2009.11.16 Monday
第六話「Flash Memory」(2)
永久飛空船「安全第一(Safety First)号」、通称「ヤスイチ号」の医務室。
夜の帳が降りたばかりの時刻。
シールドが開けっぱなしの窓の、分厚い装甲ガラスの向こうから、煌々とした月の光が差し込んでいる。
灯りを落とした部屋の中で、その光だけが唯一の光源である。
香はベッドに半身を起こし、背もたれに用意してもらった大きなクッションに軽く体重を預けている。
隣のベッドではハナコが、まだ毛布に包まって爆睡中。
ベッド脇のテーブルには、クローバーとヴィフが椅子を並べて座っていた。
『何もかも、お話ししましょう』
自らが『ウロボロス6』だと告白したクローバーが香にそう申し出て、ヴィフにも聞いてほしい、と、この席が設けられた。
3人だけの(ハナコはずっと眠っている)静かな食事が終わり、話はとうとう『ウロボロス』に及んでいる。
「…あの『ウロボロス』という組織の発祥は、聖戦直後にまで遡るそうです」
クローバーが気の遠くなるような話を始めた。
「聖戦を辛うじて生き抜いた人間達が、次に考えたのが『次回の聖戦の必勝』でした」
感心すると言うか呆れたと言うか。
あの凄まじい戦いの直後から、人々は『次の戦い』を見据えていたのだという。
「新しい魔法、新しい武器の開発はもちろん、聖戦時代の遺物の維持収集や、新たな『神』や『魔』との契約まで。その活動は様々だったといいます」
「…」
香とヴィフは黙って聞き役に徹している。
「それらの活動がいつか、一つの組織にまとめられました。それが『ウロボロス』」
ウロボロスは当初から複数のグループに別れており、しかも必ずしもお互いに友好的ではなかった。衝突や合併吸収を繰り返しながら、いまの「9つ」に収まったのは130年ほど前のことらしい。
「それぞれの組織には9人の『頭』がおります。私がかつて『6の頭』だったように。ですが『頭』はあくまで現場の指揮官であって、組織の支配者ではありません」
実際に組織を掌握しているのは、その『後ろ』にいる者達。
具体的には、王国の大貴族や大寺院、結成が聖戦時まで遡るような古参ギルドや大企業。そういう『聖戦と王国の歴史そのもの』であるような者達が、それぞれの組織のバックにいる。
「しかも、一つの組織に一つのバック、というような単純なものではありません。複数のウロボロスに影響を持つ大物もいるし、逆に一つのウロボロスを200近いバックが支えているようなケースもある。正直、その相関図を完全に描ける者はこの世にいないでしょう」
香の頭の中に、薄暗い壷の中で蠢く無数の蛇のイメージが映り込む。『次の聖戦に勝つ』という目的は確かに悪くないはずなのに、どうしてもいい気分にはなれない。
「私のいた『ウロボロス6』を例に取りましょう。『6』のバックには教会と、2人の大貴族がおりました。2人とも身内から司教を出している、教区の大物です。…で、その組織の目的は…聖戦時の遺物、つまり『戦前種(オリジナル)』の捜索と収集でした」
聖戦。
その戦いに投入された武器、魔法、そして人間。それらは現代のそれとは比べ物にならない『性能』を誇り、しかも模倣や再現が極めて難しい。
故に『オリジナル』。
翠嶺のように聖戦後、セージキャッスルの創立に参加し、その後も放浪を続けながら永世名誉教授の地位を保ち続けるような『例外』を除き、戦前種の多くは聖戦の後忘れられたり、故意に隠されたり、また自分の意志で姿を消した。
それらの事物を捜索し、収集・保存する。
『ウロボロス6』・クローバーに与えられた任務はそれであった。
教会の聖堂騎士として、武力も指揮能力も、そして信仰心も抜きん出ていた彼が『ウロボロス6』にスカウトされたのは、20代後半の時だったという。
再び起きるであろう聖戦に勝利するために、太古の強力な武器や人を集める。
『崇高な仕事だぞ?』
クローバーをスカウトした人間(それすら『代理人』であった)は、そう言ってクローバーの肩を叩いた。
だが、その『崇高』な目的以上にクローバーを引きつけたことがある。
『この仕事に邁進すれば、君の息子にもきっと、神の恩寵があるだろう』
その男はそう言って微笑んだ。
「…私には息子がいまして…。ですが難病で…私には祈るしかできなかった…」
妻は既に亡く、聖堂騎士としての勤めの傍ら、老いた母の手を借りつつ息子の看病と介護に明け暮れていた日々。
それに光が差したのだ。
クローバーが『代理人』の手を取った次の日に、彼の一家は中央教会の一画にある特別の宿舎に移され、息子には完全な看護と治療環境が供された。老いたクローバーの母も孫の介護と家事から解放され、その2年後にこの世を去るまで暖かく、心静かな日々を送ることができた。
「…その日々と引き換えなら正直、私はどんなことでもしたでしょう…」
彼に与えられた『崇高な仕事』は、だが決して奇麗事ではなかった。
忘れられた遺物の発掘はまだいい。
だが故意に隠されたもの、自分の意志で隠れたものを『収集』する作業は、ほぼ毎回『力ずく』の事態になった。
「辺境の部族や、小さな国が『ご神体』や『守り神』として隠し持っているケースが多かったのです。それらの『収集』は事実上、『略奪』でした…」
自ら軍を率いて交渉し、決裂すれば攻撃して奪い取る。
いや、最初から交渉など形式に過ぎない。最初から奪い取ったのでは体裁が悪いから、形の上だけ交渉したふりをするだけだ。
「…その頃は、強力な『戦前種』がこんな風に野放しにされていたのでは、世界にとって不安要素になる、一カ所で厳重に管理した方がいいのだ、そう信じておりました。…ごまかしはいたしません。本気でそう信じていた。そして…」
クローバーが言葉を切った。
「…そしてこの手が…私の手が血にまみれればまみれるほど…息子が神の恩寵に近づくと…本気で信じておりました…」
クローバーの目に降りた涙の幕が、月の光を複雑に反射する。
ヴィフがそっとハンカチを差し出すが、クローバーは手でそれを断ると、ぐい、拳で涙を拭う。
「…お前のハンカチなんざ、オレにゃもったいねえ…」
おどけた苦笑いも、さすがに力がない。
ヴィフは黙ってうつむくと、ハンカチをぎゅっと握りしめる。
「…そんな時です。このヤスイチ…『飛行戦艦アグネア』が見つかったのは」
クローバーがぎゅっ、と唇を引き締める。
その『船』はジュピロス廃墟の近く、地中にほぼ埋まる形で発見された。
だが『発見』という言葉には語弊があるだろう。
その船体は既に遠い昔から、ある少数民族が神体として祭っていたからだ。ただ外の世界には知られていなかっただけにすぎない。
