2014.07.22 Tuesday
第十四話「Cloud Climber」(1)
『四貢(しぐ)山』、標高3927メートル。
それはアマツで最も高い山、最高峰である。
だがアマツの人々にとってこの山は、ただ背が高いだけの山ではない。
それ自体が『神』として信仰の対象であり、同時に山を登ること、それ自体が修行だと信じられている。
特に登頂を果たした恩恵は大きいとされ、『一頂万拝(いっちょうまんぱい)』、つまり四貢山の頂きに一度でも立てば、神仏を一万回も拝んだのと同じ功徳が得られる、という。
……と書くと、何やらお手軽な話に聞こえるかもしれないが、当然それは大間違いだ。
四貢山の頂上に立つのは、非常に難しい。
まず『魔法御法度』。
この四貢山、全山域がテレポート系魔法やアイテムの使用を一切禁じられた、いわば神域である。当然、ペコペコなどの騎乗動物に乗ることも禁忌だから、残る手段は唯一、自分の足で歩いて登るしかない。
次に『急峻難所』。
四貢山の山体といえば、急峻な斜面や切り立った崖や囲まれ、とても登山に向いた山とは言えなかった。
普通に歩いて登れるのはせいぜい山の中腹まで。そこからは難所に次ぐ難所、中には岩に打ち付けられた鎖だけを頼りに、文字通りよじ登るしかないような危険箇所が、それも複数待ち構えている。
さらに『登四降三』。
つまり登りに4日、下りに3日の長丁場となる。よってその間の食料(水は山頂付近の万年雪から採れる)も携帯する必要がある。途中で悪天候に遭い、足止めでも喰らえばそれも倍増だ。
また登山期間は夏の短い期間だけ、天候は変わりやすく不安定。標高四千メートル級ともなれば、高山病だって恐ろしい。
ここまで悪条件が重なれば、十分に健康な成人男子でさえ単独登頂は至難の技、まして体力のない人間にとっては命がけ、いや自殺行為に等しい難行だった。
しかしそれでも、いや『それゆえに』人々は山頂を目指す。困難な道の彼方にこそ、神の座はあると信じて登るのだ。
そういう山だからこそ、過酷な山行をサポートし、登山者達を山頂まで導いてくれるプロフェッショナルが重宝された。
『カツギ衆』である。
彼らの多くは四貢山の麓の村を拠点とし、そこから登頂を目指す人々の荷物や、時には登山者本人さえその背中に背負って、遥か山頂を目指し登っていく。
神域を統べる四貢大権現神社から与えられた数々の特権によって、『神人(じにん)』とも称される彼らカツギ衆は、アマツ中の職人たちの憧れの的でもあった。
その特権的職人集団を長年に渡って率い、『大棟梁(おおとうりょう)』と呼ばれた老カツギと、少年・無代との出会いについては、第十二話『The Flying Stones』で既に描いた。
そして、二人の交誼がその後もずっと続いたことも記した通りだ。
さらには母を亡くした無代が、もう一つの大きな出会いを経て故郷の桜町を引き払い、実父の店で抱え商人として働くようになっても(外伝『Box Puzzle』参照)、二人の付き合いは変わらなかった。
四季の彩り豊かなアマツ・瑞波の国で、時節ごとに、
『大棟梁さん、ご無沙汰を致しております。珍しい酒が手に入りましたので』
だの、
『お寒うございます。お風邪など召されてはいらっしゃいませんか?』
だの、
『何のかんの』と理由をつけて老カツギの隠居所を訪ねる、それが無代の習慣になっている。もちろん老カツギの方も、この少年の訪れを楽しみに待っていて、出会えた日には必ず夕餉を共にし、夜更けまで語り合うのがもっぱらであった。
