2009.08.06 Thursday
第三話「mild or intense」(4)
動かなくなった少女を改めてベッドに寝かせ、香は跳んだ。
ドアの上、天井と壁が作る直角の空間に、手足を突っ張って張り付く。
手がかりはなにもないが、体重が軽く筋力がブーストされた香なら数秒は落下せずにいられる。
ドアが思い切り開かれる。
同時に、香が落下した。
落下しながら手刀を閃かせ、最初に入って来た人間の喉を真横から貫通。相手は声も立てられない。
かつてあの天臨館のテロで、無代を守るために河童を殺した技。針掌だ。今ではさらに殺傷力が増し、人間相手ならほぼ一撃である。
手刀を引き抜いていったん床まで落下。そこで一瞬うずくまって相手の死角を探り、一人目の後ろにいた男の股間ぎりぎりに滑り込む。
「な…!」
二人目は一言だけ発することができた。が、それだけ。
真下から突き上げられた手刀が、あごの下から脳までを貫く。
あと2人。うずくまった時に、足の数で確認した。足音の分析結果も、残りは2人と示している。
ドアの外、左右に一人ずつ。
(左! 股間を狙う!)
香の手刀が左の『男』の股間を撃ち抜く。
「ぎゃ…!」
男の絶叫が響く前に、二撃目が喉に風穴を開けると、その絶叫はひゅうー、という間の抜けた音に変わる。
「き、きゃあああ!!!」
やっとこの惨状が脳に届いたらしい。恐慌の悲鳴を上げる最後の『女』に、香は肉薄した。
相手の喉に手加減した掌底を叩き込む。げ、という音と共に悲鳴が止まる。
「蝶の羽根を出せば殺さない」
手刀の先を首に当てて、香が静かな声で脅した。
「げふ…も、持って持って…」
「持ってない?」
こくこく、と首を縦に振る。
「そう。残念」
す、と香の手刀が女の首に滑り込む。女の目がくるり、と裏返る。
(制圧)
(最後の会話は無駄では?)
(4人の身体検査を。羽根を探す)
(可能性は低い。むしろ増援を警戒してこの場を離れるべき)
(てゆーか、いつまで裸? せめて女の服を奪おう。血で汚れる前にはぎ取れ)
女性らしい提案をしてくるのはたいてい『子宮』だ。
時間は惜しいが、確かにいつまでも裸というわけにもいくまい。
手早く女のシャツと、ズボンを奪う。いずれもリネンの、ゆったりしたものだ。
他の男達も同様の、通気性を重視した格好であるところを見ると、この土地はかなり暑いらしい。
女物でもゆったりしている分、香には相当大きい。が、贅沢は言っていられない。
盛大に余ったシャツの裾を臍の前でどかん、と縛り、ズボンの裾もシャツの袖も、これまた盛大にまくり上げる。
まくった布がもこもこと盛り上がって、それ自体が何かの防具のようだ。
履物も奪う。サイズ違いの靴はまず履けないものだが、女の履物は編み上げ型のサンダルだった。これなら何とかなる。
ひもを締め上げるようにして履く。大きいが、足元を固めると安心感が違う。
床はもう、4人分の血で真っ赤に染まっていた。
元の部屋の中を一瞬だけ覗く。あの少女はまだ全裸のままベッドの上。一人目に殺した男の血が噴出し、ベッドごと鮮血で染まっている。
香の『目』には、少女の意識が肉体の中に、ほぼ元の状態に収まったのが分かる。もう放っておいても死ぬ事はないだろう。
(…私にできることはここまで)
腹をくくる。
(…ごめんね。でも、私は無代に会わなくては)
彼女にしては珍しく、内心で謝罪した。
その一方で、自分が殺した4人の男女に対しては一顧だにしない。
『死なせてしまった』事よりも、『助けてしまった』事に対し、むしろ負い目を感じてしまうのが、この香という女性の不思議な所だ。
(とにかく蝶の羽だ。今はそれが最優先)
脳が判断を下す。
ここがどこなのか。
自分やこの少女が『何をされた』のか。
何が目的なのか。
誰がやったのか。
疑問は山積みだが、すべて『無視』。
(私は無代のもとへ行く)
意識と身体のすべてが、完璧に統合される。
というより彼女が無代と出会って以降、彼女の心身が『他の事』で統合されたことはないのだった。
(増援が来る)
『右耳』が報告してくる。
(…多数、少なくとも10人以上。重装甲の音。武器の音も。今度は…武装している)
『左耳』。
際限なく広がる血溜まりを避けて、まだ奇麗な廊下にしゃがんで『右耳』を付ける。
やはり多数の足音が、地鳴りのように聞こえる。ガチャガチャという金属音は武装していることの証拠だ。
(…厳しい)
香は素手。殺した4人も武器は持っていなかった。
武装した集団を相手に、素手で立ち向かうのはさすがに無謀だ。香の手刀では盾や鎧を貫く事はできない。
一人か二人相手にできたとしても、その間に他の敵に滅多斬りにされるだろう。
(もう一度裸になってベッドに戻り、無関係を装う)
『胃』が提案は、一斉に否定される。時間がないのが最大の理由だ。しかも脱いだ服は奪ったもの。もう一度女の死体に着せている暇などない。
(建物の外へ出て、距離を稼ぐ)
『右足』
(建物の内部のどこかに隠れ、脱出のチャンスを待つ)
『左手』
(今はどちらとも決められない。とにかくこの場を放棄)
『脳』が決断、接近する足音と反対方向へ走る。
しかし…、そちらからも足音。
(…まずい!)
逃げ場がない。
壁も床も厚くて破れない。屋根はさらに厚い。
(囲まれる前に、どちらか一方を突破して逃走!)