この少数民族こそ香の母、桜の出身部族である『御恵(みめぐみ)』。
「彼らは廃墟の近くでひっそりと暮らしていましたが、長年、世間からは全く無視されていました」
その一族の秘密がひょんなことから『ウロボロス6』の元に届いた。
それは、辺境の異教徒である彼らを改宗させようと集落を訪れた、教会の牧師からの情報。
『異教の神を崇める一族が、『戦前種』の構造物を隠し持っている』
そこまで聞けば、後はクローバーの仕事だ。
いつものように直属の軍を率いて現場に向い、抵抗すればこれを攻撃する。
だが、その時ばかりは『いつものようには』いかなかった。
『霊威伝承種(セイクレッド・レジェンド)』。
後にそう呼ばれた一族の、ソウルリンカーさえ遥かに越える凄まじい霊能力の前に、『ウロボロス6』はかつてない苦戦を強いられる。
身体能力や魔力、スキルを強化し、1人が数人分もの働きをする『御恵』に、さしものクローバーも何度も命の危機にさらされたという。
最後は教会の異端狩り機関『弔銃部隊』までが投入され、やっとのことでこの厄介な敵を破ることに成功した。
が、その時、既に『ウロボロス6』の兵力は半分近くにまで減っていた。
といっても、教会が真に恐怖したのは御恵の戦力ではない。
『霊威伝承種』・御恵の一族は戦いの中で、別の動きも見せていた。
『ある強力な魔物の召還』。
普通なら眉唾で終わりそうな話だが、『霊威伝承種』が相手となると俄然真実味を帯びる。
『生まれつき体内に魔法陣を持ち、それを発動させる事で無双の魔物を召還できる』。
それが御恵の一族の持つ力と分かった時、教会が取った策は一つ。
『悪魔の一族・御恵を根絶やしにせよ』
それだった。
実行役はもちろん、クローバーだ。
逆恨みとはいえ、部下を失った恨みはあった。また、それ以上に『魔の召還』を行おうとする異端のテロを許さない、という自己肯定もある。
「…正義は我に、相変わらず本気でそう思っておりました。そして、それはほぼ成功した…」
『ウロボロス6』と教会の全組織を動員した殲滅作戦。さらには御恵の生き残りに対する激しい拷問。
それにより、御恵の一族は根絶やしにされた。
「…ただ一人、貴女のお母上様を除いて、です。香姫様…」
「…」
香は沈黙したまま。
「今にして思えば…『ウロボロス4』…『四の魔女』がお母上様を保護していたのですね。マグダレーナ・フォン・ラウム…あの『完全再現種(パーフェクト・リプロダクション)』が…」
クローバーが遠い目をする。
「…実は…疑ってはおりました」
ぽつり、と言葉が落ちる。
「拷問でも誰も口を割りませんでしたが…族長の孫娘の数がどうも一人足りないようだ…と。そして同時に、ウロボロス4に前代未聞の力を持つソウルリンカー がいる、という噂があった。しかし結局確証のないまま、捜索は打ち切られました。どうやら、雲の上の方で話しがついたらしかった…『ウロボロス8』が乗り 出してきたという話もありましたし」
それぞれのバックにいる者達が接触し、何らかの取り引きが行われ、現場に流れた血の量とは無関係に幕が引かれる。
クローバーにとっては不本意だったが、次の仕事が待っている以上、そうも言っていられなかった。
次の仕事。
『空中戦艦アグネア』の発掘だ。
集落の奥まった林の中、船尾の一部だけを地上に覗かせたアグネアの入り口を掘り出し、恐る恐る船内に入った日の事を、クローバーはよく憶えている。
「…手を触れるだけでドアが開きましてね。光に案内されて艦橋へ入ったんですが…一目見ただけで分かりました。『コレはヤバい』ってね…」
大きな手で顔をごしごしとこする。
「明らかに、この世界のモノじゃありません。どこか別の、全く違う文明によって作られ、何かの原因でこの世界へ招かれたもの、と直感しました」
部下達に船内への立ち入りを禁止したクローバーは一人、艦橋にあった『説明書』を読んだ。幸い、聖堂騎士としての教養でそれぐらいの古文書は読める。
「…鳥肌が立ちました…想像を絶する戦闘能力が手に入った。御恵のことなんかどっかにすっ飛んでました。…『これで仕事が楽になる。もっと殺せる』ってね」
泣きそうな声。
「…馬鹿でしょう…? もうね、その時にはそれしかなかった。これで楽に、たくさん殺せる。部下を失わなくても…いや部下なんかいなくても、こいつがあれば好きなだけ勝って、楽に仕事ができる…そんな風にしか考えられなくなってた…」
興奮して興奮して、やっと寝付いた次の朝。
知らせが届いた。
「息子が死んだ」、と。
「…真っ暗になりました。今までの事も何もかも、底なしのでっかい穴に吸い込まれたみたいに…」
クローバーが、思い出すのも辛い記憶を無理矢理、心の中から掴み出す。
「…そして…やっと気づいたんです。『他人を不幸にして幸せになれるわけがない』。馬鹿だ。…馬鹿です…。そんな当たり前の事に気づかずに…いや…」
噛み締めた唇から血がにじむ。
「いや…違います…。本当は気づいていたのに…気づかない振りをしてただけなんです。馬鹿ですらない…卑怯者だ…」
クローバーの声が,慟哭の色を帯びる。
「…船長」
ヴィフがいたたまれなくなったようにクローバーに声をかける。が、若く経験も浅い彼に、このボロボロに傷ついた古戦士に掛けられる言葉などない。
「…船長…」
子供のようにそう繰り返すだけ。
だがそれでも、クローバーをわずかに救うことはできたようだ。
「…すまんヴィフ。みっともない話聞かせた上に、みっともないトコ見せちまって」
「いえ…」
むしろヴィフの方が、泣きそうな顔でうつむく。
息子の死の知らせを受けたその夜に、クローバーは一人で『アグネア』を動かし、脱走した。
「この船をこのままウロボロスに渡したら、それこそどれだけ人が死ぬかわからない…自分が散々殺しておいて、もう今さらですが…」
きっ、と暗い天井を睨みつける。
「…一人殺すも二人殺すも同じ、って思ってましたが…違うんです。一人殺せば一人分、二人殺せば二人分、『業』を背負うんです。…もう…もう沢山だったんです。こんなことは…」
もう沢山だ、その言葉にクローバーは、限りない情感を込めた。
「…」
香は相変わらず、静かにその言葉を聞いている。
が、もし香を良く知る、例えば家族や無代がその様子を見たら、きっと驚くに違いない。
彼女が他人の話を真正面から、かつ真剣に聞くのはひょっとしたら、生まれて始めてかもしれなかった。
だが、その変わりつつある香を理解できる者は、そこにはいない。
「…ヤスイチ…『アグネア』を、どこか二度と見つからない海にでも沈めよう、とも思ったんですが、そうしなかった。…気になる事があったんです」
