!」
 ごつん!
 『それ』の頭の上に、拳骨が降ってきた。
 「ダメよ。挨拶もしないでいきなり食べちゃうとか。特に女の子相手に」
 生まれて初めての体罰、続いてお説教。
 「んしょっと」
 『それ』は、自分の身体がひょい、と抱き上げられるのを感じた。
 目の前に『彼女』の顔がある。さっき食べたはずの彼女がなぜか、食べる前と寸分変わらない姿でそこにいた。
 『それ』は本能的に危険を感じ、全身から戦闘用の器官を露出させようともがいた。爪、牙、触手、敵の身体を傷つけるための器官が『それ』には備わっている。攻撃し、制圧し、そして『食べる』ためだ。
 だが……

 おやすみなさい かあさんの胸で  


 彼女に抱かれた『それ』の耳に、歌が聴こえた。彼女が歌う、それは子守唄。 


 おやすみなさい かあさんの胸で

 悲しみやわらぎ 心やすまる
 
 アラル アラメ アラル アラメ 
 
 アラル アラメ アラル アラル アラメ

 『それ』は、ガラスの飼育ポッドの中で生を受けてこのかた、『歌』というものを聴いた事がなかった。だからこの歌は、『それ』が生まれて初めて聴く『歌』だった。
 そして歌というものが、信じられないほど心地よく、そして美しく響くものだと、『それ』は初めて知った。
 正直言うとまだ少し怖かったのだけれど、でも彼女を傷つけたり食べてしまったら、その歌もまた消えてしまう。そしてもっと、もっとその歌を聴いていたかったので、『それ』は彼女を傷つけるのも、食べるのもやめた。

 こわがらないで ヘロデのことを

 この子守唄を 聞いておやすみ

 アラル アラメ アラル アラメ 

 アラル アラメ アラル アラル アラメ

 素朴で美しいリフレインを何度か繰り返して、その優しい歌を終えると、彼女は『それ』の顔を覗き込み、 
 「めっ!」
 その可憐な目をわざわざ釣り上げた。それで精一杯、怖い顔をしているつもりなのだろうが、残念ながら余計に可憐なだけだ。
 「『ごめんなさい』は?」
 自分では怖いつもりのその顔で、じーっ、と『それ』の目を見る。

 「……ごめんなさい」

 また自分の知識の中を探り、『それ』は言葉を探し出した。謝罪の言葉。
 「ん」
 怖い顔が笑顔に戻る。でもまあ、可憐さはあんまり変らない。
 「貴方一人? ほかの人は?」
 問われて、『それ』はまた知識を繰り、そして答える。
 「たべた」
 彼女の眉が曇るのを見て、『それ』は困った事になった、と思う。
 「ごめんなさい……?」
 「ん? ああ、んー……」
 彼女はちょっと首を傾げたが、
 「それはまあ、いいかな。貴方が悪い、ってワケじゃないし」
 ふむ、と溜め息をつく。
 「みんな貴方が食べちゃったの?」
 「ううん」
 『それ』は首を振った。
 「にんげんを、みんなにたべさせた。そのあと、みんなを、ぼくにたべさせた」
 「? 『食べさせた?』 誰が?」
 「『はやみあつし』」
 その名を聞いて、彼女の目がまた曇ったようだった。
 「それはいつの事?」
 「ゆうがた」

 それは、夕方の事だった。

 『これまでだ! 忌々しい老いめ! 忌々忌々忌々忌々忌々忌々しい病め!! もう明日までも生きられん! 終わりだ! ならば終わりだ! これで終わりだ! そして始める! ここから始める! 終わりの始まり! 始まりの終わりだ!!!』
 『はやみあつし』が突然そう叫び出したのを、『それ』は飼育ポッドの中から見ていた。
 叫びながら、デスクの上にあった毒々しい色の薬を太い注射器に取り、自分の腕に荒っぽく打ち込む。わずかな時間の命と引き換えに、人間に最後の力を与える麻薬だとは、『それ』にはわからない。
 麻薬が効いたのか、速水は老人とは信じられないような力で、隣室の食堂から次々に人間の死体を運んできた。
 速水が自ら夕食に毒を盛り、部下の研究員を皆殺しにした、とも『それ』には分からない。続いて『それ』を除く9つの飼育ポッド、その全てに大量の薬を投入する。それは生物の理性を完全に奪う興奮剤、しかも下手をすると死に至るほどの投与量だと、今度は『それ』にも分かった。
 10個の育成ポッド、そのうちの9個に収まった9匹の仲間達が、一斉に荒れ狂う。
 胸が悪くなる様な光景だった。
 竜の首。
 亀の脚。
 悪魔の胴体。
 人の手。
 獣の尾。翼。爪。触手。牙。粘膜。毛。針。鱗。羽。
 およそ考えうる、あらゆるモンスターの器官をごっちゃに備えた人造生物が、その異形を競い合うように荒ぶり哮る。音に聞こえる異国の難関ダンジョン、その最奥のフロアでさえここまで酷くはないだろう。
 人造合成モンスター、通称『キメラ』。
 『次回の聖戦』に備え、人間が魔物に対抗する手段として、秘密機関『ウロボロス8』により研究されてきた異形の生命。 
 その極致とも言うべき9体が、飼育ポッドのガラスを内側からぶち砕き、研究所の床に脚を降ろしていく。そこには所狭しと並べられた研究員達の死体。
 『喰え!!』
 速水の叫びと共に、異形の晩餐が始まった。大量の興奮剤と、同じく大量の血肉によって狂い果てた9匹の魔物が、研究所の床を、天井を、壁を、勢い余って破壊していく。
 マナーの欠片もない、食前酒もデザートも給仕も何もない、おぞましいメインディッシュのみの悪趣味な晩餐。
 異形の聖餐。
 そしてメインディッシュが平らげられると、速水は最後のポッドを開き、『それ』に向かって言った。
 「そいつらを喰え! 全部だ!」
 速水によって創られた『それ』にとって、速水の言葉は絶対だ。
 『それ』はポッドを飛び出すと、仲間達を次々に食べた。仲間達の荒っぽい食事に比べれば、『それ』の食事は極めてスマートと言える。数倍、下手をすると数十倍もある仲間を、捕食器官ですっぽり飲み込むと、暴れる暇すら与えずに消化・吸収する。
 9匹全部を平らげるのに、ものの数分とかからなかった。
 残ったのは『それ』と、破壊され尽くした研究所と。そして……。

 「俺を、喰え」

 『ウロボロス8』・速水厚志の、それが最後の言葉になった。
中の人 | 第十一話「Mothers' song」 | 20:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十一話「Mothers' song」(2)
  「自分を食べろと、彼がそう言ったのね?」
 「うん」
 彼女の質問に『それ』は答える。聞いた彼女はしばらく目を閉じ、じっと何かを考えていたが、やがて目を開くと、
 「ねえ、憶えている? 貴方とはね、ずっと前に一度会っているのよ? 貴方がまだ生まれたばかりの頃」
 「……?」
 『それ』はちょっと首を傾げたが、すぐに記憶の中からその記憶を探し出した。
 そうだ、確かに会っている。
 それは『ウロボロス8』の研究所が天津に移される前、まだプロンテラにあった頃。『それ』がまだ飼育ポッドの中で、ほんの指先ほどしか成長していなかった遠い日の、だが鮮明な記憶。

 今とは別の、古い飼育ポッドのガラス越しに『それ』は彼女を見た。ただ、余りにも今と格好が違っていたため、すぐには気づかなかったのだ。
 なにせ記憶の中の彼女は、裸の身体に大判のタオルを巻き付けただけ、足は素足にスリッパという、何とも見事な格好。その背後で、速水厚志が何やらしきりに喚いているのが見えるが、彼女は毛ほども気にしていないようだ。両手で自分の顔を覆い、必死で喚く速水の様子から、彼女に『何か着ろ』と言っているらしい。が、その時の『それ』にはまだ、言葉を理解する力はない。
 やがて彼女はその格好のまま、飼育ポッドに取り付けられたお粗末な鉄の梯子に足をかけ、愛想の欠片も無いスリッパをパコパコ言わせながらそれを登った。速水の喚きが絶叫に変った所を見ると、下からはさぞや『絶景』であったのだろう。
 そして飼育ポッドの上部、薬品や食物の投入口となっている蓋が無造作にぱかん、と開き、
 ぽたり。
 巨大なガラスの筒を満たした飼育水の、その一番上に、何か小さなものが落ちた気配。
 (……?) 
 『それ』がそっと見上げた先には、小さな投入口から面白そうに下を覗き込む、彼女の目。
 そしてゆっくりと落ちて来る、真紅の粒。揺らめくルビーのような、真っ赤な液体。
 血。
 それは血だった。彼女が、恐らくは自分の指先かどこかから絞り出した、たった一滴の血液が、ゆらゆらと揺れながら『それ』の眼前に落ちてくる。
 ぱくり。
 ほとんど本能的に、『それ』は目の前に落ちて来た血を食べていた。そしてこれも本能的にこくん、と飲み込む。
 それにどういう意味があったのか、それまで顔を覆ったままだった速水が、突然黙り込み、あの狂気に近い目で『それ』を凝視しているのを感じる。
 梯子を降りた彼女が何かを話しかけても、速水は反応しない。彼女は剥き出しの奇麗な肩をすくめ、一瞬だけその視線を『それ』に投げた後、スリッパをペタペタ鳴らしながら飼育部屋を出て行く。その後ろ姿を見送る事もせず、速水は『それ』を見つめ続け、そして小さく呟いた。

 『……終末ノ獣(リヴァイアサン)』 

 まだ言葉を理解しない『それ』の脳裏に、言葉の響きだけが焼き付いた。
 リヴァイアサン。
 それは、地上のあらゆる生物・そしてモンスターの特性を兼ね備えた究極の魔物……どころか、時には『神獣』とさえ認識される伝説上の存在だ。
 『一にして全、全にして一』を体現する究極の生命体。そして世界の終末を告げに現れるという、断罪の獣。もちろん、その概念はあくまで伝説・神話上のものであり、現実には存在しない形而上の獣である。
 当時の『それ』に、そんな知識はない。ただその言葉の響きだけを、心に焼き付けただけ。
 それだけの、短い記憶。
 「……ぼくは、あなたの、ちをたべた」
 「よく憶えているわね。そう、貴方は私の血を取り込んだ」
 『それ』の言葉に、彼女が謎めいた笑いを返す。
 「心身の精密検査と血液の提供、それが彼との契約だったから。……でもこんな事になるなんて」
 何を思うのか、彼女は少し表情を暗くする。
 「あまり嬉しくないというか、正直なところかなりイヤだけど……。まあどんな形であれ、殿方に好かれるのは女の甲斐性、と諦めるべきなのかしら……?」
 ふー、と小さな溜め息。
 「『霊威伝承種』の裔たる私の、その生命情報を取り込んだこの子と、貴方自身との融合……。『神』にでもなるつもりだったの?」
 彼女は『それ』に向って問いかける。だがその問いは『それ』に向けたものではない。
 「聞こえているのでしょう、速水博士? 肉体を捨て、魂魄だけになって、その子の中でずっと生き続ける気分って、どんなものなのかしら?」
 彼女の問いに、返事はない。しないのか、できないのか、それは分からないが。
 「でも、本当は貴方だって気づいているはずよ、博士。たとえこの子に取り憑いて、この世の全ての命を食い尽くしたとしても、貴方は決して神になんかなれない」
 寂しく、哀しく、しかしきっぱりと、彼女は言った。
 「ただ独りぼっちになるだけよ」
 そして彼女は『それ』をしっかりと抱き直すと、
 「いい? 私の言う事を良く聞いて」
 「うん」
 『それ』は素直に応えた。命令でも指示でもない、彼女の言葉がなぜか、すとんと心の中に落ちて来る。
 「もう二度と、人を食べてはいけない」
 「うん、もうたべない」
 『それ』がうなずく。彼女もうなずく。
 「独りぼっちていてはいけない。貴方は人に化けられるわね?」
 「うん」
 「なら人になって、人の中で生きなさい」
 「どうして……?」
 「貴方はもう、『寂しさ』を知ってしまった」
 彼女が優しく、でも少し申し訳なさそうに言う。
 「独りぼっちの寂しさは、知らない間に貴方を狂わせてしまうから」
 「うん」
 『それ』はまたうなずく。
 「そして優しい嘘をついて、生きていきなさい」
 「やさしいうそ?」
 「そう」
  彼女の笑顔が深くなる。
 「貴方の本当の姿を隠して、でも誰も傷つけないように。誰よりも優しい『嘘つき』に、貴方はなりなさい」
 「……うん」
 『それ』がもう一度うなずいた時、建物の外から音が響いた。大人数の、それも武装した集団が近づいて来る、と『それ』は判断する。恐怖と警戒で身体を震わせる『それ』を、彼女は優しく抱きとめ、
 「お別れね」
 寂しそうに、そしてとても申し訳なさそうに、彼女は微笑んだ。
 「本当はね、私はもうこの世界にはいない。今の私はあの時、貴方にあげた一滴の血に込められた『残留思念』。私という存在の残響のようなもの」
 「……?」
 「分からないわよね……ごめんなさい。でも私達の運命に巻き込んでしまった貴方に、私がしてあげられる事はもう、これぐらいしかない」
 彼女は抱き上げていた『それ』を床に降ろす。
 「……さよなら?」
 『それ』が知識の中から『別れの言葉』探し出す。生まれて初めての別れと、生まれて初めての痛み。
 しかし彼女は優しく笑うと、それとは別な言葉を贈ってくれた。
 「またね」
 身体を屈めて、『それ』の額に軽くキス。そして、
 
 「行きなさい。貴方を待っている人達がいる。……未来で」

 その言葉の意味を問いただす暇すらない。
 ふっ、と、彼女の姿が消えた。残り香一つ、温もりの一つさえ残さない、まさにかき消すような、それは消え方だった。
 いや、そこには最初から誰もいなかったのだと、『それ』は気づく。その証拠に、彼女が確かに踏んだはずの、砕けたガラスの砂漠には、足跡一つ残っていない。
 また彼女に抱き上げられていたはずの『それ』の脚も、抱き上げられる前と変らず、ガラスの砂の中に半分埋もれたままだ。

 幻。
 『それ』の意識の中に、どこからかひっそりと忍び込んだ、二重写しの記憶。彼女の息づかいや、肌の温もりまですべてが偽り。
 だが『それ』にとって、偽られたことは少しも嫌ではなかった。逆にその記憶こそ、飼育ポッドで生まれてから自由になるまでの、無数のろくでもない記憶の闇の中にそっと置かれた、ほの暖かい灯火のような宝物だった。
 『思い出』。
 そう呼ぶ事のできる、唯一の記憶になった。
 気づけば外が騒がしい。
 研究所を取り巻く森の中に、武装し散開した人間の姿が見え始めた。まだ『それ』には気づいていない。

 ルーンミッドガッツ王国特殊部隊『ウロボロス4』だ、と『それ』は知識の中から探し出す。ここ『ウロボロス8』が、主席である速水厚志自らの手によって全滅したため、王国への定時連絡も途絶えている。異常事態、そう判断して出庭って来たのだろう。
 このままここにいれば、『それ』は捕らえられ、処分される。運良く処分を免れたとしても、また飼育ポッドの実験動物に逆戻りだろう。
 『行きなさい』
 あの人の、最後の言葉に背中を押されるように、『それ』はガラスの砂漠から脚を引き抜く。だが既に建物は包囲されていて、歩いたり走ったりではもう逃げられない。
 『それ』は、自分の中を探った。『それ』の中に蓄えられた、混沌とした無数の生命情報、その中から『翼』を探し出す。鳥の羽根を持つ鳥人の情報、だがそれでは飛べないと判断。別の情報に切り替える。
 そして見つけ出したのは『ハーピー』と呼ばれるモンスターの情報。これなら『飛べる』。

 『!』
 ばさん! 一瞬で身体を変化させて翼を生成。力を込めた羽ばたきを一つ、天井の穴をくぐり、遥か高みの三日月を目がけて『それ』は飛び立った。
 小さな身体に対して、やたら大きな羽根だったのが幸いしたか、『それ』の身体はほとんど弾丸のような勢いで中空へ舞い上がる。砕けたガラスの砂漠が、穴の空いた屋根が、眼下で一気に遠くなっていく。
 研究所を包囲した部隊は、とうとう『それ』に気づかなかったようだ。もっとも気づいたとしても、どうする事もできなかったろうが。

 翼が力強く羽ばたき、月明かりの森を飛び越えていく。初めて見る風景は、『それ』の心さえ踊らせる。
 遠くに灯りの群れが見えた。人の住む場所だ、と『それ』は知識から判断する。
 『人になりなさい』
 言葉が蘇る。
 灯りの方へ翼を向け、草の厚く茂った川縁に降りた。そしてまた自分の中を探ると、『人』の情報を探し出す。
 どうせ人に化けるなら『彼女』になりたかったが、『それ』が取り込んだ血液1滴だけの情報では、彼女を完全に再現する事は無理だった。容貌を真似る程度ならともかく、個体の完全コピーとなると、生きたまま肉体を丸呑みにでもしない限り不可能だ。
 だから必然的に、もう一人を選択した。
 取り込んだ生命情報を基に身体を変化させる。『それ』が見慣れた、あの老人の姿では、動きに制約がありすぎると判断。年齢を巻き戻して若い身体を再構築し、ついでに衣服も生成した。
 生きたままの脳から吸収した情報から、言語や地理など生活に必要なローレベルの情報がコピーされる。が、あまり高度な概念、例えば彼の生前の研究に関する情報などは、コピーしても理解できないので無視。
 同時に『彼』の思考や感情も、『それ』にはコピーされない。
 人間そっくりに姿を変え、人間についての断片的な知識を使って人間を『演じる』何か、と言ったら分かりやすいだろうか。
 それとも、嘘つきの優しい魔物、と言った方が分かりやすいだろうか。
 そして最後に『それ』は、『名前』をコピーする。 
 
 「『はやみあつし』。ボクは、速水厚志」

 言葉を発してみる。
 二本の足で歩いてみる。
 どれも上手くいった。けれど一つだけ上手く行かない事がある。
 歌。それだけは、上手く歌えない。
 「……むずかしいなあ」
 『それ』、いや『速水厚志』は首を傾げると、諦めたように歩き出した。
 灯りの群れに向けて、彼は二本の足を動かして行く。
  『貴方を待っている人達がいる』
 幻の中の彼女がくれた、しかし確かなその言葉を道標にして。

