2011.11.13 Sunday
外伝『Tiger Lily』(3)
『泉屋』襲撃決行の時刻、鬼のリーダーである逆鬼には十分な余裕があった。 なにせ成年の鬼が三十人。この人数は『火力』としても十分だがそれ以上に小回りが効き、スピード重視の動きができる。いわゆる『少数精鋭』だ。
瑞波城下の役人どもに気づかれる前に、一気に『泉屋』とやらを襲い、咲鬼を奪う。そしてそのまま鬼の里へのワープポータルに乗ってしまうと考えれば、あと数分後には全ての『作業』が終わるだろう。
瑞波には、鬼の里の裏切り者である『善鬼』がおり、咲鬼が彼を頼って来た事は明らかだ。だが善鬼は現在、瑞波の守護大名である一条家の筆頭御側役という地位にあり、庶民がおいそれと会える立場にはない。咲鬼が無代とやらに『自分は善鬼の知り合いだ』と話したところで、すぐに善鬼に話が通る、などということはありえない。現代で例えるなら、その辺にいる迷子の子どもがこれもその辺の店の店主に、『自分は内閣の大臣の一人と知り合いだ』と訴えたのと同じか、それ以上に厄介な事態なのだ。
無代とやらがそれを信じたとして、根気よく瑞波の役人に話を通し、さらに運良く上に話が 通ったとしても、それが善鬼の所まで到達するのには早くても数日、そんなところだろう。
『泉屋』についての情報も集まっている。
瑞波城下の外 れにある『天臨館』という学校の正門近くにあり、そこの学生客を当て込んで最近開店した料理店。店主は天臨館を退学になった落ちこぼれだが、料理の腕は確からしく屋台一つから短期間でその店を持った。昼間に石田城下にいたのは、そこに支店を出す算段をつけに来ていたものらしい。
昼時は飯、夜は 酒でなかなか繁盛しているが、今夜は貸し切りの客がおり、店に人は少ない。
絶好の機会。乱鬼はそう捉えた。
確かに逆鬼が得た情報に『間違い』はない。ただいくつかの情報が『欠けている』だけである。
それも、割と重要な情報がいくつか…だが、逆鬼も誰も、その情報を集めるには時間も情報網も全く足りていなかった。このことを逆鬼の怠慢と責めるべきかは、なかなか微妙な所だろう。
『今夜、即実行」
ともあれ、逆鬼は決断を下した。
三十人の『鬼』は、既に瑞花の町に入っている。
逆鬼自身の余裕 に反して、彼の立てた作戦は入念だった。三十人をチームごとに分け、細かく役割を振った上でそれぞれのチームが時間差で行動する。
『鬼』として各国に傭兵として雇われ、それぞれに厳しい活動に身を投じて来た逆鬼に、余裕はあっても油断はない。
その逆鬼の放ったまず第一の、そして最大の矢が、泉屋に迫っていた。
襲撃班の正面を担う、その数二十四。堂々と、大胆に夜の道を駆け抜け、店の付近できっちり十二人ずつの二班に分かれる。一 班は表、二班は裏から店を挟撃するのが作戦だ。さして大きくもない泉屋を二十四人もの鬼で両側から挟み撃ち、というのは作戦としては贅沢極まりない。蝶一匹を複数のダイナマイトで殺すような作業と言える。
相手が蝶でなく蜂でも同じ事だ。
だが現実には少々、勝手が違った。彼らが相手にするのは、蝶でもなければ蜂でもなかったからだ。
「よお」
正面に向った鬼達の『上』から、声が振って来た。
「悪ぃがこの 店ぁ今夜、俺が貸し切ってんだ。ご遠慮願おうか」
屋根の上、『泉屋』の看板の真横にどかっ、と胡座をかいたまま鬼どもを見下ろしているの は、何のつもりかもろ肌脱ぎの男。側に徳利を持った女がそっと控え、男の杯に酒を注ぐ。
「月の良い夜だ、一杯ぐらいなら奢ってやってもいいが…」
鬼どもが一斉 に抜刀。
「…そういう雰囲気でもなさそうだなおい」
ぐい、と杯を干して立ち上がる。
『立ち上がる』。ただそれだけの動作で、百戦錬磨の鬼どもが一瞬、ふうっ、と気圧されたように退がる。
「よし、鬼ども。そこ『動いてみな』?」
『そこを動くな』ではない。奇妙な挑発。
当然、そんなものは挑発とも思わず、鬼達が動こうとする。鬼の驚異的な身体能力があれば、屋根の上の男でさえ平地にいるのと大差ない。
跳ぶ、と身体に力を入れようとして、十二人の鬼が揃って愕然とした。
動けない。
身体が動かな い。
様々な戦いを経験して来た鬼たちだけに、それがマヒや呪いといった状態異常でないことは即座に分析できる。では、なぜ動けないのか。
攻撃を受けている。ヒットストップ。
敵からの攻撃が着弾している間、こちらは動く事ができなくなる現象。
(だが…どこから?)
