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2009.08.06 Thursday
第三話「mild or intense」(1)
プロンテラ下町の朝。 宿屋の3階に、無代の怒鳴り声が響いた。 「誰だ! カプラの…誰が殺された! 女将っ!」 無代の取り乱し方がちょっと異様に見えたのだろう。一瞬ひるんだ女将だったが、すぐにいつもの威勢を取り戻し、 「ちょっと落ち着きなよ! モーラじゃない! アンタの元彼女じゃないから!」 「…!」 怒鳴り返した女将の言葉を聞き、無代の身体からどっと力が抜けた。 「モーラじゃない…?」 「そーだよ。確かS2チームの、ノーナンバーの娘だってさ」 冒険者たちの活動を支えるカプラ社と、その従業員であるカプラ嬢。 『ディフォルテー』 『ビニット』 『ソリン』 『グラリス』 『テーリング』 『W』 6つの名前と姿を受け継ぐ女性たちが24時間365日、冒険者たちの荷物の預かりや、他の都市への有料転送を行っていることは既に書いた。 当然、彼女たちの活動もきちんと組織化されている。 6つの名前を襲名した『ナンバーズ』の下に、複数の見習いを配したチームを組み、24時間をローテーションするのだ。 女将の言う『S2チームのノーナンバー』を例に取ろう。 『S』は名前の頭文字、つまりソリン。『2』は順列を示している。 『ソリン』は現在5人のナンバーズで構成されており、『S2』はその二番目。 『S2チームのノーナンバー』とはつまり、ソリンの上から二番目の女性の部下、ということになる。 ちなみに、無代の元恋人であるモーラは『D4』。 『デフォルテー』の4人の『ナンバーズ』、そのうちの一番新人だ。 ナンバーズはその配下に4〜5人の部下を持ち、それを統括する形でプロンテラ、ピラミッド前、アインブロックの3カ所をローテーションしている。 今はプロンテラ中央がD4チーム、つまりモーラをリーダーとするチームの担当である。 「しかし、ノーナンバーとはいえSチームのレギュラーだろ? それが殺されるとか尋常じゃないぞ?」 彼女らの並々ならぬ実力は、無代も骨身に沁みて知っている。 「『レギュラー』って言っても新人さんだったらしいよ…それを一撃だってさ。痕跡から見てバッシュでね。心臓を吹っ飛ばされて…おっと、申し訳ございませんお嬢様、お茶の時間に…」 「いいわ。別に平気。…バッシュなら、香姉様じゃないよ…ねえ?」 最後の方は小声。女将には聞こえないが、無代には聞こえる。 「…まあ、あまりにタイミングがよかったので驚いてしまいましたが、冷静に考えれば香お嬢様がそんなことするはずは…」 「…ないよね」 ふーっ、とため息二つ。いささか不謹慎ではあるがやむを得まい。 「どうかなさいましたか?」 女将が不思議そうに訊ねてくるが、まさか「下手人が『一条家の二乃姫』じゃないかと疑ってました」とは言えない。 「べ、別に〜? じゃ、外が騒がしいのはそのせい?」 「左様でございます、お嬢様。『カプラ嬢はオレが守る!』的な連中がワイワイと」 「まあ誰だって気にはなるよねー…ごちそうさまー」 静が最後のお茶を飲み干し、女将に下げるように促す。 「お粗末でございました。…けどまあ、いったいどこのどいつが…何がしたくてそんなことをねえ。死体をそのまま放置して行ったそうで、まったくバチ当たりな」 「まったくでございますね。さて、お嬢様、本日の予定でございますが…」 落ち着きを取り戻した無代が『執事調』に戻る。が、静はなぜか応じない。 じーっと無代の顔を見ながら、 「ね、元彼女さんとこ、行ってあげたら?」 「は?」 「心配なんでしょ?」 畳み掛けてくる静に、無代は苦笑する。 「そりゃそうですが、わたくし振られておりますし。『二股』もバラしてしまいましたので、もう彼女に顔出せた義理ではございません」 彼女と決別した後も『ディフォルテー』は何度か利用したが、いずれもモーラの部下のノーナンバー達だった。しかし彼女たちもモーラと無代の事情は薄々知っているらしく、無代への態度はなかなかに冷たい、と思うのは無代の気のせいだろうか? 「それでも、行った方がいい。その方がいいよ」 「いや、しかしなぜお嬢様がそれほど…?」 静の強硬ぶりに、無代の方が首を傾げる。 「…? そういえば何でだろ? …でも何か、そうした方が良い気がするの。そう…いますぐそうした方がいい気が…」 すう、と静の目が別の輝きを帯びて、すぐに消えた。それは本当に一瞬のことであったが…。 「承知致しました」 無代が即答した。今まで渋っていたのが嘘のようだ。 こういう時、彼女たちの言葉を無視すべきではない、と経験的に知っている。無駄に長く『一条の三姉妹』との付き合っているわけではない。 おかげでひどい目に合う事も多いのだが…。 かちゃん。 静の茶器を下げようとしていた女将が、一瞬手元を狂わせ、盆の上の茶器を鳴らした。 「も、申し訳ございません…!」 女将が慌てて謝罪すると、そのまま部屋を出て行く。顔色がおかしく、なぜか涙ぐんでいるようにも見えたが…。 「どうしたんだろ、女将?」 「…さあ? それよりお嬢様。さっそく行って参ります。お昼のお弁当をご用意できませんので」 「いいよ。自分で調達する」 「申し訳ございません。では失礼致します」 静の許しを得て、無代は街へ出た。 人ごみをかき分けるようにして中央カプラの場所へたどりつくと、そこに立っていたのは他ならぬ、モーラだった。 変わらない、いつもの凛とした姿。遠目に見ても奇麗なお辞儀を繰り返しながら、冒険者たちに応対する。 モーラと目が合った。 少し表情を緩めてくれたような気がするのは、無代の勝手な思い込みだろうか。恋人としての間柄に決別してまだ間がないけれど、決して険悪な間柄にはなっていない、とは思う。 「…っと、それも勝手な言い分か」 モーラの無事は確認したし、様子を見ても大丈夫そうだ。しかも、無代の100倍も勇ましい『光った』連中が周囲にたむろしている状況を見れば、彼ごときの出番はなさそうだ。 実際、この状態なら超級のドラゴンだの堕天使だの、無代では手も足もでないようなモンスターが襲って来ても平気だろう。 帰ろう、そう思った無代の目の前に、いきなり倉庫の扉が出現した。カプラ倉庫。 魔法による超空間移送技術、それを応用したのがこのカプラ倉庫と、カプラ嬢による多重応対システムだ。 元々は、先の聖戦時代に構築されたシステムを『発掘』したもので、どうやって作られたのかも、その作動原理もほとんど不明のまま。 しかし、とにかく『使う事』だけは可能というオーパーツ。 こういう事物を「戦前物(オリジナル)」という。 超空間内に作られた倉庫は、冒険者一人につき一つ存在し、その持ち主の冒険者にしか見えず、もちろん開く事もできない。 目の前の倉庫の扉はまぎれもない無代のものだが、他の冒険者には見えないし触れもしない。 本来は無代の要求が無ければ出現しない扉だが、どうやら今日は特別らしい。 「…心配してくれたの?」 モーラの声。ぶっきらぼうなようだが、歓迎する音色もある。ちなみにこの声も、無代にしか聞こえない。 『本体』のモーラは相変わらず街角に立ってお辞儀をしているが、ここで無代に語りかけているモーラも本物だ。超空間移送技術を応用した多重コミュニケーション。 「そりゃ、まあ。でも無事な顔見て安心したよ」 「…ありがと。あの…無代…」 「モーラ、もしよかったら」 言いにくそうなモーラの先手を取る。 「よかったら後で、少し話がしたい。今度の事件のこと」 「…」 沈黙。やはりまずかったかな、と無代が後悔しかけたとき、小さなため息が聞こえ、 「お昼に交代だから、その後で」 ほっとしたような声。 「ありがとう。何でも好きな物奢る」 簡単に待ち合わせ場所を決めると、ふふ、という含み笑いと共に声は途絶え、倉庫も消えた。しまった、今だったら倉庫開けるのタダだったかな、と無代が思ったのは内緒だ。 カプラ嬢の交代は瞬間移動を使って行われる。 前任者が超空間へ飛ぶと同時に、同じ位置に新任者が出現する早業は、うっかりしていると見落としてしまうプロンテラの名物の一つだ。 無代はモーラが次の担当者(キャロルという、モーラの後輩だ)と交代するのを確認して、待ち合わせ場所の中央噴水へ歩き出した。にぎわう露店街を、顔見知 りの同業者たちに挨拶しながら抜けて行く。途中何人かのおしゃべりにつかまりそうになるのを上手く切り抜けていくが、そうもいかない相手もいる。 「はよー、無代っちい! 今日はお嬢様は〜?」 「おはようございます、うっきうき商店様」 無代が丁寧に応対したのは、道ばたに座り込んでいた女性の商人だ。 「あはは、しゃべり方、やっぱ変だ〜。うきでいいようきでww」 笑われても苦笑するしかない。そりゃ一昨日までは普通にしゃべってたのが、いきなり『バカ丁寧な従者風』でしゃべり出したら、笑われるのも仕方ないことだ。 ただ、笑われて腹を立てる相手ではない。 プロンテラに来た最初の時期にずいぶん世話になった先輩商人。しかも何より、昼間は無害な商人姿だが、夜ともなれば名うてのアサシンクロスという別の顔を持っている。 無代が怒ってどうなる相手でもなかった。 「今日はわたくし一人でございます。景気はいかがで?」 「んー、カプラ事件のせいで人は多いけど、売れ行きはいまいち! ディフォルテーばっか見てないで、ちっとは露店も見てほしい!」 「あはは」 先輩を相手にしばし情報収集。 殺されたカプラ嬢はシーリンという名前の新人で、その時はプロンテラの西門を担当していた。それが深夜、人通りの絶えた時間帯に殺され、その後通りかかっ た『深夜組』の冒険者に発見されたという。話の通り正面から心臓を吹き飛ばされており、蘇生限界時間もとっくに過ぎていたため『死亡』した。蘇生といってもその傷では、限界時間もほんの数分しかなかったろう、という話だ。 商売に戻る『先輩』と別れ際、ついでに頼み事をする。二つ返事で引き受けてくれたので、安心して街を歩き出す。 が、無代の表情は微妙だ。 (まあ、香じゃないよな。そうだとしたら、やり方が的外れすぎる) 香の顔を思い浮かべる。 そりゃ『やりかねない』という危惧はあるものの、あの香が嫉妬に狂って殺人を犯すほど素っ頓狂とは思えない。 万一殺すにしても、無代とはほとんど縁もゆかりもないシーリンなど殺す意味はなかろう。 (香ではない) それはもう確信と言ってよかった。 (しかし、ならばなぜ静があんな反応をしたのだろう?) それが分からない。 そしてモーラの様子も、少し気になる。 噴水が見えて来ると、花壇の側に立っているモーラがいた。 既に服も着替えて髪型も替え、知らない人間にはこれが『D4』だとは分からないだろう。ただの『美しく若い女性』にしか見えまい。 だがやはり様子がおかしい。 困惑した表情でそわそわと辺りを見回す取り乱した仕草は、最難関といわれるDナンバーを若くして許された彼女らしくない。 気になって足を速めると、モーラが無代を見つけた。 「無代! 来ちゃ駄目っ!」 モーラの叫びが聞こえ、無代が身構えるのと同時。 囲まれた。 武装し、既に抜刀した一団。リーダーらしきナイトが進み出る。 「カプラガードだ。無代だな?」 カプラガード。カプラ社が擁する専属の武装集団。 訓練された組織的な行動に抵抗する暇もない。抵抗したところで武器もなく、戦闘能力もやっとブラックスミスに転職したばかりの無代では無駄もいいところだ。 こういう時は、すばやく捨て身で開き直るのが無代流である。 「…左様でございますが、わたくしに何か?」 「カプラ嬢殺害の件で聞きたい事がある。来てもらう」 並んだ剣がじわり、と動いた。 (…今回は裏目らしい…) 自分を送り出した静の言葉を思い出しながら、無代はため息をつく。 無代と静が滞在する、宿屋の厨房。 そこが今、ちょっとした地獄絵図に変わっていた。 室内のあちこちが焼けこげ、元が何であったか定かでない様々なものの残骸が散乱し、異臭と煙が立ちこめている。 「…ねえ。何で卵焼きが爆発するのか教えてくれない?」 若い男の、それも真剣な声が室内にぽつり、と落ちた。 「し、知るワケないでしょ! あ、アンタがちゃんと教えないからよっ!」 怒鳴り返したのはほかでもない、静だ。 宿屋の外厨房。つまり、宿泊者達の自炊のために解放されている厨房である。 