 ぱちり。

 そして『それ』は目を覚ました。
 記憶の完全再生を可能にする『それ』にとって、夢を見ていたという感慨はあまりない。ただ彼女の『思い出』だけは、いつ再生しても懐かしい、そして暖かい感情を彼の中に呼び覚ました。
 「……行かなきゃ。約束があったんだ」
 寝台、それも板に直接、厚手の布を敷いただけの簡易寝台から起き上がる。そんな寝床でさえ、面積の半分を占領してしまうほど狭い部屋。窓もなく、扉には鉄格子のついた覗き窓。
 アルベルタの芝村屋敷。その奥深くに作られた、幽閉用の部屋。
 つまりは独房だ。
 扉に備えられた頑丈な錠前からは、中の人間を決して外に出さない、という強い意志を感じる。と同時に、『それ』の正体をまるで知らないという事実もまた、はっきりと露呈していた。
 『それ』の身体がたちまち形を失い、鮮やかなピンク色の、この世界の人間がよく見慣れた低級モンスターの姿に変化。ぽよん、と間の抜けた音を立ててジャンプし、鉄格子の覗き窓を難なくくぐり抜ける。
 部屋の外、薄暗い廊下に見張りがいない事を確認し、一瞬で人間の姿に再生。
 そして独り言。

 「……しーちゃんとふーちゃん、待っててくれるかなあ」

 『それ』、速水厚志は、暗い廊下を1人、進み出した。
中の人 | 第十一話「Mothers' song」 | 20:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十一話「Mothers' song」(3)
  シャレにならない一撃、とはその事だった。
 うきの蹴り。
 鳩尾への一撃で膝をついた静の、その頭部に真横から、手加減抜きの蹴りが叩き込まれる。余裕を持って間合いを計り、たっぷりと体重を乗せて放たれたローキックは、相手の意識を、いや下手をすると命まで刈り取りかねない攻撃だ。
 それでも、腹に喰らった初撃のダメージの下、両腕で顔面をブロックした静こそ賞賛されていい。が、しかしそれも虚しく、結果はあまり変わらなかった。
 ごっ!
 アサシンクロス専用の金属製の脛当て、それが静の頭をブロックごと撃ち抜く。これでもかと重い打撃音と共に、まるで立てた鉛筆を指で弾いたような勢いで、静の身体がなぎ倒された。
 横倒しにがつん、と地面に激突、そのまま動かなくなる。

 「はい終了ー。大丈夫、死んじゃいない」
 恐らくはもう意識が無い静に、うきはわざわざ言葉を投げる。そしてセンカルの方に向き直ると、
 「んーと。元『ウロボロス2』主席・ドクターセンカル、だよね? 『捕縛、さもなくば殺害』の命令が、王国全土に極秘で出回ってる」
 「……」
 聞いたセンカルは無言。この成り行きも、またうきの正体も測りかねているようだ。
 「あ、心配ないよ。アタシはアンタの敵じゃない。……味方でもないけどね」
 ひょい、と肩をすくめる。
 「アンタにゃ興味ない。ってか、その様子じゃどうせもう、長くないみたいだし。病気?」
 「……!」
 センカルは答えない。といっても、今度はうきの質問を無視したのではない。それが証拠に、その目が大きく見開かれ、うきを素通りして何かを見つめている。
 うきの背後を。
 「?!」
 センカルの視線に気づいたうきが、驚いて振り向くのと同時。
 「うん、よし。大体わかった」
 つぶやきと共に、ぶっ倒れていた静がむくり、と起き上がった。あれほどの蹴りをまともに喰らいながら、ダメージなどないかのように滑らかな、そして俊敏な動きですらりと立つ。
 「な……っ!?」
 さすがのうきが目を見開いた。先刻の一撃に手を抜いたつもりはない。いや、最初の腹への一撃だって、並の人間なら命を落としても不思議はないのだ。なぜ立てる、と衝撃を受けるのもやむを得ない。
 だがその種明かしは、目の前の静が自分でしてくれた。
 「べっ!」
 静の、その形の良い唇から、何かが地面に吐き出された。しゃり、ちゃりん、という音は、所々血まみれのガラスの破片だ。ひとしきり吐いて、そして最後にぺっ、と血の塊のような唾を吐く。
 「……ホワイトスリムポーション。イイもの持ってんじゃん」
 うきが呆れたように、その吐き出された物体の正体を言い当てる。それは普通のポーションよりも濃縮率が高く、小さくて軽い代わりに何倍も高価な治療薬だ。割れた瓶に書かれた『姫神製薬』の文字は、指折りの名製薬者から入手した名品の証だ。
 「ウチの執事がね、持たしてくれたの。ってもあんまお金ないから、緊急用に1本キリだけどね」
 「で、その『とっとき』を瓶ごと口に放り込んで、アタシの蹴り受けたってワケ?」
 答えの代わりに静がにーっ、と笑う。口元にはまだ血糊。容貌が可憐なだけに、逆に凄みのある表情になる。
 うきが蹴りを放った瞬間、静は即座に、それを避ける事もブロックすることも不可能と悟った。そして咄嗟の判断で蹴りをブロックすると見せかけ、ポケットから取り出した治療薬の瓶を口に放り込んだのだ。
 そして蹴りがヒットした瞬間、

 「衝撃で瓶ががっしゃん、んで中身が口ん中にどばー、って? よくまあそんなこと……」
 「ガラスで口切るから、その痛いので意識飛ばさずに済んだし、一石二鳥」
 切れた口の中は、通常の何倍も濃厚な治癒薬によって即座に回復する。身体のダメージも同様だ。
 確かに一石二鳥の理屈は通るのだろうが、それにしても女性、しかも歴とした一国の姫君の行状としては、いささか以上に荒っぽ過ぎる。これはむしろ……

 「『フール流』ってワケよ」
 にやっ、と笑顔で言いながら、静が何やら足をもそもそ動かしている、と思ったら、いつの間にか両足に履いたブーツを脱ぎ捨てていた。
 色気の欠片もない、頑丈さだけが取り柄の冒険者用ブーツ。靴紐で締め上げるタイプだが、その紐はほどけている。どうやらブーツの金具で靴紐の結び目を引っ掛け、手を使わずに脱いでしまったらしい。妙な所で器用なお姫だ。

 靴を脱いだその素足はすらりと白く、指や爪の変形もない。そんな所まで健康的で美しいのは、ほとんど嫌味の域かもしれない。
 「? 何してんの?」
 「見てわかんない?」
 片眉を吊り上げるうきに向って、わざと挑発的な言葉を返しながら、静はさらに頭に被ったヘルムも脱ぎ捨て、手近な岩の上にすぽん、と被せる。
 地面から静の腰ほどの高さまで鋭く突き出した岩は、格好の帽子置きだ。

 最後に腰の銀狼丸を鞘ごと抜いて岩の根元、揃えたブーツの上にそっと置く。
 これで素面、素足、そして素手。
 「いや、わかんないけどさ。降参、ってワケでもなさそうじゃん?」
 「もちろん、逆よ」
 静がうきに真っ直ぐ向き直る。
 「うき、今からアンタをシメる。イヤならそこどいて」
 「ひゅーっ! 静ちゃんカッコいい!」
 うきの逆挑発に、静は乗らない。それどころか、
 「あ、そっちは武器使っていいよ」
 ちょいちょい、とその指で『かかってこい』の合図。
 「……うっし、それ買った!」
 うきが、腰に下げたアサシンの武器『カタール』を外してぽい、と放り投げた。投げられた双刃は、地面に座り込んだセンカルの目の前にざくん、と、見事に交差して刺さる。
 「でもこのケンカ買うからにはさ、今度は手加減ナシだよん?」
 にこーっと、と笑ったうきの表情は明るく、邪気の欠片もない。昨夜、静の部屋を訪ね、捕われた無代を救出してやろう、と申し出た時の、あの好人物そのままだ。
 だが間違えてはいけない。
 アサシンは怖い。
 どんなに気さく見えても、好人物に見えたとしても、だからといって安全な人物だ、などと間違っても思ってはいけない。
 例えば誰かと心の底から談笑しながら、親しみを込めて相手の肩を叩く、その反対の手で平然とその誰かを即死させる。二つを切り替えるのではなく同時に、ごく当たり前に殺人行為を行えるのだ。
 それが『アサシンという生き物』。

 そして、うきというアサシンクロスの恐ろしさも、実はここに起因する。
 先刻の攻撃を、静が避けられなかった理由。
 「うき、殺気が全然ないんだもん。あんなの初めて」
 「そりゃだって、アサシンだもんさ?」
 真剣な目で賞賛する静に、うきが肩をすくめる。
 「アサシンっちゃ人殺すモンでしょ? んなのに、いちいち目ぇ釣り上げてやってらんないよ実際?」
 少し説明しておこう。
 人間が誰かを『殺す』時、本来そこには強烈な意志を必要とする。
 例えば誰かが、別の誰かと争う場面を想像してほしい。

 まずはお互いに視線を交わすだろう。俗な言い方なら『ガンをつける』というヤツだ。
 それで決着がつかない場合、次は言葉だろう。
 相手を傷つけるための語彙を含んだ、激しい言葉を投げ合うのだ。この段階で既に、両者の間には相当に強烈な『意志』がある。相手を敵とみなし、そこから自分を守り、かつ自分の意志を通すためのエネルギーだ。
 言葉でも決着がつかない場合、いよいよ暴力である。
 拳で、蹴りで、あるいは武器を使って、相手の身体に直接的な攻撃を叩き込み、その神経に痛みを感じさせる事で、相手の意志を挫く。それでもダメなら肉を裂き、骨を砕くといった具体的なダメージによって、それを実現しようとする。
 だがそれでも敵が怯まない場合、そしてこちらも諦めない場合。
 最後に選択されるのが殺す、という手段だ。
 鋭く効果的な攻撃を使い、一撃で殺す場合もあるだろう。あるいはもっと鈍い攻撃を何度も、執拗に繰り返す事で死に追いやることもあるだろう。
 だがいずれにしても、そこには争いの初期とは比べ物にならない、猛烈な意志の力が働く。これがすなわち『殺気』と呼ばれるものである。
 静が昨夜のルティエの戦いにおいて、敵の攻撃を全く見ないで避けた、その要素の一つでもあるのだ。
 だがうきの攻撃には、この殺気がない。
 アサシンだから、という彼女の言葉は多分に謙遜だ。アサシンを名乗る者は数多けれど、ここまで完璧に殺気を消し、しかも戦闘ができる者は、まず皆無と言っていい。
 本来なら長い修行の末にやっと身につける、その『殺気のない攻撃』を、ほとんど生まれながらに実行できる。『殺人』というモノに対する捉え方が、常人とは明らかにズレている。
 いや、いっそどこか壊れている、と言ってもいいかもしれない。
 加えてさらに悪いことに、アサシンという職業には『姿を消せる』という特有が備わっている。
 盗系、いわゆるシーフから上位転職するアサシンは、敵の視線から自分の姿を完全に隠してしまう『ハイディング』、さらには『クローキング』と呼ばれるスキルを習得できる。
 これらの技は、人間の目の死角域を巧妙に突くと同時に、周囲の人間に対し、ある種の瞬間催眠のような精神操作を行う。
 この相乗効果によって、アサシンは敵の目に映らず、もし映っても認識できない、という状態を造り出してしまうのだ(だから表現としては『消える』というより、『見えなくなる』と表現した方が正しいだろう)。

 ちなみにこの時、術者の足音や衣擦れといった『音』も、聞こえるけれど認識できなくなる。耳すらも騙してしまうのである。
 この見えなくなる効果と、そして殺気を完全に消す特性が加わる時、一条静にすら膝を着かせた攻撃が生まれる。それは『潜伏(ハイディング)』でも『掩蔽(クローキング)』でもない。

 『滅失(バニシング)』

 アサシンクロス・うきが使う、それこそが希有の技。
 その持続時間はわずか半秒、しかし熟練の暗殺者が人間一人を殺すには、十分過ぎて余るほどの時間だ。
 対峙するうきと静、その間にもう言葉はない。
 大げさではなく世紀の対決。だがそれを見守るのはセンカルと、魂無き2人の双子のみ。

 うきは、その両手を手刀の形に変え、両刃の構え。対する静は素手、素足、素面のまま、構えすら取らない。
 (ソレでアタシに勝とうとか、ナメてくれるじゃん!)
 自らのスキルに絶対の自信をもつうきが、当然の如く先手を取った。
 前触れもなく、静の視界からうきの姿が消失。
 半秒の無敵時間が始まる。
 圧倒的優位に立っているとはいえ、そこはうきもアサシン、真正面から仕掛けるほど馬鹿正直ではない。
 たとえ姿を消していなくとも、恐らく視認は不可能だろう神速の足さばき。そこから発生する凄まじい機動力を使い、身体を独楽のように一回転させ、相手の真横へ瞬時に移動。 

 そしてヘルムを脱ぎ捨て無防備となった静の後頭部へ、右手の手刀を思い切り振り抜く。
 (獲った!)
 うきはそう確信した。
 姿を消した状態から放つ、しかも完全な死角からの一撃。当れば確実に首の骨が砕け、ひょっとしたら頭が千切れ飛ぶかもしれない必殺攻撃だ。だが。
 すかっ。
 その攻撃が空振った。もう笑いが出るほどあっさりと、うきの必殺の攻撃が空を切っていた。
 (はぁ?)
 もちろん外したのではない、静が躱したのだ。手刀が襲って来るより一瞬早く、身体を低く沈める事で、静はうきの攻撃を回避している。
 (見切られたあ!?)
 うきの脳裏を驚愕が走った。視覚で見えず、気配でも察知できないはずの自分の攻撃が、なぜ躱せるのか。
 (……って、まさか?!)
 脳裏に浮かんだ可能性を、うきは一瞬信じられなかった。当たり前だ。
 (『双子の目』を盗んだ……!?) 
 そう。
 静はうきを見ていない。
 いや、どうせ見えないのだから、見たって意味はないのだ。

 静が見ていたのは、別の物。
 それは意外にも『月』と『星』だった。BOT化された二人の少年。
 その双子の『目』を、静は見ていたのだ。

 BOTの失敗作である双子、だが彼らの身体的機能はまだ十全に働いている。身体に触れれば反応するし、匂いや音も感知できる。
 そして『目』も、きちんと機能している。いや希少な戦前種を母に持つ彼らだけに、その身体能力・視覚性能はむしろ常人を上回ると言ってよい。
 さらにもう一つ、今の彼らには『意志がない』。魂を抜かれているのだから当然のことなのだが、実はここが重要だ。
 人間の感覚と意識を騙すのがアサシンの技ならば、それに騙される『意志』のない双子に、その技はかからない。
 
つまり、うきの『滅失』の術が通じないのだ。
 常人には消えて見えるうきの姿も、この魂なき双子の目には、はっきりと映っている。
 静は、うきの最初の一撃を喰らった時その事に気づいた。『大体わかった』の言葉に嘘はなかったのだ。
 見えないうきの姿を追わず、床に座り込む双子の4つの目、その瞳の動きを追う。さながら双子の目を『電波探信儀(レーダー)』のごとく利用した。
 そこから得られた情報から、うきの位置と攻撃のタイミングを割り出し、これを避けたのである。
 静姫こそ恐るべし、と何度書いたことか。
 だからこの時、うきが内心で毒づいた言葉は、あまりにも正しい。

 (可愛い顔して、この化け物娘っ!)
 
中の人 | 第十一話「Mothers' song」 | 20:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十一話「Mothers' song」(4)
  しかし、うきが悪態をついたのも一瞬だった。
 そこは熟練の暗殺者だ。いくら予想外の事態に驚いたからと言って、その程度で動きが止まるだの、まして勝負がひっくり返るなどという甘っちょろい鍛え方はしていない。
 しかも『滅失』の無敵時間はまだ残っている。即座に切り替え、足をさばいて次の攻撃に移ればいいだけだ。
 だが、うきが身を翻えそうとした瞬間、その胸元に、とん、と妙な感触が伝わった。
 (んん?)
 その感覚を正確に把握したうきの脳裏に、驚きと困惑があふれる。
 妙な感触の正体、それは『指』だった。
 静の、奇麗な桜色の爪を乗せた白く美しい右手の指。それがうきの胸元、アサシンクロスの特徴でもある大胆に開いた胸元ににつ、と触れたのだ。
 いや、それだけなら何のダメージにもならない、どうでもいいような接触に過ぎなかったのだが……。
 がきぃっ!
 その指が突然、うきの胸ぐらを引っ掴んだ。見かけの美しさなどただのまやかしだ。それは衣装どころか、その下に隠された豊かな乳房にまで容赦なく食い込む、ほとんど暴力的と言っていいほどの握力を発揮する。
 まさに『凶器』。
 (い!? 痛ぃだだだだ!!!!)
 冗談抜きで胸の肉ごと引き千切られそうな激痛。だがそれ以上にうきを慌てさせたのは、その指に『胸ぐらを掴まれた』という事実そのものだった。
 (アマツの柔術……! ちくしょー、そこは分かってたのにーっ!!)
 歯噛みしたい気分。素足はともかく、静が素手になった理由は、うきも既に見抜いていた。
 見えない相手なら、捕まえて倒す。
 アサシンとしての修行の一環として、天津に伝わる『柔術』の存在を、うきも心得ている。武器に頼らず敵と組み合い、投げ、絞め、極め、折る、独特の格闘技術体系。それはアサシンであるうきが身につけている、打撃を主体とした技術とは大きく異なるものの、術者の技量と条件次第では、それを上回る殺傷力を発揮する。
 しかしそれを知りながら、うきは警戒を怠っていた。『滅失』の技がある以上、自分が静に捕まり、組み打ちに持ち込まれるなどあり得ない、と高をくくっていた。
 (ナメてたのはアタシの方だってか!?)
 そう。ファーストコンタクトで簡単に一撃喰らわせたと言っても、やはりこの姫君を舐めてはいけなかったのだ。シメる、と宣言したその言葉に、偽りはなかった。
 するり、と静の身体が動き、同時にぐん、とうきの身体が流れる。
 (……投げ技!)
 そう察知したものの、それはうきの知るどんな投げとも違っていた。
 まるで軽快な音楽に乗って舞う踊り手に、知らぬ間に手を取られ、気づけば踊りの輪に巻き込まれて一緒に踊ってしまっている、そんな感触。

