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第十二話「The Flying Stones」(1)
 『瑞波の無代(みずはのむだい)』。

 その男を語る時、よく登場するのが『弱かった』という言葉だ。
 『冒険者としては三流以下』と表現されることもある。
 確かに彼はその生涯を通じ、鍛冶士や僧侶など多くの職業のスキルを学んだが、結局どれも大成はしなかったし、より上級の職業へ転職することもなかった。中でも賢者、すなわち『セージ』に至っては、その世界で知らぬ者のいない最高の師に弟子入りしながら、とうとう初歩の魔法さえまともに使えずに終わった、とされている。

 だが無代の名誉のために記しておくと、彼は決して無能というわけではなかった。

 いや、彼を良く知る人々に言わせれば『何かと器用で物覚えが良く、実に多芸な男だった……戦闘以外は』という。
 無代が持っていた技能で特に有名なのは『料理』と『書道』の二つだが、商人としても帳簿に明るく、自前で商船を巡らせるための操船、航海術も一通りは身につけていた。また他にも大工や和裁洋裁、石工、木地(木工)などを齧っていたというし、珍しい所では盆栽や製紙、果ては杜氏すなわち酒造の技術まで持っていた、という話まである。
 無能どころか実に『物の役に立つ男』だったのだ。
 だというのに無代がここまで無能扱いされるのには、当然ながら理由がある。
 まず一つには、彼が生涯をかけて駆け抜けた舞台が、その能力に比べてあまりにも大きすぎた、という事が挙げられるだろう。確かに『割と器用で物覚えが良い』程度の男が『世界の存亡を賭けた戦い』などという舞台に上がって、一体何ができるというのか。仮に何か役割が与えられたとしても、せいぜい名も無き裏方が精一杯だろう。
 そしてもう一つ、彼がその人生で関わった人々が(敵か味方かによらず)誰も彼も、それこそ人類史上に名を残すような超人揃いだった、という事もある。『比較対象』が悪すぎるのだ。
 スポーツに例えるならば、オリンピックのメダリスト級がひしめく競技場のど真ん中に、地方の県大会上位クラスの競技者が、たった一人で放り込まれたようなもの、と考えれば分かりやすいかもしれない。一般人の目から見れば県大会の上位だって十分に凄い事なのだが、それでもオリンピックだのワールドカップだので鎬を削る連中とは、残念ながら次元が違う。努力や才能、環境といったあらゆる越えられない壁が、これでもかと立ちはだかるのだ。
 だからこそ彼は、生涯を通してそれら『越えられない壁』と戦い続け、そしてとうとう最後まで、どれ一つとして越えることはできなかった。
 決して無能ではなく、それなりに役に立つ男だったけれど、それでも無代という男が『どこにでも転がっている二流、三流の冒険者』の域を出ることは、ついになかったのである。
 だが、なぜか人々は『無代』という男を忘れなかった。それどころか、
 『瑞波の無代に代えは無し』
 と、その名を謳い、記憶の中に長く留める事になる。
 一つの壁を越える事もできず、しかしそこに一筋の、確かな道を築き通した一人の男。
 