一生のほとんどを四貢の神人として過ごし、ついに家族を持たなかった老人にとっては、まるで孫ができたような気分でもあったろうか。一方の無代も、折り合いの良くない実父の他には家族もなく、母と暮らした生家も既に処分済みであったから、あるいはこの老カツギの隠居所を、故郷の帰省先のように思っていたのかもしれない。
さて、この初春のある日にも、二人の姿を隠居所の居間に見ることができる。
「よう来て下さった、無代さん」
現役時代の日焼けがそのまま焼きついた皺顔に、なんとも嬉しそうな笑顔を浮かべ、老人が無代に座布団を勧めた。余談だがこの老人、孫のような年齢の無代を『さん付け』で呼ぶ。まだ十代の前半に過ぎない彼を、ちゃんと一人前の男と認めている証拠である。
「この前は確か正月でしたか。冬の間どちらへ?」
問われた無代、差し出された座布団を恐縮して受け取ると、
「コンロンへ参っておりました、大棟梁さん。長く顔(ツラ)も見せませんで、申し訳もありません」
そう言って頭を下げながら、土産の酒を差し出す。
老人の酒好きは承知の上だ。
「これは嬉しい、ご馳走になります。いやいや、商売繁盛で何よりのことだ」
そんなやりとりも、客のはずの無代が勝手知った様子で台所に立ち、自ら包丁片手に酒肴を整えるのも、いつも通りである。
湯通しして薬味を添えた豆腐に、炙った魚、漬物などがひと通り膳に並ぶと、酒になった。
まだ少年の域を出ない無代ではあるが、体質的に強いのだろう、だいぶ酒にも慣れてきている。最近では老カツギの方が先に酔って寝てしまい、無代が寝床を整え、火の始末までしておいて隠居所を辞する、そんなことも珍しくない。
ただ、この日は少し、いつもと様子が違っていた。
無代の酒が進まない。
老カツギに対してはしきりに酒を勧めるくせに、自分はあまり飲もうとしない。肴を摘む箸もあっちへ迷い、こっちへ迷う。いわゆる『迷い箸』は無作法・無粋の代名詞でもあり、なんとも無代らしくなかった。
「どうかしなすったかね、無代さん?」
老カツギはそう尋ねておいて、すぐに手を顔の前で軽く振ると、
「あ、いやいや。何も無理に聞き出そうたぁ思いませんが」
と、静かに笑みを浮かべ、
「こんな老いぼれで良けりゃあ、話してみなさらんか。何の力にもなれねえが、なあに、こちとら暇だけは売るほどある。話を聞くぐらい、いくらでもできることだ」
ゆっくりと酒を指し出す。
「……頂戴します」
無代はそれを両手で持った盃で受け、思い切ったようにぐっ、と飲み干す。
盃を置いて居住まいを正し、頭を上げ、まっすぐに老カツギを見た。その顔には、この少年が他人にめったに見せることのない、苦悶と言っていい表情が浮かんでいる。
「申し訳ありません、大棟梁さん。……実は、聞いて頂きてぇお話がありますんで」
「何度も言うが、あっしで良けりゃあ何でも」
そう請け負った老カツギがなお差し出してくる酒を、今度は丁寧に断ると、
「手前は今、さる『御身分のある方』と懇意にしていただいております」
何かを噛みしめるように、話を切り出した。
(やっぱりその話か……)
それを聞いた老カツギは内心、膝を打つ思いだった。
なぜというに、この無代という少年が最近、正体不明の武士と付き合っている、という話は、この界隈では有名だったからだ。
桜町の人々の知るところでは、その武士は瑞波で最も格式の高い遊郭『汲月楼(きゅうげつろう)』の常連。しかも、めったに客を取らないことで名高い最高級の美姫『佐里(さり)』と懇意という、実にうらやましい境遇である。
にもかかわらず、全く正体が分からない。
無代をよく知る桜町の職人達が、瑞花の町に張り巡らせた独自の情報網をフル稼働させても、どこの何様なのか全く不明なのだ。
これは異常なことだった。
(ひょっとして、良くない輩なんじゃねえか?)