 だがこの舞いを踊る事はこの場合、下手をすると死を意味する。
 静の身体が、うきの身体の下へ完全に潜り込み、同時にうきの片足が静の足に思い切り弾かれる。自分の体勢が崩され、体重が静の腰にそっくり乗せられる感覚。
 うきの背筋にぞくり、と戦慄が走った。敵に体勢を崩されれば、通常なら身体の自由を奪われ、後はただ投げられるしかないのだ。
 だが、その状況にあってさえ、実はうきにはまだ余裕があった。天津の柔術がいかに優秀でも、うきの卓抜した運動神経に裏打ちされたアサシンの体術だって、決して負けてはいない。
 この段階でうきにはまだ、2つの選択肢がある。
 一つは、自由な両手を使って静を攻撃すること。この密着した状態からでも、手刀化したその両手を錐の如く行使し、かなり深刻なダメージを与える事は可能だ。
 もう一つは、この投げから脱出すること。うきが自らの体術をフル活用すれば、静の投げから身体を振りほどくのは難しくない。その上で仕切り直して攻撃すれば、今度こそ静も打つ手を失うだろう。
 いずれにしても両手が自由、そしてまだ片足が地面に残っている今のうちに決断しなくてはいけない。
 (ぃ良しっ!)
 うきが選んだのは二番目の選択肢。
 投げ技から脱出し、静の攻めを正面から凌ぐ事で、その心を折る。それだ。
 うきは地面に残った片足、その足首の力だけで思い切り地面を蹴った。アサシンとして鍛え抜いた体術ならば、たったそれだけの動きでも、楽に全体重を宙に浮かせる事が可能だ。その跳躍力を利用し、静に投げられる前に自分から宙に飛ぶ。そして身体の制御を静から取り戻し、すぐさま反撃に移る。
 それがうきの描いた戦略だった。
 険しい岩場に暮らす野生の獣にも似た、猛烈なパワーと瞬発力を持つ足首が、その恐るべき力を一気に解放。ぐん! と、うきの下半身が持ち上がる。
 そのまま足から宙に舞い、空中で一回転して足から着地する……はずだった。
 だが、そうはならなかった。うきの戦略は、その初手からいきなり頓挫する。
 なぜなら、華麗に宙に舞うはずのうきの足が突然がくん、と止まったからだ。いや、止まったのではない。
 (止められた?!)
 足に伝わる予想外の感覚に、うきの脳が再び混乱する。地面を蹴ったのとは反対の足、つまり最初に静の足に払われた方の足が、何かに掴まれている。
 瞬きも間に合わぬほどの時間で、最初にうきが考えた可能性は、第三者による妨害だった。センカル、あるいはBOTにされた双子の少年のいずれかが、静に加勢する形で自分の足を掴んだのか?
 だが、うきは即座にそれを否定する。その3人は全く動いていない。いやたとえ動けたとしても、静とうき、2人の達人によるこの激突に、ちょっかいなど出せるはずがない。
 ならば今、自分の足を掴んで止め、投げ技からの脱出を妨害したのは何なのか。それに気づいた時、うきは今日何度目になるか分からない驚嘆に包まれていた。
 (ってまさかコレ……『足の指』ぃい!?!)
 そうだ。
 それは静の『足』。正確にはうきの分析通り、『足の指』だった。
 投げ技を仕掛けた静が、足で敵の足を払っただけでなく、何とその足を『掴んでいる』のである。
 (なんっじゃそりゃああ!!!)
 うきが脳内で絶叫したのも無理はない。天津柔術の心得があると言っても、こんな技は見るのも、まして受ける事など初めてだろう。
 というか、足の指で物を掴める人間というものを、そもそも想定しろという方が無理なのだ。
 だが、これは我々の先祖、かつての日本人ならば程度の差こそあれ、誰でも普通に出来た事である。明治時代、西洋文化の影響から『靴』を履くようになるまで、我々の先祖は『素足』を基本にして生活してきた。江戸末期でさえ、庶民はほぼ裸足で生活していた、と記録にある。
 靴を履くのに対して、裸足であることの最大の利点は、地面を掴むように踏ん張る、その『握力』にある。この力により、不安定な場所でも体勢を崩さず、足場に吸い付くように動く事ができるのだ。
 そしてこの足の吸着力を武術に生かした柔道技も、かつて存在したと伝えられる。
 私たち現代日本人には、もう望むべくもないこの能力を、この静という姫君はまだその身体に秘めているらしい。
 例えば。
 静が子供時代に遊んだ竹馬には、足を置くための横棒が無かったという。要するにただの一本の竹の棒を、足の親指と人差し指だけで掴み、それだけで全体重を支えて、すたすたと歩くのだ。これには、遊びに関しては兄貴分であった無代でさえ、呆気に取られたという。
 この姫様にかかっては、足の指だけで木に登るわ、天守閣の軒にぶら下がるわ、果てはおやつの栗の皮を剥くのさえ自由自在。ただし行儀が悪いにもほどがあるため、もし見つかろうものなら父の鉄や義母の巴から、それこそ大目玉を食らうのだが。
 しかしこの足があってこそ、アサシンクロス・うきでさえ回避不可能な、この必殺の投げ技が成立する。
 敵の足を払うだけでなく、ひっ掴んで逃がさない。いや逃がさないどころか、相手の足を掴んだまま持ち上げ、投げのベクトルに上乗せしていく。
 (嘘っそおぉぉ!!!!)
 びしっ! 静の足が、とどめとばかりに地を蹴った。うきの足を掴んだ足ではなく、地面をがっしりと掴んだままの軸足。その足首の力だけで、自分とうき、2人分の体重を宙に浮かせる。その爆発的なパワーは、決してうきに引けを取らない。
 静の身体が起こした猛烈な回転が、うきの身体を巻き込んでいく。それはまるで、大海の果てにあるという船喰いの大渦が巨大な帆船を捕らえ、海の底に引きずり込む様にも似ている。
 『戻り龍神』。
 後の世にそう名付けられ、天津柔術史上でも完璧な使い手は4人といない、とされた投げ技。
 その誕生の瞬間がこれである。
 なお『戻り龍神』とは、瑞波の国を流れる大河『剣竜川』が年に一度、潮汐の関係で大規模な逆流現象(南米アマゾン河の『ポロロッカ』が名高い)を起こす様を、龍神が海から河へ帰る様に例えた言葉だ。
 ちなみに静自身はこの技を、その生涯で二度と使う事はなかった。
 『場所も相手も違うのに、同じ事したってしょうがない』。
 彼女は後にそう語ったという。つまり静にとってこれは『技』ではなく、この日この時この場所で、うきという強敵を倒すためだけに取った『手段』に過ぎなかったのである。
 
 良い機会なので、静の武術について少し記そう。興味の無い向きには飛ばして頂いても差し支えない、いわゆる『余談』である。

 さて、静が身につけている武術には、いわゆる『流派』というものが無い。  
 というかこの時代の瑞波、いや天津にはまだ、『流派』と呼ぶべき武術体系が存在していない、というのが正しい。流祖がいて、それを継ぐ者がいて、さらにその弟子が、という流れが存在していないのである。
 これは天津が、未だ天下の定まらない戦乱の中にある事と無関係ではない。いや戦乱の世ならば武術が台頭するだろう、という考え方もあろうが、実を言うとそれは逆である。
 なぜなら戦乱の世である以上、腕に覚えのある者は、戦に出て武功を立てれば良いからだ。何も弟子を取り、それを育てて月謝をもらい、などというまどろっこしい事をする必要は無いのである。
 皮肉な事に、『武術の流派』などというものが台頭してくるのは、むしろ戦が減り、武術が役に立たなくなった時代、つまり泰平の世が見え出してからだ。腕っ節だけで身を立てるのが難しくなった連中が、その腕一本で飯を喰う手段として考え出したのが、つまり武術指南というモノなのである。
 過去の日本でも、いわゆる『武術の流派』が台頭してくるのは戦国末期。剣で身を立てる事が難しくなってからのことであり、それが最も隆盛したのは江戸時代、泰平の世になってから、という史実を見てもそれが分かるだろう。
 一条静が生きたこの時代、瑞波の国はちょうどその過渡期にある。
 そしてその中でも、静が生まれ育った一条家は、武術に関してユニークなアプローチをした事で知られている。
 一条家率いる瑞波の国は、天津の覇権を巡る戦に積極的に関与する中で、他国と同じく多くの腕自慢の武術家を召し抱えている。当然、戦で戦わせるのが第一目的だ。
 ただ一条家が他国と決定的に違うのは、例えば負傷したり老齢になって闘えなくなった者も放逐せず、そのまま国内に留まらせて扶持、つまり給料を与え、若い世代にその技術を伝えさせた事である。ちょうど出来上がったばかりの教育機関『天臨館』にも、彼らの一部が教師として赴任している。
 『個人の経験を情報として蓄積し、全員で活用する』
 『賢公』の名をほしいままにした一条家の先代当主・一条銀が、その国づくりの根幹の一つとして挙げた家訓である。
 それまでの、一人の人間の一代限りの経験と記憶に頼るやり方ではなく、それを蓄積して広く共有すること。武術のみならず、銀は政治経済文化あらゆる事物において、詳細な記録とその継承を徹底させた。
 もちろんそれは、瑞波が経済的に豊かで、国家経営に余裕があったからできたことである。経済という絶対的な土台の上に、情報という城を築いたわけだ。
 『天井裏の魔王』一条銀という天才君主が、その短い生涯を捧げた『富国』。それが単に経済的な面だけに止まらず、遥かに多彩な成果を残した、そのことは特筆されてよいだろう。
 そして一条静。
 彼女こそはその最初にして最高の結晶、精華と呼んで良い存在なのだ。
 一条家の居城・見剣の城に集められた選りすぐりの武術家達。彼らがその豊富な戦闘経験の中から編み出した、今だ荒削りな『技』を、静は幼少の頃から学び、片っ端から吸収した。
 『BOT製作者』フランシア・センカルを驚愕せしめた、その恐るべき心身能力をベースに、本来なら数十年の時を費やして経験していくはずの実戦情報を、同時に数十人分もインプットしていったのである。
 それも後世のような、教育システムが充実してからの教え方ではない。
『教える』どころか、ほぼ完全な実戦形式である。
 十にもならぬ少女を相手に、それこそ背中に苔が生えるほど戦場を渡り歩いた古兵達が、真剣から刃を削っただけの刃引き太刀(竹刀はおろか、木剣すら使われなかった)を手に、その経験の全てを叩き込む。その様を想像しただけでも、壮絶の一言しかあるまい。道場には常に腕利きのプリーストが、それも複数侍っていた、というのも頷ける。
 こうして完成された静の武術は、だから現状では『何流』でもない。そして同時に、今は誰もそれを継ぐ事が不可能な、彼女唯一人のための体系なのである。

 さて、では最後に飛び切りの『余談』を一つ記す。

 この静の武術を後に、唯一継承した人物がいる。
 それは彼女がその生涯に唯一、その腹から産み落とした実子。
 伝説ともなった壮絶な家督争いの末、見事に一条家当主の座を掴み。
 重代の家宝『大太刀・月咬銀狼丸(おおだち・つきかみぎんろうまる)』の初代所持者となり。
 そして関白太政大臣となって、天津の位人臣を極めたその男。

 人呼んで『剣大臣(ツルギノオトド)』。
 一条鋼(いちじょう はがね)、その人である。
 
 静とうきの対決に話を戻そう。
 『戻り龍神』の体勢が完成してしまっては、さしものうきも逃げることは不可能だ。両手の手刀で静を攻撃しても、投げで地面に叩き付けられるのは避けられないだろう。この岩場で自分と静、2人分の体重を乗せたまま落ちれば、いずれにしてもタダでは済まない。
 (受け身!)
 うきに残った選択肢はそれしかなかった。
 柔術の心得がある、というのは決して伊達ではない。投げを食らった時、腕で地面を叩く事でそのダメージを最低限に抑える技術が、うきにはある。さすがに無傷とはいくまいが、たった一撃でも反撃できる力が残っていれば、その後に静を仕留めるのに不自由はない。
 うきは地面に叩き付けられるタイミングを測り、手刀化した両手をゆるめて、受け身の体勢を取った。
 だが、うきがその受け身の技術を発揮する事は、ついにできなかった。
 「南無……」
 静の呟きの意味を考える時間すらない。
 ごっきん!!!!
 その時、うきがまず感じたのは、後頭部から伝わるカッ、という熱さだった。直後、それが頭全体に衝撃となって伝わる。『目から星が出る』というあの感覚。
 後頭部が何かにぶつかった。いや、ぶつかった、などと言うお優しいものではない。それはまさに激突。シャレにならないほど重く、堅い物が、後頭部にまともにヒットする感覚。
 (はいぃ?)
 うきがその正体を知った時は、もう何もかも遅かった。
 ごきん、と何かが砕ける感覚。首が折れた。めしっ、と何かが軋む感覚は、頭蓋骨が砕けたらしい。
 (あー、さっきヘルム被せてた、あの岩かぁ……)
 残った数千分の何秒か、その時間にうきが考えたのはそんな呑気な分析。
 戦いの直前、静が脱いだヘルムを被せた、あの地面から高く突き出した岩。
 そのてっぺんに向け、うきの脳天を叩き付けるように投げれば、なるほど受け身の取りようはない。岩にヘルムを被せたのは、その岩を『凶器』として使う意図を隠すためだろう。

 一切の手加減なし、それは静も同じ。いや、それ以上に情け容赦ない、殺す気満々の投げ技を、何のためらいもなく仕掛ける。
 それが一条静という『武人(もののふ)』なのだ。
 (怖っえぇぇ……)
 アサシンクロス・うきは腹の底からそう思う。
 そしてそれを最後に、彼女の思考はぷっつりと途絶えた。
中の人 | 第十一話「Mothers' song」 | 20:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十一話「Mothers' song」(5)
  芝村屋敷の独房を脱走した速水は結局、誰に見とがめられる事もなく、その広大な敷地を抜け出した。
 ルーンミッドガッツ王国最大の貿易港・アルベルタ。その町外れの原野を切り開いて構えられた、天津貴族・芝村家の出屋敷。外観こそ白亜の大陸風だが、内部のあちこちに天津の意匠が取り入れられた、この時代の天津建築の傑作と呼ばれる建物だ。
 あのウロボロス8の崩壊後、自由になった速水がたどり着いたのが、天津にある芝村家の領地だった。
 そこで速水は、

 『ボクはルーンミッドガッツ王国から布教に来た宣教師です』
 と身分を偽り、芝村家に入り込む。
 この『初めての嘘』は上手くいった。信仰に情熱を燃やすあまり、教会の許可も何もないまま、他国へ密入国して布教する僧侶というのは、当時としてはさほど珍しい存在ではない。
 そして以前にも書いたが、芝村家は天津とルーンミッドガッツ王国との交易を独占し、莫大な利益を上げている一家である。その中で速水は、王国についてのネイティブな知識を持ち、王国語の読み書きにも堪能な人間として、すぐ重宝される事になった。
 身元が怪しいと言えば怪しいのだが、そもそも芝村家の活動だって、決して明るいモノばかりではない。事実その配下には、大陸語を喋れるというだけで雇われた海賊崩れもいたし、ひどいのになると家業を隠れ蓑にして、密かに人身・麻薬売買にまで手を染める者までいた。
 その中で、速水はそれなりに真面目に仕事をこなし、一家の中で信頼を得て行く。元々、神様なぞ信じてもいない速水だけに、布教らしい事など何もしなかったことも逆に幸いした。
 そしてとうとう当主・芝村巌(いわお)の侍従の一人に加わり、芝村家がルーンミッドガッツ王国に出屋敷を建設したのを機に、この地へ赴任したのである。
 身元の怪しい成り上がりにしては、なかなかの出世ぶりと言える。

 が、どうも今回ばかりはしくじった。


 『プロンテラの下町に、瑞波の一条静姫を名乗る女がいる』。

 その情報が、ここアルベルタの芝村屋敷へ寄せられたのが2日前。
 これに対し、芝村屋敷の人間の反応は、
 『またか……』。
 これだった。
 静が登場する場面でも書いたが、このルーンミッドガッツ王国において『我こそは天津の姫』と詐称する人間は後を絶たない。
 天津と大陸の交流が始まってまだ数十年、まともなメディアもない時代だけに、一部の人間を除き、お互いの情報が正確に伝わっているとは言いがたい。

 例えば『天津は黄金の国だ』、などという与太話を真剣に信じ、またそれに乗じて詐欺を働く者もまだまだ多い、というのが現状なのだ。
 ルーンミッドガッツ王国内で、こういう不逞の輩を取り締まるのもまた、芝村家の仕事である。というより、天津の人間の行状に一方的に責任を取らされる立場にあるため、やむなく取り締まっている、というのが正しいだろう。二国間の貿易を独占する権利を維持する、その代償として、まあやむを得ない義務とも言える。
 だから今回も『どうせまた偽姫だろう』と誰もが思いはしたが、といって放っておけば芝村の落ち度になってしまう。
 で、とりあえず様子を見て来い、と上層部の命を受け、派遣されたのが速水だったわけだ。

 まず速水は最初に『静は本物だ』と、ちゃんと報告した。だが、屋敷の上司達は信じなかった。何を馬鹿な、というわけだ。
 だがまあ、これは仕方ないと言えば仕方あるまい。本物の瑞波の姫君が、プロンテラ下町の安宿に泊まって冒険者修行してます、などと誰が信じるか。
 むしろそんな話をすぐ信じるような安い連中が、逆に芝村の幹部要職に就けるはずはない。

 しかし昨夜、静に引きずられる形で速水が経験した、あの凄まじい戦いについて報告すると、彼らの顔色は一変した。(静やフールが心配した通り、速水は馬鹿正直に全部報告したらしい)。
 カプラ嬢を殺害する謎の軍団、それに対してわずかの手勢で立ち向かい、なんとコレを撃退してしまった少女。剣を振るい、飛爪を飛ばして無双の働きをするその異能っぷりは確かに、天津で音に聞こえた『瑞波三姫』の末姫、静と重なる。
 となると話は全く違って来る。下手をすれば、いやしなくても、天津とルーンミッドガッツ王国の国際問題に発展しかねない大事だ。
 芝村の幹部達は、ほとんど恐慌をきたした。
 とにかく事実確認を、と、王国政府と瑞波国の両方に問い合わせた。が、まず一方の王国政府は知らぬ顔。それどころか、暗に『その件には触れるな』と圧力がかかる。これはもう『何か裏がある』と見ない者はいない。

