2011.11.14 Monday
外伝『祈夏』(1)
天津・瑞波の国。
それは一条流がルーンミッドガッツ王国に旅立ってしばらく経った、ある夏の日。
「……暑い。暑いぞ、善鬼」
畳の上にでーん、と大の字になった女が、ほとほと耐えかねた様子で文句を言った。下手な男性を上回る大柄な身体に、肌が盛大に透けて見える薄手の麻着を一枚、それも緩く着ただけのなりでその格好なものだから、これでも嫁入り前の娘をして、とても他人に見せられる姿ではない。
天津・瑞波の守護大名、一条家の長女・綾だ。
「……うむ、暑いな」
その文句を背中に受けながら、文机に向って筆を走らせているのが一条家筆頭御側役・善鬼。こちらは綾とは対照的に、同じ麻の着物でも濃地のそれをきちんと着こなし、畳の上に直接正座といういつもの禁欲的な姿。
「……お前は暑そうに見えないな善鬼。 ひょっとして涼しいのか?」
気の無い返事が気に入らないのか、綾がむくっ、と半身を起こして善鬼の背中を睨む。
「暑いとも。が、季節やお天気に文句を言っても始まるまい」
「むー……」
確かに正論だが、綾が求めているのはそんなものではない。が、この善鬼という男に、それを察しろというのはなかなか難しい。いや、ひょっとしたら察しているかもしれないが、この男が女の甘えに構ってやる、という図そのものが想像できない。
「……つまらん」
綾がまたでーん、と大の字に戻る。
蝉の、それこそ何かの圧力さえ感じる猛烈な声がまた、部屋の中に満ちた。
瑞波の首都・瑞花の町はこの日、夏一番の暑さに見舞われており、一条家の居城・見剣(みつるぎ)城もその例外ではない。城の三ノ丸、上級武士達の屋敷が並ぶ一角にある善鬼の屋敷にも、その猛烈な日差しが照りつけていた。
広い畳の部屋は、襖も障子も何もかも開け放っているのだが、それでもろくに風が入らない。広い庭は打ち水をしてもすぐ乾いてしまう有様で、池の鯉さえ岩陰に入ったまま顔を出す気配もない。
「……水風呂にでも漬かろう、善鬼。このままではオレは溶けてしまう」
「好きにするがいい」
「一緒に」
「俺はいい。屋敷の者に示しがつかん」
振り向きもしない。
だが、善鬼が断るのは無理もない。一条家の国事の大半を取り仕切るこの筆頭御側役が、親子ほど歳の違う女と(それも事もあろうに主君の、かつ嫁入り前の姫君と)昼間から水風呂に興じていた、などという話がどこかに漏れでもしたら、それこそ『切腹もの』である。いや武家の常識から考えれば、まだしも武士として死ねる『切腹』などという生温い処置では済むまい。『斬首』か、最悪の場合『張り付け』でもおかしくない。
そもそも今、綾がこうして善鬼の屋敷でゴロゴロしている事そのものが、既にして十分にアウトなのだ。が、
「なあに心配いらん。この国でオレのやる事に文句を言うヤツなぞ1人もおらん。いてもオレが黙らせる」
むん、と大の字から飛び起きて、善鬼の背中に張り付くようにぺたん、と座り直す。
綾の言う事は本当だ。実際この綾という姫君は、恋人である善鬼の屋敷にほぼ毎日居続けている。彼女の正式な部屋は、城主の一族が住まう城の二ノ丸にちゃんとあるのだが、そこには全く戻っていないのだ。
善鬼の屋敷に、ほとんど居候状態である。
先に書いたように、本来なら両者ともタダでは済まない話である。が、一条家の当主、つまり殿様である一条鉄以下、誰一人それに文句を言わない。
それは綾の持つ圧倒的な武力、瑞波の守護女神とも称せられるその実力……も、あるのだが、それ以上に彼女が人々に『愛されている』からに他ならない。
一条綾姫、とにかく人気者である。