クローバーの話は終わっていない。
艦橋にあった説明書。
それには船の操縦法の他に、3つのことが書かれていた。
一つ。
この船が、この世界とは別の世界で建造されたこと。建造の目的が、その世界を滅ぼしたある『魔物』に対抗するためであり、その魔物を『追いかけて』この世界に来た事。
二つ。
この船を建造した者達の子孫こそが『御恵』であり、その『魔物』は彼らの血によって封印されていること。
三つ。
この船、アグネアには同等の力を持つ姉妹艦、『セロ』が存在する事。
どれも看過できない情報だ。
その『魔物』とやらが今どうなっているのか。御恵の一族が滅びた今、もしその魔物が生きていたらどうなるのか。
「そしてもし『セロ』がどこかに残っていて、それが誰かに発見されたら…『セロ』に対抗できるのは『アグネア』だけです。だから、この船を失うことはできない、と思った」
クローバーの瞳に、強い輝きが戻って来る。その輝きは決して明るいものではなかったが、しかし揺るぎない力を感じさせる。
「…今、こうして空を飛んでるヤスイチは、実は本当の姿にはほど遠い…真の力はこんなもんじゃない」
クローバーの言葉に力がこもる。
「ヴィフ、こっからの話が肝心だ。良く聞いてくれ」
声をかけられた若者が瞳を上げるが、その瞳の輝きは鈍い。
迷いと不安。
今まで信じて従ってきたものが、本当に正しいものだったのか。
それを見失いつつある瞳。
クローバーはそんなヴィフに一抹の不安を憶えつつも、意を決したように言葉をつなぐ。
「ヤスイチの性能は、実は今の数十倍、数百倍…ひょっとしたらそれ以上なんだ。こんなプロペラ動力は予備もいいところだ。本来の力は封印されている。…オレはそれを解く気はないし、そんな力があることもオレの心の中にだけしまってきた」
「…え…?」
「説明書は燃やしちまった。レジスタンスの幹部連中でさえ、知らん。ヴィフ、今お前に話すのが初めてだ」
「…」
「『エネルギーウイング』。ヤスイチの本当の翼であり、武器の名前だ。それは12枚の光の翼で構成されていて…」
「ま、待って下さい船長! どうして…どうして僕に…?」
「黙って聞け!」
ヴィフが暗闇にも真っ青な顔でクローバーに食って掛かる。が、クローバーはヴィフを一喝。
「…12枚の光翼…『ルシファー』が揃えば、ヤスイチは無敵だ。そこらの魔王が束になってもかすり傷も負わず、逆に一瞬で形も残さず蒸発させられる。音より速く飛ぶヤスイチには誰も追いつけないし、3大ステルス機能を備えてるから発見も不可能。…ルーンミッドガッツ王国といえども、半日とかからず焼け野原にで きる」
「…」
「…王国をこの世から消滅させる。レジスタンスの…お前の願いもまた、簡単に叶うだろう。…だがそれは…それだけはしないでほしい」
クローバーがヴィフに頭を下げた。
ヴィフは凍り付いたままだ。
「…この船を…ヤスイチそんなことに使わないでほしい。お前にしか頼めない。ヴィフ…頼む」
「…どうして…」
「…俺は償いをしなきゃならん。…こちらの姫様に…御一族を皆殺しにした罪のな…。俺の命なんかじゃ、到底償い切れるものじゃないが…」
ヴィフがはっ、と香を見る。
月明かりの差し込む闇の中に、香の闇色の瞳が静かに浮いていた。
「…『鬼道』の目をお持ちの姫様にはさぞや…あっしを恨んでる連中の姿がお見えになるはず…」
クローバーも香の瞳を見つめる。
その瞳の色はあまりにも深く、ヴィフにもクローバーにも、その瞳から何の感情も、何の意味も読み取れない。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
それとも無関心なのか。
男達には到底汲み取れない香の心中はしかし、クローバーの話とは少し違うものでかき乱されていた。
そう、香には『見える』。
母から、そして今や香の知る所となった『御恵』の一族から受け継いだ、『霊威伝承種』の力。
見えないものを見、触れえぬものに触れることができる、その力。
クローバーの後ろに、香にはずっと見えている。
それは、ずらりと並んだ死者の群れだ。
一様にたくましく、鋭い目をした男達は、一目で恐るべき手練の者達とわかる。
そしてその容貌。
(…似ている…)
特に、集団の中心にいる老人と、壮年の男。
鋭い中にも、表情次第で優しさと愛嬌をたたえる容貌は、『一条の三姉妹の中で最も母に似ている』と言われた妹の静に、とてもよく似ていた。
(…これが、私の…)
失われたルーツ。
『霊威伝承種(セイクレッド・レジェンド)』と怖れられた、史上最強の霊能力集団。
そしてクローバーによって滅ぼされた幻の一族。
『御恵』
クローバーの言う通り、彼が殺した者達はそこにいる。
そして彼らの霊力が死してもなお衰えていないことも、香にはひしひしと感じられた。
まさに最悪の怨霊、それも集団だ。コレに狙われて命長らえるものは、恐らくこの世にいないだろう。
だが不思議なことが起きていた。
クローバーは生きている。
少なくとも20年以上の時を、御恵の手にかかることなく生きている。怨霊達の手は、彼に及んでいないのだ。
なぜなのか。
香には『見える』。
もう一つの、魂の姿が見えている。
クローバーの背中。
その背中を守るように寄り添った、一つの小さな背中。
浮き出た背骨と肩甲骨。尖った肩。
小さな背丈。細い骨と弱々しい肉。
香の目にも痛々しく映る、少年にしても小さく細い身体。
彼はその頼りない身体のまま、たった一人、クローバーの背中に立っている。
最強の怨霊集団に相対するように、その細い身体を立たせている。
『クローバーを守っている』と言いたいところだが、その表現はしかし、どう見てもふさわしくない。
少年の存在が、あまりにも儚すぎるからだ。
この世で最強の霊能力集団である御恵の一族に対して、少年の魂には明らかに何の力もない。
大げさではなく、怨霊の誰か一人が指一本動かすだけで、このか弱い少年の魂など瞬時に霧散してしまうだろう。
それは襲い来る津波の前に置かれた、たった一個の小さなテトラポッドにも似ている。
だが。
襲い来るはずの津波はしかし、動かない。
彼らが動く気になれば、そんな防波ポッドなど何の障害にもならないのに、しかし動かない。
間違いなく、この何の力もない痩せた少年が、クローバーを守っているのだ。
怨霊達が動かない理由、香にはそれが理解できた。
彼らがその強力な力を駆使し、目の前の小さな魂を消し飛ばしてクローバーを襲ったなら。
自らの目的を遂げるために、目の前の障害を力で排除して押し通ったならば。
それはかつてクローバーが、彼らにしたことと同じになる。
『誇り』。