 一方の瑞波の返事は、遥かに振るっていた。筆頭御側役・善鬼の文に、当主・一条鉄の花押付きでこんなのが来た。
 『当家の三女・静は目下、ルーンミッドガッツ王国にて花嫁修業中にて候。内々のこと故、芝村殿には御構い無きよう、お願い申し上げ候』
 要するに『内緒で花嫁修業してんだから放っとけや』ときたものだ。
 冗談ではなかった。
 『花嫁修業』だか何だか知らないが、無責任にもほどがある。いやそれよりもこの騒動に芝村の人間、速水厚志がのこのこ参加していました、などと知れたら、どれほどの災厄が一家を見舞うか想像もつかない。
 最悪、『静姫に加担した速水などという人間は、芝村にはいない』という事にするしかない。
 速水が独房へ幽閉されていたのは、そういうわけである。
 (……でも、約束あるしなあ)
 遠目にも慌ただしい芝村家を尻目に、速水はとっととワープポータルを出すと、自らをプロンテラに転送した。
 当の速水自身には、悪い事をしたという認識は無い。いや実際、彼はさして悪い事はしていないのだ。ただ、その行動が芝村家にとって都合が悪い、というだけである。
 芝村家に真から忠誠を誓っているならともかく、元々人間ではない速水にとって、芝村家はただ寂しさを消すための入れ物、というだけに過ぎない。一人でいてはいけない、というあの人との約束を守る、そのための手段と言ってもいい。
 それに芝村家は、家長である巌を中心とした厳格な家内統治が敷かれた『組織』である。その辺は、何かと人情・愛情に篤い一条家とは正反対だ。そういう意味では、モンスターである速水でなくても、愛着や忠誠心は湧きにくかった。
 唯一、芝村の一族で彼に関わろうとする少女、彼女にだけはちょっと申し訳ない気持ちがある。いつも不機嫌で、何かと速水に辛く当る少女は、彼が脱走したと知ればさぞ怒るだろう。
 (まあ、いつも怒ってるけどさ……ごめんね、舞ちゃん)
 速水は内心で苦笑する。
 (でも、しーちゃんやふーちゃんと約束があるんだ)
 速水の脳裏に、静の笑顔が浮かぶ。その顔に良く似た笑顔を、速水は知っているはずだが、彼の頭の中でそれはまだ、一つにはならない。
 (僕が嘘つきでも、人間じゃなくても、笑ってくれるんだ)
 速水にもう迷いはなかった。
 プロンテラに着くや否や、静達の宿屋に向う。だが、遠くから入り口を見ただけで、速水は向きを変えた。
 宿屋の入り口で、宿の女将が数人の男を相手に揉めているのが見えたからだ。揉めている相手は、速水と同じ芝村の人間達。恐らくは静を捕縛に来て、女将を相手に『一条静を出せ』『出さない』で押し問答しているのだろう。
 (約束の時間もとうに過ぎているし……あの様子じゃあそこにはもう、しーちゃんたちはいないな)
 宿から離れた速水は、人気の無い路地へ入り、そこで一匹のモンスターに姿を変えた。
 『サベージペペ』。
 小さなイノシシ様のモンスターで、ペットとして人気があるため、都市にいてもさして不審がられない。何より、鼻が利く。
 『鼻が利く』といえば、卵の匂いだけでフールを追跡した静だが、モンスターの生命情報を再現した今の速水の嗅覚は、その静すら遥かに上回る。くん、とひと嗅ぎしただけで、目的の匂いを探し出した。
 フールのペコペコ、プルーフの匂いだ。

 人間の匂いよりもずっと強い、その獣の匂いを追って、速水は小さなモンスターの姿のままてこてこと都市を出る。
 匂いが続く方角から、目的地はすぐに分かった。首都南方の港町・イズルード。
 そこまではいい。だが、そこからが厄介だった。
 二人の目的地がイズルードだとすると、船、あるいは飛行船に乗り換える可能性が高い。いくら鼻が利くといっても、海の上や空を飛ぶ乗り物の匂いまでは追えない。そうなったらアウトだ。
 だが、速水は運が良かった。
 (……あの飛行船!)
 速水がイズルードへ着いた時、ちょうど停泊中の飛行船からプルーフの匂い、そして静とフールの匂いまで漂って来たのだ。彼らを乗せてラヘルへ運んだ船が、ちょうど航路を一周して戻って来た所だった。
 速水は大急ぎで人間の姿に戻り、乗船券を買って乗り込む。ちなみに券を買うのに払った金は、こういう時のために体内に取り込んだ財布から出した。とんだ『へそくり』である。
 その飛行船も今は空の上。後は2人と1匹が下船した場所を特定できれば、また追跡が可能である。
 2人と1匹の下船場所の特定、だが難しそうに思えたそれは、しかし意外なほど簡単だった。

 ラヘルの空港、そこに静とフールの匂いが濃厚に残っていたのだ。
 匂いの元は、何とゴミ箱の中。2人が空港で買って飲み、そして捨てたあのお茶の容器に付着した、それは匂いだった。
 遥かルーンミッドガッツ王国からラヘル法国辺境へ。大陸を横断する速水の追跡行が、とうとう完成しようとしていた。
 飛行船を降りた速水は一人、荒野を駆け出す。しかし『速度増加』の呪文を使ってさえ、人間の姿では速度に限界がある。
 人目がなくなってから、この地に生息する狼型のモンスター『ガリオン』に姿を変えて疾走。
だがそれでも遅い。
 もっと速く、もっともっと速く。速水は自分の中を探る。蓄えられた無数の生命情報をひっくり返し、この荒れ果てた荒野に最適化された最速の生物を、ついに探し出した。

 変身。
 轟! と速水が風を巻く。
 2人と1匹の匂いを追う必要は既にない。この荒野を覆う、猛烈な血の臭いが、今は速水を導いていた。静とフール、それぞれが戦いの化身のような2人が、その血臭の先にいる事など疑うまでもない。

 そして2人がきっと、速水を待っていてくれる事もまた、疑うまでもないことだった。

 『貴方を待っている人たちがいる』

 あの人の言葉は嘘ではない。

 嘘ではなかったのだ。

(……待っててね、しーちゃん、ふーちゃん!)
 轟々!!
 速水が風を巻き、そしてその風すらも追い越していく!
中の人 | 第十一話「Mothers' song」 | 20:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十一話「Mothers' song」(6)
  「……んがっ!?」
 うきは目を醒した。いや、それまで死んでいたわけだから、ここは『生き返った』という方が正しいだろう。
 「あー、久々に見た……お花畑」
 ぶすっと独り言。嘘か本当か、臨死体験とかしたらしい。
 むくり、と半身を起こしたものの、身体の調子は本調子にはほど遠いようだ。直前まで死んでたのだから当たり前だが。

 ポケットの中の回復剤を探る。が、そこに常備されているはずの薬は1本もなかった。
 「回復剤なら、静姫様が持って行かれました」
 センカルだ。その手に、役目を終えてしわくちゃになったイグドラシルの葉がある。死人を蘇生させる奇跡の魔法を封じたそのアイテムを、彼女が使ってくれたらしい。
 『回復剤を持って行った』というからには、静はもうここにはいない。半壊した洞窟の中に残されたのは、うきとセンカル、そしてBOTの双子だけ。
 「姫様から御伝言が」
 「……」
 聞いているのかいないのか、うきは座り込んだまま、ごりごりと頭を掻いている。
 「『アタシの勝ちだから、行かせてもらう。戦利品ってことで、回復剤はもらってく。あと、その3人をお願い』」
 「……んだよ、もう」
 起こした半身を再び仰向けにばた、と倒して、うきは渋い顔。
 「こんなの聞いてないぞ畜生ー。ちゃんと正確な情報渡せよなー、あの『キザ亀』」
 『ここにいない誰か』に向って毒づくと、そのまま大の字になって目を閉じる。回復剤がない以上、このままじっとして体力の回復を待つしかない。
 「大体あんな強かったっけ? あの娘……?」
 ぶつぶつ言いながら、初めて静と会った時の事を思い出す。先日、プロンテラで無代が『ウチのお嬢様』と紹介してくれた少女は、確かに強力な武人であることは間違いないものの、少なくともあんな『化け物』ではなかったはずだ。昨夜、彼女の宿屋を訪ねた時も同じである。歴戦のアサシンとして、相手の力量を測る事に関しては相当の自信があるだけに、そのギャップには首を捻るばかり。
 「いつのまにか激烈パワーアップしました、ってか?」
 「……多分、『今』よ」
 「あ?」
 うきの独り言に、小さな声で応えたのはセンカルだった。ひっくり返ったうきが顔を向ける。
 「『今』ぁ?」
 「そう……。貴女と戦いながら、貴女に勝つために、精神と肉体をレベルアップさせた。『進化した』って言ってもいい」
 「はあ?」
  怪訝な表情のうき。対するセンカルは地面に座り込んだまま、まるで独り言のような言葉を吐く。その側には、フールのマントに包まれた『戦車(チャリオット)』の首が置かれたまま。考えてみれば不気味なシチュエーションだ。
 「普通の人間なら、自分より強い相手に勝つためには、まず経験が必要。そこから学習し、そして学んだ内容を基に、何度も練習を繰り返さなくてはならない」
 「まあ、そりゃね?」
 「でも、あの方は違う」
 センカルはぼそぼそと呟く。
 「途中の学習と練習の過程をほとんどすっ飛ばして、経験からいきなり結果を導き出す。それも一瞬で」
 「……何それ?」
 「敵に対する情報把握と、学習の速度がケタ外れなの。わずかな経験から膨大な情報を吸収し、脳内で無意識のうちに、それも一瞬で数千、数万回の模擬戦闘(シミュレーション)を繰り返して、最も理想的な結果をはじき出してしまう」
 「……」
 うきの眉間に皺が寄る。センカルの言葉がよく理解できない、というか理解はできるがどうにも信じられない、という表情。
 「戦いながら、戦ってる相手に合わせて強くなる、っての?」
 「そう。それこそ最初の一撃で殺しでもしない限り、足音一つ、目線一つからも敵の情報を吸い出す。そして全身全霊を挙げて即座に対抗策を練り上げ、勝ちに来る」
 「何それ、怖っ!」
 うきがぶるっ、と身を震わせた。センカルが展開する理屈は実感できずとも、実際に静と戦って負けたという事実が、何よりも強烈にうきを刺す。
 しかし本当にセンカルの言うことが正しいならば、静が瑞波を出てから今日までに得た経験と学習量はどれほどになるのか。
 プロンテラの下水やフェイヨンの森でモンスターと戦い、さらに昨夜うきと別れてから、ウロボロス4のアタックチームと死闘を演じた。
元々、瑞波での厳しい修行によって形成された下地の上に、常識では考えられない量の戦闘経験が、同じく常識外の猛烈な勢いで積み上がったに違いない。
 これが常人なら、それだけの戦闘経験を結果として生かすには一定の時間がかかる。何度も繰り返し練習し、修行しなくてはいけない。だが静はほとんど時間を置かず、いきなり完成した形で身につけ、実行することが可能なのだ。
 「反則じゃんか、そんなの」
 うきがボヤくのも無理はなかった。
 「……羨ましかったのよ」
 「ん?」
 センカルの、ほとんど消え入りそうな言葉を、うきの耳は捉えた。衰弱が進んでいるらしく、センカルの声は、もう明らかに普通の状態ではない。
 「ちょっとドクター、あんた大丈夫? 一応、静ちゃんに頼まれたからさ、死なれると困るんだけど」
 「羨ましかった……あの人が」
 うきの呼びかけが聞こえないのか、センカルの呟きは止まらない。さすがにやばいと思い、うきがえいっ、と身体を起こして立ち上がった。座り込んだままのセンカルの背に手を添えて、その顔を覗き込む。
 「ドクター、薬とかは?」
 「……」
 センカルがのろのろと、自分の胸ポケットを指差した。うきは中を探り、錠剤を発見。自分の荷物から水筒を出し、薬と共にセンカルに飲ませると、そっと寝かせてやる。
 ついでにBOTの双子、『月』と『星』にも水筒を渡してやると、それぞれ一口ずつ、大人しく飲んだ。飲み食いや歩行など、基本的な行動は自律的に可能であるらしい。
 「羨ましくて……だから『BOT』を作り続けた。負けたくなかった」
 横たえられたセンカルの唇が、小さな声を発した。
 「負けたくなかったのよ、あのひと……一条、桜に」
 「『一条桜』って確か、静ちゃんのお母さん?」
 センカルの側に再び座り込んだうきが訪ねる。まだ体力は回復しないらしい。
 「『伝承種』の貴重な血を引き……最強レベルの男を夫にして、物凄い能力を持つ子供を3人も授かる。同じ女として、それはあまりにも羨まし過ぎた。……おまけに美人だし」
 「あ、最後んとこ一番重要だ」
 うきが茶々を入れる。
 「ま、確かに色々とハイスペックだったんだろねぇ。あの静ちゃん見てりゃ分かるわ」
 ふん、と一つ鼻を鳴らし、そしてうきは声音を変える。
 「だからって、1万人以上も人体実験やらかす理由としちゃどうなの? 『女の嫉妬』ってさ?」
 「後悔は、してない」
 だからセンカルが、細い声でそう答えても、うきは軽く肩をすくめただけだった。センカルが何を言おうが、謝罪しようが開き直ろうが、もうどうしようもない事だからだ。

 そしてそれを誰よりも、センカル自身が良くわかっている。

 作り続け、殺し続けた。
 何の感情も持たず、やり尽くしてきた。
 フールを始めとする『失敗種(エラー)』を処分せず、生かしておいたのも、別に情が湧いたからではない。何かに使える、そう思ったからだ。
 魂の入れ替えで問題が発生したとはいえ、一応は死なずに生き残った個体である。入れ替えもできずに死亡した個体に比べて、何らかの優位性がある、そう考えるのが自然だ。
だから『愚者』フールを筆頭に『月』や『星』までも、処分せずに手元に置いて観察した。
 それだけだ。
 フールら『失敗種』に、BOT化以前の記憶はない。

 『古里を大規模な疫病が襲った』
 『お前達は辛うじて生き残ったが記憶を失った』
 『古里は壊滅し、今は立ち入れない』
 『センカル博士はお前達を無償で助けてくれた恩人だ』

 そんな偽りの説明を信じるしかない彼らに、センカルも最初は、本当に何の感情も持っていなかった。

 繰り返される、殺しては造り出す日々。
 そして時たま、彼ら『失敗種』が暮らすラボを訪れては、経過を観察する。
 『博士、いらっしゃい! お疲れさまです!』
 その度に、無邪気な笑顔で出迎えてくれる彼らに、しかしセンカル自身が癒されるようになったのはいつだったか。
 そしてその胸に、罪悪感の芽が芽吹いたのはいつだったか。
 その時期ははっきり思い出せない。が、一度芽吹いた芽が育ち、センカルの心を崩壊させるに至る時間は、本当にあっという間だった。

 センカルの人体実験のペースががくん、と落ちた。いや、落ちるどころか全く進まなくなった。
 フール達のラボに入り浸り、一日を過ごす事が多くなる。
 当然『ウロボロス2』のスポンサー、軍や貴族達からクレームが届き、部下達からも突き上げを喰らう。だがそれでも、センカルの手はもう動かなくなっていた。
 事件が起きたのは、そんな時だ。いや、センカルがそうだったからこそ、事件は起こされたと言うべきだろう。
 ウロボロス2のラボを『皇帝』・エンペラーが襲ったのだ。
 
 『よくも騙しやがったな! この嘘つき婆あ!!!』

 そう叫びながら、エンペラーは全てを破壊し尽くした。
 『取り替え児(チェンジリング)』の成功例として、既にセンカルの手を離れ、軍の指揮下に入っていた彼だ。充実した装備と、それを使いこなす訓練も積んでいる。何の軍事的防御力もないラボなど、文字通り鎧袖一触だった。

 こうなることを予想した上で、その彼に『真実』を教えた者。それはセンカルの部下達だった。いわゆるクーデターである。
 不覚にもセンカルは、部下達がそこまで自分を排除したがっていた事を、その時初めて気づいた。そして彼らの口から、ウロボロス2でセンカルが挙げた成果が、外部へ勝手に持ち出されていることも、初めて知った。
 彼らはセンカルに隠れてBOTを量産し、他の組織に供給していた。いや、それだけではない。秘密裏に王国政府の重要人物を、BOTに改造することまでやっていた。
 『政府』
 『教会』
 『カプラ社』
 王国を牛耳るこの三大機関に対し、送り込まれたBOTの数はもう数知れない。
 最強の守護者にして断罪者、『ウロボロス4』マグダレーナがそれに気づき、対応を始めていたが、それすら完全に遅きに失していた。彼らの作戦により、BOT化された末端のカプラ嬢が数人排除されていたが、実はその程度ではもうどうしようもない所まで、BOTの浸食は進んでいたのだ。
 しかし『BOT製作者』センカル自身は、それを知らなかったというのも、実に皮肉な話だった。
 そのセンカルに、エンペラーの怒りの一撃が落ちる瞬間。
 『博士!!』
 その剣を受け止め、彼女を助けたのが『愚者』フール。そして彼の兄妹達だった。
 フールは兄妹達を指揮し、直ちにワープポータルを使って、炎に包まれたラボを脱出。エンペラー達の追跡を振り切り、ここラヘルの辺境にある廃墟に隠れ住んだのだった。
 フールを始めとする『失敗種』、彼らもまたエンペラーと同じく、センカルの『真実』を知らされていた。
 だがそれでもエンペラーと同じ道を歩まず、
センカルを殺すこともなく、今まで共に暮らしてくれた事。
 その理由を、センカルは今も知らない。
 「……それでも、自分のやったことの意味ぐらい理解できている」
 誰に聞かせるでもなく、センカルは呟く。
 「『神様』とやらが本当にいたとして、罰を受けろと言うなら罰を受ける。地獄へ行けと言うなら行く。本当にいるならね、神様」
 センカルは地面に横たわりながら、マントに包まれて側に置かれた『戦車』の首を抱きとり、胸に抱きしめる。

 「でも……でも神様、貴方が本当にいらっしゃるなら」

 「どうして私を」

 「『私だけを』罰して下さらないのですか……!」

 それきり黙ったセンカルを、うきはそっと目を開けて見た。その時だ。
 「……ぐっ!」
 センカルが血を吐いた。
 「!? ドクター!?」
 けふ、けふ、と弱々しく、吐血が続くのを見て、うきがはっ、とした表情になる。
 「毒!? あんた……この卑怯者ぉ!!」
 さっき飲ませた『薬』が、自殺用の毒だったのだ。毒の扱いに関しては専門家以上のアサシンをして、これに気づかなかったのは、正にうきの失策だった。汎用の解毒薬ならうきにも手持ちがあるが、センカルの様子から見て、もう明らかに手遅れ。
 「……救われねー!」
 うきは叫んだ。
 「誰も! なんにも救われねーじゃんよ、こんなの!」
中の人 | 第十一話「Mothers' song」 | 20:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十一話「Mothers' song」(7)
  フールの何度目かの突進が、モンスターの壁に阻まれた。
 単騎で、しかもこの乱戦の中で足を止めるというのは命取りになる。囲まれ、滅多撃ちにされる前に、即座に騎鳥・プルーフの手綱を引き、撹乱のための疾走に移るしかない。