 その男の名前を。
 
 「……『瑞波』の、『無代』……!?」
 振り向いた戦前種(オリジナル)・翠嶺(すいれい)の目が、驚きに見開かれた。
 シュバルツバルド共和国の山中にある名もなき湖、その湖面を翠嶺の得意技『凍線砲(フリーザー)』で凍らせた、分厚い氷の上。
 あの地上数千メートルの『空の牢獄』から、身体一つで飛び降りた無代とD1(ディーワン)。
 二人の落下を助けた戦前種・翠嶺。
 その三人による奇妙な、しかしあまりにも重要な邂逅が、今まさに幕を開けていた。
 「瑞波・一条家の小者、と言ったな? 本当に『無代』というのか、お前は?」
 翠嶺の言葉がつい詰問口調になるのも無理はなかった。翠嶺が今ここにいるのはまさに、その『瑞波の無代』を探すためだったのだから、その驚きはむしろ当然だろう。
 翠嶺が飛空艇『ヤスイチ号』の中で『霊威伝承種(セイクリッド・レジェンド)』一条香と出会ってから、ほぼ一昼夜が経っている。そして香から『無代』の捜索を請け負い、香やヤスイチ号の船長であるクローバーと別れ、船を降りてからほぼ半日。
 船を降りた(というか窓から強引に飛び降りた)翠嶺は、転送アイテムである蝶の羽を使い、セーブポイントであるフィゲルの町へテレポートした。フィゲルは大陸の東の端、シュバルツバルド領内にある小さな海辺の町で、そこから他の町へ向かうには飛行船を使うしかない、という辺境の地だ。
 さて、ここから『瑞波の無代』がいるというルーンミッドガッツ王国の王都・プロンテラへ向かうには、まず国内線の飛行船に乗ってシュバルツバルドの首都・ジュノーへ向かい、そこから国際線に乗り換えて王国の港町・イズルードに向かう、という経路をたどる。
    イズルードといえば、フールや静、速水厚志らがアルナベルツ法国へ向かう飛行船に乗り込んだ、あの王国直轄の港町である。
 だが翠嶺は、そんなのんびりした事をするつもりはなかった。そもそも飛行船でジュノーへ向かうだけなら、あのままヤスイチ号で送ってもらった方が早いぐらいなのだ。それでは空から飛び降りてまで先行した意味がない。
 フィゲルに降り立った翠嶺はその足で、下町にある冒険者宿へ向かった。この宿は、町の沖に浮かぶ難関ダンジョン『オーディン神殿』の探索に挑む冒険者達の基地であり、かなりの腕利きが集う事でも知られている。そこでプロンテラへのポタメモを持っている僧侶系の術者を探すのが目的だ。
 ポタメモ、つまり転送魔法『ワープポータル』の転送先を保存する技術。これを持つ冒険者の中に、プロンテラに直接転送できる術者がいれば、手間賃を払って転送してもらおうというわけである。
 しかし運悪く、ちょうどいい場所にポタメモを持つ術者がいない。プロンテラ以外でも王国内の都市であれば、カプラ嬢による空間転送を中継することで移動できるのだが、残念ながらその術者も見当たらない。ならばと彼女のホームである、ジュノーのポタ持ちを探すが、それもいない。
 よくよくツキがなかった。
 それでも粘ってみた結果、シュバルツバルド国内のフィールドで、通称『師匠マップ』と呼ばれる場所近くにポタメモを持つ術者を見つけ出した。
 この『師匠MAP』は『スリーパー』というモンスターの生息地で、これを倒した時に入手できるアイテム『グレイトネイチャ』が良い値段で取引されるため、金策目的の冒険者に人気のある狩場だ。金と経験値、その両方を安定して稼げるこのスリーパーを、冒険者たちがおふざけ半分に『師匠』と祭り上げて呼ぶ事から、この場所にこの名がある。
 残念ながら首都・ジュノーからはかなり遠い。が、逆に少し戻れば、シュバルツバルド共和国とルーンミッドガッツ王国との国境・アルデバランの町に着ける。ここからならプロンテラへのカプラ転送もある。
 「そこで結構」
 翠嶺は即断して手間賃を払うと、魔法によって作り出されるワープポータルの転送輪をくぐり、『師匠マップ』近くの荒野に降り立った。ここからアルデバランまでは、近距離をランダムにテレポートするアイテム『ハエの羽』と、あとは自分の足を使って移動するつもりだ。
 ツキの無さを嘆いたり、うだうだ考えるよりもまず行動。
 聖戦時代から長い時を生きている割に、その辺はあまり老成していないというか、はっきり言えば気短かで活動的なこの性格こそが、この鋭くも美しい戦前種の特徴なのだ。
 こうしてアルデバランへの道を急いでいた翠嶺の目に映ったのが、空から落ちて来る無代とD1だったというわけである。
 (……何だあれは?!)
 ここでも考えるより先に、翠嶺の身体の方が動いた。
 ほとんど反射的に、これまた得意技である『熱線砲(ブラスター)』を湖に叩き込み、二人の落下地点に巨大な水蒸気爆発を起こす。立ち上る大量の水と蒸気を使い、落下の衝撃を和らげるのだ。翠嶺自身がヤスイチ号から海へ飛び降りる時に使った、あの手である。
 その結果、無代とD1は湖面に叩き付けられる危機を逃れ、こうして翠嶺と相見える事になったわけだ。
 だが、この偶然というにはあまりに出来すぎた邂逅に驚いたのは、決して翠嶺だけではなかった。
 「手前をご存知でいらっしゃいますので?」
 言われた無代の方も、目を丸くして問い返している。
 この時の無代ときたら、カプラ社でもらったせっかくのタキシードも落下のダメージでボロボロ。しかも頭の先から足の先までずぶ濡れ、という悲惨な有様。それでも礼儀正しく氷の上に両膝をつき、両手を膝で揃えて翠嶺を見上げる姿勢を取り続けているものだから、余計に痛々しい。
 だが一方で、その目には翠嶺に対する微かな警戒の色がある。
 と言ってもこれはやむを得ないことだ。無代とD1、二人の立ち位置は今や『BOT』と『カプラ社乗っ取り』を巡る陰謀のど真ん中にある。目の前のこの女性が何者であったとしても、たとえ助けてもらった恩人であったとしても、自分を知っているからには『敵』である可能性は否定できない。
 その無代の警戒を察知したのだろう、翠嶺が一つの名を告げた。
 「天津・瑞波の『一条香(いちじょうかおり)』姫」
 その名を聞いて、今度は無代がはっとなる番だった。
 「姫君その人に頼まれて、『瑞波の無代』という男を探していた。お前が無代というなら、お前は香姫の……何だ?」
 翠嶺が、むしろ静かに問う。無代がその問いにどう答えるか、翠嶺の鋭い観察眼が光を帯びる。
 問われた無代が即答しなかったため、わずかの間ができた。その間、無代もまた翠嶺と同様に相手をじっと見ていたが、やがてふっ、と表情を緩めると、
 「やんごとなき姫君様におかれましては、まことに恐れ多いことではございますが、実を申しますと手前……」
 何やらもったいぶった前置きの後、左手をゆっくりと翠嶺の方に差し出した。そしてぐっ、と握りこぶしを作ると、その親指だけをぴん、と立て、
 「『コレ』で、ございまして」
 にか、と真っ白な歯を見せて、無代の笑顔が開いた。今までの神妙な態度とは打って変わった、開けっぴろげで曇りの無い表情。
 さすがの翠嶺が一瞬あっけに取られ、そして次の瞬間、
 「ぷっ」
 思わず吹き出していた。
 『想い女』を意味する小指に対し、『想い男』を意味する親指のジェスチャーは、とてもではないが品のある表現ではない。まして一国の姫君を捕まえて『親指小指』とは、礼儀知らずにもほどがある。
 「まことに申し訳ございません。どうにも育ちが悪うございますもので」
 無代が笑顔のまま深々と頭を下げた。が、その声の響きはちっとも悪いと思っていないどころか、何やら『してやったり』という響きまである。ここは翠嶺の方が、
 (一本取られた、というところか)
 笑いこそすぐに引っ込めたが、そう認めざるを得ない。
 「よろしゅうございますでしょうか?」
 そんな翠嶺の内心を見透かしたような、絶妙のタイミングで無代が尋ねてくる。微かに笑いを含んだ言葉は柔らかで、押し付けがましいところは微塵もない。
 「ん」
 翠嶺が微かにあごを引き、肯定を告げた。
 槍を手にした時の『冬翠嶺』の人格は、ご存知の通り『春』に比べると気難しく荒っぽい。それを相手にして、初見でこの反応を引き出したことは無代、なかなかの手柄と言えるだろう。
 「では改めまして、ご尊名をお教えいただけますでしょうか?」
 無代がもう一度、頭を下げる。そういえば、名乗っていなかった。
 「よかろう、言い遅れた。私は翠嶺。ジュノーのセージキャッスルに籍を置く研究者だ」
 「翠嶺、先生?」
 無代の眉がぴょん、と上がる。
 「もしや……瑞波・一条家の奥方様、巴様に魔法をご教授なさった戦前種の……?」
 「ああ、確かに教えた。あの頃は『冬待(ふゆまち)巴』と言ったな」
 無代の質問を先取りして答えた翠嶺に、しかし無代はさらに質問を重ねる。
 「その上、試験で『赤点』を?」
 「あはっ!」
 無代の問いに今度こそ、翠嶺は腹の底から吹き出していた。
 「くっ……あ、あははは!!! あ、あの子ったら、まだあの事を……?!」
 両手の槍の石突きをとん、と氷の上につき、それに体重を預けるようにして、笑いの発作に耐える。頭に冠ったつばの広い、豪華な帽子までが細かく揺れている。
 「はい。『学生時代の苦い思い出』と、翠嶺先生のお名前と共にお伺いいたしました事が」
 「くくっ。そう……よっぽど悔しかったのねぇ……ふふふ」
 翠嶺は何かを思い出すように少し目を閉じると、
 「あの子、巴さんはとにかく優秀過ぎてね。何でも一人でやってしまうものだから、少しは人を頼るように課題を出したのだけど……」
 くすり、ともう一度笑いを漏らすと、
 「意地張ってまた一人でやったから、赤点」
 にやり、と笑う。
 「奥方様も『今思えば、良い経験をさせていただいた』と、笑っておられました」
 無代も笑顔でフォローを入れた。初めて出会う二人の間でこんな会話が交わされていると知れば、あの豪奢な金髪の美妃もさぞ苦笑いすることだろう。
 「そう……今でも手紙はくれるのだけれど、もう長い事会ってない。元気でいる?」
 「はい。最後にお目にかかりましたのは半年ほども前でございますが……お召しのヒールの踵が、ますます高くおなりで」
 「あははは!」
 気づけば話が弾んでしまった。
 無代が、これまた絶妙のタイミングでぺこり、と頭を下げると、氷の上に横たわったままのD1の介抱に戻る。墜落のショックと、湖に落ちた時にしこたま水を飲んだせいで、一度は呼吸が止まっている。無代による蘇生措置と翠嶺が与えた回復剤の効果もあり、命の危険こそ去ったようだが、まだ咳や呼吸困難が続いている。
 「その娘はカプラ嬢、それもディフォルテーの筆頭『D1』だな? それがあんな空の上から落ちて来た事といい、色々と事情がありそうだ」
 「……恐れ入ります」
 型通りの応えを返したまま、だが無代はまた黙った。詳細を明かしたものか考えているのだろう。
 「よかろう。何にせよここでは話もなるまい。地面のある所へ戻るとしよう」
 翠嶺が促す。フリーザーで凍らせた氷の道はさすがの頑丈さだが氷は氷、湖水の上でいつまでも持つというものでもない。
 「ありがとう存じます。お供させて頂きます」
 D1の側で膝をついていた無代がそう言った、次の瞬間だった。
 「よっ、と」
 明るい調子のかけ声と共に、無代の身体がするり、と動いた。とみるや、気づけばD1の身体をその背中に背負ってひょい、と立ち上がっている。そばに置いてあった巨斧『ドゥームスレイヤー』を腰の後ろに回し、その柄を両手で支えておいて、その上にD1を腰掛けさせる格好だ。
 翠嶺がほう、という顔になる。
 D1、女性にしてはかなりの長身だ。しかもパラディンとして十分に鍛えられた強靭な肉体を持っていて、まあはっきり言えば、相当に重い。その上、落下のショックと溺れかけたダメージで、身体に力が入らない状態が続いている。
 実はこういう状態の人間を背中に背負うのは、口で言うほど簡単な作業ではない。背負われる人間が自分でバランスを取れないため、背負う人間にかかる負荷が通常よりも遥かに大きいのだ。だから無理に持ち上げようとすればバランスを崩して潰れたり、落としたりという事故もありうる。翠嶺も無代に手を貸してやらねば、と思っていたほどなのだ。
 だが無代は、その両手を使って実に要領よくふわり、とD1の身体を氷の上から浮かせると、その下に自分の身体を滑り込ませるようにして背中に乗せ、あっさりと背負ってしまった。何か超人的なパワーを持っているというわけでもなく、といってD1の身体に無理な力をかけたという様子もない。
 翠嶺が手を貸すまでもないのはもちろん、背負われたD1自身さえ何がおこったのか分からず、きょとんとしている。
 まあ、人を一人背中に背負っただけ、といえばそれだけの事で、特段に驚異的だの神業だのという話ではないのだろう。が、しかし『上手いもの』であることは確かだった。
 翠嶺が先になり、湖の岸へ向けて氷の道を戻る。徒歩、しかも少し融けかかった氷の上ときては、とても歩きやすいとは言えない。が、翠嶺はもちろん、D1を背負った無代も足取りを乱さない。腰を少しかがめ、いわゆる『がに股』気味に足を運ぶその姿は、決して見栄え良くはないものの、背負ったD1に余計な負担をかけない丁寧で安定した歩き方だ。それは翠嶺の目から見ても、
 (この男、慣れている)
 と、見て取れる。
 やがて氷の道が岸辺に着くと無代、
 「翠嶺先生、少々お先を失礼致します」
 丁寧にそう断っておいて、D1を背負ったままひょい、と翠嶺を追い越すと、先に立って歩きだした。休める場所を探すつもりらしい、岸辺の岩や林の様子をきょろきょろと見回しながら歩く。
 やがて、
 「ここがよろしゅうございましょう」
 無代が翠嶺を誘ったのは、人の背丈ほどもある岩と、広々と枝葉を張った巨木の間に囲まれた、ほんの四畳半ほどの空き地だった。下はほどよく乾いた小石と砂で、やや強い日差しは木の葉が和らげてくれる。
 腰掛けにちょうど良さそうな岩も転がっていて、なるほど居心地は悪くなさそうだ。
 「薪を集めるがいい、無代。火を焚こう」
 「いえ、少々お待ちくださいませ、先生」
 ずぶ濡れのままの無代とD1を気遣い、翠嶺が魔法の炎を召還しようとするのを、無代が制した。
 「恐れながら、焚き火は煙が出ます。どこから見られるか知れません」
 「ふむ……剣呑な状況なのだな?」
 「左様にございます」
 翠嶺も少し、表情を引き締める。無代とD1、2人が何者かに追われているのならば、外からは目につきにくいこの場所を休憩場所に選ぶのも理解できた。
 「よろしければ、ここはお任せいただけますれば」
中の人 | 第十二話「The Flying Stones」 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十二話「The Flying Stones」(2)
  D1の身体を地面へ降ろした無代が、翠嶺に向かってまた頭を下げた。
 この無代という青年、こうしていちいち頭が低くて丁寧なのだが、不思議な事に決して卑屈な印象は与えない。翠嶺の大嫌いな人種、ぺこぺこと頭ばかり下げ、敬うというより媚びる言葉を使う連中とは明らかに違っていた。
 (かなりの人物に仕えた経験がある……だが盲目的に仕えていたわけではないな)
 翠嶺はそう見る。
 確かに無代、形だけでない礼儀と丁寧さを身につけてはいるが、同時に明確な自分の意志もまた持ち続けている。動作や行動の一つ一つに、揺るぎない自我が感じられるのだ。彼が仕えていたのが何者であれ、その主人に対して無自覚に隷属していただけなら、このような人格が身に付くはずがなかった。
 命令される立場であっても、最後に彼の行動を決めるのは『彼自身』。そして行動の責任を取るのも『彼自身』。
 自分で自分をそう律し、貫いて来たとでも言うのか。
 ともあれ、長い寿命の中で多くの人間を見て来た翠嶺にとっても、ほとんど見た事の無いタイプの人間であることは確かだった。
 だが考えてみれば、それも当然かもしれない。
 (あの姫君の想い人が、そもそも凡庸な者であるはずもない)
 翠嶺の脳裏に、底知れぬ深さをたたえた闇色の瞳が蘇る。
 一条香。
 太古から伝えられた鬼道の血を受け継ぐ『霊威伝承種』。見えざる者と語り、また人の心を読み、その運命を見通す彼女には、そもそもどんな嘘もお追従も通じないだろう。まして薄っぺらい外ヅラを繕っただけの人間など、いくら言い寄ったところで最初から歯牙にもかけまい。
 (……面白い)
 この世の知と智の粋を集めたと言わしめる希有の戦前種が、ついさっき出会ったばかりの青年に、明らかに興味をひかれていた。
 「よかろう。任せろというなら、やってみるがよかろう」
 「先生のご助力をお願いしましても?」
 「必要なら言うがいい」
 許可を出した。
 異能の姫君の思い人、その本性を見てやろう、という好奇心もある。とはいえさすがの翠嶺も、まさか香の方から無代に言い寄ったとは、この時は想像もしなかったものだが。
 「ありがとう存じます、翠嶺先生」
 翠嶺の返事に、無代が真っ白な歯を見せた。この戦前種から一定の信頼を得た事を敏感に感じたらしく、見るからに嬉しそうだ。
 「では早速で申し訳ございませんが、先生の外套をお貸し頂けせんでしょうか?」
 旅のマントを貸せ、それぐらいはお安い御用である。
    後日新品にして返す、という無代の言葉も一笑に付し、翠嶺が肩からマントを外す。その下は緑と青色を基調とした独特の教授服。見事な曲線で形作られたむき出しの肩が露になるが、陽射しは柔らかく風も無いので寒くはない。
 「返却無用。好きに使うがいい」
 そう言ってぽい、と放られたマントを、無代は両手と胸に抱き込むようにして受け取ると、ひとつ押し頂いておいてひらり、と広げ、
    「よっ、と 」
    また軽妙な掛け声ひとつ、地面に降ろしたD1の身体がくるり、と包まれる。これまたどこをどうやったのか、横たわるD1の身体をほとんど一息で包み込んでしまう。
 「ありがとう。大丈夫だから……」
 弱々しいながらも気丈に礼を言うD1に、無代は笑いながら首を振ると、その耳元で何やらささやいた。D1がそれに素直にうなずくのを確認し、その肩を力づけるようにぽんぽん、と軽く叩いて立ち上がる。
 「さて先生。お食事をご用意致したいと存じますが、あいにく食材を切らしておりまして。よろしければもう少々、ご助力を頂けますでしょうか」
 「いいとも?」
 うなずいた翠嶺に、こちらへと無代が誘い出したのは、湖の岸辺だった。
 先ほど翠嶺が作った氷の橋はもうあらかた融けていて、湖面は静かに薙いでいる。シュバルツバルド山脈の蒼い山々を映した湖水は澄み、岸辺の辺りは水底の岩が透けて見えるほどだが、少し岸を離れると急に深くなっているらしく、そこから先の水は暗い。
 無代はその湖面の、浅くなっている一角を指差し、
 「レベルの低いもので結構ですので、雷のボルトを一つ、落として頂けますれば。あの芦の茂った辺りがよろしゅうございましょう」
 「ふむ、『電気漁』か」
 翠嶺が指摘する。
 『電気漁』とはその名の通り、水中に向かって『ライトニングボルト』などの電撃系の魔法を撃ち込み、、感電して麻痺したり死んだ魚介類を獲る漁法だ。これは非常に効率が良い反面、下手をすると漁場そのものを根こそぎに破壊しかねないため、多くの漁業ギルドが禁止している違反漁法でもある。
 とはいえ、この湖はシュバルツバルドでもかなりの僻地であり、たまに釣り人ぐらいはいるものの、違反を咎める漁民や、まして漁業ギルドなどあるはずもない。何より、根こそぎだの破壊するだの言うほど魚が棲んでいるわけもなかった。 
 翠嶺が指と唇を微かに動かすと同時に、無代が指差した辺りの水中を泳ぐ小さな影を、鮮やかな魔法陣が取り囲む。
 雷撃魔法『ライトニングボルト』。
 ばちぃっ!!
 澄み切った湖水が一瞬、青白い閃光に包まれた。岩だらけの水底に幾匹かの魚影が、まるで日光写真のように映し出される。
 待つこと数秒、その魚影がぷかり、またぷかり、と水面に浮かんで動かなくなった。低レベルとはいえそこは翠嶺、電撃の効果は確かだ。
 「さすがは翠嶺先生、お見事にございます。……では失礼致しまして」
 無代が翠嶺に断りを入れ、ボロボロになったタキシードの上着、その下のシャツまで脱ぎ捨てて半裸となる。ついでにズボンも膝から下を引きちぎり、靴も脱いで素足。さらに何のつもりか、近くに生えていた葦を数本引き抜くと、その長い茎を口にくわえる。
 「ほっ……と」
 そのままじゃぶ、と水中に身を投じ、そのまますいすいと泳ぎ始めた。
 (……泳ぎも達者か)
 翠嶺が見守る中、無代はあっという間に魚の浮かぶ水域にたどり着くと、危なげない立ち泳ぎで魚どもを捕らえては、先ほどの葦の茎に次々に数珠つなぎに刺していく。なるほど、このための葦だったらしい。慣れているのか何なのか、無代が一通り魚を集めて岸に戻ってくるまで、ものの数分とかからなかった。
 「おかげさまで大漁にございます。先生」
 笑顔の無代が掲げて見せた葦にはずらり、7〜8匹の魚がぶら下がっている。体長は大人の手のひらより少し大きい程度で、種類としては鱒の一種だろうか。こんな痩せた岩山の湖にしては悪くない漁獲なのは、翠嶺の電撃の威力もさることながら、無代の選んだ漁場も良かったものと見える。
 脱いだタキシードを絞ってざっと身体を拭いた無代が、靴を履いて歩き出す。着ている物は膝から下を引きちぎった半ズボンだけ、という何とも珍妙な格好だが、後ろからついていく翠嶺はしかし、服装よりも別な物に目を奪われていた。
 「お前……どうしたのだその身体は?」
 千年を生きたこの戦前種さえ、思わずそう訊いてしまう。無代の身体を見た者が等しく抱く感想を、彼女もまた感じたのだ。
 よく鍛えられ引き締まった無代の身体、そこはまさに傷跡だらけだった。
 両手と両足、それに首には『一度千切れたのをつないだ』かのような傷跡。その他にも切り傷、刺し傷、噛み傷に火傷。一番新しいのは『もげた腕を治癒魔法でつないだ跡』だ。これはついさいっき、空から落ちた時の物である。
 「お見苦しい物をお見せ致しまして、まことに申し訳ございません……いえ『どうした』と申されましても皆、手前のつまらない不始末でございまして。先生にお聞かせするほどのことでは」
 無代は苦笑いで答える。だが『つまらない不始末』でこれだけの傷をこしらえるなら、逆にどうして今ピンピンして生きていられるのか、そっちを訊きたいところだ。しかも一緒に空から落ちて来たD1よりも、無代の方が肉体的なダメージはむしろ大きいはずなのだが、こうして平気な顔で歩いたり泳いだり。
 この無代という男、筋力や反射・運動神経といった肉体の性能はともかくとして、とにかく丈夫にできている事だけは確かなようだ。
 しかも、実に良く働く。
 岸辺から空き地へと戻る最中にも、その辺の草むらで赤い草、黄色い草を見つけてはその葉をちぎり、実を採ってはポケットに入れていく。それらは皆、薬草の原料となるハーブなのだ。さらには、
 「少々失礼を」
 と、手近な薮の中にごそごそ這入って行ったと思うと、ほどなく出て来て、
 「また大漁でございますよ、先生」
 と、大人の握りこぶしほどもある『蜂の巣』を掲げて見せたものだ。本当か嘘か、飛んでいる蜂の動きから巣の場所を割り出したという。そんなものだから元の空き地へ戻る頃には、獲った魚に加えて山芋だのキノコだの、その両手に結構な量の食材をぶら下げている。
 (……なんとまあ)
 さすがの翠嶺もこれには感心半分、呆れ半分といったところだ。
 空き地に戻ると、D1が座ったまま迎えてくれた。翠嶺から借りたマントをしっかりと巻き付けた身体の側に、脱いだ服が濡れたまま畳んである。どうやら先刻、無代がD1に指示したのはこの事らしい。しかしこの様子だとD1、そのマントの下はほとんど全裸に近いはずで、さすがに心細そうに肩をすくめている。
 「ちょっとの辛抱だからな、D1。なに、天気が良いから、すぐ乾くさ」
 無代が明るく声をかけると、濡れたD1の服を丁寧に絞り、周囲の木の枝やら岩肌やらに干していく。
 D1といえどもそこは女性、異性である無代に見られたり、まして触れられたくない物もあるだろうが、今はそう言ってもいられない。無代もそれを気遣ってか、ことさらにテキパキと作業を進める。
    余談だが、干されたD1の服を見るに、ボロボロになった無代のそれより遥かにダメージが少ない。どうやら落下の際に無代が守った成果らしかった。
 一通り干し終わると、次は料理。だが、その前に無代がしたことに翠嶺は注目する。
 獲って来た食材を大きめの岩の上にすべて並べると、その前に両膝をついて二礼。
 ぽん、ぽん。
 柏手の音が二度響き、もう一度、礼。
 翠嶺がほとんど無意識に、その脳裏に蓄えられた知識を動員して分析する。
 (アマツの『山人(ヤマビト)』の祭礼だな)
 アマツの山中には、山の木を伐り獣を狩り、鉱石を掘って暮らす『山の人々』が存在する。いわゆる『里人(サトビト)』と違って定住をせず、一生を漂泊のうちに過ごす彼らは、これら自然の恵みを『御山の御宝』と呼び、それに対する感謝と祭礼を忘れない。どうやら無代、そういう場所で暮らした経験もあるようだ。
 調理が始まった。
 はらわたを出した魚の腹に、草むらで摘んで来た赤い草の葉、通称『赤ハーブ』を詰め、次いで魚全体を黄色い草の葉、『黄ハーブ』でくるくると包む。ついでに、採って来た芋や野菜も同じようにハーブ包みにする。
 次に地面の砂に穴を掘り、そこに大きめの石を組んで『石釜』をこしらえる。石釜、つまり石でできた『オーブン』が形になると、無代は顔を上げ、
 「先生、ファイアーウォールをお願い致します」
 「うむ」
 轟!!
 翠嶺の返事と、無代の目の前に魔法の猛火が立ち上がるのが同時だった。