彼らを動かさずにいるのは、それなのだ。
怒りはある。恨みもある。それが消える事もありえない。
しかしそれ以上に、彼らの誇りが自らの『蛮行』を許さないのだ。
宿敵がやったことと同じ行為など、例え死して魂だけになろうとも、決してしない。
そして少年もまた、謝罪するでもなく戦うでもなく、ただ静かにそこに立ち、怨霊達を見つめている。
『決して相容れる事はない』と知っていて、また自分の無力さを知っていて。
それでもたった1人で立ち続ける少年の顔立ちは、言うまでもなくクローバーにとてもよく似ている。
条件も、理屈もない。
この世でただ1人、この少年だけがクローバーの『味方』なのだ。
怨霊と少年、相対する両者に、妥協できる点など一切ない。
惨殺、拷問、略奪。怨霊達の受けた筆舌に尽くし難い行為は、どんな言葉や年月の経過を持ってしても消えることがなく、また色あせることもない。いかなる謝罪も、いかなる弁明も、役には立たない。
だが同時に、少年のクローバーへの想いもまた、消える事も色あせる事もないのだ。
その手を血で染めながら自分を守ってくれた『父』への想いにはやはり、いかなる非難も、いかなる糾弾も役に立たない。
お互いの言い分、お互いの想い。
それをを、すり切れるほどぶつけ合って。
知って。
理解して。
それでも一切の妥協のない両者には、ついにこの『静止』にたどりつく。
少年がそこを退くまで、怨霊達は決して動くまい。
怨霊達がそこを退くまで、少年は決して眠るまい。
(…なんという…)
この奇妙で静かな対峙を前に、香の全身を何か強い感情が貫いた。
(全器官…全器官、変調を修正…)
いつものように思考を分割して対応しようとするが、無駄に終わる。
死してなお熱く、静かに息づくその魂、その想いを、今の香はもう無視できない。
誇り高く、意志強き男達と少年の姿が、香の心に深く突き刺さっていた。
熱を持った、消えない傷と共に。
クローバーが、香に裁かれることを望んでいることは、痛いほど分かる。
だが、出来るはずがなかった。
今初めて、この事実を知っただけの自分が、この対峙の前に出る幕などあるはずがなかった。
自分は確かに当事者。だが、この光景の前では限りなく、部外者に近いのだ。
香は一つ、深いため息をつくと、
「…クローバー船長」
長い沈黙を破ったその声は、自分でも驚くほどに優しい声だった。
自分がそんな声を出したのは、恋人の無代相手にさえなかったのではないか。
「はい、姫様」
クローバーは一度、しっかりと目を閉じ、再び開く。
その表情。ぞっとするほど色のない、静かな表情。
それは戦士として、父として、既に死んでいる人間の顔だ。
「いかなるお裁きも、喜んでお受けいたします。どうぞお心のままに…」
「それはできません」
香のきっぱりした拒絶に、クローバーが驚きの表情になる。
「船長。私は、貴方を裁く立場にありません。貴方を裁くべき者達は他にいる」
香は精一杯の優しさと強さを言葉に込める。
「姫様、それは…!」
「貴方には彼らの裁きを待つ義務があります。…それまで、生きなくてはいけない」
安っぽい同情や感傷から出た、軽い言葉ではない。
それが伝わるだろうか、香には自信がない。そんな風に他人に語りかけた事などないのだ。
だが今は、今だけは伝わってほしい。
この傷ついた戦士のために。
香の心に熱い傷を残した誇り高き男達と、痩せた小さな少年のために。
どうすれば。
どうすれば。
自分の見たものを、その熱く静かな対峙の事を、クローバーに語り聞かせるのはたやすい。
だが、それはできない気がした。
彼らの対峙はまさに彼らだけのものであり、例えクローバーといえどもそこに立ち入らせてはいけない、香はそう感じていた。
「ですが…ですが姫様…!」
「…手を」
「…は?」
「…どうしてもと言うなら貴方の命、私が預かります。船長…いえ、クローバー」
クローバーが一瞬、雷に打たれたように身体を引きつらせた。
「…手を」
「…は、ははっ!」
弾かれたように椅子から立ち上がり、香のベッドのそばにひざまずく。
傷だらけの掌を、香に向けて差し出した瞬間。
ぴっ!
窓の月光さえ跳ね返す香の手刀が閃いた。
「…!」
つう、とクローバーの掌に血がにじむ。
「…ヴィフ、船長にハンカチを」
「はいっ!」
痺れたように呆然としていたヴィフが、慌てて自分のハンカチをクローバーに握らせる。
ぎゅっ、とそのハンカチを握りしめる手に、どれほどの思いが込められたか。
クローバーがそのハンカチを、香に差し出す。
その血のにじんだ布を受け取りながら、香はその幻の『重さ』を確かに感じていた。
100分の1グラムの単位まで、素手で計測できる香の感覚さえ狂わせる。
誰かの想いを受け取るとは、誰かの魂を背負うとは。
(…この重さを感じること…)
ハンカチにキスをして、それを懐にしまう。
「…ヴィフ。貴方のハンカチを頂きます。それと、船長の手当を。ヒールはいけません」
「は、はいっ!」
ヴィフが飛ぶように部屋を出て行く。ここは元々医務室なのだが、昼間のハナコの大騒ぎの余波で治療用具は別室だ。
ヴィフの後ろで扉が閉まる。
「…姫様…」
「クローバー。これで貴方の命は私のものになった」
「…は!」
「…私が死んでいいと言うまで、死ぬ事は許しません」
「ははっ!」
クローバーが、その逞しい両腕をがっ、と床につけ、ぐい、と頭を下げた。
その頭が上がらない。
その代わり、ぐっ、と何かを押し殺す気配。
「…今だけ、泣く事を許しましょう」
があっ!
香の言葉が、全ての呪縛を引きちぎった。
があっ!
があっ!
男が泣いた。
それはもう、人間の泣き声ではなかった。
室内に満ちた青い月光の海をぶち割り、瞬時に沸騰させるような咆哮。
かぎ爪と化した指が頭を、胸を、体中を掻きむしり、その身体から何かを引きずり出そうとするかのようにのたうち回る。
香は、男がこんなにも激しく泣く所を、一度だけ見た事があった。
父だ。
実父の一条鉄がまだ『殿様』になる前。
母を失った時。
葬式を終え、父と、三人の娘だけになった士官用の宿舎で、父は泣いた。
(…そうだ。ちょうど今の彼のように…)
二人の男の姿が重なる。
失ったもの。
耐えてきた月日。
苦しんだ歳月。
何もかもを吐き出そうとして、だが何一つ吐き出せはしない。
泣いて、消せるものなど何もないのだ。
ただ、泣いて初めて、人は自分の心を見つめることができる。
痛いのはどこなのか。
苦しいのは何故なのか。
泣いて、心をあらわにして、やっと人はその場所を知る。そして見つめることができる。
癒す事も、立ち向かう事も、すべてはそこからなのだ。
がああああ!