そう心配するあまり、思い切って無代に対し、その正体を尋ねた者もある。
だが無代、
「手前ごときを気にかけて頂くのはありがてえ。ですがそればっかりは申し上げられねえのです」
と、頭を下げる一方で、武士の正体は決して明かそうとしない。
周囲がどれほど意地になって問い詰めようが、ぐっ、と頭を下げて、
「どうぞ勘弁しておくんなさい」
さあ、こうなると無代、梃子でも口を開くものではない。見てくれはまだ少年だが、その意地と頑固で固められた土性骨ときたら、そこらの大人顔負けなのだ。
その頑なな態度に、さすがにちょっと騒動が起こりかけた時、
「まあまあ、そう騒ぎなさんな」
そう言って取りなしたのが、この老カツギだった。
「あっしの見たところじゃあ、決して悪いお人ではなさそうだ。ま、心配はいるめえよ」
無代を心配するあまり、いささか過激になりかかっている町の連中を、そう言ってなだめてくれたのである。
といっても老人、その武士に直接会ったことはない。桜町の遊郭街で遠くから、ちらりと眺めたことがあるだけだ。腰に脇差しの一つも帯びず、長い白髪を太く三つ編みにして背に垂らし、痩せた長身を上等の着流しで包んだなかなかの美男子。
武士について彼が知っているのはそれだけである。
それでもなお、この老カツギがそこまで言い切ることができたのは他でもない、無代という少年の変化を見ていたからだ。
知り合ってからこのかた、三月と開けずに訪ねて来る無代の顔を見るたびに、
(毎度毎度、見違えるほど立派になって来やがる)
と、その成長ぶりをはっきりと感じ取っていたからだ。
実はこの老人の『人を見る目』には定評がある。
人間というものは、極限の環境に置かれれば置かれるほど、どうしても本性が出るものだ。卑しい者はより卑しく、品格のある者はより品良く、その地金をのぞかせてしまう。だから四貢山という厳しい場所で生き、人間というものの本質をありのままに見続けてきた老人の目が、只者であるはずがなかった。
その目をして、元から明るく素直な無代の人格がさらに逞しく、そして品よく磨かれていく様が手に取るように分かるのだ。
(よほどのお人と巡り会ったのでなけりゃあ、決してこうはならねえ。それだけは間違ぇのねえことだ)
そう確信していた。
「どこぞのお武家様と懇意にしてらっしゃる、それは存じておりますよ」
老人の言葉に無代、無言で頭を下げる。自分を心配して騒ぐ町の衆を、老カツギが陰ながら抑えてくれたことは、もちろん承知の上である。
「大棟梁さんにご相談というのは他でもねえ、そのお人のことなのです」
無代が次に発した言葉は意外でもあり、同時に拍子抜けするほど当たり前の話でもあった。
「そのお人が仰言いますには……『四貢の御山に登りたい』と」
「何をぅ?!」
老カツギが一瞬、虚を突かれて目を丸くする。
「御山に登りてぇ、って? そのお武家様が、かね?!」
「左様なんでございます。それも手前に『カツギ』をしろ、と」
「はあ……?!」
老カツギの目が今度こそまん丸になる。
「無代さんのカツギで御山に登る、って?!」
呆れ半分で尋ねる老カツギに、無代がほとほと困り果てた顔でうなずく。
「『四貢のお山には一度登りたいと思っていた。お前にその技があるなら渡りに船だ。俺を背負って行け』。……どうにも困っちまいまして」
「……」
無言のままの老カツギが厳しい顔になり、腕組みをした。
確かに無代にカツギを教えたのは自分で、その優れた才能はよく知っている。とはいえ経験も無い無代が、いきなり人を担いで四貢山を登るなど夢物語もいいところだ。
あの山は、そんなに甘い場所ではない。
「無代さん。あっしが昔、あんたを御山に誘ったのは嘘でもお世辞でもねえ」
老カツギも無代と同様に、手の盃を置く。『酒飲み話』で済む話ではなさそうだ。
その目が鋭く光る。
「それでも無代さん、アンタが御山でいっぱしのカツギをやるにゃあ、少なくとも二年は修行が要る話だぜ? いくらアンタでも、御山をナメる野郎は……」
どこの誰だろうが許すものではない。老いたりといえど、カツギ衆を率いた気迫に衰えはなかった。