実父である一条鉄そっくりの、豪放磊落で気っ風の良い『男前』な性格。型にはまらない自由奔放な行動。敵はその名を聞いただけで震え上がるが、味方にすればこれほど頼りになる人間はいないという人望。彼女の凱旋に声援を送る一般庶民も、共に戦場に従う兵士達からも、ほとんど拝まれる勢いで慕われている。普通に『神』扱いなのだ。
だから、一条家の中で最も人望を集めるのは誰か、と言われれば、殿様である鉄はまあ別格としても、これはもう文句無しに『綾姫』である。(世継ぎである流も人望はあるが、これは綾とは別種の『カリスマ的人気』だ)。
そんな綾だからこそ、日々『男の家』に入り浸っていても、
『ああ、鬼の御側役殿もご苦労なことだ』
と、逆に善鬼の方が気の毒がられる、という妙な所に落ち着く有様である。まあこれは一方で、元々この善鬼が誰よりも謹厳で、乱れた生活とは縁遠い人間、ということを誰もが承知しているから、ということもあるだろう。
「だから水風呂。ほらほら」
正座した善鬼のぴん、と伸びた背中に、その豊かな胸をふにふにとくっつけながら、綾が誘うのだが、
「いい加減にしなさい、綾。物には限度というものがある」
正座の姿勢のまま微動だにせず、何やら書き物を続ける善鬼。
「なら涼しい所に行こう。ラヘルとやらには氷の洞窟、とかいうダンジョンがあるらしいではないか。2人で行こう」
「無理ばかり言うものではない」
これも言下に却下される。
「お世継ぎの流様が国を留守にしておられるこの時期に、俺とお前までが2人して国を空けて……それも暑いから涼みに行きました、など言える事ではない」
正論である。
「……うー、つまらん……」
相手にしてもらえず、またでーん、と大の字に戻る綾。だがわずかでも善鬼相手に戯れて、少しは気が晴れたらしい。先ほどよりは大人しく転がっている。
また蝉の声。
「……なあ、善鬼」
「何だ?」
なんだかんだ言っても、ちゃんと相手はしてやる善鬼だ。
「……無代兄ちゃん、昨夜出発したぞ」
綾が天井を見つめたまま、ふ、と口にした。
「……そうか」
「香と静とオレ、三姉妹だけで見送った」
「うむ」
「お前も来れば良かったのに。一度しかない『男の旅立ち』ってヤツだろう?」
「だからこそだ」
善鬼の返事は素っ気ない。どうでもいいがこの男、さっきから何を言われても何をされても、姿勢一つ変えていない。
「物見遊山に行くわけではない。見送りなど不要」
「……無代と同じ事を言う」
相変わらず天井を見つめたまま、綾がつぶやく。
「『物見遊山じゃないんだから、見送りなんかいらねえ』って。1人で黙って行くつもりだったらしいが、妹の香が勘づいて、それに静が気づいて、それをオレが察知した。……ひょっとして迷惑だったのか?」
「そんなことはないが」
綾の声が少し曇った所へ、善鬼が微かに優しい声を出した。この男のこういう所、いやなかなかどうして、である。
「あまり大げさに送り出して、引っ込みがつかなくなるのも気の毒だ。意地の男だからな、あれは」
「なるほど、確かにな……。流義兄様を『きっと見つけて来るから待ってろ』って出発したが……」
いつの間にか、綾が『大の字』から『胡座』になっている。どっちにしても嫁入り前の姫君のする格好ではないが。
「流義兄様はアレだろう? 『ウロボロス』に行ったんだろう?」
「……」
善鬼は答えない。瑞波の世継ぎである一条流が、ルーンミッドガッツ王国の秘密組織・外人部隊『ウロボロス4』に徴発されたという事実は、当主の鉄とその妻の巴、そして善鬼の3人しか知らない超機密事項だ。