香の目の前でのたうつその身体は正に、あらわになった『苦しみの形』。
『悲しみの場所』そのもの。
(…目を背けてはいけない…)
香は自分に言い聞かせるように、クローバーの姿を見つめ続ける。
(…癒す事はできずとも…目を背けてはいけない)
見る事さえ辛く、また自分の無力さを知ってさらに辛くなるとしても。
目を背けずに見る事。
その強さこそが、人を癒す資格を得るための第一歩だと、今の香は知らない。
だが後の世に、
『瑞波の聖母』
その名で讃えられることになる一人の女の、それは確かに第一歩であった。
夜の帳が降りたばかりの時刻。
シールドが開けっぱなしの窓の、分厚い装甲ガラスの向こうから、煌々とした月の光が差し込んでいる。
灯りを落とした部屋の中で、その光だけが唯一の光源である。
香はベッドに半身を起こし、背もたれに用意してもらった大きなクッションに軽く体重を預けている。
隣のベッドではハナコが、まだ毛布に包まって爆睡中。
ベッド脇のテーブルには、クローバーとヴィフが椅子を並べて座っていた。
『何もかも、お話ししましょう』
自らが『ウロボロス6』だと告白したクローバーが香にそう申し出て、ヴィフにも聞いてほしい、と、この席が設けられた。
3人だけの(ハナコはずっと眠っている)静かな食事が終わり、話はとうとう『ウロボロス』に及んでいる。
「…あの『ウロボロス』という組織の発祥は、聖戦直後にまで遡るそうです」
クローバーが気の遠くなるような話を始めた。
「聖戦を辛うじて生き抜いた人間達が、次に考えたのが『次回の聖戦の必勝』でした」
感心すると言うか呆れたと言うか。
あの凄まじい戦いの直後から、人々は『次の戦い』を見据えていたのだという。
「新しい魔法、新しい武器の開発はもちろん、聖戦時代の遺物の維持収集や、新たな『神』や『魔』との契約まで。その活動は様々だったといいます」
「…」
香とヴィフは黙って聞き役に徹している。
「それらの活動がいつか、一つの組織にまとめられました。それが『ウロボロス』」
ウロボロスは当初から複数のグループに別れており、しかも必ずしもお互いに友好的ではなかった。衝突や合併吸収を繰り返しながら、いまの「9つ」に収まったのは130年ほど前のことらしい。
「それぞれの組織には9人の『頭』がおります。私がかつて『6の頭』だったように。ですが『頭』はあくまで現場の指揮官であって、組織の支配者ではありません」
実際に組織を掌握しているのは、その『後ろ』にいる者達。
具体的には、王国の大貴族や大寺院、結成が聖戦時まで遡るような古参ギルドや大企業。そういう『聖戦と王国の歴史そのもの』であるような者達が、それぞれの組織のバックにいる。
「しかも、一つの組織に一つのバック、というような単純なものではありません。複数のウロボロスに影響を持つ大物もいるし、逆に一つのウロボロスを200近いバックが支えているようなケースもある。正直、その相関図を完全に描ける者はこの世にいないでしょう」
香の頭の中に、薄暗い壷の中で蠢く無数の蛇のイメージが映り込む。『次の聖戦に勝つ』という目的は確かに悪くないはずなのに、どうしてもいい気分にはなれない。
「私のいた『ウロボロス6』を例に取りましょう。『6』のバックには教会と、2人の大貴族がおりました。2人とも身内から司教を出している、教区の大物です。…で、その組織の目的は…聖戦時の遺物、つまり『戦前種(オリジナル)』の捜索と収集でした」
聖戦。
その戦いに投入された武器、魔法、そして人間。それらは現代のそれとは比べ物にならない『性能』を誇り、しかも模倣や再現が極めて難しい。
故に『オリジナル』。
翠嶺のように聖戦後、セージキャッスルの創立に参加し、その後も放浪を続けながら永世名誉教授の地位を保ち続けるような『例外』を除き、戦前種の多くは聖戦の後忘れられたり、故意に隠されたり、また自分の意志で姿を消した。
それらの事物を捜索し、収集・保存する。
『ウロボロス6』・クローバーに与えられた任務はそれであった。
教会の聖堂騎士として、武力も指揮能力も、そして信仰心も抜きん出ていた彼が『ウロボロス6』にスカウトされたのは、20代後半の時だったという。
再び起きるであろう聖戦に勝利するために、太古の強力な武器や人を集める。
『崇高な仕事だぞ?』
クローバーをスカウトした人間(それすら『代理人』であった)は、そう言ってクローバーの肩を叩いた。
だが、その『崇高』な目的以上にクローバーを引きつけたことがある。
『この仕事に邁進すれば、君の息子にもきっと、神の恩寵があるだろう』
その男はそう言って微笑んだ。
「…私には息子がいまして…。ですが難病で…私には祈るしかできなかった…」
妻は既に亡く、聖堂騎士としての勤めの傍ら、老いた母の手を借りつつ息子の看病と介護に明け暮れていた日々。
それに光が差したのだ。
クローバーが『代理人』の手を取った次の日に、彼の一家は中央教会の一画にある特別の宿舎に移され、息子には完全な看護と治療環境が供された。老いたクローバーの母も孫の介護と家事から解放され、その2年後にこの世を去るまで暖かく、心静かな日々を送ることができた。
「…その日々と引き換えなら正直、私はどんなことでもしたでしょう…」
彼に与えられた『崇高な仕事』は、だが決して奇麗事ではなかった。
忘れられた遺物の発掘はまだいい。
だが故意に隠されたもの、自分の意志で隠れたものを『収集』する作業は、ほぼ毎回『力ずく』の事態になった。
「辺境の部族や、小さな国が『ご神体』や『守り神』として隠し持っているケースが多かったのです。それらの『収集』は事実上、『略奪』でした…」
自ら軍を率いて交渉し、決裂すれば攻撃して奪い取る。
いや、最初から交渉など形式に過ぎない。最初から奪い取ったのでは体裁が悪いから、形の上だけ交渉したふりをするだけだ。
「…その頃は、強力な『戦前種』がこんな風に野放しにされていたのでは、世界にとって不安要素になる、一カ所で厳重に管理した方がいいのだ、そう信じておりました。…ごまかしはいたしません。本気でそう信じていた。そして…」
クローバーが言葉を切った。
「…そしてこの手が…私の手が血にまみれればまみれるほど…息子が神の恩寵に近づくと…本気で信じておりました…」
クローバーの目に降りた涙の幕が、月の光を複雑に反射する。
ヴィフがそっとハンカチを差し出すが、クローバーは手でそれを断ると、ぐい、拳で涙を拭う。
「…お前のハンカチなんざ、オレにゃもったいねえ…」
おどけた苦笑いも、さすがに力がない。
ヴィフは黙ってうつむくと、ハンカチをぎゅっと握りしめる。
「…そんな時です。このヤスイチ…『飛行戦艦アグネア』が見つかったのは」
クローバーがぎゅっ、と唇を引き締める。
その『船』はジュピロス廃墟の近く、地中にほぼ埋まる形で発見された。
だが『発見』という言葉には語弊があるだろう。