廊下の突き当たりから、銀色の集団が飛び出してきた。鎧と武器の色。
反対側も同じだ。
(右!)
『左目』の判断で、香が走り出す。正面にまず3人、鎧の具合から見て、ナイトかクルセイダーだろう。まともにぶつかれば一瞬で潰される。
「動くな!」
正面のナイトが突進して来ながら怒鳴るが、当然、無視。
(下半身の筋力ブースト!)
跳ぶ。天井までの距離は、さっき室内での跳躍で計測済みだ。
天井に『着地』し、もう一度『跳躍』。
前衛の3人と、その後ろにいた2人を飛び越える。だが、さらに前に2人。シーフとアコライト。ただし、いきなり落下してきた香に腰が引けている。
(行ける!)
『肝臓』が好機を宣言。
アコライトの喉を手刀で貫き、そのまま突破する。シーフのナイフが服を掠めるが、とっさに振ったでたらめな一撃など脅威ではない。
階段。
一段ずつ降りるなど論外。壁を蹴り、手すりも蹴って一気に階下へ飛び降りる。
扉。
位置的に見て外への扉だろう。考えている暇はない。後ろから追っ手の気配が迫る。
ノブに飛びついて回転させると、抵抗無く開いた。外へ飛び出す。
一瞬、視界が真っ白になった。
真昼の、それも南方の焼け付くような日差しが、ずっと薄暗がりにいた香の目を焼いたのだ。
即座に光量を調節し視界を確保する。
真っ白な砂浜と、海が広がっていた。波の音が遠いのは、周囲が珊瑚礁で囲まれているからだ。
孤島。
逃げ場がないと悟り、香に絶望がのしかかる。例え船を奪えたとしても、航海術を持たない香は漂流するしかない。
それよりも、建物から続々と飛び出して来る武装した集団が目下の問題だ。いずれも無言なのが、行き届いた訓練を想像させる。
じっとしていても取り囲まれるだけなので、何の宛もないまま懸命に砂浜を駆けた。
が、加速の魔法で速度を増した追っ手は、すぐに肉薄してくる。結局、不意打ちやだまし討ちに頼らなければ、真っ当な勝負で香に勝ち目はないのだ。
(…無代)
もう会えないのか、という思いが香の意識を犯し始めていた。懸命に反論する思考もあるが、それも小さくなる。
何本かの矢が香を掠めていく。射程距離に入ったら、一気にハリネズミにされるだろう。いや、魔法で肉片にされるのが先か。
魔法の方が早かった。
香を取り囲むように魔法陣が出現する。ストームガスト。発動まで半秒もない。
(…無代…!)
今日、心の中で何度その名を呼んだだろう。だが、きちんと声に出すのはこれが始めてだった。
「…無代ぃいっ!」
悲痛、という言葉がぴったりの叫びが、香の喉からほとばしった。
その時だ。
ひどく場違いな物が、香の視界に入った。
いや、場違いというのは少しおかしいかもしれない。
真っ青な空に、真っ白な砂浜。そこに配されるものとしては、むしろふさわしいかもしれない。
それは女性だった。
真っ白な、つばの広い帽子を日よけに被り、すらりと長い素足に涼しげな編み上げサンダルを履いている。
薄い水色の衣装と、鮮やかな緑色のロングヘアが海風になびく。
もしこれが一幅の絵画だとするならば、美しい南の島の風景に、これほど見事にマッチした登場人物もあるまい。
ここが『戦場』でさえなければ。
「…?」
ふ、と、香を囲んでいた魔法陣が消失した。
魔法詠唱を妨害する技『スペルブレイカー』、と理解する前に、香はその身体を地面に投げ出している。
女の足が目の前にあった。
「それでよろしいわ。そのまま伏せていて下さいね?」
頭の上から声が聞こえた。
(女性の声。若い)
『右耳』
(いや若くはない。声は若いが…響きが違う)
『脳』がそれを否定する。
(選択の余地はない。従う)
「大丈夫よ。すぐに済みますからね。安心して?」
上からさらに声が降ってくる。
優しい声だった。
自分が戦場にいることを一瞬忘れるほど、しっとりと柔らかい声。
「何者だ貴様っ!」
「『教授』だ! 騎士騎士! 前へ出ろ!」
追っ手の一団
「あら、野蛮ですこと」
少し呆れたような声はしかし、やはり戦場の声ではない。まるで子供の悪戯でも叱るような調子。
「でもあまり『お痛』が過ぎると、お仕置きが必要ですわね?」
やはり子供扱いらしい。
それをかき消すようにがしゃがしゃん! という金属音。重武装の前衛が突進して来る音だ。
「…船長さん、私の槍を下さいます?」
「ほいきた、センセー!」
女の声に、壮年の男の声が応えた。砂浜の途切れる先、ヤシの林の中からだ。
たまらず、香が顔を上げた。
この優しげな声と細い足の持ち主が、あの武装集団を相手にするというのか。
無理だ、と直感する香の眼前に、何かが落ちて来る。
女の帽子。
「持ってて下さる? 気に入ってて…汚したくないから、ね?」
呆然と視線を上げた香が、最初に見たのは女の背中。そこにふわりとかかる、緑色のロングヘア。
そして涼やかな水色の『教授服』。通称『振り袖』と言われる独特のフォルム。
さすがに暑いのだろう、特徴の一つである首回りのマフラーは外してあり、ほっそりと白い首がのぞいている。
その『振り袖』を閃かせ、彼女のすらりとした手がひょい、と挙げられたと見るや、その両手に細く、長い物が出現した。
槍だ。
香の目にはその槍が、後方から投げられたものと分かった。さっきの林の中の声だろう。
女の、鎧も手甲もない、まるっきり素手の左右に二本の槍。
(…二槍…?)