しかし綾は、実父である鉄が当の『ウロボロス4』の士官としてルーンミッドガッツ王国にいた頃、既に物心ついて、ウロボロスの隊員達とも交流した経験を持っている。というか、そもそもこの善鬼と綾との馴れ初めこそ、当時『ウロボロス4』で鉄の副官を務めていた善鬼に、綾が一方的に片思いしたのが発端だ。
『四の魔女』マグダレーナ・フォン・ラウム率いるあの組織のシステムや機密性を、綾がよく承知しているのは自然な事なのである。
「だんまりか……まあ、言えないならいいさ。しかし善鬼? いくら無代兄貴でも、あの『九頭龍』を見つけられると思うか?」
「できるわけがない」
即座に全否定。
「だよなあ……」
ふむ、と綾が溜め息をつく。無代の目的の、その困難さを思えば当然だ。
例えば話を現代に移してみよう。ある1人の日本人男性がアメリカ滞在中に行方不明になったとする。その男は、実はアメリカでCIAでもFBIでもない、世間はもちろん政府内でも一部の人間しか知らない秘密組織に参加している、としよう。この前提で、その裏の事実を全く知らない民間人の友人がアメリカに渡り、単独で友の行方を探したとして見つかるものかどうか。
まあまず不可能だろう。
まして何の情報化もされていないこの世界。『ウロボロス4』は当のルーンミッドガッツ王国の貴族達でさえ、存在を知らない者が大半という極秘の存在だ。多少目端が利くというだけの、なんのつてもない徒手空拳の若者では、文字通りその尻尾すら掴めまい。いや逆に万一にもそこにたどり着き、尻尾を掴めないまでも『見た』としたら、それだけで『消される』可能性も高い。
それは地図も、情報も何もないダンジョンに、初めての冒険者が棒切れ一つで挑むのにも似た暴挙と言えた。
「無代兄貴はお前の弟分みたいなものだろう? 心配じゃないのか?」
「心配だとも」
ちっともそんな風には聞こえない響きで、善鬼が応える。
「だが、無代がこれで逃げ帰ったり最悪死ぬとしたら、あいつもそれまでの男だ。どの道、その先には進めまい。……無代が選んだ道は、そういう道なのだ」
「む……」
善鬼の厳しい言葉に、しかし綾はうなずくしかない。
「『その先』か。確かに、香を嫁にしようというなら、な」」
無代と香、2人の関係はもう一条家の身内では『公認の仲』と言ってよい。香は何がどうあっても無代から離れることはないだろうし、無代もそのつもりだろう。
だが、無代という男がどれほど才覚があろうが、一条家とただならぬ縁があろうが、結局は姓も持たない平民である。一方で『引きこもりの狂い姫』と揶揄される香だが、それでも一条家の姫君であることに違いはない。
この縁組みは本来、あり得るものではないのだ。
実際、天津最強とも目される武闘派大名・一条家と縁組みが出来るなら、たとえ香がどんな狂い姫だろうがウチの嫁に、という要請は国外・国内を問わず星の数ほどあった。だが当主である一条鉄はこれを全て断っている。無論それは、自分の娘達が受け継いだ『特殊な血』を守るため、という秘密の目的があるためだが、それを知らぬ者の目から見ればまさに狂気の沙汰である。天津のパワーゲームにおいて絶大な効力を持つ『一条家の姫君』というレアアイテムを、むざむざゴミ溜のネズミに喰わせてしまう、そんな風にしか映るまい。
無代という男はだから、ある意味そのパワーゲームの最先端にいる。『逆玉』と喜んでいられるような呑気な身分でないのはもちろん、いつ暗殺されてもおかしくない。いやむしろ暗殺されない方がおかしい、という大層なご身分なのだ。
善鬼が言うのはそれである。
「こればかりはもう、俺がこれ以上何を教えても無駄だし、守ってやるのも限界がある。腕っ節でも、金でも、人脈でも、権力でも何でもいい。自分で自分と、自分の家族を守れる力を手に入れる、それしか道はないのだ」