そう聞くと、様々な設備が充実している宿屋のように聞こえるが、そうではない。 この宿はプロンテラでも最も安い部類に入る、いわゆる『木賃宿』だ。 木賃宿とは、宿泊客が木賃、つまり炊飯用の薪代を払って自炊をする宿のことである。 一応、金を払えば食事を作ってくれる内厨房もあるので多少はマシだが、間違っても高級な宿というわけではないし、規模も小さい。 外厨房も簡素なかまどが6つあるだけで、何ら立派なものではないのだが…。 それにしてもひどい惨状である。 「ボクはちゃんと教えてる…ってゆーか、どう教えたら卵焼きが爆発するのさ、逆に」 静に反論する若者の声は、あくまで冷静だ。言っている事ももっともである。 そもそも静がなぜ、外厨房で卵焼きを爆発させているのかというと…。 話は無代と別れた直後、 「無代がいないので、自分でお弁当を作ります」 と、静が宣言したことに遡る。 当然、女将は止めた。 お姫様に炊事をさせるわけにはいかないし、十分な代金は支払われているのだからお弁当ぐらい宿で用意する、と、至極もっともな理由である。 が、一度言い出したら聞かないのも静だ。世話役の無代が留守なのだから、自分でやらなくてはという自立心もあるが、単にやってみたい!という好奇心の方が大きかったかもしれない。 結局、女将の制止を振り切り、強引に手伝いも断ると、かまどの前に立った。 が、はたと困る。 一条静姫、生まれてこのかた厨房に立った事がない。 余談だが、一条家の三姉妹のうちでこの手の家事に最も長けているのは、実は意外にも長女の綾である。 実母の桜が亡くなった当時、実父の鉄はまだプロンテラの軍人であり、士官用のアパート暮らしだった。そのため、綾が母親代わりに家事を引き受けていた時期があるのだ。 後の天下の女傑にしてはユニークな過去だが、綾なりに母の死を背負い、家族のためを思いながら必死の苦労を重ねて身につけたものだけに、決して笑いものにはできない。 次女の香も、彼女なりに綾を手伝った過去があるし、事象を数値化して記憶する術に長けている彼女だけに「やらせれば」それなりの成果を上げられる。ただ、本人に家事に対する興味が絶望的に薄いのが難点だが。 で、静なのだが…。母が亡くなった時期にはまだ幼児であったし、物心ついた時には既に父は瑞波のお殿様であったから、彼女も「一国の姫」であった。 本人も武術の鍛錬に打ち込んでいたこともあり、いわゆる家事炊事はさっぱり経験がなく、興味もなかったのだ。 (…お米ってどうやってご飯にするんだろ…?) と、かまどの前で真剣に悩むレベルである。 とりあえず火は起こせるので、その上に鍋を置いて米を入れてみる。 焦げた。 辺りに煙が充満する。 「…あのさ」 後ろから声をかけられた。 「な、何よっ?」 失敗に突っ込まれるのがイヤさに、ムキになって振り向く。 「初めてなんだから! 失敗はしょうがないじゃないっ!」 相手もろくに見ないで先制してみる。 「それはまあ仕方ないと思うけどさ…」 長身の、若い男。静の先制攻撃にもさして怯んだ様子はない。 身体の幅や厚みはそれほどでもない。ただ、四肢は絞り込んだ鉄筋のように鍛えられているのが分かる。彫りの深い、美男子といってもいい顔立ちだが、女性の好みそうな甘さはあまりない。 「お米、もったいなくない…?」 「…う」 そう言われると静も苦しい。 「キミ、お姫様なんでしょ? お金はあるんだろうけど、それでももったいないことは良くないと思う」 正論である。 「…そ、それは、そうね…うん」 さすがの静も勢いが弱い。 「教えようか?」 「え?」 「だから料理。お米炊いて、卵焼きぐらいなら」 静の返事を聞く前に、男がくるくる、と自分のシャツの両袖をまくり上げた。静の鍋を掴み、焦げた米を捨てる。 「まずお米から。鍋洗って、水汲んで…汲み方ぐらい分かるよね?」 「う…うん。あ、熱っ!」 男が差し出す鍋を掴もうとして、静が思わず手をひっこめる。 「あ、ごめん。熱かった? じゃ、これ」 備え付けの鍋掴みを静に差し出す。鍋は素手に持ったままだ。 「それ、熱くないの?」 「? …ああ、別に」 虚を突かれた感じで、鍋掴みと鍋を受け取り井戸へ走ろうとした静がはた、と止まる。 「あ…えと、あたし静。一条静。あなたは?」 「ボク? ボクはフール」 「フール…。あの、フール?」 「ん?」 「…よ、よろしくお願いしますっ!」 ぴょこん! と頭を下げる。『師弟関係に身分なし』というしつけが行き届いている辺りはさすがで、むしろフールの方が驚いた顔。 そして即席の料理教室となったわけなのだが…。 何とか米を炊くまではよかった。問題はその後。 卵を焼こうとフライパンを火にかけたところで…。 「…卵焼きがいちいち爆発するなんて、オカルト現象だよまるで」 フールがさすがにぼやいた。 呆れたことに鎧兜と盾まで装備している。ロードナイトだ。 二度目の挑戦の際、爆発した卵の直撃を顔に喰らった後、特に熱そうなそぶりはなかったものの、いったん自室に戻って耐火装備で武装したのだ。 なぜか当の静は無傷なのが、さらにオカルトである。 「…た、卵がおかしいのかもしれないじゃない!」 静が言い返すが、さすがに勢いがない。 「まあ一概に否定はできないけど…。じゃボクがやってみる」 静に代わってフールがかまどに立つ。懐疑的な口ぶりの割に、鎧と盾は装備したままなのは、彼なりに『オカルト現象』に衝撃を受けているからだろう。 完全防備のロードナイトによる、前代未聞の調理が始まって…すぐ終わった。 「爆発しない。卵は悪くない」 「…む」 「ね、こうしない?」 黙り込むしかない静に、フールがフライパンを差し出し、 「ボクのこの卵焼き、半分あげる。その代わりキミの炊いたご飯、半分もらう。今日はそれでよしとする」 「…」 「どう?」 「…うん」 そういうことになった。 宿で借りた弁当箱にそれぞれの『成果』を詰め、簡素ながらも弁当が完成する。 爆発卵の謎は謎のままだが、静のオカルト的能力、ということだろうか。 「…ありがとうございましたっ!」 「あ…いや」 「えへへ。また、教えてね、フール」 初めての弁当を大事そうに抱えて飛び出して行く静を、フールは困ったように見送る。 感謝された事への困惑か、また教えてくれという要求に対してなのか。 どうも自分でもよく分からないようだった。 「ご苦労さん、フール。アンタがいてくれて助かったよ」 宿の女将が厨房に顔をのぞかせる。 「…いいけど、約束忘れてないよね、女将さん?」 「ん? ああ、お嬢様の面倒見てくれたら宿代一ヶ月分棒引き、だろ。忘れてないともさ。あのお嬢様にこれ以上やられたら、こっちの神経が持たないからねえ」 わはは、と笑う。 どうやらフール、女将に頼まれて静の面倒を見る役を引き受けたらしい。 「忘れてないなら、いい。…あ、これあげる」 フールが厨房を出て行きざまに、女将に包みを差し出した。 「え? これ、アンタの弁当だろ? 朝に自分で作った方の。いいのかい?」 「…こっち食べるから」 フールが反対の手に提げているのは、ついさっき静と作った弁当。 「まあ、アンタがいいならいいけどさ。しかし変わってんねアンタも。別に自炊弁当しなくても…そもそもこんな宿にいなくてもいいだろに。稼いでんだからさ?」 フールを見送りながら女将が訊ねるが、返答は短い。 「お金はないよ」 「ふーん…って、アンタ手! 頬っぺたもそれ、火傷じゃないか! ちょっとお待ち!」 女将があわてて薬を取って来て、手際良く塗り込む。 「痛くないかい?」 「…痛い? 痛い…そうか、痛いんだ、こういうの」 「何だって?」 思わず女将が聞き返すのへフールは答えず、代わりに短く礼を言っただけでその場を立ち去る。 「痛い、って何? 分からないんだ…」 去り際に呟いた声は、誰にも聞こえない。…はずだった。 「ふーん。なるほどー。あーゆーふーにやればいいのかー。キミ、うまいねー」 厨房から出たところで、廊下の向こうから何とものんびりした声がかかった。 「…?」 フールがさすがに立ち止まり、相手を凝視する。 自分と余り違わない年格好。服装はプリースト。頭にえらく派手な花飾りをつけているのが特徴といえば特徴だ。 立ち姿に緊張はなく、どちらかといえばぽやん、とした雰囲気。 「女の子と仲良くなるには、やっぱり食べ物だよねー。僕もそうすればよかったなー」 何だか間延びした声。 「…誰?」 「あ、ごめんごめん。僕、速水。速水厚志。あっちゃんでいいよ?」 「いやだ」 「あれ〜?」 フールはもう興味がなくなったようで、速水と名乗った男の脇を抜けて行く。 「仲良くしようよー…似た者同士じゃない?」 「!」 何気なく投げられた言葉に、フールがふ、と振り向いた。 二人の視線がぱちん、とぶつかる。だが、それ以上の事態には発展しない。 「興味ない」 フールが視線を外し、今度こそ歩き去る。 「…嘘つき」 速水が少し笑って、その後ろ姿に言葉をぶつけた。それは、聞こえたのか聞こえなかったのか。 フールはもう振り向きもせず、真っ直ぐに外へ出て行く。 「…でも僕が一番、嘘つき」 最後のは速水の独り言。
2009.08.06 Thursday
第三話「mild or intense」(2)
鼻を突く異臭に、さしもの香も顔を歪めた。 (…臭) 『鼻』の判断でとっくに嗅覚は停止しているが、異臭はもう目やら唇やら、露出している粘膜にまで浸透を始めている。 周囲の人々は全員、例外無く意識を失って倒れていた。大人も子供も男も女も折り重なり、まるで人の海だ。 四隅の小さな魔法灯の他は、ほとんど光のない船の底。 香が家出の末に乗り込んだ、あの移民船の船底である。水音や船の揺れ、うねりの様子から、船はまだ外洋を航行中のようだ。 もともと衛生的とはいえず、空気も悪いし多少の異臭もした。だが、それにしても今のこの異臭は異常である。 ガスだ。 それも事故ではない。何者かが意図的に、船底にガスを流し込んだのだ。 真夜中、船底の『客』が眠っている間に、それは行われた。 大半の客は眠ったまま意識を奪われ、異変に気づいた少数の客も、船底から避難しようと船上への扉に殺到したところで、がっちりと施錠された扉に阻まれ、そこで力尽きた。 香も眠っていたが、警戒のために一カ所だけ起きていた『右目』の警報で目を覚ました。 即座にガスの成分を分析し、超特急で体内に対抗措置を取る。内臓や筋肉や血流に『自分で思考させる』ことが可能な香は、量にもよるが大抵の薬物は無効にできた。 ガスは微弱。香ならば生存、活動に大きな問題はない。 だが、意識のある人々が船底の扉に群がり、それでも扉を開けることができないのを確認して、脱出をいったん保留する。 (あの扉から出るのは難しい。素手では破壊できない。有効な武器もないようだ) 『右肩』が分析する。 (様子を見るべきでは?) 『左腿』 (ガスの成分と量からみて、客を殺すつもりはないと思われる。意識を奪う事が目的だ) 『鼻』 (もともとコレを目的とした奴隷船だったのでは? 調査不足だ) 『左肺』が不満を訴える。 (急いでいたことは事実だが、調査不足という判断は早すぎる。船を乗っ取られた可能性もある) 『脳』が調停する。 (とりあえず、身体も回復しきっていない。様子を見る。同意?) 各器官から温度の差こそあれ、同意が伝えられる。 そのまま、警戒のための一部器官を除いて、再び眠ったのだ。 そして、相変わらずのガスの中で目を覚ました。 ガスを流した犯人がすぐにでも、扉から中の様子をうかがいに来るかと思っていたが、数時間経っても誰も来ない。全感覚を動員して『外』の気配を探るが、少なくとも船底の天井の上には誰もいない。 気は進まないが、回りの人々の『運命』を覗き見してみる。 …『死』のイメージが支配的になっていた。それどころか、既に死亡している者も少なくない。 殺すつもりはない、というのはどうやら間違いらしい。が、最初から皆殺しにするつもりならもっと強力なガスを使えばいい。その方が簡単だし安上がりだ。 (選別か…?) 『心臓』が仮説を立てる。 (弱い者は死ぬに任せ、生き残るだけの生命力のある者だけを選別する) ありうることだ。奴隷として売るなら『丈夫で長持ち』する方がいい。 冷静な分析。そして残酷な決断。 (…私だけは生き残ってみせる) 『子宮』がつぶやく。そして全器官からの、同意の沈黙。 