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第十四話「Cloud Climber」(1)
 『四貢(しぐ)山』、標高3927メートル。
 それはアマツで最も高い山、最高峰である。
 だがアマツの人々にとってこの山は、ただ背が高いだけの山ではない。
 それ自体が『神』として信仰の対象であり、同時に山を登ること、それ自体が修行だと信じられている。
 特に登頂を果たした恩恵は大きいとされ、『一頂万拝(いっちょうまんぱい)』、つまり四貢山の頂きに一度でも立てば、神仏を一万回も拝んだのと同じ功徳が得られる、という。
 ……と書くと、何やらお手軽な話に聞こえるかもしれないが、当然それは大間違いだ。
 四貢山の頂上に立つのは、非常に難しい。
 まず『魔法御法度』。
 この四貢山、全山域がテレポート系魔法やアイテムの使用を一切禁じられた、いわば神域である。当然、ペコペコなどの騎乗動物に乗ることも禁忌だから、残る手段は唯一、自分の足で歩いて登るしかない。
 次に『急峻難所』。
 四貢山の山体といえば、急峻な斜面や切り立った崖や囲まれ、とても登山に向いた山とは言えなかった。
 普通に歩いて登れるのはせいぜい山の中腹まで。そこからは難所に次ぐ難所、中には岩に打ち付けられた鎖だけを頼りに、文字通りよじ登るしかないような危険箇所が、それも複数待ち構えている。
 さらに『登四降三』。
 つまり登りに4日、下りに3日の長丁場となる。よってその間の食料(水は山頂付近の万年雪から採れる)も携帯する必要がある。途中で悪天候に遭い、足止めでも喰らえばそれも倍増だ。
 また登山期間は夏の短い期間だけ、天候は変わりやすく不安定。標高四千メートル級ともなれば、高山病だって恐ろしい。
 ここまで悪条件が重なれば、十分に健康な成人男子でさえ単独登頂は至難の技、まして体力のない人間にとっては命がけ、いや自殺行為に等しい難行だった。
 しかしそれでも、いや『それゆえに』人々は山頂を目指す。困難な道の彼方にこそ、神の座はあると信じて登るのだ。
 そういう山だからこそ、過酷な山行をサポートし、登山者達を山頂まで導いてくれるプロフェッショナルが重宝された。
 『カツギ衆』である。
 彼らの多くは四貢山の麓の村を拠点とし、そこから登頂を目指す人々の荷物や、時には登山者本人さえその背中に背負って、遥か山頂を目指し登っていく。
 神域を統べる四貢大権現神社から与えられた数々の特権によって、『神人(じにん)』とも称される彼らカツギ衆は、アマツ中の職人たちの憧れの的でもあった。
 その特権的職人集団を長年に渡って率い、『大棟梁(おおとうりょう)』と呼ばれた老カツギと、少年・無代との出会いについては、第十二話『The Flying Stones』で既に描いた。
 そして、二人の交誼がその後もずっと続いたことも記した通りだ。
 さらには母を亡くした無代が、もう一つの大きな出会いを経て故郷の桜町を引き払い、実父の店で抱え商人として働くようになっても(外伝『Box Puzzle』参照)、二人の付き合いは変わらなかった。
 四季の彩り豊かなアマツ・瑞波の国で、時節ごとに、
 『大棟梁さん、ご無沙汰を致しております。珍しい酒が手に入りましたので』
 だの、
 『お寒うございます。お風邪など召されてはいらっしゃいませんか?』
 だの、
 『何のかんの』と理由をつけて老カツギの隠居所を訪ねる、それが無代の習慣になっている。もちろん老カツギの方も、この少年の訪れを楽しみに待っていて、出会えた日には必ず夕餉を共にし、夜更けまで語り合うのがもっぱらであった。
 一生のほとんどを四貢の神人として過ごし、ついに家族を持たなかった老人にとっては、まるで孫ができたような気分でもあったろうか。一方の無代も、折り合いの良くない実父の他には家族もなく、母と暮らした生家も既に処分済みであったから、あるいはこの老カツギの隠居所を、故郷の帰省先のように思っていたのかもしれない。
 さて、この初春のある日にも、二人の姿を隠居所の居間に見ることができる。
 「よう来て下さった、無代さん」
 現役時代の日焼けがそのまま焼きついた皺顔に、なんとも嬉しそうな笑顔を浮かべ、老人が無代に座布団を勧めた。余談だがこの老人、孫のような年齢の無代を『さん付け』で呼ぶ。まだ十代の前半に過ぎない彼を、ちゃんと一人前の男と認めている証拠である。
 「この前は確か正月でしたか。冬の間どちらへ?」
 問われた無代、差し出された座布団を恐縮して受け取ると、
 「コンロンへ参っておりました、大棟梁さん。長く顔(ツラ)も見せませんで、申し訳もありません」
 そう言って頭を下げながら、土産の酒を差し出す。
 老人の酒好きは承知の上だ。
 「これは嬉しい、ご馳走になります。いやいや、商売繁盛で何よりのことだ」
 そんなやりとりも、客のはずの無代が勝手知った様子で台所に立ち、自ら包丁片手に酒肴を整えるのも、いつも通りである。
 湯通しして薬味を添えた豆腐に、炙った魚、漬物などがひと通り膳に並ぶと、酒になった。
 まだ少年の域を出ない無代ではあるが、体質的に強いのだろう、だいぶ酒にも慣れてきている。最近では老カツギの方が先に酔って寝てしまい、無代が寝床を整え、火の始末までしておいて隠居所を辞する、そんなことも珍しくない。
 ただ、この日は少し、いつもと様子が違っていた。
 無代の酒が進まない。
 老カツギに対してはしきりに酒を勧めるくせに、自分はあまり飲もうとしない。肴を摘む箸もあっちへ迷い、こっちへ迷う。いわゆる『迷い箸』は無作法・無粋の代名詞でもあり、なんとも無代らしくなかった。
 「どうかしなすったかね、無代さん?」
 老カツギはそう尋ねておいて、すぐに手を顔の前で軽く振ると、
 「あ、いやいや。何も無理に聞き出そうたぁ思いませんが」
 と、静かに笑みを浮かべ、
 「こんな老いぼれで良けりゃあ、話してみなさらんか。何の力にもなれねえが、なあに、こちとら暇だけは売るほどある。話を聞くぐらい、いくらでもできることだ」
 ゆっくりと酒を指し出す。
 「……頂戴します」
 無代はそれを両手で持った盃で受け、思い切ったようにぐっ、と飲み干す。
 盃を置いて居住まいを正し、頭を上げ、まっすぐに老カツギを見た。その顔には、この少年が他人にめったに見せることのない、苦悶と言っていい表情が浮かんでいる。
 「申し訳ありません、大棟梁さん。……実は、聞いて頂きてぇお話がありますんで」
 「何度も言うが、あっしで良けりゃあ何でも」
 そう請け負った老カツギがなお差し出してくる酒を、今度は丁寧に断ると、
 「手前は今、さる『御身分のある方』と懇意にしていただいております」
 何かを噛みしめるように、話を切り出した。
 (やっぱりその話か……)
 それを聞いた老カツギは内心、膝を打つ思いだった。
 なぜというに、この無代という少年が最近、正体不明の武士と付き合っている、という話は、この界隈では有名だったからだ。
 桜町の人々の知るところでは、その武士は瑞波で最も格式の高い遊郭『汲月楼(きゅうげつろう)』の常連。しかも、めったに客を取らないことで名高い最高級の美姫『佐里(さり)』と懇意という、実にうらやましい境遇である。
 にもかかわらず、全く正体が分からない。
 無代をよく知る桜町の職人達が、瑞花の町に張り巡らせた独自の情報網をフル稼働させても、どこの何様なのか全く不明なのだ。
 これは異常なことだった。
 (ひょっとして、良くない輩なんじゃねえか?)
 そう心配するあまり、思い切って無代に対し、その正体を尋ねた者もある。
 だが無代、
 「手前ごときを気にかけて頂くのはありがてえ。ですがそればっかりは申し上げられねえのです」
 と、頭を下げる一方で、武士の正体は決して明かそうとしない。
 周囲がどれほど意地になって問い詰めようが、ぐっ、と頭を下げて、
 「どうぞ勘弁しておくんなさい」
 さあ、こうなると無代、梃子でも口を開くものではない。見てくれはまだ少年だが、その意地と頑固で固められた土性骨ときたら、そこらの大人顔負けなのだ。
 その頑なな態度に、さすがにちょっと騒動が起こりかけた時、
 「まあまあ、そう騒ぎなさんな」
 そう言って取りなしたのが、この老カツギだった。
 「あっしの見たところじゃあ、決して悪いお人ではなさそうだ。ま、心配はいるめえよ」
 無代を心配するあまり、いささか過激になりかかっている町の連中を、そう言ってなだめてくれたのである。
 といっても老人、その武士に直接会ったことはない。桜町の遊郭街で遠くから、ちらりと眺めたことがあるだけだ。腰に脇差しの一つも帯びず、長い白髪を太く三つ編みにして背に垂らし、痩せた長身を上等の着流しで包んだなかなかの美男子。
 武士について彼が知っているのはそれだけである。
 それでもなお、この老カツギがそこまで言い切ることができたのは他でもない、無代という少年の変化を見ていたからだ。
 知り合ってからこのかた、三月と開けずに訪ねて来る無代の顔を見るたびに、
 (毎度毎度、見違えるほど立派になって来やがる)
 と、その成長ぶりをはっきりと感じ取っていたからだ。
 実はこの老人の『人を見る目』には定評がある。
 人間というものは、極限の環境に置かれれば置かれるほど、どうしても本性が出るものだ。卑しい者はより卑しく、品格のある者はより品良く、その地金をのぞかせてしまう。だから四貢山という厳しい場所で生き、人間というものの本質をありのままに見続けてきた老人の目が、只者であるはずがなかった。
 その目をして、元から明るく素直な無代の人格がさらに逞しく、そして品よく磨かれていく様が手に取るように分かるのだ。
 (よほどのお人と巡り会ったのでなけりゃあ、決してこうはならねえ。それだけは間違ぇのねえことだ)
 そう確信していた。
 「どこぞのお武家様と懇意にしてらっしゃる、それは存じておりますよ」
 老人の言葉に無代、無言で頭を下げる。自分を心配して騒ぐ町の衆を、老カツギが陰ながら抑えてくれたことは、もちろん承知の上である。
 「大棟梁さんにご相談というのは他でもねえ、そのお人のことなのです」
 無代が次に発した言葉は意外でもあり、同時に拍子抜けするほど当たり前の話でもあった。
 「そのお人が仰言いますには……『四貢の御山に登りたい』と」
 「何をぅ?!」
 老カツギが一瞬、虚を突かれて目を丸くする。
 「御山に登りてぇ、って? そのお武家様が、かね?!」
 「左様なんでございます。それも手前に『カツギ』をしろ、と」
 「はあ……?!」
 老カツギの目が今度こそまん丸になる。
 「無代さんのカツギで御山に登る、って?!」
 呆れ半分で尋ねる老カツギに、無代がほとほと困り果てた顔でうなずく。 
 「『四貢のお山には一度登りたいと思っていた。お前にその技があるなら渡りに船だ。俺を背負って行け』。……どうにも困っちまいまして」 
 「……」
 無言のままの老カツギが厳しい顔になり、腕組みをした。
 確かに無代にカツギを教えたのは自分で、その優れた才能はよく知っている。とはいえ経験も無い無代が、いきなり人を担いで四貢山を登るなど夢物語もいいところだ。
 あの山は、そんなに甘い場所ではない。
 「無代さん。あっしが昔、あんたを御山に誘ったのは嘘でもお世辞でもねえ」
 老カツギも無代と同様に、手の盃を置く。『酒飲み話』で済む話ではなさそうだ。
 その目が鋭く光る。
 「それでも無代さん、アンタが御山でいっぱしのカツギをやるにゃあ、少なくとも二年は修行が要る話だぜ? いくらアンタでも、御山をナメる野郎は……」
 どこの誰だろうが許すものではない。老いたりといえど、カツギ衆を率いた気迫に衰えはなかった。
 「い、いや違う! そりゃあとんだ誤解だ、大棟梁さん! 御山をナメるなんざ、とんでもねえ話です!」
 無代が片手を床に、もう片手を『待った!』の形にし、大あわてで首を振る。
 「四貢の御山の厳しさは、いつもお話に聞かせていただいております。そこで自分にカツギができるなんざ、夢にも煙にも思っちゃあおりません。お願いってのはそうじゃねえ、逆なのだ!」
 「む……?」
 老カツギが、白くなった眉を寄せる。その目の前で無代が膝をずっ、と下げ、両手をついてがば、と頭を床まで下げる。
 「この通りです、大棟梁さん、そのお方を止めて頂きてえのです! 」
 「……?!」
 老カツギが息を呑む。
 ぎゅっ、と、無代の額が畳に擦れる音が、静かな隠居所で馬鹿に大きく響く。
 「俺じゃあ止められねえ! だけど大棟梁さんの言葉なら……天下の大カツギが言って下さりゃあ、聞き分けて下さる……!」
 老カツギが絶句する目の前で、無代の言葉が、ほとんど祈りのように響いた。

 「いや、きっと止められる! 止められるに違ぇねえのだ!」
 
 つづく
中の人 | 第十四話「Cloud Climber」 | 11:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十四話「Cloud Climber」(2)
 「止めろ、だとぉ?!」
 老カツギが珍しく素っ頓狂な声を張り上げた。
 だがそれも無理はない。無代の言葉はそれほど意外なものだったのだ。
 「そのお方が『御山に登る』ってのを、あっしに止めろと、こう言うのかい?!」
 「その通りなんでございます」
 畳に両手を突き、ついでに頭も突いた土下座の格好のまま、無代が必死の声を出した。
 「俺じゃあ止められねえ……でも天下の大棟梁さんの言葉なら、きっと聞いて下さる! この通りだ……この通りです!」
 声を限りに叫びながら、下げた頭を微塵も上げない。
 「……むう」
 老カツギが息を飲んだ。
 確かに『話してみろ』と言ったのは自分だが、まさかここまでの話とは思っていなかった。
 「ひょっとして無代さん、その『お方』ってのは、何かご事情をお持ちかい?」
 老カツギが尋ねると、無代が自分のことのように辛そうに、
 「ご慧眼、恐れ入ります。実は……お身体がお悪いんで」
 揺れる声で答えた。
 「お若いご時分からずっとお身体が良くなくって、それがどんどん悪くなっちまって……最近じゃ、もうどんなお偉いお医者様が束になっても手に負えねえ」
 外国から嫁いできた賢い奥方様が、自ら考案した特別な技でもって、辛うじてその命をつないでいるのだという。
 「だけど、それだってもう長くは……」
 無代をして、最後まで言うことができない。
 代わりに、ぎりっ、と奥歯を噛み締める音。
 無念の音。
 「……それじゃあ何かい、そんなお身体で『御山に登りたい』と、そのお方はおっしゃるのかい?」
 よほど呆れるか、いっそ怒ってもいい場面だったが、老カツギの声は意外にも優しかった。
 だが問われた無代の身体は、激しい痛みに貫かれたように震える。
 「俺が……俺がいけなかったんです」
 無代が土下座の姿のまま言葉を絞り出す。
 「ご病気で退屈な床の慰めになるかって、大棟梁さんとの昔話をペラペラと……しまいに『自分は天下の名人の、最後の弟子だ』なんて……あんなこと言わなけりゃ……俺があんなことさえ言わなけりゃ!」
 めりっ、と畳に額がめり込む音。
 悔悟の音。
 そしてしばしの沈黙。
 「……ま、まずは頭をお上げなせぇ、無代さん。それじゃ話もできねえや」
 老カツギがそう促したものの、まだ相手の答えを聞かないうちに『頭を上げろ』と言われて、素直に上げる無代でもない。
 案の定、びくとも動かない無代に苦笑しつつ、老カツギは一計を案じる。
 「無代さん、一服付けさせてくれねえか」
 タバコを吸いたい、と持ちかけた。
 「承知いたしやした」
 無代が頭を下げたまま、すっ、と畳を滑り下がってから立ち上がり、部屋の隅に片付けてあった煙草盆を手に取る。
 台所へ行き、竈の中から真っ赤に熾った炭火を一つ、煙草盆の火入れに収めて戻ってくる。
 煙管に刻みタバコを詰め、くるりと回して老カツギに差し出す。
 さすがと言うか無代、相変わらずこの手の一連の動きに一分のよどみもない。
 煙管を受け取った老カツギが、その口をくわえるのを見計らい、無代が火入れの熾火を煙草盆ごと持ち上げてくれる。
 煙管のタバコに火を着けるにはコツがあり、これを『遠火』といって、熾った炭火から少し離れた位置から息を吸いつつ火を着けるのが良し、とされるのだ。
 ぷか、と一服目の煙が流れた。
 「……うん」
 口の端にかすかな煙を残し、老カツギが目を細める。
 煙管にタバコを詰めるにも、あまり固く詰めると煙の通りが悪くなり、不味い。といって緩すぎれば、焼けて崩れたタバコを口から吸い込み、下手をすれば火傷する羽目になる。

 その点で無代、自分では一切吸わないのに、老カツギ本人が詰めるより上手いのだ。
 そして未だに顔を伏せたままの無代だが、煙草盆を掲げている分、さすがに土下座よりは顔が見られるのは計画通り。
  そのまましばし、わざとゆっくり煙を楽しむ。それは老カツギ自身の心を決める時間でもあった。
 「お話はわかりました、無代さん」
 「お引き受け下さいますか!」
 ぱっ、と顔を上げた無代に、しかし老カツギはあえて無代の方を見ず、
 「残念だが無代さん、アンタの頼みゃあ聞けません」
 意外にも断りの言葉を吐いた。
 「え?!」
 さすがの無代も予想外だったのだろう、思わず掲げた煙草盆を取り落としそうになる。

 これが青年・無代なら、内心はともかく手はびくともしなかったろうが、その辺はまだ少年だ。
  「ど、どうして?! どうして駄目なんで?!」
 血相を変えて問いただしてしまう、そんなところもまだ未熟。
 「……あっしはね、無代さん」

 老カツギがゆっくりと、諭すように話を始めた。
 「アンタも知っての通り、長いこと御山にお仕えしてきました。そして分かったことが一つある」
 老カツギはそこまで言っておいて、煙草盆の上で煙管をぽん、と手で叩いて灰を落とす。ちなみに煙管の首をカン、と打ち付けて灰を落とす描写が流行りだが、これは本来怒りや苛立ちの表現であり無作法。また煙管も傷んでしまうため忌まれることだ。