 人の背丈を越える高さまで真っすぐ立ち上る魔法の炎は、襲い来る敵の侵入を防ぎつつ同時に焼き尽す、まさに攻防一体の効果を発揮する。魔法を使う者にとって基本中の基本であり、また生涯に渡って愛用する事になる馴染みの術である。
 だが今回ばかりはその目的、モンスター狩りでも戦闘でもない。
 「これでいいか? 無代」
 「ありがとう存じます……っとぉ! さすが先生、大変結構でございます」
 魔法の火に炙られ、猛烈な熱を持った石釜の中に手を突っ込んだ無代が、即座にその手を避難させる。調理には十分すぎるほどの熱量が与えられたらしい。炎が収まった後も、石釜どころかその周囲の小石や砂までがチリチリと音を立てている。内部にしみ込んだ水分が蒸発する力で、石が内側から割れる時の破砕音だ。この高熱、無代でなくともさすが翠嶺、というべきだろう。
 火傷しないように気をつけながら、石釜の中に総ての食材を入れ、その上から大きめの石で蓋をすれば、あとは待つだけ。……なのだが無代という男、その間も忙しい。
 巨斧ドゥームスレイヤーで近くの若木を伐り倒し、その木を割ったり削ったりして即席の皿や箸、お椀のようなものまで人数分を自作する。斧の刃先だけを木の切り株に打ち込んで固定し、手に持った木片の方をごりごりと刃に当てながら様々に加工していくのだが、その手つきがまた実に手慣れていて、いっぱしの木地職人と言われたらうっかり信じそうだ。
 「若木ですし根を残しておりますから、また芽吹くことでございましょう」
 大地に顔を出したままの切り株に、またぽんぽん、と手を合わせる。
 翠嶺の魔法で焼けた石の中から、ちょうど拳ほどのものを選ぶと、元はタキシードだったボロ布で厚く包んでD1に渡してやることも忘れない。これをマントの下に抱き込めば、身体を暖める即席の温石になる。
 「行き届いたことだな」
 翠嶺が茶化すと無代、また恐れ入りますと笑う。
 ほどなく、石釜の中から良い匂いが立ち上って来た。無代やD1はもちろん、そういえば翠嶺もかなりの時間、まともなものは食べていない。
 無代が何度か石釜の上で匂いを確認した後、とうとう最後にえいやっ、とばかりに石の蓋を開けると、魚の肉と油がはぜるじゅう、という音と、実に上手そうな匂いがいっぺんに湧き上った。
 「よい具合にできましてございます」
 今日一番の笑顔を見せた無代が、手作りの木の器に手際よく魚や野菜を盛る。最後に、さっき採ってきた黄ハーブの実を清潔な布に包み、器の上でぎゅっ、と絞って仕上げとなる。少量だが、にじみ出した黄ハーブの油が魚の身に降り掛かり、また微かな音を立てた。
 「さ、とんだお口汚しではございますが、精一杯にございます。どうぞお召し上がり下さいませ」
 「いただこう」
 無代が両手で差し出す木の皿を受け取ると、奇麗に火の通った魚の匂いに加え、黄ハーブ油の少しクセのある香りが、翠嶺の形の良い鼻腔をくすぐる。
 これまた無代手作りの箸で身をほぐし、一口、口に入れてみる。
 「ほう……美味い」
 思わず声が出た。
 魚は旬にはほど遠く、身も脂が乗っているとは言いがたいが、澄んだ湖水で苔などを食べて育つせいだろう、淡水魚にしては泥臭さがまったくない。それを石釜の遠赤外線でじっくりと、しかも包み焼きにしているから、柔らかさは折り紙付きだ。味はというと、オリーブ油に似た風味を持つ黄色ハーブ油と、唐辛子のような赤ハーブの刺激が加わって、まさに野趣溢れる、という表現がぴったり。
 「身に余るお言葉に存じます」
 無代が深々と頭を下げた。その顔が本当に嬉しそうなのが可笑しい。
 「白ワインが欲しいところだな。辛口の、よく冷えたのを」
 「天津の酒も負けておりません。『銀月(しろつき)』という辛口の酒がございまして、これが良く合うかと」
 「ほう、では一つもらおうか」
 「まことに申し訳もございません。あいにく今、切らしておりまして」
 冗談も笑いも、すっかり打ち解けたものになった。美味いものは万能、という言葉に嘘はないらしい。
 ところで、無代の皿に盛られた魚の数が少し少ない。それをを翠嶺が指摘すると、
 「手前は別のものを頂きますので、どうぞご心配なく。いえ、ご婦人には嫌われる方もおられますから」
 言いながら、魚の包みとは別の黄ハーブ包みを手にする。
 「ははあ……」
 察した翠嶺がうなずいた。おそらくその中身は『蜂の子』、つまりさっきの蜂の巣の中にいた蜂の幼虫だろう。古来、野山で生きる人々にとって蜂の子はご馳走の一つだが、まあ虫は虫である。翠嶺やD1の前でそれをガツガツ食べるのは憚られる、ということらしい。
 食事の最後には茶まで出た。
 石釜の高熱で焦がした赤ハーブの実を熱湯で煮出し、そこに蜂の巣から絞った蜂蜜を垂らしたものだ。香ばしくてほんのりと甘い、例えるなら酸味のある麦茶といった味わいで、これもなかなかに野趣がある。
 暖かい食事と飲み物、それも治癒効果のあるハーブをふんだんに使った献立のおかげだろう、座り込んだままだったD1の目にも、生命の光が強くなる。
 マントに包まったの身体だが、それでも精一杯背筋を伸ばして姿勢をただすと、改めて翠嶺に礼を言った。
 「ご助力に感謝します、『放浪の賢者(グラン・ローヴァ)』様。このような有様で申し訳ありません」
 「気にする事はない、D1。また礼にも及ばん」
 D1が口にした『放浪の賢者』とは、賢者の塔における翠嶺の称号のようなものだ。それは遥か昔、塔の設立に大きな役割を果たしたこの戦前種のみが、その命尽きるまで有することを許された唯一にして最高の称号である。
 「ひと心地ついたなら、いよいよ事情を聞かせてもらう所だが……その前に、無代よ」
 「はい、先生?」
 「これを」
 翠嶺が、持っていた二振りの槍をひょい、と無代に差し出した。
 「お預かり致します」
 翠嶺の行動は出し抜けのものだったが、無代は慌てることもなく、両手で捧げ持つように槍を受け取る。
 「これも」
 ふわっ、と自慢の帽子も差し出す。無代は受け取った二槍を片手にまとめてくるり、と背中に回しておいて、残った片手で帽子を受け取った。
 翠嶺が槍を預けたということは、無代を信用した、という証である。
 そして同時に、槍を手から離した翠嶺の雰囲気が、冬から春に交代した。 
 「では、お話を伺いましょうか?」
 打って変わった優しい声で、翠嶺は無代に微笑んだ。これにはさすがの無代とD1も一瞬あっけに取られたが、
 「ごめんなさいね。槍を持つとつい気が張ってしまって」
 そう言って微笑まれては、いつまでも変な顔をするわけにもいかない。
 「D1、説明はあんたに任せるよ」
 無代がそう言うや、預かった槍と帽子を持って座を退き、てきぱきと食事の後片付けを始めた。
 「え……?」
 そんな無代にD1、最初は少し不安そうな表情だったが、すぐに唇をぎゅっと引き結ぶ。
 考えてみれば、いくらこの事件に深く関わっているとはいえ、無代は本来、カプラ社とは無関係な人間だ。今、カプラ社とカプラ嬢について最も責任を負っているのは、デフォルテーのNo1たる自分なのである。
 無代があえて自分に説明役を譲ったのは、むしろ彼なりの激励だ。心身ともに弱ったD1に対して誠実に接してはくれるけれど、決して甘やかしてはくれない。
 ここは自分が腹をくくる場面だ。
 「……賢者様。これから申し上げる事は、カプラ社のみならずシュバルツバルドの、いえ世界の命運さえ変えかねない大事件です。どうかお力をお貸し下さいますよう」
 そう前置きして、D1は語り始めた。 
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第十二話「The Flying Stones」(3)
  D1が話を始めてから翠嶺の顔色が変わるまで、さほどの時間はかからなかった。が、しかしそれも当然だろう。
 総ての始まりとなった『カプラ嬢殺害事件』。
 そこから発覚した『カプラ社とカプラシステムの乗っ取り事件』。
 正直、それだけでも国家レベルと言ってよい大事件だ。しかもそれに、翠嶺自身がずっと追って来た『BOT事件』が直接絡んでいる。
 「嘘……でしょう?」
 『賢者』の代名詞でもあるこの戦前種さえ、思わずそうつぶやいたほどだ。考え事をする時の翠嶺の癖、教授服の振り袖を腕にくるくると巻き付けるあの癖が、端で見ていると可笑しいほど繰り返されている。
 「じゃあ最初に殺されたカプラ嬢は『BOT』だったというわけ?」
 「はい」
 翠嶺の質問に答えるD1の声は、これでもかと固い。
 「となると、首謀者はカプラ社のアイダ専務。BOTを使い、内部からカプラシステムの魔術式(プログラム)をハッキングすることで、その乗っ取りを企んだ、と」
 くるくる、と翠嶺が袖を巻く。
 「……いいえ、賢者様。申し上げにくい事ですが、アイダ専務の後ろには恐らく、社長を含めた役員会がいるものと」
 D1の両拳が、白くなるほど握りしめられる。
 「なんてこと……」
 巻いた袖をほどいて、またくるくる。
 「会社ぐるみ、というわけ? しかもその挙げ句、邪魔になったカプラ嬢の全員を浮遊岩塊に拉致幽閉……。じゃあ今、世界中で立っているカプラ嬢は?」  くるくる。
 「はい。全員『BOT』にすり替えられているはずです。その上、カプラシステムの制御も奪われています」
 「まずいわね、それは。とてもまずい」
 くるくる。
 「あの鉄壁の『カプラシステム』に、まさかそんな穴があったなんて」
 翠嶺が天を仰ぎ、ふーっと息を吐く。さらりと揺れるエメラルドグリーンの髪、それに縁取られた細く、真っ白な喉が美しい。
 「カプラシステムの構築には、実は私も関わったのよ。遠い遠い、昔の話」
 D1と無代の方に顔を戻し、今度は翠嶺が語り始めた。
 「まあ『関わった』と言っても、ほんの少しお手伝いをしただけだけれどね。根幹となる魔術式(プログラム)は『私の先生達』が構築なさった。本当に凄い人達だったわ」
 聖戦時代、異世界から襲来した『空間を操る魔物』。苦労の末に捕獲したその魔物に知性を与え、まったく新しい魔法生命体を生み出す。
 彼らはそれに『カプラ』の名前を与えた。
 そして彼の力を使い、空間転送と倉庫のサービスを行うという『使命』もまた、同時に与えたのだ。
 未曾有の災害を真逆の公益に変えてしまう、大胆にして超高度なプロジェクト。それこそが世界に冠たる『カプラサービス』そのものなのだ。
 「カプラプロジェクトでは特にセキュリティ、外部からの悪意ある干渉に対する守りに最大の労力が払われた。『外』からカプラシステムに干渉する事は、今の私でさえ不可能でしょう」
 この世の魔法を極め尽くしたとさえ言われる女賢者が、その滑らかな肩をすくめる。
 「でも賢者様、その防御も破られてしまいました」
 悔しさを押し殺したD1の声は、まるで消え入るようだ。本当はそんな言葉を口にしたくないのだろうが、あえて言葉にすることで自分に鞭を当てている、そんな風にも取れる。
 「貴女のせいではないわ、D1」
 それを敏感に察したのだろう、翠嶺がことさらに優しい声を出した。
 「『BOT』化したカプラ嬢にハッキングプログラムを仕込み、『中』からシステムを崩すなんてね。さすがの先生達も、そこまでは想定していなかった。そして私自身も」
 翠嶺がくるくる、と袖をほどく。
 「私が『BOT』の事件に関わって最初にしたことは、我が賢者の塔に『BOT』が入り込んでいないか調べることだった」
 翠嶺の言うには『BOT』を見分ける簡単な魔術式が開発されており、魔術系か僧侶系の術者であれば比較的短時間で、しかも相手に気づかれずにその存在をあぶり出せるのだという。
 「で、調べた結果、塔の末端の一部に彼らが入り込んでいるのを発見し、排除しています。実はシュバルツバルド政府内でも、複数発見している」
 「……そんな場所にも?!」
 D1が激しく動揺する。
 「そう。だからカプラ社にも、私の名前で警告は出したのよ。でも返事は無かった。その時点で、もう少し気を配るべきだったわ」
 翠嶺がまたくるくる、と袖を巻く。
 元々カプラ社という会社は高い独立性を認められており、社内には独立した公安調査機関まで持っていて、賢者の塔やシュバルツバルド政府といえどもやすやすと干渉はできない仕組みだ。だが今回はそれが逆に、内部の腐敗の露見を遅らせる結果となってしまった。
 「カプラ公安部は優秀で知られているし、シュバルツバルド政府とも密接な関係があったはず。それが全く機能しなかったということは……根っこは相当に深そうね」
 翠嶺がため息をつく。
 「公安部そのものが裏切っている可能性もあります」
 D1がぼそり、と呟く。
 『カプラ公安部』はカプラ嬢のドロップアウト組、はっきり言えば『落ちこぼれ組』で構成されている。まあ一口に『ドロップアウト』と言っても必ずしも実力不足というわけではなく、そこには様々な理由がある。だがそれでもD1のような、陽の当たる場所だけを歩いて来たパリパリのエリートから見れば、どこか暗く胡散臭い存在であることは確かだった。
 実はD1、カプラ社内にそんな怪しげな機関があることに対し、日頃から会社に不満を訴えていたぐらいなのだ。
 「でも結局は私が、カプラ嬢の中に『BOT』が潜んでいる事に、早く気づいてさえいれば済んだことです!」
 D1が唇を噛む。その形の良い、しかし意思の強そうな唇にぷっつりと血が、そして同時に言い尽くせない無念が滲んだ。カプラ嬢の頂点であるD1、『ディフォルテーNo1』を受け継ぐ者として、カプラ嬢の中に悪意ある者の侵入を許した事が、一体どれほどの痛恨事だったか。
 「これまで築き上げたカプラの信用を、こんな無様な形で壊してしまうなんて……お客様方にも、かつて『D1』を名乗った先輩方にも、何一つ申し訳が立ちません!」
 ほとんど叫ぶようなD1の言葉に、しかし翠嶺は怒るでもなく、しかし突き放すようでもなく、
 「貴女がそう思うなら、そう思っていればいいわ」
 D1を真っすぐに見ながら、言葉を続ける。
 「でもD1? 貴女が今しなければならない事は、そうやって自分を責める事かしら?」
 ことん。
 そんな音が聞こえた気がした。それは翠嶺の言葉が、D1の心の中にそのまま、真っすぐに届いた音だ。『腑に落ちる』という言葉があるが、まさにこれを言うのだろう。
 「はい、賢者様」
 マントに包まれたD1の身体からゆっくりと、強ばりが取れていくのがわかる。
 「反省や悔悟は決して無駄ではないけれど、過ぎた事ばかりに足を取られていては、前には進めない」
 翠嶺がくるり、と最後の袖をほどく。
 「ね?」
 「はい、先生。……ありがとうございます」
 D1が静かに頭を下げた。心の中で何かがほどけたのだろう、その目は赤く、透明な涙がゆらゆらと滲む。
 「先生のおっしゃる通りだよ、D1」
 それまで一切の口を挟まず、黙ったままだった無代が、またことさらに明るい声を出した。
 「よっ、と。さあ、出来たぜD1」
 無代が立ち上がり、ふわり、とD1の前に広げてみせたのは、彼女がさっきまで着ていた服だった。空の牢獄に残ったG1、『グラリスNo1』に預けたカプラの制服の代わりに、仲間のカプラ嬢達から借りたシルクローブ。空中からの落下であちこち傷み、とどめに湖への落水でびしょ濡れになったものだ。
 だが今は奇麗に乾き、破けた布も繕われている。
 「新品同様とはいかないけど、恥ずかしくない程度にはなったと思うぜ」
 そう言って笑う無代、どうやらD1が翠嶺に事情を説明する間、ずっとこの服を繕っていたらしい。しかも言うだけの事はあり、かなり大きな破れ目もほとんど分からないレベルに復元されている。
 その服をほい、とD1に手渡しておいて無代、
 「ゴミを処分して参ります」
 と翠嶺に断ると、先刻の食事で使った即席の食器や残飯をひとまとめに持って、さっさと姿を消してしまった。
 「着替えるといいわ、D1」
 なんだかあっけにとられているD1を、翠嶺が苦笑しながら促す。ちょいちょい、と指差したその指の先には、無代がさっきまで座っていた岩。その上に奇麗に畳まれたD1の下着が、そっと置かれていた。
 しばらくして無代が戻って来ると、既に服を着終わったD1の深紅の髪を、翠嶺が自分の櫛で梳かしている最中だった。D1はしきりに遠慮するが、
 「はい黙って。じっとしていなさいね」
 聞く翠嶺でもない。
 それにしても翠嶺のエメラルドグリーンの髪と、D1のルビーレッドの髪。何とも好一対の、いずれ劣らぬ美女が湖畔の木陰でそうしていると、まるで太古の女神を描いた一幅の絵のようだ。
 「まこと眼福の至り。無代、寿命が延びましてございます」
 笑う無代の冗談も、意外と冗談ではないかもしれない。
 最後に翠嶺から無代へ、想い人である香の消息が告げられた。彼女は無代を追って瑞波の国を出た後、ルーンミッドガッツ王国に向かう船の中で拉致され、一度は『BOT』にされかかりながら辛くも脱出。翠嶺やクローバーら『飛空艇・ヤスイチ号』の面々によって救われているのだ。
 「それは……何とも先生にはご恩ばかりで……」
 如才なさでは人後に落ちない無代も、この話にはさすがにうまい反応ができなかった。。自分も人の事は言えないが、香のそれもたいがい波瀾万丈、間一髪にもほどがある。
 「いえいえ、礼には及ばないわ。あの子はまあ、8割方は自分で助かったようなものです」
 翠嶺が可笑しそうに笑う。
 「ほんと、身体から魂を抜かれて『BOT』にされるところを、自分で戻って脱出するなんて、この世であの子しかできないでしょうね」
 賞賛を惜しまない言葉ではあるものの、その異能の姫君を何気に『あの子』呼ばわりしているところが翠嶺らしい。
 「でもあの子のお陰で別な希望も生まれた。彼女なら『BOT』にされた人間を元に戻せるそうよ」
 「!?」
 D1の、そして無代の顔が紅潮した。
 「先生?! それはまことの事ですか!」
 「ええ。あの子が自分でそう言ったわ、『戻せる』と」
 翠嶺が力づけるようにうなずくと、D1も無代も、明らかにほっとしたようだ。『BOT』化されてしまったD4・モーラを始め、悲劇の被害者達を救うことができるという情報は、2人にとってまさに天恵である。
 「香が……」
 小さくそうつぶやいた無代の表情が一瞬、ふっと揺らぐのをD1は見た。それはここまで飄々と明るく振る舞ってきた無代に似つかわしくない、ひょっとして泣き出すのでは、と疑わせるような、気の抜けた弱々しい表情。
 すぐに元の表情に戻ったので、翠嶺さえそれに気づいていない。それにD1が気づけたのは、以前に一度その表情を見たことがあったからだ。
 あの浮遊岩塊の上から飛び下りる直前、皆に隠れて嘔吐していた時の、あの表情。
 彼だって本当は不安で恐ろしい、でもそれを押し隠して、精一杯元気に振る舞っているのだ。
 翠嶺の話を聞き、先の見えない不安に光が射したことで、それが少し緩んでしまったのだろう。
 「ただ、肉体から引きはがされた魂は、本来なら数時間で消えてしまう」
 「?!」
 D1と無代に再び緊張が走る。  
 「でもそれには例外があることも、あの子が証明してくれた。絶望するのはまだ早いわ」
 母のゴスペルに包まれた双子、『エンジュ』と『ヒイラギ』の魂は、今も消えずに翠嶺の傍らにある。
 翠嶺が決然と口を開く。
 「まずは『カプラシステム』をアイダ専務一派から取り戻す。そのためにはニブルヘイムのN0(エヌゼロ)が持つ、カプラのオリジナルプログラムが必要、ということね」
 翠嶺が教授服の方袖をまたくるん、と腕に巻き付ける。
 「賢者様、そのN0というカプラ嬢の事は、『D1』である私もよく知らないのですが……」
 「実は私もなのよ、D1」
 D1の問いに、翠嶺も困ったように眉を寄せる。
 「カプラシステムの構築に関わった、とは言っても、正直な所あまり詳しい事は知らないの。ニブルに特殊なカプラ嬢がいる、という事はもちろん知っているけれど、その彼女がそんな重要な鍵を握っているなんて知らなかった」
 「『原初にして永遠のカプラ嬢』。彼女の事を、相談役は最後にそうおっしゃっていました」
 「その意味も含めて、調べてみる必要があるわね」
 くるん、と、もう方袖も腕に巻き付ける。
 「『カプラシステム』を構築したのは賢者の塔の先輩達だけれど、後に交わされたカプラ社との間の協定で、それを研究する事は禁じられているの。当時の資料も総て廃棄された。すべてはカプラ社の独立性を保つために、ね」
 確かに、人間や物資の輸送に絶大な力を持つカプラ社が、どこか特定の国家や団体に肩入れすれば、世界のパワーバランスを大きく崩すことになる。
 カプラ社が高い独立性を認められているのも、その中立を貫くためなのだ。
 「だから、あの会社がバランスを欠いている今の状況は、正しく『世界崩壊の危機』だわ。一刻も早く何とかしなければ」
 「重ねてご助力をお願いします、賢者様。それに……」
 「ええ。捕われているカプラ嬢達の救出もね。大丈夫、忘れてはいないわD1。それに関してはちゃんとアテもあります」
 力強く頷く翠嶺の脳裏に、飛空艇『ヤスイチ号』の純白の機体と、それを指揮するクローバーの逞しい顔が浮かぶ。あの無敵の戦前機械(オリジナルマシン)と連絡が取れさえすれば、たとえ地上数千メートルの浮遊岩塊だろうが、カプラ嬢達を救い出すことなど、自分の庭で花を摘むようなものだ。
 ただ、そのヤスイチ号が今どういう状況にあるのか、さすがの翠嶺もこの時は知らない。
 クローバーとヤスイチ号は翠嶺と別れた直後、所属するレジスタンス組織のトップ『プロイス・キーン』の裏切りに遭い、一度は囚われの身となった。だが部下であるヴィフとハナコ、そして香の身体を借りた何者かの助けにより脱出に成功、現在は助けを求めにアマツ・瑞波へ向かう最中だ。
 同時に、今や秘密組織ウロボロスの一角『ウロボロス6』となったプロイス・キーンの手には、ヤスイチ号の同型艦である『セロ』があり、その力によってルーンミッドガッツ王国最強の守護者たるマグダレーナ・フォン・ラウムすら倒されている。
 いかに翠嶺でも、その知の及ばない場所で進む事態までは対応できない。ましてや無代やD1がそれを察しろ、というのは無理な話だ。
 「翠嶺先生のご助力があれば百人力、いえ千人力でございます」
 無代が無邪気に喜ぶのも致し方ないことだろう。 
 「でも困ったわね。一度アルデバランまで戻って、そこからカプラ転送でジュノーへ移動するつもりだったのだけど」
 翠嶺が、すっきりとした眉をひそめる。確かにカプラ社が信用できず、しかもアルデバランに立っているカプラ嬢までが『BOT』となれば、うかつに空間転送は頼めない。どこか遠い海の上だの、果ては地上数千メートルの上空にでも放り出されたら、いくら翠嶺でも助かるまい。
 「まして途中で意識を奪われて『BOT』化されてしまうとか考えるとぞっとしないわ」
 滑らかな肩を竦める翠嶺に、無代もうなずく。
 「いささか時間はかかりますが、やはり歩いて参りますしか。D1は私が背負いますので」
 「いや大丈夫だ。ちゃんと歩けるから」
 無代の言葉を強く否定したD1だが、強がりは明らかだ。
 「今は甘えておけよ。ジュノーに着いたら忙しくなるんだからさ」
 それでもぐずぐず言うD1をどうにか黙らせ、無代が再びD1を背負って立ち上がる。
 さてこの時の無代と来たら、膝下を引き千切った例の半ズボンに、同じくシャツの両袖を肩から千切ったベスト、というかランニングというか、とにかくそういう類いの物を、言い訳程度に身につけているだけ。それなりに鍛えられた体躯に、傷だらけの肌をあちこちむき出しにしたその格好だと、まるでどこか場末の港で働かされる、最下層の苦役奴隷にでもなったかのようである。
 しかしこの無代という男、言うまでもないことだが『奴隷』などにはほど遠い。
 「無代、槍を」
 翠嶺が促すのと、無代の手からすっ、と槍が差し出されるのが同時だ。しかも、
 「あら……可愛いこと」
 思わず翠嶺が声を上げたのは、差し出された二振りの槍、その穂先に一匹ずつ、セミとトンボが止まっていたからだ。いや止まっていた、と言っても無論、本物の虫ではない。槍の穂先に鞘を固定する鞘紐、それを結って飾りとしたものだ。『蝶結び』というものがあるが、それよりも遥かに複雑で巧妙な結び方。
 当然、無代の仕業である。
 仕掛けた本人がしれっ、としているのが小憎らしいが、それまでの緊張が少し和んだのは事実だった。
 「悪いが、少し急ぐぞ」
 槍と帽子を受け取り、性格が『冬』に戻った翠嶺の声も、言葉の割にはどこか優しい。
 「承知仕りましてございます、先生。どうぞ斟酌は御無用に」
 それに対し、手加減抜きでいい、と返した無代の笑顔ときたら。やる事なす事、奴隷どころかむしろ不敵、と評していいぐらいである。
 翠嶺の先導で湖を離れ、荒れた岩山を歩き出す。
 『急ぐ』と言った翠嶺の言葉が、冗談でも脅しでもないことはすぐにわかった。
 シュバルツバルド共和国辺境の山岳地帯。ろくな道もない、岩だらけ薮だらけの土地は歩きにくいことこの上ない。しかも浮遊するカビのようなモンスターや、羽の生えた獣人型のそれなど、直接的な脅威もある。
 だが一行の先に立った翠嶺は、手にした得意の槍でそれらの脅威をなぎ倒しながら、ずんずんと歩いて行く。マントをD1に貸したため、今はむき出しになった美しい脚が、そのたおやかな外見を裏切る力強さで山道を踏破する。女性で、しかも研究者というそのプロフィールからは想像もできないペースだ。
 だが無代とて負けてはいなかった。
 翠嶺の後をついていくだけとはいえ、女性にしてはかなり大柄のD1を背負った上に、巨斧ドゥームスレイヤー、加えて翠嶺の荷物まで腰に結わえ付けている。単純な重量だけ見ても、下手な男では歩くどころか真っすぐ立つことさえ難しいだろう。
 ましてこの山の中、このハイペース。先を行く翠嶺でさえ、たとえ無代が音を上げてたとしても叱るまい、と内心密かに思っていたほどだ。だが、