香は、彼女の姉妹や義兄のような英雄ではない。その能力が常人を上回るとしても、せいぜい一人か二人を守れる程度に過ぎない。 彼女の義兄ならば素手でも扉をぶち破るだろうし、姉ならば扉どころか楽に天井を、いや船の土手っ腹に大穴を開けることすらやってのけるだろう。 だが香の能力では、この両手両足を両肘両膝まですり減らしたとしても、やっと人一人通れるか通れないかの穴を開けるのが精一杯。例えそうしたところで、出血と疲労によってそこで死ぬのがオチだ。 さらにここは海の上。香が航海術を持たない以上、万一船を乗っ取れたとしても漂流した挙げ句に死ぬのが、やはりオチなのだ。 (蝶の羽一枚でもあれば…) 『右耳』が悔やむが、後の祭り。『家出』の覚悟を決めるために、戻る事を想定しなかったのが裏目に出た。周囲の移民たちの持ち物も根気よく探してみたが、貧しい移民たちばかりだけに似たような状況らしく、テレポートアイテムは一枚も発見できない。 だが、船のどこかには必ずある。難破や海賊の被害のお守りとして、船乗りなら蝶の羽を持つのが常だからだ。それを奪うのが唯一の可能性。たとえ瀕死の状態でも、それを奪って使うわずかな時間さえあれば。 テレポート位置としてセーブしてある、見剣の城へ帰れる。 もう『持ち主の口に入る事のない飲食物』を拝借し、余計な思考を止めてひたすら食べ、飲む。 『出す方』はといえば、部屋の隅の簡易トイレはもう満杯。こうなるとどこで排泄しても変わらないし、香も気にしない。倒れている人をせめて避ける程度。 さらに数時間。死者は半数を超えた。 香の『目』には、自分が死んだことが理解できず、まだ倒れたままの『死者』が映り込む。が、どうしてやることもできないし、する気もない。 (選別が目的なら、そろそろのはず…) 香は感覚を研ぎ澄ます。身体の回復はまだ十分ではないが、短期決戦であれば目的達成は可能だろう。 香には、移民たちの無益な死に対する感慨はあまりない。卑怯な手段、残虐な行為に対する怒りも、それほどない。『死を見る』ことのできる香にとってみれば、『死の価値』に大きな差はないからだ。 もっと理不尽な、もっと簡単な理由で人は死ぬし、殺すし、殺される。 彼女が辛うじて『価値』を見いだす死は、母と…そして無代の死。そして『無代の運命の付属物』としての自分の死、だけだ。 今この瞬間も死んでゆく移民たち。だが、香にとって彼らを救おうという衝動自体、自分の生存と無代との再開を阻む『障害物』である。 理不尽な死を迎える者への謝罪も、祈りも、香にはない。 いや…あるのかも知れない。が、もしあったとしても完全に思考の外に排除されている。でも…。 右目から涙が一筋、流れる。 (落涙は機能エラーと判断。原因の究明と修正を要求) 『脳』が『右目』を問いただす。 (修正済。原因は…不明) (不明…了解) 『脳』がそれ以上質さず、引き下がる。ここ数年、なぜかそういうことが増えた。無代という男を知ってから。 こつん。 天井に音が響いた。人の気配。 (…来た!) 『脳』が直ちに全身の思考を統括。 (…戦闘準備良し! 目標は蝶の羽!) (同意!) 全身の全器官が瞬時に戦闘態勢を整える。 天井の上の気配は2人。まさか意識のあるものがいるとは思っていないだろう。 香なら一瞬で事を終わらせられる。 扉の鍵を操作する音。香の全身が細い、しかし強靭なスプリングとなり、エネルギーを蓄積する。 (来る!) 『脳』が最後のタイミングを取った瞬間だった。 がぁん! 香の意識に、もの凄い衝撃が走った。 特大の雷を叩き落とされたような感覚に、全身が壊れた人形のように痙攣する。 (…は、ぎ…っ!) 体じゅうの血液が抜き取られたような脱力感が襲い、統一されていた思考が粉々に砕かれた。 (…駄目っ! 今、今は駄目っ!!) 懸命に思考の統一を図るが、もう遅かった。衰弱した状態にも関わらず、ここまで無理を重ねて来た体内の器官という器官が、一気に思考を崩壊させる。 (…駄目) (もう…) (…原因を) (…遅い!) (無代が…!) (何!?) (危ない! 無代が危ない!) (論理的思考を…) (遅い…遅い遅い遅い…!) 崩壊の要因となったその一撃が何なのか、すぐに分かった。 無代の危機を感知してしまったのだ。 空間を越えて、自分より大事な人の危機を感知してしまう、香の能力。 (…無代に、危機が…!? あああ無代が死んで…死んで…え? え? え?) 殴りつけられるように飛び交うイメージの中で、無代が何度も死ぬ。 死ぬ。 死ぬ。 (…あ…ひ、ひ、いぃ…!!) 眼球が激しく痙攣する。手の指が逆に折れ曲がり、あり得ない宙を引き裂く。 過去にも何度かあった。無代が世界を巡る途中、危機に陥る度に感じた。 彼が商売敵に捕われた時。船が難破して死にかけた時、得体のしれないモンスターに襲われ大けがを負った時。 その苦痛や動揺、激しい感情を、香は『受信』してしまうのだ。 この世でこの一撃だけは、香にもコントロールできない。 全身の思考が沸騰し、白熱し、焼き切れる。 (無代が…無代が!!) (どうしよう…ああ…どうしようどうしようどうしよう…?!) 頭の中はそれしかない。泣きわめく幼児と変わらない。 見剣の城で突然狂ったように泣きわめいたり、床にばったりと倒れたまま痙攣する香を、大半の者は『狂った』と思った。普段なら、真実を知る彼女の家族と、善鬼はじめごく少数の家来たちによってすばやく隔離されるのが常であったが、今はそれも望めない。 せめて不幸中の幸いか、天井の扉が開くより一瞬早く、香の身体が音もなく崩れ落ちる。意識のある者とは気づかれまい。しかし…。 (駄目だめダメダメやばいヤバいヤバいヤバい) もう身体の器官をコントロールできない。 疲労した内臓が支えを失って次々に停止し、心臓が凄まじい不整脈を奏でる。筋肉は弾力を失い、視覚触覚はじめ全感覚がブラックアウト。 ガスの無毒化プロセスも崩壊し、一気に身体と意識が犯される。 こうなっては、香もただのか弱い女性に過ぎない。いや、身体が衰弱していた分、むしろ弱い。 (あ…) (…無代…) 「…む…」 最後の力を、愛しい人の名前を呼ぶために使う。 無代を知ってから、心の中で彼以外の名前を呼んだ事はない香である。 だがその名も最後まで呼ぶ事はできず、香の意識は暗黒へ、落ちた。 さすが香というべきかどうか、無代が後ろから殴り倒されたのは、まさに香が感知したその瞬間だった。 プロンテラにあるカプラの支社。無代が連行された先は予想通りそこである。 中央噴水でカプラガードに囲まれ、ここにたどりつくまでに一悶着あったので、時刻はもう昼近い。 悶着の原因はモーラだ。 無代を連行しようとするカプラガードに、モーラは激しく抵抗した。 「この人は違います! 犯人じゃない! 連行なんてだめです! 私が許しません!」 その剣幕は凄まじく、カプラガードの精鋭が一時的にとはいえ気圧される。 「待った!モーラ!」 見かねた無代が叫んだ。 「ありがとうモーラ…でも駄目だ。これは俺のせいなんだから、君が会社に歯向かう必要はない。大丈夫だから」 無代が逆にモーラを説得しなければ、それこそ『D4』の戦闘能力を首都のど真ん中で披露する羽目になったろう。 結局、無代を犯人扱いせず、さらし者にしないように馬車を用意する、拷問しないなどの条件でモーラをしぶしぶながら納得させ、やっとここまでたどりついたのだ。 (とんだ果報者だよ、まったく) 無代の内心は苦い。結局、モーラに迷惑をかけてしまったこと対してである。 彼を連行したカプラガードは元々、カプラ嬢の安全を守るために組織された、いわば私設警察だ。 その性質上、公私共にカプラ嬢に近づく者を普段から監視している。実際、彼女たち目当てのストーカーは後を絶たないのだ。 無代がモーラを口説き、一時的にとはいえ付き合っていた時期から、カプラガードの監視の目が光っていたのだろう。 二人の関係が、無代がモーラに振られる形で解消され、その後カプラ嬢の殺害事件が発生。直後に無代がモーラに接触…。 その辺りの情報も全て把握されていたなら…。 (振られてヤケになったオレが、腹いせに新人のカプラ嬢を殺し、モーラに『復縁しないとお前も殺すぞ』と脅しに来た、ってところかな…) 無代は、カプラガードが描いたであろう「絵」を想像してみる。 (しかし直接的な証拠は何もない。…なのにこの行動、ずいぶん焦ってやがる) (そもそも、こりゃプロンテラ市警の仕事だろ) (どうやら何かありそうだな。しかし…) 思考が元の場所に戻る。 (モーラに迷惑かけっぱなしだ) 元はといえば全部、無代の撒いたタネである。なのに、彼女は無代を守ろうとしてくれた。カプラ社内での彼女の立場を思うと、余計に心が痛む。 支社の中の一室に放り込まれた。窓も何も無い一室。 そこで殴り倒された。 そして、次に待っていたのはガードの隊員連中による、いわゆるリンチ。 モーラとの約束など、最初から守る気はなかったわけだが、それは無代も承知の上なので驚きはしない。が、やり口がいささか強烈だった。 まず状態異常武器を使って身体をマヒさせられ、その上で殴る蹴るでボコられる。 これはかなり効く。 叫ぶこともうめくこともできない。さらに拷問なのに喋れない。つまり、心が早々に折れて自白しようとしても、させてもらえないのだ。向こうがやめるまで耐えるしかなく、耐えられなくてもどうしようもない。 (迷惑かけた天罰、だよなあ…) 苦痛でぐちゃぐちゃにになった頭で、無代は思う。 だが、本当にキツいのはこの後だった。それまでの『マヒ』が『毒』に代わる。 さんざん殴られて動けない身体をさらに毒化させられ、低いレベルのヒールを繰り替えしながら、ギリギリ死なない辺りを彷徨わせる。 その肉体的、精神的苦痛は筆舌に尽くしがたい。 その上、定期的にわざと『殺される』。 ヒールをかけずに毒の効果で一度死亡させておき、蘇生可能時間を見計らって蘇生をかけるのだ。 カプラ嬢殺害の時にも触れたが、『蘇生限界時間』というものがある。 プリーストの魔法、あるいはイグドラシルの葉といったアイテムを使えば、死者を蘇生させることが可能だが、その効果も無限ではない。 蘇生可能なタイムリミットがあるのだ。 そしてそれは、死亡時に身体が受けたダメージによって変化する。大きなダメージほど、蘇生可能時間は短い。 例えば殺されたカプラ嬢のように心臓を吹き飛ばされるとか、首を落とされるなどの大ダメージの場合、その時間はよくて数分。しかし、今の無代のように毒で じわじわと死亡した様な場合や、下水道で蟲に殺された静のようにダメージが大きくない場合は、数十分は『死亡』させておいても蘇生出来る。 ただ、蘇生される方も決して楽ではない。 文字通り、死の淵をさまようのだ。その精神的ダメージは大きい。 無代の場合、蘇生してもまた毒化の地獄が待っている。香が感知した、無代の度重なる死のイメージの正体がこれである。 いっそひと思いに死んだ方が楽、という状態を無理矢理続けられると、もう自分が真犯人でなくても真犯人でいい、と誰もが思ってしまう。 人一倍の意地を杖に耐える無代とて、おそらくは例外ではいられまい。 「…う…ぐ、げ…ぇ」 もう人間の声は出せない。 (…やめてくれ…もう、やめてくれ…助けてくれ、殺してくれ…) 理性の部分はどうあれ、無代の本能はもう泣き叫んでいるといっていい。 涙が止めどなく流れ、鼻水やら涎やら吐瀉物やらと混じって、ひどい顔だ。 顔色どころか全身が紫色。ズボンが赤黒く染まっているのは、止まらない血尿のためである。 手足の爪が浮き上がってはがれ落ち、髪の毛もイヤな色に染まって抜け落ち始めている。 眼球はとっくに、白目まで真っ黒だ。赤を通り越した黒。 「お前が、犯人だ」 男が、無代の髪の毛を掴んで顔を持ち上げ、耳元でささやく。 無代を連行したカプラガードのリーダー。若い、といっても無代よりは年かさの、金髪のナイト。 言葉に訛がないのは生粋のプロンテラ人の証拠で、身長や体格から貴族とわかる。なのにカプラ社に雇われていることから、恐らく家督を継げなかった次男か三男だろう。手の剣ダコは、それなりに修練を積んだ使い手であることもわかる。得意技は『突き』。 無代は混濁した脳で、ほとんど無意識に考える。別に香のような特殊能力ではない。経験と研鑽によって身につけた無代の『財産』である。 その財産を得るまでに経て来た労苦を、途切れ途切れに思い出す。 