そもそも攻撃 されているという感触さえ無いのだ。
パニックになりかかった鬼の一人がその時、あることに気がついた。
(…寒い…?)
そう、周囲の 気温が下がっている。いや『下がっている』などという中途半端なものではない。周囲の空気そのものが凍り付いたような極低温が、いつの間にか彼らを包んでいる。猛烈な冷気が大量の霧を生み、さらにその霧さえ空中で凍り付いて地面に降り注ぐ。
ダイヤモンドダスト。
月光を映して美 しい。
(…これは…! 『氷雨』!?)
その技の名を、鬼達でさえ知っていた。極秘とはいえ瑞波へ潜入する以上、彼らにも予備知識ぐらいはある。
この国で『三番目に警戒すべき相手』。
当代随一のボルト使い、一条家御台所・一条巴。
その技は、ダ メージ1以下に調整された数万発のボルトを、認識可能なフィールド全体に同時射出する。敵を倒すためではない。
動けなくするた めに。
元ルーンミッドガッツ王国王室親衛隊・後宮分隊隊長。その地位にあった現役時代には、数千の軍勢をたった一人で釘付けにしてみせたこともあ るという。
その巴にとっては、『たった十二人』の鬼を釘付けにするぐらい朝飯前である。
鬼どもに恐慌が走った。確かに動けないことも 大問題だが、問題がそれだけに終わらないことが明らかだからだ。
一条巴のあるところ、ではその隣にいるこの男は。
この国で『二番目に警戒すべき相手』。
一条家当主・一条鉄。
元ルーンミッドガッツ王国秘密部隊・ウロボロス4特攻隊長。
「久々にホネの ある相手らしいからな。ちっとは楽しませてもらおうと思ってたんだが…」
鉄が壮絶な笑みを浮かべる。
「可愛い身内が待ってんだ。悪ぃが、ちゃっちゃと済ませるぜ」
言い終わらないうちに、鉄の身体が遥か宙を舞う。
「阿修羅」
その技。
「覇鳳鎚!」
垂直落下式阿修羅・『鎚』。その象徴である『縦書きの気文字』が、狙われた鬼が見た最後の光景だった。
凄惨な血飛沫。
だが、荒れ狂う冷気はそれすら凍り付かせ、月光を紅玉に変える。
一方、裏口へ回った十二人もまた、予想外の事態に直面していた。
泉屋への裏口を目指し、途中の運河にかかる『跳ね橋』を渡ろうとした直後のことだった。
瑞波の首都、瑞花の町は『運河の街』である。大河『剣竜川』、通称 『大剣竜』の河口に、巧みな治水技術を駆使して拓かれたこの街は、至る所網の目のように運河が走り、まるで都市の血管のように生活用水と物流の両面を支えている。
その運河にかかる精巧かつ重厚な跳ね橋が、十二人の鬼の前で突然、上がり始めた。
さすがにぎょっとして、鬼どもが止まる。
どういう原理なのか、無人のままの跳ね橋がみるみる、その大きな腕を天に持ち上げるのを、さすがの鬼達が呆然と見上げる。
だが、それは彼らを襲う異常事態の、まさに幕開けに過ぎなかった。
鬼の一人が月明かりの中、何かが動くのを捉えた。。
運河の、水の上。
何かがこちらへ向って移動して来る。かなりのスピード。そして…とてつもなく大きい。
その正体は、『それ自身』が明らかにしてくれた。ぱん、という破裂音と共に、高々と打ち上げられた照明弾。
夜空に偽の、しかし見事に明るい太陽が出現する。
「船!?」
それは船だった。それも、その辺の小舟や川船ではない。
遥か月をも突くがごとき帆柱。巨大な船体。
堂々たる、それは外洋艦だ。
瑞波中央水軍・二番艦『二ノ丸飛鯨(ニノマルトビクジラ)』。
当主・一条鉄の御座船である旗艦『本丸蝦蟇鯨(ホンマルガマクジラ)』に次ぐ第二の船。『蝦蟇鯨』が、その巨体と猛烈な火力武装により『移動要塞』の風格を備えるのに対し、御曹司・一条流の御座船となるこの二番艦 はまるで正反対の設計思想を持つ。