疑問符が頭を駆け巡る。魔法戦闘のエキスパートである『教授』という職業は、そもそも槍を使う職業ではないはずだ。
それも両手二槍など剣士でも聞いた事がない。
「…」
ぞわっ。
その時、香の背筋に冷たい物が走った。槍を握った途端に、女教授の雰囲気が一変したのだ。
「…貴様ら…ここで自分が死ぬ理由を知りたいか? え?」
口調まで変わっている。
死の淵で死者を手招くと言う伝説の魔女ならば、こんな声を出すのだろうか。
「…教えておいてやろう…。私の、大事な物を返さないからだ!」
重武装の敵が構わず突進して来る。
だが、残念な事に彼らは、女を間合いに捉えることすらできなかった。彼らが襲われたのはその遥か手前。
ひゅん!
女の槍が敵に向かって奔る。それも信じられないほどの距離。
槍の間合いというより、それは飛び道具の間合いだった。
まず槍の持ち方が違う。
長槍の端っこ、『石突き』の金具を引っ掛けるように握る。
さらに槍の振るい方。
相当の重さがあるはずの槍を、手首のスナップを利かせてひゅん、と宙にさばく。そして…
ぱきん!
まるで鞭を振るうようなフォームで、敵の顔面を真っ向から撃ち抜くのだ。
ぱん、ぱきぃん! ぱきぃん!
それも連撃。
女の両腕が優雅な舞を踊るようにひらめき、ギラギラと輝く槍の穂先が稲妻のような軌道を描いて、立て続けに敵に襲いかかる。
武術に関しては先進国である瑞波生まれの香をして、見た事も聞いた事もないフォーム。
さらに。
きぃぃぃぃいいいいい!!!!
魔法の起動音。
『教授』の技、打撃を与えた相手に、追い打ちの魔法を叩き込む『オートスペル』だ。
撃ち抜かれた敵の顔面に、攻撃魔法の魔法陣が出現する。
だがその魔法陣もただ事ではない。
香の目に、真円の魔法陣が10個、まるで皿を重ねるように重なって出現するのが見えた。
そして最も敵から遠い魔法陣から、炎のボルトが一つだけ吐き出される。
そこからが見物だ。
たった一個のボルトが次の魔法陣に突き刺さると同時に、刺さった魔法陣が急回転しボルトを収束、加速する。
そして次の魔法陣へ打ち出す。
2個目の魔法陣がさらにボルトを収束、加速する。
3個。
4個。
5個目以降はもう、香の目でも知覚できない速度と収束度に『成長』する。
魔法にある程度の知識がある香でさえ、想像を絶する呪文制御技術。まして細かい制御の難しいオートスペルともなれば、既に人智を越えていると言ってよい。
ぱちぃん!
金属音としか聞こえない音と同時に、敵の首が消失した。
最後の、10個目の魔法陣から打ち出されたボルトが命中したのだ。
真っ赤に焼けた鉄板に水滴を落とした時の、あの金属的な蒸発音。
そのあまりの速度と収束ゆえに視覚で捕捉できず、その圧倒的な熱量ゆえに、敵の首から上が『消失』する。
一瞬遅れて、血柱が上がった。
頭を失った敵の首から、真っ青な空に向って真紅の噴水が次々に噴き上がる。
きぃぃぃぃいいいいい!
きぃぃぃぃいいいいい!!
きぃぃぃぃいいいいい!!!
槍の連撃に追随して、オートスペルもまた連続して発動する。
この熱量の前には、盾も鎧も兜も全く意味をなさない。
香の伏せた砂浜に、細かい血の霧がハラハラと振り注ぐ。
女から預けられた帽子が汚れないように、身体の下に仕舞ったのは香にしては上出来だった。
(…これは、熱線砲(ブラスター)…? まさか…でも、あれは確かに…積層型立体魔法陣!)
香の脳裏に、故郷の義母・巴の記憶が蘇る。
あの話を聞いたのはいつだったか。現役の軍人時代『当代一のボルト使い』と称された義母が、ふと漏らした昔話。
(…私が当代一? とんでもない)
(…私は半分も再現できなかった。『熱線砲』の熱量)
(…それも実験室に3日引きこもってよ?)
(…学生時代、生涯唯一の『赤点』を食らったけれど)
(…『先生』が相手では仕方ない、って納得しちゃったわ)
あの誇り高い義母が、苦笑しながら話してくれた『赤点』の話。
その『先生』の名前…義母は何と言っただろうか。
ぴきぃいん!
また一人、胸板を槍で撃ち抜かれる。
きぃぃぃぃいいいいい!
ぴちぃん!
熱線砲。
有り余る『死』が惜しげもなくバラまかれる。明らかなオーバーキルだが、女教授は手加減する気など毛頭ないようだった。
『私の大切なものを返せ』
それは怒りの表現なのか。
真っ白な砂浜と真っ青な空。その下で、エメラルドグリーンの髪とサファイアの衣装が思うさま暴れ回る。
噴き上がる鮮血は赤。
勢い余って地面にまで打ち込まれた熱線砲に、溶けてガラス状になった砂がキラキラと陽光を反射する。
「…先生! センセー! お気持ちゃあ分かりますが、一人二人は残して下さいよー!」
後方から男の声が響いた。
女教授の凄まじさに目を奪われて忘れていたが、彼女の後方からこちらへ殺到した男。
パラディンだ。味方らしい一団を引き連れている。
味方のダメージを自分に転化して守る『献身』のスキルを女教授にかけつつ、鎖付きの盾をぶん回して戦う姿はなかなかの強者のようだ。
が、どうにも比較対象が悪すぎる。
彼自身もあまり出しゃばる気はないらしく、連れのプリーストにダメージ回復をさせつつ、敵の厄介な魔法を妨害というサポート的な戦い方だ。
「ふん。…わかってる、船長。2人は残してやろう」
す、と女教授が構えを変える。
槍を握るのではなく、今度は中指と人差し指で挟んで引っ掛ける、さらに柔らかいグリップ。それで本当に槍をホールドできるのか、と見えた瞬間、ひゅひゅん! と槍が奔った。
後方のブラックスミス。
その後方のセージ。
2人の向こうずねに刺撃が襲いかかる。そして例によってオートスペル…だが、今度は『熱』ではない。
ひゅぉぉぉおおおお!!!