 生きた三大魔剣を駆る『魔剣醒し(アウェイクン)』・フールの戦力が低いわけではない。ただ単純に、敵の数が多く、そして強いのだ。
 いや例えそうであっても、ただ強力なモンスターを数揃えただけなら、フールとてここまで苦戦はしないだろう。
 今、フールが相対している敵の真の厄介さ。それは彼らが、自律的かつ効率的な戦闘プログラムを与えられた『BOTモンスター』である、という点にある。
 普通ならば、ただ獲物に向って突進してくるだけのモンスターが、役割を分担し、余計な事をせず、組織立って向って来る。ただそれだけで、フールほどの異能の強者でさえ攻めあぐねる、精強極まりない軍団と化す。
 敵陣の奥で悠々と腕を組むエンペラーに、一太刀浴びせる隙すらない。
 フールがこうして敵陣から離れても、敵は簡単に追って来てはくれない。これでは少数ずつ釣り出して殲滅する『各個撃破戦法』は通じない。それどころか逆に、しっかりと陣を組んだまま、じわり、じわりと押して来る。嫌らしいと言ったらなかった。
 これに対してフールが取れる戦法と言えば『一撃離脱』、それしかない。疾走しつつ敵を攪乱し、いきなり突撃する。そして何とか陣を破り、内側へ斬り込むチャンスを狙うのだ。
 敵陣深くに斬り込んでの乱戦になれば、三大魔剣による人工MHを造り出せるフールにも戦いようがある。混乱の中では同士討ちを怖れ、集団では逆に戦いにくいものだからだ。

 だが、見事に組織立った敵の前衛は厚く、フールが何度突撃しても、どうにも斬り込むチャンスを作れずにいた。
 「うおーい、もういい加減あきらめろよフール。陽が暮れちまうぜぇ」
 エンペラーが変らぬ嘲笑でフールを揶揄する。
 確かに陽は傾いている。小石だらけのラヘルの野に、北の山脈が造り出す巨大な影が長く、その手を伸ばし始めていた。
 「しっかし、何でそこまでするかねお前。あの女のためにさ。マジで恨んでるとかねーの?」
 本気で気持ち悪そうに、エンペラーがフールに問いかける。
 なぜセンカルを守ろうとするのか。彼女を恨んでいないのか。その問いはしかし、むしろ当然のものだろう。
 分かっている。
 フールにだって分かっているのだ。
 (……エンペラーが正しい)
 その事を、ちゃんと理解している。
 記憶がないとはいえ、フールにもちゃんと子供時代があった。それが幸せなものだったかどうか、今となっては分からないが、それでも自分の人生と呼べるものが、確かにあったはずなのだ。
 本当の両親からもらった、自分だけの肉体も。
 だが、それは奪われた。
 何の罪もないのに、何の関わりもない運命に巻き込まれ、何もかもを奪われた。
 それを奪った人間も、はっきり分かっている。

 『ウロボロス2』フランシア・センカル、その人だ。
 フールはそれに怒っていいし、恨んでいい。たとえセンカルを殺したとしても、その行為は復讐として十分な正当性を持つだろう。
 事実、エンペラーは迷わずそうしている。むしろそれこそが自然な行動であり、おかしいのはフールの方ではないか。

 だがフールは、その道を選ばなかった。センカルを恨み、復讐する道を歩かなかった。
 いや、フールだって真実を知った直後は、怒りや恨み、困惑の気持ちが確かにあった。
 だが彼はその時、考えてしまったのだ。
 センカルを恨み、彼女を殺す。そこまではいい。
 では彼女を擁する『ウロボロス2』は放っておいていいのか?
 いいわけがない。
 太古から『BOT』を研究してきた忌まわしい組織、そもそもそれが存在しなければ、センカルとてこの研究に手を染める事なく、フールも自分の人生を歩めたはずである。
 ならば『ウロボロス2』も恨むべきだ。当然、その上位機関である『ウロボロス』全体も、憎悪の対象にすべきだろう。

 ではさらにその母体である、ルーンミッドガッツ王国そのものはどうだ?
 それを認めた王は? 裏で糸を引く貴族どもは? 教会は? 世界は?
 神は?
 自分はどこまで恨めばいいのか。どこまで憎悪すればいいのか。
 どれだけ壊し、どれだけ殺せば、復讐は終わるのか。
 いや、そもそも終わりなどあるのか?
 また万一終わりがあったとして、では『その後』フールはどうするのか。
 復讐に満足して隠遁でもするのか。いや、今度はフール自身が、世界を滅ぼした罪人として生きることになるのか。
 何度も何度も考え、自分に問いかけ続けた。心が破れ、血が流れるほど考え続けた。
 そしてとうとう、フールは選んだのだ。


 『誰も恨まない』ことを。

 恨みや怒りや悲しみがなくなったわけではない。捨てたわけでもない。
 だが自分に残されたこの心と身体を、復讐のために使う事はしない。

 そうではなく、
 『これ以上、BOTの悲劇が広まるのを止めよう』
 この力は、そのために使う。
 それがフールと、その兄妹達が決めたことだった。
 そしてあの時、怒りに狂うエンペラーからセンカルを守って逃亡し、この辺境の地に匿ったのだ。
 フールは兄妹達にセンカルの護衛を頼むと、自分は首都を拠点に狩りや傭兵をして金を稼ぎ、センカル達の隠遁生活を支えた。
 そしてBOTの情報があれば密かに出向き、彼らを『保護』してセンカルの元に連れて行った。

 そうして首都とラヘルの辺境を駆けずり回る生活。
 だが正直な所、未来に光は見えなかった。
 保護したBOTは数十人にも上ったが、魂のないプログラムだけの彼らに生活力などない。彼らがこの辺境で暮らして行くだけでも、フールへの負担は増えるばかり。
 一方で、彼らを助ける研究もはかばかしくない。そもそもBOT製作は、彼らを元に戻すことなど想定していないのだから当然だ。
 さらに問題なのは、センカルの心身だった。研究者としていかに優秀でも、研究資料も資材もほとんどない状態では、彼女とて大した事はできない。その罪悪感と焦燥が、センカルの心を蝕み続けた。
 悪い事に、その身体が病に冒される。余りにレアケースのため治療法が確立されていない、厄介なラヘルの風土病。センカルの命が尽きるのも、もう時間の問題だった。
 『もう自分を殺して欲しい』
 そう頼まれた事も一度や二度ではない。
 その度にフールはセンカルを説得した。自分達を置いて行かないでほしい、力を貸して欲しいと何度も頭を下げ、センカルの心と命をつないできた。
 そんなフールに、何か希望があったわけではない。むしろ絶望だけだったかもしれない。
 だがそれでもなお、フールという青年はその恨みを、怒りを心に沈め。
 センカルも、ウロボロスも、王国も、神も、何も恨まず。
 自分とか、世界とか、現実とか、それらどうしようもないものと、真っ直ぐに向き合ってきた。
 そのフールの選択を、人は何と言うか。エンペラーは何と言うか。

 『愚か』


 そう言ってしまうなら、これほど愚かな選択もないだろう。

 愚かな戦いもないだろう。
 無謀とも言える突撃を続け、今やフールの身体は傷だらけだ。回復剤を瓶ごと叩き付ける、あの無茶苦茶な治療法でも、全ての傷を治し切れるわけではない。抜き切れない矢や、折れた槍が身体の各所に刺さったまま。防具だってあちこち砕け、防御の用を成さなくなった箇所もある。無事な物と言えばもう、彼が振るう生きた三大魔剣ぐらいだ。
 頼みの回復剤だって残り少ない。
 だがそれでも、それでもフールは止まらない。
 フールの身体は痛みを感じない。叩かれても斬られても、撃たれても、何も感じない。
 一見すると便利そうにさえ見えるその身体はしかし、フールに苦悩しかもたらさなかった。
 
 (ボクは、本当に生きているのか……?)

 その実感を、どうやっても持つことができない。
 (本当はもう自分は死んでいて、『フール』とはただのプログラムに過ぎないのではないか?)
 痛みのない、他人の身体を押し付けられた彼に、その疑念がずっとつきまとう。
 「!」
 フールが何度目かの突撃を敢行した。敵の剣をはね飛ばし、陣形に隙を作って割り込もうとする。だが、陣の奥から突き出される無数の槍が、その行く手を塞ぐ。
 「うぉぉぉおおお!!!」
 フールが吼えた。槍と槍の間、その間隙を狙って、無理矢理身体をねじ込ませる。

 (生きている)

 当然、その肉体に刺さり、肉を裂く槍もあるが、身体の動きに支障のない限りは無視。その暇があれば魔剣を駆り立て、槍の群れを切り払って前進する。

 (生きている!)

 痛みを感じない身体だからこそできる、まさに捨て身の攻撃。

 (生きている!!)

 気の弱い人間なら、見ているだけで気絶しかねない、凄惨な特攻。

 (ボクは生きている!)

 だがそれはフールという青年の、たった一つの『生存証明』。
 だからこそ、その身を削り続ける。光の無い未来でも、進む事をやめない。 
 恨みも、怒りも、悲しみも、その身に深く沈め。センカルも、王国も、世界も、神も、誰一人恨まず。
 一途に。
 ただ一途にその道を。
 人、それを『愚者』という。
 だが言わば言え。しかし見るがいい。

 荒れ野を独り往く、聖者の如きその姿を。

 だがその突撃も、ついに行き足を失った。槍が、剣が、敵の身体を張った防御が、フールの突進をついに食い止めたのだ。
 こうなると、敵の集中攻撃が来る前に離脱するしかない。これまでもそうして来たように。
 だが、今度はそうはいかなかった。一か八かの突貫が災いし、身体に食い込んだ槍がフールの身体の自由を奪っている。
 逃げられない。
 足を止めてしまったフールに向って、敵の陣が一気に殺到する。
 「……!」
 フールの表情が激しく動揺した。だが、それは決して自分の危機を感じてのものではない。
 「フール!!!」
 背後から叩き付けられた声のせいだ。その声を、一体誰が間違えようか。
 「姫!? なぜ!?」
 声の主は間違いようもない、一条静。だがフールのその質問は、いささか愚問に過ぎた。
 なぜも糞もない。
 この姫様が、一度戦うと決めた戦いから黙って引き下がる、などと本気で思う方がどうかしているのだ。
 「マグナムブレイク! 撃って! 今すぐ!」
 静の叫びが猛烈な勢いで近づいて来る。背後を振り返る暇さえない。迷っている暇も、ない。
 「マグナムブレイク!」
 フールがスキルを発動するのと、フールの肩に背後からとん、と静の足がかかるのが同時。
 ずどん!!!
 フールを囲んだ敵が一瞬、数メートルも吹き飛ばされる。ノックバック。フールの身体から噴き上がる、爆発的な闘気の力だ。
 先刻のエンペラーとの遭遇戦の際、やはりフールの頭を飛び越えようとした静を空中で押し返したあの爆発力が、再び猛烈なエネルギーをぶち撒き、周囲の空気を白熱化させる。

 そしてフールは見た。
 静が、飛んだ。
 剣士服の背中に背負っていたバックラー、それを足下に踏みつけて、その上にうずくまる低い姿勢。フールの起こしたマグナムブレイクの爆風を、まるでサーフィンのように足下に受け、静が宙を舞う。
 「フール! 後でぶん殴るから、生きてなさいよぉおっっ!!!」
 地上のフールに向かって、捨て台詞を長く引きながら、敵陣の上に見事な放物線を描く。
 「うお?!!」
 それを見ていたエンペラーが驚嘆の声を上げた。こんな方法でBOTモンスターの陣を飛び越えて来るなどとは、さすがのエンペラーも想像もしていなかったのだ。
 だが驚嘆の割に、その声に慌てた様子はない。むしろ面白そうな響きさえある。
 それもそのはず、時に静すら上回る彼の『目』には、その程度の動きは止まっているも同然だ。その動きを捕捉して迎撃することも、MOBの群れの真上に撃ち落とすこともたやすい。
 例えるなら、浜辺で戯れに打たれたビーチボールを打ち返すようなもの。

 静が描く放物線が落下に移る、そこを引きつけておいて、
 「マグナムブレイク!」
 フールよりも遥かに強大な爆熱の闘気が、ラヘルの荒野に巨大な火球を生み出した。フールのマグナムブレイクに乗っただけの、翼も持たない静には、これを避ける術はない。あっさりと撃墜され、BOTモンスターがひしめくラヘルの荒野に無惨に墜落する。そう思われた。
 だが。
 「!」
 エンペラーの起こした爆風が直撃するより一瞬早く、静が足下のバックラーの縁に手をかける。そしてそれを思い切り引っ張り、『ある角度』に調節した。
 マグナムブレイクの爆風、それが静に到達したのは直後。角度のついたバックラーに、爆風のパワーが襲いかかる。
 ぐん!
 静の身体が、まるで弾かれたように急上昇した。撃ち落とされるどころか、水面に投げられた水切りの石のように、見えない爆風を巧みに捉え、更なる飛翔につなげたのだ。
 バックラーを足下に敷いた静の身体が、まるで空に吸い上げられるように高々と舞い上がり、空中で回転する。スノーボードの空中技(エア・トリック)を思わせる縦方向、そして同時に横方向の激しい螺旋運動。
 遥か遠く、雪の山脈から伸びた影と、夕陽の光が出会う境界線。高く空中に引かれたその境界線上で、静の身体がラヘルの乾風とダンスを踊る。紅い光と、暗い影と。二つの色をめまぐるしく身にまとい、同時に脱ぎ捨てながら。
 静が身につけているものは、アカデミー支給の簡素な剣士服のみ。だがこの時ばかりはその姿、夕陽に舞う風の精霊か、それとも戦場に死を呼ぶヴァルキリーの眷属か。
 先刻、洞窟の前でただ一度だけ、マグナムブレイクの爆風をその身に受けた。たったそれだけの経験を元に、バックラーを使った飛翔、さらに高度なエア・トリックすら完璧に実行してみせる。
 それも一度の練習も無し、ぶっつけ本番の一発勝負。

 それこそが『成功種の中の成功種(サクセス オブ サクセス)』・一条静なのだ。

 遥か宙空での回転がついに止まり、頭を下にした逆落としの姿勢。
 腰から銀狼丸を抜いた静が、ついにエンペラーに襲いかかる!
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第十一話「Mothers' song」(8)
  『襲いかかる』と言っても、この姫様のすることだ。ただ馬鹿正直に、真っすぐ落下などするはずもない。
 エンペラーの直上、そこで静の手が閃く。空中での、それも敵の真上からの飛爪の連撃。だがこれはエンペラーへのダメージを狙ったものではない。
 「ちぃっ!」
 エンペラーが頭上に盾を掲げる。しかし飛爪はそれには擦りもせず、むしろエンペラーの周囲にチュン! チィン!と降り注いだ。
 それでいい。静の目的はただ一つ、エンペラーをその場から動かさない、足止めのためなのだ。
 しかも先刻、エンペラーが放ったマグナムブレイクというスキル、実は連発ができない。撃った直後に『ディレイ』と呼ばれる硬直時間があり、しかもその間は、他の強力なスキル攻撃も巻き添えで使えなくなる。
 すなわち今、真上から襲いかかる静を空中で迎撃する、その手段はない。
 「でぇぃやぁあああ!!!」
 裂帛の気合い。静の手に銀狼丸の白刃が構えられる。
 エンペラーのその身体が、実は入れ替えられたフールの身体、という迷いはもう、静の中からすっ飛んでいる。
とにかく闘う、そして勝ってから考える。
 そう、それこそがこの剣姫にふさわしい生き方だ。

 「うっぜ!!」
 ぶん! エンペラーがその剣を頭上へ、静を迎撃するための鋭い軌道を描かせた。スキル攻撃が使えないといっても、エンペラーの圧倒的な腕力と武器性能を持ってすれば、ろくな防具もない静一人を弾き飛ばす程度、さしたる手間ではない。
 だが、そのエンペラーの剣に伝わったのは、彼がかつて感じた事ない手応えだった。
 じゃりぃん!!
 静の手の銀狼丸、その刃の峰が、エンペラーの剣と激しく絡む。そして同時に、本来なら静を弾き飛ばすはずの衝撃を丸ごと吸収し、その力を回転力に変えた。
 エンペラーから奪った回転力、その力を利用した静が、その身体をくるりと旋回させ、両足をぴたりと揃えた見事な姿勢のまま、膝のバネを存分に使って着地を決める。
 エンペラーのペコペコ、その頭の上に。
 敵の間合いの内側も内側。地面という二次元ではなく、空中という三次元を使った、その驚異的な立体攻撃によって、静は一気にエンペラーの懐に飛び込んだのだ。
 「げっ」
 エンペラーが目を剥いた。それはそうだろう。こんな破天荒な敵が存在するなど、想像すらしたことがあるまい。
 空中にいる間にバックラーを背中に戻し、静はもう銀狼丸を両手に構えている。静の剣法は、基本的に盾を用いない。一本の剣で攻撃と防御を同時に行う、近代剣法の基礎を既にモノにしているのだ。
 「ふっ……!」
 銀狼丸の剣風がエンペラーに襲いかかった。それも決して力任せに叩き付けたり、あるいは速度のみを頼んで斬りつけるような、単純な攻撃ではない。
 圧倒的なパワーを持つエンペラーの剣に対し、ある時は攻め、ある時は退く。そして隙と見ればつけ込み、時には蛇のように絡み付く。
 速く、軽快に。しかし時には重く、鈍重に。
 華麗かと思えば泥臭く、潔いと思えば嫌らしく。
 ぱあん! じゃりん! ぎりぎり……しゃあん!
 わずか数瞬の時間、銀狼丸とエンペラーの剣が激しくせめぎ合った。銀狼丸の攻撃も防がれるが、エンペラーも静に触れる事ができない。
 とはいえ剣士とロードナイト、その職業による単純な力量差を考えれば、静の戦いぶりはまさに奇跡。それはまるで、小さな拳銃一丁を携え、大砲を備えた戦車と渡り合うようなものだ。
 しかも、2人の間の均衡を破ったのは静の方。
 「痛っつ!」
 エンペラーが顔を歪める。剣を握ったエンペラーの手が突然、血に染まっていた。静の剣に指を、それも親指の付け根を斬られたのだ。
 静が放った一撃を剣の鍔で受け止めた、と思った次の瞬間の事だった。止めたはずの銀狼丸の刃が、まるで生きているかのようにひらり、と翻り、鍔の内側へ舞い込む。やばい、と思った時にはもう遅い。剣を握った指を、銀狼丸の刃がこじるように引き斬っている。
 『真剣の常道は小手打ち』という。真剣同士で闘う場合、どこを攻撃するよりもまず、剣を握るその腕を攻撃するのが有効、ということだ。
 しかし鍔競り合いに持ち込むと見せかけて、手元の微妙な動きだけで『親指撃ち』に切り替えるこの一手。
わずかな油断さえ許さない『怖さ』を秘めた、真の意味での『殺人剣』。
 それが一条静の剣、決して華麗なだけではない。
 何とか千切れずに済んだとはいえ、親指をそこまで傷めては、エンペラーといえども剣を握る握力は半減以下だ。
 決定的な隙。
 静の渾身の打ち込みが唸る。どうにか盾で防いだ、と思ったら、その盾にいきなり猛烈な圧力がかかる。
 何とそれは静の『足』だった。ペコペコの頭の上に立った静が、そのすらりとした片足を上げ、エンペラーの盾を上から思い切り踏みつけたのだ。どうでもいいが、もう片足はペコペコの頭の上に踏ん張ったまま。信じられないようなバランス感覚である。
 盾そのものだって結構な重量がある上に、静の体重まで重ねられては、いくら筋力に秀でたエンペラーでもたまらない。
 がくん、と盾が落ちる。エンペラーの顔面、そして首がまともに静の射程距離に入った。
 「ふっ!」
 銀狼丸が駆ける。盾は蹴り落とされ、剣は動きが半減。さしものエンペラーにも防ぐ術無し、と思われた。
 だが、やはり恐るべきはエンペラー。
 圧倒的な肉体の完成度や、超高度な装備だけがこの『取り替え児』の価値だ、などと思ったら大間違いだ。
 