「お前みたいにな、善鬼」
むふふ、と綾が笑って、また善鬼の背中にくっつく。今度は両手を首に回して離れない。
この善鬼もまた一介の軍人から今の地位まで、そして綾を恋人にして文句を言われない立場まで、たった一代で上り詰めた男だ。そのせいで命の危険にさらされた事も一度や二度ではない。言うなれば無代の大先輩、ということになる。
余談だがこの善鬼、一条家の家来となる際に立派な姓をもらっているのだが、未だにそれを名乗っていない。思う所があるらしい。
「だが案ずるな綾。あの男、無代ならやる。俺たちが思いもよらないような運命をその手でひっつかんで、きっとここまで登って来るさ。俺はそう信じている」
まあ、多分に酷い目には遭うだろうがな、という善鬼の言葉は後に、実に見事に的中する事になるのだが、それはまだ少し気が早い。
「うむ。ならばオレもそう信じよう」
ここでこんな『男前』な会話が交わされていると、無代が知ったらどんな顔をすることか。
人に信頼があり、祈りがある。
それを裏切らないために立ち上がり、走り続ける人間がいる。
運命の糸というものがあるとしても、その糸が垂れ下がる場所まで走り、手を伸ばし、それを掴み取るのは常に人間そのものだ。
そうでなければいけない。
「分かったら離れなさい、綾。さすがに暑い」
「やだ」
「俺達が昼間からこれでは、咲鬼の教育にもよくない」
咲鬼は現在、この善鬼の屋敷で暮らしている。将来、一条家に使えるべく行儀見習い中だが、既に何かにつけて城の奥方様のお供をしたり、静と遊んだり、善鬼の屋敷の居候となった綾の面倒を見たりと、半身内の半侍女といった体で大いに可愛がられていた。
「む、咲鬼の事を言われると弱い。ずるいぞ善鬼」
「ずるくはない」
と言いつつふ、と筆を置くと、ひょいとその腕を背後に伸ばしたと思うや、気づけば綾を膝の上に抱いている。綾も大柄だが、さらに長身の善鬼が持つ『鬼の怪力』は現代で言うならそう、ちょっとした建設機械並みである。
「お? お?」
面白そうに慌てた振りをする綾の唇を、善鬼のそれが塞いだ。
しばし。
「……咲鬼の教育に悪いのではなかったのか、善鬼?」
「うむ。実は咲鬼、今は屋敷におらん」
「やっぱりずるい」
「ずるくはない」
他愛もない時間が過ぎる。
「……うん、やっぱり善鬼、お前を選んだのは正解だった。でかしたぞオレ」
どこまでも前向き、かつ自己肯定的な綾である。
「気が済んだら離れなさい」
綾を膝の上からぽい、と投げ捨てる善鬼。
「おっと」
空中でくるん、と回転してぱた、と畳の上にまた転がる綾。猫科の肉食獣の動きだ。それも超大型の。
「で、咲鬼はまた泉屋か、善鬼?」
咲鬼は、自らが瑞波へやって来て一条家の身内となったあの一件以来、無代の店である泉屋(艦砲射撃による破壊から見事再建された)によく出入りし、無代を手伝ったり邪魔したり、遊び場としている。
「うむ、そう言って出て行った。お前がまだ寝ているうちに」
「むむ」
綾姫様、基本朝寝坊。要するにかなりだらしない。
「……店に行ったら、無代がいなくて驚くかな、咲鬼」
咲鬼が懐いている無代は昨夜、瑞波を後にした。無代がいない以上、香も店にはもう寄り付くまい。用がなければ動かないのが香だ。
「さてどうかな。咲鬼は賢い娘だ。意外に薄々勘づいてるかもしれん」
「……」
綾がむくっ、と起き上がった。なんだかんだで寝たり起きたり、結構忙しい姫様だ。
「オレも行って来よう」
がばっ、と立ち上がって宣言する。
「泉屋か?」
「うむ!」
「ならば綾」
「うむ?」