縦帆三本帆柱。細く絞り込まれた船体。現時点において、同級艦では恐らく世界最速を誇る、 機動力重視の『巡洋艦(クルーザー)』。
とはいえ、並の軍船を凌駕する武装をも兼ね備えた、瑞波水軍が誇る『海の二ノ丸』。
それが今、瑞 花の町のど真ん中を突っ切り、鬼どもの元へ突き進んでくる!
(…しかし、コレでは使えんなあ…)
その『飛鯨』の甲板、特別に設えられた指揮卓に座った一条流はしかし、内心で不満である。
この『飛鯨』は、瑞波の先代当主で流の実父・一条銀の指揮によって建造されたものだ。その時、銀が盛り込んだアイデアが『瑞花の町の運河を航行できること』であった。
船幅と吃水を計算し、運河の方にも様々な工夫を加えた結果、この 『飛鯨』は瑞花の運河の、実に八割を航行可能である。
この能力を使い、いざ瑞花の街が市街戦となった際には『移動拠点』として絶大な攻防力を発揮する、はずだったのだが…。
(…足が遅い…)
流の不満はそれである。
順風の時には帆で、そうでない場所は運河の両側から数十騎のペコペコで牽引して移動するのだが、それにしても速度が出ない。
確かにこんな狭 い水路で速度を上げれば、たちまち岸に激突してしまうだろうから無理もないが、とにかく何事もスピード重視の流には不満でたまらない。
(…やはりこの船は、外洋での機動戦にこそ真価がある…。むしろ運河には専用の『移動砲台』を作った方が…)
ごちゃごちゃ考えている流だが、その発想が後 に、瑞波名物『運河砲(キャナルガン)』を生むことになるのだから、物騒な若様ではある。
(…まあ、操船の訓練にはうってつけだが な…。よくやっている)
総舵手始め、クルーの動きは精密そのもので、こんな夜でも見事に狭い水路をすり抜けて行く。
「目標補足! 照明弾!」
「照明弾!」
帆柱頂上の監視係からの指示で、照明弾が上がる。夜の闇が切り裂かれ、流の目にも『敵』が 見えた。
「よし。撃て」
あっさりと、面白くもなさそうに流が命令する。
「艦首全門、照準良し。撃てぇ!」
『飛鯨』の砲術奉行、こちらは気合い十分で命令する。
轟音。
艦首四門の大砲は見事に、一つの発射音を揃 えた。
撃たれた鬼の方は、それこそたまったものではなかった。
なにせ正真正銘の『艦砲射撃』なのだ。鬼の力がどうの、耐久力がこうのというレベルの話ではない。
直撃を喰らった数人はもちろん、砲弾が掠めただけでその衝撃波によって身体を引き裂かれる。
もちろん、大砲である以上次弾の装填には一定の時間がかかる。だが、鬼達にはその隙さえ与えてもらえない。『飛鯨』からは艦砲だけでなく、舷側から弓手による矢が、銃手による銃弾が、それこそ豪雨のように降り注いでくるのだ。
反撃はおろか、逃げる事すらできない。あっという間に、その身体を簾のように細切れにされる。
それでもまだ、そこで矢や弾に当って死んだ者たちは幸運と言えた。
逃げ場を求めて、運河に飛び込んだ者に比べればだ。
実は、飛び道具で狙われた場合、水中に逃げるのは正解である。現代の高性能な銃であっても、水中の敵を撃つのは難しい。銃弾が水面に着弾した途端に、その衝撃で粉砕してしまうのだ。
だが、この男が指揮を執る場合、その限りでは ない。
「凍結」
一条流の命令が飛ぶ。
「凍結!」
甲板に整列していた魔術師の一団が、弓の一団に代わって一斉に舷側 に駆け寄る。徹底的に訓練された動き。
「ストームガスト!」
複数の口が唱える呪文もまた、一つの音を揃える。
ぐあっ!