『皇帝』・エンペラー。
 
 彼が生まれたのは、工業都市アインブロックのスラム街だった。
 母親は場末も場末の酒場女で、父親は『候補者』が多過ぎて不明。当然のごとく、母親は育児などまるで駄目。だからエンペラーは物心つくより前から、孤児同然の状態で育った。
 喰うため、生きるために、言葉を憶えるより先に盗みを憶えた。手をつなぐより先に逃げ足を、笑顔より先に殺人を事を憶えた。
 アインブロックの駅や空港を拠点に、かっぱらいや置き引きを繰り返し、またある時は郊外の工場に押し入って、高額の製品を盗み出した。
 警察の捜査の手が伸びると、即座に町の外の荒野や山に逃げ、そこで何ヶ月も暮らす生活。危険なモンスターも数多く生息する地域だが、こうなるともう彼自身が一匹のモンスターのようなものだ。事実、時たま狩りに訪れる初心者らしい冒険者も、彼の獲物だった。
 奪う事、喰う事、襲う事、逃げる事、闘う事。
 それらのすべてが彼にとっての『生きる事』だった。
 そうして研ぎすまされた圧倒的な闘争本能、そして生存本能。その野生の極致ともいうべき本能は、時に武術や技術を凌駕する。
 生まれながらの異端。いや奇形。
 そんな彼が『取り替え児』として最高の肉体を得た時、その暗い星が放つ異形の光は、正しき星すら飲み込む。
 「ナメんなぁ!」
 ばん! とエンペラーが剣を振った先は、敵である静ではない。握力のほとんどないその手で、静を攻撃するのは無意味と瞬時に判断し、矛先を変えたのだ。
 変えた先は、自分が騎乗するペコペコの尻。
 瞬間、激痛に襲われた騎鳥がパニックを起こす。頭を振り上げ、脚を蹴り上げ、まるでロデオの暴れ馬ように荒れ狂う。
 鞍に座って鐙を踏みしめるエンペラーには耐えられても、片足でペコペコの頭の上に立つ静はたまらない。
 「くっ!!」
 エンペラーの頭部を狙った最後の一撃が、無情にも逸れる。それでも暴れ回る足場の上で、上半身と腕の力だけで銀狼丸をコントロールし、エンペラーの首筋に刃を当てたのはさすがと言える。
 だが、それが限界だった。
 ついに静の身体が、ペコペコの上から振り落とされる。
 いや、落ちたというより、静が逃げたのだ。もうじきマグナムブレイクのディレイが終わる。これ以上、エンペラーの至近距離にいるのは危険過ぎた。
 だが一口に逃げるといっても、静に翼はない。エンペラーの攻撃を避けられるほど遠くへ、一気に逃げることなど不可能だ。蝶の羽、テレポートを可能にするそのアイテムを使えば逃げられるが、それはしない。
 静はまだ、戦いを投げたわけではないのだ。
 片手の指をペコペコが纏った装甲板に引っかけ、それを起点にしてぐるり、とペコペコの腹の下へ滑り込む。例えは悪いが、まるでトカゲかヤモリのような動きだ。
 ペコペコの腹の下、つまり真下を攻撃できるスキルは限られる。危険地帯に変わりはないが、それでも静の闘志は衰えない。
 (まだまだあっ!!)
 静は、エンペラーの乗っている鞍、そして鐙を固定しているベルト類に銀狼丸を突き立てた。
 騎乗具を破壊する攻撃は地味だ。しかし鞍と鐙は人間とペコペコの間をつなぐ、重要なインターフェイスである。パソコンで言うなら、いわばキーボードとマウスのようなものと言えば分かりやすいだろう。つまりコレを破壊される事は人間とペコペコ、相互の意思疎通を大幅に削ぐ事になる。
 その間にも、エンペラーを取り巻くBOTモンスターが、状況を把握して行動を始めていた。連中に押し包まれ、四方から数を頼んだ攻撃を叩き込まれれば、さすがにひとたまりもない。
 「こっ……のお!!」
 しかしさすがエンペラーの装備というべきか、ベルト一本も恐ろしく頑丈で、簡単には千切れてくれない。だめだ、時間がない。 
 そこは見切りよく攻撃を諦めた静、すとん、と地面に降りると身体をひねり、バックラーを背中に背負ったまま、亀のような格好でうずくまる。
 「ひゅうっ!」
 地面すれすれの口から思い切り息を吸い、両手で頭を庇う。対マグナムブレイク用の耐爆姿勢だ。
 息を止めるのには理由がある。
 マグナムブレイクというスキルの危険性は、決してその爆発だけではない。その高熱の爆気をモロに吸い込むと、気管や肺といった呼吸器官に大やけどを負い、いわゆる『無気肺』という状態になる。こうなると最悪の場合、呼吸ができなくなって窒息死してしまうのだ。
 また手で頭を覆うのは、こういう空気の逃げ場のない場所で熱波を喰らうと、高い確率で髪の毛を焼かれるからだ。髪の長い女性は、特にその危険性が高い。

 瑞波に集められた歴戦の古参兵が伝えた戦闘経験、そこから編み出された危険回避法を、静は幼少時から叩き込まれている。これほどに『戦慣れ』した姫君など、世界中探しても彼女だけに違いない。
 何より特殊なのは、静がこれを実戦で使うのは今回が初めて、という事実かもしれない。

 だがしかし、静の予測に反して、再びのマグナムブレイクは襲って来なかった。
 その代わり別の衝撃が、静の足元を襲った。

 (地震!?)
 常人を凌駕する超感覚を持つ静でさえ、一瞬その正体を錯覚する衝撃。地面に猛烈な震動が走り、それがまるで火山の爆発のように膨れ上がる。と、思った次の瞬間だった。
 ずっどぉぉおん!!!
 静の後方で、地面が爆発した。噴き上がった大量の瓦礫と土砂が、静の身体をボロ屑のように翻弄する。
 「きゃっ!!?」
 予測不能の破壊力の前に、さしもの静がなすすべなく数メートルも吹き飛ばされ、地面に叩き付けられた。飛び散った瓦礫と、岩だらけの地面への激突で、全身に激しい打撲が積み重なる。
 「ふっ……ぐうぅ!!」
 静が呻いた。幸いにもと言うべきか、致命傷となるような大きな骨折や激しい出血はない。だがそれでも、全身に負った無数の亀裂骨折や裂傷のため、激痛で息が出来ない。右目の瞼が切れて視力がなく、同じく右耳は鼓膜がやられたらしい。何も聞こえない。
 いや正直、意識を保つことすら危うい。気を失わないようにするのがやっとだ。
 (『スパイラルピアース』……!)
 そんな状態でも、静の感知能力は状況をきちんと把握した。ロードナイトが使うスキルのうち、最大の攻撃力を誇る『スパイラルピアース』。この爆発が、エンペラーの使ったそのスキルの結果であることを、静は見抜く。
 スパイラルピアースは本来、敵を視認して使うスキル、つまり静が言うところの『目に頼る』スキルだ。だから騎乗するペコペコの腹の下、という死角にいた静には、この技は使えないはずである。もし使ったとしても、敵の視線と殺気を感知する静なら、その発動を予測する事はたやすい。
 では、それを気づかせずに発動できた理由とは?
 (味方を、撃った!)
 周囲に散らばる瓦礫の中に、粉々に砕けたモンスターの破片がある。
 見えない静の代わりに、近くの適当な味方を狙って、その強力無比なスキルを叩き込んだ。エンペラーほどのパワーと、強力な装備を併せ持った敵が振るったのだ。その螺旋型の衝撃波は味方のモンスターを砕くだけに止まらず、地中深くまでその破壊力を浸透させ、結果として大爆発を起こさせた。
 近代兵器にある『地中貫通爆弾(バンカーバスター)』さながらの地中爆発により、隠れた静を味方もろとも吹き飛ばす。戦車並み、と評したエンペラーの戦力は、決して大げさではなかった。同時に、この静を相手にして咄嗟にそれだけの攻撃を行う、その戦闘センスもまた卓抜したものだ。
 (だめ……っ!)
 静は地面に叩き付けられたまま、凄まじいダメージで動けない。だがこのまま動けなければ、待っているのはなす術のない死だ。ほとんど無意識に腰のポシェットから回復剤(安価な、効力も低いものだったが)を出し、どうにか一本飲み下す。
 だが足りない。どうにか死こそ免れたが、全身のダメージが大き過ぎて、とても回復し切れないのだ。
 勝てない。
 元々、針の穴のような小さな可能性に賭けての特攻だった。それを迷いなく、過たず決行した静こそ凄まじいが、それでも越えられないエンペラーの壁は、想像以上に厚いと言うしかない。
 逃げる、その判断をする時だった。
 だが静は、その場から1人逃げる事を良しとしない。
 フールが、あの若者が一人、まだ闘っている。その事を静は疑わなかった。彼を残して、自分だけ逃げる事はできない。何とかフールに撤退を伝えなければならない。
 だが、その撤退への躊躇が結局、命取りになった。
 「逃がすかよコラ!!」
 その声。静としたことが、それがエンペラーの声、と気づいた時には遅い。
 ずん、と身体の上に凄まじい重量がのしかかる。屈強な鎧に身を包んだエンペラーが、騎鳥の上から身を躍らせ、転がったままの静の身体の上に飛び乗ったのだ。
 完璧なマウントポジション。しかも、パワーもウエイトもケタ違いの相手となれば、静でも即座には脱出できない。加えて全身に傷を負っている今の状況では、マウント状態を返すことはほとんど不可能だ。
 「くそぉ……あっ?!」
 それでも抵抗しようとする静の身体から、いきなり力が失われた。エンペラーだ。手甲に包まれたその拳で、静の形の良い顎に真横から一撃を喰らわせた。
 その一撃は、決して激しい一撃ではなかった。だが顎のその位置への攻撃は、頭蓋骨の中の『脳』を揺らす。
 「うあ……」
 ぐらり、と静の目から焦点が失われた。頭蓋骨の中で、脳がゴムボールのように跳ね回っている。いくら肉体を鍛えても、脳までは鍛えられない。むしろそれで失神しなかった静を誉めるべき場面だった。
 だがこの後の事を思えば、逆に失神した方が楽だったかもしれない。
 「こーゆー悪りぃ手は、こうだな」
 エンペラーの腕が、静の片手をがっちりと地面に押さえつけると、反対の腕でナイフを抜く。
 そのままためらいなく、静の手首を貫いた。
 「!!!あああああ!!」
 静が絶叫した。この剛胆な姫君でさえ、声を抑え切れなかった。無理もない。戦闘用の大振りのナイフ、それで右手首を骨ごと貫かれた。しかも貫通した切っ先は、地面に埋まった岩の内部にがっちりと食い込んでいる。
 そして左手首。
 右と同様にそれを貫いたのは、彼女の手から落ちた『銀狼丸』だった。
 「!!!!!」
 自らの守り刀を使った、あまりにも無惨な磔り付け。
 静はもう、声すら出せない。歯を食いしばり、両腕の激痛をただ受け止めるしかない。
 いっそ失神したほうが楽だろうに、静の鍛え抜かれた心身がそれを許さないのが、逆に残酷だ。
 「へえ、コレでもイっちまわないんだ。やっぱすげえなお前」
 エンペラーが本気で感心したように、狂おしいほどの激痛に歪む静の顔を見下ろす。
 「しかもめちゃめちゃ強えしよ。……いいねえ、気に入ったぜ?」
 その大きな手が、静の顎をがきっ、と捕らえ、そして言った。
 「お前、俺のガキ産めよ」
 エンペラーのとんでもない宣言に、静の目が見開かれる。
 「お前と、俺のこの身体の間でガキ作れば、そのガキ絶対強くなるだろ?」
 にやり、と笑うその顔は美しいが、しかし毒に満ちあふれている。

 「この身体が老いぼれる前に、そのガキの身体とこの身体、また取り替える。俺は永遠に最強だ」

 そう。どうしようもなく歪んでいるのは、この男の心そのものなのだ。
 痛覚、それ自体を火箸で掻きむしられるような激痛に耐え、静が暴れ出した。自由な両足をじたばたと激しく動かし、エンペラーのマウントを解こうともがく。
 だが無理だ。いたずらに体力を消耗するだけの悪あがきにすぎない。
 「暴れんなよ。ガキ産ませるのに頭いらねーんだぜ。ケツだけんなって生きてーのかよ?」
 歪み切った悪意の前には、もはやいかなる抵抗すら虚しかった。
 静の腰から、ポシェットがむしり取られる。
 「バッシュ!」
 ばん!! 破裂音とともにポシェットが粉砕された。エンペラーなら、素手でもこの程度の破壊力は出せる。
 ポシェットに仕舞われたなけなしの回復剤、飛爪。そして何よりも、逃走のための『蝶の羽』が、あっさりと四散した。
 もう逃げる事はできない。
中の人 | 第十一話「Mothers' song」 | 20:10 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十一話「Mothers' song」(9)
  「ちくしょー……」
 うきは呻いた。
 薬と偽って毒を飲んだセンカルをうつ伏せにし、どうにか少量の毒を吐かせ、心臓マッサージを施した。
 だが正直なところ、無駄だということも分かっていた。
 センカルを覆う濃い死の影は、アサシンであるうきには見慣れたものだ。だからこそ、それを振り払うのがもう不可能である事は、彼女が一番良く理解していた。
 それでもなお、懸命に蘇生措置を続けたのはなぜだったのか、うき自身にも良くわからない。
 静に頼まれた事とはいえ、自分は引き受けたわけではないし、ぶっちゃけ引き受ける義理もない。『自分が勝ったから言う事を聞け』などと、言った静本人でさえ約束とは思っていないだろう。

 ただ強いて言うなら、静の哀しそうな顔は見たくない、そんな風に思った事は確かだ。あの姫様には、いつも元気で笑っていてほしい、周囲にそんな風に思わせる何かが、例えるなら『陽性のカリスマ』のようなものが、確かに備わっている。
 そしてもう一つ、この『BOTを巡る物語』が、センカルの自殺で幕引き。そんな終わり方そのものに、どうにも納得が行かなかったということもある。誰も救われず、誰も笑えず、残るのは涙と不幸と死体だけ。アサシンという血なまぐさい職業についているとはいえ、うきとてそんな物を望んで求めたりはしない。
 「ねえっ! せめて何か言い残しなよ! 何でも良いからさ!」
 センカルに呼びかけるが、返事はない。だが、その唇が小さく動くのを、うきは見逃さなかった。
 「何?! 何て言ったの?!」
 センカルの唇に耳を寄せる。聞こえてくるのは微かな息と、そして小さな、小さな響き。

 おやすみなさい 母さんの胸で


 その言葉は……いや、その歌は。

 
 おやすみなさい かあさんの胸で  
 
 悲しみやわらぎ 心やすまる
 
 アラル アラメ アラル アラメ 
 
 アラル アラメ アラル アラル アラメ

 それは、『母の歌』。
 遠いあの日、静の母・桜が歌った、あの子守唄だった。
 センカルという女性の、どこにその歌が宿っていたのか。
 子供を持たず、それどころか多くの子供達を生体実験の末に殺し、その運命を狂わせた彼女がなぜ、自らの死を前にしてその歌を紡ぐのか。


 こわがらないで ヘロデのことを

 この子守唄を 聞いておやすみ

 アラル アラメ アラル アラメ 

 アラル アラメ アラ……

 歌に歌われる『ヘロデ』とは『ヘロデ王』。
 遥か昔、『新たな王』すなわち救世主イエスが生まれる、という予言を怖れ、国中の赤子を片っ端から虐殺したという伝説の凶王だ。その行為だけを見れば、ヘロデとはセンカルその人の如し。これは皮肉と言うしかない。

 素朴で美しいリフレインが、苦しい息の下でついに途切れた。
 うきも、もう何も問わない。誰も救われない哀しい運命の、これがエンディングだと受け入れざるを得ない。
 あまりにも空虚な気持ちを抱えたまま、うきが再び地面に転がった。
 仰ぎ見た空の遥か高い場所に、夕暮れの山脈の影が、光と影の境界線を引いて伸びている。その境界線上を、野生の鳥が舞っていた。

 吸い込まれそうな光景に、うきは目を閉じる。
 その時だった。

 おやすみなさい かあさんの胸で

 悲しみやわらぎ 心やすまる


 歌が蘇った。
 消えたはずの歌が、再びラヘルの空に響き渡る。
 
 アラル アラメ アラル アラメ 
 
 アラル アラメ アラル アラル アラメ

 「?!」
 うきが弾かれたように身体を起こし、センカルを確認する。しかし彼女はうきの隣に寝たまま動かず、唇も固まったままだ。だが確認するまでもなく、歌っているのが『センカルではない』ということは、うきにも分かっていた。
 声。
 わずかの曇りすらない、透き通った水晶の針を思わせるボーイソプラノ。それも二人分。
 二つの声が完璧なユニゾンを奏で、荒れ果てたラヘルの岩山を、まるで神話の1ページのように彩っていく。

 こわがらないで ヘロデのことを

 この子守唄を 聞いておやすみ

 アラル アラメ アラル アラメ 

 アラル アラメ アラル アラル アラメ

 歌っているのは言うまでもない。『月』と『星』だ。
 魂を抜き取られたはずの二人の少年が、すっくと立ち上がり、歌っている。今まで、何があっても全く反応も示さなかった二人が、まるでどこかのスイッチが入ったかのように、センカルの歌を引き継ぎ、その薔薇のつぼみのような唇で歌を奏でる。
 「何よ、これ!?」
 うきが驚愕の声を上げた。いや、驚いたのはしかし、双子が『歌った事』に対してではない。
 「これ……この歌って!?」
 うきが呆然と自分の胸元を見る。先刻、静との戦いで衣服ごと鷲掴みにされたあの場所。静のシャレにならない握力をまともに喰らって青黒く腫れ上がり、所々出血さえしていた。 
 その傷がない。
 例え治癒しても痕が残るのは避けられない、それほどの傷がきれいさっぱり、肌の上から消え去っている。それだけではない。他の擦過傷も打撲傷も、そして消耗した体力までが、まるで新品同様に復活していた。