その船体は既に遠い昔から、ある少数民族が神体として祭っていたからだ。ただ外の世界には知られていなかっただけにすぎない。
この少数民族こそ香の母、桜の出身部族である『御恵(みめぐみ)』。
「彼らは廃墟の近くでひっそりと暮らしていましたが、長年、世間からは全く無視されていました」
その一族の秘密がひょんなことから『ウロボロス6』の元に届いた。
それは、辺境の異教徒である彼らを改宗させようと集落を訪れた、教会の牧師からの情報。
『異教の神を崇める一族が、『戦前種』の構造物を隠し持っている』
そこまで聞けば、後はクローバーの仕事だ。
いつものように直属の軍を率いて現場に向い、抵抗すればこれを攻撃する。
だが、その時ばかりは『いつものようには』いかなかった。
『霊威伝承種(セイクレッド・レジェンド)』。
後にそう呼ばれた一族の、ソウルリンカーさえ遥かに越える凄まじい霊能力の前に、『ウロボロス6』はかつてない苦戦を強いられる。
身体能力や魔力、スキルを強化し、1人が数人分もの働きをする『御恵』に、さしものクローバーも何度も命の危機にさらされたという。
最後は教会の異端狩り機関『弔銃部隊』までが投入され、やっとのことでこの厄介な敵を破ることに成功した。
が、その時、既に『ウロボロス6』の兵力は半分近くにまで減っていた。
といっても、教会が真に恐怖したのは御恵の戦力ではない。
『霊威伝承種』・御恵の一族は戦いの中で、別の動きも見せていた。
『ある強力な魔物の召還』。
普通なら眉唾で終わりそうな話だが、『霊威伝承種』が相手となると俄然真実味を帯びる。
『生まれつき体内に魔法陣を持ち、それを発動させる事で無双の魔物を召還できる』。
それが御恵の一族の持つ力と分かった時、教会が取った策は一つ。
『悪魔の一族・御恵を根絶やしにせよ』
それだった。
実行役はもちろん、クローバーだ。
逆恨みとはいえ、部下を失った恨みはあった。また、それ以上に『魔の召還』を行おうとする異端のテロを許さない、という自己肯定もある。
「…正義は我に、相変わらず本気でそう思っておりました。そして、それはほぼ成功した…」
『ウロボロス6』と教会の全組織を動員した殲滅作戦。さらには御恵の生き残りに対する激しい拷問。
それにより、御恵の一族は根絶やしにされた。
「…ただ一人、貴女のお母上様を除いて、です。香姫様…」
「…」
香は沈黙したまま。
「今にして思えば…『ウロボロス4』…『四の魔女』がお母上様を保護していたのですね。マグダレーナ・フォン・ラウム…あの『完全再現種(パーフェクト・リプロダクション)』が…」
クローバーが遠い目をする。
「…実は…疑ってはおりました」
ぽつり、と言葉が落ちる。
「拷問でも誰も口を割りませんでしたが…族長の孫娘の数がどうも一人足りないようだ…と。そして同時に、ウロボロス4に前代未聞の力を持つソウルリンカー がいる、という噂があった。しかし結局確証のないまま、捜索は打ち切られました。どうやら、雲の上の方で話しがついたらしかった…『ウロボロス8』が乗り 出してきたという話もありましたし」
それぞれのバックにいる者達が接触し、何らかの取り引きが行われ、現場に流れた血の量とは無関係に幕が引かれる。
クローバーにとっては不本意だったが、次の仕事が待っている以上、そうも言っていられなかった。
次の仕事。
『空中戦艦アグネア』の発掘だ。
集落の奥まった林の中、船尾の一部だけを地上に覗かせたアグネアの入り口を掘り出し、恐る恐る船内に入った日の事を、クローバーはよく憶えている。
「…手を触れるだけでドアが開きましてね。光に案内されて艦橋へ入ったんですが…一目見ただけで分かりました。『コレはヤバい』ってね…」
大きな手で顔をごしごしとこする。
「明らかに、この世界のモノじゃありません。どこか別の、全く違う文明によって作られ、何かの原因でこの世界へ招かれたもの、と直感しました」
部下達に船内への立ち入りを禁止したクローバーは一人、艦橋にあった『説明書』を読んだ。幸い、聖堂騎士としての教養でそれぐらいの古文書は読める。
「…鳥肌が立ちました…想像を絶する戦闘能力が手に入った。御恵のことなんかどっかにすっ飛んでました。…『これで仕事が楽になる。もっと殺せる』ってね」
泣きそうな声。
「…馬鹿でしょう…? もうね、その時にはそれしかなかった。これで楽に、たくさん殺せる。部下を失わなくても…いや部下なんかいなくても、こいつがあれば好きなだけ勝って、楽に仕事ができる…そんな風にしか考えられなくなってた…」
興奮して興奮して、やっと寝付いた次の朝。
知らせが届いた。
「息子が死んだ」、と。
「…真っ暗になりました。今までの事も何もかも、底なしのでっかい穴に吸い込まれたみたいに…」
クローバーが、思い出すのも辛い記憶を無理矢理、心の中から掴み出す。
「…そして…やっと気づいたんです。『他人を不幸にして幸せになれるわけがない』。馬鹿だ。…馬鹿です…。そんな当たり前の事に気づかずに…いや…」
噛み締めた唇から血がにじむ。
「いや…違います…。本当は気づいていたのに…気づかない振りをしてただけなんです。馬鹿ですらない…卑怯者だ…」
クローバーの声が,慟哭の色を帯びる。
「…船長」
ヴィフがいたたまれなくなったようにクローバーに声をかける。が、若く経験も浅い彼に、このボロボロに傷ついた古戦士に掛けられる言葉などない。
「…船長…」
子供のようにそう繰り返すだけ。
だがそれでも、クローバーをわずかに救うことはできたようだ。
「…すまんヴィフ。みっともない話聞かせた上に、みっともないトコ見せちまって」
「いえ…」
むしろヴィフの方が、泣きそうな顔でうつむく。
息子の死の知らせを受けたその夜に、クローバーは一人で『アグネア』を動かし、脱走した。
「この船をこのままウロボロスに渡したら、それこそどれだけ人が死ぬかわからない…自分が散々殺しておいて、もう今さらですが…」
きっ、と暗い天井を睨みつける。
「…一人殺すも二人殺すも同じ、って思ってましたが…違うんです。一人殺せば一人分、二人殺せば二人分、『業』を背負うんです。…もう…もう沢山だったんです。こんなことは…」
もう沢山だ、その言葉にクローバーは、限りない情感を込めた。
「…」
香は相変わらず、静かにその言葉を聞いている。
が、もし香を良く知る、例えば家族や無代がその様子を見たら、きっと驚くに違いない。
彼女が他人の話を真正面から、かつ真剣に聞くのはひょっとしたら、生まれて始めてかもしれなかった。
だが、その変わりつつある香を理解できる者は、そこにはいない。
「…ヤスイチ…『アグネア』を、どこか二度と見つからない海にでも沈めよう、とも思ったんですが、そうしなかった。…気になる事があったんです」
クローバーの話は終わっていない。
艦橋にあった説明書。