「外へ行くならせめて、透けない着物に着替えて行くのだ」
それは一条流がルーンミッドガッツ王国に旅立ってしばらく経った、ある夏の日。
「……暑い。暑いぞ、善鬼」
畳の上にでーん、と大の字になった女が、ほとほと耐えかねた様子で文句を言った。下手な男性を上回る大柄な身体に、肌が盛大に透けて見える薄手の麻着を一枚、それも緩く着ただけのなりでその格好なものだから、これでも嫁入り前の娘をして、とても他人に見せられる姿ではない。
天津・瑞波の守護大名、一条家の長女・綾だ。
「……うむ、暑いな」
その文句を背中に受けながら、文机に向って筆を走らせているのが一条家筆頭御側役・善鬼。こちらは綾とは対照的に、同じ麻の着物でも濃地のそれをきちんと着こなし、畳の上に直接正座といういつもの禁欲的な姿。
「……お前は暑そうに見えないな善鬼。 ひょっとして涼しいのか?」
気の無い返事が気に入らないのか、綾がむくっ、と半身を起こして善鬼の背中を睨む。
「暑いとも。が、季節やお天気に文句を言っても始まるまい」
「むー……」
確かに正論だが、綾が求めているのはそんなものではない。が、この善鬼という男に、それを察しろというのはなかなか難しい。いや、ひょっとしたら察しているかもしれないが、この男が女の甘えに構ってやる、という図そのものが想像できない。
「……つまらん」
綾がまたでーん、と大の字に戻る。
蝉の、それこそ何かの圧力さえ感じる猛烈な声がまた、部屋の中に満ちた。
瑞波の首都・瑞花の町はこの日、夏一番の暑さに見舞われており、一条家の居城・見剣(みつるぎ)城もその例外ではない。城の三ノ丸、上級武士達の屋敷が並ぶ一角にある善鬼の屋敷にも、その猛烈な日差しが照りつけていた。
広い畳の部屋は、襖も障子も何もかも開け放っているのだが、それでもろくに風が入らない。広い庭は打ち水をしてもすぐ乾いてしまう有様で、池の鯉さえ岩陰に入ったまま顔を出す気配もない。
「……水風呂にでも漬かろう、善鬼。このままではオレは溶けてしまう」
「好きにするがいい」
「一緒に」
「俺はいい。屋敷の者に示しがつかん」
振り向きもしない。
だが、善鬼が断るのは無理もない。一条家の国事の大半を取り仕切るこの筆頭御側役が、親子ほど歳の違う女と(それも事もあろうに主君の、かつ嫁入り前の姫君と)昼間から水風呂に興じていた、などという話がどこかに漏れでもしたら、それこそ『切腹もの』である。いや武家の常識から考えれば、まだしも武士として死ねる『切腹』などという生温い処置では済むまい。『斬首』か、最悪の場合『張り付け』でもおかしくない。
そもそも今、綾がこうして善鬼の屋敷でゴロゴロしている事そのものが、既にして十分にアウトなのだ。が、
「なあに心配いらん。この国でオレのやる事に文句を言うヤツなぞ1人もおらん。いてもオレが黙らせる」
むん、と大の字から飛び起きて、善鬼の背中に張り付くようにぺたん、と座り直す。
綾の言う事は本当だ。実際この綾という姫君は、恋人である善鬼の屋敷にほぼ毎日居続けている。彼女の正式な部屋は、城主の一族が住まう城の二ノ丸にちゃんとあるのだが、そこには全く戻っていないのだ。
善鬼の屋敷に、ほとんど居候状態である。
先に書いたように、本来なら両者ともタダでは済まない話である。が、一条家の当主、つまり殿様である一条鉄以下、誰一人それに文句を言わない。
それは綾の持つ圧倒的な武力、瑞波の守護女神とも称せられるその実力……も、あるのだが、それ以上に彼女が人々に『愛されている』からに他ならない。
一条綾姫、とにかく人気者である。