縦に重ねて並ぶ魔法陣は変わらず、内部を奔るボルトが『氷』。だが、それもまた収束と加速を繰り返すうちに、ただの氷を超越してゆく。
(『凍線砲』(フリーザー)…間違いない、この人が…)
香ほどの女性が、ほとんど戦慄していた。
想像を絶する低温の余波で、周囲の空気中の水分が一気に凍結し、南国の砂浜に時ならぬダイヤモンドダストが降り注ぐ。
がりん!
狙われた二人の膝から下が一瞬だけ凍った後、砂のように崩れ落ちた。ピンク色の砂。傷口が完全に凍結しているため血は出ない。
「あ、あ、ああああああ!!!」
2人の絶叫。
「…運が良かった、と思うがいい」
女教授の捨て台詞。
パラディンの部下らしい男たちが殺到し、あっという間に取り押さえる。
「クソ! クソ! てめえら何者だ!」
ブラックスミスが懸命に毒づくのへ、一人の男が押し殺した声で応えた。
「レジスタンスだ。貴様らこそ覚悟しろ」
「! レ、レジスタンスだと…? 反…王国の、あ…」
ブラックスミスの青い顔が、驚愕のためにさらにどす黒く染まる。
(…レジスタンス?)
聴こえてきた言葉に香の意識が反応するが、意味は曖昧なまま。
「うし、制圧っと! センセー、お疲れさまです〜」
「ん」
パラディンのねぎらいにも大して愛想を返さず、それどころか使い終わった槍をぽいぽい、と投げ渡す。
「うおっとっと! あぶねーですってセンセー! もー、せっかく良い槍なんすから大事にしてくださいよ!」
「…」
槍を手放した途端、女教授の雰囲気がまた一変した。
ぽわん、という音が聞こえそうな、脱力と言うか軟化というか、元の優しい雰囲気に戻っている。
その形の良い眉を心配そうに寄せると、てててっ、と香に近づいて助け起こしてくれた。
「…大丈夫? 怪我はない? 痛い所は? ああヴィフさん、この人を診てあげて頂戴」
慌てて槍を受け止めたパラディンの「聞いてますセンセー? ねえあっしの話聞いてます?」という抗議もほぼ無視し、味方の若いプリーストを呼び寄せる。
「ごめんなさいね。ついカっとなって暴れちゃって…反省はしてないけど。怖かったでしょう?」
香を抱き寄せて優しく頭を撫でてくれる。
当の香は複雑な気分だ。間違えて子供扱いされるのは慣れているにしても…。
(…胸、大っきい…)
香にして、思わずそう思ってしまうほどの、それはボリュームだった。
故郷の義母や姉、先ほどの『ハナコ』という少女など、胸の豊かな女性は多く見て来たが、これはまさにトップクラス。
香のコンプレックスを地の底まで落とすには十分すぎる。
(…)
香自身は自分の見てくれなどに興味はないのだが、無代の事を思うとどうしても他の女性と比較してしまう。
(…あの人も、こういうの好きだろうなあ…)
その辺は、一条家の異能の二の姫とて、普通の恋する女性とどこも違わない。
とはいえ、さっきまで死を覚悟するような修羅場にいた割に、呑気な話ではある。
「…うん、怪我はないようね? でも、よく逃げられたものね、あそこから…って…ええええ!? ちょっと、あなた!」
女教授が香の前に膝をつき、視線を合わせるとその両手で香の顔をわしっ、と挟み込んだ。
香は動けない。動いても無駄と全器官が判断している。
「…あなた、『戻った』のね…? 一体どうやって…」
そこへ、後ろからパラディンの声。
「…先生。『ラボ』の方にやった連中も一人、女の子を収容。これも『戻ってる』らしいっす。センセー、…こりゃあ…」
「ええ…『私の探し物』はありませんでしたが…でも来た甲斐はありましたわね」
女教授が香から目をそらさずに応える。収容された女の子とは「ハナコ」だろう。
香の『右目』がほっとする。
「貴女のお名前を聞かせてもらえるかしら? …あ…」
女教授が訊ねてきて、はっとしたように言葉をつなぐ。
「こちらから先に名乗るのが礼儀ですわね。私の名前は…」
「『翠嶺(すいれい)』先生」
香が先に、その名を告げた。
「あら?」
ぴょこん、と眉を上げた女教授に、香が言葉を続ける。
「私は一条香。一条巴…旧姓『冬待巴』の、義理の娘です。お助けいただき感謝します」
「あらあら…まあまあ…!?」
絵に描いたような驚きの表情で、女教授が香の頬やら肩やら頭やらをぽんぽんと叩く。
「冬待さんの…? え…ということは貴女、瑞波のお姫様…?」
「はい」
「あらどうしましょう。大変失礼致しました、香…姫様?」
「いえ、構いません。助けて頂いたのですから」
香は笑顔を作ろうと頑張ったが、さて上手く行ったかどうかはわからない。
どっちにしても、翠嶺という女教授から返って来たのは優しい笑みだった。
「…では、私のこともお義母様から聞いてらっしゃるのね?」
「はい。当代一のボルト使いで…そして『戦前種(オリジナル)』でいらっしゃる、と」
ドアの上、天井と壁が作る直角の空間に、手足を突っ張って張り付く。
手がかりはなにもないが、体重が軽く筋力がブーストされた香なら数秒は落下せずにいられる。
ドアが思い切り開かれる。
同時に、香が落下した。
落下しながら手刀を閃かせ、最初に入って来た人間の喉を真横から貫通。相手は声も立てられない。
かつてあの天臨館のテロで、無代を守るために河童を殺した技。針掌だ。今ではさらに殺傷力が増し、人間相手ならほぼ一撃である。
手刀を引き抜いていったん床まで落下。そこで一瞬うずくまって相手の死角を探り、一人目の後ろにいた男の股間ぎりぎりに滑り込む。
「な…!」
二人目は一言だけ発することができた。が、それだけ。
真下から突き上げられた手刀が、あごの下から脳までを貫く。
あと2人。うずくまった時に、足の数で確認した。足音の分析結果も、残りは2人と示している。
ドアの外、左右に一人ずつ。
(左! 股間を狙う!)