 「D1、大丈夫か? 酔ったら言えよ?」
 
 「あ、先生も、お疲れになりましたらお水がございます。元気が出るよう、ハーブとハチミツを入れてございますので、いつでもお声をおかけ下さいませ?」
 
 「いえいえ、恐れながら先生。今は平気なご様子でも、汗やらなにやらで水分が減るものでございまして、喉が渇いてから飲んでもいささか遅いのでございますよ?」

 この調子である。
 さすがにずっとしゃべり続けるようなことはないが、しかししゃべったところで息が乱れる事も、上がることも切れることもない。もちろん足取りに微塵の乱れもないのは当然だ。脚を左右に『がに股』気味に開き、身体を軽く前傾させ、あまり身体を上下に揺らさずに移動する。軽快な野生の羚羊のような翠嶺の脚運びに対し、もっと大型の獣、例えば羆のような雰囲気さえある。
 のっし、のっし、という擬音がよく似合いそうだ。
 「無代、お前……」
 「はい、先生? お水でございますか?」
 「違う。……いや、水はもらっておくが」
 「どうぞ、先生」
 一度も振り向かない翠嶺に、無代が滑らかに水筒(コレも無代が木で作った)を渡し、飲んだら受け取って背後のD1に回し、最後は自分も飲んで腰に戻す。
 これだけの動作をして、やはり足取りに乱れはない。
 「無代、お前ひょっとして『カツギ』の経験があるのか?」
 「は……これは恐れ入りましてございます」
 「そうなのか?」
 「はい。とんだガキの頃でございますが、少々縁がございまして」
 「……『カツギ』?」
 不思議そうにつぶやいたのはD1だ。
 「『強力(ごうりき)』の事だよ。高い山の上へ、人や荷物を担ぎ上げる。だから『カツギ』」
 無代が丁寧に説明してやる。
 「この男、無代の故郷であるアマツではな、高い山を信仰の対象に見立てて、それに登る事が修行であり功徳を積むことになる、と信じられている。その手助けをする仕事なのだ」
 翠嶺の解説まで付く。
 「どうせ時間はある。一つ話してみよ」
 「どうも……お聞かせするような面白い話ではございませんが」
 無代は苦笑しながら、しかし話し始めた。
 もちろん、歩調は緩めず乱れも無い。
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第十二話「The Flying Stones」(4)
 無代がその生を受け、そして子供時代を過ごした場所はアマツ・瑞波の国の首都『瑞花(みずはな)』の街、その北西に広がる『桜町(さくらまち)』と呼ばれる下町だ。
 瑞波という国は古来から、いくつかの土着豪族達によって分割統治されていた国である。それが近世、北方から進出してきた一条家によって征服・平定され、現在の姿となった。
 無代の故郷である桜町はその歴史の中にあって、侵略者である一条家の支配に抵抗した土着豪族達が最後まで立てこもり、ついには武装解除と引き換えに町の自治権を認めさせた、そういう複雑な背景を持つ土地だ。
 だがそれもあってか、お世辞にも上品とも裕福とも言いがたい反面、自主独立と自由の機運に満ちた活気ある場所でもあった。
 無代はその町で、ある有力な商人の『妾の子』として生まれている。
 父親は元々、無代の祖父が開いていた店で働いて力を付け、そこから腕一本で独立した商人だった。当時からやり手として知られていたそうである。
 それがある時、無代の祖父が商売に失敗(所有していた船が立て続けに嵐で沈んだ)し、その立て直しの最中に倒れて亡くなった際、店を救済するのと引き換えにその娘、つまり無代の母親を『囲いもの』としたのである。
 かつての奉公人が主人の娘を、それも妻ではなく妾にする。人としてあまり誉められた所行とは言えないが、しかし良く言えば自主独立、悪く言えば弱肉強食の桜町においては、まるっきりナシというわけでもない。
 また無代の父親にとって好都合なことに、無代の母親という女は典型的な『箱入り娘』だった。自力で店を建て直すなど到底不可能で、といって他に助けを求めようにも祖父が被った損失が巨額すぎ、損を覚悟で手を差し伸べてくれる者などいるはずもない。このままでは店は消滅、下手をすれば自分も野垂れ死に、という退っ引きならない状況では、そこに差し出された男の手に、一も二もなくすがりつくしかなかった。
 だから結局、無代の父親の所行もさほど悪評を呼ぶ事はなく、無代の母は小さな妾宅と仕送りを得、やがて生まれた一人息子と2人、町の片隅で暮らす事になったのである。
 無代にとっての母は優しく、またそれなりの礼儀作法や教養も身につけた女性だったので、その幼少期はむしろ幸せなものだった。
 「ですが何が気に入らなかったのか、親父は手前が生まれて以降、だんだんと妾宅に近づかなくなりまして」
 そんな父親の心境はよく分からないが、まあ元々がお互いに好き合った相手というわけでもない。かつての雇い主の娘を妾にし、さらに子どもまで産ませた事で、男としての支配欲を満たし切った、とでも解釈すべきだろうか。
 もっとも訪れる頻度が減っただけで、妾宅や仕送りはそのまま継続されていたので、父親が嫌いだった無代むしろせいせいしたという。
 が、無代の母親の方は、そうはいかなかった。
 筋金入りの箱入り娘で、誰かに頼らねば生きて行く事すらできなかった母親は、父に見捨てられる不安が原因で心を病んでしまう。
 まず外へ出かけることができなくなり、家事ができなくなり、やがて食べるものもろくに口にできず、しまいには寝床から起き上がることさえできなくなった。今で言えば、重度の鬱症状といった所だろう。
 そして同時に、母親の介護という重すぎる使命が、幼い無代にのしかかる。
 父親からの仕送りはそれなりの額だったから、とりあえず金はあった。だから最初は医者を妾宅まで呼び、診察を受けて薬をもらった。
 だが良くならない。
 我々の世界においては、既に鬱病は治る病気となっているが、それでも的確、かつ長く根気のいる治療が必要だ。一方、無代達の世界には治癒魔法が存在することから、身体の疾患を治す事は簡単でも、残念ながら精神や脳にかかわる病となればそうはいかない。最後は気の持ちよう、という明らかに間違った結論に医者が達するのも、やむを得ない事だった。
 「出来るだけ外に連れ出して気晴らしをさせよ。せめて自分の診療所まで毎日来させろ、と医者は申すのですが」
 無代がいくら言っても、母は寝床を動こうとしない。いや動きたい、動かなければという意思はあっても、それを実行することができないのだ。肉体を駆動するために必要な気力が、根こそぎ奪われたまま回復しないのである。こうなっては、まだ子供の無代にはどうすることもできない。
 「で、まあガキなりに考えた結果、手前で背負って行く事にしましたので」
 当時の事をどう思い出すのか、無代は笑いながら言う。
 が、まだ十にもならない少年にとって、それがどれほどの覚悟だったか。あるいはこのように笑って話せるようになるまで、どんな歳月を越えて来たか。それを慮れない翠嶺でも、D1でもない。
 おそらくは、想像を超えるような過酷な日々だったはずだ。
 まず寝間着の母を着物に着替えさせる、それだけでも大仕事である。髪の毛だってざんばらのまま連れ出すわけにはいかないから、それなりに梳かして整えてやらねばならない。下手をすればそれだけで半日仕事だろう。
 そして背中に背負う。
 まともに食事をしていない母の身体は、子どもの無代さえぞっとするほど痩せている。とはいえ成人の身体に違いは無く、子どもが背負うにはやはり重い。
 それでも無代は歩いた。医者の診療所までおよそ2キロほどだろうか、文字通り歯を食いしばって歩いた。
 桜町に暮らす人々の人情は、金さえ絡まなければ篤い。途中、声をかけてくれる人も、助けようとしてくれる人も、結構な数に上った。が、無代は丁寧にそれを断った。
 「その頃の手前と来たら、もう意地だけ。世間様より何より、自分らを見捨てた親父に対する意地、それでございましたねえ」
 無代がまた笑う。
 「親孝行? いえいえ先生、それは少々違うのでございます。母がこうなったのは『自業自得』。いえ、本当に手前はそう思っておりました」
 少し照れながら昔話を綴っていた無代の表情から、ふっと笑いが消える。
 「そこは手前も桜町の人間でございます。母のように人に甘え、その結果で身を壊した人間を哀れむ気持ちは、たとえ肉親でもございませんでした」
 この青年がどこまで本気で言っているのか、翠嶺もD1にも分からない。
 「ただ、病人や子どもといった本当の弱者には優しくする、それが決まりでございましたから、そうしておりましただけのことで」
 平坦な調子でそう振り返る無代の、その本当の気持ちが分かるとしたら。
 (それはこの世でただ一人、彼の異能の想い人だけだろうな)
 無代の語りを背中に聞く翠嶺の脳裏に、あの闇色の髪と瞳を持つ姫君の精緻な美貌が浮かぶ。
 さて、そうして無代母子の医者通いが始まって数日が経った頃、いつものように家を出た所で、無代に声をかける者がいた。
 「……なっちゃいねえな坊主。それじゃおっ母さまが苦しいばかりだぜ?」
 しわがれた、しかしよく通る老人の声に振り向くと、果たして想像通りの老人がそこにいた。
 小柄だががっちりとした体躯。日焼けの色が完全に染み付いた肌は、皺だらけではあるが艶は良い。厳しい仕事に長年携わって来た人間に特有の、鋭い眼光と一徹な表情は、気の弱い子どもならそれだけで泣き出してしまいそうだ。
 だが無代、少年といえども土性骨は既に一人前である。母親を背負ったまま、きっ、とばかりに老人を睨み返し、
 「俺らに言ったのかい? 爺さん?」
 「他にいねえだろうが」
 「手助けなら無用だぜ。気持ちだけもらっとく」
 無代が紋切り型にそう言い放ったその時だった。
 「ガキが一丁前な口を叩いてんじゃねえ!」
 カミナリ、と言うのにこれほどふさわしい怒声を無代はこの時、生涯で初めて聞いた。
 「そういう生意気は、せめて半人前のカツギが出来るようになってから叩きゃあがれ!」
 老人はそう怒鳴りながら、持っていた杖の先で無代のあごをぐい、と小突いた。母親を背負っている無代に、これを避けるすべはない。
 「な、何しやがるこの爺ぃ!」
 無代、目を吊り上げてキンキン声を張り上げるが、老人の杖は容赦なく無代を小突き回す。
 「いいから家に戻りゃあがれ! おっ母さまが青い顔してらっしゃるのが分かんねえのか、このド阿呆が!」
 ぐいぐい、と押されるままに、とうとう家の中に押し戻されてしまった。
 「座れ」
 ぐい、とへそ下を小突かれ、へっぴり腰のまま家の土間に座らされる。
 「いいか小僧、てめえのカツギじゃあな、てめえの背中がおっ母さまの腹を押し上げちまって、おっ母さまの息ができねえんだ。おっ母さまの手が冷てえだろうが、触ってみやがれ」
 老人の炯々とした眼光に押され、言われるままに母の手を触った無代の目が、驚きに見開かれる。
 「あ……」
 「ほれ見ろ、な?」
 あわてて母を背中から降ろす。母の虚ろな目が、それでも申し訳なさそうに瞬くのを、無代は胸の痛みとともに見た。健常であれば『苦しい』と訴えることもできたろうが、今の母親には我が子にさえ、それを伝えることができなかったのだ。
 「てめえの着物の帯を持って来い、小僧。背中のおっ母さまが苦しくねえ、真っ当なカツギってやつを教えてやる」
 老人の声からは激しさこそ消えていたが、幼い無代に有無を言わせぬ底力は健在だった。
 言われるままに、急いで替えの帯を持って来る。
 老人はそれを受け取ると無代を立たせ、
 「まずはこの帯をこう結ぶ。そしたらこことここを肩にかけて……そうだ。したら次は両側に余ったやつをこう……違う、そうじゃねえ、こうだ。……よし、これが『背負い帯』だぜ。さ、もっぺんやってみな、今度は自分でだ」
 手順の一つ一つを丁寧に教え、最後は無代自身にやらせてみる。
 無代、一発でできた。
 「……よし。じゃあ次はおっ母さまを背負ってみろ。いいか、まず脚を開いて腰を落とせ。便所で大きいのをやる格好だよ。そうだ。そんでおっ母さまの身体の下に手を入れて、自分のケツの重さで重心を取って……」
 母親に負担をかけず、しかし一息で背中に背負う要領を、老人は杖と言葉で丁寧に教えてくれる。
 これまた一発でできた。
 器用であることも事実なのだが、何といってもこの無代という男、『観察眼』が優れている。小手先だけでなく、教えてくれる人物の心の中までそっくり観察し、そのまま自分の心に写し取るような、まっさらで素直な目を持っているのだ。
 それが後に、ある人物から『文字』を習い、彼自身の運命を変えてゆくことにつながってゆく。
 「よし、そうやっておっ母さまが背中に乗ったら、帯のここんとこにおっ母さまを乗っけるようにする。ただし、頭を下げるな。腰を落として、背中を伸ばせ」
 老人の言う通りにやってみる。が、今度は立ち上がれない。
 「まだ力が足りねえな。だがそこが要領だ。大丈夫、ガキでもちゃんと背負わせてやる」
 老人の杖が無代の脚やら腰やらをとんとん、と小突き、身体の使い方のポイントを叩き込んで行く。
 「立ち上がったらいっぺんだけ前にぐっと倒れて……そうだ。そうやっておっ母さまを背中に乗っけといてから、ぐっとケツを落として、腰から上を真っすぐにする。倒れる時間をできるだけ短くしねえと、おっ母さまが苦しいからな」
 ここが一番肝心な所なのだろう、老人の言葉にも力がこもる。だが、まだ子どもの身体しか持たない無代にとっても、さすがにこれは簡単ではない。
 「……っ!」
 がくがくと膝が笑い、一瞬でも気を抜けば後ろざまに尻餅をつきそうになる。
 「辛抱しろ! 背中に乗ってんのはてめぇのおっ母さまだ! 何があろうが落とすんじゃねえ! お天道様に顔向けができねえぞ!」
 老人の鋭い声が響く。
(……ちきしょう、分かってらぁ! ……こんちきしょう!)
 限界を超えた負荷を受けてぶるぶると震える身体で、しかし無代は気力を振り絞り、何とか姿勢を維持する。
 しかし立っているだけでこの疲労だ。診療所までは2キロ。
 (あ、歩けるのかよこれ!?)
 無代でさえ頭に疑問符が浮かぶ。だが、老人の声に揺らぎはなかった。
 「大丈夫だ。背負ったおっ母さまの重さを先に出す、そういう気持ちで脚を出してみな」
 子どもの無代には、そんな老人の言葉がよく理解できなかったが、逆に理屈抜きでその通りにやってみたのが良かったらしい。
 ぐっ、と一歩を踏み出すと、意外にもちゃんと歩けた。いや、むしろじっと立っているよりも、そうして歩いていた方が楽な事に気づく。
 「分かるか小僧。お前は今、おっ母さまの重さに引っ張ってもらってるんだ」
 運動力学的には、重心の移動を体幹でコントロールしながら筋肉の負荷を減らす、とでも言うのだろう。が、その時の無代にそんなことは分からない。ただ老人の言葉が、まさに実感として身体に刻み込まれるのがわかる。
 「いいか小僧、てめえが背負って行くんじゃねえ。背負われたおっ母さまに、てめえが引いてもらうのだ。いいな、それを忘れるんじゃねえぞ?」
 そこから先、医者の診療所まで歩く無代に、老人はただ無言でついてきてくれた。そして診療所に到着し、母親を降ろした無代が、まさに精も根も尽き果てて崩れ落ちるのをひょい、と杖で支え、診療所の板の間にごろん、とひっくり返しておいて、そのままぷい、と姿を消してしまう。
 名乗ることもなく、どこの何者かも分からないまま、それきり老人の顔を見ることはなかった。
 が、無代は彼の教えを守り、診療所通いを続けた。元々成長期で、かつ人一倍丈夫な身体だ。どれほど疲労していても、喰うモノを喰って寝るだけ寝ればちゃんと回復するし、必要な筋肉や骨もずんずんと追いついて来る。
 半月もすれば、2キロの道のりすら鼻歌まじりになった。
 「気晴らしに散歩でもさせておやり」
 医者にそう言われ、母を背負ったままあちこちに出かけるようにもなった。
 港を出入りする船を眺め、寺の門前でにぎわう露天を巡り、緑色の風をはらむ田んぼを歩き抜けた。
 背中の母に、一方的に色んな話をした。同じ下町の、子分のような子ども達から仕入れたバカ話を、面白おかしく、何度も何度も繰り返すのだ。
 しかしそれでも、背中に背負った母の心が蘇る事は、ついになかった。
 夏が過ぎ、秋が来る頃、母は高熱を出して寝込んだ。こうなっては気晴らしどころではなく、無代は妾宅に医者を呼ぶしかない。
 母の熱は3日続き、そしてとうとう4日目、その命が燃え尽きる時が来た。
 丸一年、息子と言葉を交わす事も無いままだった母がその時、最後にそっと目で何かを訴えるようにしたので、無代はもう一度、母を背中に背負ってやった。
 実のところ無代には、母が本当は何を言いたかったのか分からなかった。だから子供なりに、自分が母にしてやれる精一杯の事を、もう一度繰り返したのだ。
 美談として語るほどのこともない、本当にただ、それしかできなかったのである。
 空が嫌みなほど青い、静かな秋の午後の事だった。
 