一人世界を巡り、人にボコられたことも、モンスターに殺されかけたことも両手の数では足りない。実際に『死んだ』ことも一度や二度ではなかった。 心配かけてはいかんと、航海の土産話にしたことはないけれど、どうやら香には分かっていたようだ。 無代には一条家の人々のような、天から授かった超人的な力は無い。 それでも、『天井裏の魔王』の言葉を胸に、勇者を目指して駆けた青春。 結局、勇者にはなれなかった。 だが、行くと決めた。 退きも、止まりも、逃げもしないと誓った。 (…誓ったんだ…)(…やめてくれ、もう…) 「お前が、犯人だ」 (……誓った)(…助けてくれ、許してくれ…!) 「お前が犯人だな?」 (…………)(何でも喋るから…!!!) その意地も…しかし尽きようとしていた。尽きたとしても、誰も無代を責められまい。 無代以外は。 『…拾え』 聞いた途端に『幻聴』だと分かる、重く、静かな声が無代の耳に響いた。 苦痛も悲鳴も遠くなる。 『5年前』のあの日に、時間が巻き戻る。 天臨館での『活躍』の翌日、無代は城に呼び出された。呼んだのは一条家筆頭御側役・善鬼。 正直、褒美でももらえるのかと思っていた。 だが違っていた。いや、違うどころの話ではなかった。 城の道場で二人きり、しかも善鬼がその愛杖「鬼棒」を手にしているとなれば、いくら無代でも不穏な空気は感じる。 この「鬼棒」は通称であり、その実体は強力な打撃力を誇る『マイトスタッフ』を7〜8本束ね、鋼の箍で締め上げたという何とも荒っぽい棍棒だ。 そしてその威力もまた、その荒っぽさに見合った恐るべきものである。 これで殴られた相手は、跡形もなく潰れて消えるとも、地面にクギを撃つように埋め込まれるとも言う。 通常、鈍器を使って戦うプリーストを『殴りプリ』と称する。 が、この鬼棒を握った善鬼はそれゆえに、「潰しプリ」だの「埋めプリ」だのの異名で呼ばれていた。 「これは試験である。左手を出せ」 何の試験なのか、何をするのか、善鬼は一切説明せず、質問も許さない。 無代が手を出す。 そこへ鬼棒が一閃した。 無代の肘から先が音も無くちぎれ、どん、と道場の床へ落ちる。 一瞬、何が起こったか分からず、呆然とちぎれた手を凝視する無代に、善鬼が一言。 「拾え」 静かな声。 冗談ではなかった。ちぎれた肘から鮮血が噴き出す。激痛が遅れて襲い、さらに急激な失血も加わって意識が遠のく。 「止血しろ。腕を拾ってつければ治してやる」 何の感情もない声。 無代はもう思考能力がない。拾うというより、身体の方を床に投げ出し、這いつくばって左手を掴み、無我夢中で傷口に付ける。上下が反対なのを、慌てて戻す。 「ヒール」 がん、と来た。 余談になるが、ヒールの使い手には二種類いる。 『癒し(マイルド)型』と『気つけ(インテンス)型』だ。 まず癒し型だが、この使い手のヒールは優しさが特徴である。 身体の中から熱がじんわりとわき上がるように効いてきて、いつまでもこの感覚に包まれていたいと思うような効き方をする。 無代が知る範囲ではあの天臨館一の治療師、無代の元彼女でもあるジャスミンがそうだった。 そしてもう一方が『気つけ型』。 この使い手のヒールはとにかく速く、爆発的に効く。 その代わり、治される方にも結構なダメージというか衝撃というか、「反動」があるのが特徴だ。 例えば、あなたが長時間正座をさせられて、すっかり足が痺れたとする。 その足をやさしくマッサージしてくれるのが前者なら、両手でぐいぐいと揉み込んでくるのが後者。 疲れた身体を優しく癒すアロママッサージと、全身の関節をボキボキやられる整体の対比にも近いだろう。 そして後者の代表こそ誰あろう、この善鬼なのだ。 その治療の衝撃たるや、それこそ傷口と傷口の合わせ目に五寸釘を打ち込まれたようだ。確かに金輪際離れることはないだろうが、それはもう『治療』というよりは『修理』である。 腕は見事に全快したが、無代はもう声も出せずにのたうち回る。だが善鬼の試練はまだ始まったばかりだった。 「次、右腕」 無情な声がかかる。 (…逃げないと…!) 無代の本能が必死に逃走を命じるが、身体の方がすくんで動けない。それどころか、言われるままに右腕を出してしまう。 どん。 右腕が床へ落ちた。 「拾え」 両手が済むと、次は両足だった。片足ずつ、今度は横殴りにされたため、足は道場の壁まで飛んで、ぶつかって落ちる。 両手と残った足を使って死にもの狂いで床を這い、ヒールを受ける。 血と汗と涙で顔も身体もぐしゃぐしゃだった。いつになったら終わるのか、なぜこんなことをされるのか。 「最後。頭だ」 善鬼が信じられないことを言い出した。 頭を落とすから拾って付けろ、というのか。そもそもそれはヒールで治るのか? 死ぬんじゃないのか? だが善鬼の表情からみて、まったくの本気らしい。 (…冗談じゃねえ!) ここへきて無代の中に、逆に怒りが湧いていた。 どうして自分がこんな目に合わされなければならないのか。自分に何の恨みがあるのか。 殺す気なら一気に殺せばいいではないか。 (冗談じゃねえぞこん畜生…!) 涙でぐしゃぐしゃの顔で、涎でべとべとの口で、善鬼を睨み返した。身体はもう、善鬼の暴力に完全に屈している。歯の根が合わず、恐怖にがちがちと音を立てる。 しかし、無代は残ったなけなしの意地で、心だけは折れまいと踏ん張る。 反撃は不可能だ。逃げる事もできない。 (…だったら、やってもらおうじゃねえか!) 無代は右手の拳を固く、固く握った。善鬼がむ、と身構えるが、無代には反撃する気などない。 「があっ!」 その拳を、自分の口に突っ込んだ。あごを限界まで開き、歯で拳が削れるのも構わず、一気に手首まで押し込む。 そして、そのまま善鬼を睨みつけた。 さあ、やれ。頭をちぎれ。 (口に拳骨くわえてりゃあ、頭ちぎれても見失なわねえだろ!) 見上げた土性っ骨だった。 睨みつけられた善鬼の唇が、わずかにほころんだように見えた、次の瞬間。 頭の真横に凄まじい衝撃がきた。 本当に首が落ちたのか…残念というべきか、そこから無代の記憶はない。 気がついた時には、道場の床にべちゃっとつぶれていた。 「…座れ」 善鬼の声に、何とか顔を上げてみると、正面にきちんと正座した善鬼がいた。鬼棒は脇に置かれている。 意地の続きで、何とか身体を引っ張り上げ、善鬼の真正面に正座する。 (もうどうにでもしやがれ!) また善鬼を睨んで、そこで気がついた。無代の目を見つめ返してくる善鬼の目が、今までと全く違う。 「…昨日の、天臨館での差配は見事であった」 相変わらず静かだが、むしろ暖かい響き。 「この俺までも巻き込んで、三文芝居をさせるとはな。あの時間でよくもやったものだ」 「…」 無代は狐につままれたような顔。 「…だが無代。お前はこの先も『裏』でやっていくつもりか?」 意外な質問に無代は一瞬戸惑うが、何とか目をそらさずに答える。 「…お、俺…いえ私には、前でガチンコする力はないし、魔法とかも無理ですから…はい」 つっかえながら応える無代に、善鬼は一つうなずくと、 「ならば、先ほどの『痛み』を忘れるな。あれが『前』の痛みだ」 それを教えるための試練。善鬼の目がじっと無代を見る。 「『前』の痛みを知らぬ『裏』など無用、いやむしろ害悪である」 「…はい」 無代が深くうなずいた。 「よろしい、よく耐えた。…合格」 善鬼は短く言うと、鬼棒を携え立ち上がる。 「ぜ、善鬼さん!」 「…む?」 「ありがとうございましたっ!」 精一杯の声。頭を床に叩き付けるような礼。 「うむ。…なお励め」 無代の必死の返事を背中に、善鬼は道場を後にする。 その厚く、重い背中。 (…) 床から顔を上げられないまま、無代は考える。 (…で、俺の頭、ほんとに千切れたのかな…?) 実は無代、今に至ってもその答えを知らない。 ただ…。 「お前が犯人だな?」 現実が戻って来た。身体と精神のダメージは、もはや無代が自力でどうにかできるレベルを遥かに越えている。 だが。 「…ぢ…」 「ん?」 「ぢ…げ…ぢげえよ、ばが…」 『違えよ馬鹿』と、声を絞り出した。 (…裏切れねえもんが、あるんだよ畜生…!) 何の得にもならない、ただの意地。 だがその天下一品の意地は、やはり天を微笑ませたのか。あるいは苦笑いか。 恐らく後者。 『拷問室』のドアが一撃、どかん! と吹き飛んだ。同時に飛び込んで来た影が一つ。 「貴様ら! 何をしているっ!」 拷問室の頑丈な壁が、一瞬たわんで見えるほどの大声が室内に響きわたる。 女の声だ。 無代を『可愛がって』いた隊員たちが、一斉に凍り付いた。同時に、無代を押さえつけていた隊員、犯人だとささやき続けていたリーダーが立て続けに吹っ飛ばされる。 鈍く、重い打撃音が連続して、後から聞こえた。獲物は剣。だが鞘付き。 「ヒール!」 がん! と無代の身体に回復がかかる。同時に、頭から解毒薬らしい薬がぶちまけられた。 「ヒール! ヒール!」 がん! がん!と回復が畳み掛けられる。さらに薬がだばだばと降ってくる。 ヒールの使い手に『癒し型』と『気つけ型』がいると書いたが、今、無代にヒールをぶち込んでくれた使い手は、典型的な『後者』だった。 「…ぎゃ…あぁぁ…!」 回復されているというのに、無代は拷問の時より激しくのたうち回った。それほどの「反動」。 足の痺れが全身どころか内臓にまで回ったところで、体中を力任せに揉まれるのを想像してもらうと分かりやすい。 「…足りないか? …ヒール!」 もう一発来る。 「!!!!」 無代はもう声も出ない。もし声が出ていたら「私が犯人ですごめんなさい」と叫んでいたかもしれない。 拷問よりひどい。 だが、その分効き目は確かだった。はがれ落ちた爪はあっという間に生え変わり、髪も目も身体の色も正常に戻る。ただ、治癒のために体液を消耗した反動で、猛烈に喉が乾く。 ぽん、と投げ与えられたのは水筒。中身も確認せず、むさぼるように飲んだ。果汁入りの水だったが、今の無代にとってはこれこそ天上の甘露だ。 「…大丈夫か?」 ヒールの主が訊ねる。 「…あ、ああ…。だずが…っだ。ありがど…」 まだ声がまともに出ない。が、必死で礼を言う。 「大丈夫そうだな。よし、立て」 片手で胸ぐらを掴まれる。が、まだとてもじゃないが自分の足では立てない。 「…ちょ…」 待ってくれ、という無代の訴えは、しかし無視された。 胸ぐらを掴んだ片手でぐい、と引きずり起こされる。無代とて大の男なのだが、それを一気に片手で、それも目の高さまで持ち上げる。 「無代だな? ウチの者が迷惑をかけたが…それとこれとは話が別だ」 押し殺した声。その時、無代は初めて声の主を見た。 憤怒に燃え上がるかのような真っ赤な髪。 相手を萎縮させるためにあるような、強烈な視線。そして叩き付けるような美貌。 「お前はD4…モーラを傷つけた。これは礼だ。…受け取れ!」 言葉の意味を理解するより早く、その一撃は来た。 鳩尾のど真ん中。 D4ことモーラの拳を、その土手っ腹にぶち込まれたのが一昨日。だが、無代は知った。 モーラはまだ、修行が足りない。 この一撃に比べれば、あれはまだ未熟な、子供の拳だ。 これこそが真の拳。 無代の身体と心が、一瞬にして粉砕されたかのような衝撃が突き抜ける。 胸ぐらを掴まれたままだったため、胸を視点にして下半身が天井まで跳ね上がる。 落下のタイミングに合わせて胸ぐらの手が離れ、無代はうつぶせに床へ叩き付けられた。 そして悟る。これが…これがカプラの最高峰。 「私はガラドリエル・ダンフォール。…『D1』だ。覚えておけ」 D1。頂点たるデフォルテーの、さらに頂点。 そして、頂点の破壊力。 内臓のいくつかが完全に潰され、脊髄も変な風に折れ曲がっている。細かい打撲や骨折に至っては数える方がヤボだろう。 一条家の人間にほとんど匹敵する、それは圧倒的な『力』だった。 そしてあと数秒で無代が死ぬ、というところで、あれがきた。 「…ヒール」 今度こそ、無代の意識がすっ飛んでいく。 それをいっそ、幸せだと思った。
2009.08.06 Thursday
第三話「mild or intense」(3)