 無代が空の煙管を受け取り、動搖の中にも素早く二服目を整える。
 老カツギの口から、再びの煙。
 「それはね、無代さん。『御山に登る人の命は、御山が決める』ってことなんだ。長い間、沢山の人の生き死にを見てきて、あっしにはそれがわかった」
 「……」
 無代は黙って聞いている。内心でいくら動搖しても、師とも仰いだ老人の話の腰を折るような真似はさすがにできない。
 「御山ではね、沢山の人が死ぬ。お武家様でもお公家様でも、恐れ多くも今上様(天皇)でさえ、そいつは変わらねえ。戦で何百って首を取った豪傑様が、たった一個の、犬の糞みたいな石っコロに頭を打たれて亡くなったこともあった」
 老カツギが遠くを見る目になる。
 ちょうど頭の上に落石、ちょうど足の下が崩落、突然の雷、ほんの小さな怪我が腫れ上がり、命を奪うこともある。いったん山に入れば、どれほど入念に準備し、体調を整え、油断なく山道を行ったとしても、死を完全に避けることは不可能だった。
 それは老カツギが駆け出しの小僧時代から、何度も何度も繰り返し見てきた光景だ。
 その一方で、今にも倒れそうな老女が
孫の病気快癒を祈るため、凄まじいまでの執念で見事に頂きに立ち、無事に下山していくのも見た。戦で片手片足、片目まで失った武士が崖をよじ登り、本懐を遂げるのを見たこともある。
 そこに身分も性別も年齢も、金持ちも貧乏も何も関係ない、死ぬものは死に、生きるものは生きるのだ。
 念のために書いておくが、この老カツギは、いやカツギなら誰もが『山で死ぬこと』を悪いこととは思っていない。
 むしろ幸せなことだと思っている。
 『だってご神域で死ぬんだからよ、極楽成仏間違いなしさ』
 当然のようにそう思っていた。だからこそ、
 『人が生きるも死ぬも、御山が決めていらっしゃるのだ』
 老カツギはそう思うようになった。
 山で死ぬ者は山で死ぬように、遥か彼方から山に呼ばれ、その懐で死ぬ。そこに人の意志や作為が介在する余地はないのだ。
 「だからね、無代さん。あっしらは客を断らない。どんなに弱った年寄りでも、病気の人間でも、『登りたい』と言って代金を払えば登らせる。ほんの二、三歩歩いただけで死ぬ、そんな人でもカツぐんだ。そして、あとは御山の御心に任せる」
 それがカツギの生き方。
 「あっしらに『登るのを止めろ』ってのは、だから『お門違い』ってヤツなのさ、無代さん」

 煙管の最後の煙を吐き出し、煙草盆に戻す。無代は何も言わず、煙草盆を下げて台所に行き、火と灰の始末をし、居間の隅に置いた。
 無代が元の場所へ座る。もう土下座はしなかった。
 老カツギに断られてなお、重ねて粘り強く頼むことも出来たろう。だがそれでは師に対し、己の信念を曲げろ、ということになる。ましてその信念が昨日今日、思いつきで出来上がったものではないと分かってなお、それを曲げてくれ、などと言える無代ではなかった。
 その代わり、表情には苦悩だけが残る。
 『これからどうしたらいいのか』
 たとえ商売で大損しようが、想いを寄せる女に振られようが、こんな顔を人に見せる無代ではない。それほどに、この老カツギに心を許したか。
 それほどに苦悩が深いのか。
 そんな無代を正面からじっ、と見ていた老カツギが、急に自ら立って台所に歩いた。腰を浮かそうとする無代を手で制し、戻ってきた手には大ぶりの茶碗が2つ。
 無代が持ってきた新品の酒が一本。
 酒の封を開け、茶碗を卓に置いて波波と注ぎ、ひとつは自分、ひとつは無代。そして、
 「無代さんよ、あっしに『登るのを止めろ』は、確かにお門違いだ」
 見つめる無代の目の前で、冷や酒をぐい、と含む。そして無代の目をしっかりと見返しながら、
 「だが『登らせてくれ』ってんなら、話は違うのだぜ?」
 「……?!」
 今度は無代が目を丸くする番だった。
 「御山をナメるヤツぁ、誰だろうが許さねえ。だが今の話を聞きゃあ、アンタがそうじゃないってこたぁ、十二分に分かるってもんだ」

 茶碗の酒をちびり。
 「今から準備すりゃあ、梅雨明けの山開きに間に合います。したら、この夏の間にみっちり鍛えて、来年の夏も同じようにやる。そんなら夏の終わりにゃあ一人前のカツギになれる。いや必ず、このあっしがしてみせますとも」  無代を見つめる目が、老人とは思えない光を放った。
 「来年の夏が終わって、雪で御山が閉じる前に登るのだ。アンタの大事なその御方を背中に背負って、無代さん、アンタが登るんですよ。もちろん、あっしもお供をさせていただきますとも」
 「い、いやしかし大棟梁さん、そりゃあ……そいつは……」
 無代の手で、茶碗の酒が揺れる。これほどに動揺し、迷う無代というのも本当に珍しい。
 「お身体、本当にお悪いんです。今だってもう、一日のうちのいくらも起きてられねえ。もし来年の夏まで辛抱なさったとしても……」
 とても四貢山になど登れるものではない。

 間近で病状を見てきた無代には、それが手に取るように分かる。
 「あんなに良くして頂いて……本当に、ご立派な方なのに!」
 無代の声が高くなる。零れそうになる酒の碗を両手で支えるが、それでもあふれた酒精の雫が無代の手を濡らす。
 「難しい御本を山のようにお読みんなって、何でも知ってらして、この世に見通せない物は無いってぐらい凄え『目』をお持ちで……。ご病気でさえなけりゃあ……本当に、あの病気の畜生さえ無けりゃあ……!」
 「無代さん」
 声を荒げそうになる無代に、老カツギが静かに言った。
 「アンタ、本当にその御方が好きなのだねえ」
 瞬間。

 無代の顔がぐしゃっ、と崩れた。両目から、あふれるように涙が流れ出す。そうすると、大人びて見えた無代が本当の、まだ少年の顔になった。
 老カツギが、無代の手から落ちそうな茶碗をそっと取り上げてやると、少年はそのまま泣き崩れる。
 「……うっ……ぐぅっ……」
 押し殺した声は、『男泣き』というものだったろう。

 年齢的にはまだ少年の無代だったが、当時から人に涙を見せることなどまずないと言ってよかった。だからこそ今の泣き姿は、実の祖父のように心を許した老カツギの前だからこそ見せることができた、少年・無代の本当の気持ちだったに違いない。
 「……死んで欲しくねえ! もう誰も死なせたくねえんだ!!」
 無代の喉から、嗚咽と共に本当の気持ちがほとばしる。
 「俺は……俺はもう嫌なんです、大棟梁さん! 大事な人が、俺の背中で死んじまうのは、もう嫌なんですよ!」
 大事な人。

 それは少年の背中で息絶えた、母のことに違いなかった。
 あの時、涙も見せずに母を弔った少年を、人々は口々に讃えたものだった。さすがしっかりした野郎だと、もう一人前の男だと、そう言って褒めたものだった。
 だが、人一倍気持ちの優しいこの少年が、たった一人の母親を自分の背中で死なせておいて、平気なはずはない。

 平気なはずがないではないか。

 「嫌だ……また俺を置いて行っちまう……俺だけ残して、俺だけ!」
 叫ぶように泣き、泣くように叫んだ。
 人の気持ちを汲むことに優れ、また誰よりも熱い気持ちを持った少年は、喜びも、そして悲しみも、その全身全霊で味わい尽くしてしまう。いくら大人びて見えても、立て続けに訪れた早すぎる別れは、やはり過酷な経験なのだ。
 「……申し訳……申し訳ねえ、大棟梁さん。みっともねえところを……」
 「まったくだ。みっともねえったらありゃしねえ」
 老カツギの声音は優しく笑いを含んでいたが、言葉は容赦がなかった。
 「アンタがそうやってベソかいて、何がどうなるってんだ。言ったろう、人の命は御山が決めなさる」
 ぴしゃり、と言っておいて、
 「だからこそ人は、自分のできることを誠心誠意、精一杯やるしかねえのさ。だとしたら無代さん、アンタにできる精一杯ってのは、この老いぼれに土下座することかい? それとも、そうやってベソかくことかい?」
 無代がはっ、と顔を上げる。
 「その御方の最後の望みを、その手で叶えて差し上げる。それじゃあねえのかね?」
 そう言ってぽん、と無代の肩を叩く老カツギの表情は、限りなく優しかった。
 「……はい、大棟梁さん」
 涙に濡れた少年の瞳から、ゆっくりと迷いが晴れていく。そして、それを見つめる老カツギの心にも、ある想いが兆していた。
 (……このためだったのだ)
 胸の奥から、久しく忘れていた熱いものがこみあげる。
 (俺が御山からこの街に来たのは、コイツをこの手で御山に導く、そのためだったのだ)
 それはもう、ほとんど確信に近い想いだった。
 四貢のカツギの歴史上、棟梁が無事に一生を勤め上げて引退し、瑞花の街に隠居した、という前例はない。彼にそれが可能だったのは、現役中、天皇を筆頭に何人もの大物を担いだ褒美として、相当額の現金を受け取っていたこと、そして養うべき家族がいなかったことの二つがあったからだ。また、周囲の弟子達もそれを勧めてくれ、彼は御山を離れてこの街にやってきたのである。
 それからの日々は、本当に楽しかった。
 職人の頂点として、それなりの贅沢は経験してきた彼だったが、稀代の名君と謳われる殿様の下で繁栄を極める瑞花の街となれば、世界中から集められる珍しい文物には事欠かない。
 港を行き交う巨大な船、街に溢れる人の波、美しい女声達、美味い飯に酒、祭りに花火。

 夢のように過ぎる日々を、まるで子供に戻ったように楽しんだ。御山の弟子たちに送る手紙に、何を書こうか迷うほどだ。
 そしてその思い出の大半に、この少年・無代がいた。
 瑞花の街が、まるで自分の庭ででもあるかのように、老いたカツギの手を引いて、あらゆる場所へ連れて行ってくれた。料理を振る舞い、酒を持ってきてくれた。生涯、山のことしか知らなかった男に、人としての楽しみを教えてくれた。
 何よりも、家族の温かさを味あわせてくれた。
 最初は、母親を背中に背負うやり方を教えただけの、小さな縁でしかなかったものが、いつしか街の片隅に結ばれた、本当の家族のように育ったのだ。
 (コイツのためなら、命もくれてやろう)
 老いたカツギの、それは偽らざる気持ちだった。
 どうせ残り少ない命である。ましてそこに御山からの天命が課せられたというなら、それこそ望むところだ。
 (このまま、ここでくたばったって一片の悔いも無ぇ老いぼれに、こんな豪勢な土産まで持たせて下さるってんだ。さすがは四貢の御山、粋な話じゃねえか)

 老いたカツギの血が久々に、いやこれほどに滾ったことがかつてあっただろうか。
 「行こう、無代さん。今度はあっしが、アンタを連れて行く番だ」
 差し出された老人の手、その皺だらけの、日焼けで真っ黒な老人の手を、無代の若々しい手が両手で握り返す。
 「はい、大棟梁さん」
 そして、ぴしり、と畳の上に座り直すと、改めて両手を付き、
 「ご教示、どうかよろしくお願い申し上げます!」
   『無代の天下奉公』

 後に読み物や芝居にもなり、末永く人気を保つ物語の、その最初の見せ場として名高いのが、この『四貢登り』である。
 老いた名人カツギから秘伝を授かり、危険な山に挑む無代が、道中で出会う荒ぶる龍神や、意地悪な山の精霊達の妨害を、恋人の香姫の力を借りながら、知恵と勇気で切り抜けていく。
 そしてついに、頂上に至った無代が月の光で船を編み、それに乗った『あの人』が天へと旅立つ。
 『四貢の別れ』。
 泣かせるシーンだ。
 そしてこの時に授かった名刀『銀狼丸』を腰にして、無代の冒険の本番、ルーンミッドガッツへと向かうのである。
 無論、フィクションだ。
 龍だの精霊だのもたいがいだが、いくら無代だって月の光で船なんか編めるわけがないし、『銀狼丸』は山に登るずっと前、とっくの昔に受領済みである。ルーンミッドガッツに向かうのも、だいぶ後のことだ。
 まして香に至っては、この時まだ会ったことすらない。
 戯作者などという連中は、まあ何でもドラマチックに書くものである、ということだ。
 おっと、話が逸れた。

 「さあ、そうと決まりゃあ無代さん、アンタに聞いておかなきゃならんことがある」
 老カツギが言いたいことを、無代はすぐに理解する。
 無代が四貢山に連れて行く『お方』。謎の武士の正体だ。
 「ごもっともです。……だが大棟梁さん、誠に申し訳ねえのですが、それを言う前に一つだけ、約束してもらいてえ」
 「皆まで言うない」
 老カツギが笑う。
 「何もかも、ここだけの話だ。この口が裂けたって、誰にも漏らすもんじゃあありませんよ」
 これは嘘でも何でもない。四貢のカツギは、カツぐ人の秘密は決して漏らさないのが掟だ。
 「では申し上げます。どうか驚かねえで聞いておくんなさい」
 無代が馬鹿に真剣な顔になるのを、老カツギは苦笑で迎える。
 「それも、いらねえ心配だぜ。無代さん」
 どん、と拳で自分の胸を叩く。
 「こちとら四貢のカツギだ。何を聞いたって、びくとも驚くもんじゃねえ。さあ、言ってご覧なせえ。その御方ってのは、どこのどなた様だ?」
 その様子に、さすがの無代も安心したようだ。
 意を決して、口を開く。

 「一条瑞波守銀(いちじょうみずはのかみしろがね)公。まぎれもねえ、瑞波の国のお殿様でいらっしゃいます」

 直後。
 もういい刻限の夜中だというのに、大慌てで隠居所を飛び出して『医者』を呼びに走る、少年・無代の姿があった。
 後に老カツギ、この日のことを笑い話にするたびに、
 『無代さんも、人が悪りぃぜ』
 と、頭をかいたという。
 ともあれ、このカツギの老人と四貢山との縁が、無代に大きな経験をもたらした。山で生きるすべを身につけたのも、武装鷹やペコペコの世話を叩きこまれたのもこの時期だ。
 そしてそれは今、動乱の最中にある空中都市・ジュノーへとつながっていくのである。

 つづく
 
中の人 | 第十四話「Cloud Climber」 | 10:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十四話「Cloud Climber」(3)
 岩壁から張り出した岩を、人差し指から小指まで四本の指先を揃えてぎゅっと曲げ、引っ掛けるように掴む。この時、親指は人差し指の上に置き、指にかかる負荷を軽減する。
 これを『カチ持ち』という。
 岩登りの基本である。
 この時、猿が木の枝にぶら下がるときのように、腕を伸ばしておくと疲れない。
 『猿肘』だ。
 同時に、やはり猿がするように、使っていないほうの腕はだらん、と下げて休ませる。
 『猿休み』である。
 また指を引っ掛けるための張り出しがなく、ただ盛り上がっているだけの岩は、指をぎゅっと広げて張り付くように掴む。
 『ヤモリ持ち』という。
 あるいは氷柱のように下へ垂れた岩を両手で掴んで登る。
 『〇〇コ(いわゆる男性器の俗称)掛け』という。
 岩の裂け目に指を差し込んで登る。
 『〇〇コ(いわゆる女性器の俗称)掛け』だ。
 いささか下品なのは謝罪しておくとして、無代が四貢の山で教わった技術といったら万事がこの調子であり、技術の高度さ、複雑さに比例して隠語がキツくなっていく。
 ふざけている、と言えばその通りだが、逆に言えばそれだけの心の余裕がなければ使いこなせない、といってそれがなければとても登れない、そんな難所がいくつもあることを示している、とも言えた。
 さて、
 『一年で一人前のカツギになる』
 とまあ、口で言うのは簡単だ。
 (って、そんなワケないわな)
 今や青年となった無代は苦笑する。
 今はもう懐かしい思い出となった、あの老カツギとの夜を思い出すたびに自然と浮かぶ、それは苦笑だった。
 いくら才能を認められたといっても、結局は素人に毛の生えた程度でしかない少年が、そうそう簡単に一人前になれるはずもない。
 思い出せば、苦難の連続だった修行の日々。
 そして四貢山登山。
 その後に訪れた老カツギとの、そして『天井裏の魔王』との避けられぬ別れ。
 (結局最後まで、迷惑のかけ通しだった……)
 苦笑の次に思い出されるのは、苦い思いばかり。
 だがその苦さとは裏腹に、記憶の中の老カツギはいつも笑顔だった。修行の途中でも、別れの死の床でも愚痴ひとつ言わず、それどころかずっと楽しそうに笑っていた。
 『無代さん。お前ぇさんを御山に連れて来られてよかった……本当によかった』
 そう言って、最後まで満足そうに笑いながら逝った老カツギ。
 その魂が今も四貢山の懐に抱かれてあることを、無代は微塵も疑わない。
 (どうか……どうぞ見ていておくんなさい、大棟梁さん)
 無代は心の中でそう呼びかける。
 そしてあの日に教わった通り、基本に忠実な『カチ持ち』で岩を捕らえ、足の親指側で岩を踏む『内掛け』で身体を持ち上げる。
 ぐいっ、と身体を上方に持ち上げる時の、呼吸の回し方。
 身体と命を預けるロープの結び方、捌き方。
 それらすべての技術が今、無代の命を支えていた。
 風が、ひゅう、と無代をあおる。
 足の下には、文字通り何もない。
 見下ろしても見下ろしても、地上の影すら見えない断崖絶壁。そのど真ん中に、無代は張り付いていた。
 空中都市ジュノー、その外周壁だ。
 空の真ん中に浮遊する稀有の都市を囲む、冗談抜きで底無しの大絶壁を今、無代は登っているのである。
 岩壁の高さだけでも千メートル、そこから地面まではさらに遠い。
 落ちれば当然、命はない。百回死んでもまだ、お釣りの方が遥かに多いだろう。
 だがそんな極限の場所にいながら、無代の表情にはまるで恐怖も、緊張も感じられない。それどころか、
 (お蔭さんで楽なもんです。大棟梁さん)
 いっそ鼻歌交じりの勢い。この奇跡の空中都市を囲む大岩壁をひょい、ひょいと登っていく様は、進歩した装備や技術を持つ現代のクライマーさえ凌駕する。
 が、もちろんそこにはカラクリがある。
 「おし、灰雷。次、あのパイプだ」
 無代がそう言って、先端にフックの付いたロープををひょい、と宙に投げる。瞬間、
 しゅっ!
 岩壁すれすれを舞う巨大な影が、翼をひと打ち。空中にあったフックを嘴にくわえ、ロープを引いて空を翔る。
 武装鷹(アームドホーク)・灰雷(ハイライ)だ。
 グラリスNo1スナイパーの愛鷹である彼女は、飛行船『マグフォード』での邂逅以来、ずっと無代と行動を共にし、その行動をフォローし続けているのだ。
 「右、そう、そっちの一番太いやつに頼む」
 無代の指示を受けながら、ジュノー外壁に張り出したパイプの一本に、ロープの先のフックを引っ掛ける。
 鷹師の使う武装鷹はこのように、戦闘能力に加えて知能も高い。人語も相当のレベルで理解するし、行動能力も人間の子供程度は十分にある。
 この程度のお手伝いは、むしろ正しい意味での役不足だ。
 「よっ、と」
 ぐっ、とロープを引っ張って安全を確認し、無代が登攀を再開した。
 ところで、ロッククライミングの命綱というものは通常、登る人間の『後』にあるものだ。素手で岩を登ったところでハーケンを打ち、そこにロープを固定しておいて、また登る。そうすることで、もし手を滑らせたとしても、最後に打ったハーケンの位置で落下が止まる、という寸法だ。
 ところが無代の場合、その復帰ポイントが『自分より上』にある。こうなると、そもそも落下する心配がない上に、岩に適当な手掛かりが無い場合は、そのロープをよじ登ればいい。
 灰雷の助けも含めて、これは反則もいいところだった。
 もちろん、だからと言ってこの大絶壁を相手に、誰でもこうして鼻歌混じりで登れるわけではない。
 この高度でも平気で活動する胆力に加え、老カツギに鍛えられた技術なくしては、無代とても不可能だったはずだ。
 心配といえば唯一、ロープに不慮の破損があることだが、それも極小である。
 何せこのロープ、ただのロープではない。
 『忍者』の持ち物だ。
 しかもその辺の野良忍者ではない。誰あろう、グラリスNo14忍者、その人の忍具なのだ。
 (軽くて細くて、その上に丈夫と。さすが見事なもんだ)
 感嘆する無代だが、果たしてどこでそれを手に入れたのか。
 G14本人から? いや、違う。
 さしものグラリス師範忍者も、無代と出会った浮遊岩塊『イトカワ』の上では、ロープどころか手裏剣の一本すら持っていなかった。
 ではどこから?