 無代の『子供時代』はこうして、終わりを告げたのである。

 
中の人 | 第十二話「The Flying Stones」 | 00:15 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十二話「The Flying Stones」(5)
  「おっと、これは申し訳ございません。湿っぽくなってしまいまして」
 無代が、その無骨な両手をごしごしとこすり合わせながら苦笑した。
 「ここからは暗い話はございませんので、どうぞご安心を」
 わはは、と笑う声は、言うまでもなく照れ隠しだろう。
 さて前述の通りこの桜町の人情は、金さえ絡まなければ篤い。無代の母の死を知るや、近所の大人達がわーっと集まり、僧侶を呼び、炊き出しをし、あっという間に葬式が出た。無代はただ着物を着替え、神妙に座っているだけでよかった。
 父からの仕送りがあるため、決して金持ちではないが貧しいわけでもなかったので、こんな時のためにと貯めておいた金を、近所のリーダー格のおばさんに渡そうとしたのだが、
 「坊さんへのお礼だけでいいんだよ。坊主丸儲け、ご近所お互い様。そういうものなのさ」
 と、笑って突き返されてしまった。
 さて葬式から一夜明けた朝、近所の長屋に住む宮大工の棟梁が、まだ寝ていた無代を尋ねて来た。ほかにも同じ長屋の鍛冶屋の親方、畳屋、仕立て屋、指物師など、職人達がずらりと顔を揃えている。
 何事か、と目を丸くする無代へ、
 「昨日の金で、一等良い酒を買って来い」
 何が何やらわからないまま、近所の酒屋を叩き起こして『銀月』の特級酒をあつらえて戻って来ると今度は、
 「それ持ってついて来い」
 言われるまま連れて行かれた先は、町外れに建つ一軒家だった。構えは小さいがしっかりとした作りで、ちょっと贅沢な隠居所、といった雰囲気だ。その玄関へ向かって大工の棟梁が声をかけると、中から聞き覚えのある声で返事があり、趣のある格子の引き戸が内側から開かれる。
 「よくおいで下さいました、無代さん」
 別人のように丁寧な言葉遣いで、にっこりと微笑みながら無代を出迎えてくれたのは果たして、無代にカツギを教えてくれたあの老人だった。
 遠慮する間も与えられず家に招き入れられ、座敷に座らされる。
 「このたびはまことに……」
 と、一通りの悔やみの言葉を受け取り、代わりに持参した酒を渡すと、
 「これは嬉しい。いや、ありがたく頂戴します、無代さん」
 変な遠慮をせず、本当に嬉しそうに気持ちよく受け取ってくれた。
 そしてその時、無代は改めて老人の正体(というほど大げさなものではないが)を知ったのである。
 「それで何者だったのだ、そのご老体は?」
 「はい先生、それが大変な方だったのでございますよ」
 翠嶺の問いに、ここが聞かせどころとばかりに無代が声を弾ませる。
 「アマツ最大の霊峰・四貢(しぐ)山のカツギ衆を束ねる大(おお)棟梁。それを実に20年に渡って勤め上げ、生涯に拝登すること2000回、恐れ多くも今上様(天皇のこと)を御カツギ申し上げたこともある、という名人でいらっしゃいましたので」
 無代の声に懐かしさがにじむ。またこの長い台詞をすらすらと言えるところから察するに、この話を人に語り聞かせたこと、一度や二度ではないのだろう。
 「手前が知り合った頃はもう、持っていた棟梁株をお弟子さんに譲って引退なさり、現役時代の蓄えとお弟子さんからの仕送りを糧に、瑞花の街で余生を過ごしてらっしゃいました」
 無代の言う『四貢山のカツギ衆』といえば『魔法御法度』、つまり人力のみでしか登ることを許されない神域の中で、4000メートル近い山頂まで人やモノを担ぎ上げる職人集団である。ほんの短い夏の間だけ、それでも変わりやすい天候により、猛烈な風雨にさらされることもザラ、という厳しい自然と戦いながらのカツギ仕事は、実に10人に1人も五十路を迎えられない、というほど過酷で危険なものだ。しかしそれ故に、貴賎を問わず幅広い人々から尊敬を集め、特に瑞波、いやアマツじゅうの職人達が憧れる花形の職業。それが『四貢のカツギ』という存在だった。
 その中でもこの老人は、もはや『生きた伝説』として語られるほどの大物。道理で無代をここまで連れて来た親方衆が大人しいはずだ。彼らにとってはいわば、子供時代のヒーローが目の前にいるようなものなのである。
 その老人が無代を前に、ゆっくりと話し始める。
 「そちらの皆様にお願いをされましてねえ。おっ母さまを毎日医者に運んでいる無代さんに、カツギを教えてやってほしい、と」
 そう言ってくしゃっと目を細めると、もう目だか皺だか分からない。
 「そう言われてもアタシのカツギは、十やそこらの子供にゃあちと難しい。ホントのトコ、見るだけ見て帰ろうと思っておったのですが……無代さん、アンタなかなかおやりんなる」
 ニカっ、と老人の顔が悪ガキのそれになる。
 「初歩の初歩たあ言っても、普通は憶えるのに半年、要領の悪りぃ野郎なら一年かかってもおかしくねえ話なんですがね。それを一発たあ、うん、なかなかのもんだ」
 かかかかっ、と笑うと、口の中のすり減った歯が剥き出しになる。過酷なカツギの仕事で、歯を食いしばりすぎてこうなったのだ。
 「だが、いい気になっちゃあいけませんよ、無代さん」
 その顔が急に真面目になる。
 「アンタが上手くできたのは、ひとえに背中のおっ母さまのお陰なんだ。大事な人が、大事な人にカツがれていたからですよ。あれが他所様だったら決して、ああは行きませんでした」
 妙な言い方だが、効果的なお説教というものがあるとすればこういうのを言うのだろう。ただ怒鳴られ、殴られるよりも、よほど骨身に堪える話だった。
 「しかし、あの気持ちを忘れずに精進すれば、無代さん、間違いなくアンタ一人前のカツギになれる。お気の毒におっ母さまが亡くなられて、もしこの先行く所がないようなら、いつでも四貢の御山に紹介してあげる」
 お世辞ではない、本気で太鼓判を捺そうとする老人に、しかし慌てたのは無代の後ろに並んで座っていた大人達だった。
 「そ、そいつはいけねえ大棟梁! そりゃあ『抜け駆け』ってものですよ!」
 宮大工の棟梁、鍛冶屋の親方ら、桜町でもいっぱしの名を持つ職人達が、一斉に抗議の声を上げる。
 「その小僧、無代って奴は、昔っからここの皆が狙っておりますので。いくら大棟梁でも、横から攫われちゃあ敵わねえ!」
 そういうことだった。
 下町のガキ大将として育ち、あちこちの店や工房に出入りしては仕事を手伝い、誰とでもバカ話をして帰って行くこの少年を知らぬ者はいない。そして、
 「ありゃあ磨けばモノになるぜ、なあ?」
 口を揃えてそう言い合いながら、その成長を見守って来たのである。
 「おっとっと、そうだったのかい。……いや、そうだろうなあ。そうでしょうとも。うんうん、そうでなくちゃいけねえや」
 かかかっ、と笑う老人の目が、優しく無代に注がれる。
 「いいかい、無代さん。ワシら職人ってのはねえ、自分が命がけで磨いた技が、自分が死んだ後もなお世の中に残って、それが人様のお役に立ち続ける、それを一番に望むものなんですよ。そしてアンタにゃあ、それができる」
 しみじみと言うその表情には、一生の仕事をやり遂げてなお、己の技に誇りを持ち続ける者だけが持つ風格が滲む。
 彼をヒーローと慕う大人達が、それに魅せられぬわけはなく。そして子供時代を終え、大人へと向かう階段に脚を乗せた無代もまた、まだ未熟なその言葉では言い表せないものが、その身体を貫くのを感じた。
 俗にいう『痺れた』というやつだ。。
 「いいかい、無代さん。納得いくまで選んで、そして良い師匠に奉公なさい。したら、きっと良い仕事をして、良い弟子を育てて、世の中のお役に立って下さい。それが私やそちらの親方衆への、何よりの礼ですよ」
 そう言われて白髪の頭を下げられても、
 「ガキの頃の手前には、どう答えようもございませんで。何かもごもご、しまらない事を言ってお暇した、そんな記憶しかございません」
 今や青年となった無代にとっては、もう苦笑いするしかない『やってしまった記憶』のようだった。

 ところで、この時の無代は語らなかったが(というか無代自身は知らない話なので無理もないのだが)、この話にはちょっとした後日談がある。

 母の死後、無代は結局、下町の誰に奉公することもなく、実の父親であるあの商人の元へ行き、
 「あんたの貿易船に乗せてくれ。掃除でも荷役でも何でもする。メシさえ喰わせてくれれば、給金も寝床もいらない」
 そう言い放って、その通りになった。無代を欲する人々の元を離れ、逆に彼を捨てた父親の道を歩き始めたのである。
 「親父への意地返しか。まあそれもアイツらしい」
 カツギの老人をはじめ、無代を知る大人達は残念がりながらも、無代の後ろ姿を見送ったものだ。
 だがその数年後、彼らの間に不穏な噂が立った。
 「無代の奴が侍と付き合っている。だが、そいつがちょっと怪しい」
 というのだ。
 その『怪しい侍』だが、どうも身体が弱いらしく身体は痩せ、まだそれほどの歳でもないのに総白髪。ただ金があるのは間違いなく、身につけた着物も履物も上等で、何より瑞花・桜町で最も格式の高い遊郭『汲月楼』の常連だという。
 しかもあろうことか、汲月楼において別格に『お高い』遊姫である『佐里』の客だというではないか。
 これはただ事ではない。
 佐里、本名を『サリポーン』というこの遊姫は、元々アユタヤの王族に連なる貴姫だったが、同国で起きたクーデターのあおりで命を狙われ国を脱出、この瑞波にやってきて遊姫に身を落とした、という曰く付きも曰く付きの女性である。
 よって佐里、遊姫であって遊姫ではない。何せ桁違いの美貌はもちろん、行儀作法に学識芸道歌舞音曲何でもござれ、という本物のお姫様なのだ。となれば、もう店にとっても『売り物ではございません』の扱いで、客がいくらの金を積み上げようとも、佐里が『嫌』と言ったら最後、その顔を見る事すらできない。
 だからこそ『佐里の客』というからには、それこそ桜町の理をねじ曲げるほどの金か、もしくは権力の持ち主でないとおかしい。だが下町の職人ならではの情報網を持つ大人衆をしても、その正体がさっぱり分からない。まして高級遊郭である汲月楼が、まさか客の素性を明かすはずもない。
 「何でもえらい『色男』だそうだが、佐里をたらし込んだ、ってことは……ないよなあ?」
 大人達は雁首を並べ、その首をひねり、
 「無代の奴、ヤバい話に巻き込まれたんでなきゃあいいが」」
 と、少年の身の上を本気で心配したものだった。
 『怪しい侍』の、その正体。
 無代という少年の人生を、この街からそっくり連れ去って行った、その侍が何者であったのか。
 そしてその行き先が、どこであったのか。
 彼ら大人達がそれを知り、比喩でなく腰を抜かして仰天するのは、さらにもう少し後のことになる。
 それを知った彼らは悔しさと、寂しさと、そして溢れんばかりの嬉しさを杯に乗せ、酒を酌み交わしながら、
 ああ畜生、やられた。
 ああ悔しい、だが仕方ねえ。
 ああ、仕方ねえ。
 そういうことなら仕方ねえ。
 
 「無代の野郎、天下へ奉公に上がりやがった!」

 口々にそう語り合いながら、夜が更けるまで杯を重ねたのである。
 『無代の天下奉公』。
 後に様々な形で語られることになる、その伝説の一幕はこうであった。

 「……なんだか申し訳ないな。そんな凄い技で背負ってもらってるなんて」
 無代の背中で揺られるD1が、本当に申し訳なさそうに呟く。が、無代は笑いながら、
 「馬鹿言っちゃいけねえよ。俺のカツギなんざ技のうちにも入らねえ。半人前の半人前さ」
 10年早い、とはこの事だよ、と自嘲しておいて、
 「遠慮なく背負われてっておくれよ。半人前の分、お代はいらないからさ」
 軽口で締めて、またわっはっは、と笑う。
 それにしても良く笑う男だが、決して軽薄には見えない。と言って無理に明るく振る舞っている、という風でもない。人に対しても何に対しても、自然とそのように相対するように、自分を磨き鍛えたものだろう。
 「蛇足ではございますが、手前とそのカツギの大棟梁とは、実はその後にもう一度だけご縁がございましてね」
 無代が、その老カツギや桜町の大人達の話をする時の声がとても優しい事に、翠嶺もD1もとっくに気づいている。
 「ご紹介を頂いて、一夏の間だけのカツギ衆として、四貢の御山へ登らせて頂いたのでございます。大棟梁も『ついでの登り納めだ』と一緒に御山まで来て下さいまして……有り難い話でございました」
 本格的なカツギの技と山の作法、山の暮らし方はその一夏の間に叩き込まれたのだという。
 さて、無代ら一行が歩く道は、いつの間にかだらだらと長い登りになっており、山というほどではないが峠越え、といった様相を呈している。相変わらずろくな道もない山中だが、先導する翠嶺の脳裏には取るべきルートが鮮明に刻まれている様子で、その軽快な足取りに迷いはない。こうなれば無代も、全幅の信頼を置いて追随するだけでいい。
 そんな中でも無代、休息の度に、
 「少々失礼を」
 と言ってどこかへ消えたと思うと、また両手に山芋だの果物だの茸だの、驚くほどの量の食材を下げて帰って来るのだ。『シュバルツバルト』の国名にもなっている名物の『黒い森』だが、この辺りになると既に森林限界高度を超えており、だから大して木も生えておらず、痩せて浸食の進んだ岩がちの山肌がむき出しになっているだけ。とても食材などあるようには見えないのだが。
 「どこででも暮らせそうだな、無代」
 翠嶺がからかうと、
 「いえいえ、そう簡単には参りません、先生」
 しかし無代は意外に真面目な顔で、
 「この一帯でこれだけの食材を獲りますと、次に同じだけ獲れるのは半年、下手をすると一年後でございますよ」
 気候の厳しく地味も痩せた山が、その力を振り絞るようにしてわずかに与えてくれた食材。だからこそ『山の御宝』なのだ、と、また手を合わせるのである。
 やがて日も傾いてきたが、まあこんな男が世話をするのだから、たとえ十分な装備がなくても野営の一泊ぐらいは楽なものだ。
 山の夜は冷え込みが厳しいけれど、無代は荒風を避けられる岩陰を選んで地面に大穴を堀り、そこに翠嶺の魔法で溶岩化する寸前まで熱した大岩を落とし込んで、上から厚く土をかけた。それだけで簡易の地熱暖房となり、岩陰の小さな空間が朝まで暖められ、火を使わなくても凍えることなく過ごせるのだ。
 水を得るのは逆に、魔法で超冷却した岩を風に晒しておき、表面に凝結した水分を集める。
 「岩の表面を一度、炎の魔法で焼いて頂きますと殺菌になりますので」
 岩の表面を奇麗に磨き、さらに水を集めやすいよう細い溝をいく筋も彫り込んだのも無代だ。
 翠嶺とて、戦前種としての長い寿命の中で、魔法を多方面に役立てる方法を知らないわけではない。だがその翠嶺でさえ無代が駆使する知識、というか知恵は、翠嶺のそれよりも遥かに豊かで血の通ったものだ、と認めざるをえない。
 「とんでもございません」
 だが無代は真顔でそれを否定する。
 「これを手前が考えた、というならお褒めに預かるのも結構でございますが、どれも人様から教えて頂いた知恵ばかりでございます」
 褒めるなら、自分にこれらを教えてくれた先達の皆様を、と言うのは決して謙遜ではなく、本当にそう思っているようだ。
 水と食べ物と暖かい住処、これに翠嶺が近くで獲った『ゴート』という、こちらで言う山羊に似たモンスターの毛皮を敷けば、いっそ快適と言って良いぐらいの住み心地である。
 「一刻を争うとは申しましても、休息も大事でございますから」
 という無代の言を入れ、一行はこれまで以上にゆっくりと食事をし、山を渡る風の音を子守唄に一晩たっぷりと睡眠を取る。
 結果として、これが大正解だった。翌朝、まだ暗いうちから目を覚ましたD1が、心身ともに驚くほどの回復を果たしたのだ。
 ぎゅっ、ぎゅっ、と鈍った身体に活を入れるようにストレッチをするD1の姿に、
 「俺をボコった時の勢いが戻ったな、D1」
 からかい半分で声をかける無代へ、D1は神妙な顔を向け、
 「色々迷惑をかけた。ありがとう、無代」
 虚勢でも、また力が入りすぎてもいない自然体。元々、カプラ嬢の頂点に立つ極めつけの女性だけに、そうすると逆に凄みすら感じる。短い時間ではあるが、無代と翠嶺という絶妙のサポーターを得た幸運が、彼女に本来の輝きを取り戻させつつあった。
 「よかった。じゃあ、こっからは自分で歩けるな」
 「もちろん」
 返す笑顔にも余裕がある。
 「準備ができたら出発するぞ」
 翠嶺は既に槍を手にし、無代も一晩がかりで貯めた水を水筒に詰め、夜具にしていたゴートの毛皮をマントのように羽織って(お陰でただでも珍妙な格好が、余計に変になっていたが)準備を済ませている。
 「いつでも結構です、賢者様」
 D1の言葉に頷いた翠嶺が、再び一行を先導して歩き出した。道はかなり険しい登りで、しかも昨日よりさらに速いペースだが、荷物が大幅に減った無代はもちろん、回復したばかりのD1もちゃんと追随してくる。
 ひときわ高い尾根に上り詰める頃、朝日が一行に追いついた。
 陽の光をはらんだ尾根の風が、D1のルビーブロンドを眩くなびかせる。
 その時だった。
 「……先生!?」
 その風の中に異常を感じた無代が、先を行く翠嶺の背中に鋭い声を投げる。 
 翠嶺の足が止まる。
 「大丈夫、慌てるな。最後の最後で、ツキが回って来たようだ」
 優美な手のひらを額にかざして朝日を避けながら、遥かに空を透かし見る翠嶺の表情が、満足そうに緩んだ。
 その視線の先に何があるのか、無代とD1がその目に映すそれより早く、二人の耳に届いたのは『音』だった。
 
 ぶぅぅぅぉぉおおおんんん!!!