「い、いや違う! そりゃあとんだ誤解だ、大棟梁さん! 御山をナメるなんざ、とんでもねえ話です!」
無代が片手を床に、もう片手を『待った!』の形にし、大あわてで首を振る。
「四貢の御山の厳しさは、いつもお話に聞かせていただいております。そこで自分にカツギができるなんざ、夢にも煙にも思っちゃあおりません。お願いってのはそうじゃねえ、逆なのだ!」
「む……?」
老カツギが、白くなった眉を寄せる。その目の前で無代が膝をずっ、と下げ、両手をついてがば、と頭を床まで下げる。
「この通りです、大棟梁さん、そのお方を止めて頂きてえのです! 」
「……?!」
老カツギが息を呑む。
ぎゅっ、と、無代の額が畳に擦れる音が、静かな隠居所で馬鹿に大きく響く。
「俺じゃあ止められねえ! だけど大棟梁さんの言葉なら……天下の大カツギが言って下さりゃあ、聞き分けて下さる……!」
老カツギが絶句する目の前で、無代の言葉が、ほとんど祈りのように響いた。
「いや、きっと止められる! 止められるに違ぇねえのだ!」
つづく
それはアマツで最も高い山、最高峰である。
だがアマツの人々にとってこの山は、ただ背が高いだけの山ではない。
それ自体が『神』として信仰の対象であり、同時に山を登ること、それ自体が修行だと信じられている。
特に登頂を果たした恩恵は大きいとされ、『一頂万拝(いっちょうまんぱい)』、つまり四貢山の頂きに一度でも立てば、神仏を一万回も拝んだのと同じ功徳が得られる、という。
……と書くと、何やらお手軽な話に聞こえるかもしれないが、当然それは大間違いだ。
四貢山の頂上に立つのは、非常に難しい。
まず『魔法御法度』。
この四貢山、全山域がテレポート系魔法やアイテムの使用を一切禁じられた、いわば神域である。当然、ペコペコなどの騎乗動物に乗ることも禁忌だから、残る手段は唯一、自分の足で歩いて登るしかない。
次に『急峻難所』。
四貢山の山体といえば、急峻な斜面や切り立った崖や囲まれ、とても登山に向いた山とは言えなかった。
普通に歩いて登れるのはせいぜい山の中腹まで。そこからは難所に次ぐ難所、中には岩に打ち付けられた鎖だけを頼りに、文字通りよじ登るしかないような危険箇所が、それも複数待ち構えている。
さらに『登四降三』。
つまり登りに4日、下りに3日の長丁場となる。よってその間の食料(水は山頂付近の万年雪から採れる)も携帯する必要がある。途中で悪天候に遭い、足止めでも喰らえばそれも倍増だ。
また登山期間は夏の短い期間だけ、天候は変わりやすく不安定。標高四千メートル級ともなれば、高山病だって恐ろしい。
ここまで悪条件が重なれば、十分に健康な成人男子でさえ単独登頂は至難の技、まして体力のない人間にとっては命がけ、いや自殺行為に等しい難行だった。
しかしそれでも、いや『それゆえに』人々は山頂を目指す。困難な道の彼方にこそ、神の座はあると信じて登るのだ。
そういう山だからこそ、過酷な山行をサポートし、登山者達を山頂まで導いてくれるプロフェッショナルが重宝された。
『カツギ衆』である。
彼らの多くは四貢山の麓の村を拠点とし、そこから登頂を目指す人々の荷物や、時には登山者本人さえその背中に背負って、遥か山頂を目指し登っていく。
神域を統べる四貢大権現神社から与えられた数々の特権によって、『神人(じにん)』とも称される彼らカツギ衆は、アマツ中の職人たちの憧れの的でもあった。
その特権的職人集団を長年に渡って率い、『大棟梁(おおとうりょう)』と呼ばれた老カツギと、少年・無代との出会いについては、第十二話『The Flying Stones』で既に描いた。
そして、二人の交誼がその後もずっと続いたことも記した通りだ。
さらには母を亡くした無代が、もう一つの大きな出会いを経て故郷の桜町を引き払い、実父の店で抱え商人として働くようになっても(外伝『Box Puzzle』参照)、二人の付き合いは変わらなかった。
四季の彩り豊かなアマツ・瑞波の国で、時節ごとに、
『大棟梁さん、ご無沙汰を致しております。珍しい酒が手に入りましたので』
だの、
『お寒うございます。お風邪など召されてはいらっしゃいませんか?』