 実はなんと、カプラ社宿舎にある『彼女の部屋』から拝借したのだ。

 戦前機械『セロ』に囚われた翠嶺を救わんと、灰雷と共に『マグフォード』を飛び出した無代。『セロ』に追われながら、辛くも空中都市ジュノーに上陸した彼が、まず最初にしたことこそ、街にあるカプラ社の宿舎に忍び込むことだった。
 もちろんこれが常時ならば、とても褒められた話ではない。
 いや、それどころか一発御用の犯罪行為だろう。
 が、今は非常時、真っ当なモラルを語っている場合ではない。もちろん、れっきとした目的もある。
 その目的とは、まず灰雷にメッセージを持たせたカプラ社公安員、エスナ・リーネルトに接触することだった。
 カプラ嬢達が浮遊岩塊『イトカワ』に囚われた後、ジュノーのカプラ社宿舎に置き去りにされていた武装鷹・灰雷に手紙を託し、空に放ってくれたエスナ。カプラ社幹部による会社乗っ取りの陰謀に、単身で立ち向かった彼女なら、きっと灰雷と無代の力になってくれるはずである。
 彼女がまだ宿舎に留まっているかは不明だが、ジュノーの中でほぼ単身の無代がアテにできる手掛かりといえば、今はそれしかなかった。
 さて、その空中都市ジュノーは3つの超巨大岩塊を連結して形成されている。
 政府庁舎やセージキャッスルなど首都機能を象徴する施設がある『ソロモン』。
 共和国図書館、シュバイチェル魔法アカデミーなど研究・教育機関が集まる『ハデス』。
 そしてジュノー国際空港を擁し、一般市街地が広がる最大の岩塊『ミネタ』。
 以上の3つだ。
 目指すカプラ社の宿舎は、ミネタ岩塊の外れ。無代達が上陸したジュノー国際空港とは、ちょうど反対側にある。
 今、ジュノー上空にはレジスタンスの首領『プロイス・キーン』が操る戦前機械『セロ』が周回しており、町中にもその配下のレジスタンス部隊が哨戒を続けている。
 無代は彼らに見つからないよう灰雷のナビゲーションを受けながら、あらん限りの速度で市街地を駆け抜けた。
 地を這うような低空を飛ぶ武装鷹に導かれる、破けたツナギにデッキシューズの妙な男を、しかし見咎めるジュノー市民の姿はない。
 (……?)
 無代が不審に思ったのも一瞬。無人の理由はすぐ判明した。
 彼らは全員、ハデス岩塊に移動させられているのだ。
 プロイス率いるレジスタンスは、数万人に及ぶジュノー市民を最小のハデス岩塊に移し、その上で連結橋を破壊した。
 なるほど、市民による抵抗を防ぐには極めて有効な手段だ。
 蝶の羽やワープポータルによる転移魔法で移動しようにも、本来『カプラ・グラリス』が立つべき3カ所のカプラポイントはすべて、BOT化されたカプラ嬢が占拠していて、空間転移を封じている。
 こうなってしまえばそれこそ翼でもない限り、ジュノー市民がミネタ岩塊に、まして『ユミルの心臓』が納められた賢者の塔を有するソロモン岩塊に移動することは不可能だった。
 (うまいこと考えやがる)
 敵ながら、都市制圧の方策としては的確だ。
 本来は重要施設を『守る』ことに特化した空中都市の構造が、今は逆に制圧のために利用されてしまっている。
 『マグフォード』にとどめを刺さず、まんまと逃したとはいえ、決してナメてかかれる相手ではなさそうだった。
 カプラ社宿舎。
 それは高い塀と、頑丈な門に守られた堅牢な石造りの建物である。
 そりゃ世界最高の『女の園』に忍び込もう、などという不埒者から、大切なカプラ嬢を守るためとくれば、この程度は当然の備えだろう。

 敵の見張りはない。
 カプラ嬢は全員囚われの身で、ここに戻る人間は皆無、と思い込んでいるのだろう。
 「……、よし、頼むぜ灰雷」
 無代が小声で、頼りになる相棒に合図。
 周囲の監視の目がないのを確かめ、高い外壁に向かって無代がダッシュする。ボロボロのデッキシューズで思い切り石畳を蹴ってジャンプ。
 もちろん届かない。だがそのタイミング。
 ばさあっ!
 後方から加速しながら飛翔してきた武装鷹・灰雷が、掬い上げるような急上昇軌道を描きながら、無代の背負った巨斧・ドゥームスレイヤーの柄を爪で引っ掛ける。
 ぐんっ!
 ジャンプの頂点に達し、落下に移る直前だった無代の身体が、さらに2メートル近く浮き上がった。
 がしっ!
 無代の身体が外壁の縁にしがみつく。さすが灰雷、無代を飛ばすことはできなくても、この程度の補助なら朝飯前である。 
 まんまと外壁を乗り越えた無代は、施錠された扉の鍵を複雑な道具で解錠すると、宿舎内に侵入した。カツギだけではない、大工やとび職、鍵屋の技術まである無代ならではの手際だ。
 何と言うか、いっそ『堂に入った』侵入ぶりである。

 彼を育てたと言ってもいい瑞波・桜町の職人たちが、無代について一番心配したのが、実はコレだった。
 『無代の野郎が手っ取り早く金を稼ごうと思ったなら、そりゃ泥棒んなるのが一番だ』
 そこまで衆目が一致するほど、無代という男が身に着けた技能は多彩で、そして『実用性』を極めている。
 もちろん無代、その技術を悪事に使ったことなどない……はずなのだが。
 侵入した寮内は、しん、と静まり返っている。
 (……無人、か)
 ある程度予想できたことではあるが、さすがの無代も少し落胆。
 女子寮の本来の住人たちはすべて、敵の手によって浮遊岩塊『イトカワ』に拉致された。
 それに対抗すべきカプラ公安部も、その長たるカプラ社専務ヒルメス・アイダ自身の裏切りで壊滅している。

 唯一それに抵抗し、この宿舎から灰雷を解き放ったカプラ公安員エスナ・リーネルトが、まだここに留まっている可能性に賭けたのだが、残念ながら外れだったようだ。
 とはいえ、いつまでも落ち込んでいる時間はない。
 『マグフォード』のアーレィ・バーク船長が約束した、ジュノー帰還の時間『4時間』まで、
 (やべえ、もう30分以上使っちまった)
 無代は即座に、次の目的へと行動を切り替える。
 第二の目的、それは『武装鷹・灰雷の戦闘装備を入手』することだ。
 灰雷にメッセージを託したエスナが、灰雷を解き放つ際に施した装備は、いわゆる『汎用型』。ある程度の距離を飛ぶことができ、戦闘能力もそこそこあるという、悪く言えばどっちつかずの装備である。
 だが今、敵陣のど真ん中にいる無代たちにとって、必要なのは敵に対する絶対的な戦力。
 すなわち『対人(アンチパーソナル)』・『対物(アンチマテリアル)』を目的とした強装備こそ必須である。

 またも灰雷の案内で、宿舎の裏手に回る。
 そこにはカプラ嬢達が使役する動物たちの飼育小屋と、広々とした運動広場がある。
 面積の限られる岩塊の上に建設されたために、何よりも『広さ』が貴重なジュノーの街で、動物たちだけのためにこれだけの面積を割ける、という事実が、何よりもカプラ社の力と財力を証明している。

 その時だった。
 がちゃり。
 女子寮の門が開く音。
 (……?!)
 びくり、と立ち止まった無代の耳に、近づいて来る足音が二つ。
 堅い、軍靴の音。街の中を移動中、何度か聴いた哨戒兵の靴音。
 敵だ。
 無代の全身を一瞬、焦りの炎が焼く。
 (やべえ……見つかった!?)

 つづく
中の人 | 第十四話「Cloud Climber」 | 03:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十四話「Cloud Climber」(4)
 (やべ、見つかっちまったか?!)
 近づいてくる2人分の足音に、無代は、あわてて女子寮の裏口に引っ込んだ。
 草むらに身を隠すウサギさながらに身をかがめ、背中に背負った巨斧に手を延ばしながら、近づく足音に耳を澄ます。
 (……ん?)
 だが不思議、無代を見つけて追ってきたにしては、敵の足音に緊急性が感じられない。むしろ向こうの方が、逆に足音を忍ばせている風さえある。
 そっと外をのぞく。
 青々と芝生がひかれた広い運動場の隅に、下手な人家より立派な鳥小屋。武装鷹・灰雷(ハイライ)と騎鳥ペコペコ2羽分の建物だ。その前に、2人のレジスタンス兵士がいた。
 こちらに背を向け、どうやら鳥小屋の扉をこじ開けようとしている。
 (俺じゃないのか……?)
 無代はひとまず胸をなでおろすが、といって安穏としていられる状況でもない。無代と灰雷が目指す武装は、その鳥小屋に隣接する物置の中だ。
 そしてペコペコ小屋の中には確か……。
 (……あ)
 そこまで考えた無代が、2人の兵士の目的について、一つの答えにたどり着いたちょうどその瞬間だった。
 どずぅん!
 「うっ……げ?!」
 「げふ!?」
 ぞっとするほど重い衝撃音、加えて2人分のうめき声。
 そして無代と灰雷の目の前で、2人の兵士の身体が折り重なったまま、後ろ向きに数メートルも吹っ飛ばされる。
 ペコペコの鳥小屋に入ろうとして、逆に中から物凄い力で突き戻された。無代がそこまで見取ったのもつかの間、鳥小屋の中から巨大な黒い影がのっそりと出現し、仰向けにぶっ倒れた2人の兵士を真上からずん、と踏みつける。
 2人の兵士は声も出ない。
 思わずあっけにとられる無代より速く、動いたのは灰雷だ。
 ぱっ、と無代の側を飛び立つと、巨大な黒い影の周りをくるり、と一回りして、ぴぃっ、と小さく鳴き声を放つ。
 地面の上で半分気絶した兵士の元へ、無代がたどり着いたのはそれかから数秒も後だった。
 その間にも、二人の兵士を半死半生のままに踏みつけている影。
 騎鳥ペコペコだ。
 見上げるほどの巨体と、陽の光を飲み込む闇色の羽毛。その先端を飾る深紅の差し色のコントラスト。
 嘴に黄金と宝石をふんだんに使った、聖別を意味する十字架の象眼。
 「おお……お前さんが『フィザリス』か!」
 無代が思わず感嘆の声を上げる。
 『フィザリス』
 それはグラリスNo9パラディンの愛鳥である。
 義足のG9パラディンは、その片足を失った戦いで、同時にかつての愛鳥も失っている。それを知った教会が特例を発動し、法王の御座用ペコペコを育てる専用牧場から選び出して、3日に渡る聖別の儀式を経た後に与えたという雄鳥である。
 その後、世界に例のない生体義足のリハビリを、文字通り二人三脚で乗り越えた一人と一羽の間に、一体どれほど深い絆が結ばれたか。 それは彼ら自身の他には、到底うかがい知れまい。
 乗り手である義足のG9パラディンの重装甲を支え、さらに自分自身にも戦車並みの装甲をほどこすために、並のペコペコよりふた回りは巨大で、逞しい。
 この巨体に激突され、その上に踏みつけられた兵士達こそ災難。しかも本気で踏めば即死は免れないところを、手加減されて生殺しというのだから、まさに災難の上の災難である。
 無代があり合わせの布やら紐やらで2人の手足と口を封じ、その後にやっと解放されたのが、むしろ幸いというべきだった。
 とはいえ2人に同情はできない。
 彼らの目的こそ騎鳥ペコペコを盗むこと、つまりは『鳥泥棒』であり、これは窃盗罪の中で最も不名誉、かつ重い罪とされている。国によっては『四肢を切り落とされた上に晒し者』等の苛烈な刑罰さえ用意されていることを考えれば、フィザリスに踏んづけられる程度は温いにもほどがあった。
 ところでペコペコ泥棒と言っても、実は彼らが盗もうとしたのはこのフィザリスではない。
 いや、彼とて本来は法王か枢機卿クラスでなければ騎乗できない超高級ペコペコであり、もし盗んで売れば目の玉が飛び出るほどの値が付くだろう。
 が、それでも本命は彼ではないのだ。
 フィザリスに続いて、鳥小屋の中からするり、と扉をくぐる動作。それすら高貴に見える、サファイアの羽毛。
 「うぉう……」
 さすがの無代が、言葉にならない。
 大陸有数の大貴族であるグラリスNo10ロードナイト、その家系に聖戦時代から伝わる超希少血統。
 世界に二つとない、深く沈む青銀色の羽根の雌鳥だ。
 その超貴重な血を手に入れるため、かつて卵一つと引き替えに複数の城と領土を差し出そうとした貴族もいた、という。
 その余りの希少性と由緒ゆえ、一部では『伝承種(レジェンド)』の一つにすら数えられる一羽。もし盗んで売れば、まさに国一つと交換するほどの富が手に入っただろう。
 「『氷河(グレイシャ)』……」
 青色に由来するその名を無代がつぶやいても、そちらには目もくれない。細身だが強靭に鍛えられた身体を、あくまで優雅に揺らしながら、芝生の上でゆっくりと毛繕いを始める。
 無代はそこで初めて、鳥小屋から漂う異臭に気づいた。小屋の中に溜まった抜け羽と、糞の匂い。床に敷かれた寝藁は汚れ、一部は腐り始めている。
 (餌と、水は?)
 見ればエサ箱には餌が、水溜めには水が入ってはいる。恐らくカプラ公安エスナ・リーネルトが、灰雷を解き放った時に補充したのだろう。
 だがそれから数日、水はうっすらと汚れ、餌箱には抜け羽が混じっている。
 ただでもきれい好きのペコペコ、しかも生まれた時から完璧な飼育下で育てられたフィザリス、グレイシャの二羽にとって、この状況はさぞ堪え難かったことだろう。
 してみると、鳥泥棒をぶっ飛ばしたのも八つ当たり半分かもしれない。
 (時間は無え……けど)
 これを放っておける無代ではない。
 「すまねえ灰雷、ちょっと待っててくれ」
 言い置いて、鳥小屋に立てかけてあった掃除道具を手に取る。
 『どんな服も微妙に似合わない男』が、しかし唯一似合うのがこの『仕事道具』を手にした時だ。
 ペコペコ小屋に入り、抜け羽と糞の混じった寝藁を取り除き、新しい清潔な寝藁に取り替える。 
 餌箱と水溜の中身を捨て、水道(ジュノーの街には世界で唯一、上水道が備えられている)から新鮮な水を汲む。
 川も湖もないこの空中都市で、手が切れるほど冷たく新鮮な水がどこからやってくるのか、それは後に譲ろう。
 餌も新しい餌袋から、封切りでたっぷりと補充。餌袋に商標がないのは、2匹のためのスペシャルブレンドだからだ。中身の調合はおそらく天下一の『巨大種使い(ギガントファンサー)』グラリスNo7クリエイターの仕事に違いない。
 二羽分の掃除と給餌、ここまで15分かそこら。
 フィザリスとグレイシャが自発的に小屋に戻り、悠々と腹ごしらえを始めたのを確認して、いよいよ本題だ。
 物置の中、灰雷の武装を収めたケースはすぐ見つかった。ほかならぬ灰雷が小屋の中に飛び込み、
 『これだ、これを着けろ』
 と、言わんばかりに嘴でケースをつついて教えてくれたのだ。
 「合点承知」
 無代がケースの鍵を、これまたあっさりと解錠して中身を一瞥。
 「……おー、さっすが」
 故郷のアマツで様々な鷹装備を見てきた無代が、思わず声をもらすほどの、それは代物だ。歴史と伝統に彩られたアマツの装備が劣るとは思わぬまでも、そこは現代最高・最新を誇るグラリス・スナイパーの持ち物。
 「こりゃあ、腕が鳴るってもんだぜ?」
 無代がぎゅっ、ぎゅっ、と指を屈伸。
 灰雷を鳥小屋の止まり木に止まらせ、工具を手に取る。飛行船『マグフォード』において、無代自身が装着した装備をすべて外し、代わりに新たな装備を着けていく。
 終わるまで、これも15分。
 速い。
 熟練の鷹師でもこの数倍、事によったら半日仕事になっても不思議ではない。
 「よし、上出来!」
 無代が自画自賛する。
 だがこれで終わりではない。
 物置から、さらに巨大なケースをいくつも引っ張り出し、すべてを解錠して芝生の上に広げる。
 フィザリスとグレイシャ、2匹のペコペコも武装させるのだ。
 まず黒色のフィザリス。
 「よう、フィザリス。俺は無代だ、よろしくな」
 「……」
 無代の挨拶に、もちろん言葉による返事はない。が、無代としっかり目を合わせ、承諾の意志を伝えて来る。
 彼らから見れば無代だって不審者だが、そこは灰雷の顔が利いている。してみると灰雷、ペコペコをはじめとするカプラ動物たちのリーダー的存在であるらしかった。
 フィザリスを芝生の上に連れ出し、全身の羽根にブラシをかけ、嘴と爪をやすりで整えておく。フィザリスも大人しくこれに従い、静かに身を任せてくれる。
 義足のG9パラディン、その愛鳥もまた主人に似て物静かで、敵の攻撃を一身に受けて味方を守る『守護聖騎士』の騎鳥にふさわしい、堂々たる風格を備えている。
 そしてとにかく大きい。
 当然その大きさの分、着ける武装も分厚く、重い。本来なら一人では不可能と思われる重装騎鳥の武装を、しかし無代は単独で行う。
 ジュノーの石畳で戦うことを想定し、足の爪も専用のものをセレクト。また数で勝る敵からの集中攻撃を考えれば、羽や身体を守るアーマーはもちろん、普段は着けない頭や目を守るシールドも不可欠だろう。
 槍や剣を収める鞘は、空のまま装備。中身は乗り手であるG9パラディンが、自らのカプラ倉庫から取り出して放り込むはずだ。
 額には、正面からの攻撃を左右にいなす衝角『一本角(ソロホーン)』が光る。
 そこまで済ませて、次はグレイシャ。
 「初めまして、『氷河(グレイシャ)』。俺は無代だ」
 無代の挨拶に、だが返事はおろか無反応。
 「おーい」
 無視。
 「……えーと、ブラシかけていいかな? ほら、抜け毛あるし、ここらへん……」
 ずん!
 「うぉう!?」
 近づこうとした途端、巨大な足で無代の足を踏みに来た。あとわずかでもかわすのが遅ければ、つま先から先を持って行かれるところだ。
 鳥小屋の掃除ぐらいは許しても、その身体に触れるとなれば主人のG10ロードナイトか、その人が許した相手でなければ許さない。この気位の高さは、さすが『伝承獣(レジェンド・アニマル)』と言うべきか。
 「参ったな〜」
 無代もはたと戸惑う。実をいえば無代、この手の気位の高い動物を相手にするのは、これが初めてではない。過去にも気難しい動物を幾頭も世話した経験がある無代であるが、とはいえ彼らに自分を受け入れてもらうには、相応の時間が必要だった。
 今の無代には、その時間こそ貴重。
 ばさっ!
 助け舟が来る。
 武装鷹・灰雷が鳥小屋の太い鴨居に止まり、青銀色のペコペコをじっと見下ろす。
 グレイシャも見返す。
 「……」
 「……」
 鳥と鳥、しばし無言の間にどんな意志交換が行われたか。グレイシャが突然、
 ぶわっ!
 と、大きく翼をはためかせると、無代の先に立って扉をくぐり、外の広場へと出て行く。
 無代の指示ではない、あくまで自分の意志だ、というのだろう。
 またも灰雷に助けられた格好で、しかも無代の地位が回復したわけでもないが、無代としては、
 (ま、仕事が続けられるなら文句無えや)
 大して気にもせず、グレイシャのお供に甘んじる。
 しかしグレイシャ、陽の光の下で見ると、ますます美しい。
 フィザリスに比べて細身な一方で、首や足、翼がすらりと長い独特のフォルム。その貴婦人の如きグレイシャの身体を、無代はことさら丁寧にブラッシング。
 同じく爪と嘴を整えた後は武装となるが、これに一工夫が必要である。
 実はこのグレイシャ、長身のG10ロードナイトを乗せて戦う、ただそれだけのペコペコではない。
 その道では知らぬものなし、という独自の『芸』を身につけていて、むしろそちらの方が彼女の血統よりも評価が高いのだ。
 彼女の持つ『芸』のための、独特かつ特殊な装備を、無代が取り付けていく。当のグレイシャといえば、灰雷が見張ってくれているおかげで邪魔こそしないが、決して無代に協力的でもない。
 さすがの無代も、すべての装備を取り付け終わる頃には、うっすらと汗をかいていた。
 だが。
 「うん、上出来!」
 ふんっ! と腕を組み、自分の仕事の出来映えを自画自賛する無代は、驚いたことに『最初より元気』になっている。
 『マグフォード』を出た後、『セロ』の脅威を前に必死でもがき続け、ここに至るまでも緊張の連続だったはずだが、その疲労をまったく感じさせない。
 カプラ宿舎に残されていた食料と、回復剤をいくつか拝借してはいるものの、その後も鳥小屋の掃除だペコペコの身支度だと働き続けているのに、この回復ぶり。
 『仕事をしていたほうが元気になる。その出来がよければ効果倍増』という無代の体質というか異常性こそ、何よりの特殊能力と言えるかもしれなかった。
 残るは2人の盗人の始末だ。
 絶対に逃げられないよう、改めてきっちりと拘束し、芝生の上にすっ転がす。そこは無代の仕事、老カツギ仕込みの縄さばきと結束術を持ってすれば、たとえ鬼だろうが金輪際ほどけるものではない。
 「で、そんな有様にしといて悪りぃんだけどさ」
 人なつっこい笑顔と、手には巨斧ドゥームスレイヤー。
 「ちょこっと質問に答えてくれると嬉しいんだがなあ」
 「……」
 既に意識を取り戻した2人は、それでもさすがに訓練された兵士らしく、どこの馬の骨とも知れぬ無代ごときの脅しには屈しない。
 「駄目か? じゃあ仕方ねえ。おーい、フィザリス」
 無代がその名を呼ぶと、2人の顔色がいきなり変わった。
 ずしん! と地面が揺れる。
 ただでも重い身体の上に、さらにこれでもかと重武装をほどこしたフィザリスが、無代の呼びかけに応えたのだ。
 地面に転がされた2人からも、分厚く整えられた芝生の上にくっきりと足跡が刻まれるのが見えたろう。もしあれに踏まれたら、もう手加減もクソもない。今度こそ即死だ。
 ずしん! ずしん!
 さながら罪人を地獄へ連れ去る鬼神の如き足音が近づく。
 慈悲はない。
 「……!!!!」
 2人の心があっさり折れた。
 さっき踏まれたのがよっぽど懲りたと見える。
 「おっけー、じゃあインタビューな?」
 無代が巨斧を肩に担ぎ、短い質問をいくつか。それだけで必要な情報はすべて揃った。
 後は器用に彼らの衣服をひっぺがし、荷物に詰め込む。靴だけはボロボロのデッキシューズと早々に取り替えた。
 「よっしゃ、グレイシャ、フィザリスも聞いてくれ」
 戦闘準備と腹ごしらえ終えた2羽のペコペコに、無代が話しかける。
 まず手に持ったホウキの柄で、芝生を削って一本の線をゴリゴリと引いておき、
 「いいか? この鳥小屋の影がこの線まで来たら、お前達のご主人がジュノーに帰って来る」
 とんとん、と線を、そして黒々と落ちる鳥小屋の影を指す。
 「そしたらお前達の出番だ。どうか全力で戦って、ご主人達を守ってくれ」
 無代がフィザリスを、そしてグレイシャの目を順番に見つめる。
 騎鳥ペコペコの知能は、鷹師の使う武装鷹に劣らず高い。無代の言葉を完全に理解(もちろん、彼らにも理解しやすいように説明する無代の手柄でもある)し、今度こそ二羽ともに無代と目を交わすと、確かに意志を疎通した。
 本当は灰雷同様、彼らについてきてもらえれば、恐ろしく頼りになる戦力だろう。が、騎鳥ペコペコが主人に示す忠誠は鋼鉄より堅い。いや、本来は武装鷹だってそうなのであって、鷹師でもない無代と灰雷の関係はもう奇跡のレベルなのだ。
 「よろしく頼んだ。じゃあ、縁があったらまた会おう」
 最後も無代らしく、鳥に対しても丁寧に頭を下げると、今度こそ正面玄関からカプラ女子寮を後にしたのであった。女子寮から大量の物資を荷物に詰め込んで逃げ去る姿は、どう見ても熟練の泥棒だったが。
 さて、2人の鳥盗人から得た情報を元に、目標は既に定めてある。
 ジュノー市民が囚われている浮遊岩塊『ハデス』、そこに次なる目標がいる。
 架綯。
 翠嶺の弟子の少年賢者が、賢者の塔の教授達とともにハデスに囚われていると、2人の鳥盗人が明かしたのだ。
 無代が今、こうしてハデス岩塊の外周壁にへばりついているのは、そういう理由からだ。
 ただ、ミネタ岩塊からハデス岩塊への連結橋は破壊されているはず。
 なのに、どうやって無代はミネタからハデスへ移動出来たのか。
 その種明かしはいずれ語るとして、ともかくも無代は敵の目を避け、上空の『セロ』からも死角となる岩塊外周の岩壁にへばりつき、目的の場所へとよじ登っているのだった。
 (……っんしょっ、と)
 無代の腕が、とうとう岩塊の上縁へかかった。
 そっ、と頭を出す。
 そこは岩塊の端の、荒れた灌木がまとまって生えたエリア。こうして顔を出しても、敵のレジスタンスから姿を隠せる。もちろん、岩塊の上に囚われた市民達の目からもだ。
 (架綯は……?)
 生い茂る藪ごしに目をこらす。事前の情報を元に、おおよその位置を特定して登ってきたとはいえ、市民でごった返す岩塊の上で少年一人を見つけるのは簡単ではない。
 だが、こと『目』となれば頼りになるのが灰雷だ。
 くい、と嘴で『あそこだ』と教えてくれる。
 (……いた!)
 岩塊の一角に賢者達が集められ、周囲を兵士が固めている。その足下に、うずくまるようにして架綯が倒れていた。
 生きてはいるようだ。が、遠目で見ても顔色が真っ青で、恐らく呼吸器の発作を起こしている。
 危険な状態だった。
 (どうする!?)
 無代がぐっ、と唇を引き締める。
 ここから架綯までの距離、兵士の数と兵種、装備。それらを目に焼き付け、頭をぶんぶんと回転させる。
 こちらは一人と一羽。お世辞にも戦力が充実している、とは言えない。
 だが。
 (やれるか……いや、やるしかねえ)
 ここまで来て、何もせずに引き下がるという選択肢は、どうせ最初からない。
 いつものように、本当ににそうすることが日常であるかのように。
 無代は決死の覚悟を決めた。
 薮に隠れながら岩塊の上に這い上がり、背中の巨斧『ドゥームスレイヤー』の柄を握りしめる。
 (ちくしょう、やってやる……やってやろうじゃねえか!)
 