実父である一条鉄そっくりの、豪放磊落で気っ風の良い『男前』な性格。型にはまらない自由奔放な行動。敵はその名を聞いただけで震え上がるが、味方にすればこれほど頼りになる人間はいないという人望。彼女の凱旋に声援を送る一般庶民も、共に戦場に従う兵士達からも、ほとんど拝まれる勢いで慕われている。普通に『神』扱いなのだ。
だから、一条家の中で最も人望を集めるのは誰か、と言われれば、殿様である鉄はまあ別格としても、これはもう文句無しに『綾姫』である。(世継ぎである流も人望はあるが、これは綾とは別種の『カリスマ的人気』だ)。
そんな綾だからこそ、日々『男の家』に入り浸っていても、
『ああ、鬼の御側役殿もご苦労なことだ』
と、逆に善鬼の方が気の毒がられる、という妙な所に落ち着く有様である。まあこれは一方で、元々この善鬼が誰よりも謹厳で、乱れた生活とは縁遠い人間、ということを誰もが承知しているから、ということもあるだろう。
「だから水風呂。ほらほら」
正座した善鬼のぴん、と伸びた背中に、その豊かな胸をふにふにとくっつけながら、綾が誘うのだが、
「いい加減にしなさい、綾。物には限度というものがある」
正座の姿勢のまま微動だにせず、何やら書き物を続ける善鬼。
「なら涼しい所に行こう。ラヘルとやらには氷の洞窟、とかいうダンジョンがあるらしいではないか。2人で行こう」
「無理ばかり言うものではない」
これも言下に却下される。
「お世継ぎの流様が国を留守にしておられるこの時期に、俺とお前までが2人して国を空けて……それも暑いから涼みに行きました、など言える事ではない」
正論である。
「……うー、つまらん……」
相手にしてもらえず、またでーん、と大の字に戻る綾。だがわずかでも善鬼相手に戯れて、少しは気が晴れたらしい。先ほどよりは大人しく転がっている。
また蝉の声。
「……なあ、善鬼」
「何だ?」
なんだかんだ言っても、ちゃんと相手はしてやる善鬼だ。
「……無代兄ちゃん、昨夜出発したぞ」
綾が天井を見つめたまま、ふ、と口にした。
「……そうか」
「香と静とオレ、三姉妹だけで見送った」
「うむ」
「お前も来れば良かったのに。一度しかない『男の旅立ち』ってヤツだろう?」
「だからこそだ」
善鬼の返事は素っ気ない。どうでもいいがこの男、さっきから何を言われても何をされても、姿勢一つ変えていない。
「物見遊山に行くわけではない。見送りなど不要」
「……無代と同じ事を言う」
相変わらず天井を見つめたまま、綾がつぶやく。
「『物見遊山じゃないんだから、見送りなんかいらねえ』って。1人で黙って行くつもりだったらしいが、妹の香が勘づいて、それに静が気づいて、それをオレが察知した。……ひょっとして迷惑だったのか?」
「そんなことはないが」
綾の声が少し曇った所へ、善鬼が微かに優しい声を出した。この男のこういう所、いやなかなかどうして、である。
「あまり大げさに送り出して、引っ込みがつかなくなるのも気の毒だ。意地の男だからな、あれは」
「なるほど、確かにな……。流義兄様を『きっと見つけて来るから待ってろ』って出発したが……」
いつの間にか、綾が『大の字』から『胡座』になっている。どっちにしても嫁入り前の姫君のする格好ではないが。
「流義兄様はアレだろう? 『ウロボロス』に行ったんだろう?」
「……」
善鬼は答えない。瑞波の世継ぎである一条流が、ルーンミッドガッツ王国の秘密組織・外人部隊『ウロボロス4』に徴発されたという事実は、当主の鉄とその妻の巴、そして善鬼の3人しか知らない超機密事項だ。