だの、
『何のかんの』と理由をつけて老カツギの隠居所を訪ねる、それが無代の習慣になっている。もちろん老カツギの方も、この少年の訪れを楽しみに待っていて、出会えた日には必ず夕餉を共にし、夜更けまで語り合うのがもっぱらであった。
一生のほとんどを四貢の神人として過ごし、ついに家族を持たなかった老人にとっては、まるで孫ができたような気分でもあったろうか。一方の無代も、折り合いの良くない実父の他には家族もなく、母と暮らした生家も既に処分済みであったから、あるいはこの老カツギの隠居所を、故郷の帰省先のように思っていたのかもしれない。
さて、この初春のある日にも、二人の姿を隠居所の居間に見ることができる。
「よう来て下さった、無代さん」
現役時代の日焼けがそのまま焼きついた皺顔に、なんとも嬉しそうな笑顔を浮かべ、老人が無代に座布団を勧めた。余談だがこの老人、孫のような年齢の無代を『さん付け』で呼ぶ。まだ十代の前半に過ぎない彼を、ちゃんと一人前の男と認めている証拠である。
「この前は確か正月でしたか。冬の間どちらへ?」
問われた無代、差し出された座布団を恐縮して受け取ると、
「コンロンへ参っておりました、大棟梁さん。長く顔(ツラ)も見せませんで、申し訳もありません」
そう言って頭を下げながら、土産の酒を差し出す。
老人の酒好きは承知の上だ。
「これは嬉しい、ご馳走になります。いやいや、商売繁盛で何よりのことだ」
そんなやりとりも、客のはずの無代が勝手知った様子で台所に立ち、自ら包丁片手に酒肴を整えるのも、いつも通りである。
湯通しして薬味を添えた豆腐に、炙った魚、漬物などがひと通り膳に並ぶと、酒になった。
まだ少年の域を出ない無代ではあるが、体質的に強いのだろう、だいぶ酒にも慣れてきている。最近では老カツギの方が先に酔って寝てしまい、無代が寝床を整え、火の始末までしておいて隠居所を辞する、そんなことも珍しくない。
ただ、この日は少し、いつもと様子が違っていた。
無代の酒が進まない。
老カツギに対してはしきりに酒を勧めるくせに、自分はあまり飲もうとしない。肴を摘む箸もあっちへ迷い、こっちへ迷う。いわゆる『迷い箸』は無作法・無粋の代名詞でもあり、なんとも無代らしくなかった。
「どうかしなすったかね、無代さん?」
老カツギはそう尋ねておいて、すぐに手を顔の前で軽く振ると、
「あ、いやいや。何も無理に聞き出そうたぁ思いませんが」
と、静かに笑みを浮かべ、
「こんな老いぼれで良けりゃあ、話してみなさらんか。何の力にもなれねえが、なあに、こちとら暇だけは売るほどある。話を聞くぐらい、いくらでもできることだ」
ゆっくりと酒を指し出す。
「……頂戴します」
無代はそれを両手で持った盃で受け、思い切ったようにぐっ、と飲み干す。
盃を置いて居住まいを正し、頭を上げ、まっすぐに老カツギを見た。その顔には、この少年が他人にめったに見せることのない、苦悶と言っていい表情が浮かんでいる。
「申し訳ありません、大棟梁さん。……実は、聞いて頂きてぇお話がありますんで」
「何度も言うが、あっしで良けりゃあ何でも」
そう請け負った老カツギがなお差し出してくる酒を、今度は丁寧に断ると、
「手前は今、さる『御身分のある方』と懇意にしていただいております」
何かを噛みしめるように、話を切り出した。
(やっぱりその話か……)
それを聞いた老カツギは内心、膝を打つ思いだった。
なぜというに、この無代という少年が最近、正体不明の武士と付き合っている、という話は、この界隈では有名だったからだ。
桜町の人々の知るところでは、その武士は瑞波で最も格式の高い遊郭『汲月楼(きゅうげつろう)』の常連。しかも、めったに客を取らないことで名高い最高級の美姫『佐里(さり)』と懇意という、実にうらやましい境遇である。
にもかかわらず、全く正体が分からない。
無代をよく知る桜町の職人達が、瑞花の町に張り巡らせた独自の情報網をフル稼働させても、どこの何様なのか全く不明なのだ。
これは異常なことだった。
(ひょっとして、良くない輩なんじゃねえか?)