それには船の操縦法の他に、3つのことが書かれていた。
一つ。
この船が、この世界とは別の世界で建造されたこと。建造の目的が、その世界を滅ぼしたある『魔物』に対抗するためであり、その魔物を『追いかけて』この世界に来た事。
二つ。
この船を建造した者達の子孫こそが『御恵』であり、その『魔物』は彼らの血によって封印されていること。
三つ。
この船、アグネアには同等の力を持つ姉妹艦、『セロ』が存在する事。
どれも看過できない情報だ。
その『魔物』とやらが今どうなっているのか。御恵の一族が滅びた今、もしその魔物が生きていたらどうなるのか。
「そしてもし『セロ』がどこかに残っていて、それが誰かに発見されたら…『セロ』に対抗できるのは『アグネア』だけです。だから、この船を失うことはできない、と思った」
クローバーの瞳に、強い輝きが戻って来る。その輝きは決して明るいものではなかったが、しかし揺るぎない力を感じさせる。
「…今、こうして空を飛んでるヤスイチは、実は本当の姿にはほど遠い…真の力はこんなもんじゃない」
クローバーの言葉に力がこもる。
「ヴィフ、こっからの話が肝心だ。良く聞いてくれ」
声をかけられた若者が瞳を上げるが、その瞳の輝きは鈍い。
迷いと不安。
今まで信じて従ってきたものが、本当に正しいものだったのか。
それを見失いつつある瞳。
クローバーはそんなヴィフに一抹の不安を憶えつつも、意を決したように言葉をつなぐ。
「ヤスイチの性能は、実は今の数十倍、数百倍…ひょっとしたらそれ以上なんだ。こんなプロペラ動力は予備もいいところだ。本来の力は封印されている。…オレはそれを解く気はないし、そんな力があることもオレの心の中にだけしまってきた」
「…え…?」
「説明書は燃やしちまった。レジスタンスの幹部連中でさえ、知らん。ヴィフ、今お前に話すのが初めてだ」
「…」
「『エネルギーウイング』。ヤスイチの本当の翼であり、武器の名前だ。それは12枚の光の翼で構成されていて…」
「ま、待って下さい船長! どうして…どうして僕に…?」
「黙って聞け!」
ヴィフが暗闇にも真っ青な顔でクローバーに食って掛かる。が、クローバーはヴィフを一喝。
「…12枚の光翼…『ルシファー』が揃えば、ヤスイチは無敵だ。そこらの魔王が束になってもかすり傷も負わず、逆に一瞬で形も残さず蒸発させられる。音より速く飛ぶヤスイチには誰も追いつけないし、3大ステルス機能を備えてるから発見も不可能。…ルーンミッドガッツ王国といえども、半日とかからず焼け野原にで きる」
「…」
「…王国をこの世から消滅させる。レジスタンスの…お前の願いもまた、簡単に叶うだろう。…だがそれは…それだけはしないでほしい」
クローバーがヴィフに頭を下げた。
ヴィフは凍り付いたままだ。
「…この船を…ヤスイチそんなことに使わないでほしい。お前にしか頼めない。ヴィフ…頼む」
「…どうして…」
「…俺は償いをしなきゃならん。…こちらの姫様に…御一族を皆殺しにした罪のな…。俺の命なんかじゃ、到底償い切れるものじゃないが…」
ヴィフがはっ、と香を見る。
月明かりの差し込む闇の中に、香の闇色の瞳が静かに浮いていた。
「…『鬼道』の目をお持ちの姫様にはさぞや…あっしを恨んでる連中の姿がお見えになるはず…」
クローバーも香の瞳を見つめる。
その瞳の色はあまりにも深く、ヴィフにもクローバーにも、その瞳から何の感情も、何の意味も読み取れない。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
それとも無関心なのか。
男達には到底汲み取れない香の心中はしかし、クローバーの話とは少し違うものでかき乱されていた。
そう、香には『見える』。
母から、そして今や香の知る所となった『御恵』の一族から受け継いだ、『霊威伝承種』の力。
見えないものを見、触れえぬものに触れることができる、その力。
クローバーの後ろに、香にはずっと見えている。
それは、ずらりと並んだ死者の群れだ。
一様にたくましく、鋭い目をした男達は、一目で恐るべき手練の者達とわかる。
そしてその容貌。
(…似ている…)
特に、集団の中心にいる老人と、壮年の男。
鋭い中にも、表情次第で優しさと愛嬌をたたえる容貌は、『一条の三姉妹の中で最も母に似ている』と言われた妹の静に、とてもよく似ていた。
(…これが、私の…)
失われたルーツ。
『霊威伝承種(セイクレッド・レジェンド)』と怖れられた、史上最強の霊能力集団。
そしてクローバーによって滅ぼされた幻の一族。
『御恵』
クローバーの言う通り、彼が殺した者達はそこにいる。
そして彼らの霊力が死してもなお衰えていないことも、香にはひしひしと感じられた。
まさに最悪の怨霊、それも集団だ。コレに狙われて命長らえるものは、恐らくこの世にいないだろう。
だが不思議なことが起きていた。
クローバーは生きている。
少なくとも20年以上の時を、御恵の手にかかることなく生きている。怨霊達の手は、彼に及んでいないのだ。
なぜなのか。
香には『見える』。
もう一つの、魂の姿が見えている。
クローバーの背中。
その背中を守るように寄り添った、一つの小さな背中。
浮き出た背骨と肩甲骨。尖った肩。
小さな背丈。細い骨と弱々しい肉。
香の目にも痛々しく映る、少年にしても小さく細い身体。
彼はその頼りない身体のまま、たった一人、クローバーの背中に立っている。
最強の怨霊集団に相対するように、その細い身体を立たせている。
『クローバーを守っている』と言いたいところだが、その表現はしかし、どう見てもふさわしくない。
少年の存在が、あまりにも儚すぎるからだ。
この世で最強の霊能力集団である御恵の一族に対して、少年の魂には明らかに何の力もない。
大げさではなく、怨霊の誰か一人が指一本動かすだけで、このか弱い少年の魂など瞬時に霧散してしまうだろう。
それは襲い来る津波の前に置かれた、たった一個の小さなテトラポッドにも似ている。
だが。
襲い来るはずの津波はしかし、動かない。
彼らが動く気になれば、そんな防波ポッドなど何の障害にもならないのに、しかし動かない。
間違いなく、この何の力もない痩せた少年が、クローバーを守っているのだ。
怨霊達が動かない理由、香にはそれが理解できた。
彼らがその強力な力を駆使し、目の前の小さな魂を消し飛ばしてクローバーを襲ったなら。
自らの目的を遂げるために、目の前の障害を力で排除して押し通ったならば。
それはかつてクローバーが、彼らにしたことと同じになる。
『誇り』。
彼らを動かさずにいるのは、それなのだ。
怒りはある。恨みもある。それが消える事もありえない。
しかしそれ以上に、彼らの誇りが自らの『蛮行』を許さないのだ。
宿敵がやったことと同じ行為など、例え死して魂だけになろうとも、決してしない。
そして少年もまた、謝罪するでもなく戦うでもなく、ただ静かにそこに立ち、怨霊達を見つめている。