 遥か高空に漂う朝の空気を、底知れぬ力強さで震わせる、それはプロペラの音だ。澄み切った朝の風に乗り、白く尾を引く雲を越え、一行の元に届いてくる。
 「あれは……飛行船?!」
 朝の光の中に巨大なシルエットが見えて来る。無代はもちろん、D1さえ初めて見る、左右二つの気嚢を備えた双胴の飛行船。
 「賢者の塔が建造した新型飛行船『マグフォード』。ここで遭遇できるかは賭けだったが……これはお前達の運かも知れんな」
 遠く空を行く双胴の巨鯨を見据えながら、翠嶺が笑顔を見せた。
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第十二話「The Flying Stones」(6)
 「無代」
 翠嶺から名を呼ばれるのと、目の前に鞘付きの槍がすっ、と差し出されるのが同時だった。鞘紐を蜻蛉の姿に結った方の、あの大槍である。
 もちろん無代、慌てることもなく即座に膝を付くとするり、と鞘を払って自分の腰に預かる。あれほど複雑に結った蜻蛉の鞘紐が、ひと撫でしただけではらり、とほどけ落ちる様は、この翠嶺をして、
 (魔法のようね)
 と思わしめる手際だ。
 続いて翠嶺の帽子が差し出され、これをまた無代が受け取る。 
 鞘から放たれた槍の穂先に、朝の青空が染めたように映り込み、一方で帽子から解放された鮮やかなエメラルドブロンドが、まるでそこだけが豊穣な春の野原ででもあるかのように風に舞う。
 「……!」
 遠く空を行く飛行船を見据えながら、翠嶺の手が抜き身の槍を天高く掲げ、大きく左右にゆっくりと振った。きらり、きらり、と、生まれたばかりの朝日が磨き抜かれた槍の穂先に反射し、合わせて翠嶺の髪も風の中にさら、さら、と輝きを解き放つ。
 回数にして二度、槍を輝かせておいて、
 「ん」
 翠嶺がまたすっ、と槍を無代の方へ差し出す。もう無代の方を見もしない無造作ぶりだが、一拍ほど置いてすっ、と槍を手元に戻した時にはもう穂先は鞘に納められ、今度は蜻蛉の代わりに蝶が結われていた。
 「僭越ながら、『羽根に星入り』のクリーミーは、手前のオリジナルの結びでございます」
 無代が自慢する『クリーミー』とは、この世界に生息する蝶の姿のモンスターだ。そう言われて結び目を見ればなるほど、どういう工夫かその羽根の真ん中にちょこん、とアクセントの星が飾られている。
 もう一度、手を差し出せばその手の中に、当たり前のように帽子がふわり、と戻って来る。
 もう一度差し出せば水筒。
 『至れり尽くせり』も、ここまで来ると少々嫌みにさえ思えて来る。
 「先生、少々差し出がましい事を申し上げますが」
 「うん、差し出がましいな?」
 だからちょっと苛めてみた。
 「恐れ入ります。……ですが先生、あれだけの合図で、本当にこちらが分かりますでしょうか?」
 だが無代、一歩も退き下がらない。一応恐れ入っては見せるが、しかし言いたい事はきっちり言う。
 「大丈夫、必ず分かる。まあ見ているがいい」
 だから苛めるのはやめて、ちゃんと説明してやった。いや、これでも『ちゃんと説明している』つもりなのだ、この戦前種の中では。
 
 ぶぉぉぉぉおおおおんん!!!
 
 果たして、飛行船のプロペラ音が変化した。その双胴の巨体が、無代達の方へゆっくりと回頭を始める。確かにあれだけの合図で、ちゃんとこちらを見つけたらしい。
 「失礼を申し上げました、先生」
 無代が深々と頭を下げる間にも、飛行船は昇りくる朝日を背にしてぐんぐんと近づいて来る。
 細長い葉巻型の気嚢を二つ平行に並べ、その間に挟まれるように船体が吊り下げられている珍しい双胴型。
 だが珍しいのはそれだけではない。
 無代達が見慣れた定期便の飛行船よりも、かなり小振りに作られた船体。その後部には、それぞれ独立したエンジンを持つプロペラが4つ、X字に配置されている。軽量、そして高出力を示すこれらの特徴は、乗客の数や積載量、燃費の良さといった経済性よりも、速度や機動性を重視したアクティブな設計思想を持つ証拠である。
 またもう一つ目につくのは船体の下部、船で言えば竜骨にあたる部分を、堅牢な金属の板でぐるりと補強してあることだ。船首から船尾まで、頑丈な鋼の一枚板を貼付けたその形は、まるで巨大な橇のよう。本来、地面に着陸する必要のない飛行船にとって、明らかに不要なその部品は、この船が『強行着陸』を行うことさえ想定されていることを示している。
 明らかにただの船ではない。
 船体がますます近づき、いよいよ艦橋に立つ乗組員の顔さえ判別できる、というところで、しかし飛行船は急に舵を切った。山頂で待つ翠嶺や無代達を、まるでぐるりと避けるようにして通り過ぎてゆく。
 「……どうして?!」
 飛行船の意図が理解できず、驚いた声を上げたのはD1だ。だが今度は無代が、それに応えた。
 「大丈夫だよD1。ちゃんと戻って来る。あれは『陽回し』さ」
 「『陽回し』?」
 「翠嶺先生に眩しい思いをおかけせぬよう、朝日と反対方向から接舷するつもりだろう」
 この世界では飛行船に限らず、目上の人物・貴人に対し、太陽を背にして接するのは非礼である。相手が眩しくないように、こちらが陽に向かって相対するのが正しい。貿易船で働いた経験もある無代は、そういう知識・習慣も身につけている。
 
 ぶおぉぉぉぉぉ!!!
 
 果たして、一度通り過ぎた飛行船はエンジンをひと吹かし。そのまま青空にぐるりと円を描いて大回りをし、今まで背にしていた朝日を正面から浴びながら、再びこちらへ近づいて来る。
 見上げる無代の目を、飛行船の甲板から発せられる鋭い光がちかり、と打った。続いてちか、ちか、ちかちかちか、と光が明滅する。
 『光信号』だ。
 「え? 投錨しないで直接拾い上げる?!」
 船に乗っていた時期に憶えたらしく、光信号を即座に解読した無代が驚きの声を上げる。
 「安心するがいい。船長以下、腕は確かだ」
 翠嶺の落ち着いた言葉を裏付けるように、飛行船の動きがまた変化した。

 ぶぉぉぉぉぉんん!!! 

 4つのプロペラが同時に逆回転し、まずは一気に減速。ついで、それぞれのプロペラがバラバラに、微妙なコントロールで回転を始め、速度をさらに落としながら、同時に飛行船の姿勢をぴたりと安定させる。高山の風がひっきりなしに吹き抜けるコンディションを考えれば、この飛行船の巨体をこの速度で安定させるのは、ただ真っすぐ飛ぶより遥かに難しい、まさに神業だ。
 (なるほど、確かに凄腕らしい)
 無代もそう認めないわけにはいかない。
 「船長だけではないぞ。監視のスナイパー、気嚢ガスを管理するクリエイター、エンジニアのホワイトスミスは賢者の塔の『教授位持ち』。他のクルーだって三分の一が『博士号持ち』だ。こんな船は世界中探しても他にあるまい」
  翠嶺の自慢話に、なにそれ怖い、とは無代の感想。
  なるほど、視力命中力を強化するスキルの最高峰『トゥルーサイト』を備えた監視員なら、空の上から翠嶺を見つけ出すことも大した作業ではあるまい。
 
 ぶぉぉん! ぶぉん! おぉん! おおおおお……!
 
 細かいプロペラ音を不規則に響かせながら、飛行船がついに無代らの真上に到着した。双胴の巨体が朝日を遮るため周囲は薄暗く、鳴り響くエンジンの音が腹の底まで響くようだ。
 見上げる3人の頭上、飛行船の甲板からぽーん、ぽーん、と3本のワイヤーが放られ、それを伝って水夫が3人、するすると降下してくる。
 「先生、槍とお帽子をお預かり致します」
 もう何度目だろう、無代が翠嶺の『三種の神器』を預かり、こればかりは落とさないようにしっかりと自分の身体に固定する。代わりに自作の食器や保存食を、思い切り良くバラバラと地面に撒いた。少々もったいない話だけれど、飛行船に無駄な重量を持ち込むわけにはいかない。
 「御免下され」
 ぽんぽん、と柏手を打ち、山の宝を無駄に捨てる非礼を詫びておいて、ポケットに取ってあった木の実の種を地面に埋め込む。万年雪を頂く高山ならともかく、この辺りの標高ならば雨も降れば風も吹くし、虫もいる。木の器も何もかもやがて土に還るだろうし、運が良ければ種も芽吹くだろう。
 いよいよ接触した屈強の水夫3人が、それぞれ翠嶺、D1、そして無代の身体を素早くワイヤーで固定する。荷役用のウィンチを利用し、現代で言えばヘリコプターによるレスキュー活動のような要領で、水夫を含め6人の人間を船上まで一気に吊り上げるのだ。
 水夫達が、頭上の飛行船に合図を送る。
 ぐん! という真上への加速感。
 無代の足下から、岩だらけの地面がみるみる遠くなり、代わりに広く開けた視界には、シュバルツバルドの黒い森を裾に履いた山々、その山ひだのグラデーションが芸術品のように映る。
 そんなめったに見られぬ絶景も、ものの数十秒。
 「お久しぶりです、翠嶺先生」
 飛行船の甲板で彼らを迎えてくれたのは、船長の制服と制帽がよく似合う、姿勢の良い初老の男性だった。
 「このような場所で先生にお目にかかれますとは。監視からの報告が一瞬、信じられませんでした」
 「見つけてくれて助かりました、『提督』」
 槍を無代に預けて、性格が『春』に戻った翠嶺が柔らかく微笑むと、無代とD1を『提督』と呼ばれた男に引き合わせる。
 「彼がこの船の船長『アーレィ・バーク』。シュバルツバルド最高の飛行船乗りで、通称は『提督』。このジュノーの浮遊岩塊空域を、目をつぶっていても飛べる達人……よね?」
 「せっかくのお言葉ですが先生、さすがに目をつぶっていては飛べません」
 バークが日焼けした貌に笑みを浮かべながら、無代たちに握手の手を差し出す。
 「ですが目を開けてさえおれば、どこへなりと。ようこそ皆さん、我が『マグフォード』へ。歓迎します」
 握り返した掌は無骨だが、自信と力に満ちている。
 (……なるほど、この船長なら)
 無代は心の中で安堵のため息をついた。いくら翠嶺の保証があっても、自分が命を預ける船の長は、やはり自分の目で確かめないと落ち着かないものである。
 その点、このバークという船長は、無代の目から見ても『本物』だった。
 本人の言葉や表情だけではない。先ほど見せた神業のような操船技術はもちろん、周囲で働く船員達のキビキビとした働きっぷりや、船体の整備・清掃の行き届き具合からも、船長の実力と器は十分にうかがい知れる。
 船長であるバーク自らの案内で艦内へ入ると、一行を真新しい木の匂いが包み込んだ。軽さと耐久性、価格など複数の条件を満たす素材として、まだ多くの場所に木材が使われており、その若い匂いが船内に充満しているのだ。掃除が行き届いていることも手伝って、新造船らしい活気と爽やかさが心地よい。
 (うん、良い船だ!)
 乗ったばかりの船だが、これでそう感じないなら、疑われるのは無代の観察眼の方だろう。
 さて、現状は色々な意味で緊急事態であり、船にはジュノーのポタ持ち、つまり無代たちの行き先であるシュバルツバルド共和国の首都へ即座に転送できる術者も乗り込んでいる。
 しかし翠嶺はバークを近くに呼ぶと、何やら小声で相談してから無代達に向き直り、
 「とりあえずこの船にお世話になりましょう」
 そう告げた。
 ジュノーへはとりあえず船員を一人、ワープポータルで伝令に向かわせるという。船が停止している今のうちに送る必要があるため、翠嶺がその場でセージキャッスルと、シュバルツバルド政府への短い手紙をしたためる。重大事案が発生したため『放浪の賢者』が塔に帰還することを伝え、同時に緊急の賢者会議と閣僚会議を招集するよう要請する内容だ。
 『重大事案』の詳しい内容は伏せてあるが、そのことが逆に物騒さを強調している。もちろん翠嶺、わざとそうしているのだ。
 「これが着いたら、ジュノーはさぞ大騒ぎでしょうな。ご老体の皆様が卒倒せねばよいのですが」
 バークが苦笑しながら手紙を受け取り、伝令の船員に手渡す。
 ところで読者の皆様は以前『ヤスイチ号』の中で、翠嶺が香に説明したワープポータルの話を憶えていらっしゃるだろうか?
 その話はこうだった。
 例えばもし、時速100キロで南へ走る乗り物の上でワープポータルを使い、別の場所へ転送したとする。すると転送された人間は向こう側に出た瞬間、同じ時速100キロで南へすっ飛んでいく。
 つまり転送前の移動エネルギーが、転送先でも保存されるのだ。
 このため、もし転送の出現場所が人ごみだったり、危険なモンスターのいるフィールドだったりすれば、下手をすると大事故につながりかねない。だから飛行船が動き出してしまえば、気軽にワープポータルを使うというわけにはいかないのだ。
 手紙を受け取った若い水夫がワープポータルの転送円に消え、バークが艦内伝声管を通じてブリッジへ出発を告げると、飛行船に再び力強いエンジンとプロペラの音が蘇った。まずは目的地へ回頭中らしく、窓の外の朝日がゆっくりと、差し込む方向を変えて行く。
 「先にシャワーをどうぞ。その後、お食事をご用意致しましょう」
 バークが一行に告げた。
 思えば昨日からの山行で身体を拭く事さえできず、無代はともかく女性二人には辛い状況だ。幸いにも、というかむしろ驚いた事に、この船には翠嶺専用の部屋があり、小さいながらも浴室を備えているそうで、彼女らはそちらへ向かう。
 一方の無代は船員用の共用シャワーだが、まともな替え服まで用意してもらうというのだから文句などあるはずもない。
 「それは助かります」
 無代の礼は本心からだろう。何と言ってもタキシードを裂いた半ズボンとベスト、ゴートの毛皮マントという『野性的』なスタイルで、船員達から好奇の目を向けられ続けている。そこは無代、翠嶺やD1の手前、平気な顔をしていたものの、やはり我慢はしていたのだ。
 翠嶺の二槍と無代の斧は、廊下の壁に設置された武器掛けに預けられた。なにせ槍は長いし斧は重い。船の中をいちいち持ち歩くわけにもいかないので、これもありがたい措置だった。翠嶺専用の部屋があることと同じに、彼女の槍にも専用の掛け具が用意されており、斧もその近くに掛けてもらう。
 武器掛けには、いざという時は船員達も武器を持つ心得があるのだろう、他にも剣や棍棒のほか弦を外した弓と矢筒、杖、どういうわけだかゴツいフライパンまで、様々な武器が掛けられている。
 と、その中に、ひときわ異彩を放つ妙な物があることに、無代は気づいた。
 何もかもが真新しいこの船内で、そこだけが場違いなほど古びた『物』。
 「これは……?」
 無代の目に映ったものは、少々不吉な例え方をするなら『厚みと幅はそのままに、縦の長さだけを倍ほどに引き延ばした棺桶』だった。その細長く巨大な箱が、船内を走る廊下の壁に沿って掛けられている。
 ぶ厚い木の板にニスを塗った本体を、これまたゴツい金属の箍で補強した見るからに頑丈そうな箱。だが一方で木部のニスはあらかた剥げ、箍の金属もよく磨いてはあるが、目を凝らせば表面を浸食する錆の染みが隠せない。どうやらかなりの年代物。そして掛けてある壁の金具の様子から、相当の重さがあるようだ。
 どんな謂れがあるのか、バークを始め廊下を行き交う船員達が皆、その箱に軽く敬礼して行くのが不思議である。
 「まあ、この船の『お守り』のようなものですよ」
 無代の疑問に答えるバークの説明も、どこかあいまいだ。どうもあまり詳しくは話せない雰囲気がある。
 (何か由緒のある、骨董武器か何かかな?)
 航海の安全を祈るため、海を行く船には神棚や、縁起の良い聖物の類いを乗せていることは珍しくない。無代が過去に乗り組んだ船の中にも、初代の船長が使っていたというカトラスを、お守り代わりに飾っている船があった。
 ところでこの箱に対する無代の感想は、ほぼ当たっている。
 それは確かに『由緒』のある、『骨董品』で、そして『武器』だ。ただ間違っているのは、その3つの単語の全部に、
 『半端ない』
 という接頭語が着く、ということである。
 だがその正体についての説明は、今しばらくお待ち頂きたい。
 箱の上面にちらりと見えた銀色の紋章。
 