香の手刀が左の『男』の股間を撃ち抜く。
「ぎゃ…!」
男の絶叫が響く前に、二撃目が喉に風穴を開けると、その絶叫はひゅうー、という間の抜けた音に変わる。
「き、きゃあああ!!!」
やっとこの惨状が脳に届いたらしい。恐慌の悲鳴を上げる最後の『女』に、香は肉薄した。
相手の喉に手加減した掌底を叩き込む。げ、という音と共に悲鳴が止まる。
「蝶の羽根を出せば殺さない」
手刀の先を首に当てて、香が静かな声で脅した。
「げふ…も、持って持って…」
「持ってない?」
こくこく、と首を縦に振る。
「そう。残念」
す、と香の手刀が女の首に滑り込む。女の目がくるり、と裏返る。
(制圧)
(最後の会話は無駄では?)
(4人の身体検査を。羽根を探す)
(可能性は低い。むしろ増援を警戒してこの場を離れるべき)
(てゆーか、いつまで裸? せめて女の服を奪おう。血で汚れる前にはぎ取れ)
女性らしい提案をしてくるのはたいてい『子宮』だ。
時間は惜しいが、確かにいつまでも裸というわけにもいくまい。
手早く女のシャツと、ズボンを奪う。いずれもリネンの、ゆったりしたものだ。
他の男達も同様の、通気性を重視した格好であるところを見ると、この土地はかなり暑いらしい。
女物でもゆったりしている分、香には相当大きい。が、贅沢は言っていられない。
盛大に余ったシャツの裾を臍の前でどかん、と縛り、ズボンの裾もシャツの袖も、これまた盛大にまくり上げる。
まくった布がもこもこと盛り上がって、それ自体が何かの防具のようだ。
履物も奪う。サイズ違いの靴はまず履けないものだが、女の履物は編み上げ型のサンダルだった。これなら何とかなる。
ひもを締め上げるようにして履く。大きいが、足元を固めると安心感が違う。
床はもう、4人分の血で真っ赤に染まっていた。
元の部屋の中を一瞬だけ覗く。あの少女はまだ全裸のままベッドの上。一人目に殺した男の血が噴出し、ベッドごと鮮血で染まっている。
香の『目』には、少女の意識が肉体の中に、ほぼ元の状態に収まったのが分かる。もう放っておいても死ぬ事はないだろう。
(…私にできることはここまで)
腹をくくる。
(…ごめんね。でも、私は無代に会わなくては)
彼女にしては珍しく、内心で謝罪した。
その一方で、自分が殺した4人の男女に対しては一顧だにしない。
『死なせてしまった』事よりも、『助けてしまった』事に対し、むしろ負い目を感じてしまうのが、この香という女性の不思議な所だ。
(とにかく蝶の羽だ。今はそれが最優先)
脳が判断を下す。
ここがどこなのか。
自分やこの少女が『何をされた』のか。
何が目的なのか。
誰がやったのか。
疑問は山積みだが、すべて『無視』。
(私は無代のもとへ行く)
意識と身体のすべてが、完璧に統合される。
というより彼女が無代と出会って以降、彼女の心身が『他の事』で統合されたことはないのだった。
(増援が来る)
『右耳』が報告してくる。
(…多数、少なくとも10人以上。重装甲の音。武器の音も。今度は…武装している)
『左耳』。
際限なく広がる血溜まりを避けて、まだ奇麗な廊下にしゃがんで『右耳』を付ける。
やはり多数の足音が、地鳴りのように聞こえる。ガチャガチャという金属音は武装していることの証拠だ。
(…厳しい)
香は素手。殺した4人も武器は持っていなかった。
武装した集団を相手に、素手で立ち向かうのはさすがに無謀だ。香の手刀では盾や鎧を貫く事はできない。
一人か二人相手にできたとしても、その間に他の敵に滅多斬りにされるだろう。
(もう一度裸になってベッドに戻り、無関係を装う)
『胃』が提案は、一斉に否定される。時間がないのが最大の理由だ。しかも脱いだ服は奪ったもの。もう一度女の死体に着せている暇などない。
(建物の外へ出て、距離を稼ぐ)
『右足』
(建物の内部のどこかに隠れ、脱出のチャンスを待つ)
『左手』
(今はどちらとも決められない。とにかくこの場を放棄)
『脳』が決断、接近する足音と反対方向へ走る。
しかし…、そちらからも足音。
(…まずい!)
逃げ場がない。
壁も床も厚くて破れない。屋根はさらに厚い。
(囲まれる前に、どちらか一方を突破して逃走!)
廊下の突き当たりから、銀色の集団が飛び出してきた。鎧と武器の色。
反対側も同じだ。
(右!)