そう心配するあまり、思い切って無代に対し、その正体を尋ねた者もある。
だが無代、
「手前ごときを気にかけて頂くのはありがてえ。ですがそればっかりは申し上げられねえのです」
と、頭を下げる一方で、武士の正体は決して明かそうとしない。
周囲がどれほど意地になって問い詰めようが、ぐっ、と頭を下げて、
「どうぞ勘弁しておくんなさい」
さあ、こうなると無代、梃子でも口を開くものではない。見てくれはまだ少年だが、その意地と頑固で固められた土性骨ときたら、そこらの大人顔負けなのだ。
その頑なな態度に、さすがにちょっと騒動が起こりかけた時、
「まあまあ、そう騒ぎなさんな」
そう言って取りなしたのが、この老カツギだった。
「あっしの見たところじゃあ、決して悪いお人ではなさそうだ。ま、心配はいるめえよ」
無代を心配するあまり、いささか過激になりかかっている町の連中を、そう言ってなだめてくれたのである。
といっても老人、その武士に直接会ったことはない。桜町の遊郭街で遠くから、ちらりと眺めたことがあるだけだ。腰に脇差しの一つも帯びず、長い白髪を太く三つ編みにして背に垂らし、痩せた長身を上等の着流しで包んだなかなかの美男子。
武士について彼が知っているのはそれだけである。
それでもなお、この老カツギがそこまで言い切ることができたのは他でもない、無代という少年の変化を見ていたからだ。
知り合ってからこのかた、三月と開けずに訪ねて来る無代の顔を見るたびに、
(毎度毎度、見違えるほど立派になって来やがる)
と、その成長ぶりをはっきりと感じ取っていたからだ。
実はこの老人の『人を見る目』には定評がある。
人間というものは、極限の環境に置かれれば置かれるほど、どうしても本性が出るものだ。卑しい者はより卑しく、品格のある者はより品良く、その地金をのぞかせてしまう。だから四貢山という厳しい場所で生き、人間というものの本質をありのままに見続けてきた老人の目が、只者であるはずがなかった。
その目をして、元から明るく素直な無代の人格がさらに逞しく、そして品よく磨かれていく様が手に取るように分かるのだ。
(よほどのお人と巡り会ったのでなけりゃあ、決してこうはならねえ。それだけは間違ぇのねえことだ)
そう確信していた。
「どこぞのお武家様と懇意にしてらっしゃる、それは存じておりますよ」
老人の言葉に無代、無言で頭を下げる。自分を心配して騒ぐ町の衆を、老カツギが陰ながら抑えてくれたことは、もちろん承知の上である。
「大棟梁さんにご相談というのは他でもねえ、そのお人のことなのです」
無代が次に発した言葉は意外でもあり、同時に拍子抜けするほど当たり前の話でもあった。
「そのお人が仰言いますには……『四貢の御山に登りたい』と」
「何をぅ?!」
老カツギが一瞬、虚を突かれて目を丸くする。
「御山に登りてぇ、って? そのお武家様が、かね?!」
「左様なんでございます。それも手前に『カツギ』をしろ、と」
「はあ……?!」
老カツギの目が今度こそまん丸になる。
「無代さんのカツギで御山に登る、って?!」
呆れ半分で尋ねる老カツギに、無代がほとほと困り果てた顔でうなずく。
「『四貢のお山には一度登りたいと思っていた。お前にその技があるなら渡りに船だ。俺を背負って行け』。……どうにも困っちまいまして」
「……」
無言のままの老カツギが厳しい顔になり、腕組みをした。
確かに無代にカツギを教えたのは自分で、その優れた才能はよく知っている。とはいえ経験も無い無代が、いきなり人を担いで四貢山を登るなど夢物語もいいところだ。
あの山は、そんなに甘い場所ではない。
「無代さん。あっしが昔、あんたを御山に誘ったのは嘘でもお世辞でもねえ」
老カツギも無代と同様に、手の盃を置く。『酒飲み話』で済む話ではなさそうだ。
その目が鋭く光る。
「それでも無代さん、アンタが御山でいっぱしのカツギをやるにゃあ、少なくとも二年は修行が要る話だぜ? いくらアンタでも、御山をナメる野郎は……」
どこの誰だろうが許すものではない。老いたりといえど、カツギ衆を率いた気迫に衰えはなかった。
「い、いや違う! そりゃあとんだ誤解だ、大棟梁さん! 御山をナメるなんざ、とんでもねえ話です!」
無代が片手を床に、もう片手を『待った!』の形にし、大あわてで首を振る。
「四貢の御山の厳しさは、いつもお話に聞かせていただいております。そこで自分にカツギができるなんざ、夢にも煙にも思っちゃあおりません。お願いってのはそうじゃねえ、逆なのだ!」
「む……?」
老カツギが、白くなった眉を寄せる。その目の前で無代が膝をずっ、と下げ、両手をついてがば、と頭を床まで下げる。
「この通りです、大棟梁さん、そのお方を止めて頂きてえのです! 」
「……?!」
老カツギが息を呑む。
ぎゅっ、と、無代の額が畳に擦れる音が、静かな隠居所で馬鹿に大きく響く。
「俺じゃあ止められねえ! だけど大棟梁さんの言葉なら……天下の大カツギが言って下さりゃあ、聞き分けて下さる……!」
老カツギが絶句する目の前で、無代の言葉が、ほとんど祈りのように響いた。
「いや、きっと止められる! 止められるに違ぇねえのだ!」
つづく