 つづく
 
中の人 | 第十四話「Cloud Climber」 | 11:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十四話「Cloud Climber」(5)
 空中都市・ジュノー。
 地上1800メートルを超えるシュバルツバルド山脈の頂に、巨大な橋で繋ぎ止められたこの浮遊都市は、『ソロモン』『ハデス』『ミネタ』という3つの超巨大岩塊で構成されている。
 そのうち最も小さく、『シュバイチェル魔法アカデミー』など技術・研究関係の施設や企業が集められた『ハデス』の石畳。
 少年賢者・架綯(カナイ)は、その冷たい石の上に転がされていた。

 魔法が使えないように箝口具を噛まされ、印を結ぶ指を封じる指なし手袋を着けられ、さらに両手両足を縛られている。それは奇しくも師の翠嶺がされたのと同等の厳重さで、『翠嶺の弟子』という称号に対する評価と、そして恐れの現れだ。
 が、もしそうでなかったとしても、架綯が抵抗することはなかっただろう。
 冷たい石の上に力なく置かれた頭、その目は虚ろで、呼吸は細く、顔色は悪いのを通り越してどす黒い。もともと弱い呼吸器が発作を起こし、ほとんどチアノーゼに近い状態にまで悪化しているのだ。
 そして何よりも、身体を支える精神が、ほとんど粉々と言っていいほどに砕けていた。
 飛行船『マグフォード』を下船し、ホームに戻ってきたと思った途端、敵に襲われ、供をしてくれた草鹿少年は重症を負ったまま生死不明、『マグフォード』は撃沈。
 加えて、架綯が絶対の信頼を寄せる師の翠嶺さえ囚えられた、というのが致命的だった。
 こうなってはもう、『ユミルの心臓』の力を使ってカプラシステムを取り戻す計画どころではない、逆に『ユミルの心臓』が敵に奪われるのも時間の問題だ。
 まさに万事休す。
 生来、理性的かつ論理的な学究賢者だけに、架綯にはもはや抵抗する気力すら無い。もっとも、そのおかげで敵の暴力や酷い扱いを受けることもなく、ただ拘束されて転がされただけで済んだのは不幸中の幸いとも言えたし、翠嶺から与えられた『ユミルの心臓』へのアクセスキーも、まだ気づかれないまま首に下がっている。
 これが敵の手に渡れば、『ユミルの心臓』は今すぐにでも敵の手に落ちる。
 もっとも、そうでなくても一定の時間をかければ、敵が心臓へのアクセス権を獲得することは可能だ。カプラシステムに介入した手腕からみても、彼らにその能力があることは疑いがない。
 そうなったら、どうなるのか。
 この世界のあらゆる事象に干渉可能な戦前装置(オリジナルマシン)が、悪意ある敵によって自由にされた時に何が起きるのか。
 もはや架綯にすら想像もつかない。
 確かなことは、この世界そのものが根底から改変されてしまう、ということだけだ。
 だがそんな状況にあっても、
 (どうして……どうしたら……どうすることも……)
 架綯は混濁した意識の中で、ただ無意味な思考をぐるぐると旋回させるだけ。
 『翠嶺の弟子』、『呪文摘み(スペルピッカー)』。万人に一人の異能も、そこから冠せられた異名も、もはや何の役にも立ってはくれない。
 巨大な動乱の中で、少年はただ無力だった。
 無力感を噛み締めることも、無力さを嘆き、悔しがることもできぬほど、あまりにも無力だった。
 「……!」
 「……!!」
 頭の上で、誰かと誰かが口論する声がする。
 彼よりも年かさの賢者たちが、彼らを監視する敵兵士に対し、架綯の治療を要求しているのだ。
 だが、相手は当然のように無視。賢者たちが声を荒げれば、武器をかざして黙らせる、その繰り返し。最初のうちは微かな期待を抱いていた架綯も、もう今では賢者たちの言葉さえ耳に入らない。彼らが架綯のために危険をおかしているのは分かっていても、彼の耳はただぼうぼうと耳鳴りだけを伝えるだけ。
 ……の、はずだった。

 「架綯坊っつぁま〜!!!!」

 なぜかその声は、架綯の耳にやたらとはっきり聞こえた。
 「かぁなぃ坊っつぁまぁあ!!!」
 腹の底から搾り出すような、塩っ辛いドラ声。
 半分死んだような有様で石畳に転がった架綯までが、驚きの余り苦しさも何もかも忘れ、首を仰け反らして声の方向を見る。
 「架綯坊っつぁま〜!無代ぇでごぜぇます〜!」
 『むだい』が『むでぇ』としか聞こえない、主にフィゲル方面で使われる強烈な訛り。確かにフィゲルは架綯の故郷だが、それを彼に告げたことはなかったはずだし、そもそもいつ、どこでそんな訛りをおぼえたのか。
 「ああああああ!!! 架綯坊っつぁま! いま無代が参りますで!!」
 やっと架綯を見つけた風に、無代の声が近づく。
 人垣が割れる。
 「……?!?!」
 やっと姿を表した無代の姿に、架綯はほっとするどころか、さらなる驚愕に目を剥いていた。
 ボロボロの服にボサボサの頭。背中や肩にでっかい風呂敷をいくつも括りつけた姿は、なるほどド田舎の実家から仕送りの荷物を届けに来た、お上りさんの使用人そのものだ。
 だが架綯が驚愕したのはそこではない。
 
 無代の左足、その膝から下が無かった。

 逞しい脚が途中からバッサリと切り落とされ、傷口は包帯でキツく縛り上げられている。恐らく、何かの回復剤で出血と痛みを止めているのだろうが、それでも包帯はどす黒い血が重く滲んでいた。
 「坊っつぁま! お、お薬を! 今お薬をお持ちしますで!!」
 片足の身体を支えるのは、ボロ布を巻きつけた歪な松葉杖。それも長さが足りなかったと見えて、先っぽにそのへんの樹の枝を接いで縛り付けてある。
 その不安定な樹の枝が、無代が歩く度にみっしり、みっしり、と不気味な音を立てた。
 「坊っつぁま……坊っつぁま……」
 無代の塩辛声が、うわ言のように変化する。出血か、あるいは重症によるせん妄だろう。人間は身体に大きなキズを負うと、そのストレスによって脳内物質の構成が変化し、ある種の精神病に似た状態になる場合がある。
 みしり、みっしり、と、杖の音が響き、無代がよろよろと架綯に近づく。
 周囲の人々があっけに取られて下がる中、さすがに警備の兵士たちは正気に戻るのが早い。近くにいた騎士2人、プリースト1人、そしてチェイサー1人の4人が、無代に殺到する。
 騎士は抜刀、チェイサーも弓を構え、いつでも無代を殺せる体制だ。
 そう、いつでも殺せる。こんなド田舎者の、しかも片足の半死人など、いつでも殺せる。
 「ひ、ひいぃぃ!!」
 それが証拠に、兵士の武器の輝きを見た途端、無代の顔に明らかな怯えの表情が塗りたくられる。
 「お、お許し下せぇ! お許し下せぇ!!」
 右手と、不格好な松葉杖を支える左手まで動員し、手のひらを兵士たちに向かってブルブルと震わせる。
 「坊っつぁまは、架綯坊っつぁまは、たいへんな御病気なんでごぜぇやす! フィゲルの旦那様と奥様に、無代が怒られちまいます!」
 やっぱり『旦那様』が『だンさン』、『奥様』が『おくさン』にしか聴こえない。
 もちろん兵士たちにとっては、この男が主人に怒られようが知ったことではないし、それ以前に彼が怒られることはないだろう。だって、ここで死ぬのだから。
 チェイサーが弓に矢をつがえ、騎士達が剣を構える。せめて一撃で殺すのが慈悲だ。
 だが。
 「ゆみるのしんぞう!!」
 無代が叫んだ言葉が、兵士たちの殺意をせき止めた。
 「坊っつぁまは、ゆみるのしんぞうを動かせるんでごぜぇやす!」
 無代の叫びを聞いた瞬間、チェイサーの目が周囲の人混みに走った。
 『ユミルの心臓を動かせる』、無代の言葉が苦し紛れのデマカセか否かは、無代自身を見ていても分からない。
 それはジュノーの賢者たち、そして誰よりも架綯その人の顔を見れば分かる。
 「賢者の塔の賢者様に、お許しを頂いたんでごぜぇやす! おっぱいのでっかい、べっぴん様の賢者様に!!」
 無代の叫びが続く。
 チェイサーの一瞥、それ以上は必要なかった。
 賢者たち、そして架綯の表情には、明らかな動揺がある。言ってはならないことを、知られてはいけないことを、わざわざ大声で喧伝されてしまった、その事に対する反応。
 つまり、無代の言葉は真実だ。
 「捕らえろ!」
 現場の指揮官であるチェイサーが、2人の騎士に指示を出す。騎士たちが剣を納め、相変わらずよろよろと近づく無代を左右から押さえ込みにかかる。
 その瞬間だった。
 「架綯坊っつぁまぁ!」
 一言叫んだ無代の身体が沈み、2人の騎士の腕をかい潜る。と、書くと何かの技のようだが、実際には単にバランスを崩し、架綯の方へつんのめってズッコケたようにしか見えなかった。
 どべしゃあん!!
 背中や腰のでっかい荷物に潰されるように、無代の身体が石畳の上に転がる。その腕が、転がされた架綯に届く。
 ごぉん!!
 松葉杖が石畳の上に倒れ、重い金属音を立てる。くくりつけてあった樹の枝が、ついに外れてコロコロと石畳を転がった。
 「ちっ……!」
 騎士が舌打ちして、倒れた無代を引き起こそうと近づく。まったく、余計な手間だ。
 現場の最前線で戦う騎士は本来、華麗で勇壮なもののはずだ。しかし得てして本当の意味での最前線では、こういう『雑事』の方が多くなる。
 ところで、後方に控えたチェイサーは油断なく弓を構え、念の為に無代の足に狙いを定めた。残った片足の、膝の裏を撃ちぬいておけば、何者だろうがめったなことはできない。
 また既に、さらに後方に控えたプリーストに合図を送り、周囲の兵士に警戒の強化を命じている。
 (これは陽動だ)
 指揮官なら当然、そう考える。
 飛空戦艦『セロ』を頂点とする彼らレジスタンスは、ジュノーをほぼ制圧していたが、『ほぼ』ということはつまり『完全ではない』。
 シュバルツバルド政府要人を守る守備隊の一部は未だに逃亡し、都市のどこかに潜伏したままだし、賢者の塔の構成員も全員を確保できたという保証はない。
 となれば、この場所に警備の目を引きつけておき、その隙をついて大規模な攻撃を仕掛け、市民を解放する、という作戦は十分に予想できた。
 だからこそ、下手に兵力をこの場所に集中させることなく、広く周囲を警戒させた、その判断は常識的かつ正しい。
 ただ不運なことにこの場合、相手があまりにも『非常識』だった。