どれほどの時間が経ったのか。 船底で意識を失った香が、その意識を取り戻して最初に見たのは、『自分の身体』だった。 『自分の身体』を空中から『見下ろして』いた。 硬そうな、簡素なベッドの上に横たわる、裸の身体。 相変わらず背が低く、女性としても未発達な身体。 背丈は仕方ないにしても、せめてもう少し柔らかい曲線で飾ることができれば、ちょっとはマシなのに…と思う。 もっともっと食事を摂ればいいのだが、元々『食欲』というものが薄い上に、無代がいないとどうしても、『食事そのもの』に興味が持てない。 そうだ。無代がいないせいだ、と拗ねてみる。 そこで違和感。 ひどく静かだ。 それが違和感。 無意識に、身体の各器官へ状況報告を求める。 だが、帰って来たのは静寂。 沈黙ではなく、静寂。 おかしい。パニックを起こしそうになりながら、さらに全身を確認しようとするが、やはり返答は静寂だけだ。 そこではた、と気づく。 目の前にある、この身体は…? 私。 私の身体。 では…『私』は…? 疑問と回答と衝撃が同時に来た。 (死…?) 身体から意識が抜けている。 (死ぬ…の…?) すう、という浮遊感。『香の身体』が遠ざかる。 喪失と絶望。 死ぬ事への絶望ではない。死は香の友だ。 その絶望は、愛しい人にもう会えないことへの絶望。 その喪失は、記憶の中の無代の顔が遠くなることへの喪失。 『香』が消えていく。身体が遠くなっていく。 その時だった。 『香の身体』の目がぱちり、と開いた。 真っ直ぐに『香』を見る。 小さな、赤い唇が声を出さずに動く。 (いってはだめ) (もどってきて) ぐぐっ、と『香』の浮遊が止まる。戻らなくては。まだ間に合う。 戻らなくては! でもどうやって? 赤い唇が、また動く。 (からだを) (いしきして) そうか。 また遠のきそうになる意識を懸命に支え、『香の身体』を意識する。 伸びない背丈。 薄っぺらい胸。 板のような腰。 棒のような手足。 みんな嫌いだけど…でも私の身体。 『身体』が近づく。でも足りない。まだ足りない。 唇が動く。 (…とうさ…じゃなかった、むだいが) (むだいが、ふれたばしょを) 『身体』が何を言い間違えたのか、『香』には考えている余裕はない。 そうか! 意識に電撃が走る。 唇。あの人に、散々な思いをさせたファーストキス。 でも、あの時の感覚が蘇る。意識が身体に染み込んでいく。 頭。あの人がいつも撫でてくれる。 肩。大きな手で抱き寄せてくれる。 手。あの人に、いつも触れていたい。 胸。あの人に、いつも申し訳ない…。 (ええい! まどろっこしいっ! ここよここっ!) じん、と意識全体がしびれる様な、強力な思考が『香』を捕らえた。 『子宮』だ。 あの人が…あの人が…と、思うヒマもない。 ふわりと浮かんだ風船のヒモに、いきなり巨大な鉄塊を吊るしたような重力。 どすん! と『香』が『身体』に戻った。 (最初っからこうしなさい! 唇だのキスだの! 乙女じゃあるまいし!) 『子宮』が猛烈な不満をぶつけてくる。相変わらず身も蓋もない勢いに苦笑する。 同時に、安堵がこみ上げる。 生きている。私は生きている。 全身に散らばった思考が、一斉に香に接触してくる。 だが、妙だ。 分散した思考から情報は集まってくるのに、『香』からの指示を受け付けない。 (全器官の統括要求!) 発せられた要求に対する返答は、沈黙。静寂でないだけマシだが、困惑する。 (…あー、今はだめ。少し待って。私が代わりに統括中だから) そこへ、異質な思考が割り込んできた。香の知らない、完全に未知の思考だ。 (あなた…誰?) (言えない) (??) 香は混乱する。かつて『子宮』を相手に同じような会話を交わしたものだが、さすがにもう『知らない器官』などないはずだ。 (誰なの?) (だから言えないの。そもそも、こんなこと自体『ルール違反』なんだから) 何だか馴れ馴れしい。 そもそも、他の思考群がそれに従っているのもおかしかった。 (疑問は当然。でも問題はない。今は従うべき) 『子宮』が要求してくる。 次元の違う意味で、『脳』に匹敵する統率力を持つこの器官までが従っているというのはどういうことか。 (ほら、『子宮』もそう言ってるじゃない。状況を説明したら消えるから、今は従って。同意要求!) (…保留) (…もー。わかったわよ。それでもいいわ。とにかく聞く。いい? 『香』は捕われて、身体を生かしたまま意識だけをもぎ取られた) (…身体を生かして…意識だけを…?) (そ。普通なら身体だけ残して、『香』は死ぬ) (でも、私には分割思考がある) (その通り。『香』が引きはがされても、身体には『香』が残っている。たとえ肉片にされたとしても、『香』を完全に消すことはできない。強い組織思考ができる) (だから戻れた…?) (それでも私の助けがあったからよ? 感謝してよね。同意?) (…同意) (よしっと。じゃ私、消えるから…そうね『また会いましょう』。それまで頑張って。でないと…困るんだから) 最後まで馴れ馴れしく、言うだけ言うと思考が消えた。ぴょん、と飛び跳ねるように、本当に消えたのだ。いくら呼びかけても、一切の返答も反応もない。 代わりに、全身の器官が今度こそ『香』として統合される。 (今のは誰…? というか『どこ』?) (全器官回答不能。回答権限なし) 『子宮』が代表して応える。 (…何それ?) (考えても無駄。とにかく『香』の味方で、『香』は死なずに済んだ。それでいいじゃない? それに、解決すべき問題はまだ続いてる) そうだった。 ただ目前に迫った死を免れた、というだけなのだ。香の危機が続いていることに違いはない。 (了解。細かい事を気にしている場合ではない。状況整理を…そうだ! 無代は!?) 慌てて感覚を確認するが、無代の危機はもう感じ取れない。万一、無代が死ねば絶対に分かるはずだから、とりあえず危機は去っているとみるべきだろう。 一応、安堵する。 (各器官に質問。感覚が戻ったのはいつ?) (およそ5分前。このベッドに寝かされた直後に、『あの思考』によって起こされた) 『子宮』が応える。 (ここは未知の場所だ。部屋の中。木製の壁と天井。出入り口はドアだけ。明かり取りの小さな窓が一つ。同じベッドが5つあり、ここはドアからみて左端。他に人はいない。) 『左目』が報告する。 (ここに私を寝かせたのは中年の男。ヒゲがあり、恐らく朝、風呂かシャワーを浴びた。タバコをかなりたくさん吸う。銘柄はアルベルタのもの。このベッドに は過去、最低3人の人間が寝かされている。いずれも少年。隣のベッドにも数人の匂いが残っている。うち最低一人は少女。そこから向こうのベッドまでは感知 できない。あと、窓の外から潮の匂いがする。海が近い) 『鼻』の報告だ。 (足音からみて、ベッドに寝かせた男は大柄のアルケミスト、あるいはブラックスミス。窓の外から数種類の鳥の声がするが、恐らく南方の種類。他に生活音が しないことから、人里からは離れているとみられる。微かだが波の音。やはり海が近い。確証はないが、外の音の聞こえ方からして、ここは建物の2階以上の位置にある。直上に屋根、外は晴れており、かなり暑い。) 『右耳』が分析する。 『脳』が分析を開始。 (部屋の壁、ドアに使われている材木は乾燥しておらず、まだ新しい。材の種類は複数で、南方のものだ。頑丈さを優先したらしく厚いが、大工の腕はよくない。急ごしらえのイメージ) どうやらここは南方のどこかで、人里からは離れた海の近くらしい、ということしか、今の所はわからない。 (足音! さっきのアルケミスト! だが何か重い物を抱えている。恐らく…人!) 『左耳』が警報を発する。 (…動くな! ただし戦闘態勢! 危険と判断した場合は直ちに戦闘開始。判断は脳が行う。同意?) (同意!) ドアが開いた。 薄目をさらに細く開けて観察。その状態でも全感覚を動員すれば、それだけで常人が両目で凝視するのと同じぐらいの情報を得る事ができる。 入って来た男は、先ほどの香のプロファイリングにぴったりだった。 ヒゲのある中年のアルケミストで、くわえ煙草。 ぴったりすぎて笑いそうになるが、もちろんこらえる。 男はやはり、肩に人間を担いでいた。 香と同じ、裸の女。 「…っこらせっと。畜生、今度はまた重いな。コッチは軽かったのに、極端なんだよ」 ぼやきながら、肩の女を香の隣のベッドに寝かせる。 「ふん、でもまあ、子供にしちゃイケる身体だな。ふふん」 女の裸をじろじろ見ながらこんなことを言う。いわゆる女性的魅力のことだろう。 「今夜が楽しみだ」 そう言って、部屋を出て行く。 香は迷った。 今なら音も、声もなく殺せる。こいつが蝶の羽根を持っていれば、それで終わりだ。だが、持っていなかった場合、この未知の建物を探索することになる。 他に何人いるのか。 どの程度の戦力があるのか。 それがわからない。 その上…。 ぱたん、とドアが閉じられる。決断出来なかった。 香が目を開けて、隣の女を見る。 まだ少女だが…しかし女の香から見ても、見事な身体だった。 小さめの簡易ベッドからはみ出しそうな身長。仰向けでも崩れない大きな胸。堅いベッドと背中の間に隙間ができるほど立派な臀部。膝から下が特に長い、しなやかそうな足。 姉の少女時代には及ばないが、ほとんど匹敵するほどのボリュームとフォルム。 香はじっと観察する。 いや、別に女性の身体に興味があるわけではない。むしろ身体には興味がない。 香が気にしているのは、身体の『上』。 少女の身体を見下ろす位置、その空中に、もう一人の『少女』がいた。 ふわりと浮かんだまま、『自分の身体』を不思議そうに見下ろしている。さっきの男には見えず、香にだけ見える『少女』。 霊体。 さっきの香と同じ状態だ。身体を生かしたまま、意識だけをはぎ取られている。 だが、香と決定的に違うことが一つ。 彼女は、自力で身体に戻れない。 いまも、だんだんと身体から離れていく。放っておけば…あと数秒で死ぬ。 死は香の友だ。だから人が死ぬからといって、香の心は動かない。 無代以外は。 あの移民船の中でも、多くの死を見逃してきた。 自分が生きるために。 だから今、少女が目の前で死んだとしても、同じ事のはずだ。 だが…。 香の身体は動いた。思考より、心より先に、身体が動いていた。 なぜそんな矛盾した行動をとったのか、香は後々まで悩むことになる。が、それは意外にあの「謎の思考」の影響かもしれなかった。 (少し…母様に似ていた) あの思考の雰囲気を思い出す。だが、母ではない。似ているだけだ。 自分を助けてくれた、あの思考。 何と言うか、それに対する『対抗心』があったのかも、と思う。 (負けていられない…) そんな気持ちがあったのかもしれない。 香が手を伸ばして、『少女』の『手』を掴む。 見えない物を見、触れられない物に触れることができる力。 「…私は香。貴女、名前は…?」 見えない者と語る力。 (…ハ・ナ・コ…) 少女の『口』が名前を告げる。 (この娘には未来が…ある) そして運命を見る力。 一瞬のビジョン。 (なら…ここでは死なない) ぐい、と『少女』を『身体』の方へ引っぱる。 『少女』が驚いた顔をするが、香は無視。強引に『身体』へ押し込む。 こんな荒っぽいことで戻れるのか、とも思うが、多分大丈夫だ、という確信めいたものがある。 『少女』が『身体』と重なる。が、どうもズレている。 (…まずいか、な…?) 香がそう思った瞬間、少女の身体がびくん! と跳ね上がった。 体重の軽い香が、一瞬吹っ飛ばされそうになる。が、何とか耐える。 まだ意識と身体がズレている。痙攣はそれが原因だろう。 香は全身の筋肉に強化を指示し、何とか押さえ込もうとするが、いかんせん体重差がありすぎる。その上、少女の身体も無意識の痙攣だけに、筋力のリミッターが外れている。いわゆる火事場の馬鹿力状態だ。 ひゅう、と少女の口が息を吸い込む。 (まずい!) 香には次に起きる事が予想出来た。押さえ込むのをあきらめ、何とか少女の首の後ろに指を回す。 無代とのファーストキスをお膳立てした、あの麻痺の技だ。 が、わずかに間に合わない。 「ば…あ…ああああああああああああ!!!!」 絶叫が、少女の口からわき上がった。 (しまった…!) 香の耳が、複数の足音を捉える。こちらに向かってくる。首筋への一撃でやっと少女が黙ったが、もう遅い。 (全器官戦闘態勢!) 既に同意済み事項のため、脳からの同意要請はすべて省略。 香が跳ぶ。 静が今日の狩りを終え、宿に帰って来たのは夕方。 井戸端で弁当箱を洗っていると(宿の女将が止めたが、やっぱり聞かない静である)ちょうど帰って来たらしいフールとばったり出会った。 