 『X印の右横に縦棒三本』。

 今はそれだけを。

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第十二話「The Flying Stones」(7)
  さてシャワーを浴びてヒゲを剃り、用意された服を着ると、さすがに生き返った気分になった。機関員用らしいブルーのツナギは着古されてはいるが、洗濯は行き届いていて清潔だ。何よりちゃんとした『服』である。
 しかしこの無代という青年、何を着させても『微妙に似合わない』という変な特技を持っている。パリパリのタキシードも、それをボロ直しした半ズボンでも、野生そのままの毛皮マントでも、野暮ったいツナギであっても、どれも『微妙に似合わない』。
 つまり『全然似合っていない』わけではない、というところがミソである。
 集合場所である艦橋のドアをくぐった無代を待っていたのは、バークの心遣いだろう、小さなテーブルの上に用意されたサンドイッチだ。
 「翠嶺先生より、『先に食べていてよい』との御伝言です」
 無代に椅子を勧めたバークが、
 「ご婦人方は少々、お支度にお時間がかかるご様子で」
 と笑いながら、手ずから紅茶を注いでくれる。
 そういうことなら無代も遠慮せず、ありがたく頂戴する事にした。
 「無代さんは料理人でいらっしゃるとか。お口に合えば良いのですが」
 「ありがとう存じます。いえ口に合わないなど、とんでもございません」
 丁寧に紅茶の礼を言った無代が、食事を前に両手を合わせる。
 「ゲフェンで一番人気のパン屋『インプのかまど』のサンドイッチに、アユタヤ産の最高級茶葉『クルバル』の淹れたての紅茶。お貴族様の朝食と言っても恥ずかしくないメニューでございますよ」
 「?!」
 ぎょっとした顔でこちらを二度見するバークをよそに、無代はいただきます、と一礼し、ぱくぱくと食べ始める。
 「これは……どうも怖い人だ」
 「いえ提督様こそ。このお茶、本職も顔負けでございますよ」
 「どうぞ『バーク』と呼んで下さい。……いや、貴方にそう言われるとお世辞でも嬉しい。唯一の道楽でして」
 どうも無代、食い物の話から人と仲良くなるのが得意技らしい。
 「しかし無代さん、よく『クルバル』をご存知で。この大陸でも知る人は少ないはずですが」
 「昔、まだガキの頃に商売で、アユタヤのお貴族様の屋敷に出入りした経験がありまして。その折、いつも入り浸っていた厨房で憶えました」
 「なるほど。とは言っても、香りと色だけで分かるとは」
 「いえ実を言うとバークさん、分かるのはコレだけなのですよ」
 わっはっは。
 あっという間に年来の知己のように、お互いの話を弾ませる。
 よそ者がブリッジにいるせいだろう、少し緊張した雰囲気もあったクルー達の間にも、ほっとした空気が流れた。そこへバークが自ら淹れた紅茶を配ったものだから、ブリッジの雰囲気は一気にリラックスしたものになる。
 さてこのアーレィ・バークという男。
 元はジュノーに本社を置く官民一体の飛行船会社、その定期航路の船長を長く勤めたベテランという。それも初めて飛行船に乗ったのが十五歳というから、いわゆる『大学出のキャリア組』ではない。一番下っ端の『甲板磨き』から始め、働きながら勉強して資格試験を突破し航海士に、さらに船長にまで登り詰めた、いわゆる『叩き上げ』ということになる。
 「会社を定年退職する際に、翠嶺先生からお誘いをいただきましてね」
 賢者の塔が建造した新型飛行船、つまりこの『マグフォード』の専属船長として、再び空で働く機会を得たのだという。
 「翠嶺先生には若い頃から何かと目をかけていただきました。私にとって代え難い恩人です」
 そう語るバークの目が、まるで少年のようになる。あの不変の美貌と卓抜した知能を兼ね備えた戦前種に憧れ、敬いながら己の仕事を全うして来た男の目。それは多くのプロフェッショナルを見て来た無代の目にも、ひときわ好ましく映った。
 ブリッジの伝声管がじりり、と鳴る。
 「失礼」
 バークが席を立ち、伝声管に応答してすぐに戻って来る。
 「ご婦人方のお支度がお済みのようです」
 バークが居住まいを正し、無代は食べ終わった自分の食器を片付けると、席を退いて立ち上がった。
 少し間があって翠嶺、そしてD1がブリッジに現れると、艦橋のクルーの間から一斉に、声にならない感嘆が漏れる。
 シャワーを浴びて綺麗にブラシを入れた、エメラルドとルビーの二色の宝玉髪。その見事な輝きだけでも、機能優先で殺風景と言ってよいブリッジを、一気に別世界に変えてしまうには十分だ。
 「お待たせ」
 柔らかく挨拶する翠嶺の椅子をバークが、D1の椅子を無代が、それぞれ引いて座らせる。ちなみにホストであるバークが椅子を引いた席がこのテーブルの正席、つまり最も篤く遇されるべき客が座る席である。
 「無代、貴方もお座りなさい」
 席に着かず、一歩退いた位置に立つ無代を、翠嶺が呼ぶ。
 「お言葉ではございますが先生、手前の身分で皆様と御同席は……」
 「いいえ、許しません」
 許す、ではなく、許さない、と翠嶺は言う。
 「この件にはもはや特等席も、傍観席もありません。私たち全員の問題です。座りなさい」
 そう言われては断れるはずもない。入り口に最も近い、いわゆる下座を選んで座る。
 バークが新たに淹れた紅茶が行き渡り、ブリッジに漂うその独特の香りがさらに濃くなる。
 「翠嶺先生、ご指示がありました通り、先ほど乗員全員に再度の『BOT』検査を行いました。結果、問題はありません。ご安心下さい」
 「ありがとう、提督。この船ならまず大丈夫とは思うけれど、万一ということもある。事情はこれから説明します」
 翠嶺が優美な指で紅茶のカップを摘むのをきっかけに、テーブルの全員がそれぞれのカップを手にする。
 「さて。本題に入る前に、無代」
 「はい、先生?」
 翠嶺が紅茶を片手にちら、と視線を投げると、
 「貴方、『女たらし』なのですって?」
中の人 | 第十二話「The Flying Stones」 | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十二話「The Flying Stones」(8)
  「いや……申し訳ない、無代さん」
 「いえバークさん、こちらこそ何をどう申し上げてよいやら……」
 何だか地味な感じで、しきりに謝り合う男二人。
 それをいたずらっぽい笑みで眺めながら、
 「あらあら。どうしたのかしら提督、貴方が紅茶を吹き出すなんて?」
 しれっと紅茶を喫するのは翠嶺だ。
 「先生……お戯れが過ぎます」
 部下に持って来させたタオルを無代に渡し、バークが苦い顔で翠嶺に苦言を呈する。
 「D1……アンタ先生に何を……」 
 一方『直撃』を食らった無代も、タオルで顔や身体をごしごしと拭く横目で、翠嶺の隣に座ったD1を恨みがましく睨む。
 睨まれている当のD1といえば、傍目には知らん顔を決め込んでいるものの、持った紅茶が細かく震えているのは明らかに笑いを堪えている証拠。この辺、びくともしない翠嶺とは『年期の差』らしい。
 「あら無代、D1に当たるのは筋違いじゃないかしら」
 「せ、先生……」
 「危ない所だったわ。私もうっかり引っかかる所でした」
 「引っかかる、って『何に』でございますか先生!?」
 さして広くない艦橋で繰り広げられる騒動だけに、無関係のクルー達の耳にも、嫌でも内容が筒抜けだ。全員が下を向いて笑いをこらえている。
 そんな『幕間狂言』はまあ置いておくとして、翠嶺、そしてD1の口から『カプラ社』と『BOT』の問題が語られ始めると、ブリッジの中は打って変わった緊張に包まれた。
 「これは……どうも由々しき事態ですな、翠嶺先生」
 さすがのバークも紅茶を飲む事さえ忘れ、ハンカチで額の汗を拭う。
 「そうね、提督。だけど恐れたり不安がったりしていても無意味です。持てる総力を挙げて対処していかなければ」
 「もちろんです。我が『マグフォード』とその乗員全員、いかなるご指示でも」
 他の人間が言ったら誇大になりそうな台詞だが、バークが言うとごく日常の、何でも無い事のように聞こえる。
 「ありがとう提督。とりあえず急ぐべきは、まず対王国レジスタンスのクローバー船長に連絡を取る事ね」
 「『対王国レジスタンス』?!」
 これに驚いたのは無代だ。
 「賢者様、そいつらはテロリストなのでは!?」
 D1も同じく驚きの声を上げる。
 だが詰め寄られた格好の翠嶺は、しかし落ち着いたものだ。
 「世間的には確かに『テロリスト』という事になるわね。だから貴方達の疑問は当然。だけど、実情はそう単純ではないのよ」
 つ、と紅茶をひと口。
 「ルーンミッドガッツ王国に反旗を翻す彼らは、あの国の政府から見れば確かに『テロリスト』。でも実質的に彼らを支援しているのは実はうちの国、つまりシュバルツバルド共和国政府なのよ」
 恐らくは国際的にもかなりヤバい話を、翠嶺はあっさりと明かす。
 そもそもルーンミッドガッツ王国とシュバルツバルド共和国、それにアルナベルツ法国を加えた『ミッドガルズ大陸三国』は、お互いに決して友好国ではない。むしろその建国時から衝突を繰り返す間柄で、それが大規模な戦争に発展したことも一度や二度ではないのだ。現在も表向きは治まって見えるが、裏では貿易だの国境だのを巡り、小さな火種を幾つも抱えている。
 「国家同士がお互いに『敵の敵』を支援するだの、その逆だの、まあお色々な事をしているわけ」
 「なるほど、いずこも複雑でございますねえ」
 無代だって子供ではないのだから、そう説明されれば理解はできる。
 「でも安心して。レジスタンス組織の中でも、私の言う『クローバー』という人物はまともな人間よ。私が保証するわ」
 「クローバー殿なら、自分もよく存じ上げています」
 静かに口を挟んだのはバークだ。
 「戦闘指揮を含めた戦士としての経験と実力、人物、いずれも信頼に足る方です。自分からも保証をいたしましょう」
 この2人にダブルで保証されて、無代やD1に反駁の余地があろうはずもない。
 「加えてクローバーの操る飛空艇・ヤスイチ号は『戦前機械(オリジナルマシン)』。この地上であれに対抗できるものはほとんどないはずです。そうね、もしできるとしたら『この私』と……」
 翠嶺がなぜかバークの方にちらり、と視線を走らせる。バークの表情、態度に変化はない。
 「……ま、とにかくあれが味方になれば、まず無敵でしょう」
 にっ、と笑う。
 実物を見た事のない無代達には実感が湧かないが、翠嶺の言葉だけに信じるしかない。
 ただ繰り返すが、その頼みのヤスイチ号とクローバー達が今、どういう状況にあるのかを、この時の彼らは知らない。同時に、レジスタンスのトップであるプロイス・キーンが今や、敵のはずのルーンミッドガッツ王国の秘密組織『ウロボロス6』を襲名し、ヤスイチ号と同等かそれ以上の力を持つ戦前機械『セロ』を有して野望に燃えている、その事も知らない。
 「さっき送った手紙に、賢者の塔からレジスタンス本部へ連絡するよう書いておいた。時間的にはヤスイチ号も、もう本部へ帰っているはず。連絡さえ行けば、すぐ来てくれるでしょう」
 翠嶺の言葉にしかし、バークは少し首をひねり、
 「いえ先生、少し時間がかかるかもしれません」
 冷静に指摘する。
 「今の時間ですと定期便の飛行船も出払っていますので、レジスタンスの本部がある浮遊岩塊『リグロー』への連絡手段は、ジュノーからの伝書鳩しかありません。しかも悪い事に『リグロー』の位置は今、首都ジュノーを中心に本船のちょうど反対側です」
 「あら」
 翠嶺が顔をしかめる。『リグロー』とはヤスイチ号の母港。クローバーが一時捕われ、仲間のヴィフ、ハナコと共に脱出したあの浮遊岩塊の事らしい。
 「少しは運が向いて来たかと思ったけど、なかなかそう上手くは行かないわね……。まだ囚われたままのカプラ嬢達も救出しなければいけないのに」
 「その事ですが先生」
 女性2人が食事を済ませるのを見計らい、バークが若い副官を呼び寄せる。テーブルの上が片付けられ、そこに大きな地図が広げられた。シュバルツバルド共和国、それもジュノー周辺を拡大した、詳細な地形図だ。
 「カプラ嬢の皆さんが捕われているという浮遊岩塊、それを特定しておきたいのですが、よろしいですか?」
 無代とD1を交互に見ながら、伸縮式の指揮棒を手にしたバークが地図を指す。もちろん、誰からも異論は出ない。
 「無代さんとD1のお二人が落下したという湖『シュピーゲル湖』がここです。落ちる途中で激突したという尖った山『ブライシュティフト山』がここ。そして現在の本船の位置がここになります」
 とん、とん、と指揮棒の先が動く。
 「さて、ご存知の通りこのジュノー空域には、大小含めて実に2万個に及ぶ岩塊が浮遊しています。これはジュノーにある戦前機械(オリジナルマシン)『ユミルの心臓』が引き起こす重力異常によるものです」

 『ユミルの心臓』。

 それは太古、シュバルツバルド共和国に存在していたという超古代文明が残したオーバーテクノロジーだ。詳細については同国の国家機密とされ、ほとんど明らかになっていない。が、その威力を如実に示す一つの事実がある。
 シュバルツバルド共和国の首都・ジュノー。
 数十万の人口を誇り、同国の大統領府が置かれ、そして翠嶺が所属する賢者の塔『セージキャッスル』をも擁する世界有数の大都市。だがこの都市を有名にしているのは、そんなデーターとはまったく別の事だ。
 その都市は、空に浮いている。
 世界にたった1つしかない『浮遊都市・ジュノー』。それは地上1800メートルの空中に、基礎となる巨大な岩盤ごと浮遊しているのだ。
 ちなみに『空中都市』としてはもう一つ『コンロン』が知られているが、これは『浮いている』のではなく、異世界である神仙界からこちらの世界へ『はみ出している』という表現が正しい。
 これに対し純粋に空中に浮かんでいるジュノーは、風で移動してしまわないよう巨大な鎖を使って山脈の頂上に繋がれ、そこに橋をかけて地上と行き来する、というダイナミック極まりない都市計画で成り立っている。
 そしてこのジュノーを空に浮かせる浮遊力場、その原動力こそが『ユミルの心臓』。この事実だけで、その想像を絶する力を誇示するには十分と言えるだろう。
 しかもこの浮遊力場は都市を浮かせるに止まらず、ジュノーを中心とする半径50キロの範囲に影響を及ぼし、てのひらサイズから数百メートル級まで、大小さまざまの浮遊岩塊を大量に浮かばせている。
 『ケタ違いのパワー』とはまさにこの事だった。
 「ですが、それらの岩塊は決して無秩序に浮いているわけではないのです」
 バークが副官に目配せすると、机の上に広げられた地図の上に重ねるようにもう一枚、地図と同じ大きさの透明なシートが広げられた。シートには様々な矢印やエリアが書き込まれ、下の地図と参照出来るようになっている。
 「これはジュノー空域の主な浮遊岩塊の、向こう1ヶ月に渡る予想移動経路を示したものです。賢者の塔の皆さんによる長年の観測と研究により、ジュノー空域の風の向きと強さから、浮遊岩塊の動きをある程度把握できるようになっています」
 バークが改めて、無代とD1が落下した湖を指し、
 「お二人が湖に落下したのは昨日のお昼ごろ、それに間違いはありませんか?」
 「間違いありません、バーク船長」
 D1がはっきりと答える。
 「結構です、D1」
 バークがうなずく。
 「ではもう一つ。幽閉されていた岩塊の大きさと形を教えて頂きたい」
 「形はひょうたん、もしくは落花生を歪にしたようで、大きさは長い方が500メートル、幅は狭い所で200メートルほどだったかと」
 これは無代が答えた。
 「ではその岩塊の周囲に、他に大きな岩塊はありましたか?」
 「いや、ありませんでした。あっても小さなものばかりで、あの付近ではその岩塊が抜きん出て大きかった」
 「結構です、無代さん」
 バークがもう一度うなずくと、副官、つづいて艦橋のクルー達を見回す。
 全員が軽くうなずいた。どうやらその情報で、はっきりと意見が揃ったらしい。
 「『イトカワ』」
 はっきりと、バークがその名を口にした。 
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第十二話「The Flying Stones」(9)
  バークの指揮棒がする、と地図の上を滑る。
 「ここ数日の風の状況から判断して、昨日の昼頃その空域にあったと思われる主な岩塊は3つ。『イトカワ』『アイザック』『オロシヤ』です」
 とん、とん、とん、と、地図の上で指揮棒が軽い音を奏でていく。
 「その中で今、無代さんが言われた大きさと特徴を持ち、かつ周囲に衛星岩塊を持たない孤立岩塊となれば、もう間違いありません。それは『イトカワ』です」
 どうもバークの口ぶりから、彼の中では最初からほぼ特定できていたようだ。無代たちに質問したりクルーに確認を取ったのは、あくまで念のためらしい。この手堅さも、彼が信頼に値する指揮官である事を示している。
 「『イトカワ』は岩塊の中でもかなり大型の部類に入りますので、大人数でも収容できる。かつ定期航路から大きく外れていて、地上もほとんど人が通わないエリアばかりを移動しますから、外部への連絡も難しい。こう言っては何ですが、カプラ嬢の皆さんを幽閉する目的なら悪くない選択です」
 無代達が落下した所へ翠嶺が通りかかったのは、まさに奇跡としか言いようがない、という。
 「さすがです、提督」
 翠嶺が満足そうにバークに微笑みかける。
 「それで提督、『イトカワ』とやらは今どこに?」
 「正確な位置はジュノーで、最新のデータを集めて計算しなければ出せませんが、昨日ゲフェン出港時に伝えられた風の向きと強さから推測して、およそこの辺りかと」
 バークの指揮棒が地図の上に描いた大まかな円、それを見た翠嶺がまた、難しい顔をする。
 「また微妙な位置ねえ。ここからだと、むしろ後戻りすることになるわ」
 「そうですね。ジュノーとリグローとイトカワ、どこへ行くにしても即座に、とは行きません」
 そう言うバークだが、その声には特に困ったような響きはない。要するに彼にはもう、既にこの結果は想定内なのだ。
 「船長として意見を言わせていただくなら、まずジュノーに帰って急いで補給を行い、次にリグローへ出向きます。向こうか、もしくは途中でクローバー船長と接触できれば、カプラ嬢救出はヤスイチ号に任せる、これが最速でしょう。運悪く接触できない場合はそこから直接イトカワへ回り、本船で救出を行います」
 「運が悪い方を想定した方が良さそうね」
 翠嶺の言葉は苦笑混じり。どうもツキがいまいち、というのが染み付いているようだ。
 「最悪、すべてをこの船で行うと想定した場合、カプラ嬢の救出までにはどれくらいかかりそう? 提督」
 「それでも本日、日没までには」
 バークの返答によどみはない。
 「現在の状況は?」
 「本船は現在『風待ち』中です。もう1時間ほどでジュノー方向へ風が変わりますので、それに乗って一気に加速する予定です」
 バークの説明はのんびりしているようにも聞こえるが、今から全力でエンジンを吹かして多少の距離を稼ぐ場合と、順風をつかまえてから出発する場合、結局どちらもジュノーへの到着時間は変わらない。ならば後者の方が燃料やエンジンの損耗も抑えられ、合理的である。
 「よろしい」
 翠嶺も満足そうにうなずいた。緊迫した事態でも、焦りや感情に捕われず最適解を導き出す。バークという男がそれだけの経験と落ち着きを備えた船長であることをよく承知している。
 「わかりました。いったんジュノーへ帰投しましょう」
 翠嶺が決断した。
 「どうかよろしくお願いします、バーク船長」
 「ご安心下さい、D1」
 沈痛な面持ちで丁寧に頭を下げるD1に、バークは身体ごと真っすぐに向き直る。
 「ジュノーのセージキャッスルと、アルデバランのカプラ社。この二つは我らシュバルツバルド国民の誇りです。その両方の象徴である翠嶺先生とD1、お二人を乗せて危難に立ち向かう。我らシュバルツバルドの飛行船乗り、『ペルロックの裔(すえ)』を名乗る者として、これほどの誉れはありません」
 バークが挙げた『ペルロック』とは、聖戦直後のシュバルツバルドにおいて、初めて民間の飛行船航路を開拓した伝説の飛行船乗りの名である。まだ聖戦の余韻が残り、危険なモンスターが満ちていたこの空に命とロマンを賭けて挑んだその男は、聖戦中に人間側へ寝返った魔王子と人間の娘の子であり、巨大な鹿そっくりの頭と角を持った偉丈夫であった、そう伝えられている。
 この伝説の英雄になぞらえ、この国の飛行船乗りは皆『ペルロックの末裔(まつえい)』を名乗るならわしだ。
 「我が『マグフォード』と乗組員一同、いかなる嵐も越え、いかなる場所でもきっとお連れします。どうぞお任せ下さい」
 繰り返すが、これを他の人間が言ったなら、間違いなく誇大か気障で終わるだろう。だが今、この場でその言葉を疑う者は一人もいない。
 話に一区切りがつき、紅茶のおかわりが注がれ、ブリッジに再びリラックスした空気が流れる。
 「ところで提督?」
 ブリッジの時計をちらりと見た翠嶺が、バークを呼ぶ。
 「はい、翠嶺先生?」
 「こちらもシャワーと食事が終わったし、そろそろ良い時間かしら?」
 「はい先生。今、お部屋へ使いをやっております。そろそろ戻るかと」
 主語もなにも無い会話だが、バークと翠嶺の間では十分に通じる話だったようだ。
 果たして、静かなブリッジに軽い足音が響き、まだ少年と言ってよい水夫(飛行船だから『空夫』とでも呼ぶべきか)が駆け込んできた。
 「失礼します、船長殿!」
 真新しいセーラーも、精一杯の敬礼も初々しい。だが、どうやら無代と同じ天津系と思われるその顔には、しかし困ったような表情が張り付いている。
 いち早くその表情に気づいたバークが、
 「どうした、草鹿(くさか)?」
 少年水夫に問いかけるのと、
 「……ひょっとして、『また』か?」
 翠嶺が顔をしかめ、その美しい額に指を当てるのが同時だ。
 「はい……いえ、あの……何度もノックして、お名前をお呼びしたのですが……」
 『草鹿』と呼ばれた水夫の困り顔が拡大する。
 「分かりました。案内しなさい、私が行きましょう」
 翠嶺が飲みかけのティーカップを置くと、いつのまにか無代が後ろに立っていて、椅子を引いてくれる。
 「先生……」
 バークも椅子から立ち上がって謝罪しようするのを軽く手で制し、
 「いいのよ、提督。迷惑をかけているのはこちらです。この子のせいではない。……無代」
 「はい先生、お供いたします」
 翠嶺の椅子を戻した無代が、当然のように応える。
 「うむ。手伝ってもらう事があるかもしれない。D1、貴女は私の部屋で休んでいて。少し時間がかかりそうだから」
 「はい賢者様……あの?」
 「貴女達に紹介したい人物がこの船に乗っている。ワープポータルで直接ジュノーへ帰らなかったのは、実はそれもあってのことなの」
 物問いたげなD1に、翠嶺が簡潔に説明する。
 「というよりこの船は元々、『彼』を乗せてゲフェンの魔術師ギルドへ行った帰りなのよ。その旅程と航路を憶えていたので、あの山の上で待ち伏せしたというわけ」