 まさか『たった一人で』、『たった一人を』掻っさらいに来た、などと、誰が想像するだろうか。
 
 チェイサーが弓をきり、と一絞り。距離ほんの2メートルほど、外しようは無い。
 しゅん、と矢が放たれた。
 ジュノーの風に真一文字の線を引き、うつ伏せの無代に矢が突き刺さる、そう見えた時だった。
 「……今だ、灰雷っ!!」
 無代が発した言葉を理解できたのは架綯と、そしてもう一羽。
 ずばんっ!!
 無代の背中の巨大な風呂敷が、内側から爆発するように弾け飛んだ。
 黒黒とした影がやすやすと矢を砕き、さらに左右2人の騎士を飲み込む。
 かぃぃん!! 騎士たちの身体にかけられたバリア呪文『キリエ・エレイソン』の発動音。
 (爆弾?!)
 2人の騎士が思わず無代から飛び離れる。
 だが遅い。
 しゅっ!!
 真紅の虹が二筋、シュバルツバルドの青空に弓を描く。血だ。
 騎士の喉が横一文字に、すっぱりと斬られている。喉を守るはずの金属の帷子が、まるで紙か粘土細工のように切り裂かれ、吹き上げる鮮血を綺麗に整えているのが皮肉だった。
 しゃりん!
 軽い金属音を響かせて、翼を一振り。
 武装鷹・灰雷だ。
 野生の鷹ならば本来、武器としては使用しない翼に、魔法金属オリデオコン製の刃を織り込んで攻撃する。『対人(アンチパーソナル)装備』の一つ、『刃羽(ブレードフラッター)』。
 その威力。
 最初の一撃ちで、まず両側の騎士のバリアを完全に損耗させ、戻す一撃で帷子ごと頸動脈を切り裂いた。
 高レベルの両手剣クラス、しかも『二刀流』。
 カプラ女子寮で、無代の手によってほどこされた強装備。
 ほぼ全身を覆う魔法金属製の鎧は、敵に見つかりにくくするため反射光を抑え、さらに元々の黒灰色の羽色に合わせて着色されているため、ほとんど『不吉』と言っていいほどに禍々しい殺気を放つ。
 その重さと、空気抵抗の大きな形状のため、灰雷の力を持ってしても、もはや長距離を飛ぶことはできない。
 だがそれと引き換えに、戦闘能力は折り紙つきだ。
 「武装鷹?!」
 チェイサーが叫ぶ。そうしながらも、素早く矢をつがえ直したのはさすが。が、しかしその矢を発射することはできなかった。
 くしゅっ!
 弓を握った左手が、一瞬で肉塊に変わる。
 「あぎ!?」
 何が起きたのか、チェイサーは不幸にも、それを一瞬で理解した。武装鷹、その最強の武器が、自分の身に襲いかかったのだ。
 鷹という生き物が持つ最強の武器。
 翼? 違う。嘴? 違う。

 正解は『爪』だ。

 我々の世界に暮らす鷹の中にさえ、その握力が人間の平均の3倍近い140kgを超えるものがいる。ましてこの魔法の世界、しかもそれを『対物(アンチパーソナル)装備』で強化しているのだ。
 めしゃっ!
 チェイサーの同時に彼の視界が真っ暗になり、次の瞬間、すべてが暗黒に飲み込まれる。
 頭蓋骨を頭装備ごと『握り潰された』、と理解できなかったのは幸いと言うべきか。
 「リザレクショ……っ!?」
 惜しい。
 騎士の一人を蘇生させようと、魔法の最後の一文字を唱える、その直前にプリーストが即死する。
 チェイサーの頭から飛び立った武装鷹が、一気に加速しつつ飛来。プリーストの心臓を、胸を覆った胸甲ごとぶち抜いたのだ。
 わざわざ装甲の上から攻撃したのは、自分の装備の威力を確かめるため。いわゆる『試し斬り』だ。
 当初装備していた嘴は、普段の狩りで使うためのインプラント型。嘴の一部を削り、そこに埋め込むように金属製の刃を装着するタイプで、そのまま日常生活もできる汎用性の高いものだ。
 だが今、灰雷の嘴は、そのすべてが分厚い金属に覆われている。
 人間どころか鎧さえ破壊する『対物(アンチマテリアル)装備』、『穿通嘴(ピアシングビーク)』。着けた状態では餌も、水も摂れない、ただ戦うことしかできない人造の嘴。
 飛ぶことも制限され、食物すら摂取できないこの状態では、灰雷といえども一日と生きてはいられない。
 空で生きて死ぬ、自由な鳥であることを捨て。
 いや『生物』であることすらも、今は忘れた。
 敵を倒す、ただそれだけの兵器。
 無代はただ彼女をこの場に連れてくる、それだけでよかったのだ。
 至近の敵は排除した。だが周囲に散っていた敵が集まり始めている。
 「頼んだぞ、灰雷!」
 言われるまでもない。
 この自分を、ただ無事にこの場に運ぶ、そのために片足まで切り落とした男に、もはや何を言われるまでもなかった。
 いずれここは天空の都市。
 ならばこの空の上、どこの誰がこの翼に並ぶというのか。
 ぴっ!
 無代を振り向きもせず、器用に片翼だけを力強く振る。
 一人と一羽の救出作戦、その幕はとっくに上がっていた。

 つづく
JUGEMテーマ:Ragnarok
中の人 | 第十四話「Cloud Climber」 | 11:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十四話「Cloud Climber」(6)
 (……すまねえ、灰雷っ!)
 武装鷹・灰雷が彼女の戦いを始めたのを確認し、無代は無代の仕事に取り掛かった。『囚われた架綯を背負ってこの場を脱出する』、それが無代の、無代にしかできない仕事だ。
 だが急がねばならない。
 灰雷が、この瞬間こそ敵を引きつけてくれているが、彼女だって無敵ではない。それどころか、どちらかと言えば圧倒的な不利、と断言していい。
 元来、鷹が持つ戦闘力は『獲物を狩る』ためのもので、つまり『一対一』が基本となる。今のような多数の敵と同時に戦う局面には向いていない。
 しかも主人である鷹師・G1スナイパーと離れ離れ、すなわち彼女とリンクできない状態では、世界有数の武装鷹といえども出せる力は半減もいいところだ。
 だからこそ正面突破ではなく、無代が敵陣の側まで運び、奇襲をかける必要があった。そして敵を油断させるため、片足まで切り落としたのだ。
 敵はそれなりに訓練された集団、多少の偽装で架綯に近づこうとしても警戒され、殺されて終わりだろう。といって全くの無意味、無価値と判断されても、スルーついでに殺されるだけだ。
 とにかく徹底的に『無害であること』を強調する、そのための片足。
 同時に『生かして話を聞けば有益』と思わせるため、『ユミルの心臓』という言わば殺し文句を口にする。
 案の定、敵は無代への警戒をゆるめ、殺しもせずに接近を許してくれた。
 おかげで灰雷が苦手な多対一の戦いで、ほぼ同時に四人の敵を退け、架綯救出の突破口を開くことができたのだ。無代の捨て身のお膳立てが功を奏したと言える。
 それにしても、
 (ガキの頃、善兄に両手両足ふっ飛ばされた、アレを思い出せば!)
 確かに無代、先輩である善鬼の、あの手荒いにもほどがある洗礼を経験している。
 一時的に痛みを消す薬剤『アンチペインメント』を飲めば、痛みだって消せる。
 とはいえ、だったら誰でも簡単に片足を斧で切り落とせるかといえば、そんなわけもない。ぶっちゃけ、それは狂人のすること。
 マトモな人間のすることではない。
 善良で無害な一庶民のように振る舞いながら、しかしイザとなれば戦場の狂気に身を浸す覚悟もある。この『振れ幅』の大きさと、それをコントロールするバランス感覚。
 アマツ随一の暴れ大名・一条家の姫君やら若様やら、飛び切りの『戦人(イクサビト)』達が揃って、この無代という青年に一目置いているのは、まさにこういうところなのである。
 「……っ!!」
 目立たないように、敵の注意を引かないように、灰雷が入っていた風呂敷から転がり出た『足』を掴む。
 自分で切り落とした自分の足の重さ、というのも実にぞっとしない。
 (うえ……)
 視界が歪む。
 足という巨大な器官の喪失を感知した無代の脳が、ある種の精神病のような状態を引き起こしている。メーターが振り切れるほど強大なストレスにより、脳内物質の濃度・構成に凄まじい変化が起き、重度の躁鬱病もしくは統合失調症にも似た『せん妄』状態に陥っているのだ。
 脳は極めてデリケートな器官であり、脳内のホルモンや神経伝達物質に僅かな変化が起きても、人間の精神活動に大きな影響をもたらす。こればかりは、気合や根性でどうにかなる問題ではない。
 脳は頼りにならない。ならば脊髄反射。
 『身体で覚えた』肉体の技は、女に振られてショボくれようが、老いてボケようが必ずや駆動する。
 それが無代の戦い方。
 手首に巻いた布に仕込んだ回復剤『イグドラシルの種』を口に含み、足の傷口と足をくっつける。『後ろ前』につけないように気をつけるなど、もはや喜劇のレベルだ。
 ぼりっ!!
 きつく縛った止血帯をほどくのと同時に、口の中の種を思い切り噛み砕く。このタイミングを間違えれば……
 (出血で死ぬ!)
 がば、と吹き出した血で一瞬、目の前が暗くなる。だが最強レベルの回復剤が即座に効果を発揮、膝から下を血に染めたまま、傷口が一瞬で塞がる。
 じん、という強烈な刺激が傷口から脳へ走りぬける。常人ならそれで気絶してもおかしくない。
 「はぅぇ……!」
 無代といえとも消化器官がでんぐり返り、吐きそうになるのを必死でこらえる。吐いたらせっかくのイグ種がもったいないではないか。
 立ち上がる。
 片足を失った状態から、ものの数秒で完全復活する頑丈さは、もう回復剤がどうのこうのいうレベルではない。
 「き、君、大丈夫か?!」
 架綯の周囲にいた賢者らしい男が、恐る恐る尋ねてくる。現場の荒事に慣れていない研究者らしく、完全に腰が退けているのは目の前の無代がガチで血まみれだから、それだけではあるまい。
 目的のために足まで切り落とす、この青年の異常性が理解できないのだ。
 「御免を!」
 無代は質問には答えず、石畳に転がされた架綯の拘束を解く。両手両足、そして箝口具。
 「!!!……ぶ、無代ざん!」
 口が自由になるや、架綯が無代にすがりつく。無理もない、今までの恐怖と絶望を思えば、救出者への心理的依存は仕方ないことだ。
 「……若先生、お怪我は?」
 無代が優しく架綯を受け止める。
 だが、無代でさえ見誤った。
 架綯が無代に訴えたかったのは、決して自分自身の恐怖や、無代への依存ではない。

 「無代さん、草鹿さんが!! 草鹿さんが斬られて怪我を! 草鹿さんを!!」

 どこにそんな力があったのか、無代の逞しい腕に跡が残るほど強く、架綯はその指を食い込ませる。
 「……若先生」
 爪が食い込む腕が相当に痛いはずだが、無代は痛みを訴えない。それどころか架綯を見る無代の目には、なんとも言えない、いっそ嬉しそう、と言ってもいい光が宿っていた。
 無代は見誤り、そして今、その認識を修正したのだ。
 自分の命の危機だというのに、開口一番、友の命を心配したこの少年を。
 「大丈夫、草鹿さんはご無事でいらっしゃいます。ご安心下さい」
 告げる言葉も力強い。
 「ふぇ……?」
 架綯の目が見開かれ、無代の顔を穴が空くほど見つめる。いつも、いつだって一片の嘘もない無代の顔が、何よりも真実を伝える。
 見開かれた架綯の目から、大粒の涙があふれる。
 「よかっ……よがっだ……あああ」
 溢れる涙と引き換えに、架綯の身体から一気に力が抜け、無代の身体をずり落ちていく。
 「詳しいお話は後で。逃げます、歯を食いしばって!」
 伝える言葉は簡潔。
 今の架綯のように、力を失った人体を背負うのは難しい……難しい? 悪いが、それはこの男には関係ない話だ。
 小柄な身体を正面から抱き上げ、丈夫な紐を両手で、さらに口、肘の間接、果ては架綯自身の口まで使ってするすると捌き、あっという間にしっかりと固定する。
 荷物を腰に結わえ付け、斧を背負う。仕事の速さ、確実さはいつものごとく折り紙つきだ。
 「灰雷っ、逃げるぞ!」
 相棒に一言、叫んで走り出す。
 さっきまで片足がなく、傷口から失った血だって少なくないだろうに、もはや化け物じみた体力と言うべきだった。
 だーん!!
 銃声が響いた。敵の銃士が、灰雷に発砲したのだ。ジュノーの空を派手に飛び回り、無代と架綯に近づこうとする的にヒットアンドアウェイ、一撃離脱戦法を繰り返していた灰雷だが、ついに動きを読まれた。
 ぎーん!!
 空を一直線に舞う灰雷の身体が、一瞬乱れる。直撃弾。無代がまとわせた凄まじい重装備のため、大きな怪我にはならないが、それでも一時的に速度が落ちる。
 「灰雷っ! 畜生てめえら、俺はこっちだ!!」
 逆に敵を引きつけるべく、無代が叫ぶ。
 叫びながら身を低くし、ジュノー市民の人混みにこそこそと紛れ込む。言わば人間の盾だ。
 卑怯、迷惑、言いたければ言え。
 逃げる無代に迷いはない。彼は確かに善良でお人好しだが、決して聖人ではないし君子でもない。
 何より、『今成すべきこと』と『そうでないこと』を取り違えるほど馬鹿ではない。
 むしろ、同じように市民を盾にしようとしない灰雷に、。
 (……そういえば、何故だ?)
 微かな不審すら抱く。
 武装鷹の知能がいくら高いといっても、マスターである鷹師の指示もなく、市民の巻き添えを回避する、そんなところまで気を回すはずがない。マスターと離れ、単身で無代についてきてくれた灰雷でも、本来そこまでする義理はないはずだ。
 いや、そもそもマスターであるG1スナイパーの存命と、その居場所が分かっているのに、なぜ灰雷は無代について来るのか。
 (……何かおかしい)
 市民を盾に逃げまわる、そんな極限状態に陥って初めて、無代は相棒に不審を抱く。
 そして即座に忘れる。
 今は明らかに、そんなことを考えている場合ではない。
 架綯を抱えたまま、無代が走る。うろたえる市民の足元を、両足、それに両手も使い、まるで小猿を抱えた母猿のように走る。
 『ハデス』から『ミネタ』へ渡る橋にたどり着いた。
 だがその橋はほとんど根本から破壊され、渡ることは不可能だ。体術に秀でたテコンキッドの跳躍スキル『ノピティギ』を使ってさえ、到底届かない距離。
 「逃すな!!」
 銃声がとどろき、頭の上を矢が飛び抜ける。銃は空に向かっての威嚇だが、市民の頭の上を曲射で射てくる矢はまずい。
 敵のほうが市民に気を使っているのは妙な話だが、レジスタンスの首領プロイスから『市民を傷つけるな』とでも指示が出ているのかもしれない。
 「若先生、しっかり歯を食いしばって、無代にしがみついて」
 言いながら、無代が橋のたもとの瓦礫を探る。
 あった。フック付きロープの先端。ニンジャの装備だ。
 無代が、あらかじめ自分の腰と背中に固定してあったロープに、フックの先端を引っ掛ける。ちょうど向かい合わせになった無代と架綯の身体の間を、ロープが通り抜ける格好だ。
 びん、とロープの張りを一度だけ確認。その先は、『ミネタ』の岸壁につながっている。その距離、数十メートルはあろう。
 「動くな!!」
 後方から追っ手。だがこの状況、止まれと言われて止まる奴はいない。
 「飛ぶぞ! つかまれ!!」
 無代の叫びに、架綯が必死に無代の身体にしがみつく。汗と、埃と、獣と、そして濃い血の匂いが架綯の肺を満たす。
 己の身体を張って戦う、男の匂い。
 「うおおおおお!!!」
 瞬間、
 ふわり。
 重力が消えた。
 そして次の瞬間。
 「ひ……ひゃああああ!!!!!!」
 猛烈な落下感に、架綯は絶叫した。
 落ちる。
 落ちる落ちる落ちる落ちる!!!
 対岸につなげたロープ一本を支点に、無代と架綯の身体が四分の一の弧を描き、対岸の岩壁へと滑空する。
 滑空、と言ってもこの状況、速度も何もかも、もはや自由落下と変わらない。さながら斜め方向へのバンジージャンプ。
 重力が2人の身体を完全にとらえ、暴力的なまでの加速を与える。
 これがブランコのように、岩塊と岩塊の間にロープの支点があったならば、反対側に振れた時に減速もできるだろう。
 だが支点の位置が悪い。対岸の岩壁に付き出した欄干の支柱だ。
 これでは無代と架綯の二人は、ひたすら加速した挙句に対岸の岩壁に叩きつけられる。間違いなく命はない。
 だがもちろん、無代に死ぬ予定はなかった。
 (今だっ!)
 がきん!
 無代の背中に金属音。巨斧ドゥームスレイヤーの柄を、灰雷が足で確保した。
 ばっ!!
 灰雷の翼が展開される。対人戦闘用のブレードを編みこまれた翼は、広げれば実に4メートル。一撃で人間の喉を裂く致死の翼が羽撃く。
 さながら無代の背中に翼が生えた如く。
 なんとまあ、とんだ天使もいたものだが、掃除洗濯家事全般こなすこんな天使なら、意外と神様も重宝するかもしれない。
 とはいえ無代、まだ神様のみ元とやらに呼び戻されるわけにはいかなかった。
 ぐん、と落下速度が落ちる。
 灰雷の翼を持ってしても人間二人を、いや一人だって空を飛ばせることはできない。
 しかし、こうしてパラシュート代わりに落下速度を軽減する程度なら十分に可能。それはさきほどミネタからハデスに『行く道』で実証済みだ。
 まず、ハデスにひしめく市民や見張りに見つからないよう、少し岩壁を降りた位置に陣取る。
 ロープの先をくわえた灰雷が対岸へ飛び、欄干へフックを引っ掛ける。
 あとはさっきの要領で飛ぶ。これが、無代が橋のない岩塊間を移動できた秘密である。
 もちろん、この『帰り道』で使うためのロープを、ついでに張っておいたことは言うまでもない。
 岩壁が迫る。
 灰雷が必死に羽撃いてくれるが、それでも限界はあった。
 架綯の耳が、ぼうぼうと鳴り響く風で千切れそうになる。
 「歯ぁ食いしばれ!」
 だから、その無代の言葉が聞こえたのは奇跡だったし、とっさに言われた通り歯を食いしばれたのも、奇跡だった。
 がつんっ!!!!
 それはいきなり来た。
 無代が両手両足で衝撃を殺してくれたが、それでもビルの20階から落ちるはずが、まあ2〜3階から落ちた程度に軽減された、というところか。
 「ぶっふぇ?!」
 架綯の背中が結構な勢いで岩盤にぶつかり、変な声が出てしまう。
 「我慢しろ、もうちょいだ!」
 無代が架綯を励まし、岩盤から突き出たパイプを両手で掴んで、ロープで揺れる身体を固定する。
 「ふんっ!」
 岩盤に足を支え、ぐいっ、と斜め上に移動。途端に、架綯の背中に冷たい感触。
 「ひゃっ!?」
 教授服の背中を伝うのは、水だ。それも氷のように冷たい。
 ざくん!
 「痛っづう!!!」
 無代の顔が苦痛に歪む。ハデスから撃たれた矢が、無代の肩を貫いた。岩盤の上で二人分の体重を支えていた無代の腕力が抜け、がくん、と半メートルほど落下。
 びん、とロープが張り、それ以上の落下は止まるが、無代と架綯はまた宙吊り。
 ばちん、びしん、と続けざまに矢が届く。直撃こそしないが、このままではいずれハリネズミだ。
 「無代さん!」
 「大丈夫!」
 悲痛とも言える架綯の声を遮り、無代が無事な片手を伸ばす。岩のわずかな窪みをとらえて『カチ持ち』、力づくでロープの揺れを止める。
 だが、それは弓師にとっても狙いがつけやすい、ということだ。
 ばつん!
 無代の背中に正確に打ち込まれた矢を、空中から飛来した灰雷が弾き返す。だが鷹の身体の構造上、空中の一箇所に対空するのは得意ではない。総ての矢を弾き返す、それは不可能だ。
 「がああ!!!」
 無代が吠える。矢に貫かれた肩を無理やり動かし、苦痛を押してロープを掴んでよじ登る。
 しゅん!
 無代にしがみつく架綯の耳元を、猛烈な勢いで矢が飛び抜ける。
 「灰雷、入れ!!」
 無代が叫び、同時に両腕の総ての力を動員して身体を持ち上げる。
 「ぶはあ!」
 ばちゃん!
 二人の上半身が、垂直の岩盤から水平な空間へと移動した。
 トンネルだ。岩盤に空いたトンネル。床に水がたまっているらしく、架綯の教授服の背中に刺すような冷たさが広がる。
 「ぐおおお!!」
 無代が両肘を立て、トンネルの奥へ身体をずり込ませる。未だ宙吊りの下半身に、これでもかと矢や弾丸が降り注ぐが、奇跡的に直撃はない。
 トンネルに入った。岩塊を刳り貫いて掘られた、高さ3メートルほどの円形のトンネル。入り口の部分こそ頑丈な金属で縁取りされているものの、奥に入れば全周がむき出しの岩肌で、凍るように冷たく透明な水がわずかに底を流れている。
 対岸の敵からはまだ攻撃が続いているが、角度が悪い。少しトンネルの奥に入れば、もう攻撃は届かない。
 架綯を抱いたまま無代が立ち上がり、ロープのフックを外す。灰雷も二人の足元に着地。
 背中の巨斧・ドゥームスレイヤーを外し、両手にしっかりと構える。
 トンネルの入口部分、金属の縁取りの上部に取り付けられた、人の頭ほどの大きさの機械に狙いを定め、
 「むんっ!!」
 がぎん!!!
 金属同士の重い衝突音、トンネル上部の機械が外側へ歪む。架綯を抱いたままで腰が入り切らない一撃だが、それでも斧の重さに由来する打撃力は相当だ。
 「ふんっ!」
 もう一撃! 今度こそ機械が壊れ、トンネルの外へすっ飛んでいく。そして、
 どっぐわああああん!!!
 さっきとは比較にならない巨大な衝撃音、と同時に、無代と架綯を暗闇が包んだ。
 「?!」
 無代の身体に縛り付けられたままの架綯には、ただ大音響と共に周囲が真っ暗になった、としか分からなかった。だがもし正面を向いていたならば、トンネルの入り口に巨大な物が上から落下し、日光を遮ったのが見えたろう。
 シャッターだ。それも分厚い金属で作られていて、これがちょうどギロチンのように上から入り口を塞ぐ仕掛け。先ほど無代が壊したのは、そのロック機構だったらしい。
 暗闇の中、分厚い金属に矢や弾丸が当たるカンカンという音が響いていたが、すぐに止んだ。さすがに無駄だと気づいたのだろう。橋を落とされている以上、彼らがここまで追ってくることはできない。
 「ひとまず……安全でございますよ……若先生」
 無代が架綯を安心させるように、低い声でつぶやく。が、さすがに息が荒い。
 「ですが、ミネタの守備隊に……連絡が行ったはずでございます。何より、あの空を飛ぶヤツが来たら……ヤバい」
 確かに『セロ』の『エネルギーウィング』なら、こんなシャッターなどトンネルごと消し飛ばしてしまうだろう。その威力は無代自身が身を持って体験済みだ。
 「奥へ……逃げないと」
 だが、そう言いながら、
 ぐわぁん!
 無代の手からドゥームスレイヤーが落ちた。
 「無代、さん?」
 無代の身体に縛られた架綯が無代の異常に気づく。が、遅かった。
 真下へ、短い落下感。
 べちゃ、という音を立てて、無代の膝がトンネルの床に落ちる。
 「無代さんっ!?」
 「……」
 返事はない。代わりに、ぐらり、と残った上半身が崩れる。途中、不自然に身体が捻られたのは、無代の身体で架綯を潰さないように、という無意識の気遣いか。
 ばちゃん!!
 ついに無代の身体が仰向けに、真っ暗なトンネルの床へとぶっ倒れた。
 ぴい!!
 灰雷の鳴き声。
 「無代さん!! 無代さんっ!!!」
 架綯の叫び声。
 だが返事はない。
 硬い岩盤のトンネル、その暗闇の中で、冷たい水に身体を浸しながら横たわる無代の身体からは、何の返事も返ってはこなかった。