「あ、フール。朝はありがとう」 「…いや、別に」 フールは言葉少な。静の隣で水を汲み、自分の弁当箱を洗い始める。朝と同じ鎧にマント姿なのでかなり妙な光景だが、これでフライパン握るぐらいだから、元々無頓着なのだろう。 静の手やら、袖をまくり上げた腕やらに擦り傷がある。狩りの代償だ。さして深い傷でもないが、冷たい水が少し染みるらしく、時々顔をしかめる。 「…痛ったー。ね、フール。お弁当、美味しかった?」 「ご飯が少し、固かった」 「ふふ、そだね」 フールの率直な感想に、静が笑う。 「でも、フールの卵焼き美味しかったよ」 「…そう?」 「うん」 静が弁当箱を洗い終わった。 さっと水を切ってふきんで拭く。水を下手に散らさず、無駄遣いもしないのは武術の心得の一つだ。むしろこれに関してはフールの方が無頓着で、汲んだ水を遠慮なくバシャバシャ使って洗う。 鎧に跳ねた水滴に、夕暮れの空が映り込んでいた。それを静が、面白そうに見る。 その小さな小さな空に、黒い影が映った。 「こんにちはー、一条静さん」 静がゆっくりと立ち上がって振り向いた。 速水厚志。 この若者も朝と同じ、黒を基調とした僧服。 「僕は速水厚志。あっちゃんって呼んでいいよー? あ、怪我? ヒール!」 ふわ、と回復呪文がかかる。静の両手が光に包まれ、擦り傷がみるみる回復する。 それでいて、全く『反動』がない。 『殴りプリ』らしく、回復量はそれほどでもないが、見事なぐらいの『癒し型』だ。『殴り』にはその性質上『気つけ型』が多いので、これは珍しい。 「ありがとう…あっちゃん?」 「そうそう。僕ね、君と仲良くしないといけないんだけど、一緒にご飯とか食べてくれません?」 言っていることがいちいち怪しいのだが、本人は全く意識していないらしい。よほどの馬鹿でないなら、かなりの天然だ。 「…悪いけど駄目」 特に何かの感情もなく、静が断る。 「あれ?」 速水が首を傾げる。なぜ断られるのか、本当に分からないらしい。 「あ、そうか。知らない人について行っちゃ駄目なんだね?」 「違う」 独り合点する速水を、静が言葉でばっさり斬る。そしてもう一撃。 「知らない『人』ならいいけど…知らない『人じゃないもの』は駄目なの」 びきっ! 静の言葉が響いた瞬間、井戸端の空気が砕け散った。 裏庭に放し飼いのニワトリたちが狂ったように逃げ惑い、軒先の野鳥たちが一目散に飛び立っていく。 殺気。 速水だ。 熱や圧力さえ感じるその膨大な殺気に、まず反応したのはフール。 洗っていた弁当箱を放り出し、振り向きながら腰の短剣を引き抜き、速水の眼前に立ち塞がる。 背中に、静を庇う。何かを守護する姿がなかなか様になっている。 「大丈夫。平気よ、フール」 だが、庇われている静は身じろぎもしない。 「…凄いね、分かっちゃうんだ。僕が人間じゃないって…」 「人間じゃないことだけね。アタシじゃそれが限界だけども?」 姉の…香の『目』なら、そこに何を見るのだろう。 外見には何の変化もない。端正という言葉に柔らかさを2割ほど加え、3割ほど脱力させた容貌。 ストイックな黒い僧服。 そしてそこだけ真っ赤な、頭の花飾り。 だが、さっきまでの茫洋とした雰囲気は、もうない。 「さすが『サクセス』は違うね。僕みたいな『エラー』とは、出来が違うんだ…』」 殺気がきしみを上げる。 庭の隅に非難したニワトリが、1羽、また1羽と倒れていく。 「…でも困ったな。それを知られるのは、困るんだ…。誰も、誰も知らないのに…。2人とも永久に…黙っててもらわないと…」 途切れがちの『殺人予告』に、フールの身体がぎりり、と緊張を増す。 だが、その背に庇われたはずの少女は、違った。 「…あのね。『殺す殺す』って吠えるヤツほど、結局は殺せないものよ?」 一片の動揺もない声。 怖いもの知らずなわけではない、胆の据わり方が半端ではないのだ。 「僕がそうだ、って言うの…?」 「そ。本当に怖いモノならね、アタシはもう殺されてるわ。怖いなんて感じるヒマもなくね。そういうのはね、獲物を前にどうでもいいことぐちゃぐちゃ喋ったりしない」 「…」 速水が黙る。殺気が急速にしぼんでいく。 ぱちん、という音は、フールが短剣を仕舞った音。 「…ありがと、フール」 「余計なことした。カッコ悪い」 「うふふふふ。お詫びって言っちゃなんだけど晩ご飯、一緒に食べよ? コイツに」 静が速水を指差す。ご丁寧に親指。 「奢らせるから」 「…えー?」 速水が頭をぽりぽりと頭をかく。さっきまでの異様な空気が嘘のように、元の茫洋とした雰囲気に戻っている。 「はいそこ文句言わない。食事、誘ったのそっちでしょ? ツレがいちゃいけないなんて聞いてないわ?」 にー、と笑われる。 「…本気?」 フールがさすがに変な顔で静を見下ろすが、静は平気な顔。 「本気本気。じゃ、先に食堂行って女将に注文してくるね。何食べよっかなー?」 静が自分の弁当箱をひょい、と頭に乗せ、器用にバランスを取りながら駆けていく。 「…」 フールは、もう突っ込む気も失せたらしい。 速水はまだ、ぽりぽりと頭をかきながら、 「えーと、どうしてこうなったんだっけ…?」 「さあ? でもまあ一応…南無?」 「南無あり…?」 間の抜けた応えを返す速水に背を向け、フールは放り出した弁当箱をもう一度洗う。 水を切って布巾で拭き、静と同様井戸端を後にする。 うーん、うーんと何やらまだ思案中の速水をふ、と振り返り、 「あ、あとさ」 「ん?」 「御馳走様」 「…ええー?」 『晩餐』はそれなりに豪華で、それなりに盛り上がった。 といっても、速水の一方的なおしゃべりに、静とフールが突っ込みを入れるだけなのだが…。 宿の女将はご機嫌半分、不機嫌半分である。 お姫様に御馳走を出すのは嬉しいが、材料も下準備も間に合わない。もっと早く言え! と速水が怒られる。 お姫様の前だぞ、せめて鎧ぐらいは脱いで来い、とフールが怒られる。 当の静は、出される料理がとても気に入ったらしく、どの皿にも手をつけてよく食べた。 特に、大皿に山盛りになった芋の煮付けに、なぜか異様に執着する。 「何だか懐かしい味…」 だというが、どこで食べたものかは思い出せず、最後まで首をひねった。 さんざん飲み食いした挙げ句、速水に風呂の準備までさせた頃には、もう夜も更けていた。フールはもう自室に引き上げている。 「じゃ、今日はありがと、あっちゃん」 「…うん」 速水はまだ何となく納得のいかない顔だ。 「よかったね〜。ちゃんと『一条の末姫と仲良くしました』って報告できるよ? 『芝村の御当主』に」 「…うん…ん? んんん? って、芝村って…知ってたの?」 「それで隠してるつもりだったの? 腰のサッシュに芝村の家紋入れて?」 「…しまったー!」 今頃になってサッシュをほどき、ポケットに突っ込むが明らかに遅い。 「ええーっと…」 「いいよ。アタシは気にしないから。御当主には適当に言っといて」 速水の完敗のようだが、そもそも勝てる要素があったのかどうかも怪しい。 「…いいの? 芝村の人間と…お父さんとかに怒られない?」 自分が誘ったくせに心配そうな速水に、静がにーっと笑う。 「天津の一条と芝村、確かに仲が良いわけじゃないけど、敵ってわけでもないしね。『芝村のお金で散々飲み食いしてやった』って言えば、きっとお父様に誉めてもらえるわ」 「そりゃ…うん。…でもその…僕が人間じゃなくても…?」 「ん」 静がまたにっと笑う。 「『一条の女の目』を嘗めないでよね。アンタは…まあ、そんなに悪い人じゃないわ」 「…ありがとう」 「おやすみ、あっちゃん」 「うん、おやすみ」 速水の前でぱたん、とドアが閉じる。 「…僕は嘘つきだけど…」 速水が小さな声で独り言。 「…嘘が通じない人っているんだ…」 最後は、なんだか泣きそうな声になった。
2009.08.06 Thursday
第三話「mild or intense」(4)
動かなくなった少女を改めてベッドに寝かせ、香は跳んだ。 ドアの上、天井と壁が作る直角の空間に、手足を突っ張って張り付く。 手がかりはなにもないが、体重が軽く筋力がブーストされた香なら数秒は落下せずにいられる。 ドアが思い切り開かれる。 同時に、香が落下した。 落下しながら手刀を閃かせ、最初に入って来た人間の喉を真横から貫通。相手は声も立てられない。 かつてあの天臨館のテロで、無代を守るために河童を殺した技。針掌だ。今ではさらに殺傷力が増し、人間相手ならほぼ一撃である。 手刀を引き抜いていったん床まで落下。そこで一瞬うずくまって相手の死角を探り、一人目の後ろにいた男の股間ぎりぎりに滑り込む。 「な…!」 二人目は一言だけ発することができた。が、それだけ。 真下から突き上げられた手刀が、あごの下から脳までを貫く。 あと2人。うずくまった時に、足の数で確認した。足音の分析結果も、残りは2人と示している。 ドアの外、左右に一人ずつ。 (左! 股間を狙う!) 香の手刀が左の『男』の股間を撃ち抜く。 「ぎゃ…!」 男の絶叫が響く前に、二撃目が喉に風穴を開けると、その絶叫はひゅうー、という間の抜けた音に変わる。 「き、きゃあああ!!!」 やっとこの惨状が脳に届いたらしい。恐慌の悲鳴を上げる最後の『女』に、香は肉薄した。 相手の喉に手加減した掌底を叩き込む。げ、という音と共に悲鳴が止まる。 「蝶の羽根を出せば殺さない」 手刀の先を首に当てて、香が静かな声で脅した。 「げふ…も、持って持って…」 「持ってない?」 こくこく、と首を縦に振る。 「そう。残念」 す、と香の手刀が女の首に滑り込む。女の目がくるり、と裏返る。 (制圧) (最後の会話は無駄では?) (4人の身体検査を。羽根を探す) (可能性は低い。むしろ増援を警戒してこの場を離れるべき) (てゆーか、いつまで裸? せめて女の服を奪おう。血で汚れる前にはぎ取れ) 女性らしい提案をしてくるのはたいてい『子宮』だ。 時間は惜しいが、確かにいつまでも裸というわけにもいくまい。 手早く女のシャツと、ズボンを奪う。いずれもリネンの、ゆったりしたものだ。 他の男達も同様の、通気性を重視した格好であるところを見ると、この土地はかなり暑いらしい。 女物でもゆったりしている分、香には相当大きい。が、贅沢は言っていられない。 盛大に余ったシャツの裾を臍の前でどかん、と縛り、ズボンの裾もシャツの袖も、これまた盛大にまくり上げる。 まくった布がもこもこと盛り上がって、それ自体が何かの防具のようだ。 履物も奪う。サイズ違いの靴はまず履けないものだが、女の履物は編み上げ型のサンダルだった。これなら何とかなる。 ひもを締め上げるようにして履く。大きいが、足元を固めると安心感が違う。 床はもう、4人分の血で真っ赤に染まっていた。 元の部屋の中を一瞬だけ覗く。あの少女はまだ全裸のままベッドの上。一人目に殺した男の血が噴出し、ベッドごと鮮血で染まっている。 香の『目』には、少女の意識が肉体の中に、ほぼ元の状態に収まったのが分かる。もう放っておいても死ぬ事はないだろう。 (…私にできることはここまで) 腹をくくる。 (…ごめんね。でも、私は無代に会わなくては) 彼女にしては珍しく、内心で謝罪した。 その一方で、自分が殺した4人の男女に対しては一顧だにしない。 『死なせてしまった』事よりも、『助けてしまった』事に対し、むしろ負い目を感じてしまうのが、この香という女性の不思議な所だ。 (とにかく蝶の羽だ。今はそれが最優先) 脳が判断を下す。 ここがどこなのか。 自分やこの少女が『何をされた』のか。 何が目的なのか。 誰がやったのか。 疑問は山積みだが、すべて『無視』。 (私は無代のもとへ行く) 意識と身体のすべてが、完璧に統合される。 というより彼女が無代と出会って以降、彼女の心身が『他の事』で統合されたことはないのだった。 (増援が来る) 『右耳』が報告してくる。 (…多数、少なくとも10人以上。重装甲の音。武器の音も。今度は…武装している) 『左耳』。 際限なく広がる血溜まりを避けて、まだ奇麗な廊下にしゃがんで『右耳』を付ける。 やはり多数の足音が、地鳴りのように聞こえる。ガチャガチャという金属音は武装していることの証拠だ。 (…厳しい) 香は素手。殺した4人も武器は持っていなかった。 武装した集団を相手に、素手で立ち向かうのはさすがに無謀だ。香の手刀では盾や鎧を貫く事はできない。 