 『魔術都市ゲフェン』。

 それはルーンミッドガッツ王国にある地方都市である。
 この地はかつて『ゲフェニア』と呼ばれ、魔法文明を極めたエルフの都市があったという。いつの時代か悪魔に侵略され、地下深くに封印された後、その上に今の都市が建設されたという謂れがあり、そのためか古くから魔法が盛んな土地だ。
 何より魔術師の総本山『魔術師ギルド』の本部が置かれている事でも有名である。
 『魔術師ギルド』。
 それは魔法を扱う集団、という点で言うなら翠嶺が所属するセージキャッスルと共通するが、賢者の塔が『研究・教育機関』であるなら、魔術師ギルドはまさに『実践機関』。例えるなら『美術大学』と『美術家集団』、『法学部』と『法律家集団』のような関係にある。
 方や研究による精密な理論構築、方や現場で叩き上げた豊富な実践経験を武器に、魔法という未知の世界に挑む同志というわけだ。
 魔法に対するそれぞれのアプローチの違いから、必ずしも仲が良いとは言えない両者だが、お互いを必要としているという点では一致しており、定期的に情報を交換し、魔法の発展を支えている。
 「ジュノーとゲフェンの間に定期航路はありませんが、賢者の塔と魔術師ギルドとの人的交流の際には、非公式ながら飛行船を乗り入れる事が許されているのです。もちろん、非武装が条件となります」
 ブリッジを出て廊下を歩く道すがら、バークが説明してくれる。道理でこの船には、定期船にさえ備わっている大砲が一門もない。『携帯火器』以外の武装は禁止されているのだという。
 「ワープポータルを使えば移動そのものは一瞬だけれど、大量の資料を一緒に持ち込んだり、そもそもワープポータルをくぐれない物を持って行く事もあるので、結局飛行船が便利なのよ」
 これは翠嶺の解説だ。確かにワープポータルは万能の術だが、それ自体が魔法であるため、魔法そのものを乱してしまうような協力な呪物などは受け付けないこともある。
 「あとこれは内緒だけど」
 翠嶺がにやり、と笑いながらわざとらしく声をひそめ、
 「飛行船乗り入れの既成事実を積み上げて、いずれ定期航路を開いてやろう、って下心もあるんだけどね」
 そう明かすと、綺麗に伸びた人差し指をぴん、と立て、これまた花弁の様な唇にちょん、と当てた。
 「こちらのお部屋です」
 草鹿と呼ばれた少年水夫が一つの扉の前で立ち止まると、一歩退きながらバーク、翠嶺、そして無代に敬礼する。
 「ふむ」
 翠嶺がその手を拳にし、とんとん、と扉をノック。木製の頑丈な扉が、思ったよりも軽い音を立てる。
 応答なし。
 鍵はかかっていないらしく、ドアノブは軽く捻ることができたので、翠嶺がそれを押開けようとしたのだが、
 「?!」
 扉が開かない。
 いや、わずかながら開く事は開くのだが、ほんの数センチの隙間ができるだけで、とても中には入れそうもない。翠嶺のその有様に、廊下で控えていた草鹿が言いにくそうな声で、
 「あの……ドアの内側に本が……」
 「あー」
 事情を察した翠嶺が顔をしかめる。
 草鹿の言う通りだった。わずかに開いたドアの隙間から、それこそ床が見えないほどみっちりと積み上げられた本の山が見えている。数十冊、下手をすると数百冊も雑然と積み上ったその本が、ドアの開閉を妨げているのだ。
 ここでは『本』と一口に言うが、現代の我々が知るそれとはだいぶ違う。そこに積まれた本は大抵、ゴツい革の表紙に中身も羊皮紙。すなわち本全体が革製で、要するに非常に重い。さらには子供の背丈ほどもある巨大な本や、上下左右を頑丈な金属の箍で補強した、それこそ武器か防具と見まごう代物もある。いや、実際に武器や防具として使える『本』も、この世界には普通に存在しているのだ。
 しかしこうなると確かに、女の翠嶺の力では動くものではないし、人数を頼んで力任せに動かそうとすれば貴重な本が傷む可能性も高い。
 「昨夜お寝みになるまで、ちゃんとお世話をしなかったのか、草鹿」
 バークが少年水夫を詰問するが、少年は天津人らしい黒髪を振り乱すようにして、
 「いいえ船長殿! 昨夜は確かに、ベッドにお入りになるまでお世話を致しました!」
 訴える草鹿の顔は真っ赤だ。
 「提督、彼のせいじゃないったら」
 翠嶺が、はあー、とひとつため息をつく。
 「どうせ夜中に何か思いついて、一人で起き出したのよ。そして調べるだけ調べて満足して、そのまま本と一緒に床で寝てしまったのでしょう」
 不動のドアを前に、またはあー、と息を吐く。
 「というわけなのだけど、無代」
 「はい先生」
 『現場』から一歩下がって控えていた無代が、ちょっと苦笑しながら応える。
 「どう? 何とかできる?」
 「承知致しました」
 翠嶺に即答を返しておいてから、バークに向き直り、
 「バークさん、そちらの草鹿さんをお使い立てしてよろしいでしょうか?」
 「もちろんです」
 船長であるバークの快諾を得た無代が、少年水夫を近くに呼び、
 「まずはデッキブラシを2本と、清潔で厚手のタオルを2枚。タオルをブラシの柄に巻いて、ドアの隙間から本を摘まみ上げてどかしますので。お願い出来ますか、草鹿さん」
 「承知しました、お客様!」
 「どうぞ『無代』とお呼び下さい」
 「はい、無代さん!」
 無代に、バークに、そして翠嶺に敬礼し、廊下を駆け出して行く。
 「ところで翠嶺先生、このお部屋にはどなたが?」
 いらっしゃいますので? と、草鹿を見送った無代が翠嶺に尋ねる。
 「紹介の順序は逆になるけれど、まあ仕方ないわね」
 翠嶺が苦笑しながら、
 「この中にいるのは賢者の塔・呪文学部(ザ デパートメント オブ スペル)の助教授。そして無代、貴方の知己である『一条巴』以来、20年ぶりの『私の弟子』よ。しかも現在16歳。一条巴を超える、最年少記録保持者」

 『翠嶺の弟子』。

 いやしくも魔法を使う者で、その言葉の意味を知らぬ者はいないだろう。
 例えば過去、賢者の塔のトップである『大賢者』となった者で、この『翠嶺の弟子』の称号を持たない者は一人もいない。
 その他にもこの称号を持つ者は、魔術師ギルドの幹部やギルド戦で名を馳せた伝説の強者、一国の魔法師範といった、魔法の世界では知らぬものとてない大物として歴史に名を刻んでいる。
 聖戦以来の歴史の中で、この希有の戦前種に抜群の能力を認められた術者のみに許される、それは最高の称号だ。
 「名前は『架綯(カナイ)』。だがその名前よりも通りが良いあだ名もある」
 翠嶺には珍しく、弟子を自慢する口調になる。

 「人呼んで『呪文摘み(スペルピッカー)』。その唯一無二の力は……まあ、起こしてから見せるとしよう」
中の人 | 第十二話「The Flying Stones」 | 00:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十二話「The Flying Stones」(10)
  気密式のドアを開けてもらい、一人、飛行船『マグフォード』の甲板に出たD1に、高空の空気は刺すように冷たかった。
 「コートをどうぞ、D1。この高度の甲板はかなり寒いですから」
 「ありがとうございます」
 若く、そしてなかなかにハンサムな副船長が差し出すボア付きの革コートを羽織る。洗髪して本来の輝きを取り戻したルビーの髪が、でたらめな風に舞うのを手で押さえるが、あまり効果はない。
 翠嶺には『部屋で休んでいろ』と言われたが、どうにもそんな気持ちにはなれず、副船長に頼んで甲板へ出してもらったのだが、これは想像以上に寒い。借りたコートがなければ、ものの5分といられないだろう。
 しかし逆に頭を冷やして考え事をするには、うってつけの環境と言えそうだ。
 副船長からエスコートの申し出があったけれど、
 「ありがとう。でもごめんなさい、少し一人になりたいのです」
 と、丁寧に断る。
 様々に気遣ってもらえるのは嬉しいし、ありがたいと思うのだが、そうされることで逆に今の自分に何も出来ないことを自覚するばかりなのは、まだ少し辛かった。
 甲板の手すりに軽く手を添え、目の前の空を見る。空の青と、雲の白とグレー、そして空に浮かぶ岩塊の鈍い鉄色が織りなす圧倒的な絶景。
 吹き抜ける風が髪を弄び、ばちばちと顔に当たる。さすがにこれは辛抱できず、コートのフードを被って髪を中に入れた。
 (……?)
 突然、身体がかってにくるり、と振り向く。
 武術を修めた優秀なパラディンとしての感覚が、何者かの視線を感知したのだ。だが、振り向いた先には誰もいない。甲板の向こうには、同じ空が広がっているだけだ。
 (気のせいか……)
 ふう、と背中で手すりに寄りかかり、天を仰ぐ。地面に映った自分の影を、敵と間違えて襲いかかる鳥が、異国には棲むという。愚かさの象徴の様なその鳥を、今の自分は笑えない。
 (……鈍ったものね)
 いけないと分かっていても、自嘲が頭をかすめてしまう。
 『カプラの誇りを取り戻す』
 仲間達の前でそう大見得を切り、無代と共に浮遊岩塊『イトカワ』から飛び降りたあの時、気持ちに一つの区切りはつけたと思っていた。その後、翠嶺と出会って導きの言葉をもらい、前に進む気力も得た。そしてついにはこの飛行船と合流し、ついに今の難局を打破する道筋すらも見えてきている。
 (だけど、私はまだ何もしていない)
 彼女の中にはまだ、その忸怩たる思いがある。
 自分で歩く事もできずに無代の背に揺られ、貴重な食料をただ飲み食いし、寝ていただけではないか。
 (……)
 亜空間倉庫を起動してみる。
 カプラ嬢になってから何度繰り返したか分からないその操作には、言葉も動作も必要ない。ただ軽く意識するだけで可能な、カプラ嬢にとって基本中の基本操作……だがやはり慣れ親しんだ起動音は鳴らず、もちろん倉庫も開かない。
 あの浮遊岩塊『イトカワ』に捕われた時から、カプラシステムへのアクセスは完全に断たれたままだ。
 (メインアクセスポイントに近づけばひょっとして……)
 という復活への希望もあった。しかし、ここはもうシュバルツバルトの首都ジュノーのフィールド圏内のはずで、やはりアクセスはシステムレベルで切られている、と考えるのが妥当だろう。
 そしてもう一つ。
 (カプラの力が戻ったとして、私はそれを使えるだろうか)
 その思いもある。
 空間を操るカプラの力。世界中の冒険者を等しく助け、支えて来た唯一無二の力。
 それが、異世界から来襲した魔物の力を借りたものだった、という事実は、想像以上に彼女を打ちのめした。
 (私は何のために今まで……)
 『イトカワ』の上で膝を抱えながら、あるいは無代の背中で揺られながら、またシュバルツバルドの山肌に横たわりながら、ずっと考えていた迷いが蘇る。
 (『カプラ』、そして『D1』の名は、本当に価値あるものだったのか……?)
 迷いが広がる。
 『カプラ嬢』、中でも『D1』を名乗るための道のりは厳しい。
 いや、そんな事はわざわざ言うまでもないだろう。世界中の女性が憧れる、この世で最も華やかでやりがいのある仕事。そこに至る道が『厳しい』など、むしろ当たり前のことだ。
 行儀作法や空間操作の修行はもちろん、危険なフィールドで立ち続ける時、己の身を守るための武術も必須である。そして何よりも『容姿端麗』を貫かねばならない。カプラ養成所の門をくぐる女性は多いが、その中で『カプラ嬢』を名乗れるのは、だから百人に一人ともいう。その上、トップチームである『ディフォルテー』を襲名できる者となれば、本当に一握りだ。
 ましてその頂点、カプラ嬢の象徴である『D1』に至る道は、『厳しい』とか『狭い』とかの言葉では足りない。
 『残酷』と、いっそそう言った方がふさわしいだろう。。
 例を挙げよう。
 実はD1を名乗るには、本人の能力が優れているだけでは足りない。
 まず本人以外の家族の信用が必要だ。カプラ倉庫に貴重な財産を預かる信用上、家族・係累を数世代に遡り、犯罪を犯した者がいないか調査される。カプラの象徴的存在に、万が一でも犯罪を犯す要素があってはならない。
 確かに厳しい条件だ。が、ここまでならまあ、まだギリギリ理解できなくもない。
 問題は次である。
 D1の候補となるには、本人の三親等以内(女系であれば曾祖母まで)の女性の容姿と健康状態、一生の体型変化までが選考対象となる。これで一定年齢以降、体型が崩れる可能性のある遺伝的要素を持つと分かれば、最初からD1の候補になることすらできない。無論、健康に懸念があるとなればなおさらだ。
 まるでトラックを駆けるために世代を重ね、交配を繰り返される競走馬のような優生思想。それは本人がどれほど強く夢見ようとも、どれほど厳しい努力を経ようとも、どれほどの能力を持とうとも、それだけでは決してたどり着けないことを意味する。
 まさに『運命に選ばれた者』のみに許された座。
 そしてその座に登れるのは、同世代にたった一人しかいない。
 実力伯仲のライバルがたとえ何百人いたとしても、その中の1人が『D1』に選ばれれば他は全員、否応無く脱落する。これが残酷でなくて何だろう。
 現役のD1たる彼女にも、共にその過酷なシステムに挑み、しのぎを削った多くのライバル達がいた。だが彼女がD1の座に登るのと同時に、彼女達の大半がヘアバンドを外し、カプラ社を去っていった。
 いずれ劣らぬほど美しく、そして優秀だったライバル達。D1を目指すレースから脱落しても、その気になれば同じ『ディフォルテー』のD2、D3といった『ナンバーズ』に、あるいは他のカプラ嬢として街角に立つ道でも、選ぼうと思えば選べたはずだ。
 だが彼女らは、それを選ばなかった。
 『D1になれないなら、カプラ嬢でいる意味は無いわ』
 静かに笑って、あるいは涙にくれながら、もしくは無言で、彼女達は去っていった。
 そそれほどまでに残酷な運命と、夢と、意志と、涙の上に積み上げられた、真にかけがえのない名前。
 『ディフォルテーNo1』とは、そういう存在なのだ。

 だが、その自分が『折れた』。

 その事実をD1は改めて受け止める。
 (いや、『だからこそ』私は折れてしまった)
 今は客観的に、そう見ることができる。
 カプラ社、カプラ嬢、ディフォルテー、D1。
 それらの言葉が持つ意味について、自分は一度たりとも迷った事はなかった。それらが持つ価値を、微塵も疑った事はなかった。
 例えるなら、それは夜空に輝く北極星だ。
 遥か道無き道を、荒れ狂う大海原を、その身一つで行く旅人が、道標としてひたすらに見つめ続ける不動の星。決して揺るがない、絶対の価値と意味を持つ存在。
 だからこそ総てを賭けてその道を駆け抜け、ここにたどり着いたのだ。
 だが、その星が揺らいだ。
 絶対の力と信じていたカプラシステムは魔物の力で、仲間のカプラ嬢には『BOT』が混じる。社の重役は彼女らを裏切り、拉致監禁にまで及ぶ。その総ての事実を、直接その身に突きつけられた時。

 彼女の北極星は、地に堕ちた。

 仲間と共に浮遊岩塊に囚われた時、彼女だってリーダーとして皆を導きたかった。力強く号令し、力を合わせて敵を打ち砕き、カプラの栄光を取り戻したかったのだ。
 だが、そのための道標は失われてしまった。導こうにも、導く先が分からない。
 たとえ重役達を社から追い出し、会社を正常に戻せたとしても、カプラの力が得体の知れない魔の物だという事実は変わらない。北極星に、元の輝きが戻る事はないのだ。
 (今の私には何もない)
 ずっと認めることを拒否してきた、それを考える事さえ逃げてきた、それら総ての事実と今、彼女は向き合う。『デフォルテー』を演じるための藍色のヘアピースも、ヘアバンドも、制服もない。
 すべて『イトカワ』に置いて来た。
 胸が痛む。
 きりきりと傷む。
 単なる精神の不快を飛び越え、ほとんど肉体的な痛みとなって、それは彼女の内臓を直接刺し貫く。
 カプラの仲間達の、先輩達の、そして去って行ったライバル達の目が、灼熱の針となって自分に突き刺さるのを感じる。もちろん、現実にはここにそんな人々はいない。だからこの針はすべて、彼女の中から生まれた、彼女自身の心だ。
 よって、逃げる事も隠れる事も決してできない。
 「……っ!」
 無意識にシャットダウンしそうになる思考を、しかし意志の力で押さえつける。ここで考えるのをやめたら、また堂々巡りだ。
 そうなれば、翠嶺やこの船の力を借りて問題を解決する事ができたとしても。

 (自分はもう二度とD1にも、カプラ嬢にさえ戻れないだろう)
 

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