 つづく
中の人 | 第十四話「Cloud Climber」 | 11:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十四話「Cloud Climber」(7)
 シュバルツバルド共和国の首都ジュノー。
 この天空に浮かぶ都市は、実は『世界一住みにくい町』として知られている。
 まず『物価が高い』。
 都市の面積が限られているため、土地や家賃が法外に高額なのは当然として、農業を営む土地がなく、食料はすべて都市外からの輸入に頼っているから、これも慢性的に高コストだ。我々の暮らす世界でも山岳国家であるスイスの物価が高いことは有名で、例えばマクドナルドのビッグマックセットが日本円で千円を超す。ジュノーもそれと似た、いやそれ以上に過酷な経済状況にあると思って頂いてよい。
 だからジュノーに住めるのはよほどの大金持ちか貴族、もしくは家や生活費が支給される人々だけだ。政治家や公務員、賢者の塔の教授や生徒、カプラ社や飛行船会社の社員らがそれである。
 しかしもう一つ、金があってもどうしようもないものがある。
 『水』だ。
 ジュノーには水がない。
 空中都市であるため、当たり前だが流れ込む川がなく、汲み上げる井戸もない。
 世界各国の首都の中でも、ジュノーは破格に人口が少ない都市だが、それでも十万人を超す市民の生活用水をどうやってまかなうのか。
 答えは『雪』だ。
 もともと高山地帯に位置することから、ジュノーは非常に降雪が多い。冬季の降雪量は平均五メートル、最大で八メートルを記録したこともある。
 この大量の雪を集めて貯蔵することで、一年間の都市用水としているのだ。
 ジュノーに雪と言われても、読者の皆さんには余りイメージがないだろうが、理由がある。降った雪はすぐさま、市民の手によって除雪・貯蔵されてしまうからだ。
 ジュノーに雪が降ると、市民は直ちに雪かき用具を手にし、石畳のあちこちに作られた除雪ピットへ雪を放り込む。雪が溶けてしまえばおしまいなので、時間との勝負だ。放り込まれた雪は圧縮された後に貯雪槽へと送り込まれ、次の冬までの都市用水となる。
 ジュノーの街が常に清潔で、よそ者の冒険者がゴミ一つ落とそうものなら市民から袋叩きに合う、というのもうなずける。貯雪槽へ送られる雪が汚染されることは、市民にとってまさに死活問題なのだ。
 一方、都市の地下には巨大な『貯雪槽』が、頑丈な岩盤を刳り貫いて複数設置されており、それらの貯水力を合計すれば、ちょっとしたダムにも匹敵するだろう。
 こうしてジュノー市民は水質の保たれた、文字通り氷のように冷たい水を上水道として利用できる。
 無代(むだい)と架綯(カナイ)、それに武装鷹・灰雷(ハイライ)が逃げ込んだのは、その貯雪槽と上水道を構成する、ちょっとしたダンジョンのような地下水路だった。
 「無代さん! 無代さんっ!!!」
 架綯の声が、真っ暗な地下水路に響く。
 が、返事はない。
 どこかの貯雪槽から解け出したであろう、まさに『雪解け』の冷たい水が微かに流れる岩のトンネル。その底に大の字に、仰向けでひっくり返ったまま、無代はぴくりとも動かない。
 架綯の身体は、無代の身体に抱き合わせに括りつけられたまま。無代の方が遥かに大柄なので、架綯の頭がちょうど無代の逞しい胸に押し付けられた格好だ。
 見方によってはいささか妖しくも見える状況だが、当の架綯はそれどころではない。
 「無代さん! 起きて下さい、無代さんっ!!」
 必死に呼びかけながら、細い手足を振り回し、動かない無代の身体をぱたぱたと叩き続ける。だが、やはり返事はない。
 息はある。胸に耳を当てれば、心臓も鼓動を刻んでいる。
 ただ意識だけがない。
 (どうして……!?!)
 ついさっきまで元気に、それこそ片足を切り落としてまで動きまわっていた。飛行船『マグフォード』で架綯と接してくれた間も、彼のためにずっと親身になって働き続け、そして疲れた顔一つ見せなかった。
 それが今、まるで電池が切れたように動かない。
 あれほど頼りになる、架綯から見れば無限にも思える活動力を持った青年が、いくら呼んでも返事すらしない。
 キッ!
 鋭い鳴き声は武装鷹・灰雷だ。
 彼女もまた『相棒』の異変に不安を覚えている。外へとつながる防水壁が閉じられた地下水路は真っ暗で、もともと闇が苦手な灰雷にとっては不安も倍増だろう。
 (……どうしよう)
 半ばパニックに陥る架綯をよそに、無代が目覚める様子はない。
 だが彼にとって、これはやむを得ない結果だった。要するに、限界が来たのだ。

 無代だって人間である。

 聖戦時代から生きている『戦前種(オリジナル)』だの、その血をひく『伝承種(レジェンド)』といった生まれつきの超人ではない。また一条家の若君のような、特異な身体に特殊な鍛錬を科した者でもない。
 『疲れても、仕事をしていれば元気になる』?
 冗談ではない。そんな人間が本当にいたら、それはもう人間ではない。
 無代はただ明確な目的と、そこに向かって進む強い意志と、それを支える体力が人並み以上にある、それだけの凡人だ。
 その男が、飛空戦艦『セロ』に囚われた翠嶺を取り戻す、という高すぎる目標のために、気力と体力を振り絞るようにしてここまできた。さらに言うなら、事の発端となったルーンミッドガッツ王国首都プロンテラで、カプラ嬢殺害の容疑をかけられて拷問を受けて以来、彼はずっと走り続けてきた。
 浮遊岩塊『イトカワ』でカプラ嬢達と共に生き延び、『ディフォルテーNo1』と共に決死のダイブを敢行し、翠嶺と出会い、『マグフォード』と出会い。
 武装鷹・灰雷と共に、炎のジュノー空域を駆け抜けた。
 そして『架綯救出』という大きなハードルを、それこそ奇跡のオンパレードでクリアしてみせた。
 そこで、とうとう限界を越えたのだ。
 彼を支えてきた気力・体力のうち、まず身体の方が悲鳴を上げた。架綯救出を成し遂げ、一瞬気が緩んだその瞬間に、すべてのバランスが崩壊した。
 さすがの無代をして、ついに『精も根も尽き果てた』のである。
 だが、架綯にそれは分からない。
 (どうしようどうしようどうしよう?!?!)
 ひたすら混乱する。
 この少年賢者を、決して馬鹿にするつもりはない。
 だが、ぶっちゃけて言うなら彼はこれまで、無代を『人間扱い』していなかった。
 いや、はっきり言うならこの世界の誰も、実の両親とも、まともな『人間関係』を作ってこなかった。
 自分自身とさえも。
 少年賢者・架綯にとって、世界はシステムだった。
 それも出来の悪いシステムだ。
 周囲の人間には、応答性の悪いスイッチしか着いていない。押しても応答がない、答えても間違っている、そもそも押し方が分からない。
 自分のスイッチも同じだ。
 そんな中で、押せば必ず応えてくれた翠嶺という師は、実に出来のいいシステムだった。押さなくても応えてくれた無代という人間もまた、よく出来たシステムだった。
 そんな架綯に薄目を開かせたのが、あの『マグフォード』での一幕であったのだ。
 そして今、架綯というシステムは決定的に破綻しつつあった。
 真っ暗なはずの地下水路に、血まみれで倒れ伏す草鹿(くさか)少年の幻が映る。炎を上げて雲の中に沈む、『マグフォード』の幻が続く。
 無代の身体が冷たくなっていく。
 (……!!)
 そう、無代の体温が下がっている。架綯の身体の下、無代の心音さえ次第に弱まっているではないか。
 地下水路の床をわずかに流れる氷のように冷たい水が、意識のない無代の身体から熱を、命を、静かに奪っていく。
 「……無代さんっ!!!」
 架綯があわてて無代の身体にしがみつく。そうして自分の体温で温めようとするが、駄目だ。架綯の身体もまた、無代に負けぬほど冷えきっている。地下水路を満たす空気もまた、真冬のように冷たい。
 架綯はいまさら、自分の身体が半分以上、寒さに麻痺しつつあることに気づく。
 (死ぬ……?!)
 架綯を恐怖が満たす。
 地下水路に入って、まだ数分と経っていないのにこの有り様だ。自分の体力の無さに絶望するしかない。
 「う……うわああああ!!!!」
 恐怖が限界を越えた。そしてほとんど無意識に、
 「ファイアーウォール!!!!」
 喉も裂けよと、魔法の炎を呼んだ。
 轟っ!!
 真っ暗な地下水路の闇を切り裂き、魔法使いの基本技・炎の壁が出現した。
 キィッ!!
 架綯の盲撃ちに、灰雷が声を上げて逃げる。少々の攻撃は跳ね返す重武装だが、好んで炎に焼かれる獣はいない。
 「ファイアーウォール!! ファイアーウォール!!」
 轟、轟、と連続で炎の壁が召喚される。
 元々、研究職である架綯の魔力は高い方ではないし、魔法力を強化・収斂するための杖や魔具を持っていないため、熱量は大して高くはない。とはいえ『魔法使いはファイアーウォールに始まり、ファイアーウォールに終る』と言われるほどの基本技。成りたての初心者が使ってさえ、一定の効果を発揮するとなれば……
 「熱っづう!!!」
 架綯の身体が激痛に飛び跳ねる。といっても無代の身体に括りつけられたままだから、標本台にピン止めされた虫のような無様さだ。
 炎の壁の召喚位置が近すぎ、自分の身体を焼いてしまったのだ。
 (痛い……!)
 火傷は指の先。騒いだ割に何の事はない、ちょっと赤くなっただけだ。無代なら『ひと舐め』して終わりだろう。
 だが、架綯にとっては重大事。
 そもそも敵と戦ったことがない架綯にとっては、炎の壁を召喚すること自体、学生だった頃の試験以来だ。しかも精密・正確を旨とする彼の魔法人生で、自分の魔法で火傷するなど……
 「……あ」
 これでもかと炎に照らされた架綯の顔に、ある光が兆した。
 猛烈な熱で水路の水が煮え立ち、水蒸気となって立ち上る。岩盤に染み込んだ水が炎に焼かれて膨張し、パリパリと音を立てて小さな崩壊を起こす。
 とりあえず一定の熱量は確保した。とはいえ狭い地下水路、あまり火を使いすぎると、今度は『酸欠』の恐れがある。
 キッ!
 大丈夫か、と灰雷が鳴く。彼女なりに、このアンバランス極まりないパーティのリーダーのつもりなのかもしれない。
 だが架綯は、灰雷に応えない。いや、聞こえてもいない。
 ぶん、と、架綯の両手に魔法陣が出現する。ほとんど無意識に、架綯の指が魔法陣から術式を引きずり出す。
 何度見ても奇跡としか思えない、魔法術式を手で直接操作する神業『呪文摘み』だ。
 (炎の召喚術式……エリアを限定……そして威力の制御術式)
 いくつかの基本術式を複数組み合わせ、魔法術式を紡ぎ上げる。
 新たな魔法を創り上げようとする。
 架綯の脳内に、かつて師の翠嶺から聞いた『先輩』の逸話が蘇る。
 『魔法の矢・ボルトの威力をレベル1以下に絞り込んで、その代わりにフィールド全体へ同時召喚した』
 師の翠嶺でさえ、戦えば大損害を免れないと認めた、恐るべき戦闘術式。その基礎を成す『魔法の威力を絞り込む』術式は公開され、賢者の塔の図書館に納められているが、逆ならともかく『威力を下げる』術式に注目する研究者は少なかった。
 だが今、それが全く別の形で蘇ろうとしている。
 (もっと細く……0.0000000000000……もっと細く)
 火傷で赤く腫れ上がった架綯の指が、青く光る術式の文字を慎重に操作する。この超精密操作は架綯ならでは、オリジナルの術式を編み出した、かの異国の王妃にすら不可能だろう。
 (あとは……術式の反復、いや『分裂』だ。1が2に、2が4に……)
 一度唱えた術式が自動的に乗数分裂する術式を組み込み、その限界値を設定する。
 その数、80000000000000。
 八十兆。
 それはちょうど『人間の身体を構成する細胞の数』。
 組み上げられた魔法術式を架綯の指が摘み、中空に用意された空っぽの魔法陣にぐるりと配置する。どこか一箇所でも綴りのミスがあれば発動しない。
 いや発動しないならまだしも、数値の設定ミスで暴走でも起こしたら大惨事だ。
 賢者の塔で研究をしていた頃なら、何重にも隔離された厳重な試験エリアで、無人の自動術式システムを使って何度も試験を繰り返し、人間による行使に至るまでに少なくとも半年以上をかけた。
 だが今、そんな時間はない。
 ぶっつけ本番。
 架綯が術式を起動する。それは魔法戦闘・補助の職業であるプロフェッサーには、決して使えないはずの魔法。
 人の身体を癒す魔法。
 (いけ!!)
 キィュォォオオオオオ!!!
 魔法陣が回転し、魔力を吹きこまれた術式が世界を変革する。
 超・超精密にコントロールされた極微の炎が、無代と架綯の身体を円形に包むように召喚される。
 炎の魔法を象徴する炎獣・インプの幻影が、幻となって乱舞する。
 (お願い……お願いだから!!)
 両手を握りしめ、架綯は祈った。
 生まれて初めて誰かのために、そして自分のために祈った。

 (動け、僕の魔法!!)

 つづく
中の人 | 第十四話「Cloud Climber」 | 11:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十四話「Cloud Climber」(8)
 (動け……動け……!!)