『決して相容れる事はない』と知っていて、また自分の無力さを知っていて。
それでもたった1人で立ち続ける少年の顔立ちは、言うまでもなくクローバーにとてもよく似ている。
条件も、理屈もない。
この世でただ1人、この少年だけがクローバーの『味方』なのだ。
怨霊と少年、相対する両者に、妥協できる点など一切ない。
惨殺、拷問、略奪。怨霊達の受けた筆舌に尽くし難い行為は、どんな言葉や年月の経過を持ってしても消えることがなく、また色あせることもない。いかなる謝罪も、いかなる弁明も、役には立たない。
だが同時に、少年のクローバーへの想いもまた、消える事も色あせる事もないのだ。
その手を血で染めながら自分を守ってくれた『父』への想いにはやはり、いかなる非難も、いかなる糾弾も役に立たない。
お互いの言い分、お互いの想い。
それをを、すり切れるほどぶつけ合って。
知って。
理解して。
それでも一切の妥協のない両者には、ついにこの『静止』にたどりつく。
少年がそこを退くまで、怨霊達は決して動くまい。
怨霊達がそこを退くまで、少年は決して眠るまい。
(…なんという…)
この奇妙で静かな対峙を前に、香の全身を何か強い感情が貫いた。
(全器官…全器官、変調を修正…)
いつものように思考を分割して対応しようとするが、無駄に終わる。
死してなお熱く、静かに息づくその魂、その想いを、今の香はもう無視できない。
誇り高く、意志強き男達と少年の姿が、香の心に深く突き刺さっていた。
熱を持った、消えない傷と共に。
クローバーが、香に裁かれることを望んでいることは、痛いほど分かる。
だが、出来るはずがなかった。
今初めて、この事実を知っただけの自分が、この対峙の前に出る幕などあるはずがなかった。
自分は確かに当事者。だが、この光景の前では限りなく、部外者に近いのだ。
香は一つ、深いため息をつくと、
「…クローバー船長」
長い沈黙を破ったその声は、自分でも驚くほどに優しい声だった。
自分がそんな声を出したのは、恋人の無代相手にさえなかったのではないか。
「はい、姫様」
クローバーは一度、しっかりと目を閉じ、再び開く。
その表情。ぞっとするほど色のない、静かな表情。
それは戦士として、父として、既に死んでいる人間の顔だ。
「いかなるお裁きも、喜んでお受けいたします。どうぞお心のままに…」
「それはできません」
香のきっぱりした拒絶に、クローバーが驚きの表情になる。
「船長。私は、貴方を裁く立場にありません。貴方を裁くべき者達は他にいる」
香は精一杯の優しさと強さを言葉に込める。
「姫様、それは…!」
「貴方には彼らの裁きを待つ義務があります。…それまで、生きなくてはいけない」
安っぽい同情や感傷から出た、軽い言葉ではない。
それが伝わるだろうか、香には自信がない。そんな風に他人に語りかけた事などないのだ。
だが今は、今だけは伝わってほしい。
この傷ついた戦士のために。
香の心に熱い傷を残した誇り高き男達と、痩せた小さな少年のために。
どうすれば。
どうすれば。
自分の見たものを、その熱く静かな対峙の事を、クローバーに語り聞かせるのはたやすい。
だが、それはできない気がした。
彼らの対峙はまさに彼らだけのものであり、例えクローバーといえどもそこに立ち入らせてはいけない、香はそう感じていた。
「ですが…ですが姫様…!」
「…手を」
「…は?」
「…どうしてもと言うなら貴方の命、私が預かります。船長…いえ、クローバー」
クローバーが一瞬、雷に打たれたように身体を引きつらせた。
「…手を」
「…は、ははっ!」
弾かれたように椅子から立ち上がり、香のベッドのそばにひざまずく。
傷だらけの掌を、香に向けて差し出した瞬間。
ぴっ!
窓の月光さえ跳ね返す香の手刀が閃いた。
「…!」
つう、とクローバーの掌に血がにじむ。
「…ヴィフ、船長にハンカチを」
「はいっ!」
痺れたように呆然としていたヴィフが、慌てて自分のハンカチをクローバーに握らせる。
ぎゅっ、とそのハンカチを握りしめる手に、どれほどの思いが込められたか。
クローバーがそのハンカチを、香に差し出す。
その血のにじんだ布を受け取りながら、香はその幻の『重さ』を確かに感じていた。
100分の1グラムの単位まで、素手で計測できる香の感覚さえ狂わせる。
誰かの想いを受け取るとは、誰かの魂を背負うとは。
(…この重さを感じること…)
ハンカチにキスをして、それを懐にしまう。
「…ヴィフ。貴方のハンカチを頂きます。それと、船長の手当を。ヒールはいけません」
「は、はいっ!」
ヴィフが飛ぶように部屋を出て行く。ここは元々医務室なのだが、昼間のハナコの大騒ぎの余波で治療用具は別室だ。
ヴィフの後ろで扉が閉まる。
「…姫様…」
「クローバー。これで貴方の命は私のものになった」
「…は!」
「…私が死んでいいと言うまで、死ぬ事は許しません」
「ははっ!」
クローバーが、その逞しい両腕をがっ、と床につけ、ぐい、と頭を下げた。
その頭が上がらない。
その代わり、ぐっ、と何かを押し殺す気配。
「…今だけ、泣く事を許しましょう」
があっ!
香の言葉が、全ての呪縛を引きちぎった。
があっ!
があっ!
男が泣いた。
それはもう、人間の泣き声ではなかった。
室内に満ちた青い月光の海をぶち割り、瞬時に沸騰させるような咆哮。
かぎ爪と化した指が頭を、胸を、体中を掻きむしり、その身体から何かを引きずり出そうとするかのようにのたうち回る。
香は、男がこんなにも激しく泣く所を、一度だけ見た事があった。
父だ。
実父の一条鉄がまだ『殿様』になる前。
母を失った時。
葬式を終え、父と、三人の娘だけになった士官用の宿舎で、父は泣いた。
(…そうだ。ちょうど今の彼のように…)
二人の男の姿が重なる。
失ったもの。
耐えてきた月日。
苦しんだ歳月。
何もかもを吐き出そうとして、だが何一つ吐き出せはしない。
泣いて、消せるものなど何もないのだ。
ただ、泣いて初めて、人は自分の心を見つめることができる。
痛いのはどこなのか。
苦しいのは何故なのか。
泣いて、心をあらわにして、やっと人はその場所を知る。そして見つめることができる。
癒す事も、立ち向かう事も、すべてはそこからなのだ。
がああああ!
香の目の前でのたうつその身体は正に、あらわになった『苦しみの形』。
『悲しみの場所』そのもの。
(…目を背けてはいけない…)
香は自分に言い聞かせるように、クローバーの姿を見つめ続ける。
(…癒す事はできずとも…目を背けてはいけない)
見る事さえ辛く、また自分の無力さを知ってさらに辛くなるとしても。
目を背けずに見る事。
その強さこそが、人を癒す資格を得るための第一歩だと、今の香は知らない。
だが後の世に、
『瑞波の聖母』
その名で讃えられることになる一人の女の、それは確かに第一歩であった。