局地的な極低温が運河水面の直上を乱舞し、水面が一瞬で凍り付く。いや、その凍結力は水面だけに止まらない。
完全凍結。
水に飛び込んだ 鬼達の身体ごと、運河の底まで氷が埋める。
「撃て」
いくら鬼でも、そのまま放っておけばほどなく窒息死するのだが、それは一条流の情けだったろうか。
いや違うだろう。単に砲撃手の経験を積ませるためにすぎまい。
「艦首全門、照準良し。撃て!」
轟音。
大量の氷塊ごと、鬼の身体が粉砕される。
「目標の完全破壊を確認」
「…うむ」
報告に、大して嬉しそうでもなく流がうなずく。
「御曹司」
「む?」
側で話しかけたのは、魔術班を統括する術仕奉行。
「本日の運河水温、二十度。ストームガスト五発で完全凍結。データ通りです」
「そうか…よろしい」
むしろここで嬉しそうな顔をする一条流。運河の水がどうやれば凍るか、そんなデータまで揃えているらしい。
(…そうか、運河の水を凍らせて砲台を固定すれば、狙いはつけやすいな…)
返す返すも用意周到、かつ物騒な若君である。
「『飛鯨』は待機。総員、炊き出しの飯を食っていいぞ」
瑞波城下の役人どもに気づかれる前に、一気に『泉屋』とやらを襲い、咲鬼を奪う。そしてそのまま鬼の里へのワープポータルに乗ってしまうと考えれば、あと数分後には全ての『作業』が終わるだろう。
瑞波には、鬼の里の裏切り者である『善鬼』がおり、咲鬼が彼を頼って来た事は明らかだ。だが善鬼は現在、瑞波の守護大名である一条家の筆頭御側役という地位にあり、庶民がおいそれと会える立場にはない。咲鬼が無代とやらに『自分は善鬼の知り合いだ』と話したところで、すぐに善鬼に話が通る、などということはありえない。現代で例えるなら、その辺にいる迷子の子どもがこれもその辺の店の店主に、『自分は内閣の大臣の一人と知り合いだ』と訴えたのと同じか、それ以上に厄介な事態なのだ。
無代とやらがそれを信じたとして、根気よく瑞波の役人に話を通し、さらに運良く上に話が 通ったとしても、それが善鬼の所まで到達するのには早くても数日、そんなところだろう。
『泉屋』についての情報も集まっている。
瑞波城下の外 れにある『天臨館』という学校の正門近くにあり、そこの学生客を当て込んで最近開店した料理店。店主は天臨館を退学になった落ちこぼれだが、料理の腕は確からしく屋台一つから短期間でその店を持った。昼間に石田城下にいたのは、そこに支店を出す算段をつけに来ていたものらしい。
昼時は飯、夜は 酒でなかなか繁盛しているが、今夜は貸し切りの客がおり、店に人は少ない。
絶好の機会。乱鬼はそう捉えた。
確かに逆鬼が得た情報に『間違い』はない。ただいくつかの情報が『欠けている』だけである。
それも、割と重要な情報がいくつか…だが、逆鬼も誰も、その情報を集めるには時間も情報網も全く足りていなかった。このことを逆鬼の怠慢と責めるべきかは、なかなか微妙な所だろう。