 歯を食いしばって祈る架綯の周囲で、即席の魔方陣がゆっくりと回転する。
 魔法陣の外周部から開放された術式が、周囲の大気や岩石にアクセスし、そこに偏在する魔力を集約していく。
 確かに、人間の身体の中にも『魔力』はある。
 それは神が神であり、魔が魔であった神話の時代に、世界のすみずみを満たしていた魔力の名残だ。しかし神話の時代は余りに遠く、人間の体内に残された魔力の量も、今や見る影もないほどに少ない。『名残』というより、もう『残り香』といった方が正しいだろう。
 『魔力』を『意志の力』で行使し、世界を改変するのが魔法。ならば、人間の体内に残された魔力では、もはやろくな魔法は使えないのだ。
 だから足りない分を補う。
 大気から、岩の中から、トンネルを流れるわずかな雪解け水から、魔法式を駆動するためのエネルギーを吸い上げていく。
 そして第二のプロセスが起動、極小の炎を召還し、人間の身体の細胞一つ一つを魔法的な手段で温めることで、『生命力』そのものを活性化させていく。
 僧侶系の術者が使う『ヒール』や『サンクチュアリ』とは、同じく生命力を活性化させる魔法であっても、その根本原理が全く違う。
 例えるなら『ヒール』が『癒やす』魔法とすると、この架綯の新魔法は『活を入れる』魔法だ。本来は攻撃魔法である『炎召還』を、より精密かつ緩慢な形で作用させ、人間の身体の奥に眠る生命力を『叩き起こす』。
 ただし、今まではその理論だけが架綯の頭の中に存在し、実際に生きた人体に使ったことは一度もない。使ってみようと思ったことすらない。
 その理由を白状すれば、怖かったからだ。
 もしわずかでも熱量のコントロールに失敗すれば、効果範囲にある人間の細胞すべてに大やけどを負わせてしまう。最悪、細胞のすべてが燃え上がる、いわゆる『人体発火現象』すら引き起こしかねない。
 無代と架綯、2人身体が仲良く炎となって燃え尽きる、そんなシャレにならない結末が、架綯の脳裏を去来する。
 架綯の額に、じわり、と汗が浮かぶ。
 焦りから……違う。
 滲んだ汗がみるみるうちに玉になり、一筋、二筋、幾筋もの流れとなり、意識のない無代の胸板へ雫となってボタボタと落下する。明らかに異常な発汗量。
 「暑……っ!?」
 架綯の口から思わず声がもれ、そして同時にその目が見開かれた。
 暑い。
 身体が燃えるように暑い。
 すうっ、と息を吸う。苦しくない。
 呼吸器の発作が、いつの間にか綺麗に収まっている。意識が冴え、身体のすみずみまで生命力が行き渡っていくのがわかる。
 (成功?!)
 架綯の心を達成感が満たした、その時だった。
 「……ぶ」
 妙な音が聞こえた。
 (……ぶ?)
 架綯がぴょこん、と顔を上げるのと同時。
 「ぶ……暑っちゃああ!!!」
 がばあっ!!!
 トンネルの底にぶっ倒れたまま、今までぴくりとも動かなかった無代が、物凄い勢いで起き上がった。
 「ぷひゃ!?」
 その勢いで、架綯の顔面が無代の胸板に激突する。ついでに、こっちも汗まみれの無代から、汗の雨が架綯に降り注ぐ。
 「だーもう!! 人の寝床に潜り込むなクソ暑い、って言ってるだろが、香っ!!」
 無代、誰かと間違えているらしい。
 「無代さん?! 僕です! 架綯!」
 架綯が訴える。寝ぼけたまま、身体に括りつけた架綯の身体を振りほどこうと、じたばたと暴れる無代に必死でしがみつく。
 「あ……?」
 架綯の新魔法によって、淡い光に包まれたトンネルの中で、無代の目がやっと架綯に焦点を合わせた。
 「あれ? 若先生……?」
 「そーです僕です架綯ですっ!」
 このまま無代に暴れられてはたまらない。なにせ無代と架綯の身体は、他ならぬ無代の手でがっちりと固定されているのだ。下手をすれば架綯が大怪我をしてしまう。
 だがまあ無代、どうやら事情が飲み込めたようだ。
 「これは……無代としたことが、大変失礼を致しました」
 照れくさそうに頭をかき、素早く身体の紐をほどいて架綯を自由にしてくれる。
 「無代さん、身体は大丈夫ですか!」
 「身体?」
 魔法の効果を心配する架綯に問われ、無代がひょいと立ち上がる。
 「お? お?」
 頭をひねったり、手を振り回したり。
 「おおお?! おおおおおお?!」
 足を二度三度と屈伸、最後はトンネルの中でぴょんぴょん跳ねまわる。
 「これは何と?! 絶好調でございます!」
 「あああああ!! いきなり無茶しないで無代さん!!」
 勢いに任せて床運動でもしかねない無代を、架綯があたあたと制止する。
 やがて架綯の新魔法の効果も終わり、再びトンネル内に闇が落ちる。代わりに、架綯が魔法使いの灯火呪文を発動、熱を持たない青白い火の玉が、架綯の身体を中心に衛星軌道を描いて回転し、辺りを柔らかく照らし出した。
 「傷も疲れもスッキリ、新品同様でございますよ。これも若先生の魔法でございますか?」
 満面の笑みでいい加減なストレッチを繰り返す無代。確かにさっきまで、疲労と怪我で気を失っていた人間とは思えない。敵を油断させるためとはいえ、自分で片足を切り落とした肉体の負担と精神的ストレスその他、ここに至るまで無代の中に蓄積されていたダメージが、今や完全に消えている。
 それどころか逆に、身体の奥から新たな力が無限に湧いてくるようだ。生来の働き者である無代にとっては、これぞまさに理想郷である。
 さっそくトンネルの底を流れる水の出どころ、上水道のパイプが緩んで水漏れを起こしている場所を見つけ出し、容器を工夫してたっぷりと汲んでは、架綯や灰雷の喉を潤してくれる。
 もちろん自分も、腹が水ぶくれになるほど飲む。
 「改めて見直させて頂きました、若先生!」
 「いえ、そんな」
 こうして直接、手放しでほめられる経験が少ない架綯は、真っ赤になって手を降る。だが新たな治癒魔法が見事成功した上に、無代に絶賛されたことは、彼の中に確かな足跡を刻んだようだ。
 「さすがは翠嶺先生の御直弟子でいらっしゃいます!」
 ちなみに『御直弟子』は『ごじきでし』と読む。師から直接教えを受ける『直弟子』に尊敬・丁寧の『御』を付けた。
 だが『翠嶺』の名を聞いた途端、架綯の表情が曇る。
 「無代さん、翠嶺先生は……?」
 恐る恐る尋ねる架綯に、無代は真っ直ぐに向き合う。元々、それを話すつもりで水を向けたのだ。
 「翠嶺先生は、あの飛空戦艦とやらに囚われれておられます」
 あえてはっきりと口にする。
 「貴い御身をお捨てになって、傷ついた草鹿さんをお助け下さったのでございますよ。本当にご立派でいらっしゃいました」
 無代は笑顔で語るけれど、架綯は呆然と目を見開くだけだ。
 「大丈夫! きっとご無事でいらっしゃいますとも!」
 励ましの言葉。
 「『マグフォード』だって健在でございますし、きっと草鹿さんも、今ごろ元気に甲板を駆けまわっておいでですよ!」
 そこに根拠はまるでないけれど、今まさにこの場で必要なのは、正確な情報に基づく根拠などではない。
 「なあに、あと2時間もすれば『マグフォード』が、カプラ嬢の皆様を乗せてジュノーに帰って参られます。そうなりゃあこっちのモンでございますとも!」
 心を、身体を、『前』に向けて駆動する、その糧となるもの。言葉でも、感情でも、いっそ金でも何でもいい。
 ここで立ち止まらないために、自分に課すものこそ必要だ。
 「無代さん……」
 「となれば、無代もじっとしちゃあおられません」
 無代の言葉が、なぜか逆に静かになっていく。
 「あんなご立派な先生を、このまま外道どもの好きにさせた、とあっちゃあ、『瑞波男』の名がすたると申すもの」
 にか、と真っ白な歯を見せる。
 「及ばずながら無代、先生をお迎えに参上しようと存じます。ですので申し訳ございませんが、若先生はどこか……」
 安全な所に隠れていろ、その言葉はしかし、遮られる。
 「僕も行きます!」
 「なりません」
 架綯の反応を、おおかたは予測済みだったのだろう。無代が即座に否定する。
 「どうしてですか!?」
 「私では、若先生をお護りできません」
 無代は決して勇者でも、豪傑でもない。自分の身を護るのが精一杯、いや、時には文字通り自分の身を削って突き進まねばならない。その上に架綯を抱えては、進むものも進めない。
 「ココは女子供の出る幕じゃあございませんよ。無代と、この灰雷にお任せ下さいまし」
 「『女子供』って、灰雷は雌鷹でしょう!!」
 「えっ!? そこでございますか?!」
 びしっ、と人差し指で指摘した架綯、無代の論理の隙を見事に突いたつもりのようだが、もちろん論点はそこではない。無代も苦笑交じり、
 「そこはほら、灰雷は『戦人(イクサビト)』でございますから。あ、ヒトと申しましても、鷹のことでございますよ?」
 突っ込まれないように無駄なフォロー。
 「とにかく若先生はどこかに」
 「……嫌です」
 架綯がうつむいて、地面に何かを吐き捨てるような言葉を放つ。
 「若先生、どうか」
 「無代さんは!!」
 架綯の声が激しくなる。
 「無代さんはいいですよ! いつもそうやって格好いい! 強い相手に大怪我しても倒れても、一人で頑張って!」
 「あ、いやそれほどでも」
 「ほめてません!!」
 「あら」
 無代は冗談ごかしているが、架綯は真剣だ。
 「でもさっきだって、倒れて動けなくなって……どうするんですか、また倒れたら!」
 「今度は十分注意を致しますよ。ま、またぶっ倒れましても、その時はその時で」
 「だから僕が!」
 ぐっ、と架綯が顔を上げ、無代の顔をいっそ睨みつける。
 「僕が、僕の魔法があれば!」
 「若先生」
 「無代さんを助けられます! 僕には魔法が使える!」
 「若先生」
 「魔法が! 僕の魔法が!」
 「若先生!! 聞き分けて下さいませ!」
 感情が昂ぶり過ぎ、ろれつが怪しくなってきた架綯の両肩を、無代ががっしりと掴む。
 「無代は、翠嶺先生から若先生をお預かりしております。もし若先生に何かございましたら、翠嶺先生に合わせる顔がございません」
 「翠嶺先生は関係ないでしょう! 僕の話だ!」
 架綯は怒っている。
 多分、生まれて初めて、腹の底から怒っていた。
 誰に、何に対して怒っているのか、それは架綯にも分からない。
 草鹿を傷つけた敵に、翠嶺を囚えた『セロ』に、目の前にいる無代に。
 そして自分自身に。

 ああ。
 架綯という少年は、こんな少年であっただろうか。
 ほんの数時間前までは、人とまともに喋るどころか目も合わせられない子供ではなかったか。
 
 「僕は!……いや『俺』は!!」
 「架綯!!」
 無代が、今度は本気で架綯の両肩を掴み上げる。
 「それ以上言うな。今、それを言ったら、もう後戻りできねえ」
 無代の口調が変わる。
 「いいか架綯。ガキが……特に男がそいつを口にしたら、もうおしまいなんだ。何より、自分が後戻りを許さねえ。行き着くところまで行くしかねえ。一人ぼっちで、半泣きになりながら、走り続けるしかなくなるんだぜ」
 無代の言葉は、架綯を止めているようで、そうではない。架綯が、もう止まらないことは知っている。架綯の、いや少年の、この怒りを止める術はない。
 それは誰より、無代がよく知っている。
 その怒りも、無力さも、悲しみも、怖れも。そして小さな誇りも。
 誰に何を言われようが止まらなかった、あの少年の日の無代が知っている。
 だから、無代は止めているのではない。問うているのだ。
 架綯の覚悟を。
 「無代さん」
 架綯も、闇雲な怒りの中でそれを悟る。そしてすべてを理解した上で、その言葉を口にした。

 「俺はもう……ガキじゃない」

 痩せた身体に、どうしようもない怒りと怖れを抱いたまま。
 少年は今、男になった。
 「言っちまったな。もう泣いても知らねーぞ」
 無代がにやり、と笑って、どん、と架綯の薄い胸をどやしつける。
 「ま、しゃーねえ。一緒に翠嶺先生をお迎えに上がるとするか」
 「はい、無代さん」
 架綯が、しかしにやり、と笑い返し、
 「『おっぱいが大きい』とか言ってたの、先生には内緒にしときますから」
 「うお?!」
 早速これである。
 だが、和やかに感動している暇など、この二人と一匹にはなかった。
 がぁん!!!
 二人の背後で、凄まじい音が響いた。トンネルの入口、閉めたはずの遮水壁から薄い光が漏れている
 「?!」
 がぁん!!
 もう一回。漏れる光が一気に太くなる。何者かが遮水壁を破壊しようとしているのだ。
 どっぐわぁん!!
 一段と大きな、無代でさえ吐き気がするほどの大音響と共に遮水壁が、その開閉機構ごと破壊され、ずるずるずるずると落下していく。
 そして。
 がきぃん!
 巨大な鉤爪がトンネル上部に見えた、と思うや、巨大な影が一気にトンネル内に侵入してきた。トンネルの入口、いびつに丸く切り取られたシュバルツバルドの空をバックに、逆光のシルエット。
 重装甲の騎鳥にまたがった、これまた重装甲、重武装の姿。
 貴騎士・ロードナイト。
 最悪の陸戦兵機が今、無代と架綯に向けて槍を構えた。

 つづく

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Ragnarok
中の人 | 第十四話「Cloud Climber」 | 11:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十四話「Cloud Climber」(9)
 「逃げろ、架綯(カナイ)っ!」
 無代(むだい)が叫んだ。
 同時に巨斧・ドゥームスレイヤーを両手に握り、騎鳥騎士に向かって突進する。
 (ちくしょう、ココまで追ってきやがった!)
 そうしながら、無代は内心で歯噛みするしかなかった。
 空中都市の外壁、その遥か下部に開いたトンネルに逃げ込んだことで、もはや追撃はないと油断していた。無代が武装鷹・灰雷(ハイライ)と、忍者ロープ一本を頼りに挑んだ空中アクロバットを再現でもしない限り、地上のレジスタンスがここまで追ってくることはない、と断定してしまっていたのだ。
 だがロードナイトを、いや騎鳥ペコペコを甘く見てはいけない。
 あのアルナベルツの荒野で、『魔剣醒まし』ことフールが愛鳥『プルーフ』と共に演じた離れ業、それを例に挙げるまでもなく、この騎鳥は岩だらけの山岳地帯だろうが垂直の岩壁だろうが、その足の爪で足場さえ確保できるならば、ほとんどの場所を踏破できる。
 四貢山で習い覚えたロッククライミング技術を駆使し、無代が命がけでよじ登ったこの外壁も、おそらくは特殊コマンドとして訓練を受けたペコペコにとっては、さして難所でもないのだろう。
 そして、この万能の騎鳥に跨った貴騎士・ロードナイトこそ、近接戦闘において最優を謳われる要職。
 もちろん保有する戦闘スキルも問答無用。
 巨大な斧を構えて突進してくる無代の姿にもあわてず、逆手持ちした大槍を肩上に構える。
 ひゅん!
 無代の背筋を異様な感覚が貫く。と同時に、無代の身体の周囲に魔方陣が出現した。形こそシンプルだが、異様な力強さを感じさせる小型魔方陣。
 ロードナイト有数の攻撃スキル『スパイラルピアース』。
 中型モンスター程度なら一撃で粉々にする威力は、現代でいえばちょっとした大砲にも匹敵するだろう。
 トンネルに入るなり、問答無用で最強スキルを撃ち込んでくる辺り、徹底した訓練と強烈な目的意識を併せ持った、要は一番敵に回したくないタイプの騎士だった。
 だが、無代にとってはむしろ好都合。
 (しっかり狙えよ、おい!)
 むしろ内心で騎士に茶々を入れる余裕。いや、これは余裕ではない。
 覚悟だ。
 時分の油断で敵に追いつかれてしまった、無代はその段階で即座に、全員無傷での脱出は諦めている。そして相手がロードナイトだと分かると、次にもう一つの要件を捨てた。
 『自分が無傷で生きること』を。
 だから今、目の前の貴騎士に向かって突進することで、最初の一撃を引き受ける。そしてその隙に、架綯と灰雷だけでもこの場から逃がすのだ。
 決して『死ぬ』と諦めたわけではない。それを言うなら、人は誰でもいつか死ぬ。
 無代はただ、その生命の使い道を決めた。
 架綯と灰雷を逃すのに必要な時間を稼ぐ、そのために自分の身体と命を使う、そう決めたのだ。
 必殺の螺旋槍を食らって即死すればそれまで。だがもし一瞬でも息が残っているのならば、
 (ペコの脚に、ドゥームスレイヤーの一撃でも入れる!)
 騎鳥の脚は装甲されてはいるが、その構造は熟知している。この巨斧の一撃ならば、骨折くらいさせられるはずだ。それでいったい何秒の時間が稼げるかは知らず、ただそれが今この場、この時における、無代という男の命の価値なのだ。
 無代のそうした行動を、いわゆる『特攻精神』や『自己犠牲精神』と見て美化するのは自由だ。実際、後の世に彼を評価した人々は皆、こぞってそのようにした。だが、当の無代にしてみれば、これはそんな大層なものではない。
 ただ『そうしなければいけない気がした』、あるいは『そうすることが一番いいと思った』。
 だからそうした。
 迷いも、躊躇もなく、ただそうした。というか、それしかできなかった。
 
 無代という男は本当に、徹頭徹尾、それしかできない男なのだ。
 無代の周囲の魔法陣の回転速度が速くなる。
 (……来る!)
 ロードナイトスキル『スパイラルピアース』は、手元の槍と対象物との間に、瞬間的な竜巻状の空気の渦を発生させ、槍に強烈な回転をかけて打ち出す技。相手の肉体をただ貫くのではなく、槍に与えられた運動エネルギーを着弾と同時に解放し、バラバラに粉砕してしまう。
 せめて脚かどこかに当たってくれ、と祈りつつ、無代はできるだけ身体を低くしながら、斧を手元へ引きつける。大振りは空振りの元、ここは手堅く一撃入れるのみ。
 直後に襲い来るであろう痛みと衝撃を無代が覚悟した、その時だった。
 ひゅぅん!
 螺旋槍とは別の、魔法起動音。
 ひゅっ!
 無代の身体を取り巻いていた魔法陣が消滅する。
 (!?)
 無代が驚くのと、
 「?!」
 敵のロードナイトが動揺するのが同時だった。
 魔法起動プロセス、その破壊と消滅。
 スキル『スペルブレイカー』。
 魔法職『プロフェッサー』の前期職『セージ』が修得する妨害スキルだ。敵が詠唱する魔法の起動プロセスに介入し、魔法を発動できなくするこのスキルは、もっと長い詠唱を必要とする大魔法に対して使うのが本来の使い方。今のように『スパイラルピアース』といった、騎士など前衛職が使う単詠唱のスキルに使うものではない。
 というか、使えない。
 相手の詠唱時間が短すぎて、妨害のための詠唱介入が間に合わないのだ。
 だが間に合った。
 そう、『彼』なら間に合う。あらゆる呪文を視覚的・体感的に使役する異能使いなら。
 