 アラル アラメ アラル アラメ

 アラル アラメ アラル アラメ

 双子の歌う、リフレインが響く。
 ぶあっ、と全身が総毛立つほどの快感と共に、うきの身体に活力が満ちていく。視力、聴力を始めとする五感が数倍も鋭敏になり、遥か高みの空を舞う、鳥の羽ばたきすら捉えられる。
 「これ『聖歌(ゴスペル)』?! でも……何で?」
 うきが呆然とつぶやく。
 『ゴスペル』。
 砕けた表現を使うならば、それは『奇跡を起こす歌』だ。
 どれほどの深い傷も一瞬のうちに治癒し、毒だの麻痺だの状態異常をぬぐい去り、さらには味方の体力・知力・知覚といったパラメータを数倍にも引き上げる。そして敵に対しては逆に、身体の自由や体力を奪うマイナスの効果も与えるという、極めて強力なスキルだ。

 しかし今起きているこれは本来、決してありえないことである。
 『ゴスペル』というスキルは、神に祝福された聖戦士『パラディン』にしか使えない。他の職業の者が、ましてBOTとして魂を抜かれた子供が歌えるはずがないのだ。
 だが、さすがのうきも知らない事がある。
 かつてアルナベルツの片田舎で、その地を領有する若い領主の元に、一人の美しい女聖戦士が嫁いだこと。
 彼女は双子の男の子を産み、その後に別の領主の奇襲を受け、夫と共に戦死したこと。
 その女聖戦士が『戦前種(オリジナル)』であったこと。
 類い稀なる『ゴスペル』の歌い手であったこと。
 そしてその歌が、こう呼ばれていたことを。

 『風の守歌』。

 その歌は『ゴスペル』の常識を遥かに越え、遥か戦場の隅々にまで響き渡り、味方に力と勇気を与えた。そしてその最後の戦いで、まだ赤子だった二人の息子を最後まで守り抜いた。
 さらに彼女の死後も、残された息子達の中に歌はとどまり、今も彼らを守っている。そう見抜いたのは他ならぬ一条家の二ノ姫。静の姉である一条香、その人だ。
 母が息子達に与えた歌は、彼らの身体から魂を抜かれた後も、BOTプログラムの注入を拒んだ。そして抜き取られた二つの魂を、彼女の友人である戦前種・翠嶺の元に送り、そこに保護したのだ。
 奇跡。
 『風の守歌』・瑠璃花(ルリハナ)が、命を賭けて最後に残した歌は、まさに奇跡を起こした。
 いや、その奇跡はまだ終わってはいない。

 それはまだ、始まったばかりだ。
 うきの目が突然、その視界の隅に何かを捉えた。驚愕の中でも、ゴスペルによって鋭敏化した視力に曇りはない。青空に傾きかけた太陽、その端に何やら異形の物が動くのをはっきりと感知する。
 と見るや、それはどんどん大きくなる。物凄いスピードでこちらへ近づいて来るのだ。
 「何あれ?!」
 うきが武器を取って立ち上がった。静との戦いで、地面に放ったままだったアサシンの専用武器『カタール』。巨大な両刃を持つその武器を両手に一振りずつ握ると、まるで腕から先が全て武器化されたかのようにさえ見える。
 殲滅者・アサシンクロスの本領発揮だ。

 こうなるともう、静とやりあった時の素手なんぞとは根本的に違う。
 昼間、洞窟を塞ぐ巨石すら粉砕した恐るべき攻撃スキルを始め、敵を抹殺するためだけに存在し、徹底的に鍛え抜かれたアサシンの心身全てが、一気に戦闘モードにシフトされる。さらにはゴスペルによる猛烈な支援効果も加わり、体全体が燃えるようだ。
 今、こちらへ飛来するそれが何であっても、負ける気はしない。

 だが。
 ばさっ!! と巨大な翼を広げて飛来したそれは、うきやセンカルのいる場所ではなく、少し離れた巨石の向こうに音も無く着地した。
 油断なくカタールを構えるうきにも、しかし状況がつかみ切れない。
 ラヘルの山肌に、双子の歌う聖なる歌が響く。お世辞にも美麗とは言えない巨石群を、しかし今は夕暮れの光が黄金色に輝かせ、まるでそこが古代の聖地ででもあるかのように彩っている。
 その輝く岩々の向こうから、ひょいと姿を現したのは、黒い僧服を纏った若いプリーストだった。
 頭にはえらく派手な花飾り。ハンサムだが、どこかぽやんとした表情。

 何者だ、とうきが誰何するより先に、その男が口を開いた。

 「しーちゃんどこ?!」
 
 「し、『しーちゃん』?!」
 うきがカタールを構えたまま、素っ頓狂な声を返す。
 「しーちゃんの匂いがする! ふーちゃんの匂いも! 二人どこ!?」
 「!?!? ひょっとして、静ちゃんのこと言ってるの?」
 「そーだよ。……キミ、しーちゃんの何? 敵? 友達?」
 武装したうきを怖れるでもなく、ずんずん近づいて来るその男に、うきもちょっと押され気味だ。
 しかしその男の足が止まった。
 「速水……厚志?」
 うきの側から発せられた、小さな声に反応したのだ。
 センカルだった。
 自ら致死量の毒を飲んだ彼女が、その目を開けて半身を起こしている。うきですら手の施しようがなかった猛毒が、奇跡の歌・ゴスペルによって浄化され、なけなしの体力も戻ったらしい。
 だがその目には、もう正常な光はない。あれほど理知的だったその目は、まるで夢でも見ているかのように煙り、小さな声を絞り出す唇は弱々しく震えている。
 「? 僕を知ってるの?」
 速水がセンカルに視線を移し、訊ねる。
 「速水厚志・『ウロボロス8』……」
 「『ウロボロス8』?!」
 うきがぎょっ、とした顔で速水の顔を見た。油断なく構えていたカタールに、さらに力がこもったようだ。『ウロボロス』、その言葉の意味と危険性を、うきも知っているのだ。だが『ウロボロス』は王国の超機密のはずで、それを知っているとなれば、どうやらうきもただ者ではない。
 「ああ、僕じゃなくて『この人』を知ってるの?」
 速水が自分の顔を指差す。
 「違うよ。僕は彼じゃない。彼は僕が……」
 速水は言った。
 「たべた」
 「食べた?!」
 うきが目を剥いた。いや速水、いくら何でも正直に答え過ぎだろう。
 「あ、しまった。コレ言っちゃ駄目なんだった」
 案の定、困ったように頭をかく。
 「???」
 うきの頭の上に、特大の疑問符が浮かぶ。そりゃ何の事か分からないだろう。
 だがセンカルは違った。その焦点の合わない目を大きく見開き、わなわなと唇を振るわせてつぶやく。
 「『終末ノ獣(リヴァイアサン)』……」
 おお……おお……、というセンカルのうめき声が響いた。
 「『リヴァイアサン』?」
 速水は、記憶の中にあるその言葉を反芻する。遠い日に、ガラス越しに聞いた言葉だ。
 「それって、僕のこと?」
 「貴方は……」
 逆に問われたセンカルは怪訝な顔をするが、すぐに察した。この獣は、自分の事は何も知らないのだ。
 「『捕食進化型合成獣(エボルビング・プレデター)』……速水博士のライフワークだった」
 センカルが夢でも見るように呟く。
 『捕食進化』。
 それは他の生物を食べることによって、その生物の能力をコピーし、より強力な生命体へと進化する能力の事である。無論、自然界に存在するはずのないものだ。
 その存在しない生命体を創り出す事に執念を燃やした人間こそ、『ウロボロス8』・速水厚志その人だった。
 元々『ウロボロス8』という組織は、いずれ訪れる『次なる聖戦』の戦力とするために、人間の味方となるモンスターを創り上げることを目的とする組織である。だが、その主席となった速水厚志という天才は、ただ創るだけでは満足しなかった。
 人間が手を下さなくても自ら進化し、無限に強力になっていく無敵の生命体、その創造に力を注いだ。

 センカルも『ウロボロス』時代、速水がその研究をしていた事は知っている。が、まさか完成するとは思っていなかった。それほど困難な、奇跡とも言うべき生命体なのだ。
 しかしそれは見事に完成され、そして今、センカルの目の前に立っている。
 と同時にセンカルは、行方不明と伝えられたウロボロス8・速水厚志自身の末路も、同時に理解した。
 恐らくオリジナルの速水厚志は、この『リヴァイアサン』にその身を喰われ(自分から喰われた、とはさすがに想像しなかったが)、その結果、獣は彼に『進化』した。
 天津にあった『ウロボロス8』の壊滅の謎も、それで説明がつく。
ウロボロス8と天才・速水厚志。彼らはその研究の果てに、生み出した最大の研究成果によって、この世から消滅したのだ。
 そして……。
 「『捕食進化』と『情報保存』……彼、速水厚志は、まだ貴方の中にいるの?」
 「いるよ」
 センカルの問いに、速水はあっさりと答えた。
 「僕の中で彼が何を感じ、何を考えているかは分からないけれど、でも彼は僕の中にいる。いつか僕が死ぬまで、ね」
 自分の作り出したモンスターによって肉体を喰われ、意識と思考だけの存在となって、モンスターの中で生き続ける。
 それは尽きぬ福音だろうか、それとも永劫の罰だろうか。

 気づけばセンカルは必死に身体を起こし、這いずるようにして速水の足元に跪いていた。夕日の黄金に染まる岩山の一角に、まるで一幅の聖画のような光景が出現する。
 天から降臨した神の御使いの前で、罪の赦しを請う伝説の罪人の姿。
 ただ伝説と違うのは、彼女が請うのは『赦し』ではなかったことだ。
 「私を、食べて!」
 センカルが叫んだのは、その言葉だった。
 「ちょっ! 何言ってんの?!」
 うきが驚愕して制止しようとするが、センカルは止まらない。
 「まだ死ねない!」
 センカルは力の限り叫び返した。
 「だって私はまだ何もしていない。罪も、罰も、償いも、苦しみも……全然足りない!」
 病んだその身体の、どこそんな力があったのか。いやそれは正しく、死を目前にした人間の、命の最後の灯火だったかもしれない。
 「私は逃げていただけだ」
 逃げて、逃げて、逃げ続け。最後は自殺という究極の逃げを打った彼女に、しかし運命は否、と言った。遠い日の子守唄が、彼女自身の中にあったその歌が、双子の中に宿る奇跡の歌を呼び覚まし、彼女を死の淵から引き戻した。
 「死を望んでも、死なせてもらえなかった。私には、死ぬ事さえ赦されない」
 そう知ってやっと、そこまでしてやっと、彼女は向き合うことが出来たのだ。
 誰にも、もうどうしようもない、自分の運命に。
 「だからお願い! 私の命が尽きる前に、私を食べて。私を、私と言う罪を、どうかこのまま消さないで」

 「どうか、私を赦さないで……!」

 血を吐くような叫びをぶつけられた速水はその時、しかしセンカルを見ていなかった。
 速水の目は、全く別のものを見ていた。
 自分の足元に跪くセンカルの、その後ろ。そこに、いるはずのない人間が立っている。
 ラヘルの荒れ果てた岩山に、すらりと立った姿。やや小柄だが、野生の雌鹿のように引き締まった身体。
 ピンクがかった独特のブロンド。軍服風にアレンジされた、ソウルリンカーの衣装。
 どこまでも柔らかく、優しい微笑み。
 遥かな時を隔て、再び目にした『彼女』は、あの時と少しも変わっていなかった。
 (ひさしぶり)
 心の中で語りかけると、彼女はにっこり、と笑顔を返してくれた。
 そして速水の足元に踞るセンカルの側に、その片膝をつく。
 そこに彼女がいることは、当然ながら速水にしか見えない。しかし速水にとってそれは、現実以上にリアルな光景。
 幻の彼女がセンカルの背中に手をやり、そして速水を見上げる。
その目が何を語るのか、速水にはすぐにわかった。
 (……たべていいの?)
 そう聞いた速水に、彼女が返した表情をどう表現したらいいだろう。
 それは優しく、同時に悲しみをたたえ、慈しみに満ち。
 そして誰よりも厳しい表情。
 慈愛と裁きの貌、癒しの手と断罪の剣。罰と赦し。相反する力を同時に持った、それは女神の姿だったかもしれない。
 (わかった)
 速水は頷き、そして。
 「キミをたべてあげる」
 その言葉に、センカルは涙の目を上げる。その目に、速水の端正と言って良い貌が映った。
 「ありがとう……」
 目を閉じる。跪いた姿勢はそのままに、手を祈りの形にしたのは無意識か。
 唇には、あの日聴いた『母の歌』。双子の歌う荘厳なゴスペルに、その歌が溶けてゆく。
 そしてその歌が、ふっ、と途切れた。
 気づけば、センカルの姿はない。血の一滴すら、残っていない。
 そして速水の目にだけ見えていた『彼女』の姿もまた、消えていた。

 (またね)
 速水が贈ったのは、あの時と同じ別れの言葉。
 「……彼女は生き続けるの? アンタの中とやらで?」
 「そう」
 速水の返事を待つまでもなく、うきの全身は戦慄で埋め尽くされていた。
 目の前で行われた『捕食』の瞬間を、アサシンクロスの目ははっきりと捉えている。異形の捕食器官のその一閃で、フランシア・センカルという一人の女性は消えた。
 償いようのない罪を背負ったまま、死を目前にした一人の女が得た、それは望み通りの罰だったのか。
 それとも望まぬ救済であったのか。

 うきの身体に震えが走る。彼女だってアサシンとして裏の世界に生き、人より多くの事を見聞きしてきた自負がある。にもかかわらず、彼女の全く知らない何か、途方も無い事が起きている感覚。
 彼女の知らない物語が、彼女の意志を無視して、どこかに向って収斂してゆく感覚。
 見慣れた世界が何かに浸食され、上書きされてゆく感触。
 (……何だよこれ……何なんだよこれ!)
 違和感。
 恐怖。
 そして止めようのない、歓喜。
 「……しーちゃんは、あっちだね」
 センカルの知識を吸収したのだろう、速水が何事もなかったかのように声を上げた。
 間を置かず、その身体が変化する。モンスターが発生するのと同じ原理、周囲にあるが目に見えない『魔素』ともいうべきものを吸収・変換して行われる、物理法則をあざ笑うかのような爆発的な変身だ。
 「!」
 うきが目を剥いたのも当然。目の前にいた人間が、いきなり大型モンスターに変化するなど、彼女をしても初めての経験だった。
 おかしい、ここは本当に自分の知っている世界なのか。

 (何が、何が始まるってんのよっ!)
 両手に握ったカタール、その握り手に思わず汗が滲む。いかなる時も自身に冷静を強いる、そのアサシンの精神修練が全く役に立たない。
 変身を終えた速水の身体に、『月』と『星』が寄り添った。少年特有の引き締まった腰を、両側からひょいひょい、とその背に乗せる。『月』が右、『星』が左からの横座り。なぜか速水も、それを当然として受け入れる。
 二人が歌う子守唄を、その母の歌を、速水もかつて聴いたのだ。
 巨大な翼が、ぐん、と広がる。
 「待ちなよ」
 うきが速水、いや『速水だったもの』を引き止める。自分でも止めようのない衝動が、うきを突き動かしていた。
 未知の未来に魅かれていく、そのどうしようもない衝動。行き先がどこで、そこに何が待っていようとも決して止まらない。
 いや、逆に嬉々として突き進む。
 「アタシは静ちゃんの味方だ。アタシも連れてけ」
 彼女ももまた『冒険する者』なのだ。

 「てゆーかお願い! 一緒に乗っけて飛んで!!」
 
中の人 | 第十一話「Mothers' song」 | 20:11 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十一話「Mothers' song」(10)
   「『バーサーク』……!」
 静がエンペラーによって地に墜とされる、それを見るより早く、フールは自身のスキルを発動させた。
 『バーサーク』
 それは騎士の頂点たるロードナイトだけに使う事を許された、文字通り『最後の切り札』だ。
 肉体と精神のリミッターを解除し、限界を超えた体力とパワー、速度を引き出すことで、ただでも強力なロードナイトの戦闘能力を数倍、数十倍にも増幅する。
 聖歌『ゴスペル』と似た効果にも見えるが、実は両者は全く異なる。ゴスペルの効果が精神力や魔力の強化、つまり魔法使い達にまで及ぶのに対し、バーサークの効果はただ一つ。
 『肉弾』。
 それあるのみ。
 「!!!!!」
 今、フールの喉からほとばしる音は、だから『声』ではない。まさに獣の咆哮。
 「!!!!!」
 まず暴れ出したのはフールの左手、そこに絡み付いたミステルティンが、フールの腕ごと敵陣に叩き込まれる。と見るや、
 ばきばきばきぃっ!!!
 巨木が密生した森を、巨大な山津波が一気に押し流す音にも似た、ほとんど理不尽と言ってもいい破壊音が響き渡る。餌食となったBOTモンスターの槍が、剣が、盾が、鎧が、そしてついでに肉体が滅茶苦茶に粉砕され、瓦礫の山となって散乱していく。
 とても人間業とは思えない、ちょっとした災害クラスの破壊力だ。
 続いてフールの右手に呼び戻された処刑剣、今度はそれが凄まじい速度で奔ると、敵を文字通り『すだれ』のように切り刻む。それはもう剣による攻撃というより、猛烈な速度で回転する巨大なチェーンソーとでも言うべき代物だ。
 さらに恐るべきことに、バーサーク状態にあるロードナイトは、その体力まで普段の数倍に跳ね上がっている。そのため、ちょっとやそっとの攻撃を当てた程度では、倒すどころか弱らせることすら難しい。例えるなら、レーシングカー並の速度で走り回るパワーショベル、そんなモノとガチで喧嘩しろと言うのに等しい。
 今までの苦戦が嘘のように、騎鳥プルーフを駆ったフールが一気に敵陣を切り裂く。敵がフールに向けて殺到するのを逆に幸い、一撃、一閃で複数の敵をなぎ倒していく。敵の反撃も喰らうが、物ともしていない。
 『手が付けられない』とはこの事だった。
 「!!!!!!!!」
 フールの喉から放たれた咆哮が、青から深紫へ色を移す夕暮れの空さえ振るわせる。
 三大魔剣を従え、そして自ら魔神と化した若き騎士。無双の力で戦陣をかき分けて進むそのシルエットに、対抗しうる敵など一匹もいない。
 しかし、これほど強力なスキルなら、なぜ今まで使わなかったのか。不審に思われるのも仕方あるまい。
 当然、それには理由がある。バーサークによる強力無比の肉体強化、それには幾つかの大きなリスクが伴うのだ。
 一つ。
 まずバーサーク中は、他のいかなるスキルも使えなくなる。ナイト、そしてその頂点であるロードナイトが持つ圧倒的な戦闘スキル、それが全く使えないのだ。よってこの状態では肉体そのものと、握った武器の威力だけを頼りに、ひたすら肉弾戦を挑むしかなくなる。
 二つ。
 脳の機能を戦闘に特化した結果、バーサーク中は一切の言葉を発する事ができない。つまり他者との意思疎通が全く取れない状態になる。
 今、フールが吼えているのは、だから彼の激情ゆえではない。それがバーサーク状態の宿命なのである。
 三つ。
 バーサーク中は常に、体力が一定量ずつ減って行く。強化された肉体を駆動するための代償として、肉体と精神がじわじわと破壊されて行くのだ。そしてこの条件は、次の4つ目が加わる事で最悪のデメリットとなる。
 その四つ目。
 これが一番の問題だった。
 バーサーク中はスキルだけでなく、いかなるアイテムも使えなくなる。つまり受けたダメージや、減ってしまった体力を治療するための回復剤を、全く使う事ができないのだ。念の入った事に、プリーストの回復呪文等も受け付けない。
 これがフールにとってどれほど大きなデメリットか、いまさら説明の必要はあるまい。
 フールの代名詞とも言うべき回復剤頼みの特攻戦法、それが使えなくなってしまうのだ。
 自分でダメージを回復出来ず、同時に自動的に体力を奪われていく。フールから見ればそれは諸刃の剣どころではない、ほとんど自殺用の剣と言ってよかった。
 誰の援護も期待できない、独りぼっちの孤独な戦いを続けて来たフールにとって、だからバーサークは決して使う事ができないスキルなのである。
 だが今、フールはそれを使った。
 決して使えないはずのその剣を、一切のためらいなく、当たり前のように抜き放った。
 静の危機を救うため、その身を挺したと言えば英雄的かもしれない。だがフールは、それを否定するだろう。
 彼にとってそれは、文字通りごく当たり前の事なのだ。
 BOTの被害者としてどれほど過酷な、どれほど哀しい運命に巻き込まれようと、決して誰も憎もうとせず、そしてどんな運命も否定しなかった。
 底抜けに一途で、果てしなく優しい、この青年騎士にとって。
 そう。