『今夜、即実行」
ともあれ、逆鬼は決断を下した。
三十人の『鬼』は、既に瑞花の町に入っている。
逆鬼自身の余裕 に反して、彼の立てた作戦は入念だった。三十人をチームごとに分け、細かく役割を振った上でそれぞれのチームが時間差で行動する。
『鬼』として各国に傭兵として雇われ、それぞれに厳しい活動に身を投じて来た逆鬼に、余裕はあっても油断はない。
その逆鬼の放ったまず第一の、そして最大の矢が、泉屋に迫っていた。
襲撃班の正面を担う、その数二十四。堂々と、大胆に夜の道を駆け抜け、店の付近できっちり十二人ずつの二班に分かれる。一 班は表、二班は裏から店を挟撃するのが作戦だ。さして大きくもない泉屋を二十四人もの鬼で両側から挟み撃ち、というのは作戦としては贅沢極まりない。蝶一匹を複数のダイナマイトで殺すような作業と言える。
相手が蝶でなく蜂でも同じ事だ。
だが現実には少々、勝手が違った。彼らが相手にするのは、蝶でもなければ蜂でもなかったからだ。
「よお」
正面に向った鬼達の『上』から、声が振って来た。
「悪ぃがこの 店ぁ今夜、俺が貸し切ってんだ。ご遠慮願おうか」
屋根の上、『泉屋』の看板の真横にどかっ、と胡座をかいたまま鬼どもを見下ろしているの は、何のつもりかもろ肌脱ぎの男。側に徳利を持った女がそっと控え、男の杯に酒を注ぐ。
「月の良い夜だ、一杯ぐらいなら奢ってやってもいいが…」
鬼どもが一斉 に抜刀。
「…そういう雰囲気でもなさそうだなおい」
ぐい、と杯を干して立ち上がる。
『立ち上がる』。ただそれだけの動作で、百戦錬磨の鬼どもが一瞬、ふうっ、と気圧されたように退がる。
「よし、鬼ども。そこ『動いてみな』?」
『そこを動くな』ではない。奇妙な挑発。
当然、そんなものは挑発とも思わず、鬼達が動こうとする。鬼の驚異的な身体能力があれば、屋根の上の男でさえ平地にいるのと大差ない。
跳ぶ、と身体に力を入れようとして、十二人の鬼が揃って愕然とした。
動けない。
身体が動かな い。
様々な戦いを経験して来た鬼たちだけに、それがマヒや呪いといった状態異常でないことは即座に分析できる。では、なぜ動けないのか。
攻撃を受けている。ヒットストップ。
敵からの攻撃が着弾している間、こちらは動く事ができなくなる現象。
(だが…どこから?)
そもそも攻撃 されているという感触さえ無いのだ。
パニックになりかかった鬼の一人がその時、あることに気がついた。
(…寒い…?)
そう、周囲の 気温が下がっている。いや『下がっている』などという中途半端なものではない。周囲の空気そのものが凍り付いたような極低温が、いつの間にか彼らを包んでいる。猛烈な冷気が大量の霧を生み、さらにその霧さえ空中で凍り付いて地面に降り注ぐ。
ダイヤモンドダスト。
月光を映して美 しい。
(…これは…! 『氷雨』!?)
