2013.06.04 Tuesday
第十三話 「Exodus Joker」 (7)
全員のカップが一通り干されたところで、艦橋に新たな人間が呼ばれた。
船医のハイプリーストに付き添われてテーブルに着いたのは他でもない、草鹿任一、その人だ。
あの『タネガシマ』で少年賢者・架綯と共に下船し、直後に敵に襲われたこの少年水夫は、瀕死の重傷を負いながらも無代や翠嶺、武装鷹の灰雷らの助けで船に帰還している。全身に負った傷は無代が処方してくれた治癒薬や、その後に受けた魔法治療ですっかり癒えたようだ。
が、健康が売りだった頑健そのものの身体からは、しかし以前の生命力が感じられない。身体の傷は癒えても、心に負った傷は簡単には治らないのだ。
「ご苦労だった、草鹿」
バークのねぎらいの言葉も、今の彼には痛みしか与えないようだ。
「……すいません……すいません、船長殿。俺、俺……」
言葉にならない。うつむいた顔から涙がこぼれる。
「顔を上げろ、草鹿。今回の件では一切、お前に落ち度はない。すべては私の責任だ」
バークの静かな声が艦橋に響き、草鹿少年が涙に濡れた顔を上げる。どんなに辛かろうが、船長に名を呼ばれて無視するような船員など『マグフォード』には一人もいない。
「戦闘員ではないお前を、たった一人で架綯先生のお供に付けた、それは船長である私の判断だ。我々に敵がいることが分かっていたのに、武装した護衛をつけなかったのは、だから明らかに私の判断ミスなのだ。にもかかわらず草鹿、お前はあれだけの傷を負いながら、生きて船に帰ってくれた」
全員が見守る前で、バークが船長帽を脱ぐ。
そしてその白髪混じりの頭を、少年に向かって深々と下げたではないか。
「ありがとう、草鹿任一。お前の頑張りのおかげでこの船は、お前という大切なクルーを失わずに済んだ。船を預かる責任者として礼を言う」
「……!」
それまでどうにか耐えていた少年が、バークの言葉にとうとう泣き崩れた。飛行船の甲板仕事で鍛えた両手の拳を握りしめ、これも空の仕事に不可欠な声を張り上げ、涙も拭わずおいおいと泣き続ける。
そしてそれを機に、艦橋に集まっていた船の幹部達から草鹿に対し、口々にねぎらいと励ましの言葉がかけられた。
よかった。よく戻った。頑張ったな。もう泣くな。胸を張れ。
オリジナリティにこそ乏しいが、真っすぐで熱い言葉の数々が、傷ついた少年の身体を包む。空の男(気嚢を担当するクリエイターは女性だったが)達の真心に満ちたつながりに、部外者のD1さえ目頭が熱くなる。
草鹿少年の心から、この過酷な経験の記憶が消え去る日は決して来ないだろう。しかし彼はきっといつかその記憶を糧とし、自分を支える杖ともして、この空で生きる力に変えてゆくに違いない。ここに集う大人達もまた、そうして多くの夜と昼を超え、今を生きているのだ。
ひとしきり泣いて、少し落ち着いた草鹿少年に紅茶が注がれる。
さて、本題はここからだ。彼と架綯が敵に襲われた、その状況の聞き取りが行われる。
草鹿によれば、二人が襲われた場所は『マグフォード』の専用埠頭『タネガシマ』と、シュバルツバルド国際空港を結ぶトンネルの階段出口だった。その直後、『セロ』に追われた無代が灰雷と共に決死の追いかけっこを演じた、まさにあの階段である。
敵は重武装したロードナイトを筆頭に五人。対するこちらと言えば、賢者の塔の助教授とはいえ戦闘経験ゼロの架綯。そして健康で身体も大きく力があるとはいえ、やはり戦闘スキルは持っていない草鹿の二人だけ。
「何とか架綯先生だけでも……お助けしようとしたんですが……」
架綯を担いで連れ去ろうとするレジスタンスに、草鹿はそれでも必死で取り縋った。しかし結果はまさに鎧袖一触、あえなく滅多斬りにされ振り払われる。
『やめて!! 言う通りにする! 言う通りにするから、草鹿さんを殺さないで!! お願いだから!』
必死に叫ぶ架綯の声が聞こえた。
情けなかった。
傷の痛みや出血による死の恐怖よりも、敵に一矢も報えず、守るべき架綯に逆に庇われる自分への情けなさ、悔しさの方が大きかった。
彼らの背後では既に、『セロ』による『タネガシマ』への襲撃が始まっている。吹き上がる轟音と火炎。前後で繰り広げられる惨劇のまっただ中で、少年達はあまりにも小さく、そして無力だった。
だが、決して草鹿が何の役にも立たなかったわけではない。彼は重症を負いながらも、彼らを襲った敵の会話を漏らさず記憶した。
まず、『タネガシマ』と『マグフォード』を襲った戦前機械、それは『ヤスイチ号』ではなく、その同型艦『セロ』であること。
翠嶺やバークの知己であるクローバーは既に、『ヤスイチ号』と共に組織から追放されていること。
そしてもう一つ、これが最も重要な情報。
『セロ』を駆るレジスタンスの長、プロイス・キーンの狙いが『ユミルの心臓』であること。