『左目』の判断で、香が走り出す。正面にまず3人、鎧の具合から見て、ナイトかクルセイダーだろう。まともにぶつかれば一瞬で潰される。
「動くな!」
正面のナイトが突進して来ながら怒鳴るが、当然、無視。
(下半身の筋力ブースト!)
跳ぶ。天井までの距離は、さっき室内での跳躍で計測済みだ。
天井に『着地』し、もう一度『跳躍』。
前衛の3人と、その後ろにいた2人を飛び越える。だが、さらに前に2人。シーフとアコライト。ただし、いきなり落下してきた香に腰が引けている。
(行ける!)
『肝臓』が好機を宣言。
アコライトの喉を手刀で貫き、そのまま突破する。シーフのナイフが服を掠めるが、とっさに振ったでたらめな一撃など脅威ではない。
階段。
一段ずつ降りるなど論外。壁を蹴り、手すりも蹴って一気に階下へ飛び降りる。
扉。
位置的に見て外への扉だろう。考えている暇はない。後ろから追っ手の気配が迫る。
ノブに飛びついて回転させると、抵抗無く開いた。外へ飛び出す。
一瞬、視界が真っ白になった。
真昼の、それも南方の焼け付くような日差しが、ずっと薄暗がりにいた香の目を焼いたのだ。
即座に光量を調節し視界を確保する。
真っ白な砂浜と、海が広がっていた。波の音が遠いのは、周囲が珊瑚礁で囲まれているからだ。
孤島。
逃げ場がないと悟り、香に絶望がのしかかる。例え船を奪えたとしても、航海術を持たない香は漂流するしかない。
それよりも、建物から続々と飛び出して来る武装した集団が目下の問題だ。いずれも無言なのが、行き届いた訓練を想像させる。
じっとしていても取り囲まれるだけなので、何の宛もないまま懸命に砂浜を駆けた。
が、加速の魔法で速度を増した追っ手は、すぐに肉薄してくる。結局、不意打ちやだまし討ちに頼らなければ、真っ当な勝負で香に勝ち目はないのだ。
(…無代)
もう会えないのか、という思いが香の意識を犯し始めていた。懸命に反論する思考もあるが、それも小さくなる。
何本かの矢が香を掠めていく。射程距離に入ったら、一気にハリネズミにされるだろう。いや、魔法で肉片にされるのが先か。
魔法の方が早かった。
香を取り囲むように魔法陣が出現する。ストームガスト。発動まで半秒もない。
(…無代…!)
今日、心の中で何度その名を呼んだだろう。だが、きちんと声に出すのはこれが始めてだった。
「…無代ぃいっ!」
悲痛、という言葉がぴったりの叫びが、香の喉からほとばしった。
その時だ。
ひどく場違いな物が、香の視界に入った。
いや、場違いというのは少しおかしいかもしれない。
真っ青な空に、真っ白な砂浜。そこに配されるものとしては、むしろふさわしいかもしれない。
それは女性だった。
真っ白な、つばの広い帽子を日よけに被り、すらりと長い素足に涼しげな編み上げサンダルを履いている。
薄い水色の衣装と、鮮やかな緑色のロングヘアが海風になびく。
もしこれが一幅の絵画だとするならば、美しい南の島の風景に、これほど見事にマッチした登場人物もあるまい。
ここが『戦場』でさえなければ。
「…?」
ふ、と、香を囲んでいた魔法陣が消失した。
魔法詠唱を妨害する技『スペルブレイカー』、と理解する前に、香はその身体を地面に投げ出している。
女の足が目の前にあった。
「それでよろしいわ。そのまま伏せていて下さいね?」
頭の上から声が聞こえた。
(女性の声。若い)
『右耳』
(いや若くはない。声は若いが…響きが違う)
『脳』がそれを否定する。
(選択の余地はない。従う)
「大丈夫よ。すぐに済みますからね。安心して?」
上からさらに声が降ってくる。
優しい声だった。
自分が戦場にいることを一瞬忘れるほど、しっとりと柔らかい声。
「何者だ貴様っ!」
「『教授』だ! 騎士騎士! 前へ出ろ!」
追っ手の一団
「あら、野蛮ですこと」
少し呆れたような声はしかし、やはり戦場の声ではない。まるで子供の悪戯でも叱るような調子。
「でもあまり『お痛』が過ぎると、お仕置きが必要ですわね?」
やはり子供扱いらしい。
それをかき消すようにがしゃがしゃん! という金属音。重武装の前衛が突進して来る音だ。
「…船長さん、私の槍を下さいます?」
「ほいきた、センセー!」
女の声に、壮年の男の声が応えた。砂浜の途切れる先、ヤシの林の中からだ。
たまらず、香が顔を上げた。
この優しげな声と細い足の持ち主が、あの武装集団を相手にするというのか。
無理だ、と直感する香の眼前に、何かが落ちて来る。
女の帽子。
「持ってて下さる? 気に入ってて…汚したくないから、ね?」
呆然と視線を上げた香が、最初に見たのは女の背中。そこにふわりとかかる、緑色のロングヘア。
そして涼やかな水色の『教授服』。通称『振り袖』と言われる独特のフォルム。
さすがに暑いのだろう、特徴の一つである首回りのマフラーは外してあり、ほっそりと白い首がのぞいている。
その『振り袖』を閃かせ、彼女のすらりとした手がひょい、と挙げられたと見るや、その両手に細く、長い物が出現した。
槍だ。
香の目にはその槍が、後方から投げられたものと分かった。さっきの林の中の声だろう。
女の、鎧も手甲もない、まるっきり素手の左右に二本の槍。
(…二槍…?)