その技の名を、鬼達でさえ知っていた。極秘とはいえ瑞波へ潜入する以上、彼らにも予備知識ぐらいはある。
この国で『三番目に警戒すべき相手』。
当代随一のボルト使い、一条家御台所・一条巴。
その技は、ダ メージ1以下に調整された数万発のボルトを、認識可能なフィールド全体に同時射出する。敵を倒すためではない。
動けなくするた めに。
元ルーンミッドガッツ王国王室親衛隊・後宮分隊隊長。その地位にあった現役時代には、数千の軍勢をたった一人で釘付けにしてみせたこともあ るという。
その巴にとっては、『たった十二人』の鬼を釘付けにするぐらい朝飯前である。
鬼どもに恐慌が走った。確かに動けないことも 大問題だが、問題がそれだけに終わらないことが明らかだからだ。
一条巴のあるところ、ではその隣にいるこの男は。
この国で『二番目に警戒すべき相手』。
一条家当主・一条鉄。
元ルーンミッドガッツ王国秘密部隊・ウロボロス4特攻隊長。
「久々にホネの ある相手らしいからな。ちっとは楽しませてもらおうと思ってたんだが…」
鉄が壮絶な笑みを浮かべる。
「可愛い身内が待ってんだ。悪ぃが、ちゃっちゃと済ませるぜ」
言い終わらないうちに、鉄の身体が遥か宙を舞う。
「阿修羅」
その技。
「覇鳳鎚!」
垂直落下式阿修羅・『鎚』。その象徴である『縦書きの気文字』が、狙われた鬼が見た最後の光景だった。
凄惨な血飛沫。
だが、荒れ狂う冷気はそれすら凍り付かせ、月光を紅玉に変える。
一方、裏口へ回った十二人もまた、予想外の事態に直面していた。
泉屋への裏口を目指し、途中の運河にかかる『跳ね橋』を渡ろうとした直後のことだった。
瑞波の首都、瑞花の町は『運河の街』である。大河『剣竜川』、通称 『大剣竜』の河口に、巧みな治水技術を駆使して拓かれたこの街は、至る所網の目のように運河が走り、まるで都市の血管のように生活用水と物流の両面を支えている。
その運河にかかる精巧かつ重厚な跳ね橋が、十二人の鬼の前で突然、上がり始めた。
さすがにぎょっとして、鬼どもが止まる。
どういう原理なのか、無人のままの跳ね橋がみるみる、その大きな腕を天に持ち上げるのを、さすがの鬼達が呆然と見上げる。
だが、それは彼らを襲う異常事態の、まさに幕開けに過ぎなかった。
鬼の一人が月明かりの中、何かが動くのを捉えた。。
運河の、水の上。
何かがこちらへ向って移動して来る。かなりのスピード。そして…とてつもなく大きい。
その正体は、『それ自身』が明らかにしてくれた。ぱん、という破裂音と共に、高々と打ち上げられた照明弾。
夜空に偽の、しかし見事に明るい太陽が出現する。
「船!?」
それは船だった。それも、その辺の小舟や川船ではない。
遥か月をも突くがごとき帆柱。巨大な船体。
堂々たる、それは外洋艦だ。
瑞波中央水軍・二番艦『二ノ丸飛鯨(ニノマルトビクジラ)』。
当主・一条鉄の御座船である旗艦『本丸蝦蟇鯨(ホンマルガマクジラ)』に次ぐ第二の船。『蝦蟇鯨』が、その巨体と猛烈な火力武装により『移動要塞』の風格を備えるのに対し、御曹司・一条流の御座船となるこの二番艦 はまるで正反対の設計思想を持つ。
縦帆三本帆柱。細く絞り込まれた船体。現時点において、同級艦では恐らく世界最速を誇る、 機動力重視の『巡洋艦(クルーザー)』。
とはいえ、並の軍船を凌駕する武装をも兼ね備えた、瑞波水軍が誇る『海の二ノ丸』。
それが今、瑞 花の町のど真ん中を突っ切り、鬼どもの元へ突き進んでくる!