しかし綾は、実父である鉄が当の『ウロボロス4』の士官としてルーンミッドガッツ王国にいた頃、既に物心ついて、ウロボロスの隊員達とも交流した経験を持っている。というか、そもそもこの善鬼と綾との馴れ初めこそ、当時『ウロボロス4』で鉄の副官を務めていた善鬼に、綾が一方的に片思いしたのが発端だ。
『四の魔女』マグダレーナ・フォン・ラウム率いるあの組織のシステムや機密性を、綾がよく承知しているのは自然な事なのである。
「だんまりか……まあ、言えないならいいさ。しかし善鬼? いくら無代兄貴でも、あの『九頭龍』を見つけられると思うか?」
「できるわけがない」
即座に全否定。
「だよなあ……」
ふむ、と綾が溜め息をつく。無代の目的の、その困難さを思えば当然だ。
例えば話を現代に移してみよう。ある1人の日本人男性がアメリカ滞在中に行方不明になったとする。その男は、実はアメリカでCIAでもFBIでもない、世間はもちろん政府内でも一部の人間しか知らない秘密組織に参加している、としよう。この前提で、その裏の事実を全く知らない民間人の友人がアメリカに渡り、単独で友の行方を探したとして見つかるものかどうか。
まあまず不可能だろう。
まして何の情報化もされていないこの世界。『ウロボロス4』は当のルーンミッドガッツ王国の貴族達でさえ、存在を知らない者が大半という極秘の存在だ。多少目端が利くというだけの、なんのつてもない徒手空拳の若者では、文字通りその尻尾すら掴めまい。いや逆に万一にもそこにたどり着き、尻尾を掴めないまでも『見た』としたら、それだけで『消される』可能性も高い。
それは地図も、情報も何もないダンジョンに、初めての冒険者が棒切れ一つで挑むのにも似た暴挙と言えた。
「無代兄貴はお前の弟分みたいなものだろう? 心配じゃないのか?」
「心配だとも」
ちっともそんな風には聞こえない響きで、善鬼が応える。
「だが、無代がこれで逃げ帰ったり最悪死ぬとしたら、あいつもそれまでの男だ。どの道、その先には進めまい。……無代が選んだ道は、そういう道なのだ」
「む……」
善鬼の厳しい言葉に、しかし綾はうなずくしかない。
「『その先』か。確かに、香を嫁にしようというなら、な」」
無代と香、2人の関係はもう一条家の身内では『公認の仲』と言ってよい。香は何がどうあっても無代から離れることはないだろうし、無代もそのつもりだろう。
だが、無代という男がどれほど才覚があろうが、一条家とただならぬ縁があろうが、結局は姓も持たない平民である。一方で『引きこもりの狂い姫』と揶揄される香だが、それでも一条家の姫君であることに違いはない。
この縁組みは本来、あり得るものではないのだ。
実際、天津最強とも目される武闘派大名・一条家と縁組みが出来るなら、たとえ香がどんな狂い姫だろうがウチの嫁に、という要請は国外・国内を問わず星の数ほどあった。だが当主である一条鉄はこれを全て断っている。無論それは、自分の娘達が受け継いだ『特殊な血』を守るため、という秘密の目的があるためだが、それを知らぬ者の目から見ればまさに狂気の沙汰である。天津のパワーゲームにおいて絶大な効力を持つ『一条家の姫君』というレアアイテムを、むざむざゴミ溜のネズミに喰わせてしまう、そんな風にしか映るまい。
無代という男はだから、ある意味そのパワーゲームの最先端にいる。『逆玉』と喜んでいられるような呑気な身分でないのはもちろん、いつ暗殺されてもおかしくない。いやむしろ暗殺されない方がおかしい、という大層なご身分なのだ。
善鬼が言うのはそれである。
「こればかりはもう、俺がこれ以上何を教えても無駄だし、守ってやるのも限界がある。腕っ節でも、金でも、人脈でも、権力でも何でもいい。自分で自分と、自分の家族を守れる力を手に入れる、それしか道はないのだ」