疑問符が頭を駆け巡る。魔法戦闘のエキスパートである『教授』という職業は、そもそも槍を使う職業ではないはずだ。
それも両手二槍など剣士でも聞いた事がない。
「…」
ぞわっ。
その時、香の背筋に冷たい物が走った。槍を握った途端に、女教授の雰囲気が一変したのだ。
「…貴様ら…ここで自分が死ぬ理由を知りたいか? え?」
口調まで変わっている。
死の淵で死者を手招くと言う伝説の魔女ならば、こんな声を出すのだろうか。
「…教えておいてやろう…。私の、大事な物を返さないからだ!」
重武装の敵が構わず突進して来る。
だが、残念な事に彼らは、女を間合いに捉えることすらできなかった。彼らが襲われたのはその遥か手前。
ひゅん!
女の槍が敵に向かって奔る。それも信じられないほどの距離。
槍の間合いというより、それは飛び道具の間合いだった。
まず槍の持ち方が違う。
長槍の端っこ、『石突き』の金具を引っ掛けるように握る。
さらに槍の振るい方。
相当の重さがあるはずの槍を、手首のスナップを利かせてひゅん、と宙にさばく。そして…
ぱきん!
まるで鞭を振るうようなフォームで、敵の顔面を真っ向から撃ち抜くのだ。
ぱん、ぱきぃん! ぱきぃん!
それも連撃。
女の両腕が優雅な舞を踊るようにひらめき、ギラギラと輝く槍の穂先が稲妻のような軌道を描いて、立て続けに敵に襲いかかる。
武術に関しては先進国である瑞波生まれの香をして、見た事も聞いた事もないフォーム。
さらに。
きぃぃぃぃいいいいい!!!!
魔法の起動音。
『教授』の技、打撃を与えた相手に、追い打ちの魔法を叩き込む『オートスペル』だ。
撃ち抜かれた敵の顔面に、攻撃魔法の魔法陣が出現する。
だがその魔法陣もただ事ではない。
香の目に、真円の魔法陣が10個、まるで皿を重ねるように重なって出現するのが見えた。
そして最も敵から遠い魔法陣から、炎のボルトが一つだけ吐き出される。
そこからが見物だ。
たった一個のボルトが次の魔法陣に突き刺さると同時に、刺さった魔法陣が急回転しボルトを収束、加速する。
そして次の魔法陣へ打ち出す。
2個目の魔法陣がさらにボルトを収束、加速する。
3個。
4個。
5個目以降はもう、香の目でも知覚できない速度と収束度に『成長』する。
魔法にある程度の知識がある香でさえ、想像を絶する呪文制御技術。まして細かい制御の難しいオートスペルともなれば、既に人智を越えていると言ってよい。
ぱちぃん!
金属音としか聞こえない音と同時に、敵の首が消失した。
最後の、10個目の魔法陣から打ち出されたボルトが命中したのだ。
真っ赤に焼けた鉄板に水滴を落とした時の、あの金属的な蒸発音。
そのあまりの速度と収束ゆえに視覚で捕捉できず、その圧倒的な熱量ゆえに、敵の首から上が『消失』する。
一瞬遅れて、血柱が上がった。
頭を失った敵の首から、真っ青な空に向って真紅の噴水が次々に噴き上がる。
きぃぃぃぃいいいいい!
きぃぃぃぃいいいいい!!
きぃぃぃぃいいいいい!!!
槍の連撃に追随して、オートスペルもまた連続して発動する。
この熱量の前には、盾も鎧も兜も全く意味をなさない。
香の伏せた砂浜に、細かい血の霧がハラハラと振り注ぐ。
女から預けられた帽子が汚れないように、身体の下に仕舞ったのは香にしては上出来だった。
(…これは、熱線砲(ブラスター)…? まさか…でも、あれは確かに…積層型立体魔法陣!)
香の脳裏に、故郷の義母・巴の記憶が蘇る。
あの話を聞いたのはいつだったか。現役の軍人時代『当代一のボルト使い』と称された義母が、ふと漏らした昔話。
(…私が当代一? とんでもない)
(…私は半分も再現できなかった。『熱線砲』の熱量)
(…それも実験室に3日引きこもってよ?)
(…学生時代、生涯唯一の『赤点』を食らったけれど)
(…『先生』が相手では仕方ない、って納得しちゃったわ)
あの誇り高い義母が、苦笑しながら話してくれた『赤点』の話。
その『先生』の名前…義母は何と言っただろうか。
ぴきぃいん!
また一人、胸板を槍で撃ち抜かれる。
きぃぃぃぃいいいいい!
ぴちぃん!
熱線砲。
有り余る『死』が惜しげもなくバラまかれる。明らかなオーバーキルだが、女教授は手加減する気など毛頭ないようだった。
『私の大切なものを返せ』
それは怒りの表現なのか。
真っ白な砂浜と真っ青な空。その下で、エメラルドグリーンの髪とサファイアの衣装が思うさま暴れ回る。
噴き上がる鮮血は赤。
勢い余って地面にまで打ち込まれた熱線砲に、溶けてガラス状になった砂がキラキラと陽光を反射する。
「…先生! センセー! お気持ちゃあ分かりますが、一人二人は残して下さいよー!」
後方から男の声が響いた。
女教授の凄まじさに目を奪われて忘れていたが、彼女の後方からこちらへ殺到した男。
パラディンだ。味方らしい一団を引き連れている。
味方のダメージを自分に転化して守る『献身』のスキルを女教授にかけつつ、鎖付きの盾をぶん回して戦う姿はなかなかの強者のようだ。
が、どうにも比較対象が悪すぎる。
彼自身もあまり出しゃばる気はないらしく、連れのプリーストにダメージ回復をさせつつ、敵の厄介な魔法を妨害というサポート的な戦い方だ。
「ふん。…わかってる、船長。2人は残してやろう」
す、と女教授が構えを変える。
槍を握るのではなく、今度は中指と人差し指で挟んで引っ掛ける、さらに柔らかいグリップ。それで本当に槍をホールドできるのか、と見えた瞬間、ひゅひゅん! と槍が奔った。
後方のブラックスミス。
その後方のセージ。
2人の向こうずねに刺撃が襲いかかる。そして例によってオートスペル…だが、今度は『熱』ではない。
ひゅぉぉぉおおおお!!!