一人か二人相手にできたとしても、その間に他の敵に滅多斬りにされるだろう。 (もう一度裸になってベッドに戻り、無関係を装う) 『胃』が提案は、一斉に否定される。時間がないのが最大の理由だ。しかも脱いだ服は奪ったもの。もう一度女の死体に着せている暇などない。 (建物の外へ出て、距離を稼ぐ) 『右足』 (建物の内部のどこかに隠れ、脱出のチャンスを待つ) 『左手』 (今はどちらとも決められない。とにかくこの場を放棄) 『脳』が決断、接近する足音と反対方向へ走る。 しかし…、そちらからも足音。 (…まずい!) 逃げ場がない。 壁も床も厚くて破れない。屋根はさらに厚い。 (囲まれる前に、どちらか一方を突破して逃走!) 廊下の突き当たりから、銀色の集団が飛び出してきた。鎧と武器の色。 反対側も同じだ。 (右!) 『左目』の判断で、香が走り出す。正面にまず3人、鎧の具合から見て、ナイトかクルセイダーだろう。まともにぶつかれば一瞬で潰される。 「動くな!」 正面のナイトが突進して来ながら怒鳴るが、当然、無視。 (下半身の筋力ブースト!) 跳ぶ。天井までの距離は、さっき室内での跳躍で計測済みだ。 天井に『着地』し、もう一度『跳躍』。 前衛の3人と、その後ろにいた2人を飛び越える。だが、さらに前に2人。シーフとアコライト。ただし、いきなり落下してきた香に腰が引けている。 (行ける!) 『肝臓』が好機を宣言。 アコライトの喉を手刀で貫き、そのまま突破する。シーフのナイフが服を掠めるが、とっさに振ったでたらめな一撃など脅威ではない。 階段。 一段ずつ降りるなど論外。壁を蹴り、手すりも蹴って一気に階下へ飛び降りる。 扉。 位置的に見て外への扉だろう。考えている暇はない。後ろから追っ手の気配が迫る。 ノブに飛びついて回転させると、抵抗無く開いた。外へ飛び出す。 一瞬、視界が真っ白になった。 真昼の、それも南方の焼け付くような日差しが、ずっと薄暗がりにいた香の目を焼いたのだ。 即座に光量を調節し視界を確保する。 真っ白な砂浜と、海が広がっていた。波の音が遠いのは、周囲が珊瑚礁で囲まれているからだ。 孤島。 逃げ場がないと悟り、香に絶望がのしかかる。例え船を奪えたとしても、航海術を持たない香は漂流するしかない。 それよりも、建物から続々と飛び出して来る武装した集団が目下の問題だ。いずれも無言なのが、行き届いた訓練を想像させる。 じっとしていても取り囲まれるだけなので、何の宛もないまま懸命に砂浜を駆けた。 が、加速の魔法で速度を増した追っ手は、すぐに肉薄してくる。結局、不意打ちやだまし討ちに頼らなければ、真っ当な勝負で香に勝ち目はないのだ。 (…無代) もう会えないのか、という思いが香の意識を犯し始めていた。懸命に反論する思考もあるが、それも小さくなる。 何本かの矢が香を掠めていく。射程距離に入ったら、一気にハリネズミにされるだろう。いや、魔法で肉片にされるのが先か。 魔法の方が早かった。 香を取り囲むように魔法陣が出現する。ストームガスト。発動まで半秒もない。 (…無代…!) 今日、心の中で何度その名を呼んだだろう。だが、きちんと声に出すのはこれが始めてだった。 「…無代ぃいっ!」 悲痛、という言葉がぴったりの叫びが、香の喉からほとばしった。 その時だ。 ひどく場違いな物が、香の視界に入った。 いや、場違いというのは少しおかしいかもしれない。 真っ青な空に、真っ白な砂浜。そこに配されるものとしては、むしろふさわしいかもしれない。 それは女性だった。 真っ白な、つばの広い帽子を日よけに被り、すらりと長い素足に涼しげな編み上げサンダルを履いている。 薄い水色の衣装と、鮮やかな緑色のロングヘアが海風になびく。 もしこれが一幅の絵画だとするならば、美しい南の島の風景に、これほど見事にマッチした登場人物もあるまい。 ここが『戦場』でさえなければ。 「…?」 ふ、と、香を囲んでいた魔法陣が消失した。 魔法詠唱を妨害する技『スペルブレイカー』、と理解する前に、香はその身体を地面に投げ出している。 女の足が目の前にあった。 「それでよろしいわ。そのまま伏せていて下さいね?」 頭の上から声が聞こえた。 (女性の声。若い) 『右耳』 (いや若くはない。声は若いが…響きが違う) 『脳』がそれを否定する。 (選択の余地はない。従う) 「大丈夫よ。すぐに済みますからね。安心して?」 上からさらに声が降ってくる。 優しい声だった。 自分が戦場にいることを一瞬忘れるほど、しっとりと柔らかい声。 「何者だ貴様っ!」 「『教授』だ! 騎士騎士! 前へ出ろ!」 追っ手の一団 「あら、野蛮ですこと」 少し呆れたような声はしかし、やはり戦場の声ではない。まるで子供の悪戯でも叱るような調子。 「でもあまり『お痛』が過ぎると、お仕置きが必要ですわね?」 やはり子供扱いらしい。 それをかき消すようにがしゃがしゃん! という金属音。重武装の前衛が突進して来る音だ。 「…船長さん、私の槍を下さいます?」 「ほいきた、センセー!」 女の声に、壮年の男の声が応えた。砂浜の途切れる先、ヤシの林の中からだ。 たまらず、香が顔を上げた。 この優しげな声と細い足の持ち主が、あの武装集団を相手にするというのか。 無理だ、と直感する香の眼前に、何かが落ちて来る。 女の帽子。 「持ってて下さる? 気に入ってて…汚したくないから、ね?」 呆然と視線を上げた香が、最初に見たのは女の背中。そこにふわりとかかる、緑色のロングヘア。 そして涼やかな水色の『教授服』。通称『振り袖』と言われる独特のフォルム。 さすがに暑いのだろう、特徴の一つである首回りのマフラーは外してあり、ほっそりと白い首がのぞいている。 その『振り袖』を閃かせ、彼女のすらりとした手がひょい、と挙げられたと見るや、その両手に細く、長い物が出現した。 槍だ。 香の目にはその槍が、後方から投げられたものと分かった。さっきの林の中の声だろう。 女の、鎧も手甲もない、まるっきり素手の左右に二本の槍。 (…二槍…?) 疑問符が頭を駆け巡る。魔法戦闘のエキスパートである『教授』という職業は、そもそも槍を使う職業ではないはずだ。 それも両手二槍など剣士でも聞いた事がない。 「…」 ぞわっ。 その時、香の背筋に冷たい物が走った。槍を握った途端に、女教授の雰囲気が一変したのだ。 「…貴様ら…ここで自分が死ぬ理由を知りたいか? え?」 口調まで変わっている。 死の淵で死者を手招くと言う伝説の魔女ならば、こんな声を出すのだろうか。 「…教えておいてやろう…。私の、大事な物を返さないからだ!」 重武装の敵が構わず突進して来る。 だが、残念な事に彼らは、女を間合いに捉えることすらできなかった。彼らが襲われたのはその遥か手前。 ひゅん! 女の槍が敵に向かって奔る。それも信じられないほどの距離。 槍の間合いというより、それは飛び道具の間合いだった。 まず槍の持ち方が違う。 長槍の端っこ、『石突き』の金具を引っ掛けるように握る。 さらに槍の振るい方。 相当の重さがあるはずの槍を、手首のスナップを利かせてひゅん、と宙にさばく。そして… ぱきん! まるで鞭を振るうようなフォームで、敵の顔面を真っ向から撃ち抜くのだ。 ぱん、ぱきぃん! ぱきぃん! それも連撃。 女の両腕が優雅な舞を踊るようにひらめき、ギラギラと輝く槍の穂先が稲妻のような軌道を描いて、立て続けに敵に襲いかかる。 武術に関しては先進国である瑞波生まれの香をして、見た事も聞いた事もないフォーム。 さらに。 きぃぃぃぃいいいいい!!!! 魔法の起動音。 『教授』の技、打撃を与えた相手に、追い打ちの魔法を叩き込む『オートスペル』だ。 撃ち抜かれた敵の顔面に、攻撃魔法の魔法陣が出現する。 だがその魔法陣もただ事ではない。 香の目に、真円の魔法陣が10個、まるで皿を重ねるように重なって出現するのが見えた。 そして最も敵から遠い魔法陣から、炎のボルトが一つだけ吐き出される。 そこからが見物だ。 たった一個のボルトが次の魔法陣に突き刺さると同時に、刺さった魔法陣が急回転しボルトを収束、加速する。 そして次の魔法陣へ打ち出す。 2個目の魔法陣がさらにボルトを収束、加速する。 3個。 4個。 5個目以降はもう、香の目でも知覚できない速度と収束度に『成長』する。 魔法にある程度の知識がある香でさえ、想像を絶する呪文制御技術。まして細かい制御の難しいオートスペルともなれば、既に人智を越えていると言ってよい。 ぱちぃん! 金属音としか聞こえない音と同時に、敵の首が消失した。 最後の、10個目の魔法陣から打ち出されたボルトが命中したのだ。 真っ赤に焼けた鉄板に水滴を落とした時の、あの金属的な蒸発音。 そのあまりの速度と収束ゆえに視覚で捕捉できず、その圧倒的な熱量ゆえに、敵の首から上が『消失』する。 一瞬遅れて、血柱が上がった。 頭を失った敵の首から、真っ青な空に向って真紅の噴水が次々に噴き上がる。 きぃぃぃぃいいいいい! きぃぃぃぃいいいいい!! きぃぃぃぃいいいいい!!! 槍の連撃に追随して、オートスペルもまた連続して発動する。 この熱量の前には、盾も鎧も兜も全く意味をなさない。 香の伏せた砂浜に、細かい血の霧がハラハラと振り注ぐ。 女から預けられた帽子が汚れないように、身体の下に仕舞ったのは香にしては上出来だった。 (…これは、熱線砲(ブラスター)…? まさか…でも、あれは確かに…積層型立体魔法陣!) 香の脳裏に、故郷の義母・巴の記憶が蘇る。 あの話を聞いたのはいつだったか。現役の軍人時代『当代一のボルト使い』と称された義母が、ふと漏らした昔話。 (…私が当代一? とんでもない) (…私は半分も再現できなかった。『熱線砲』の熱量) (…それも実験室に3日引きこもってよ?) (…学生時代、生涯唯一の『赤点』を食らったけれど) (…『先生』が相手では仕方ない、って納得しちゃったわ) あの誇り高い義母が、苦笑しながら話してくれた『赤点』の話。 その『先生』の名前…義母は何と言っただろうか。 ぴきぃいん! また一人、胸板を槍で撃ち抜かれる。 きぃぃぃぃいいいいい! ぴちぃん! 熱線砲。 有り余る『死』が惜しげもなくバラまかれる。明らかなオーバーキルだが、女教授は手加減する気など毛頭ないようだった。 『私の大切なものを返せ』 それは怒りの表現なのか。 真っ白な砂浜と真っ青な空。その下で、エメラルドグリーンの髪とサファイアの衣装が思うさま暴れ回る。 噴き上がる鮮血は赤。 勢い余って地面にまで打ち込まれた熱線砲に、溶けてガラス状になった砂がキラキラと陽光を反射する。 「…先生! センセー! お気持ちゃあ分かりますが、一人二人は残して下さいよー!」 後方から男の声が響いた。 女教授の凄まじさに目を奪われて忘れていたが、彼女の後方からこちらへ殺到した男。 パラディンだ。味方らしい一団を引き連れている。 味方のダメージを自分に転化して守る『献身』のスキルを女教授にかけつつ、鎖付きの盾をぶん回して戦う姿はなかなかの強者のようだ。 が、どうにも比較対象が悪すぎる。 彼自身もあまり出しゃばる気はないらしく、連れのプリーストにダメージ回復をさせつつ、敵の厄介な魔法を妨害というサポート的な戦い方だ。 「ふん。…わかってる、船長。2人は残してやろう」 す、と女教授が構えを変える。 槍を握るのではなく、今度は中指と人差し指で挟んで引っ掛ける、さらに柔らかいグリップ。それで本当に槍をホールドできるのか、と見えた瞬間、ひゅひゅん! と槍が奔った。 後方のブラックスミス。 その後方のセージ。 2人の向こうずねに刺撃が襲いかかる。そして例によってオートスペル…だが、今度は『熱』ではない。 ひゅぉぉぉおおおお!!! 縦に重ねて並ぶ魔法陣は変わらず、内部を奔るボルトが『氷』。だが、それもまた収束と加速を繰り返すうちに、ただの氷を超越してゆく。 (『凍線砲』(フリーザー)…間違いない、この人が…) 香ほどの女性が、ほとんど戦慄していた。 想像を絶する低温の余波で、周囲の空気中の水分が一気に凍結し、南国の砂浜に時ならぬダイヤモンドダストが降り注ぐ。 がりん! 狙われた二人の膝から下が一瞬だけ凍った後、砂のように崩れ落ちた。ピンク色の砂。傷口が完全に凍結しているため血は出ない。 「あ、あ、ああああああ!!!」 2人の絶叫。 