あの時、ひん死の草鹿を必死に庇う架綯に、レジスタンスのロードナイトは言ったのだ。
『よかろう、こいつは殺さない。その代わりお前には、『ユミルの心臓』の情報をしゃべってもらう』
直後に架綯は連れ去られ、草鹿が聞くことができたのはここまでだった。
トンネルの出口に傷ついたまま放置された草鹿に、もう架綯を助ける力はない。だからせめてこの緊急事態を『マグフォード』に伝えようと、這いずるようにしてトンネルを戻った。そして出血のため意識を失って倒れたところを翠嶺に発見され、無代と灰雷によって救われることになったのである。
彼が持ち帰った情報は決して多くはない。しかし今、空の上で孤立無援の状態にある『マグフォード』にとっては、まさにかけがえのないものだ。
「『ユミルの心臓』……やはり狙いはそれか」
静まり返った艦橋、バークが低い声でつぶやく。
『ユミルの心臓』。
神話に登場する巨神・ユミルの名を冠するそのオーパーツが、ジュノーの都市基盤である巨大岩塊に重力干渉を行い、それを空中に浮かせる原動力となっている、それは誰しも知っていることだ。ジュノーの周囲に無数に浮かぶ、あの『イトカワ』を始めとした浮遊岩塊群も同様である。
だがそんな驚天動地のパワーさえ、実はその本来の力から見ればほんの一部に過ぎない、と知っている人間は決して多くない。
空中都市ジュノーとその周辺に展開される浮遊力場は、『心臓』が重力に干渉した結果だが、実は適切なコマンドさえ入力できるなら、『心臓』が干渉できるものは何も重力に限らないのだ。
セージキャッスルの奥深く、『心臓』に近づこうとするものを阻む巨大な迷路は、『心臓』自身が空間に干渉して造り出したものだ。
また人の精神に干渉し、その潜在能力を極限まで引き出す『転生システム』も、実は『心臓』の力である。
これまでに判明したコマンドを一同に集めた書物を『ユミルの書』と呼ぶが、その内容だけでも『心臓』の干渉対象は数百を下らない。今後も研究を進めることでさらにコマンドを解明していけば、下手をすると『生命』や『時間』といった神の領域にまで干渉しかねない、とされる。
放浪の賢者・翠嶺先生曰く、
「『創造の神の忘れ物』、かもね?」
だ、そうである。
だからこそ、それが悪意ある者の自由にされないよう、そのマスターキーは翠嶺自身の手によって厳重に管理されているのだが……。当の翠嶺と、翠嶺からマスターキーを預けられている架綯、その二人ともが敵の手に落ちたとなれば、事態はまさに最悪。
「下手をすると、世界が終わる」
普段は決して大げさな修辞を使わないバークさえ、思わずそうつぶやく、それほどの緊急事態だった。
直ちに船の幹部達による対策会議が開かれる。
この危機に際し、『マグフォード』は今後どう行動すべきか、全員が意見を出し合うのだ。
ところで最初に確認しておくが、この飛行船『マグフォード』は軍船ではない。
確かに賢者の塔直属の飛行機械として、数々の特権を与えられているのは事実だ。しかしそれはあくまで航路や航行・装備の自由に関するもので、それだって民間定期航路の飛行船に、ちょっと毛が生えた程度に過ぎない。
つまり何が言いたいのかと言えば、今、この船が戦う理由はない、ということだ。
現在のような国家レベルの軍事的危機に対して、何らかの行動を起こす法的、社会的義務を、『マグフォード』は負っていない。せいぜいが自らの船体と船員・乗客の安全を守る義務がある、その程度である。
まして『セロ』のような圧倒的な戦力を持つ敵と戦わなければならない義務など、どんな観点から見ても皆無と言ってよい。
要するに、逃げていいのだ。いや、逃げるべきなのだ。
近代国家のシステムに則るならば、このように首都ジュノーが軍事的に制圧されるというケースにどう対応するか。
まずシュバルツバルド共和国の残る大都市アインブロック、リヒタルゼン、アルデバランのどこかに臨時政府を樹立する。
次に各地に駐屯する共和国軍を集結・再編成する。
以上の準備を整えた上で、首都の奪還作戦を行う、というシナリオが王道となるだろう。
実際、工業都市アインブロックに駐屯する部隊は、装甲車や戦車などの戦闘機械を中心とした最精鋭の機械化部隊。共和国が他国に先駆けて開発を進めるその部隊は、共和国内部でさえ高い機密性が保たれる、まさに『虎の子』だ。
となると今、『マグフォード』の取るべき行動は明白だろう。
まず最優先でどこかの都市へ向かい、当地の地方行政府と駐屯軍幹部に事情を説明する。
以上である。
その後は前述の王道シナリオに基づき、考えるべき者が考え、戦うべき者が戦う。それが法的にも、社会的にも『スジ』というものなのだ。
だが、実はこのシナリオには致命的な欠陥がある。
王道であるが故に、決して避けられない欠陥。
「……駄目だ」
一通りの意見が出た後、バークが発した言葉が総てだった。
「時間がない」