縦に重ねて並ぶ魔法陣は変わらず、内部を奔るボルトが『氷』。だが、それもまた収束と加速を繰り返すうちに、ただの氷を超越してゆく。
(『凍線砲』(フリーザー)…間違いない、この人が…)
香ほどの女性が、ほとんど戦慄していた。
想像を絶する低温の余波で、周囲の空気中の水分が一気に凍結し、南国の砂浜に時ならぬダイヤモンドダストが降り注ぐ。
がりん!
狙われた二人の膝から下が一瞬だけ凍った後、砂のように崩れ落ちた。ピンク色の砂。傷口が完全に凍結しているため血は出ない。
「あ、あ、ああああああ!!!」
2人の絶叫。
「…運が良かった、と思うがいい」
女教授の捨て台詞。
パラディンの部下らしい男たちが殺到し、あっという間に取り押さえる。
「クソ! クソ! てめえら何者だ!」
ブラックスミスが懸命に毒づくのへ、一人の男が押し殺した声で応えた。
「レジスタンスだ。貴様らこそ覚悟しろ」
「! レ、レジスタンスだと…? 反…王国の、あ…」
ブラックスミスの青い顔が、驚愕のためにさらにどす黒く染まる。
(…レジスタンス?)
聴こえてきた言葉に香の意識が反応するが、意味は曖昧なまま。
「うし、制圧っと! センセー、お疲れさまです〜」
「ん」
パラディンのねぎらいにも大して愛想を返さず、それどころか使い終わった槍をぽいぽい、と投げ渡す。
「うおっとっと! あぶねーですってセンセー! もー、せっかく良い槍なんすから大事にしてくださいよ!」
「…」
槍を手放した途端、女教授の雰囲気がまた一変した。
ぽわん、という音が聞こえそうな、脱力と言うか軟化というか、元の優しい雰囲気に戻っている。
その形の良い眉を心配そうに寄せると、てててっ、と香に近づいて助け起こしてくれた。
「…大丈夫? 怪我はない? 痛い所は? ああヴィフさん、この人を診てあげて頂戴」
慌てて槍を受け止めたパラディンの「聞いてますセンセー? ねえあっしの話聞いてます?」という抗議もほぼ無視し、味方の若いプリーストを呼び寄せる。
「ごめんなさいね。ついカっとなって暴れちゃって…反省はしてないけど。怖かったでしょう?」
香を抱き寄せて優しく頭を撫でてくれる。
当の香は複雑な気分だ。間違えて子供扱いされるのは慣れているにしても…。
(…胸、大っきい…)
香にして、思わずそう思ってしまうほどの、それはボリュームだった。
故郷の義母や姉、先ほどの『ハナコ』という少女など、胸の豊かな女性は多く見て来たが、これはまさにトップクラス。
香のコンプレックスを地の底まで落とすには十分すぎる。
(…)
香自身は自分の見てくれなどに興味はないのだが、無代の事を思うとどうしても他の女性と比較してしまう。
(…あの人も、こういうの好きだろうなあ…)
その辺は、一条家の異能の二の姫とて、普通の恋する女性とどこも違わない。
とはいえ、さっきまで死を覚悟するような修羅場にいた割に、呑気な話ではある。
「…うん、怪我はないようね? でも、よく逃げられたものね、あそこから…って…ええええ!? ちょっと、あなた!」
女教授が香の前に膝をつき、視線を合わせるとその両手で香の顔をわしっ、と挟み込んだ。
香は動けない。動いても無駄と全器官が判断している。
「…あなた、『戻った』のね…? 一体どうやって…」
そこへ、後ろからパラディンの声。
「…先生。『ラボ』の方にやった連中も一人、女の子を収容。これも『戻ってる』らしいっす。センセー、…こりゃあ…」
「ええ…『私の探し物』はありませんでしたが…でも来た甲斐はありましたわね」
女教授が香から目をそらさずに応える。収容された女の子とは「ハナコ」だろう。
香の『右目』がほっとする。
「貴女のお名前を聞かせてもらえるかしら? …あ…」
女教授が訊ねてきて、はっとしたように言葉をつなぐ。
「こちらから先に名乗るのが礼儀ですわね。私の名前は…」
「『翠嶺(すいれい)』先生」
香が先に、その名を告げた。
「あら?」
ぴょこん、と眉を上げた女教授に、香が言葉を続ける。
「私は一条香。一条巴…旧姓『冬待巴』の、義理の娘です。お助けいただき感謝します」
「あらあら…まあまあ…!?」
絵に描いたような驚きの表情で、女教授が香の頬やら肩やら頭やらをぽんぽんと叩く。
「冬待さんの…? え…ということは貴女、瑞波のお姫様…?」
「はい」
「あらどうしましょう。大変失礼致しました、香…姫様?」
「いえ、構いません。助けて頂いたのですから」
香は笑顔を作ろうと頑張ったが、さて上手く行ったかどうかはわからない。
どっちにしても、翠嶺という女教授から返って来たのは優しい笑みだった。
「…では、私のこともお義母様から聞いてらっしゃるのね?」
「はい。当代一のボルト使いで…そして『戦前種(オリジナル)』でいらっしゃる、と」