「…運が良かった、と思うがいい」 女教授の捨て台詞。 パラディンの部下らしい男たちが殺到し、あっという間に取り押さえる。 「クソ! クソ! てめえら何者だ!」 ブラックスミスが懸命に毒づくのへ、一人の男が押し殺した声で応えた。 「レジスタンスだ。貴様らこそ覚悟しろ」 「! レ、レジスタンスだと…? 反…王国の、あ…」 ブラックスミスの青い顔が、驚愕のためにさらにどす黒く染まる。 (…レジスタンス?) 聴こえてきた言葉に香の意識が反応するが、意味は曖昧なまま。 「うし、制圧っと! センセー、お疲れさまです〜」 「ん」 パラディンのねぎらいにも大して愛想を返さず、それどころか使い終わった槍をぽいぽい、と投げ渡す。 「うおっとっと! あぶねーですってセンセー! もー、せっかく良い槍なんすから大事にしてくださいよ!」 「…」 槍を手放した途端、女教授の雰囲気がまた一変した。 ぽわん、という音が聞こえそうな、脱力と言うか軟化というか、元の優しい雰囲気に戻っている。 その形の良い眉を心配そうに寄せると、てててっ、と香に近づいて助け起こしてくれた。 「…大丈夫? 怪我はない? 痛い所は? ああヴィフさん、この人を診てあげて頂戴」 慌てて槍を受け止めたパラディンの「聞いてますセンセー? ねえあっしの話聞いてます?」という抗議もほぼ無視し、味方の若いプリーストを呼び寄せる。 「ごめんなさいね。ついカっとなって暴れちゃって…反省はしてないけど。怖かったでしょう?」 香を抱き寄せて優しく頭を撫でてくれる。 当の香は複雑な気分だ。間違えて子供扱いされるのは慣れているにしても…。 (…胸、大っきい…) 香にして、思わずそう思ってしまうほどの、それはボリュームだった。 故郷の義母や姉、先ほどの『ハナコ』という少女など、胸の豊かな女性は多く見て来たが、これはまさにトップクラス。 香のコンプレックスを地の底まで落とすには十分すぎる。 (…) 香自身は自分の見てくれなどに興味はないのだが、無代の事を思うとどうしても他の女性と比較してしまう。 (…あの人も、こういうの好きだろうなあ…) その辺は、一条家の異能の二の姫とて、普通の恋する女性とどこも違わない。 とはいえ、さっきまで死を覚悟するような修羅場にいた割に、呑気な話ではある。 「…うん、怪我はないようね? でも、よく逃げられたものね、あそこから…って…ええええ!? ちょっと、あなた!」 女教授が香の前に膝をつき、視線を合わせるとその両手で香の顔をわしっ、と挟み込んだ。 香は動けない。動いても無駄と全器官が判断している。 「…あなた、『戻った』のね…? 一体どうやって…」 そこへ、後ろからパラディンの声。 「…先生。『ラボ』の方にやった連中も一人、女の子を収容。これも『戻ってる』らしいっす。センセー、…こりゃあ…」 「ええ…『私の探し物』はありませんでしたが…でも来た甲斐はありましたわね」 女教授が香から目をそらさずに応える。収容された女の子とは「ハナコ」だろう。 香の『右目』がほっとする。 「貴女のお名前を聞かせてもらえるかしら? …あ…」 女教授が訊ねてきて、はっとしたように言葉をつなぐ。 「こちらから先に名乗るのが礼儀ですわね。私の名前は…」 「『翠嶺(すいれい)』先生」 香が先に、その名を告げた。 「あら?」 ぴょこん、と眉を上げた女教授に、香が言葉を続ける。 「私は一条香。一条巴…旧姓『冬待巴』の、義理の娘です。お助けいただき感謝します」 「あらあら…まあまあ…!?」 絵に描いたような驚きの表情で、女教授が香の頬やら肩やら頭やらをぽんぽんと叩く。 「冬待さんの…? え…ということは貴女、瑞波のお姫様…?」 「はい」 「あらどうしましょう。大変失礼致しました、香…姫様?」 「いえ、構いません。助けて頂いたのですから」 香は笑顔を作ろうと頑張ったが、さて上手く行ったかどうかはわからない。 どっちにしても、翠嶺という女教授から返って来たのは優しい笑みだった。 「…では、私のこともお義母様から聞いてらっしゃるのね?」 「はい。当代一のボルト使いで…そして『戦前種(オリジナル)』でいらっしゃる、と」
2009.08.07 Friday
第三話「mild or intense」(5)
『戦前種(オリジナル)』 その言葉を聞いて、翠嶺の笑みが深くなった。 「…そこまで知ってらっしゃるなら、もう言う事はありませんわね。…貴女からも、色々と聞かせてもらってよろしいかしら?」 香は静かにうなずく。まだ不明な点は多いが、それを補って余りある『救世主たち』なのだ。 断る理由はない。 「ってことで決まりですね、お嬢さん方?」 成り行きを見守っていたパラディンの声に、 「ええ船長。後はお願いしますね?」 翠嶺が応える。 「あいよ、お任せ下せえ。とっととラボの調査して逃げちまいましょ。お空へね」 「…空?」 香が驚いた顔をするのが、どうも面白かったらしい。『船長』と呼ばれたパラディンがひょい、と兜を脱ぐと、にかっと香に笑いかける。 いわゆる美男子ではないが、厳しい経験を積んだらしい頼もしさを感じさせる顔。それを何とも言えない愛嬌で包んでいる。 「そーそー。ご案内しますぜ、このクローバーと、あっしの船がね」 ごう! 珊瑚礁のヤシ林の向こうで、巨大な駆動音が響いた。 今まで何もなかったはずの空間に、湧き出るように巨大な物体が『出現』する。 (飛行船!) 真っ白な船体。巨大なプロペラ。 船腹には真っ赤な文字で「Safety First(安全第一)」 「セーフティファースト号。が、正しい名前なんすが…皆は『ヤスイチ号』としか呼ばねーんでさ」 クローバー、と名乗ったパラディンがわはは、と笑う。 「このクローバー船長が『発掘』した…音響・光学・魔法の三大ステルス機能を持つ永久飛行船。これも戦前種(オリジナル)ですよ? あれに乗ってしまえば安心」 驚いて声も出ない香に、翠嶺が片目をつぶってみせる。 「…『船長』以外は、ですけれど?」 「そりゃひでーよ、センセ!」 クローバーが猛抗議するが、本気で怒っていないのはわかる。 香が逃げ出して来た、クローバー達が『ラボ』と呼ぶ建物から、担架を携えた一団が出て来る。少女を回収したのだろう。 「では、お足元にお気をつけになって、御乗船下さいよ」 クローバーが手真似で飛行船を呼び寄せた。 純白の機体が、香の前にゆっくりと舞い降りる。 夜半を過ぎても、無代は宿に帰って来なかった。 静は、無代の人間的しぶとさを高く評価しているが、同時にその実効的な『武力』がイマイチなこともよく知っている。 主従の『主』として、『従』の身を案じるのはおかしいのだが、やはりすぐには眠れずに窓を開け放ち、夜の街を眺めていた。 石畳にまで魔法の灯火が仕込まれているプロンテラの街は、真夜中でも明るい。ただ、陽光が無い分だけ部屋の中は薄暗く、ベッドの側にはろうそくを灯している。 街から放たれる膨大な光量が、暗い夜の空から星を消している。 辛うじて見える、月の輪郭。 その不思議な光景を瞳に映しながら、静が一人、口を開く。 「…うき、でしょ?」 「あああ、バレてる〜!」 おどけた声と同時に、窓の外から逆さまに、アサシンクロス姿の女がぶら下がってきた。 「すげー! 静ちゃんすげー! まだ一度しか会ってないよね? しかも商人の時!」 アサシンクロス。それは『暗殺者』という職業だが、別に暗殺しかしないわけではない。 一度も剣を鍛えた事がない『鍛冶士』、ブラックスミスがいるのと同じで、別の仕事にそのスキルを生かしているだけ、という者も多い。 というか、そういう者の方が多いだろう。 それにしても、暗殺者がこうにぎやかなのも珍しいと言えば珍しい。静も苦笑する。 「わざと気配消さずに来たくせに…で、何?」 「んんー。…無代っち、帰ってないよね?」 帰ってる? ではない。帰っていない事をあらかじめ知っている質問。 「うん」 静はどきん、としたが、平静を装う。 「…ん。帰ってないなら、無代っちから伝言。『無代が夜半過ぎても帰らない場合、無代のことは心配せずにお寝み下さい』だってさ」 「…そう」 「心配?」 「ううん」 静は首を振るが、逆さまの目にじっと見つめられる。 「…無代っちね、カプラガードにとっ捕まってるよ。商人仲間の情報。今はカプラの事務所に監禁中。あの連中荒っぽいから…おもてなしには期待できないね」 「…」 静が、逆さまの目を見つめ返す。 「…静ちゃんがそうしてほしいならさ。うきが仲間集めて、取り返してあげるよ?」 逆さまの顔がにっ、と笑う。 カプラ社が捕らえた人間を実力で取り返す。 冒険者に絶大な恩恵をもたらす、大陸最大の企業に喧嘩を売るということがどういうことか、静にもわかる。 それは冒険者という生き方を捨てることだ。 「…ありがと。でも無代なら大丈夫」 「…」 「ホントだよ。無代…兄ちゃんはね、一番カッコ悪いとこからが、一番カッコいいんだ。…今、もし本当に大変でも、絶対巻き返すから」 その言葉を紡ぎながら、同時に静の心は落ち着いた。 自分に言い聞かせるための言葉が、彼女に思い出させた。いつだって、無代は頭をかきながら帰って来た。 「無代の戦いはこれからだ」 「静ちゃん静ちゃん、それ、最終回フラグだから」 あはは、と逆さまの顔が笑う。 「…いいなー。何か信じ合っちゃってさ。アタシも無代っちみたいな執事がほしい! くれ!」 「駄目!」 「駄目か!」 わっははは、笑い声と同時にくるん、と来た時と反対に回転し、うきの身体が消える。 「…でもどうしてもヤバかったら言うんだよー。カプラガードなんか、このうき様が蹴散らしちゃる!」 「…ありがとう」 やっぱり無代は凄いんだ、と改めて思う。この街に来てたった半年で、こんな味方がいるのだから。 静の礼が聴こえたかどうか、もう辺りに気配はない。アサシンクロスが本気で気配を断てば、静とて容易には感知できない。 それでもしばらく、目を閉じて周囲の気配に感覚を解放する。 (…?) その感覚に、別な気配が引っかかった。 ほとんどの客が寝静まった宿の中を、静かに移動する気配。そして玄関から音もなく、石畳の上に出て行く。 (…フール?) フールだった。 昼間に見た、あの鎧姿。だが、携えた武装が格段にグレードアップしている。 (…あれって、『三大魔剣』…? 凄い物持ってるんだ…) フールは静の視線には気づかず、玄関から宿の横手に回ると自分のペコペコを引き出し、武装の一部をその鞍に預けるとひらり、とまたがる。 都市の燐光の中、偽りの闇の中へその姿が消えて行く。 (…) その後ろ姿を見つめる静の瞳が、普段と違う輝きを発した。 いや本当に光を発したわけではない。しかし、その生命力にあふれた黒曜石の瞳が、まるで別次元の『何か』に一瞬、変じたことは確かだ。 (…行かなきゃ) 静の意識の中に、逆らえない衝動がわき上がる。 姉の香と違って、彼女はそれを言語や数値として認識しない。 ただあいまいなイメージや、あいまいな衝動として認識する。そしてそれを分析などしないまま、そっくり受け入れてしまう。 寝床の脇に置いた履物を腰に結わえ付け、銀狼丸を帯び、アカデミー支給のヘルムを被ると、たたたっと短く助走して窓を飛び出す。 三階。 頭から落ちれば命に関わる高さ。姉の香ならば、さまざまな感覚器官からデータを集め、数値化し、自分の動きを計算した上で跳ぶだだろう。 だが、静はそういう計算を一切しない。そのくせ、動作にまったくためらいがない。 窓枠からとん、と上に跳んだところで、忘れ物に気づく。 (部屋の灯り、消すの忘れた) くるり、と宙返りしながら襟の後ろの隠し小柄を抜き、ひょいと投擲する。 ぴしっ、と小柄が宙を裂き、部屋のろうそくを打ち消す。 す、窓からの灯りが消える。 宙返りの回転がまだ残る静の身体が、一度天を仰ぐ。 (…お月様…) 中天に、まっ二つの月。見事なまでの半月。 静の瞳にそれが映ると、まん丸の瞳が二分割されたようだ。 (…奇麗…) 静の脳裏に、イメージがわき上がる。 (…今なら、掴めるかもしれない) しなやかな手を、月に向って伸ばしてみる。 殺されたカプラ嬢。 帰って来ない無代。 家出した姉。 行方知れずの義兄。 そして、夜に溶けたフール。 (…掴まなきゃ…) 夜空の一番低い場所で、静は精一杯、その手を伸ばす。
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