 『呪文摘み(スペルピッカー)』・架綯なら。
 「でぃやあ!!」
 ぐわっしょん!
 無代の斧が騎鳥ペコペコの脚に届いた。短く引きつけた斧に思い切り体重を乗せ、厚く重い刃を体ごと投げ出すように叩き込む。装甲の繋ぎ目、人間で言えば膝を狙うのは常道。
 ぴぃっ!?
 さすがに頑丈なペコペコの脚が、変な方向に折れ曲がる。無代をして、動物を傷つけることへの忌避感がゼロではないが、真剣に命のやり取りをしている今、手加減などヌルいことは言っていられない。
 騎鳥の巨大な身体が崩れ、騎乗のロードナイトごと横倒しにひっくり返る。特攻を仕掛けた無代も、そのままなら下敷きで大怪我するところ、狭いトンネルの中を器用に転がって避けたのはさすがだ。 
 だが斧は捨てた。さすがに巨斧を持ったままの曲芸は無理だ。
 だから今は素手。
 いや、素手ではない。武器はある。
 「こなくそぉ!!」
 その手にロープ。忍者が使う堅牢無比の細縄を両手に握ると、トンネルに投げ出されたロードナイトの首に巻き付ける。
 そして絞め上げる。
 「……!!!」
 相手に一瞬でも呼吸をさせてはいけない。全身から炎の闘気を吹き上げる『マグナムブレイク』など使われたら、こんな原始的な攻撃などひとたまりもない。
 「せぃっ!」
 無代の腕が正確に、そして力強くロープをたぐり、肘と、肩を入れた梃子の構えを取ると、さらに絞める。といって格闘技でも戦技でもない、要は『荷造り』で使う結束技術だ。
 ロードナイトがもがく。騎乗が崩れ、倒れたペコペコ身体で片足が下敷きになり、自由が効かない。とはいえそこはロードナイト、腰のナイフを手探りで引き抜く。
 背後の無代の脇腹を刺す、しかしその暇はなかった。
 しゅん!
 目の前の視界を、灰銀の輝きが埋めた。
 「が……?!」
 灰雷の嘴が、ロードナイトの眼窩から脳までを刺し貫いた。無代に一瞬遅れたとはいえ、武装鷹がこの隙を逃すはずはない。
 ごきり。
 ぞっ、とするような破壊音が、架綯の耳まで届いた。ロードナイトが即死すると同時に、無代が絞め上げていた首の骨が折れた、と、架綯の知識が告げる。
 「……!」
 架綯の背筋に戦慄が走る。
 殺した。
 確かに、直接手を下したのは無代だ。だが『スペルブレイカー』が、自分の魔法がそれを導いたことに違いはない。
 人を殺した。
 ざくん!
 トンネルに響くさらに重い音。無代の斧が、倒れたペコペコに止めを刺した音だ。
 ここは戦場。
 やらなければやられる。
 知識と論理でそう分かっていても、そうすぐに心が納得できるものではない。
 「……若先生」
 斧を背中に戻し、無代が架綯に近寄る。
 その姿に、鮮血で汚れた無代の姿に、思わず腰が退けてしまう。
 「あ……」
 そんなつもりはなかった。無代を忌避するつもりなどなかった。そのことに動揺し、さらに身体を強ばらせてしまう。
 「……」
 無代は、そんな架綯の前に膝をつき、頭を下げる。
 「ありがとう存じました、若先生」
 「……ぼ、僕」
 「はい、若先生」
 震える唇で短い言葉をつなぐ架綯を、無代は真っ直ぐに見てくれる。
 「無代さんが、死んじゃうと、思って」
 「はい」
 「だから……だから」
 「はい。お助けくださらなければ無代、死んでおりました」
 「でも……でも」
 「若先生」
 無代の手が、架綯の両肩を掴む。
 「今は、生きてこそでございます」
 それは慰めでもあり、叱咤でもある。
 「おかげさまで無代、生きてあります。若先生も、灰雷も、生きてなにより。それ以上のことがございましょうか」
 シンプルな言葉は、シンプルゆえに力強い。
 人を殺し、鳥を殺し、その血の上に立つとしても。
 たとえ、この世の何と引き換えにしても。
 きっ!!
 灰雷の警戒音。トンネルの入口にロープが垂れている。
 追撃、後続が来る。
 「参りましょう、若先生」
 「……!」
 動けない架綯を一瞬だけ見て、無代がその身体を背負う。状況は、世界は決して優しくはない。
 ほんの何分か前、男であると宣言したばかりの少年には、余りにも高い壁を次々と立ちはだからせる。
 「参ります!」
 大きく、逞しい無代の背中で、架綯はその声を遠くに聞いていた。

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中の人 | 第十四話「Cloud Climber」 | 14:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第十四話「Cloud Climber」(10)
 (畜生、やべえ!)
 無代(むだい)は暗いトンネルの奥へと、架綯(カナイ)を背負って走りながら、こみ上げてくる焦りを抑え切れなかった。
 飛行船『マグフォード』を降りて以来、武装鷹・灰雷(ハイライ)の助けを借りながら、命がけの仕事をこなしてきた。本来なら何度死んだか分からない、そんな無茶を運よく、本当に運よくy切り抜けてきたのだ。
 だがいよいよその運も尽きたか。
 あと少し走れば、ジュノーの上部都市へと続く長い竪穴と梯子がある。そこからジュノーの都市部へ逃げ込み、どこかの空き家にでも隠れるのが無代の作戦だった。
 (けど、もう駄目だ)
 今、背後に追っ手が迫る中で、地上への長い梯子をのんびり登っていたら、たちまち追いつかれてしまうのは明白である。
 といってこれ以上、トンネルの奥へ逃げ込むこともできない。なぜならば、
 (灰雷が飛べねえ)
 そう、灰雷は暗闇で目が見えない。無代ならば手探りと、あとは勘任せでどうにか前に進めるトンネルも、灰雷にとっては数メートルすら飛べない最悪の条件。さらに悪いことに武装鷹の全身を凶器と化す対人・対物装備が災いし、無代が彼女を抱えて走ることも不可能。彼女を抱いた無代の身体がなます切りになるのを覚悟するなら別だが、どの道それではいくらの距離も走れまい。
 となれば、残る可能性は一つ。
 (地上からの光が入る梯子穴で、俺と灰雷が敵を食い止めてる間に、架綯を梯子で逃がす。それしかねえ)
 一人しか登れない梯子穴の中なら無代があっさり殺されたとしても、灰雷一羽で相当の時間が稼げる。うまくすれば架綯を地上に逃がした上で、灰雷も脱出できるかもしれない。
 無代の犠牲を前提とした逃亡策。またこのパターンか、と言われればそれまでだが、何のことはない、本当に彼らには『それしかない』のだ。
 前方にかすかな明かり。
 梯子穴。
 「架綯、あれを登るんだ!」
 無代が『若先生』ではなく『架綯』と呼ぶ時は、それだけ状況が切羽詰った時である。
 「いいか、絶対下を見るな! 上に出たらとにかく走って……って、おい灰雷?!」
 鋭い声で架綯に指示を飛ばしていた無代が、急にあわてた声を出した。
 「灰雷、ちょっ、どこ行くんだおい!!」
 無代の声を尻目に、翼を広げた灰雷が梯子の縦穴をあっさりスルーし、トンネルの奥へ、すいーっと滑空していくではないか。
 「灰雷??」
 戸惑う無代に、
 ぴいっ!
 『早く来い!』と言わんばかりの鳴き声が、鋭く響く。
 困惑した無代、立ち止まること数秒。
 「……ええい、ままよ!」
 架綯を背負ったまま、灰雷を追って無代が再び走り出す。背後に敵が迫っている以上、のんびり考えている暇も、灰雷を呼び戻す暇もない。
 それにしても不思議なのは灰雷。
 狭いトンネルの中、翼を動かさない滑空状態で数メートルを飛んで着地、また滑空して着地を繰り返す不自由な飛び方で、それでも走る無代より速く、奥へ奥へと進んでいく。
 梯子の縦穴から差し込む最後の明かりも遠くなり、無代でさえ片側の壁に手をつきながら手探りで進まなければならない、そんな暗闇になってさえ、そののスピードは落ちない。
 それどころか、
 ぴっ!
 警戒の鳴き声が聞こえたと思ったら、目の前に行き止まりの壁。トンネルが左右に分かれたT字路だ。
 ぴ。
 しかも灰雷、『こっちだ』といわんばかりに無代と架綯を先導し、先へ先へと進んでいく。
 明らかに見えていない目で、いや、たとえその目が見えていたとしても、彼女がトンネルの構造まで記憶し、その内部を自在に飛べるはずがない。
 そう、これはまるで。
 (まるで何かが……いや『誰かが』灰雷を導いているような……)
 無代の脳裏に疑念がさす。考えてみれば灰雷という鷹には、不可解なことが多すぎた。
 マスターである鷹師以外には決して従わないはずの武装鷹が、ほとんど初対面の無代に協力してくれる、という最初の段階から既におかしい。その後も、ジュノーを制圧したレジスタンスの目を鮮やかにかいくぐり、無代を目的地へと導いた。架綯の救出で大暴れした時は、まるで周囲の市民を護るかのような素振りさえ見せた。
 そして今の、トンネルの中の暗闇飛行。
 そのどれもが、一般的な武装鷹の能力を超えていた。世界でも指折りの鷹師・グラリスNo1スナイパーの愛鷹であることを加味しても、やはり異常に過ぎる。
 何かあるのか。
 この鷹に。
 (……いや、考えちゃいけねえ)
 だが無代はその考えを打ち消す。
 雑念は疑念を、疑念は迷いを生むものだ。
 そして、いざという時に襲う一瞬の迷いが生死を分ける、そういうことが少なからずあるものだ。
 (灰雷のことは分からねえが、ここまでアイツに命預けてきたのは俺だ。行くなら地獄の底まで!)
 そう、思い切る。
 そもそも、この空中都市で灰雷の助けがなければ、無代一人ではとっくに死ぬか、もし生きられたとしても一歩も動けず隠れたままだったはず。ならばどこまでも、この鷹を信じるのみ。たとえそれが物言わぬ獣であっても、そう思えるのが無代という男なのだった。
 それから迷路のようなトンネルを、どれほどの距離走ったか。
 頑健な身体と体力を持つ無代ではあるが、こんないつ終るとも知れない逃亡では、ペース配分など不可能だ。
 切れた息が喉を焼き、疲労が全身を犯し始める。架綯の新魔法で体力を回復していなければ、とっくに二度目の昏倒を喫していたに違いない。カプラ女子寮で拝借した回復剤を走りながらすすり、どうにか身体だけは前に進める。
 だが。
 かちん!!
 トンネルの岩壁に金属音、と同時に一瞬の火花が散り、その正体を映し出す。
 矢だ。
 追っての弓師。ついに射程距離に入った。問答無用で撃ちこんで来るのは、最初から殺す気の証拠。
 (糞っ!)
 無代が立ち止まり、背負った架綯の身体をくくった紐をほどく。
 「架綯、灰雷についていけ! 走れ!」
 もう何度目になるか、架綯を逃し、自分は残るという。
 ぴっ!
 すぐ近くで灰雷が抗議の声を上げるが、今度こそ無代はそれを聞かなかった。
 「さすがにもういくらも走れねえ。灰雷、架綯を頼む」
 ぴっ!
 ぴっ!
 ばさばさと翼をはためかせ、『だめだ、来い!』と言わんばかりの灰雷。
 「頼む、灰雷。お前に何か不思議の力があるなら、この先のためにそいつを使ってくれ」
 腹を据えた、無代の声。
 瑞波の無代、頑固一徹。こうなったらもう梃子でも動くものではない。
 ぴーっ!
 『馬鹿野郎!』とでも言ったのか。だが、もう押し問答の時間はない。
 かちん!!
 今度は足元に矢の一撃。恐らく、次は当たる。
 「行け!」
 巨斧ドゥームスレイヤーを握った無代が叫んだ、その時だった。
 「こっちへ走って! 早く!」
 トンネルの奥から、鋭い声が響いた。
 初めて聞く、女性の声。
 「早く!」
 ぴぃっ!
 無代より架綯より早く、灰雷が返事を返すと、ばさっ、と翼をひと撃ち。
 「……架綯!」
 一瞬遅れて、無代が再び架綯を背負って走りだす。
 ぱすん!
 矢が無代の頭上、髪の毛ギリギリをかすめる。まさに間一髪。トンネルの暗闇と、無代たちが走り続けているために、さしも弓師の矢も命中精度が落ちている。
 とはいえ、それもいつまで続くことか。
 走る無代たち、その先のトンネルに薄い明かりがさす。その明かりが、先頭を走る女性の姿を薄く浮かび上がらせた。
 いっそ神秘的にさえ見える、長く伸びた紫色の髪(アメジストブロンド)。
 引き締まった身体を、上下カーキ色の軍用服に包み、脚には頑丈な編上げブーツ。
 そして首に、なぜか大きなヘッドホン。
 トンネルの奥の、光が近づく。
 「飛び込んだら伏せて、耳をふさいで! 灰雷、来なさい!」
 なぜ灰雷の名前を知っているのか、だが疑問を問いただす時間はなかった。
 今までの暗闇から一転、床まで真っ白な光が乱舞する空間へと、無代達が飛び出す。
 「伏せて!」
 言われるままに真っ白な床を走り、素早く背中の架綯を下ろして、抱え込むように床に伏せさせる。
 そうして無代は、この真っ白な床と部屋の正体を知った。
 雪だ。
 ジュノーの地下にいくつか作られた、巨大な貯雪槽。この床も、無代達の回りを囲む壁もすべて積み上げられた雪で、それが天井に輝く魔法の灯火の下、真っ白に乱反射している。
 「耳を!」
 紫の髪の女性が四つん這いの格好になり、翼をたたんだ灰雷を腹の下へ。首のヘッドホンを両耳に当て、両手で灰雷の耳を優しく塞ぐ。
 無代も架綯に耳を塞がせ、自分の耳も両手でカバー。
 たたん!
 無代たちが駆け抜けてきたトンネルから、連続して矢が撃ち込まれる。近い。
 いよいよトンネルから敵がなだれ込んでくる、そう思った時だった。
 「今よ、カール!!」
 紫の女性が叫ぶ。次の瞬間!

 どっぐわぁん!!!!!

 真っ白な雪の壁をぶち抜く真っ赤な 砲発火炎(マズルフラッシュ)、続いて真っ黒な砲煙(パウダースモーク)。耳を塞いでいてさえ鼓膜が、いや内臓がひっくり返るような爆音と衝撃が、無代たちを襲う。
 だがそれさえ、トンネルからなだれ込もうとしたレジスタンスの兵士たちに比べればマシだった。
 それはそうだろう。狭いトンネルの中、嫌でも整列した状態。
 そこに『戦車砲弾』を撃ち込まれたのだから、たまったものではない。
 何がどうなるか、もう描写するのも凄惨に過ぎるので割愛し、さしもの無代もまともに目を向けられなかった、とだけ書いておこう。
 まさに乾坤一擲。
 がぅぉおおおんん!!
 真っ白な排煙とエンジンの音も高らかに、ずさあ! と雪の壁を崩して現れた鉄の塊。
 雪の段差で一度大きく弾み、左右二門の戦車砲が、まるでお辞儀をするように跳ねる。
 「戦車……!」
 呆然としている無代の隣で、架綯が目を丸くしてつぶやく。
 「せ、せんしゃ?」
 「はい、シュバルツバルトの最新兵器で……僕も本物は初めて見ます」
 「ハート技研製・六式戦車。通称『バドン』」
 紫の女性が教えてくれた『バドン』の元ネタは、南の海に生息するヤドカリ型のモンスターだ。ずんぐりと固く、左右一対のハサミで攻撃する格好を、この左右二門の主砲を持つ戦車になぞらえたか。
 「申し遅れました、手前は『瑞波の無代』と申します。お助けいただき、感謝の言葉もございません」
 無代が丁寧に頭を下げる。
 「そしてこちらが……」
 「『呪文摘み(スペルピッカー)』架綯助教授」
 紫の女性が無代の言葉を先取りする。
 紫の髪に紫の瞳。神秘的なほどの美貌だが、とはいえどうにも愛想がない。
 「名高い『翠嶺の弟子』のお一人、もちろん存じ上げています。私は……」
 言いかけた紫の女性を、今度は無代が先取りする。
 「カプラ公安、エスナ・リーネルト様、では?」
 「……」
 答えは沈黙。だが無代はそれを肯定と知る。
 「やはり左様で」
 したり顔でうなずく無代に、エスナの視線が鋭くなる。
 「なぜ、私の名前を?」
 「失礼ながら、貴方のお手紙を拝見致しました。灰雷にお預けになった、カプラ嬢宛の」
 無代の答えに、だがエスナの顔は曇る。
 「そう……灰雷が。じゃあ、あの手紙は……」
 では、灰雷は届けてはくれなかったのか。
 あの手紙を届けるべき人に、届けてはくれなかったのか。
 「いいえ、届きました」
 無代の言葉は力強く。
 「え……?」
 「届きました。あのお手紙は、ちゃんと届きましたとも!」
 エスナが絶望の中で記し、微かな希望だけを頼りに差し出した手紙。
 それは届けるべき人に、カプラ嬢の頂点・ディフォルテーNo1『D1』ガラドリエル・ダンフォールの元に届き。
 そして彼女を、カプラの誇りを取り戻させた。
 「D1が今、『マグフォード』と共にカプラ嬢の皆様をお迎えに向かっております。皆様が戻ってくれば……」
 「でも……あの船は」
 「沈んでおりません!」
 エスナの無表情が、無代の力強い言葉で崩されていく。
 「『マグフォード』が沈む、そんなわけがございません。『必ず帰る』と、バーク船長はお約束下さいましたとも!」
 雲に沈む飛行船から、無代へと届けられた発光信号を、無代は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
 「アーレィ・バークが嘘を言う男か、シュバルツバルト人である貴女の方がよくご存知のはず」
 「……」
 「希望はございます」
 ついに黙り込んだエスナに、無代が畳み掛ける。
 「まだ希望はある。ジュノーはまだ、落ちてはおりません!」
 それが限界だった。
 エスナが両手で顔を覆い、雪の床にうずくまる。優美な背中が小さく震えている。
 泣いている。
 「あー……」
 その背中を無代が撫でようとしたのは、
 『別段やましい気持ちがあったわけではない。女性が泣いていたら優しくするのが当然』
 と、無代は言うだろうが、はて本当のところはどうだか。
 その真偽はともかく、無代がエスナの傍らへと足を踏みだそうとして、
 「のわっ?!」
 ずでえん! と、思い切り後ろへひっくり返る。
 犯人は灰雷。
 無代が背中に背負った巨斧の柄を、両足で掴んで思い切り引っ張った。
 「痛って……何すんだ灰雷っ!」
 猛抗議する無代の前で、ごろろん、と重い金属音。戦車『バドン』の上部ハッチが開いた。
 よっこいせ、と中から姿を表したのは、小太りの身体に戦車兵服、鉄兜というダサい格好の中年男性。
 ひらり、と格好だけは華麗にエスナの隣へ降り立……とうとして、思い切り尻餅をつく。
 が、やせ我慢。
 「話は聞いていたよ、エスナ」
 精一杯気取った声と『どや顔』。
 「よかった……本当によかった」
 そう言ってエスナの両肩を抱く、しかしその言葉と表情に込められた優しさ、そして愛情に偽りはなかった。
 「よかったなあ、エスナ」
 「……」
 涙に濡れたエスナの顔が、男の胸に埋まる。優美といってもいい腕が、赤子がするように男の首にからむ。
 美女と野獣、とまではいかないにしても、なかなかの凸凹カップルぶりだ。
 「……あのー」
 お株を奪われた格好の無代。声をかけるのもためらい気味なのは、誰も『馬に蹴られ』たくはないからだ。
 「おお、申し遅れた」
 中年の男が顔を上げる。美女は抱いたまま。
 「無代君と言ったね。私はカール・テオドール・ワイエルストラウス。今はしがない、この戦車の戦車長だ」
 そう言って、ふっくらとたるんだ両頬を緩めると、いかにも人の良さそうな親父顔になる。
 「これはご丁寧に。改めまして手前、瑞波の無代と申します」
 そういって頭を下げる無代の、その隣。
 架綯。
 「あ……あ……」
 戦車を見て丸くした目に加え、今度は口まであんぐりと開けて。
 
 「だ、大統領閣下……!?」

 シュバルツバルト共和国大統領カール・テオドール・ワイエルストラウス。
 生涯に二度、側近に裏切られ、国家存亡の危機を招いた『最低の大統領』。
 だがそのたびに、多くの人の助けと自らの努力で、見事に国を救った『最高の大統領』。
 ゆえに、度重なる失政にも関わらず国民から圧倒的な支持を得て、歴代大統領の中で最長の在位記録を打ち立てた男。

 そして無代にとっては生涯の『飲み友達』。
 いや『愚痴友達』となる男との、これが最初の出会いであった。

 第15話『Crescent Scythe』につづく

 
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中の人 | 第十四話「Cloud Climber」 | 08:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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