「お前みたいにな、善鬼」
むふふ、と綾が笑って、また善鬼の背中にくっつく。今度は両手を首に回して離れない。
この善鬼もまた一介の軍人から今の地位まで、そして綾を恋人にして文句を言われない立場まで、たった一代で上り詰めた男だ。そのせいで命の危険にさらされた事も一度や二度ではない。言うなれば無代の大先輩、ということになる。
余談だがこの善鬼、一条家の家来となる際に立派な姓をもらっているのだが、未だにそれを名乗っていない。思う所があるらしい。
「だが案ずるな綾。あの男、無代ならやる。俺たちが思いもよらないような運命をその手でひっつかんで、きっとここまで登って来るさ。俺はそう信じている」
まあ、多分に酷い目には遭うだろうがな、という善鬼の言葉は後に、実に見事に的中する事になるのだが、それはまだ少し気が早い。
「うむ。ならばオレもそう信じよう」
ここでこんな『男前』な会話が交わされていると、無代が知ったらどんな顔をすることか。
人に信頼があり、祈りがある。
それを裏切らないために立ち上がり、走り続ける人間がいる。
運命の糸というものがあるとしても、その糸が垂れ下がる場所まで走り、手を伸ばし、それを掴み取るのは常に人間そのものだ。
そうでなければいけない。
「分かったら離れなさい、綾。さすがに暑い」
「やだ」
「俺達が昼間からこれでは、咲鬼の教育にもよくない」
咲鬼は現在、この善鬼の屋敷で暮らしている。将来、一条家に使えるべく行儀見習い中だが、既に何かにつけて城の奥方様のお供をしたり、静と遊んだり、善鬼の屋敷の居候となった綾の面倒を見たりと、半身内の半侍女といった体で大いに可愛がられていた。
「む、咲鬼の事を言われると弱い。ずるいぞ善鬼」
「ずるくはない」
と言いつつふ、と筆を置くと、ひょいとその腕を背後に伸ばしたと思うや、気づけば綾を膝の上に抱いている。綾も大柄だが、さらに長身の善鬼が持つ『鬼の怪力』は現代で言うならそう、ちょっとした建設機械並みである。
「お? お?」
面白そうに慌てた振りをする綾の唇を、善鬼のそれが塞いだ。
しばし。
「……咲鬼の教育に悪いのではなかったのか、善鬼?」
「うむ。実は咲鬼、今は屋敷におらん」
「やっぱりずるい」
「ずるくはない」
他愛もない時間が過ぎる。
「……うん、やっぱり善鬼、お前を選んだのは正解だった。でかしたぞオレ」
どこまでも前向き、かつ自己肯定的な綾である。
「気が済んだら離れなさい」
綾を膝の上からぽい、と投げ捨てる善鬼。
「おっと」
空中でくるん、と回転してぱた、と畳の上にまた転がる綾。猫科の肉食獣の動きだ。それも超大型の。
「で、咲鬼はまた泉屋か、善鬼?」
咲鬼は、自らが瑞波へやって来て一条家の身内となったあの一件以来、無代の店である泉屋(艦砲射撃による破壊から見事再建された)によく出入りし、無代を手伝ったり邪魔したり、遊び場としている。
「うむ、そう言って出て行った。お前がまだ寝ているうちに」
「むむ」
綾姫様、基本朝寝坊。要するにかなりだらしない。
「……店に行ったら、無代がいなくて驚くかな、咲鬼」
咲鬼が懐いている無代は昨夜、瑞波を後にした。無代がいない以上、香も店にはもう寄り付くまい。用がなければ動かないのが香だ。
「さてどうかな。咲鬼は賢い娘だ。意外に薄々勘づいてるかもしれん」
「……」
綾がむくっ、と起き上がった。なんだかんだで寝たり起きたり、結構忙しい姫様だ。
「オレも行って来よう」
がばっ、と立ち上がって宣言する。
「泉屋か?」
「うむ!」
「ならば綾」
「うむ?」
「外へ行くならせめて、透けない着物に着替えて行くのだ」