 それはもう、愚かなほどに。
 
 そんなフールを、敵とて放置していたわけではない。
  一秒でも足止めして周囲を囲み、フールの肉体を切り刻むためのスキル攻撃を雨のように降らせて来る。それを受けたフールも次第に傷を増やし、動きも鋭さを 失って行く。もしフールが『魔剣醒まし』として、生きた三大魔剣を操る剣士でなかったら、あるいはとっくに制圧されていたかもしれない。
 だがフールは止まらない。その身体が傷つき、力を失っていこうとも、敵の苦痛を喰らう生きた魔剣どもを駆り立て、周囲の敵を蹂躙しつつ突き進む。
 静がエンペラーによって地面に磔にされた、あの場所まであと一息。魔剣をあと数回、振るう事ができれば。
 だが、そこが分かれ道だった。
 「今いいトコなんだ。邪魔すんな、カス」
 吐き捨てるようなエンペラーの声と同時、猛烈な勢いで飛来した槍がフールを襲った。
 スパイラルピアース。敵を貫き粉砕する衝撃波を、槍の周囲に螺旋状に纏わせて投げつける、ロードナイト最強の攻撃スキル。しかも投げたのは他ならぬ最強の『取り替え児』・エンペラーだ。先刻、静を地面ごと吹き飛ばした大砲並の破壊力を思えば、もう危険どころの騒ぎではない。
 回避の時間はなかった。フールが咄嗟に左腕のミステルティンを掲げ、防御の姿勢を取る。バーサークによって超強化された、知覚と反射速度のフル回転。だが、
 だあぁん!!!
 鼓膜を直接ぶん殴られるような衝撃音と共に、フールの左腕に絡んだミステルティンが吹き飛ばされた。スパイラルピアースの螺旋衝撃波、その余りの威力に、魔剣ではなくフールの腕が耐え切れなかったのだ。
 魔剣が絡んでいた腕の肉がごっそりと抉り取られ、内部の骨が無惨に露出。それが出血で見る見る朱に染まってゆく。せめてバーサーク状態でなければ、そこに回復剤を叩き付け、傷の治療もできただろう。だが今のフールにその手段はない。
 出血が止まらず、また心臓の鼓動もおかしい。スパイラルピアースの衝撃波が動脈を逆流し、心臓の筋肉にまでダメージを与えたのだ。
 ぐらり、とフールがよろめいた。その目が焦点を失い、身体が騎鳥プルーフの上から崩れ落ちる。
 それでも、その右手からエンペラーに向かってオーガトゥースを放ったのは、文字通り最後の力だったか。
 だがその魔剣も、エンペラーには届かない。
 「フール!!!」
 声を限りに、静が叫んだ。両腕を刃物で地面に縫い付けられながら、それでもフールに向って声を張り上げる。
 だがその声も、フールには届かない。
 「はっはー」
 エンペラーが静の身体にマウントを決めたまま、小馬鹿にした様な笑い声を上げた。静も必死で足をジタバタさせているが、優秀な武具に包まれた肉体は憎らしいほど堅牢で、さすがの静も両手を貫かれたままでは脱出できない。
 朱に染まったフールの身体が地に墜ちる、その凄惨な光景が静の目に焼き付く。
 「残念、今度こそ終わりだ。兄弟……い……?」
 フールに向かって最後の言葉を投げようとしたエンペラーがしかし、急に舌をもつれさせた。
 「あ……ぉえ?」
 思うように舌が回らない。不審に思って口元に目を落とし、そこに妙な物を発見する。

 口の中から、刃物が生えていた。

 「ぁは?」
 当たり前だが、エンペラーにも何が起きたのか分からない。
 エンペラーの口から生えた刃物は短い小刀、天津でいう『小柄』。見事な刃紋の入った名工銘入りの逸品で、もし現代にでも伝わっていたら、それこそ目玉の飛び出るような値段のつく博物館級の美術刀剣である。
 「瑞波刀は甘くないでしょ!」
 意地と誇りに満ちた静の声が、エンペラーに叩き付けられた。というからには当然、静がエンペラーを刺したのだ。
 だが彼女は両手を磷付けにされている。
 ならばどうやって?
 その答えはまたしても『足』だった。
 いつもブーツの内側に仕込んでいる小柄、それを足の指で持ち、サッカーで言うオーバーヘッドキックの要領で、エンペラーの後頭部をぶち抜いた。
 エンペラーに押さえつけられながらも、静が必死に足をバタバタさせていたのは、決して無駄な足掻きではなかったのだ。
 あの時。
 フールがバーサーク状態で突進し、最後の力でオーガトゥースを投擲したあの瞬間、エンペラーの注意がそちらへ逸れた。
 フールが文字通り命がけで作ってくれた、その隙を見逃す静ではない。
 すかさず片方のブーツで、もう片方のブーツの靴紐を引っ掛けてほどく。それに半秒。
 靴ひもがほどけたブーツを脱いで、素足になるのに半秒。
 その素足の指で、ブーツに仕込んだ小柄を抜くのに半秒。
 うきとの対決で見せた、あの驚異的な指の力で小柄を構え、エンペラーの後頭部を狙うのに半秒。
 わずか2秒、それで全ての準備は整った。
 その強靭な腰を支点に、抜群のバネと柔軟性を持つ自慢の脚を、まるでムチのように跳ね上げる。
 静の目からは、目標となるエンペラーの後頭部は死角だ。だがこの姫君にとって、そんな事は何の障害にもならない。
 小柄の刃を乗せた正確無比の蹴り、それはいっそ滑らかと言っていい軌道を描き、エンペラーの後頭部に吸い込まれた。
 作戦終了。
 「?!」
 舌が回らない、言葉が出ない、などとエンペラーが困惑していた時間など、実は『秒』もなかった。
 びくん、とエンペラーの巨体が痙攣し、その両目がくるん、と裏返る。
 ほぼ即死。人体における最大の急所を、刃物で奇麗にぶち抜かれたのだから当然だ。
 「でぇえい!!」
 絞り出すような静の気合い。美しい素足が舞うように閃き、白目を剥いたエンペラーの『耳』を足の指で引っ掴むと、思い切り後方へ引っ張る。既に木偶と化したエンペラーが、静の身体の上からずっでえん! と仰向けに転がり落ちた。
 これでもう、邪魔な重しはない。
 「だああっ!!」
 息つく暇もなく、静の脚が三たび宙を奔る。
 次の目標は自分の左腕、それを貫いた愛刀・銀狼丸だ。素晴らしい柔軟性を生かし、伸びやかな肢体を折り畳むようにして放った蹴りが、銀狼丸の刀身に見事にヒット。きぃーん、という金属音を引いて、銀狼丸が弾け飛ぶ。
 「っつうぅ!!!」
 静の表情が歪み、唇から苦痛が漏れる。だがこれは仕方あるまい。手首から刃物が抜ける痛みは、貫かれる時より大きい。それはもう背筋に寒気が走るほどの、痛みというよりは『ショック』。常人なら間違いなく失神モノだろう。
 やっと自由になった左手で、今度は右腕に刺さったナイフを抜きにかかる。
 しかし手首の傷を治療もできず、痛みを癒すこともできない左手では、とても充分な力は出せない。足も試してみたが、体勢が悪過ぎて抜く事は難しい。
 間断なく襲いかかる激痛と疲労で、さしも頑丈な静も息がぜいぜいと荒い。
 文字通り手も足も出ない状況、しかしそれでも静はへこたれない。
 がっ、と口で齧りつく。眩しいほど白く健康的な歯、それでナイフの柄に噛み付き、ペンチで釘でも引き抜くようにぐいぐいと引っ張る。
 「! !……っ ! 」
 染み一つない静の額に、玉のような汗が吹き出した。夕陽を受けてキラキラと光る汗は、決して萎えることのない闘志に捧げられた金色の冠だ。
 ごっ!! という重い音と共に、ついにナイフが抜けた。静の執念に根負けしたか、ナイフが刺さっていた岩がまっ二つに割れたのだ。
 「があああ……っ!!」
 静が雄叫びと共に、自由になった身体を引き起こす。だが無邪気に喜んでいる時間はない。
 さっき『殺した』エンペラーに、BOTモンスターが駆け寄っている。蘇生アイテムを使われたら、エンペラーはすぐに立ち上がって来るだろう。
 そうなれば、今度こそ終わりだ。
 「フール、ごめんね」
 身体を引きずるようにして銀狼丸を拾い上げた静が、もう届かない場所に伏したフールに声をかける。
 力尽きた青年騎士には、まだ息があるようだ。が、意識があるかは分からない。しかしどっちにしても、その運命はあとわずかだろう。こちらにもBOTモンスターが、止めを刺そうと殺到しているからだ。
 「……アンタ、殴ってやれないわ」
 静が銀狼丸を構える。と言っても闘うためではない。
 その切っ先は、自分の腹に向けられる。
 自刃。
 一切のためらいなく、静はその道を選んだ。
 敵陣のど真ん中、もとより援軍はなく、逃走のための転送アイテムもない。このままでは遠からず、敵に押し包まれて殺されるだろう。
 だが静にしてみれば、ただ殺されるだけなら『まだマシ』だった。
 剣を握って人を斬る、その道を選んだ時から、とっくに覚悟はできている。斬るのならば、斬られる事だってある。それが剣というものだ。
 一方、若く美しい女性として、その肉体を汚されることも考えられる。だがそれでも、静に動揺はない。戦国を生きる武家の娘として、国が戦に破れた時、その国の女達がどうなるかぐらい、一般常識の範囲だ。
 それに、少々男に嬲られるぐらいが何だろう。刃物で両手首をぶち抜かれる苦痛にすら耐えた静なのだ。心や肉体が少々傷つく程度、言葉は悪いが屁のようなものである。

 だがこの身体を、いやこの『血』を自由にされること、それだけは別だった。

 『霊威伝承種(セイクレッド・レジェンド)』。
 亡き母から受け継いだその血が、この身体には流れている。
 遠く聖戦の時代に異世界からもたらされ、王国と教会によって迫害され、そしてとうとう最後の一人にまで殲滅された、貴重極まりない血脈。
 姉の香が受け継いだ前代未聞の霊能力や、同じく姉の綾、そして自分が受け継いだ、その異常とも言うべき戦闘能力。ウロボロス2・フランシア・センカルが、そしてウロボロス8・速水厚志が、それぞれに運命を狂わせるまで魅せられたその力。
 『鬼道』の忌名を冠せられた、無双の力を秘めた血。
 この血を、悪意ある者に渡さないこと。
 そして一人の女として愛する男と交わり、この血を未来へ、健やかに伝えること。
 それが静・香・綾の一条三姉妹が、亡き母と交わした遠い約束だった。
 『俺のガキ産め』
 エンペラーのその言葉に飲まれることは、だから静にとって死よりもずっと悪い。ましてその生まれた子を『取り替え児』にされ、さらに弄ばれるなど、到底あっていい事ではなかった。
 母からもらったこの宝を、そんな歪んだ欲望の玩具にされることを思えば、自分一人が死ぬぐらいどうという事はなかった。
 どうせいつかは死ぬ自分が、今死ぬだけの事だ。
 いや、ただ死ぬだけでは、きっと蘇生されてしまうだろう。だから『念入りに』死ななければならない。
 まず剣士の攻撃スキル・バッシュを自分の腹に向けて撃ち、『子宮』を吹き飛ばす。その後、銀狼丸を喉に当て、前に倒れ込みながら再びバッシュ。大口径のライフルを口にくわえて自殺する要領で、できるだけ広範囲に『脳』を破壊する。
 そこまで肉体を破壊すれば、蘇生限界時間もほとんどゼロに近いはずだ。敵が静に駆け寄り、銀狼丸を引き抜いてから蘇生アイテムを使ったとしても、生き返ることはないだろう。
 できれば残った血肉もすべて焼き払いたいが、現状そこまでは望めない。
 (……銀の叔父上様、どうぞ静の身をお守り下さい)
 静が愛刀に、そしてその鍛ち手に呼びかける。
 これから自刃しようというのに、『守ってくれ』とは意外に聞こえるかもしれない。
 しかし静にとってはそれほどに、自分の血が大切なのだ。ろくに顔も憶えていない実母・桜からもらった、この血と肉が。
 だから死に臨んでも、その心に揺らぎはない。恐怖も、悔悟もない。
 「……皆、さらばです」
 別れの言葉すら短い。
 父や義母、二人の姉、彼らの誰一人として、静の死に様に涙を見せる者はいないだろう。武家の人間に生まれた以上、闘って死ぬ事と、生きる事は同義なのだ。むしろ、
 『よくぞ』
 と誉めてくれるに違いない。
 静が伴侶に選んだ、愛しい義兄だって同じだ。できればもう一目会いたかったし、子供を産んで育てられなかったことは申し訳なく思う。でも、それだけだった。
 だが。
 銀狼丸を握った手から、ちくり、と静の心を刺すものがある。
 決して揺るがないはずのその心に、ほんのわずかに引っかかる物がある。

 (あの人は、許してくれないだろうなあ……)

 その思いが、静の手をわずかに鈍らせる。
 そう、あの人は武人ではない。だから自刃の美学など分からないし、分かろうともしないだろう。
 静が自刃したと知れば、決して自分を許さないはずだ。
 相手が主家の姫様だろうが一切構わず『大馬鹿野郎!』と罵り、静が死んだ悲しみに、その胸を掻きむしるだろう。
 泣きながらこのラヘルの野を彷徨い、形見の髪の毛の一筋でも見つけようと、地べたを這いずり回るだろう。
 そして時が過ぎ、年を重ねても毎月、月命日には彼女の墓の前で、馬鹿野郎、馬鹿野郎と罵りながら、また泣くのだろう。
 ああ、目に見えるようだ。

 (……ごめんね、無代兄ちゃん)

 ふっ、と泣けそうになる。
 一条家の姫として、彼女がパートナーに選んだのは義兄・一条流だった。誰しもが認める文武に秀でた義兄を選んだ、その事に一片の後悔もない。
 だが義兄とは全く違う意味で、静はあの『無代』という若者に懐いていた。誤解を承知で言うなら、そう、本当の兄のようにさえ想っていた。
 世間知らずの静にいつも笑顔で、あるいは本気で怒ってくれた。下らない遊びも、品は悪いが美味しい食べ物も、みんな無代が教えてくれた。
 剣の修行と勉強ばかりのあの頃に、もし彼がいなかったらどうだったろう。どれほど充実していても味気なく、彩りの少ない日々だったのではないか。
 そしてそれは、二人の姉達にとっても、義兄の流にとってさえ同じだろう。
 (兄ちゃんの料理、もう一度、食べたかったな……)
 そんなどうでもいい想いが次々に湧き上がり、手の銀狼丸はすっかり止まってしまう。
 想えば手の中の銀狼丸は、彼女の叔父である一条銀が鍛え、無代その人に与えた剣だ。
 てんじょううらの、ゆうしゃのつるぎ。
 物言わぬ鋼に、鍛え手の想いがこもる、そんなことはあるのだろうか。
 真の持ち主の想いがこもる、そんなことがあるのだろうか。
 もしあったとして、その『想い』などというものが、死を覚悟した少女の運命を救う?
 そんなことがあるはずがない。
 もしあるとすればそれは、

 『奇跡』

 そう呼ばれる類いのものだ。
 銀狼丸を握る静の手に、再び力が戻るまで数秒。
 ではその数秒を。
 決して揺るがぬはずの少女の心をかき乱した、わずかの時間を。
 何と呼ぶのがふさわしいのだろう。
 「……こんのぉお!!」
 「?!」
 突然、真後ろから聞こえた声に、静の手が再び止まった。
 「バカ姫様がぁああ!!!」
 「ぶ!!!」
 すぱーん、と小気味よい音を立てて、静の後頭部が思い切り引っ叩かれた。
 「はあ?! 何それ!? ハラキリ!? ハラキリってヤツ?! あーいや、ないわー。それないわー。それマジないわー」
 手首の傷で握力のない静の手から、ひょい、と銀狼丸が取り上げられる。
 「うわー、これマジ痛そうだし、マジあぶねーし。……何これ? どういうこと? ハラキリとかさ、馬鹿なの? 死ぬの? いや死ぬとかないし。マジそれないし」
 猛烈な勢いのツッコミに、さしもの静が目を点にして振り向く。
 「うき?!」
 「おうよ!」
 カタールを持ったまま、両手の指を器用に立ててダブルピース。
 「夕陽の暗殺者・うき様参上!」
 昼間と微妙に違う、しかし相変わらずいい加減なキメ台詞とともに。
 「助けに来たぜぇ、静ちゃん!」
 何とも騒々しい奇跡が、向こうから押し掛けて来た。

JUGEMテーマ:Ragnarok
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