(…しかし、コレでは使えんなあ…)
その『飛鯨』の甲板、特別に設えられた指揮卓に座った一条流はしかし、内心で不満である。
この『飛鯨』は、瑞波の先代当主で流の実父・一条銀の指揮によって建造されたものだ。その時、銀が盛り込んだアイデアが『瑞花の町の運河を航行できること』であった。
船幅と吃水を計算し、運河の方にも様々な工夫を加えた結果、この 『飛鯨』は瑞花の運河の、実に八割を航行可能である。
この能力を使い、いざ瑞花の街が市街戦となった際には『移動拠点』として絶大な攻防力を発揮する、はずだったのだが…。
(…足が遅い…)
流の不満はそれである。
順風の時には帆で、そうでない場所は運河の両側から数十騎のペコペコで牽引して移動するのだが、それにしても速度が出ない。
確かにこんな狭 い水路で速度を上げれば、たちまち岸に激突してしまうだろうから無理もないが、とにかく何事もスピード重視の流には不満でたまらない。
(…やはりこの船は、外洋での機動戦にこそ真価がある…。むしろ運河には専用の『移動砲台』を作った方が…)
ごちゃごちゃ考えている流だが、その発想が後 に、瑞波名物『運河砲(キャナルガン)』を生むことになるのだから、物騒な若様ではある。
(…まあ、操船の訓練にはうってつけだが な…。よくやっている)
総舵手始め、クルーの動きは精密そのもので、こんな夜でも見事に狭い水路をすり抜けて行く。
「目標補足! 照明弾!」
「照明弾!」
帆柱頂上の監視係からの指示で、照明弾が上がる。夜の闇が切り裂かれ、流の目にも『敵』が 見えた。
「よし。撃て」
あっさりと、面白くもなさそうに流が命令する。
「艦首全門、照準良し。撃てぇ!」
『飛鯨』の砲術奉行、こちらは気合い十分で命令する。
轟音。
艦首四門の大砲は見事に、一つの発射音を揃 えた。
撃たれた鬼の方は、それこそたまったものではなかった。
なにせ正真正銘の『艦砲射撃』なのだ。鬼の力がどうの、耐久力がこうのというレベルの話ではない。
直撃を喰らった数人はもちろん、砲弾が掠めただけでその衝撃波によって身体を引き裂かれる。
もちろん、大砲である以上次弾の装填には一定の時間がかかる。だが、鬼達にはその隙さえ与えてもらえない。『飛鯨』からは艦砲だけでなく、舷側から弓手による矢が、銃手による銃弾が、それこそ豪雨のように降り注いでくるのだ。
反撃はおろか、逃げる事すらできない。あっという間に、その身体を簾のように細切れにされる。
それでもまだ、そこで矢や弾に当って死んだ者たちは幸運と言えた。
逃げ場を求めて、運河に飛び込んだ者に比べればだ。
実は、飛び道具で狙われた場合、水中に逃げるのは正解である。現代の高性能な銃であっても、水中の敵を撃つのは難しい。銃弾が水面に着弾した途端に、その衝撃で粉砕してしまうのだ。
だが、この男が指揮を執る場合、その限りでは ない。
「凍結」
一条流の命令が飛ぶ。
「凍結!」
甲板に整列していた魔術師の一団が、弓の一団に代わって一斉に舷側 に駆け寄る。徹底的に訓練された動き。
「ストームガスト!」
複数の口が唱える呪文もまた、一つの音を揃える。
ぐあっ!
局地的な極低温が運河水面の直上を乱舞し、水面が一瞬で凍り付く。いや、その凍結力は水面だけに止まらない。
完全凍結。
水に飛び込んだ 鬼達の身体ごと、運河の底まで氷が埋める。
「撃て」
いくら鬼でも、そのまま放っておけばほどなく窒息死するのだが、それは一条流の情けだったろうか。
いや違うだろう。単に砲撃手の経験を積ませるためにすぎまい。
「艦首全門、照準良し。撃て!」
轟音。
大量の氷塊ごと、鬼の身体が粉砕される。
「目標の完全破壊を確認」
「…うむ」
報告に、大して嬉しそうでもなく流がうなずく。
「御曹司」
「む?」
側で話しかけたのは、魔術班を統括する術仕奉行。
「本日の運河水温、二十度。ストームガスト五発で完全凍結。データ通りです」
「そうか…よろしい」
むしろここで嬉しそうな顔をする一条流。運河の水がどうやれば凍るか、そんなデータまで揃えているらしい。
(…そうか、運河の水を凍らせて砲台を固定すれば、狙いはつけやすいな…)
返す返すも用意周到、かつ物騒な若君である。
「『飛鯨』は待機。総員、炊き出しの飯を食っていいぞ」